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レシートで怒る前に、給与明細を見よ

    ――税理士が書いた消費税と社会保険料の戯文入門


     寛大であるとの評判を保とうとする君主は、ついには人民に重税を課し、あらゆる手段で金を集めざるを得なくなる。
                                    マキャベリ 『君主論』第16章「寛大さと吝嗇」

    この文章は、消費税を「レジで取られる税」とだけ見てゐる人のための、少し意地悪な税制入門である。
    消費税は本当に消費者の税なのか。輸出還付は補助金なのか。社会保険料はなぜ若者の手取りを削るのか。
    税制をめぐる騒々しい議論を、税理士の目から、できるだけ平明に、できるだけ可笑しく解きほぐす。
     
     本書では、戦前の文章文化への敬意から、歴史的仮名遣ひを用ゐた。内容は現代の制度を扱ふが、表記はあへて古風に統一してゐる。


     
    内容
    プロローグ 消費税を減税すると誰が得をするのか... 
    第1章 消費税はほんたうに「消費税」なのか... 
    第2章 なぜ仕入税額控除が必要なのか.. 
    第3章 インボイス制度とは何か... 
    第4章 消費税のほんたうの課税対象... 
    【図表2】取引の三区分:課税・非課税・不課税.. 
    消費税の取引区分... 
    注記... 
    一言... 
    第5章 税は誰が払ふのか.. 
    第6章 輸出企業に消費税が還付されるのはなぜか... 
    第7章 なぜ消費税の議論は混乱するのか... 
    第8章 課税、非課税、不課税、免税... 
    第9章 なぜ世界ぢゆうで付加価値税が導入されたのか... 
    第10章 もし消費税を廃止したらどうなるのか... 
    第11章 日本の税制はどのやうに作られたのか... 
    第12章 消費税導入史――名前を変へて戻つて来た税.. 
    第13章 労働に税をかけない社会... 
    第14章 労働者に重い税は社会を弱くする... 
    第15章 社会保険料といふ、静かな重税.. 
    第16章 ベーシックインカムといふ発想.. 
    第17章外為特会という伏魔殿
    最終章 税とは何のためにあるのか.. 90

     #創作大賞20286#ビジネス部門
     
     
     
     #創作大賞2026 #ビジネス部門
     
     
     


     第一部 レシートに棲む税

    消費税とは何者か

    序 レシートの怒り、給与明細の溜息


     消費税をめぐる議論は、いつもレジ前で始まる。
    しかし本当に見るべき場所は、レシートだけではない。給与明細であり、企業の帳簿であり、国債の残高であり、外為特会といふ国家の金庫である。
    本稿は、税理士の目から、消費税と社会保険料と国家財政を、少し可笑しく、少し意地悪く読み解く試みである。
     
     
     

    プロローグ 消費税を減税すると誰が得をするのか

    世間といふものは、まことに忙しい。猫も杓子も、いまや、主婦からも見放されつつある昼のワイドショーは言ふまでもなく、YouTubeもSNSも、新聞といふものがまだ生きてゐるとすれば新聞さへも、それこそ先生と呼ばれる政治家諸君までも、消費税の減税だの廃止だのと声を張りあげて、なかなか賑やかなものである。賑やかといへば聞こえはよろしいが、要するに騒々しいのである。
    ところが不思議なことに、消費税をなくしたら誰が得をし、誰が損をするのか、これを筋道立てて心得てゐる人は、驚くほど少ない。新聞は例によつて大仰な見出しをつけ、野党の物知り顔の先生がたは、したり顔で政府を責める。しかし、租税体系全体のなかで消費税がどのやうな役目を果してゐるのか、またそれをやめた場合に負担の公平がどう崩れるのか、そのあたりを語る人には、めつたにお目にかからぬ。
    消費税は、名前ほど単純な税ではない。買物をする人が払つてゐるやうに見える。しかし国へ申告し、納めるのは事業者である。しかもその計算の中心には、売上全体ではなく、企業が新たに生み出した価値、すなはち付加価値がある。
    ここで、ひとつ大事な区別をしておきたい。法律上だれが納税義務者かといふ話と、経済的にだれが負担してゐるかといふ話とは、別なのである。これをわざと混同して、「だから消費者の税ではない」と大見得を切る人がゐるが、さういふ議論は、ワイドショーや寄席なら受けても、税制論としてはあまり感心しない。
    また、所得税の世界には昔から、トウ・ゴウ・サン・ピンだのクロ・ヨンだのといふ、あまり上品ではない言ひ方がある。商売人の所得は捕捉しにくく、勤め人の給料は逃げ場がない、といふ意味である。税務署の窓口でため息をついたサラリーマン諸君なら、思ひ当る節もあらう。消費税には、かうした捕捉の不均衡を、いくらか、ならす働きがある。
    さらに、輸出企業への還付金を「補助金だ」といきり立つ人もゐる。しかし、輸出品には、国内消費税をかけぬのが筋であり、そのため仕入段階で負担した税を戻す。これは財布から抜いた金を財布へ戻すやうな話で、新たに小遣ひをせびるのとは違ふ。
    本書は、消費税を善玉にも悪玉にも仕立てるつもりはない。ただ、この騒々しい税について、せめて何がどうなつてゐるのかを、落着いて見てみたいのである。世間は声の大きい人が勝つことになつてゐるが、税の話にかぎつては、静かな人の方が案外まともである。。
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    コラム】トウ・ゴウ・サン・ピン税務署の眼鏡はどこまで曇るか
    「トウ・ゴウ・サン・ピン」といふ、いかにも戦後日本の横丁から出て来たやうな言葉がある。漢字で書けば、たぶん「十・五・三・一」。給与所得者は十、自営業者は五、農家は三、政治家は一。すなはち、税務署が所得をどれほど把握してゐるか、その割合を戯画化した説である。
    もちろん、学術論文の表にそのまま載せるやうな数字ではない。けれども、世間の実感といふものは、時に統計よりもしぶとい。居酒屋の片隅で、サラリーマンが焼鳥の串を握りしめながら「俺たちだけ馬鹿正直に取られてゐる」と嘆く、その嘆きに名前を与へたものが、このトウ・ゴウ・サン・ピンであつた。
    給与所得者は、まことに気の毒なほど透明である。会社が給料を払ひ、源泉徴収し、年末調整まで済ませてくれる。便利と言へば便利だが、言ひ換へれば、税務署の前に下着姿で立たされてゐるやうなものだ。そのうへ近ごろでは、ふるさと納税の返礼品にも、勝ち馬投票券の払戻金にも、きちんと所得の影が差す。役所は「忘れずに申告しませう」と、いかにも善良な学級委員のやうな顔をして言ふ。なるほど公平で結構な話だが、給与所得者としては、もはや財布ばかりでなく、正月の蟹や日曜競馬の夢にまで、税務署の目が光つてゐる心地がするのである。逃げ道はほとんどない。財布の中身どころか、懐の縫ひ目まで見られてゐる。
    これに対して、自営業者には、昔からいくらか余白があつた。売上を数へ、経費を積み、所得を計算するのは、ひとまづ本人である。そこには帳簿と領収書の世界があり、また、帳簿と領収書の「行間」といふ、なかなか奥深い世界もあつた。
    昔の税理士には、確定申告の締め切り日である三月十五日に息せき切つて駆け込んでくる商売人に向かつて、
    「で、今年はいくら納めたいんですか」
    と尋ね、申告書を下から組み立てた(昔の所得税の申告書は、縦長で一番下に納付すべき税額の欄があつた。)、といふ武勇伝めいた話もあつたらしい。税法の教科書には載らないが、税務史の欄外には、薄いインクで書いておきたい逸話である。
    農業となると、話はいよいよ牧歌的になる。小規模農家は、もともと大儲けをしてゐるとは思はれにくい。なぜか農協の職員が作つた白色申告申告書で、帳簿もあやふく、領収書の保存も心もとない。畑には畝があるが、所得の境目には畝がない。税務署としても、そこへ鍬を入れるにはなかなか骨が折れる。
    そして政治家である。
    ここまで来ると、所得課税の話だけでは済まない。政治資金は、政治資金規正法の世界で管理され、寄附、パーティー収入、団体間の資金移動などは、政治資金といふ別室に通される。そこでは税務署の靴音も、いくらか遠くなる。政治家の金は、いつも煙草の煙のやうに、あるやうで、ないやうで、しかし確かに匂ひだけは残る。
    では、今でもトウ・ゴウ・サン・ピンはそのまま通用するのか。
    さすがに、世の中も昔のままではない。消費税のインボイス制度が始まり、取引の記録は、以前よりもつながりやすくなつた。自営業者の所得把握も、昔に比べればいくらか締まつてきたと言へるだらう。
    しかし、だからといつて、この俗説が完全に死んだかといふと、話はさう簡単ではない。税務署にも人手の限界がある。心ここにあらずといつた育児真つ最中の女性調査官やデモシカ調査官も増え、調査レベルも熱意も昔ほどではない。都市部では納税者の数も多い。すべての店、すべての帳簿、すべての財布を覗き込むことなど、現実にはできない。
    結局、トウ・ゴウ・サン・ピンとは、正確な統計ではないが、日本人の税に対する一種の不信感のあだ名なのである。
    「取られる者」と「見逃される者」がゐるのではないか。「まじめに申告する者」ほど損をしてゐるのではないか。その疑ひが、十・五・三・一といふ、妙に覚えやすい数字に化けた。税制は公平を掲げる。しかし、税務の現場は、いつも人間臭い。
    帳簿の上では数字が並び、法律の上では条文が光る。けれどもその下には、商売人の溜息、農家のどんぶり勘定、政治家の忘却癖、そして給与所得者の諦めが、しつかり横たはつてゐる。
    トウ・ゴウ・サン・ピンとは、税務署の能力を笑つた言葉であると同時に、納税者の心の皺を写した言葉でもある。
    税金の話がいつも少し苦く、少し可笑しいのは、そのせゐである。
    消費税のインボイス制度の施行により、以前よりは、自営業の補足率は上がつてゐるといつてよいのだが、トウ・ゴウ・サン・ピンといふ俗説が全く当たらないやうになつたといふのは案外難しい。

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    第1章 消費税はほんたうに「消費税」なのか

    日本でいちばん議論される税は何か、と問はれれば、これはまあ消費税であらう。相続税だの法人税だのと答へる人がゐたら、その人は税理士か、あるひは税金のことが心配でたまらないお金持ちか儲かり過ぎた経営者である。ふつうの世間人なら、選挙のたびに新聞の見出しを飾り、テレビの討論会で候補者が額に汗して叫ぶ、あの税を思ひ浮かべる。つまり消費税である。
    ところが、この税は名前からして少し厄介である。消費税と聞けば、多くの人は「買物のときに払ふ税」を思ひ浮かべる。スーパーで豆腐を買ふときにも、レストランで昼飯を食ふときにも、高価な車を買つて少し人生を誤るときにも、代金には消費税が乗つてゐる。だから多くの人は、これは生活に直接かかる税だと思つてゐる。
    しかし、税の仕組みを少し落着いて眺めると、話はさう単純ではない。消費税を国に納めるのは、消費者ではなく事業者である。レジで財布を開く人と、税務署へ申告書を出す人とは、同一人物ではない。
    また、消費税は単なる売上税ではない。売上税とは、売上に課税する税である。売上額×税率=売上税といふわけである。
    企業は売上にかかる税額から、仕入の際に支払つた税額を差し引いて納税額を計算する。式にすれば、かうである。
    納税額=売上にかかる税−仕入にかかる税
    この差引きの仕組みがあるため、消費税は単なる売上税ではない。売上全体に課税してゐるやうに見えて、実際には企業が新たに生み出した価値に課税する仕組みになつてゐる。
    それなら、なぜ「付加価値税」と呼ばずに「消費税」と呼ぶのか。理由は、税が価格に織り込まれ、最終的に消費者の負担として現はれるからである。商人が税を自腹で払つて商売を続けるほど、この世は甘くない。ネクタイ五千円に一割の税が加はれば、値札は五千五百円になる。払ふのは客である。
    しかし、ここで注意しなければならぬ。客が負担することと、客が納税義務者であることとは別の話なのである。法律の世界と経済の世界とは、しばしば同じ場所に住んでゐながら、言葉づかひが違ふ。
    この章で押へておきたいのは、ひとつだけでよい。消費税といふ名前は、負担の見え方からつけられたものであつて、制度の本質からつけられたものではない。名は体を表はすといふが、税の世界では、しばしば名が体を少し誤解させる。

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    第2章 なぜ仕入税額控除が必要なのか

    消費税の仕組みのうち、いちばん肝腎で、しかも世間からいちばん軽んぜられてゐるものは何かと問はれれば、それは税率でもなく、軽減税率でもなく、ましてやポスターに印刷された選挙公約でもない。仕入税額控除である。
    この言葉はいかにも役所的で、耳にしただけで肩が凝る。酒場でこれを話題にして友人を失つた人もゐるかもしれぬ。しかし制度の中身は、じつはきはめて合理的であり、文明的であり、少しばかり美しい。税制に美しさなどあるものかと思ふ人は、まだ税制の深みを知らぬ。
    事業者は、売上にかかつた税から、仕入の際に支払つた税を差し引いて納税額を計算する。
    納税額=売上にかかる税−仕入にかかる税
    なぜ、こんな面倒なことをするのか。もし売上に税率を掛けるだけで済むなら、帳簿も簡単、役人も楽、政治家も説明しやすい。まことに結構である。
    だが、世の中で簡単すぎる話には、たいてい落し穴がある。勝馬予想と税制改革は、その代表である。
    消費税以前、多くの国では売上税といふ税が使はれてゐた。仕組みはきはめて単純である。
    売上税=売上×税率
    なるほど明快だ。小学生にも分る。政治家にも分るかもしれぬ。ところが、この税には重大な欠陥があつた。商品が取引されるたびに、税が何度でもかかるのである。
    たとへば、ある商品が製造、卸、小売を経て消費者へ渡るとする。税率は一割。製造業者が百円で売れば税は十円。卸売業者が百五十円で売れば税は十五円。小売店が二百円で売れば税は二十円。政府の取分は合計四十五円になる。
    ところが最終価格は二百円なのであるから、一割の税率なら二十円でよいはずだ。にもかかはらず四十五円取つてしまふ。これは少々欲張りすぎる。
    つまり売上税では、税が税の上に積み重なる。雪だるま式にふくらむ。これを累積課税と呼ぶ。名前は勇ましいが、中身はかなり間の抜けた制度である。
     
     
    累積課税は経済にさまざまな歪みを生む。工程の多い産業ほど不利になる。企業は取引そのものを避けようとする。外から買へば税がかかる。ならば自分で作らう、と考へる。部品も自前、配送も自前、印刷も自前、つひには社長の散髪まで自前になりかねぬ。これを垂直統合といふ。学問的な名前は立派だが、要するに何でも抱へ込むのである。
    この難問を解くために考へ出されたのが、付加価値税である。仕組みは驚くほど簡単だ。売上にかかる税から、仕入にかかる税を引く。たつたそれだけである。世の中には、たつたそれだけで救はれることがある。ラブレターと傘と睡眠と仕入税額控除がさうだ。
    この方法を使へば、各企業が新たに生み出した価値、つまり付加価値の部分だけに税がかかる。先ほどの例なら、製造業者が十円、卸売業者が五円、小売業者が五円を納める。合計二十円。最終価格二百円の一割とぴたり一致する。税は累積しない。
    ゆゑに、仕入税額控除とは単なる事務上のテクニックではない。税の累積を防ぎ、市場の分業を守るための仕組みなのである。

