
よく知らないけど知ってる他人
私には、名前も素性もよく知らないけれど、
「よく知っている」他人がいる。
昔、まだ私が煙草を吸っていた頃の話だ。
毎朝の通勤路に、決まって立ち寄るコンビニがあった。そこの駐車場の端っこには、いつも少し珍しい車が停まっていた。
毎日のように見かけるものだから、私は勝手にそれを「店長の車」と名付けていた。
根拠はない。
でもそういう確信というのは、わりと正しいことが多い。
実際、その車がある日に店内へ入ると、レジにはいつも同じ人物が立っていた。
「やっぱり、あの人が店長なんだな」
言葉を交わすわけでもない。
ただ、煙草を買い、お会計を済ませるだけの数十秒。それでも毎日のルーティンの中で、その車とその人物は、私の朝の風景にすっかり溶け込んでいた。
しかし、日常の風景というのは、ある日突然あっけなく変わる。
そのコンビニが、閉店してしまったのだ。
「ああ、あの店長の車も、もう見ることはないんだな」と。
少しだけ、心に小さな穴が空いたような寂しさがあった。
ところが、奇妙な再会はすぐに訪れる。
ある日の通勤途中、アパートが密集するエリアの路地から、
あの「店長の車」と同じ車種がぬっと顔を出したのだ。「お、珍しいな」と思って、通り過ぎざまに運転席を盗み見て、驚いた。
あの、店長だった。
まさに、あの時の車と、あの時の店長。
コンビニという舞台を奪われてもなお、彼は私の日常の視界にぬっと現れた。
「うわ、コンビニ以外で見ちゃったよ!」というおかしさと、この近所の住人だったのだろうかという親近感が、胸の中で可笑しく弾けた。
さらに物語には、出来すぎた続きがある。
私の家の目と鼻の先に、新しいコンビニがオープンした。
開店記念のお祭りムードに誘われてふらりと立ち寄った私を、既視感が襲う。
駐車場に、あの店長の車と同じ車種が停まっているのだ。
「まさか、ね」
半信半疑で自動ドアをくぐり、店内を見渡す。
そしてレジに目を走らせた瞬間、思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、あの時の店長だった。
もう、これは運命としか言いようがない。
一体何の運命かは分からないけれど、神様が仕組んだちょっとした悪戯に違いない。
私は意を決した。
他にお客さんがいないタイミングを見計らい、
少し緊張しながらレジの人に声をかけてみた。
「あの、門違いだったら申し訳ないんですけど……昔、〇〇店にいらっしゃいましたよね?
いつも〇〇の車が停まっていたので、もしやと思って……」
そこまで一気に言うと、彼は一瞬目を見開き、
それから実になじみ深い、柔らかな笑みを浮かべてこう言った。
「あっ、やっぱりそうですよね?
レガシィに乗ってた方ですよね?」
意表を突かれて、今度は私が固まった。
当時の私は、スバルのレガシィB4を愛車にしていた。職場の鍵を開ける係だったため、
毎朝5時半という、まだ世界が半分眠っているような時間にそのコンビニに滑り込んでいたのだ。
早朝の静寂を切り裂く、なかなかの爆音を響かせるレガシィ。
そして、そこから降りてくる一人の作業着の女。
店長はレジの窓から、毎朝それを見ていたらしい。「女にしては珍しい車に乗っているな」と。
私たちは、お互いにお互いを、静かに認知し合っていたのだ。
駐車場隅の珍しい車を眺めていた私と、早朝に爆音を響かせるレガシィを眺めていた店長。
言葉を交わしたことは一度もなかったけれど、
私たちは確かに、同じ朝の時間を共有する「見知らぬ相棒」だった。
その後、彼と劇的なドラマが始まったわけでも、特別な友人になったわけでもない。
今でもお店に行けば、ごく普通の客と店員として、少しの会釈を交わすだけだ。
けれど、世界に張り巡らされた無数の人間関係の網の目に、こんな奇妙な結び目があってもいい。
どんな人かも、プライベートも知らない。
それでも、私の日常の1ページに、
その人は確かに「よく知っている他人」として、今も刻まれている。