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Photo bygemini6rabbit

今だけが本当の人生

    ここ3週間ほど、がん術後の後遺症や更年期症状もあるのだろうか、ぐっすり眠れた感じがなかった。

    五月雨が続いたある午後、特に予定もなかったので、昼寝でもしようかと思い、アイマスクをしてベッドに横たわった。

    眠りにつくまでのひととき、オーディブルの朗読を子守唄がわりにすることがあった。

    昨晩は、その途中で無意識にボタンを停止して、寝落ちしたようだ。

    どこかの章で一時停止していた本の再生ボタンを押す。

    若々しいが、芯のある男性の声が枕元に響く。

    ほどなくして、微睡はじめたとき、次のフレーズがわたしの意識を捉えた。

    「……健康を取り戻すまでの人生も仮のものなのではなく、治療を受けている今この人生しかないのだ。病気の時に本来的ではない不完全な人生を送っているわけではないのである。また病気が治ってはじめて本当の人生が再びはじまるのでもない。病者にとって、あるのは病気である今だけであり、その今だけが現実である。病気が最終的にどうなろうと、今だけが人が生きられる時間であり、本当の人生なのだ……」  

    『人生は苦である、でも死んではいけない』(岸見一郎著)


    はっと、我に帰る気がした。

    まるで自分に対して発せられた言葉のように感じたからだ。

    この2年近く、わたしは「病気が治ってはじめて本当の人生が再びはじまる」ことをどこか期待しながら、自宅で療養生活を続けていた。


    このフレーズは、そんなわたしに対して、

    「あなたは今、自分の人生を十全に生きているか?」

    と真正面から問いかけてくるようだった。


    特にここ最近、どこか自分でも気になっていたのだった。


    もっと良くなってから○○しよう。
    これをしたらもっと体調がよくなるかもしれない。
    健康になったらもっと幸せになれるに違いない。


    もちろん、それは病を持つ身としては当たり前の思いであり、
    未来への期待と希望だ。
    それが、 今を生き抜くための励みになる場合もある。


    けれどわたし自身の場合、その思考、その在り方そのものが、病気になる以前から自分が抱えていた「先延ばし癖」とどこか似ているような気がしていた。


    そもそも、病気になる前から、わたしは今を本当に生きていたのだろうか。


    いつも、どこか、いつか自分がこういう状態になったら、こうなるかもしれない——

    そのような期待を抱きながら、生きてきたのではないか。

    そのために学ぶ努力はしていた。でも、その"いつか"はいつも未来にあり、今ここにはなかった。


    療養生活の中で、未来のために治そうとすることにこだわるほど、
    何かがずれていく。


    気づけば人生はもう終盤にさしかかり、未来がどれだけあるかわからない。がんも、今は大丈夫そうだが、いつ再発するかわからない。


    本当に「未来」ってあるんだろうか——このところ、そんな考えがしばしばよぎるようになっていた。


    腹部のがん術後の排尿障害や、再発への不安、がんと同時期に関節リウマチも患ったことで、薬の副作用で免疫が徐々に低下。
    短時間で電池切れを起こすような体感覚がある。

    とはいえ、全般的に身体機能は回復はしてきていることもあり、これまでは、ある程度、元の暮らしに戻ることを期待して生きてきた。

    でも、もしかしたらそこまで戻ることはできないかもしれない。また老いもある。

    そうした不安が、じわじわとわたしの内側を曇らせていた。


    ”病気が治ってはじめて本当の人生が再びはじまるのでもない。

    病者にとって、あるのは病気である今だけであり、その今だけが現実である”



    そう、今だけが、本当の人生なのだ。



    今ここからはじめるしかないのかもしれない。


    わたしはアイマスクを外し、ベッドから出て、 この文章を書き始めることにした。


    未来のためではなく、今、このいのちと共に生きる。


    病であってもなくても、今やりたいと思うことがあれば、それをしてみる。

    違うと思ったらそこでやめて、休みたい時は休む。

    やってみて、エネルギーが流れる感じがしたら、その流れに乗ってみる。


    わたしの場合、今こうしてことばを綴ることで、エネルギーが胸の中から外に向かって流れていくのを感じる。 それでいい。


    病の中にわたしがいるのではなく、 わたしの中の一部に病という体験が宿っているだけなのかもしれない。


    いのちの流れ、その大いなる流れと共にあること。 それが今の喜びであり、しあわせでもある。



    どのような条件下にあっても、
    今いるその場所で、
    淡々と咲く野の花のように、しなやかないのちでありたい。


    五月雨に打たれても、足元にただ在る小さないのちが
    心に咲いた日——


    【野の花のつぶやき】

    日々の暮らしのなかで、ふと立ち止まったときに感じたこと。

    心に残った小さな出来事や、
    まだ言葉になりきらない実感。

    そこに耳を澄ましながら、
    折々に綴っていきます。

    野の花が、ただそこに咲いているように。



     
     
    人生は、わたしたちにいつも何かを届けてくれているのかもしれない。身体や自然、日々の出来事に耳を澄まし、そこから受け取ったものを「人生からの贈り物」として、アートと言葉で表現しています。地球と共同創造するSUMI TAO ART創始者。ジャーナリング実践者・元心理臨床家。

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