     
       
    【図表1】売上税vs付加価値税:課税の連鎖比較
    左:売上税(累積課税)では各段階の売上全体に課税されるため税が積み重なる。右:付加価値税(仕入税額控除あり)では各段階が新たに生み出した付加価値部分のみに課税され、最終的な税負担は消費者の支払税額と一致する。
     

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    ※ 各数字は説明のための例示。税率10%で計算。
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     出典:筆者作成

     
     
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    第3章 インボイス制度とは何か

    ――消費税が名刺を要求するやうになつた話
     
     インボイスといふ言葉の来歴を少し調べると、中世フランス語の envoi、すなはち「送付」に行き着く。ものを送る時に添へる書付、送り状である。
     考へてみれば妙なものだ。主役は荷物のはずなのに、商人たちは昔からその脇に一枚の紙を添へてきた。
     紙がなくとも荷物は届く。しかし何を、誰が、誰に送つたのかは曖昧になる。中身は本物でも、その来歴は分からない。そこで送り状が要る。
     送り状は商品ではない。取引そのものでもない。脇役である。だが脇役がなければ商売は案外成り立たない。荷物がどこから来たか、何が入つてゐるか、いくら請求すべきか。さういふ事柄はたいてい紙の側に書かれてゐる。
     インボイスとは、本来さういふ文書である。
     さて、消費税の話である。消費税には仕入税額控除といふ仕組みがある。売上にかかる消費税から、仕入にかかる消費税を差し引いて納める制度である。一万円の材料を仕入れ、その際に千円の消費税を支払つた業者は、自分の売上に係る消費税からその千円を差し引いてよい。さうしなければ同じ取引に何度も税が積み上がつてしまふ。
     理屈は美しい。しかし美しい理屈には、たいてい醜い抜け道が隣接してゐる。神は細部に宿るというが、美徳と悪徳はしばしば同じ路地に住んでゐるものだ。
     「その千円、本当に払つたのか」この問ひが、消費税導入以来ずつと宙に浮いてゐた。
     帳簿には「払ひました」と書いてある。税務署は長いあひだ、それを出発点としてきた。
     もちろん無条件に信じてゐたわけではない。怪しければ調査に入る。しかし帳簿とは書いた人間の言ひ分しか語らない書物である。
     ベテランの調査官が「足を見ろ」と言ふのはそのためだ。架空仕入れを見つけるには、帳簿だけではなく品物の流れ、運送費を見よ。「請求書ではなく、実際の商売の痕跡を見よ」と法人税の新任調査官(新任だとまだ事務官か)はさう教わる
     紙はいくらでも書ける。しかし荷物は勝手に歩かない。
     ところが、熟練した調査官の経験に頼る仕組みには限界がある。
     そこで登場したのがインボイス制度である。「帳簿だけでは足りない。登録番号の付いた請求書を保存しなさい。その番号が国に登録された事業者のものか確認しなさい」
     さういふ制度である。
     帳簿の独白から、請求書による照合へ。自己申告から、相手方を巻き込んだ証拠の世界へ。消費税は、商人の言葉だけではなく、その身元証明書を求めるやうになつたのである。
    ところが、この改正には別の問題があつた。免税事業者である。
     年間売上が千万円を超えない小規模事業者――町工場の職人、個人経営の設計士、フリーランスのライター、ひとり親方――は、一定の条件のもとで消費税の納税義務を免除されてきた。この人たちは長いあひだ、消費税の世界の外側に暮らしてゐた。なぜそんな制度があつたのか。国家が特別に気前よかつたからではない。
     税金を取るにも金がかかるからである。一人で商売をしてゐる職人に、請求書を整理させ、帳簿をつけさせ、申告書を作らせる。税務署はそれを受け取り、審理し、ほろんど調査しない。年間数十万円の税を徴収するために、それ以上の事務費用がかかるなら誰も得をしない。
     
     小さな商売には小さな商売なりの事情がある。
     朝から晩まで現場で働き、夜になつてから帳簿を開く。経理部も総務部も存在しない。社長と従業員と経理担当者がすべて同じ人物である。消費税導入の際、さうした零細事業者にまで完全な申告義務を課すのは酷であらうと考へられた。免税事業者制度は弱者保護の制度であると同時に、行政の手間を省く制度でもあつた。税の世界にも費用対効果は存在するのである。
     ところがインボイス制度は、その境界線を動かした。免税事業者がインボイスを発行するには登録が必要である。登録すれば課税事業者とされ、消費税の申告と納税が始まる。では登録しなければよいか。さうもいかない。登録してゐない事業者との取引は、原則として仕入税額控除の対象外になる。
     つまり取引先が損をする。
     すると取引先は、ごく礼儀正しい声でかう尋ねる。「登録のご予定はございますか」
     この一文の柔らかさと冷たさを、しばらく眺めてほしい。
     「ご予定」といふ丁寧な言い方が、相手の選択の余地を丁重に、しかし着実に狭めてゐる。慇懃無礼は、ときとして最もいやらしい圧力である。登録すれば税務署が来る。登録しなければ取引先が去る。
     これが多くの免税事業者に突きつけられた現実であつた。
     剣客商売ならここで犯人が現れるところだが、インボイス制度では会計ソフトの更新料が現れる。世の中は昔より少し散文的になつた。
     公平を期して言へば、インボイス制度を単なる零細事業者いぢめと呼ぶのは粗雑な見方である。軽減税率によつて八パーセントと十パーセントが混在する以上、請求書に税率を明記させる仕組みは論理的に必要である。
     架空仕入による還付詐取を防ぐためにも、証拠を厳格にすることには十分な合理性がある。消費税をより正確に、より公平にする。これは立派な話である。ただし、税制における「立派」は、しばしば現場の机の上に書類の山として現れる。よく「税法はもっと単純にわかりやすくしたらよい」といわれるが、公平を求めれば制度は細かくなる。細かくなれば手間が増える。手間が増えれば誰かが負担する。そして負担するのは、たいてい一番小さな商売人である。
     税制史を眺めてゐると、一つの事実に気づく。国家は不公平を嫌ふ。商売人は面倒を嫌ふ。そして税制とは、その両者が延々と綱引きを続けた記録である。
    インボイス制度も例外ではない。さて、ここで冒頭の envoi に戻らう。送り状は荷物ではない。
     しかし送り状がなければ、その荷物は誰のものか分からない。インボイスもまた取引そのものではない。しかしインボイスがなければ、その取引は税の世界で存在しなかつたことになる。脇役が主役の資格を証明する。それがインボイス制度の本質である。
     七百年前の商人が荷物に添へた送り状は、姿を変へて令和の請求書になつた。
     そして今日もまた、誰かの机の引出しに保存され、誰かの会計ソフトの中で照合されてゐる。
     正確さは無料ではない。その請求書は、いつも誰かの手間によつて支へられてゐる。税とはかういふものである。数字の陰には、いつも小さな生活の音がしてゐる。
    #創作大賞2026 #ビジネス部門

    コラム 「税理士難民」
     難民といふ言葉を聞くと、多くの人は国境を越へる人々を思ひ浮かべる。
     ところが近年、日本には「税理士難民」といふものが出現した。もちろんゴムボートで墨田川や淀川を下るわけではない。税理士を探してゐるのに仕事を受けてくれる税理士が見つからない人々のことである。
     インボイス制度が始まる前、小規模事業者の確定申告は、言ひ方は悪いが、ある程度は大らかな世界であつた。売り上げが八百万円程度ならば、経費がいくらかあり、最終的な所得が計算できればよい。帳簿はできれば必要である。しかし上場企業の監査資料のやうな精密さは求められない。請求書や領収書が完璧にそろっていないケースもないとは言えない。税理士も比較的少額の報酬で引き受けることができた。先に挙げたやうに、納税額を先に決め、経費や売上を逆算するといふ芸当もなかつたわけではない。
     ところがインボイス制度は、この風景を変へてしまつた。請求書を確認する。登録番号を確認する。課税区分を確認する。領収書や請求書の中身をいちいち問い合わせたり、足りないインボイスの送付を求めたり、手間が倍以上にかかる。それが済んで初めて所得税の申告書を作る。さらに消費税の申告書も作る。
     気がつくと、昨日まで軽自動車で運んでゐた仕事量が、今日は二トントラックになつてゐる。
     ところが依頼人は同じ人である。町の工務店の親方であり、個人のデザイナーであり、ひとりで仕事をしてゐるライターである。報酬を二倍にすれば採算は合ふ。しかし顧客は払えない。
     報酬を据ゑ置けば顧客は残る。しかし税理士はただでさえ忙しい確定申告の時期にこなせる仕事量ではない。申告期限に遅れれば、加算税が発生する。そんなリスクを取りたがる税理士はいない。
     資本主義は、かういふ場合にたいへん正直である。 儲からない仕事からは人が去る。その結果、奇妙なことが起きた。
     税金は払ひたい。申告もしなければならない。しかし受けてくれる税理士が見つからない。言はば、「税理士難民」の誕生である。
     制度を作る人々は、ときどき「税額」だけを見てゐる。現場の人々は「手間」を見てゐる。
     そして税理士は、その両方を見てゐる。だから最初に悲鳴を上げる。
     税制改正といふと、つい増税か減税かの話になりがちだ。しかし現実の商売人にとつて重要なのは、税率よりも領収書の束である。税金そのものより、税金を説明するための紙の方が重いことすらある。正確さは無料ではない。
     それはインボイス制度が私たちに教へた、おそらく最も高価な教訓の一つである。
     
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    第4章 消費税のほんたうの課税対象

    前章で見たやうに、消費税とは、売上から仕入を差し引いた部分に課税する税である。式にすれば、まことに簡潔で、下手な演説よりよほど信用がおける。
    課税対象=売上−仕入
    売上から仕入れを引いた残りを経済学では付加価値と呼ぶ。経済学者は、世間でふつうに使はぬ言葉を選んで物事を説明する癖があるが、今回はさほど悪くない命名である。まさに価値を付け加へた部分だからである。
    企業は商品を売つて売上を得る。その売上から、原材料代、仕入代、電気代、家賃、その他もろもろの請求書に追ひ立てられて金を払ふ。すると、最後にいくらか金が残る。商売といふのは、その「残るか残らぬか」の瀬戸際に成り立つてゐる。
    では、その残つた金はどこへ行くのか。一部は従業員の給料になる。月末に振込まれ、たちまち家賃や住宅ローンや携帯電話料金に吸ひ込まれる、あの金である。残りは企業の利益になる。社長が少し機嫌よくなる、あの金である。
     つまり企業の付加価値は、突き詰めれば人件費と利益に分けられる。
     企業が新たに生み出した価値は、この二つに分配されるのである。ここには、なかなか身も蓋もない真理がある。働く人に給料がゆき、残りが資本家の懐に入る。マルクスが聞けば腕まくりをしさうな話である。
     この視点から消費税を見ると、税の構造は急に明快になる。
      消費税=付加価値×税率
     そして付加価値とは、人件費+利益である。したがつて消費税とは、つまるところ、人件費と利益に課税する税なのである。
     ここで一つ、もっともらしい疑問が湧く。
     原材料や商品仕入は控除できるのに、なぜ人件費は控除できぬのか。給料を払ふのだつて費用ではないか、と。
     これはたしかに筋のよい質問である。法律上の答へは意外に簡単だ。
    税法上、仕入税額控除ができるためには、その支払いが課税仕入れに該当しなければならない。課税仕入れに該当するためには、次の要件に該当しなければならない。
    課税仕入れとは「①事業者が、②事業として、③対価を得て行ふ、④資産の譲渡・貸付け・役務の提供」に対する支払いをいふとされる。
     従業員は、事業者ではない。会社と雇用契約を結び、その指揮命令のもとで働いてゐる。したがつて給料は「事業者が行ふ資産の譲渡や役務の提供の対価」ではない。消費税法では、給与賃金は課税取引ではなく、不課税取引に分類される。課税されてゐない以上、そこには控除すべき消費税も存在しない。
     これが法律の説明である。しかし法律はしばしば結論を語るだけで、その理由までは教へてくれない。なぜ給料は課税されないのか。
     ここで付加価値税といふ税の本性が顔を出す。
     原材料や商品仕入は、外部の事業者から購入する。そこにはすでに別の企業が生み出した価値が含まれてゐる。もしそれを控除しなければ、同じ価値に何度も課税することになる。だから仕入税額控除が認められる。ところが従業員の労働は違ふ。それは外から買つてきた価値ではない。工場での作業も、営業マンの訪問も、深夜の会議室で延々と続く会議も、その企業自身が新たに生み出した価値である。汗とため息と、ときには根拠の怪しい気合ひによつて生成される価値である。消費税は、その新しく付け加へられた価値に課税する税なのである。
     この構造を見れば、世界でこの税が Value Added Tax、すなはち付加価値税と呼ばれてゐる理由がよくわかる。税は売上全体にかかるのではない。企業が新しく付け加へた価値にだけかかるのである。
     ここで少し横から眺めてみよう。日本には法人税や事業税といふ税がある。これは企業の所得、つまり利益に課税する税である。
     一方、消費税は利益だけではなく、人件費にも課税する。
       法人税・事業税=利益に課税
       消費税=利益+人件費に課税
     この式を見た瞬間に顔をしかめる経営者は少なくない。儲かってもいないのに商売しているだけで消費税は課税されると不満を述べる政治家が現れる理由がここにある。消費税はショバダイであると断言する税理士もいるほどである。
     利益に課税されるのはまだ分かる。しかし従業員の給料にまで実質的に課税されるとなると、話は少し違つて見えてくる。
     だから消費税を「買物のときに払ふ税」とだけ説明すると、その本質を見失ふ。消費税は消費者から預かったお金ではない。使い込んでも横領罪にはならない。
     レジで支払ふのは消費者だが、税額を計算し、請求書を整理し、申告し、納税するのは事業者である。消費税は消費者の税であると同時に、企業活動に深く食ひ込んだ税でもある。
     第二の法人税・事業税と呼ぶのは少々乱暴かもしれない。むろん法律上は別物である。戸籍も違へば住所も違ふ。しかし親戚づきあひくらゐはしてゐさうな税である。
     
     

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    【図表2】取引の三区分:課税・非課税・不課税

    消費税には「課税取引(税がかかる)」「非課税取引(政策的に免除)」「不課税取引(そもそも対象外)」の三区分がある。非課税は原則として課税対象だが政策・政治的判断で免除された取引。医療・介護等は非課税だが仕入税額控除が使えないため消費税の採取負担者となる。これを「損税」と表現する者もいる。


