
にわか雨に滲む
「明日は佳織の好きなところへ行こう」という夫の言葉に、年甲斐もなく心が弾んだ。
数週間振りに休みが被る日だった。
どこか遠くへ行く気はなかったが、近所にある二人の好きなイタリアンレストランへ行こうと考えて眠りにつく。
目を覚ませば、昨日まで降り続いていた雨が嘘のような青空。
ゴミ捨ての際に外へ出れば、太陽が水溜まりを反射し、その眩しさに目を細めた。
昨日の夜に考えていたことを伝えると、思っていたよりも幾分か悪いリアクションが返ってくる。
こういうことが最近は多くなったな、とどこか遠くの方で思った。
歩いて十分ほどのところにあるイタリアンレストランは、祝日ということもあってか混雑している。
扉を開けて名前を書こうとすると、近くを通った店員が「少々お待ちください」と忙しそうに通り過ぎた。
名前を書くのをやめ、言われた通り素直に待つ。
後から入ってきたカップルが、私たちの横を通りすぎてボードに名前を書いた。
まるで見計らったかのように別の店員がやってきて、そのカップルを案内していく。
やはり名前を書いた方がよかった、とペンを取ろうとすると
「俺、帰るわ。」
と、静かな声が隣から聞こえた。
言葉こそ少ないものの、そこに滲んだ苛立ちは隠せていない。
振り返りもせずに出ていく彼を呆然と見ていた。
少しして我に返り、後を追う。
扉を開け外へ出ると、灰色の雲が空を隠していた。
一雨来そうだな、なんて思った途端に雨粒が肌に落ちてくる。
もちろん傘なんて持っていない。
徐々に強くなってくる雨に打たれながら、遠くなっていく彼の姿を追う。
「あの、これ良かったら使ってください」
突然聞こえた声に振り返るが、誰もいない。
そういえば、夫と出会った日も雨だった。
駅で立ち尽くす私に傘を差し出してきたのが、彼だった。
「さっき間違って買っちゃって」
あの日、やさしい嘘をついた彼の言葉がどこかで聞こえた気がする。
雨は、しばらく止みそうにない。
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