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    出典:財務省資料を基に筆者作成

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    第5章 輸出企業に消費税が還付されるのはなぜか

    消費税の議論になると、しばしば持ち出される題目の一つに、輸出企業への還付金といふ話がある。税率の話になると目を閉ぢる人でも、この話になると急に元気になる。人は、自分が儲からぬとも、他人が戻してもらふ金には敏感である。これは古今東西変らぬ。
    新聞やテレビでは、ときどき次のやうな説明がなされる。
    「輸出企業は消費税を払つてゐないどころか、国から還付金まで受け取つてゐる。」
    この言ひ方を聞けば、なるほど何やら大企業ばかり得をしてゐるやうに思へる。読者も視聴者も少し腹が立つ。腹が立てば、新聞は売れ、番組は盛り上がる。さういふ仕掛けである。
    しかし実際には、この制度は特別待遇でもなければ、大企業だけへのお小遣ひでもない。付加価値税といふ税の仕組みから、ごく自然に生まれる制度なのである。
    税制には、派手さはないが筋の通つた話がある。まず原則を確認しておかう。消費税は、国内の消費に課税する税である。日本国内で消費された財やサービスに税がかかる。逆に言へば、日本で消費されぬものには課税しない。この考へ方を、少し学問ぶつて消費地課税と呼ぶ。
    輸出される商品は、最終的には外国で消費される。たとへば日本で作られた自動車がアメリカへ輸出されたとする。その車を運転し、電気代やガソリン代にため息をつくのはアメリカの消費者である。日本の消費者ではない。この場合、日本の消費税をかけるのは理屈に合はぬ。
    そこで付加価値税では、輸出取引に対して税率0%を適用する。これをゼロ税率と呼ぶ。数字は零だが、意味はかなり大きい。
    ところが、ここで一つ問題が起る。輸出企業も、原材料や部品を仕入れるときには、国内で消費税を払つてゐる。鉄板を買ふ、部品を買ふ、段ボールを買ふ、そのたびに税がついてくる。税といふものは、なかなか勤勉である。
    もし輸出品に税をかけないだけで、仕入段階の税を戻さなければどうなるか。払つた税が製品価格の中に残つてしまふ。すると、日本から輸出される商品には、日本の国内税がこつそり埋め込まれることになる。世界市場で売るには、これは不利であるし、ルール違反でもある。
    批判の根源にある誤解は「輸出企業が国から税金をもらつてゐる」というものだ。しかし実際の流れを追えば、①サプライヤーが仕入税を納税し、②輸出企業はその消費税を仕入れ代金に含めて支払ひ実質負担してゐる、③輸出品にはゼロ税率が適用されるため売上税がゼロになり、④その結果として実質負担した仕入税額が還付されるに過ぎない。
     
    そこで付加価値税では、輸出売上にかかる税を零にし、仕入にかかる税は控除する。この計算をすると、仕入段階で払つた税が余る。余つたものは返す。実に明快である。これが、いはゆる消費税の還付である。
    つまり輸出企業が受け取る還付金とは、新たなご褒美ではない。すでに支払つた税を返してもらつてゐるだけなのである。自分の傘を忘れ物係から受け取るやうなもので、景品をもらつてゐるわけではない。
    図表2 輸出企業への還付メカニズム
    批判の根源にある誤解は「輸出企業が国から税金をもらつてゐる」というものだ。実際の流れを追えば、これは既払税の返還に過ぎない。

     
    この制度は、やや物々しい名で国境調整と呼ばれる。輸出では国内税を取り除き、輸入では国内税をかける。これによつて、国内製品と輸入品が同じ条件で競争できるやうになる。相撲で言へば、片方だけ草履を履かせて土俵に上げるやうな不公平を避けるようなものである。
    トランプや彼の太鼓持ちのようなマスコミにも教えて差し上げよう、輸出還付は。日本独自の大企業優遇策ではない。付加価値税を採るなら、ほぼ必然的についてくる制度である。ちやうど自動車を買へば最近は少なくなったようだが予備のタイヤがくつついてくるやうなものだ。タイヤだけを見て「これは不公平だ」と怒る人は少ない。還付金だけを見て怒る人は多い。世の中は少し不思議である。
    【図表3】輸出企業への還付メカニズム:誰が実質負担してゐるのか
    批判の根源にある誤解は「輸出企業が国から税金をもらつてゐる」というものだ。しかし実際の流れを追えば、①サプライヤーが仕入税を納税し、②輸出企業はその消費税を仕入れ代金に含めて支払ひ実質負担してゐる、③輸出品にはゼロ税率が適用されるため売上税がゼロになり、④その結果として実質負担した仕入税額が還付されるに過ぎない。

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    コラム 消費税の「零パーセント」とは
    消費税の「零パーセント」と「非課税」との違ひを論ずることは、あたかも上等の反物の表裏を鑑賞するが如き、微細にして深遠なる趣きを湛へてゐる。この二者は、一見すれば等しく「税を徴収せぬ」といふ虚無の相を呈してはゐるが、その実体は厳然として峻別せねばならぬ代物である。
     まづ、「零パーセントの税率」なるものは、これを一般に「免税」と呼び習はす。主たる例は、わが国の精緻なる工藝品を、海を越ゑた異国の紳士淑女へ送り出す「輸出取引」である。
     この場合、政府は「税率は確かに存在するが、その値は零である」といふ、いかにも哲学的な態度を貫く。その御蔭で、商人が品物を拵へるために支払つた仕入れの税は、後に国庫から「還付」といふ名目で慇懃に返却される。即ち、国境を越ゑる商ひに於いては、税の重みが商人の衣の裾を汚すことはないのである。
     翻つて「非課税」はと申せば、こちらは慈悲と社会の良識に基づく、また別の論理に支配されてゐる。病を癒やすための医療、母子が住まふ長屋の家賃、あるひは若き魂を育む教科書の代金。これらには、そもそも「税を課すこと自体が野暮の極み」として、課税の枠組みから解き放たれてゐる。
     しかし、ここに従事する者にとつては、少々不条理な景色が広がる。彼らが仕事のために支払つた消費税は、一分一厘たりとも返つては参らぬ。売る時に税を取らぬ以上、仕入れの税もまた顧みられぬ。誠に「施しは受けても、報ひは得られぬ」といふ、禁欲的なまでの静寂がそこには流れてゐるのである。
     還付の愉悦を伴ふ「零パーセント」か、沈黙の負担を強ひる「非課税」か。この制度の機微を解することこそ、現代といふ複雑な織物を読み解く、知的な愉しみの一つと言へるであらう。

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    第6章 なぜ消費税の議論は混乱するのか

    ここまで読み進めてこられた読者は、あることに気づかれるかもしれない。消費税の仕組みそのものは、世間で言はれるほど難解ではない。むしろ、税制としてはかなり整つた部類に属する。
    それにもかかはらず、消費税の議論はいつも混乱する。新聞の社説も混乱し、テレビの討論番組も混乱し、居酒屋の隣席でも混乱してゐる。なぜか。
    理由は、三つの異なる視点が、しばしば一つの鍋で煮込まれてしまふからである。煮込めば味が出る料理もあるが、議論はたいてい濁る。
    第一は、税法の視点である。税法から見れば、消費税は事業者が納める税である。事業者は売上にかかる税から、仕入にかかる税を差し引いて申告し、納税する。少なくとも、税務署の窓口に立つてゐるのは企業側の人間であつて、買物帰りの主婦ではない。
    第二は、企業活動の視点である。消費税は売上全体にかかるのではなく、売上から仕入を引いた部分、すなはち企業が新たに生み出した価値にかかる。この意味で、消費税は企業活動そのものにかかる税とも言へる。働けば税が生じる。なかなか油断ならぬ制度である。
    第三は、市場の視点である。企業は税を自分の利益だけで負担するとは限らぬ。多くの場合、その分を商品価格に上乗せしようとする。その結果、税の負担は消費者へ移る。レジで財布を開く人が、結局その一部を負担する。
    この三つは、それぞれ間違ひではない。むしろ、それぞれ正しい。しかし、見てゐる場所が違ふ。東京駅を語るのに、丸の内口の話と八重洲口の話と新幹線ホームの話を同時に始めれば、聞く方は迷ふ。消費税の議論も同じである。
    もう一つ、混乱を招く原因がある。税の名前である。くりかえすようであるが、世界の多くの国では、この税を Value Added Tax、すなはち付加価値税と呼んでゐる。名前がそのまま制度の本質を示してゐる。外国には、たまにかういふ実直さがある。
    ところが日本では、これを消費税と呼ぶ。この名は、税の最終的な負担者を強調した呼び方である。財布を開く人に焦点を当ててゐる。そのため、制度の構造よりも「家計への負担」といふ印象が先に立つ。
    税制は本来、かなり技術的な制度である。数字と定義と例外規定で出来てゐる。詩人向きではない。しかし政治の世界では、そんなものをそのまま説明しても票にならぬ。そこで政治の言葉は、制度を単純化する。
    「広く薄く負担する税」「社会保障の財源」「消費に課税する税」。これらは、まるきり嘘ではない。しかし、全体像を言ひ尽してゐるわけでもない。税制の骨格を語るには、やや化粧が濃い。
    消費税を理解するには、三つの視点を区別する必要がある。税法、企業活動、市場。この三つを整理すれば、消費税の仕組みは驚くほど明快になる。難しくしてゐるのは制度そのものではなく、説明する側の都合かもしれぬ。
     
     

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    第7章 課税、非課税、不課税、免税

    ——似た言葉が四つあるのには、それぞれ理由がある
     消費税の世界には、よく似た言葉が四つある。課税事業者、免税事業者、非課税取引、不課税取引——これをすらすら説明できる政治家は、失礼ながら、まづゐないであらう。財務省主税局が起案した法律を、立法府が粛々と手を挙げて可決するのが我が国の税制立法の実態である。週刊誌とスマートフォンと居眠りの隙間に税法の条文を差し込む余裕は、永田町にはなかなかないらしい。
     しかし、整理してみれば本質は単純である。
     まづ肝心なことを一つ申し上げておく。消費税の世界では、「その取引に消費税がかかるか」と「その事業者に納税義務があるか」は、別の問ひである。前者は取引を、後者は事業者を、それぞれ別の俎上に載せる話だ。この二軸を混同すると、四つの用語が互いに干渉して収拾がつかなくなる。逆に分けてしまへば、霧は晴れる。
    ________________________________________
     では取引の側から始めよう。
     消費税法が定める課税対象は、国内で事業者が行つた資産の譲渡・貸付・役務提供、および輸入取引である(消費税法四条)。商品を売る、場所を貸す、仕事をする——これらが原則として課税取引である。特段の事情がなければ消費税がかかる、ごく普通の取引だ。
    ところが世の中には、どう見ても「消費」らしい顔をしてゐながら、さてこれに消費稅をかけるとなると、どうにも座りの惡いものがある。土地の賣買、醫療、學校教育、住宅の家賃などがそれである。これを消費稅法では「非課稅取引」と呼ぶ。
    土地に消費稅をかけると、「國土まで食べてしまふのか」と叱られさうだし、醫療費に上乘せすれば、病人の枕もとで税務署が算盤をはじいてゐるやうで、いかにも人聞きが惡い。學校教育に課稅すれば、子供の鉛筆の先まで國が削り取るのかといふ話になり、住宅家賃に課稅すれば、雨露をしのぐ屋根にまで札を貼るのかといふことになる。そこでお上は、ここはまあ見逃してやらう、といふ顏をする。これが非課稅である。
    ただし、ここで早合點してはいけない。非課稅とは、必ずしも「めでたし、めでたし」の札ではない。「消費稅の對象から外してやる」といふだけで、いつも恩惠の花吹雪が舞ふわけではないのである。
    たとへば病院を見てみよう。患者から受け取る診療報酬の多くは非課稅である。なるほど、患者に消費稅を上乘せしないといふ意味では、世間體もよく、いかにも福祉國家らしい。しかし病院は、藥品も買ふ、醫療機器も買ふ、ベッドも買ふ、白衣も買ふ、建物も直す。さうした仕入れや設備投資には、相手方からしつかり消費稅を請求される。ところが、肝腎の売上が非課稅であるため、その仕入れにかかつた消費稅を、売上にかかる消費稅から差し引くといふ藝當が十分にはできない。つまり、払つた消費稅が病院の腹の中に沈殿する。
    これを税法の建前から言へば、「醫療機關が最終消費者になつた」といふだけの話である。たいへん綺麗な説明で、霞ヶ關の廊下を歩くには便利な靴であらう。しかし病院の側から見れば、さう簡單には割り切れない。普通の消費者は、自分の暮しのために茶碗や靴下を買ふ。病院は、人を治すために注射器や檢査機器を買ふ。仕事のための仕入れなのに、その税を自分で抱へ込めと言はれる。これでは、どうも釈然としない。
    そこで業界には、「損稅」といふ言葉が生まれる。税法の教科書から見れば、いささか情緒過多な言葉かもしれない。しかし、言葉といふものは、痛いところから出る。税務署の机の上では「控除できない仕入税額」と呼ばれるものが、病院の帳場では「損稅」と呼ばれる。兩者の距離は、霞ヶ關から外來受付までの距離である。
    ここで前章に出てきた「零パーセント」と比べると、非課稅の性格はいよいよはつきりする。輸出免稅、すなはち零パーセント課稅は、売上には消費稅をかけないが、仕入れにかかつた消費稅は差し引ける。場合によつては還付まで受けられる。いはば「税を取らぬ」と言ひながら、まあ、自分が払った税金が返ってくるだけだが、背中にそつと現金袋を差し込んでくれる仕組みである。
    これに對して非課稅は、売上に税をかけない代りに、仕入れの税を差し引く道も細くする。表向きは沈默、内實は負擔。零パーセントがにこやかな給仕なら、非課稅は無言で勘定書を置いてゆく番頭である。同じく「税を取らぬ」やうに見えて、行き着く先はかくも違ふ。
     
    もつとも、病院の売上がすべて非課稅といふわけではない。自由診療、美容整形、人間ドック、入院時の差額ベッド代など、課稅の對象となるものもある。病院といふ場所は、白衣の清潔さとは裏腹に、消費稅の世界ではなかなか複雜な迷路なのである。
     
    さて、非課稅のほかに、もう一つ、消費稅とは別次元の取引がある。給与、寄附、出資、損害賠償金などがそれで、これらは最初から消費稅法の土俵に上がつてゐない。世にこれを「不課稅取引」と呼ぶ。
     
    サラリーマンが月給を懐に入れるとき、そこに消費稅の影も形もないのはなぜか。會社から給料を貰ふのだから、何かを提供して對價を受け取つてゐるではないか、と言へなくもない。しかし、消費稅が網を張つてゐるのは、獨立した事業者が、事業として、對價を得て行ふ資産の讓渡、貸付け、役務の提供である。サラリーマンの給与は、雇用契約に基づく勞働の對價であつて、獨立した商人が市場で店を開く話とは違ふ。
     
    要するに、消費稅とは、市場で商ひをする獨立した者たちの取引に課される税である。會社と社員のあひだで行はれる賃金の授受は、その市場の鎖から、すとんとこぼれ落ちてゐる。寄附も同じで、これは對價のない贈り物である。出資も、株主たる地位を得るための拂込みであつて、商品を買ふのとは違ふ。損害賠償金も、原則として、壞されたもの、傷つけられたものの穴埋めであり、何かを賣つた代金ではない。ただし、損害賠償金と名がついてゐても、實質が資産の讓渡や役務提供の對價であれば課稅されることがある。名札だけで人を判斷してはいけない。税法は、その點だけは存外に人間通である。
     
    では、「非課稅」と「不課稅」はどう違ふのか。文字面はよく似てゐる。どちらも税を取らない。讀者が退屈な講義室で聞けば、同じものに聞こえるかもしれない。しかし、ここを混ぜると消費稅の議論は忽ち泥鰌鍋になる。
     
    非課稅とは、消費税法6条に、これこれに該当するものは非課税にすると、列挙してあるのだが、ここで条文を上げても眠くなるだけなので、相撲のたとえ話で説明しよう
    一度は力士を土俵に上げておきながら、行司が軍配を持つたまま、「この取組は、まあ、見ぬことにいたしませう」と言ふやうなものである。土俵には上がつた。行司も見てゐる。けれども政策的配慮によつて、勝負としては扱はない。これは「見てゐるが、見逃す」のである。
     
    これに對して不課稅は、そもそも國技館の外で起きてゐる話である。裏通りで子供が紙相撲をしてゐる。行司は呼ばれてゐないし、呼ばれても困る。土俵もなければ懸賞旗もない。つまり、最初から消費稅法の眼中にない。
     
    同じく「税を取らぬ」やうに見えて、片や「見逃し」、片や「知らぬ半兵衞」。この違ひを忘れると、消費稅の話は、蕎麥屋で鰻重を頼むやうな具合になる。店の者も客も困るのである。
     
    次に、取引ではなく、事業者の側を眺めてみよう。
    「課稅事業者」とは、ごく普通の、消費稅を納める義務のある事業者である。売上に消費稅を乘せて受け取り、仕入れにかかつた消費稅を差し引き、殘りを國庫へ差し出す。一千萬圓の売上に百萬圓の消費稅を預かり、仕入れにかかつた消費稅が六十萬圓なら、差額四十萬圓を納める。帳簿の原則は、これだけである。ここまでは小學生にもわかる。わからなくするのは、たいてい大人である。
    ややこしいのは「免稅事業者」である。
    免稅と聞くと、空港の免稅店のやうに、税のない晴れやかな世界を想像する人がゐる。あるいは、お上から「そなたは無垢な小商人であるから、税の穢れを免じてつかはす」と言はれたやうに思ふ人もゐる。しかし、それは少し違ふ。
     
    免稅事業者とは、本來なら消費稅の網にかかる取引をしてゐるにもかかはらず、一定の小規模事業者について、納税義務だけを免除されてゐる者をいふ。原則として、基準期間の課稅売上高が一千萬圓以下である事業者がその典型である。ただし、特定期間の判定その他の例外があるから、ここで「一千萬圓以下なら必ず免稅」と短冊に書いて笹に吊るすのは危險である。税法の七夕は、願ひごとを叶へてくれるとは限らない。
     
    町の職人、一人親方、売れない物書き、小さな店の主人。かうした人々のなかに免稅事業者は多い。彼らは売値の中に、消費稅らしきものを含めて受け取ることがある。ところが、その消費稅を國に納める義務は免除される。ここから、世にいふ「益稅」論爭が生まれる。
     
    「消費者から税を預かつておいて、懐に入れてゐるではないか」と怒る人がゐる。なるほど、見方によつてはさう見える。しかし、價格とはそもそも市場で決まるもので、「本體價格」と「消費稅相當額」がいつも清らかな小川のやうに二筋に分かれて流れてゐるわけではない。免稅事業者が大企業を相手にしてゐる場合などは、むしろ價格交渉で押し込まれ、消費稅相當分など最初から吹けば飛ぶやうな扱ひを受けてゐることも少なくない。益稅といふ言葉は便利だが、便利な言葉ほど人を粗忽にする。
     
    そこへ登場したのが、インボイス制度といふ新手の關所である。
     
    適格請求書を出せない免稅事業者から仕入れをすると、買手の側で仕入稅額控除が制限される。もちろん、いきなり全額駄目といふことではなく、制度開始後しばらくは經過措置がある。令和五年十月から令和八年九月までは八割、令和八年十月から令和十年九月までは七割、令和十年十月から令和十二年九月までは五割が控除できる、といふ段取りで、まことに日本の制度らしく、階段の踊り場にまた小さな階段がある。
     
    しかし、理屈はともかく、取引の現場ではもつと荒つぽい。買手からすれば、「あなたから買ふと、こちらの控除が減る」となる。すると、「その分、値引きして下さい」といふ話になる。言ひ方は丁寧でも、中身はなかなか峻烈である。かくして、益稅の芽は、理論の庭で咲く前に、取引先の鋏でぱちんと摘まれることがある。
     
    だから、新聞やテレビが嬉しさうに「益稅」と書き立てるときには、少し眉に唾をつけた方がよい。もちろん、益稅めいた現象が皆無だと言ふつもりはない。しかし、世の中には、机上の圖で見ると肥つてゐるのに、實物はやせ細つてゐるものがある。免稅事業者の益稅も、その一つである。瓦版はしばしば、制度の襞を讀まずに、お化けの影だけ大きく描く。
     
    ここで、いったん整理しておかう。消費稅の話では、二本の軸を混ぜてはいけない。
     
    第一は、取引の軸である。課稅取引、非課稅取引、不課稅取引、そして輸出免稅、すなはち零パーセント課稅。これは「その取引を消費稅法がどう扱ふか」といふ分類である。
     
    第二は、事業者の軸である。課稅事業者と免稅事業者。これは「その人、その會社に、消費稅を納める義務があるか」といふ分類である。
     
    この二本の軸は十文字に交差してゐる。しかし、決して混ぜてはならない。「非課稅」と「免稅事業者」は赤の他人である。「不課稅」と「免稅事業者」に至つては、生まれた町内からして違ふ。ところが世間の議論では、ここがしばしば一つの鍋に放り込まれる。非課稅、免稅、不課稅、輸出免稅。字面が似てゐるものだから、つい同じ棚に竝べてしまふ。すると、議論はたちまち古道具屋の奥座敷になる。どこに何があるのか、主人にもわからない。
     
    消費稅法は蜘蛛の巣のやうに難解だと言はれる。たしかに難解である。けれども、その難解さの半分は、制度そのものの複雜さから來る。殘りの半分は、似た言葉を似たやうなものとして扱ふ、われわれの横着から來る。
     
    言葉を正しく使ふこと。これは税法に限らず、法律を扱ふ者の最初のお行儀である。お行儀と言ふと、いかにも小學校の道徳の時間めくが、税法の議論ではこれが案外に大事である。箸の持ち方を間違へても夕飯は食べられるが、用語の持ち方を間違へると、國の制度まで食べ散らかすことになる。
     
    非課稅は、土俵に上げてから見逃す。不課稅は、そもそも土俵に上げない。課稅事業者は、預かつた税から払つた税を差し引いて納める。免稅事業者は、小規模ゆゑに納税義務を免ぜられる。輸出免稅は、税率零パーセントでありながら、仕入税額控除の扉を開けてゐる。
     
    これだけ押さへれば、消費稅の迷路にも、少しは灯がともる。もちろん、その灯は提灯ほどの明るさであつて、シャンデリアではない。しかし、薄暗い制度の廊下を歩くには、提灯で十分である。永田町の廊下では、あまり明るすぎる灯を持つて歩くと、かへつて狐狸の化かし合ひの邪魔になる。だから本章では、このあたりで提灯を少し低く掲げ、次の曲り角へ進むことにしよう。
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    第8章 なぜ世界ぢゆうで付加価値税が導入されたのか

    現在、消費税、あるひは付加価値税と呼ばれる税は、世界の多くの国で採用されてゐる。ヨーロッパでも、アジアでも、アフリカでも、多くの国が似たやうな仕組みを使つてゐる。まことに大した繁殖力である。兎か鼠か付加価値税か、といふほどだ。
    ところが、少し歴史をさかのぼると事情はまるで違ふ。一九六〇年前後まで、付加価値税を採用してゐる国はほとんどなかつた。いま世界標準の顔をしてゐる制度が、ついこのあひだまで少数派だつたのである。世の中には、かういふ話が案外多い。リモートワークや亭主の産休も同じである。
    第二次大戦後、多くの国では売上税といふ税が使はれてゐた。仕組みは単純で、扱ひやすい。しかし税が累積する。商品が作られて消費者の手に届くまでには、原材料メーカー、部品メーカー、組立メーカー、卸売業者、小売店と、いくつもの取引がある。売上税では、そのたびごとに税がかかる。
    この結果、経済にはさまざまな歪みが生じた。企業は取引回数を減らすため、外部に頼まず自分で何でもやらうとする。また、輸出品の価格には国内税が残る。これでは外国市場で不利になる。
    この問題を解決するために考へ出されたのが、付加価値税である。一九五四年、フランスの税務官モーリス・ロレが、新しい課税方式を提案した。売上にかかる税から仕入にかかる税を差し引く。たつたこれだけである。発明といふものは、たいてい後から見ると簡単に見える。
    この仕組みによつて、税は取引総額ではなく、各企業が新たに生み出した付加価値にだけかかるやうになつた。税制史における重要な発明と呼んで、少しも大げさではない。電話やペニシリンほど華やかではないが。
    付加価値税が急速に広がつた最大の契機は、ヨーロッパ統合である。国境を越えた貿易が盛んになると、各国の税制の違ひが商売の邪魔をし始めた。売上税のやうな累積税では、輸出品に国内税が残る。国によつて税のかかり方も違ふ。これでは公平な競争にならぬ。
    そこでヨーロッパ共同体は、共通の税制として付加価値税を採用することを決めた。やがてこの制度は世界へ広がつてゆく。国際機関も、税制改革を進める国々に対し、付加価値税の導入を勧めた。税収が比較的安定してゐる。捕捉がしやすい。国際貿易に適してゐる。財務官僚の好きさうな性質ばかりである。
    日本でも一九八九年、消費税が導入された。この制度は、日本独自の奇策ではない。世界じゆうに広がつた付加価値税の、日本版にすぎぬ。ただし日本では、この税を付加価値税とは呼ばず、消費税と名づけた。ここに、後の議論を少しややこしくする種が蒔かれたのである。
    【図表4】各国の付加価値税(消費税)標準税率一覧(2024年)
    日本の10%がいかに低いかが一覧でわかる。欧州主要国は20〜27%。G7唯一、連邦付加価値税を持たないアメリカは「政府の徴税効率を上げすぎると政府が税金を使いすぎる」という保守派の哲学的抵抗による。

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    出典:財務省資料を基に筆者作成
    注:概算であり、個別事情により異なる
    #創作大賞2026 #ビジネス部門

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    第二部 給与明細に棲む税

    本当に若者の手取りを削つてゐるもの

    第9章 税は誰が払ふのか

    消費税の話になると、必ず持ち出される問いがある。
    「消費税は誰が払ふ税なのか。」
    ある人はかう言ふ。「企業が納税してゐるのだから、企業の税だ。」またある人はかう言ふ。「いや、値段に上乗せされるのだから、消費者の税だ。」
    どちらが正しいのか。
    この手の議論は、居酒屋では盛り上がるが、たいてい翌朝になると誰も覚えてゐない。しかし、税制においては少し事情が違ふ。法律上は、納税義務者は企業だから企業の税金だ。これを「消費税」と命名し、国民を欺き徴税していた怪しからんと大見得を切る代議士がいるようだが、税務理論としては、首を傾げる話である。実はこの問いに、単純明快な答へはない。
    経済学では、この問題を租税帰着と呼ぶ。つまり、税の最終的な負担が、結局どこへ落ち着くかといふ問題である。帰着といふ言葉がやや芝居がかつてゐるが、要するに落着き先である。
    まず心得ておかなければならぬのは、間接税においては、法律上の納税者と、実際の負担者とは、しばしば一致しないといふことである。
    たとへば酒税は、酒の製造業者が納める税である。しかし誰も、酒税を「酒造会社だけが損をする税」とは思はぬ。酒の値段には酒税が含まれてゐる。ゆゑに最終的には、酒を買ふ人が負担してゐる。つまり晩酌の一杯には、麦や米や酵母だけでなく、税務署も少し混じつてゐるのである。
    同じことは消費税にも言へる。法律上の納税義務者は事業者である。しかし企業が税を価格に転嫁すれば、その負担は消費者へ移る。したがつて、税の負担は法律だけで決まるのではない。市場が決めるのである。法律が戸籍を決め、市場が人生を決める。さういふところがある。
    企業が税を負担するとき、ふつうはその分を価格にのせようとする。商人にしてみれば、これは自然の感情である。百円の商品に十円の税がかかる。価格を百十円にできれば、税の負担は消費者へ移る。これを価格転嫁と呼ぶ。
    なかなか見事な言葉である。自分の負担を他人へ渡す。人生にも応用したい人が多さうだが、多用すると友人を失いかねない。
    しかし現実の市場では、転嫁がいつも成功するわけではない。百十円にしたとたん客が隣の店へ行つてしまふなら、企業は値上げできぬ。その場合、企業は税の一部をみづからの利益で吸収することになる。社長の機嫌が少し悪くなり、経理部長の胃痛が少し増す。物価が次々と上がるインフレの時代には転嫁しやすいがデフレの時代は転嫁しにくいということもある。
    つまり税の負担は、企業か消費者かといふ単純な二者択一ではない。市場の状況に応じて、両者のあひだで分け合はれるのである。分け合ふと言つても、互ひに喜んでゐるわけではない。
    大まかに言へば、消費税とは、企業に課税され、市場を通じて転嫁され、最終的に消費者へ届く税と理解するのが、いちばん現実に近い。
     

    第10章 給料が上がらないのは、消費税のせいか


    近頃、消費税があるがゆゑに給料が上がらぬ、などといふ珍説を弄する政治家がゐるさうである。まことに便利な理屈で、責任の所在を遠くに追ひやるにはうつてつけだが、さてその実体はいかがなものか。
    思ふに、企業といふものは、売上から仕入れや外注費を差し引いた「付加価値」といふ果実を得る。その果実を、労働者に分け与へるか、株主に差し出すか、あるいは社内に蓄へるか──この配分の仕方こそが肝要なのである。消費税がどうであらうと、この配分の匙加減そのものを直接左右するわけではない。
     
    では、日本の給料がなぜ長らく冴えぬのか。ここで持ち出されるのが「労働生産性が低いからだ」といふ、いかにももっともらしい説明である。しかしながら、仔細に眺めれば、日本の生産性はそれなりに伸びてゐる。にもかかはらず賃金が動かぬとすれば、原因は別のところに求めねばならぬ。
     
    そこで登場するのが、河野龍太郎氏のいふところの「株主資本主義」である。かつての日本企業には、利益が出れば従業員にも報いるといふ、いはば家族主義的な気風があつた。雇用を守り、取引先にも配慮し、全体の均衡を重んずる。ところが時代が下るにつれ、企業統治の標語はすつかり様変はりした。
     
    曰く、ROE(Retern On Equity;自己資本利益率)を上げよ。株主還元を強化せよ。人件費はコストなり、ゆゑに抑制せよ。
    *近年のROEとは(Rewarding On Equity「結局、株主しか報われない」)かもしれない。
     
    かくして企業が生み出した付加価値は、徐々に労働者の手を離れ、株主と内部留保の方へと流れはじめた。働く者は価値を創りながら、その果実を十分に味はふことができぬ。これこそが賃金停滞の核心である。
     
    しかも、この二十余年、日本ではベースアップといふものがほとんど姿を消し、昇給は定期昇給に頼るばかりとなつた。生産性がいかに向上しても、それが賃金に反映されぬ仕組みができあがつてしまつたのである。大企業が動かぬ以上、中小企業もまた動かぬ。まことに見事な停滞の連鎖である。
     
    結局のところ、問題は単純である。
     
    企業は儲かつてゐる。だが、その儲けを誰に配るかといふ段になると、労働者は後回しにされる。
     
    これをして、消費税のせゐだといふのは、いささか筋違ひであらう。むしろ、
     
    働く者には「生産性を上げよ」と言ひ、株主には「還元を増やす」と約し、従業員には「原資がない」と嘆く。この三つ巴の都合のよさこそ、われらが時代の風景なのである。

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    第11章   もし消費税を廃止したらどうなるのか

    消費税の話になると、かなり高い確率で現れる意見がある。梅雨どきの湿気、年末の歳末商戦、そしてこの一言である。
    「消費税を廃止すればよい。」
    なるほど、言ふのは簡単だ。税をなくせば人は喜ぶ。誰しも請求書より招待状の方が好きである。実際、日本では消費税の廃止を唱へる政治家もゐるし、無思慮に税率を下げるべきだといふ意見ならそこら中に転がつてゐる。
    では、仮に消費税を廃止したら、税率を下げたら何が起こるのか。少し落着いて考へてみよう。税の話は、興奮しても得なことが少ない。
    最初に問題になるのは、むろん税収である。近年の日本の消費税収は、所得税、法人税と並ぶ主要財源の一つである。いはば国家財政の三本柱で、一本抜けば家が少し傾く。
    【図表5】令和5年度(2023年度)国の税収:税目別内訳

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    出典:財務省資料を基に筆者作成
    注:概算であり、個別事情により異なる
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    消費税は23.4兆円で所得税と並ぶ最大の税目。廃止すれば国家予算の約2割が消える。所得税で穴埋めするなら税収を2倍超にしなければならず、法人税でも2.6倍が必要。国債発行は財政赤字をさらに拡大する。

    出典:財務省「令和5年度一般会計国税決算」に基づき作成
    もし消費税を廃止すれば、この税収はそのまま消える。霞のやうに消える。帳簿の数字だけは、きつちり残る。すると政府は、支出を削るか、別の方法で穴埋めをしなければならぬ。穴埋めの選択肢は大きく言つて三つである。所得税を上げる。法人税を上げる。国債を増やす。いづれも、拍手喝采で迎へられる案ではない。
    企業にはどうか。消費税は、これまで見てきたやうに、企業の付加価値に課税する税である。したがつて、これを廃止すれば、企業の税負担は軽くなる。とくに人件費の多い企業、つまり人を多く使つて働いてゐる会社には影響が大きい。
    では物価は下がるのか。理屈の上では、その通りである。税がなくなれば、その分だけ価格は下がつてもよささうだ。しかし現実は、理屈だけでは動かぬ。恋愛と市場価格は、さういふところがある。
    価格は税だけで決まるものではない。需要と供給、競争状況、原材料費、人手不足、為替相場、社長の気分、さまざまなものが絡み合つて決まる。もし企業が価格を下げなければ、税がなくなつても値札はそのままである。
    つまり、消費税の廃止が必ずしも物価の低下を保証するわけではない。ここは少し冷水を浴びせるやうだが、大事な点である。
    税制といふものは、一つの税だけで成り立つてゐるわけではない。所得税、法人税、消費税、社会保険料。これらが組み合はさり、互ひに支へ合ひ、ときに足を引つ張り合つて、全体の仕組みが出来てゐる。まるで親族会議のやうなものである。
    したがつて問題は、「消費税は善か悪か」といふ道徳劇ではない。どの税で、誰に、どのやうに負担してもらふか、集めたお金(税金)を誰に分配するかといふ税制全体の設計と政治の問題なのである。

    インボイス制度は令和五年十月一日から始まり、複数税率の下で消費税額を正確に計算するため、請求書・領収書等に記載された税率・税額を基に仕入税額控除を行ふ仕組みとされている。
     
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    コラム 百十円の怪談


    ――食べる場所が違へば税も違ふ、しかし財布は同じだけ痩せる
     ハンバーガーを一つ買ふ。店員が、いかにも近代的な笑顔で訊く。「店内でお召し上がりですか、お持ち帰りですか」
     ここで、我々は一瞬、国家財政の深淵を覗き込むことになる。店内で食べれば外食だから消費税十パーセント。持ち帰れば飲食料品の販売だから八パーセント。たかがハンバーガー一つに、憲法は大げさだが、行政法、租税法、そして人間の空腹が一斉に押し寄せるのである。
     
     ところが、いざ財布を開いてみると、お店がマクドナルドならば、どちらも百十円。店で食べても百十円、袋に入れて帰つても百十円。税率が違ふのに、支払ふ金額は同じ。これはもはや税制といふより手品である。しかも、種も仕掛けもある。
     
     ただし、ここで大事なのは、これは税法を曲げてゐるわけではない、といふ点である。店内飲食には十パーセント、持ち帰りには八パーセントを、きちんと適用してゐる。違ふのは税率ではなく、その前に置かれた税抜価格である。つまり、持ち帰り用の商品は本体価格を少し高くし、店内飲食用の商品は本体価格を少し低くする。その結果、最後に客が払ふ税込価格だけが同じになる。税法の眼から見れば、これはインチキではなく、価格設定の工夫である。いはば、法の裾を踏まずに、商売人がうまく廊下をすり抜けたのである。

     
     たとへば、持ち帰りなら本体価格を百二円にして、そこへ八パーセントを掛ける。すると税込百十円。店内飲食なら本体価格を百円にして、そこへ十パーセントを掛ける。これまた税込百十円。つまり、税率が違ふ分だけ、本体価格をそつと動かしてゐるのである。税法の舞台裏で、価格が足袋をはいて忍び歩いてゐる。
     
     客の方は、レジで百十円を払ふだけだから気が楽である。店としても、「こちらでお召し上がりになるなら百十円、お持ち帰りなら百十円、ただし内訳は違ひます」などと、禅問答のやうな説明を毎回する必要がない。もし正直に価格を分ければ、昼時のレジは混乱し、後ろの客は不機嫌になり、店員は疲れ、国家への信頼はさらに少しばかり目減りする。
     
     もっと厄介なのは、「持ち帰ります」と言つて八パーセントで買つた客が、気が変つて店内の椅子に腰を下ろす場合である。これは税法上、なかなか風流な事件である。人間の心変りに税率が追ひつくのか。ポテトをつまむ手を、国税庁はどこまで見張るのか。まことに、近代国家の悩みは小さいやうで大きい。
     
     そこで多くの外食チェーンは、税込価格を同じにすることにした。日本マクドナルド、すき家、ケンタッキーフライドチキンなどが採つた、いはば「百十円の平和条約」である。客は迷はず、店は揉めず、レジは流れる。めでたしめでたし、と言ひたいところだが、レシートを見ると、そこには別世界が顔を出す。
     
     同じ百十円なのに、内消費税額が八円であつたり十円であつたりする。財布から出て行く硬貨は同じ、しかし税法上の素性は違ふ。まるで、同じ背広を着た双子のうち、一人は華族、一人は町人、といふやうなものである。
     
     この話の可笑しみは、軽減税率が「消費者の負担を軽くする」ための制度であつたはずなのに、実際の店頭では、消費者の目に見える価格は同じになることがある、という点にある。軽くなつたのは税率であつて、財布とは限らない。ここを間違へると、税制の説明はすぐ道徳の作文になつてしまふ。
     
     消費税は、数字だけを見れば八パーセントと十パーセントの差である。だが現場では、レジの行列、客の気分、店員の手間、表示価格の分かりやすさ、そして「持ち帰ると言つたぢやないか」といふ小さな正義感までが絡み合ふ。税法は紙の上で生まれるが、税金はレジ前で生きてゐるのである。
     
     百十円のハンバーガーは、だから小さな租税教室である。パンのあひだに挟まつてゐるのは、肉だけではない。そこには、軽減税率の建前と実務の都合、財務省の理屈と商売人の知恵、そして、腹の減つた国民の沈黙が、薄いピクルスのやうに挟まつてゐるのである。
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    出典:財務省資料を基に筆者作成
    注:概算であり、個別事情により異なる
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    第三部 国家の金庫に棲む税

    戦後日本の財布を開け

    第12章   日本の税制はどのやうに作られたのか

    いまの日本の税制は、はじめからこの姿で生れてきたわけではない。税制といふものは、できあがつてから眺めるといかにも昔からそこにあつたやうな顔をしてゐるが、実際にはその時代その時代の都合で、切られ、貼られ、継ぎ足されてきたものである。古い家の増築部分に似てゐる。玄関は明治、台所は昭和、風呂場だけ平成、バスタブは令和といふ具合である。
    日本の税制も同じで、明治以来、地租だの営業税だの所得税だの相続税だのを少しづつ積み重ねてきた。つまり、最初からサラリーマンの給料をきれいに捕まへて、毎月きちんと天引きするために作られた制度ではない。
    戦前の日本では、いまよりも税のかかり方が少しちがつてゐた。土地を持つ者、家屋を持つ者、商売をする者、それぞれのところへ税の手が伸びた。むろん税務署は昔から勤勉であつたが、現在ほど給与所得者を整然と捕捉する仕組みではなかつた。
    ここで見落してはならぬのは、戦前から戦後間もないころの都市生活には、勤め人でありながら小さな資産を持つといふ余地が、いまよりはあつたらしいことである。たとへば、都内に小さな貸家を一、二軒持ち、給料のほかに家賃が入るサラリーマンがゐた。現代人が聞けば、ほとんど昔話である。桃太郎が鬼退治へ行く途中で、渋谷区に貸家を買つた、と言はれるのと同じくらゐ遠い。
    もちろん、戦前の社会を桃源郷のやうに描くつもりはない。貧富の差は大きかつたし、地主制もあり、農村には農村の苦しさがあつた。だが、それでも生活の形は、いまより少し複線的であつた。給料だけではない。家賃があり、小商ひがあり、土地があり、家族の助け合ひがあつた。よく言へば生活に厚みがあり、悪く言へば雑然としてゐた。だが、社会にとつて雑然としてゐることは、必ずしも悪ではない。きれいに整理された机ほど、仕事が進まぬこともある。
    ところが戦争になると、税制はがらりと顔つきを変へる。戦費を集めるため、国家は国民の所得や財産をより強く把握しようとする。税は、平時には財政の道具であるが、戦時には動員の道具になる。財布の中まで国家総動員である。
    そして敗戦である。日本の税制は、焼け跡の中で、占領軍の視線を受けながら作り直されることになつた。
    その中心に登場するのが、アメリカの経済学者カール・シャウプである。一九四九年、シャウプを長とする税制使節団が来日し、日本の税制を全面的に見直した。これが、いはゆるシャウプ勧告である。名前だけ聞くと、クリームを挟んだ洋菓子のやうだが、中身はなかなか辛口である。
    シャウプの考へは、表面上はじつに明快であつた。税制の中心は所得税に置くべきである。所得の多い者は多く、少ない者は少なく負担する。累進的な所得税によつて、公平で透明な税制を作る。なるほど、教科書としてはたいへん立派である。黒板に書けば、学生は素直にうなづくであらう。今でも所得の再配分を重視する税法学者は少なくない。
    しかし、税制は黒板の上だけで生きてゐるわけではない。人の財布、家族の暮し、町の商売、土地や家屋の持ち方に食ひ込んでくる。そこを忘れると、どんな立派な理論も、急に役所の作文めいてくる。
    シャウプ税制は、よく「戦後日本に公平な近代税制をもたらした」と説明される。まるきり間違ひではない。だが、まるきり正しいわけでもない。ここは少し意地悪く眺めた方がよい。
    なにしろ、それは占領下の改革であつた。敗戦国の社会を作り替へる大きな仕事の一部である。占領軍が、親切な家庭教師のやうに「日本の皆さん、これが公平な税制ですよ」と教へてくれた、とだけ考へるのは、少しお人好しに過ぎる。家庭教師は家庭教師でも、家計簿と鍵束を握つてゐる家庭教師である。
    シャウプ税制は、所得を税制の中心に置いた。働いて得た所得、事業から得た所得、資産から得た所得を、できるだけ包括的に捕まへる。そこには公平といふ旗が立つてゐる。旗は美しい。だが、その旗の下で、国家は個人の所得を正面から把握する仕組みを強めた。
    とりわけ給与所得者は捕まへやすい。源泉徴収によつて、給料は本人の手に渡る前に一部が差し引かれる。納税者は税を払ふ前に、すでに払つてゐる。これは実に見事な仕組みである。見事すぎて、少しこはい。
    源泉徴収といふ制度は、税務行政から見ればたいへん優秀である。納税者が財布を開く前に、会社が代りに税を差し引いて納めてくれる。税務署にとつては、これほど気の利いた仕組みはない。全国の勤め人が、毎月、ほぼ自動的に納税してくれるのである。しかも本人は、税を納めたといふ痛みを比較的感じにくい。痛みを感じる前に、すでに手取り額として提示されてゐるからである。麻酔の効いた徴税とでも言ふべきか。
    この制度が本領を発揮するには、社会の人口構成も大きく関はる。戦後日本では、農村から都市へ人口が移り、会社に勤める人が増えた。家業や小商ひで暮らす人より、給与を受け取る人が社会の中心になつてゆく。つまり、税務署から見れば、国民が一人一人ばらばらの小商人であるより、会社といふ大きな網にまとまつて入つてくれた方が、はるかに扱ひやすい。
    高度成長期の日本は、まさにこの方向へ進んだ。若い人口が多く、働く世代が厚く、企業は人を雇ひ、勤め人は毎月給料を受け取る。源泉徴収制度にとつては、これ以上ない好環境である。税は会社を通じて整然と集まり、国家財政は安定する。サラリーマン社会とは、生活様式であると同時に、徴税様式でもあつた。
    だが、人口構成が変はると、この仕組みの見え方も変はつてくる。高齢者が増え、現役世代が細り、給与所得者の肩に社会保険料と税が重くのしかかる。若い勤め人から見れば、給料明細はもはや紙片ではない。国家財政、社会保障、少子化、老後不安が一枚に圧縮された、たいへん陰気な短編小説である。
    戦前であれば、給料のほかに小さな貸家を持つ、家族で小商ひをする、土地や家屋から細い収入を得る、といふ暮し方がまだ想像できた。もちろん、それは万人に開かれてゐたわけではない。しかし、戦後の所得税中心主義は、人びとをしだいに「給与を受け取り、源泉徴収され、年末調整される存在」へと整へていつた。
    これは近代化である。たしかに近代化である。しかし近代化といふ言葉は便利で、たいてい少し乱暴なことも包み込む。人を自由にする近代化もあれば、人を帳簿の中にきちんと収める近代化もある。
    ここで、勤労者への課税の流れを少し整理しておきたい。
    戦前の所得税は、いまのやうに会社員の給料を毎月きれいに天引きして、それで一件落着といふ姿ではなかつた。明治以来の所得税は、もともと富裕層や事業者を主な相手にしてゐた。ところが戦争が深まるにつれ、国はもつと広く、もつと確実に税を集める必要に迫られる。そこで昭和十五年の税制改正で、勤労所得にも源泉徴収の仕組みが入つてくる。つまり、給料袋が本人の手に渡る前に、国家がそつと先に手を入れる仕組みである。そつと、と言つても制度としては堂々たるもので、手品師よりよほどあからさまである。
    ただし、この段階の源泉徴収は、戦時国家の徴税技術としての性格が濃かつた。戦費を集めるためには、納税者一人一人を追ひかけるより、会社を通じて集めた方が早い。国から見れば、勤め人は散らばつた小魚ではなく、会社といふ網に入つた魚である。網ごと引き上げれば、徴税はぐつと楽になる。
    敗戦後、シャウプ勧告はこの仕組みをそのまま礼讃したわけではない。むしろ、所得税は本来、納税者自身が所得を把握し、申告する制度であるべきだといふ考へがあつた。給与所得者にも税を意識させ、申告納税の精神を育てる。それが建前である。建前は立派だ。日本家屋なら床の間に飾つてもよい。
    しかし現実は、建前どほりには進まない。給与所得者全員に毎年きちんと申告させるとなると、税務署も会社も納税者も大騒ぎになる。そこで源泉徴収と年末調整は、戦後も生き残り、むしろサラリーマン社会の基礎装置になつた。勤め人は、税を自分で納める前に、給料から差し引かれる。国家は、本人に納税の痛みをあまり感じさせず、しかも確実に税を集めることができる。たいへんよく出来た仕組みである。よく出来すぎてゐる、と言つてもよい。話は逸れるが、そもそも政治とは、国民から集めたお金をだれにどのように配るかということを決めることだといても過言ではない。納税を意識させない源泉徴収制度は、投票率が低迷する原因の一つかもしれない。
    話を戻して、金融課税との対比を置くと、話はいよいよ面白くなる。給料は会社を通じてほぼ正確に捕捉される。一方、利子や配当、上場株式や投資信託の譲渡益といつた金融所得は、時代によつて非課税制度があつたり、源泉分離課税になつたり、申告分離になつたり、実に器用に姿を変へてきた。給料は几帳面に捕まへ、金融所得にはときに別の通路を用意する。これでは、勤め人の方が少し不機嫌になるのも無理はない。
    もちろん、金融所得にもそれなりの理屈はある。資本は逃げ足が速い。利子や配当に重く課税しすぎれば、貯蓄や投資をゆがめる。市場の資金の流れを止めるわけにもいかぬ。だから、金融課税を給与所得とまつたく同じに扱へばよい、といふ単純な話ではない。
    しかし、税制の感じ方としては、ここに一つの段差が生まれる。給料は逃げられない。会社が支払ひ、会社が差し引き、会社が納める。ところが資産所得には、制度上、別の扱ひが用意されることがある。働いて得た所得がいちばん捕まりやすく、資産から生じる所得は、政策の都合で扱ひが変はる。これでは、税制が勤労者にだけ妙に律儀であるやうに見える。
    シャウプ税制を考へるとき、この点を忘れてはならない。シャウプ勧告は、公平な総合所得税を理想とした。所得はできるだけ総合し、能力に応じて課税する。理屈としては美しい。だが、現実の日本では、給与所得は源泉徴収でしつかり捕捉され、金融所得は時代ごとに例外や別建ての扱ひを与へられてきた。理想は総合、実務は分流。ここに、戦後税制の小さくないねじれがある。
    したがつて、シャウプ税制をただ「公平で近代的な税制」とだけ褒めて済ませるわけにはいかない。たしかに、それは戦後日本に近代的な所得税の骨格を与へた。しかし同時に、勤め人を捕捉しやすい納税者として制度の中心に据ゑ、給与所得者社会をいよいよ固めた面もある。
    給料をもらふ人は、よく働き、よく捕捉される。利子や配当を受ける人は、制度の設計次第で、別の入口から税制に入る。これを公平と呼ぶか、実務上の便宜と呼ぶか、あるひは近代国家の知恵と呼ぶか。そこに、税制を見る者の立場が出る。
    歴史は陰謀小説ほど筋がよくない。誰かが机の上で日本社会の未来を一枚の図面に描き、その通りに事が運んだ、などと考へるのは、少し話が出来すぎてゐる。だが、占領下の改革であつた以上、それが日本社会をどの方向へ組み替へたのかを問ふのは当然である。公平の名の下に、何が公平になつたのか。透明の名の下に、誰の財布が透明になつたのか。近代化の名の下に、どんな生活の厚みが削られたのか。
    その後、日本は高度経済成長に入る。企業の利益も個人の所得も増え、所得税と法人税は豊かな税収をもたらした。国の財布は元気であつた。サラリーマンもまた、終身雇用と年功賃金の中で、それなりに安定した人生設計を描くことができた。
    ところが一九八〇年代になると、事情が変はりはじめる。高齢化が進み、社会保障費が増え、所得税だけでは安定した財源として心もとなくなる。そこへ登場するのが、中曽根康弘である。
    中曽根内閣のころ、税制改革の合言葉は「重税感の緩和」だの「活力ある社会」だの「直間比率の見直し」だの、今の政治家では思いもつかないであろう、いかにも八〇年代らしい言葉で飾られてゐた。要するに、所得税や法人税の負担を軽くし、そのかわり広く薄い間接税へ重心を移さうといふ話である。レーガンやサッチャーの時代精神も、遠くから潮風のやうに吹いてゐた。税制にも流行がある。ズボンの裾幅ほど目立たぬだけである。
    この時期、所得税の最高税率は引き下げられてゆく。改正前の日本では、所得税だけで最高税率七〇%、個人住民税を合わせると最高八八%に達してゐた。八八%である。十万円余計に稼いでも、上の方では八万八千円を国と地方公共団体が持つて行く勘定になる。
    もちろん、高い所得を得ること自体は悪いことではない。むしろ、才覚を働かせ、リスクを取り、事業を興し、専門能力を磨き、人より多く稼ぐ人がゐるから、社会には活力が生まれる。医師でも、弁護士でも、技術者でも、経営者でも、職人でも、よい仕事をして高い報酬を得ることは、恥づべきことではない。税制は、成功した人を懲らしめるための鞭であつてはならない。
    問題は、どこまでを公平な負担と見、どこからを働く意欲や投資意欲をそぐ過重な負担と見るかである。最高八八%といふ水準は、いくら再分配の必要を認めるとしても、かなり強い累進構造であつた。国家が所得の大部分を取つてしまへば、個人がさらに努力して稼がうとする気持ちは、どうしても鈍る。これは金持ちに甘いといふ話ではなく、人間の行動をどう見るかといふ話である。
    中曽根税制改革は、このきつい累進構造をならすことを大きな看板にした。所得税は最高税率七〇%・十五段階から、最高税率五〇%・五段階へ、個人住民税も最高税率一八%・十四段階から、最高税率一五%・三段階へと簡素化されてゆく。階段の段数を減らし、いちばん上の段を低くする。これは単なる高所得者優遇とだけ見るべきではない。所得税の過度な累進を緩め、働き、稼ぎ、投資する意欲を残すための改革でもあつた。
    ただし、ここで別の問題が生まれる。所得税の累進性を緩めれば、その分の財源をどこかで補はねばならない。そこで、広く薄い間接税、すなはち一般消費課税への関心が高まつてゆく。つまり中曽根税制改革は、高く稼ぐことを罰しすぎない税制へ近づける一方で、税の重心を所得から消費へ移す扉を開いたのである。
    中曽根内閣は、一九八七年に売上税の導入を試みた。所得税減税と売上税創設を組み合はせる構想である。ところが、これは世論の強い反発を受け、政治的には大きくつまづいた。売上税は挫折したが、所得税減税や利子非課税制度、いはゆるマル優の見直しなどは進む。政治の世界では、表門から入れなかつた客が、裏口から少しづつ座敷へ上がることがある。
    この中曽根税制改革は、戦後税制の流れの中でかなり重要である。シャウプ以来の所得課税中心主義を、真正面からではなく、少しづつ後退させたからである。所得税の累進性をゆるめ、法人税も軽くし、そのかわり将来の一般消費課税へ道を開く。つまり「稼いだところで取る」税制から、「使つたところで取る」税制へ、重心が静かに移りはじめたのである。
    そして一九八九年、竹下内閣のもとで、つひに消費税が導入された。中曽根の売上税は倒れたが、その影は消費税となつて帰つてきた。税制改革といふものは、怪談に似てゐる。いちど消えたと思つた話が、名前を変へてまた現れる。
    かうして見ると、税制とは単なる計算技術ではないことが分かる。所得税を中心に据ゑるか。消費税を中心に据ゑるか。資産課税を重んずるか。どこに税の重心を置くかによつて、社会のかたちは変はる。
    戦前の日本には、いまより雑然とした生活の厚みがあつた。戦後の税制は、それを近代的で公平な形に整へた。しかし整へるといふことは、同時に、余白を削ることでもある。
    税制とは、帳簿の技術であると同時に、社会を作り替へる技術でもある。そこを忘れると、税の歴史は急に退屈になる。税制は社会の姿を変へる力を持つてゐるのである。
    ところで、給与所得獨特の税負擔を論ずるに當つて、累進税率のみを問題とするのは片手落ちである。給与所得控除もまた、これに劣らず重要である。たとへ税率を引き下げたところで、給与所得控除額を引き下げれば、實際に手にする所得は減少する。租税負擔の實態は、税率だけによつて決まるものではない。
    しかるに、この點についてマスコミが論ずることは殆どない。高額所得者に對する給与所得控除の引下げは、密かにと言ふより、世人の目に觸れぬやう、靜かに、しかも着々と進められてゐるのである。

    【図表6】給与所得控除の段階的締め付け(2000年代〜現在)
    近年20年ほどの給与所得控除の変遷を見ると、上限額の引き下げと上限適用収入の引き下げが繰り返されてゐる。加えて2020年以降は合計所得1,000万円超で配偶者控除が完全にゼロとなり、2,400万円超では基礎控除も逓減・消滅する。

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    出典:財務省資料を基に筆者作成
    注:概算であり、個別事情により異なる
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    【コラム】給与所得は、金融商品課税に比べ、これだけ負担が重くなつてゐる


    勤労所得に係る税・社会保険料・手取額の一覧表(2025年)

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    出典:財務省資料を基に筆者作成
    注:概算であり、個別事情により異なる
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    前提:独身者・扶養なし、給与所得のみ。所得控除は基礎控除及び社会保険料控除のみ。社会保険料は協会けんぽ東京・40歳未満・介護保険料なし、年俸12か月均等支給・賞与なしの概算。住民税は所得割10%のみとし、均等割・調整控除は省略。
    単位:円
    注:本表は概算資料です。実務上は、給与支給形態、標準報酬月額、賞与、年齢、加入保険、所得控除、住民税の均等割・調整控除等により金額が変動します。
    要旨:年収1,000万円でも、税金約147万円、社会保険料約126万円、合計約273万円が差し引かれ、手取額は約727万円となる。勤労所得の負担は、所得税・住民税だけでなく社会保険料を含めて見る必要がある。
    ①税率の変遷 昭和40年代は最高75%・適用税率55〜65%という超高税率時代でした。昭和62年(1987年)と平成元年(1989年)の「抜本的税制改革」で段階が15→5段階に整理され大幅引き下げ。1999年(平成11年)にさらに4段階・最高37%まで下がり、2007年に6段階・最高40%に再編。2015年から7段階・最高45%(ただし年収1,000万円の適用は33%)が現行制度です。
    ②配偶者控除の変遷 昭和40年の8万円から段階的に引き上げられ、1995年以降は38万円で固定されています。ただし2018年(平成30年)の改正で「本人の合計所得900万円超」から段階的に縮小する仕組みが導入され、年収1,000万円(合計所得900万円超)の場合は実質的に配偶者控除が使えなくなりました(所得1,000万円超でゼロ)。
    ③扶養控除の変遷 配偶者控除と同様に引き上げが行はれてゐたが、1995年以降は38万円(一般扶養)で維持されています。2011年(平成23年)に16歳未満の年少扶養控除(38万円)が廃止されたのが大きな変更点です。
    なお2025年度税制改正では基礎控除を48万円→58万円に引き上げる改正が予定されており、実質的な減税となる見込みです。

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    第13章     消費税導入史――名前を変へて戻つて来た税

    日本の消費税には、妙に人間くさい歴史がある。税制の教科書に書けば、財政再建、直間比率の見直し、高齢化社会への対応、物品税・酒税など個別間接税の整理、といふ四角四面の言葉が並ぶ。どれも間違ひではない。間違ひではないが、それだけでは肝腎のところが抜け落ちる。
    消費税の歴史とは、社会の変化に伴ひ、直接税中心主義だけでは国民の一部に負担が集中しかねぬ事態を踏まへ、政治家が「国民に広く薄く負担してもらひたい」と考へ、国民が「広く薄くなどといふが、結局こちらの財布ではないか」と疑ひ、そのあひだで名前と制度が幾度も衣裳を着替へた物語なのである。
    最初に舞台へ現はれたのは、大平正芳であつた。
    大平正芳といふ人は、派手な身振りで時代を煽る政治家ではなかつた。むしろ、言葉の奥で国家の帳尻と国民生活の行く末を考へ込む、哲学的な政治家であつた。『讃岐の鈍牛』と呼ばれたのも、鈍いからではない。急がば回れ、といふより、急いでも回り道しかないことを知つてゐる人の歩みである。政治家のなかには、風を読んで走る者がゐる。大平は、風の下にある地面の湿り具合まで気にする人であつた。
    石油危機の後遺症は残り、プラザ合意により円高誘導され、社会保障費はふくらみ、税収は落ち込む。一九七五年度の予算編成は苦境に立たされ、大量の赤字国債を発行せざるを得なくなつた。財政が苦しい時には、まず歳出を削るべきである――これは、今日の政治家諸君にも聞かせて差し上げたいほど、古風でまつとうな考へ方である。当時、三木内閣の蔵相を務めてゐた大平にとつて、赤字国債とは、出来れば決して開けたくない非常口であつた。だが、その後、その非常口は、いつの間にか正面玄関のやうに使はれることになる。赤字国債は、常習の酒のやうに、国家財政の食卓へ置かれ始めたのである。
    そこで大平内閣は、昭和五十四年、一九七九年に「一般消費税」の導入を掲げる。名前は正直である。一般に、消費に、税をかける。讃岐の鈍牛らしく、まことに隠し立てがない。隠し立てがなさすぎて、選挙には向かなかつた。
    国民の反応は冷ややかであつた。税を取られること自体も嫌だが、「一般消費税」といふ名がまたいけない。何やら生活の隅々まで役所の手が伸びて来るやうな響きがある。湯豆腐にも、下駄にも、子どもの鉛筆にも、国家がそつと指を置く。そんな感じがする。国民は敏感である。自分の財布の話になると、とりわけ敏感である。
    結局、大平は総選挙の最中に導入断念を表明する。税は、国会で成立する前に、選挙の風で吹き飛ばされたのである。まことに税制史らしい。法律論よりも先に、商店街の空気が勝つた。
    しかし、大平の失敗を、単に選挙下手の一語で片づけるのは酷である。彼が見てゐたのは、その場の票ではなく、これから先の国家財政であつた。国民に嫌はれる税をあへて口にしたところに、大平の律儀さも、悲劇もある。人気取りの政治家なら、財布の話は先送りにする。大平は、その先送りの先に、誰かが必ず請求書を受け取ることや、急激なインフレ、場合によっては、恐るべきスタグフレーションに襲われることを知つてゐたのである。
    しかし、税の亡霊といふものは、一度追ひ払つたくらゐでは消えない。しばらく経つと、名前を変へ、顔を変へ、また玄関先に立つてゐる。
    次に登場したのが、中曽根康弘の「売上税」である。
    中曽根は大平とは違ひ、いかにも舞台映えのする政治家であつた。戦後政治の総決算、行政改革、国鉄民営化、ロン・ヤス関係。言葉が大きく、背広も大きく、構へも大きい。税制にもまた、大きな改革を試みた。
    昭和六十二年、一九八七年、中曽根内閣は売上税法案を国会へ提出する。所得税や法人税を軽くし、広く薄い間接税を入れる。筋書きとしては、なかなか整つてゐた。だが、政治の世界では、筋書きが整つてゐることと、拍手が起ることとは別である。
    「売上税」といふ名も、また運が悪かつた。売上に税がかかると聞けば、商人は身構へる。八百屋も魚屋も町工場も、「これはうちの帳場に直接手を突つ込む税ではないか」と思ふ。大型間接税反対の声は、野党だけでなく、業界団体からも噴き上がつた。
    中曽根は、税制改革を大きな国家改造の一部として考へてゐたのだらう。だが、国民の耳には、国家改造よりもレジの音の方がよく聞こえる。理想は霞が関から見える。負担は台所から見える。見える場所が違へば、景色も違ふ。
    売上税は、結局、統一地方選の逆風もあり、廃案となつた。中曽根ほどの政治家でも、この税を通すことは出来なかつた。税制改革といふものは、剣豪が斬り込めば勝てるといふものではない。相手は野党だけではない。国民の不機嫌と、商店街の疑心暗鬼と、新聞の大見出しである。これはなかなか手強い。
    そして竹下登である。
    竹下は、大平の哲学的な重さとも、中曽根の華やかさとも違ふ政治家であつた。人当たりは柔らかく、言葉は丸く、笑顔は低姿勢である。いかにも「まあまあ」と言ひながら、いつの間にか物事を前へ進める。記者に囲まれても、敵に詰め寄られても、声を荒らげない。話は明瞭である。発音も明瞭である。だが、聞き終へた者が「で、結局何を言つたのか」と首を傾げることがある。世にこれを「言語明瞭、意味不明」と呼んだ。なかなか失礼な評であるが、当つてもゐる。
    しかし政治においては、意味が明瞭すぎる言葉ばかりが役に立つわけではない。あまりにはつきり言へば、敵を作る。曖昧に言へば、味方も敵も、ひとまづ座敷に残る。竹下の言葉は、雲のやうに柔らかく、しかし気がつくと山を越えてゐる。税制改革には、時にかういふ人が向いてゐる。大声で押すより、座布団を少しづつ動かす方が効くことがある。
    竹下内閣のもとで、昭和六十三年、一九八八年十二月、消費税法が成立する。そして翌平成元年、一九八九年四月一日、税率三%の消費税が施行された。
    ここで注目すべきは、名前である。
    大平は「一般消費税」と言つた。中曽根は「売上税」と言つた。竹下は「消費税」と言つた。
    この違ひは小さくない。「付加価値税」と呼べば、制度の本質には近い。企業が生み出した付加価値に課税する税なのだから、学問的にはその方が正直である。世界でも Value Added Tax と呼ぶ国が多い。ところが、日本ではこれを「消費税」と名づけた。
    なぜか。
    おそらく、政治の言葉としては、「付加価値税」より「消費税」の方が扱ひやすかつたのである。付加価値税と言へば、企業の帳簿、仕入税額控除、納税義務者、免税点といふ、何やら面倒な役者たちが舞台に出て来る。説明する方も聞く方も、だんだん顔が曇る。
    これに対して「消費税」と言へば、話は一気に単純になる。消費にかかる税です。買物にかかる税です。広く薄く負担する税です。まことに分りやすい。分りやすいが、同時に少し危ふい。なぜなら、この名前は、制度の構造よりも、最終的な負担の見え方を前面に出してゐるからである。
    言ひ換へれば、「消費税」といふ名は、税制上の正確さよりも、政治上の通りやすさを選んだ名前であつた。竹下内閣がこの税を「消費税」といふ名で世に送り出したことは、後の議論を大きく方向づけた。
    名前は、制度の運命を決めることがある。赤ん坊に「剛」と名づけるか「優」と名づけるかで、親戚の期待が少し違ふ。税も同じである。「付加価値税」と呼ばれた税は、企業の活動をめぐる税として理解されたかもしれぬ。しかし「消費税」と呼ばれた税は、家計を直撃する税として受け止められた。どちらも一面の真実である。だが、入口が違へば、迷ひ込む路地も違ふ。
    竹下消費税は成立した。しかし、これで万歳とはいかなかつた。導入直後、リクルート事件の逆風もあり、竹下内閣は退陣へ追ひ込まれる。消費税は生れたが、産婆役の内閣は長くはもたなかつたのである。税制史には、かういふ苦いジョークが多い。
    その後、消費税はしばらく三%のまま据ゑ置かれた。だが、またもや財政は緊迫感を増す。高齢化は進み、社会保障費は膨らみ、税収は景気に左右される。国家財政といふものは、まことに情け容赦がない。家庭の家計簿なら、鰻を我慢する、旅行を一回減らす、といふ手もある。国家の場合、鰻の代りに医療費や年金が並んでゐるから、話がややこしい。
    平成九年、一九九七年、橋本龍太郎内閣のもとで、消費税率は三%から五%へ引き上げられた。正確に言へば、国の消費税四%に地方消費税一%が加はる形である。剣道を得意とした橋本は、行政改革にも財政構造改革にも熱心な、いかにも正面突破型の政治家であつた。髪型まで、どこか財政規律を説いてゐるやうであつた。
    しかし、時期が悪かつた。バブル崩壊後の日本経済は、まだ足腰がしつかりしてゐない。そこへ消費税率引上げ、特別減税の打切り、社会保険料負担の増加、金融不安が重なつた。景気は冷え、金融機関は揺れ、世間には「やはり増税が悪かつたのではないか」といふ記憶が残つた。
    もちろん、九七年不況の原因を消費税だけに押しつけるのは、あまりに単純である。プラザ合意に端を発する米国の対日支配、放漫経営を基因とする金融システムの不安、アジア通貨危機、バブル後処理の遅れ、さまざまな要因が絡んでゐた。だが、国民の記憶といふものは、複雑な因果関係をあまり好まない。「あの時、消費税を上げたら景気が悪くなつた」と覚える。視聴率と販売部数第一主義こたつ記事が得意なマスコミも、さう伝へる。歴史とは、しばしば経済学よりも乱暴な記憶で出来てゐる。
    その後、消費税率引上げは、長く政治の鬼門となつた。誰も必要性を全否定はしない。だが、自分の内閣でやりたいとは思はない。これは政治家として実に自然な感情である。火中の栗は、出来れば他人に拾つてもらひたい。栗はうまいが、火傷はいやである。
    二十一世紀に入り、少子高齢化はいよいよ隠しやうがなくなつた。社会保障の財源をどうするか。現役世代だけに社会保険料を負はせるのか。所得税を上げるのか。法人税を上げるのか。国債で先送りするのか。どの道を選んでも、誰かが怒る。税制とは、怒る相手を選ぶ技術でもある。
    民主党政権の野田佳彦内閣は、社会保障と税の一体改革を掲げ、消費税率を八%、さらに十%へ引き上げる法案を通した。ここで決まつた道筋を、実際に執行したのが第二次安倍晋三内閣である。
    安倍内閣は、二〇一四年四月、消費税率を五%から八%へ引き上げた。アベノミクスで景気を温めやうとしてゐる最中に、消費税で水を差す。これはなかなか難しい手つきである。風呂を沸かしながら、同時に少し水を足すやうなものだ。湯加減を誤れば、家族が文句を言ふ。消費税の増税と同額の所得税減税を行つておけば、といふ悔いは残る。
    八%への引上げ後、景気はもたついた。そこで十%への引上げは二度延期される。政治家は、増税を決める時には財政を語り、延期する時には景気を語る。どちらも正しい。正しいが、聞いてゐる国民としては、レジ前で財布を開けたまま待たされてゐるやうな気分になる。
    そして二〇一九年十月、消費税率はつひに十%となつた。ただし、今回は軽減税率が導入された。酒類と外食を除く飲食料品、そしてなぜか定期購読の新聞などが八%に据ゑ置かれた。単一税率を基本とする消費税制は、ここで歪められ、少しややこしくなる。十%と八%が同じレジの上で踊る。弁当は八%、店内で食べれば十%。新聞は定期購読なら八%、駅売りなら十%。税制が生活に近づくと、しばしば落語の題材に近づく。
    かうして見ると、消費税の歴史は、まことに執念深い。
    大平の一般消費税は、選挙で倒れた。中曽根の売上税は、国会で倒れた。竹下の消費税は、成立したが、内閣を道連れにした。橋本の五%は、不況の記憶を背負つた。安倍の八%、十%は、延期と軽減税率と景気対策を連れて来た。
    税は制度である前に、政治の試練である。とりわけ消費税は、国民全員の買物に姿を現はす。所得税なら、源泉徴収で痛みを麻痺させることも出来る。法人税なら、企業会計の帳簿の奥へ入つて行く。相続税なら、人生の最後にだけ顔を出す。ところが消費税は、豆腐にも、靴下にも、床屋にも、子どもの菓子にも現はれる。毎日、何度も、小銭の形で国民に挨拶する。嫌はれるには十分な勤勉さである。
    しかし、嫌はれることと、不要であることとは違ふ。
    この税が何度倒されても、名前を変へて戻つて来たのは、単に財務省がしつこいからではない。もちろん、財務省はしつこい。これは認めてよい。だが、それだけではない。所得税と法人税だけでは支へきれない社会になつたこと、個別間接税では経済の構造に合はなくなつたこと、高齢化によつて安定財源が求められたこと、そして、勤労所得への課税だけでは公平を保ちにくくなつたこと。これらが、何度もこの税を舞台へ呼び戻したのである。
    消費税は、名を変へて戻つて来た税である。
    一般消費税として現はれ、売上税として拒まれ、消費税として生き残つた。
    その本名を、あへて学問風に言へば、付加価値税である。
    だが、日本では、いまも多くの人がこの税を「消費税」と呼ぶ。そこに、この国の税制論議の面白さと、ややこしさがある。制度の正体は付加価値税、政治上の名前は消費税、国民の実感は生活税。三つの顔を持つ税が、レジの脇で今日も静かに待つてゐる。
    政治家がこの税を語るなら、まずその三つの顔を見分けねばならぬ。さもないと、また同じ議論が繰り返される。
    「消費税は庶民いじめだ」
    「いや、社会保障の財源だ」
    「いや、企業が払ふ税だ」
    「いや、消費者が負担する税だ」
    どれも少しづつ正しく、どれも少しづつ足りない。
    消費税の歴史とは、その足りなさをめぐる政治の歴史である。そして政治家にとつては、なかなかよい試験問題でもある。答案用紙は国会にあり、採点者は国民である。しかもこの採点者は、ふだんは黙つてゐるが、選挙の日になると急に厳しい。そこが、税制民主主義の恐ろしいところであり、頼もしく、また少しひ弱なところでもある。
     

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    第13章      労働に税をかけない社会

    日本の税制では、働いて得た所得にも税がかかる。いはゆる給与所得税である。会社員なら、毎月の給料明細を見て、手取り額のあたりで一度ため息をついた経験がおありだらう。ため息にも課税されぬだけ、まだ親切かもしれぬ。
    しかし、ここで一つの疑問が生まれる。そもそも、労働に税をかける必要があるのか。
    日本経済を支へてゐるのは、企業の看板でも、官庁の庁舎でもない。朝起きて満員電車に乗り、工場へ行き、店を開け、机に向かひ、客先へ走り、夕方には少し疲れて帰る、あの働く人びとである。
    もし労働所得に課税しなければ、可処分所得は大きく増える。財布に余裕ができれば、人は少し機嫌がよくなる。機嫌がよくなれば買物もする。家電も買ふ。旅行にも出る。子どもの塾代も払ふ。場合によつては本まで買ふ。
    そこで、次のやうな発想が生まれる。給与所得や事業所得、すなはち働いて得た所得には所得税を課さない。一方で、利子所得、配当所得、不動産所得、譲渡所得といつた資本所得には従来どほり課税する。
    つまり、金が金を生む所得、資産が資産を生む所得には課税する。汗が汗を生む所得には課税しない。なかなか筋が通つてゐる。
    もちろん、ここで財務省的な眉の動きをする読者もゐるかもしれぬ。理想は結構だが、金はどこから出るのか、と。まことにもっともである。理想主義者にも帳簿は要る。
    仮に勤労所得への課税を大きく軽減するなら、その穴はどこかで埋めねばならぬ。候補の一つが消費税である。消費税は捕捉しやすく、税収が比較的安定してゐる。税の重心を労働から消費へ移す、といふ発想である。
     
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    【コラム】給与所得控除五十年記


    ――昭和の恩寵、平成の刈込み、令和の小細工
    給与所得控除といふものは、早い話が、俸給取に與へられた「見なし経費」である。商人ならば帳簿を開き、領収書を束ね、これは仕入でござる、これは交際費でござる、これはどうしても必要な支出でござる、といふ具合に、所得から経費を差し引くことができる。ところが勤め人はさうは行かない。背広も靴も、鞄も新聞も、部下との珈琲代も、世渡りのための本代も、なかなか必要経費とは言つてもらへない。
    そこで税法は、まことに親切な顔をして、給与収入から一定額を差し引いてやらう、と言つた。これが給与所得控除である。尤も、税法の親切といふものは、いつたいに姑の親切に似てゐて、ありがたいのか恐ろしいのか、受け取る側には判じかねるところがある。
    昭和五十一年、すなはち一九七六年頃の給与所得控除は、いまから見るとなかなか鷹揚な制度であつた。昭和四十九年改正によつて、それ以前に存在した控除額の上限が取り払はれ、給与収入が増えれば控除額もそれなりに増えるといふ仕組みになつてゐたのである。つまり、当時の給与所得控除は、青天井とは言はぬまでも、ずいぶん空の高い控除であつた。
    この時代には、給与所得者に対する同情がまだ税制の中に生きてゐた。高度成長の果てに会社員は増え、賃金も上がつたが、所得税の累進税率は今よりずつと峻烈である。しかも給与所得者は、源泉徴収と年末調整によつて、懐の底までお上に覗かれてゐる。自営業者ならば、収入と経費のあはひに多少の霞を漂はせることもできようが、俸給取には霞どころか薄靄もない。月給袋の中身は、最初から役所に知られてゐるのである。
    かうした不満をなだめるために、給与所得控除は単なる経費控除を越へて、サラリーマン減税の役目を帯びることになつた。いはば、税務署に丸裸にされる会社員へ渡された、せめてもの浴衣である。
    昭和五十年代から平成の初めにかけても、給与所得控除はたびたび手直しされた。昭和五十五年、昭和五十九年、平成元年、平成七年など、所得税の減税や税率構造の見直しに伴つて、控除額も調整された。もっとも、この時期の給与所得控除は、実際の勤務経費を精密に反映する制度といふより、中間層の税負担を和らげるための便利な仕掛けであつた。税制といふ大きな舞台において、給与所得控除は、主役ではないが、出番の多い脇役であつたと言へよう。
    昭和六十三年には、特定支出控除といふ制度も導入された。これは、給与所得者であつても、勤務に必要な支出が特に多い場合には、実額で控除を認めようといふ趣旨の制度である。名前だけ聞けば、会社員にも経費控除の春が来たやうに思へる。だが、現実には要件が厳しく、利用者は長らくごく少数にとどまつた。花は咲いたが、見に来る人がゐない。さういふ制度であつた。
    平成に入つても、しばらくの間、給与所得控除は比較的手厚いままであつた。ところが、平成も二十年を過ぎる頃になると、風向きが変はる。政府税制調査会あたりから、給与所得控除は実際の勤務経費に比べて大き過ぎるのではないか、主要国と比べても過大ではないか、といふ声が出始める。なるほど、税制の議論では、手厚い控除は、いつの間にか「過大な控除」と呼び名を変へる。恩恵が長く続くと、財務当局の目には贅沢品に見えてくるのである。
    転機は平成二十四年度改正であつた。平成二十五年分以後、給与収入が一千五百万円を超へる者について、給与所得控除額は二百四十五万円で打ち止めとされた。昭和四十九年以来、長く続いてきた上限なしの世界に、ふたたび天井が設けられたのである。空は急に低くなつた。高額給与所得者に対して、もうそれ以上の概算経費は要らぬであらう、といふわけである。
    その後、この天井はさらに低くなる。平成二十八年分以後には上限が引き下げられ、平成二十九年分からは、給与収入一千万円超の場合、給与所得控除額は二百二十万円で頭打ちとなつた。かつては収入が増えれば控除も増えるといふ、おおらかな仕組みであつたが、ここに至つて、給与所得控除は明らかに高所得者から削られる対象となつた。
    そして令和二年分、すなはち二〇二〇年分から、大きな組替へが行はれた。給与所得控除額は原則として一律十万円引き下げられ、最低控除額は六十五万円から五十五万円へ下がつた。また、控除額の上限がかかる給与収入も、一千万円超から八百五十万円超へ引き下げられ、上限額も二百二十万円から百九十五万円となつた。ずいぶん手際のよい刈込みである。
    ただし、これは単純な増税といふより、基礎控除との組替へを伴ふ改正であつた。給与所得控除を十万円下げる一方、基礎控除を十万円上げる。財布の右ポケットから左ポケットへ十円玉を移して、「ほら、全体としては変はりません」と言ふやうなものである。給与収入八百五十万円以下の一般的な給与所得者については、大きな負担増にならぬやう設計された。しかし、八百五十万円を超へる給与所得者については、子育て世帯等への配慮を除けば、実質的に増税であつた。
    令和に入つてからの給与所得控除は、もはや昭和の頃のやうなサラリーマン減税の象徴ではない。むしろ、基礎控除、扶養控除、配偶者控除、年収の壁といつた、細かな制度調整の道具箱の一つとなつてゐる。
    令和七年度税制改正では、給与所得控除の最低保障額が五十五万円から六十五万円へ引き上げられた。さらに令和八年度税制改正では、最低保障額が六十五万円から七十四万円へ引き上げられることになつた。ただし、これは高所得者に対する恩典ではない。給与収入が二百二十万円を超へる層については、基本的に改正は及ばない。主眼は、低所得層、パート層、いはゆる「年収の壁」に近い人々への配慮である。
    さう考へると、昭和五十一年から令和八年までの給与所得控除の歴史は、なかなか人間臭い。昭和の給与所得控除は、税務署に所得を完全捕捉される勤め人への慰撫であつた。平成後半の給与所得控除は、高所得者に対する過大な控除として目を付けられ、少しづつ削られていつた。そして令和の給与所得控除は、年収の壁を調整するための政策的な小道具となつた。
    同じ給与所得控除といふ名前を掲げながら、その役割は時代とともにずいぶん変はつたのである。
    かつてそれは、俸給取に差し出された一枚の浴衣であつた。平成の終りには、その裾を少しづつ切られた。そして令和に至つては、壁際に立つ人のために、寸法を測り直されてゐる。
    税制とは、まことに衣裳持ちである。ただし、着せられる方は、いつも少し寒い。給与所得控除の上限額と上限適用収入は段階的に見直されてきた。勤労所得への課税を考へるうへで重要な背景である。
    この制度では、働くことそのものに対する税は軽くなる。税は主として、資本所得と消費に対して課されることになる。言ひ換へれば、努力より結果に、労働より享受に、汗より使用に課税するのである。少し詩的に言へば、朝の通勤電車には課税せず、夜の買物袋に課税する税制である。
    これは一つの思想である。制度論である前に、価値判断である。
     #創作大賞2026 #ビジネス部門

    入と控除の関係:「年収の壁」イラスト
    900万円・1,000万円・2,400万円の各ラインで控除が段階的に消えていく様子を示す。

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    出典:財務省資料を基に筆者作成
    注:概算であり、個別事情により異なる
    #創作大賞2028 #ビジネス部門


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    出典:財務省資料を基に筆者作成
    注:概算であり、個別事情により異なる
    #創作大賞2026 #ビジネス部門


    稼げば稼ぐほど控除が消える構造。「働く意欲」への課税、とも言える。
     
     
     
     
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    第14章     労働者に重い税は社会を弱くする

    所得税といふものは、しばしばたいへん立派に説明される。
    「所得の再分配のための税である。」
    なるほど、いかにも正義の匂ひがする。高い所得を得る者からより多く取り、その税収を社会保障や公共サービスにまはす。富の偏りをやはらげ、社会の均衡を保つ。近代国家の税制として、まことに筋の通つた考へ方である。
    これを全面的に否定するつもりはない。正義といふものは、たいてい多少は必要である。塩や胡椒と同じだ。
    しかし、ここで一つの問題がある。しかも、かなり現実的な問題である。いったい誰に税がかかつてゐるのか。
    現在の日本では、所得税収の多くは、言ふまでもなく給与所得者から集められてゐる。源泉徴収といふ仕組みのおかげで、逃げ足の速い所得より、逃げ足の遅い給料の方がつかまへやすい。税務行政にも、獲物を選ぶ勘がある。
    しかも負担が重いのは、超高所得者だけではない。むしろ広く厚く負担してゐるのは、いはゆる中間所得層である。この層こそ、日本社会の背骨である。
    朝起きて会社へ行き、仕事をし、家賃や住宅ローンを払い、食料品を買ひ、子どもを育て、たまには外食もする。選挙にも行く。親の介護もする。まことに忙しい。社会の土台を支へてゐるのは、たいていこの人びとである。評論家ではない。
    ところが、この層への税負担が重くなると、生活の余裕は少しづつ失はれてゆく。財布の余裕がなくなると、人は心の余裕まで削られる。そこがつらい。
    日本では、一九九〇年代以降、中間所得層の可処分所得は、あまり勢ひよく伸びてゐない。その一方で、社会保険料、税負担、住宅費、教育費などの負担は増えてきた。人生に必要なものほど高くなる、といふのは、なかなか皮肉な現象である。
    その結果、若い世代が家庭を持つことは、以前よりずつと難しくなつた。恋愛は勢ひで始まることがあつても、結婚は家計簿の協力を要する。
    現在、日本では少子化が大問題になつてゐる。原因は一つではない。価値観の変化もある。雇用の不安定化もある。自由な生き方を望む人も増えた。これはこれで結構なことである。しかし、経済的要因も無視できぬ。
    もし若い世代の可処分所得が増えれば、結婚や出産の選択はしやすくなる。子どもは可愛いが、無料ではない。ここに現代社会の悩みがある。
    消費税の議論は、単なる税率論争ではない。八%か十%か、あるいはゼロか、といふ算数だけではない。それは、どんな社会に住みたいのか、といふ問いでもある。
     
    年収の変化と税、社会保険の負担一覧

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    出典:財務省資料を基に筆者作成
    注:概算であり、個別事情により異なる
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    *年収600万円までは、税金の合計額よりも社会保険料の方が高いことに注意。

     

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    出典:財務省資料を基に筆者作成
    注:概算であり、個別事情により異なる
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    第15章      社会保険料といふ、静かな重税

    ――若い世代の肩に、国が少し乗りすぎてゐる――
    消費税の話になると、世間はすぐに騒がしくなる。
    八%だ、十%だ、いや五%に戻せ、いっそ廃止せよ、といふ声が飛び交ふ。政治家や評論家諸君も、レジの前で主婦が眉をひそめる場面を思ひ浮かべながら、いかにも庶民の味方でござい、といふ顔をする。なかなか結構なことである。庶民の味方は、多いに越したことはない。選挙前には、とくに増える。
    たしかに、消費税は目につく。豆腐を買つても、靴下を買つても、子どもの菓子を買つても、そこに税がついてくる。レシートの下の方に、まるで小姑のやうにきちんと控へてゐる。まことに勤勉な税である。毎日、何度も、国民に挨拶をする。嫌はれるには十分な礼儀正しさである。
    しかし、国民の財布を本当に重くしてゐるものは、消費税だけではない。いや、むしろ本当の重荷は、もつと静かな顔をして、給与明細の中に座つてゐる。
    その名は社会保険料。
    この名前が、また少し曲者である。所得税、住民税といへば、誰でも「ああ、取られてゐる」と分る。ところが社会保険料といふと、どこか柔らかい。保険と聞けば、将来の安心のために掛けてゐるやうな気がする。料と聞けば、役所に取られる税ではなく、なにやらサービスの対価のやうにも聞こえる。
    だが、ここで少し意地悪く、しかし正確に眺めてみる必要がある。社会保険料とは、本当に「保険料」なのか。
    民間の保険なら、入るか入らぬかは、ひとまづ本人の自由である。保険料を多く払へば、それに応じた保障があり、嫌なら契約しないといふ道もある。もちろん、人生はさう簡単ではないが、少なくとも建前は契約である。
    ところが社会保険料は、さうではない。会社に勤めれば、厚生年金や健康保険に原則として加入する。本人が「今月は少し懐が淋しいので、年金は遠慮します」と言つても、そんな気の利いた制度にはなつてゐない。給料から自動的に差し引かれる。まことに礼儀正しく、まことに逃げ道がない。
    しかも、その負担は賃金に比例して重くなる。給料が上がれば、社会保険料も上がる。人を雇へば、会社負担も増える。これは実質的には、労働にかかる税である。名前は保険料、姿は天引き、働きは税。なかなか見事な三段変化である。消費税が賃金の伸びを圧迫してゐると強弁する御仁はなぜか社会保険料には言及しない。経営者は採用に当たり、報酬額を算定するのに必ず考慮するのが会社負担を含めた社会保険料である。それ故、働き盛りの若者の手取額を圧迫してゐる真犯人は社会保険料なのである。
    もちろん、社会保険料には給付との対応がある。年金、医療、介護、雇用保険は、たしかに社会保障の仕組みであり、そこには助け合ひの理念がある。だから、これを所得税や消費税とまつたく同じものだと言ひ切るのは、少し乱暴である。
    しかし、給与明細の上では、話は別だ。働く人の手取りを減らし、会社の雇用費用を増やし、国家が制度として強制的に集める。この三つを備へてゐる以上、社会保険料は、少なくとも経済的には税にきはめて近い。
    いや、むしろ若い勤労者にとつては、所得税よりも重く感じられることがある。所得税は控除や税率の仕組みによつて、低所得のうちは、まだ軽い。しかし社会保険料は、若い会社員の給料にも、かなり早い段階からしつかり乗つてくる。まだ貯金もなく、家もなく、子どももなく、未来だけが妙に高価な時期に、社会保険料は律儀にやつて来る。
    泥棒は夜に来る。社会保険料は給料日に来る。そして、来たことを誰も不思議に思はない。
     
    若い会社員が給料日に明細を見る。額面は、まあ悪くない。少しは働いた甲斐もあつたかと思ふ。ところが、そこから所得税、住民税、厚生年金、健康保険、雇用保険が順に顔を出す。まるで親戚の法事で、思つたより人数が多かつた時のやうである。ひとりひとりは大したことを言はないが、全員に挨拶してゐるうちに、こちらの精気が吸ひ取られる。
    そして最後に残るのが、手取りである。額面はまともな金額であつたのに、手取りになるころには、唖然とする金額になつてゐる。
    ここに、いまの日本の厄介な問題がある。

    【図表】年収別に見た税と社会保険料の重さ

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    出典:財務省資料を基に筆者作成
    注:概算であり、個別事情により異なる
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    独身・扶養家族なしの会社員を前提に、年収ゼロから一千万円まで百万円刻みで、所得税と住民税の合計、本人負担の社会保険料、手取額を概算すると、次のやうになる。数字は万円単位で丸めた。

    前提:令和八年度、東京都の協会けんぽに加入する四十歳未満の会社員(介護保険料なし、子ども・子育て支援金を含む)、一般の事業の雇用保険料率、賞与なしで年収を十二等分した概算。所得税は令和七年分以後の基礎控除・給与所得控除、復興特別所得税込み。住民税は所得割一〇%・均等割等六千円を置いた概算。生命保険料控除等は考慮しない。
    この表を見ると、年収七百万円では、所得税・住民税の合計が約六十六・三万円であるのに対し、社会保険料は約百四・〇万円である。差は約三十七・六万円。七百万円どころか、この前提では九百万円でも、まだ社会保険料の方がわづかに重い。給与明細とは、なかなか容赦のない読み物である。
    会社負担分についても、少し見ておきたい。社会保険料は労使折半である、と言はれる。これを聞くと、「会社が半分払つてくれるのだからありがたい」と思ふ人もあるかもしれぬ。
    しかし、世の中はそこまで甘くない。会社が負担する保険料も、広い意味では人を雇ふ費用である。給料として払へたかもしれない金が、別の出口から出て行く。表札には「会社負担」と書いてあるが、家の中では人件費の一部である。会社の金庫に、小人が住んでゐて勝手に払つてくれるわけではない。
    つまり社会保険料は、働くことにかかる税に近い。人を雇へば負担が生じる。給料を上げれば負担も増える。若い人が働き、結婚し、子を育てようとすると、その入口で、毎月きちんと天引きされる。
    この「きちんと」が、なかなか怖い。税務署の仕事も、年金機構の仕事も、かういふ時だけは実に正確である。郵便物は時々迷子になるが、天引きは迷子にならない。
    少子化の話になると、よく「若者の価値観が変はつた」と言はれる。たしかに変はつた。結婚観も、家族観も、働き方も変はつた。自由な生き方を選ぶ人が増えた。それ自体は悪いことではない。人は国家の人口表を埋めるために恋をするわけではない。
    しかし、何でも価値観のせゐにするのは、少し横着である。
    二十代、三十代の若者は、冷たくなつたのではない。夢を見なくなつたのでもない。ただ、社会負担の圧力で押しつぶされてゐるだけなのである。
    手取りはいくらか。家賃はいくらか。奨学金の返済はあるか。子どもが生れたら、保育料、食費、服、医療、教育費はどうなるか。親の介護はいつ始まるか。老後の年金は本当にあるのか。
    かういふことを考へると、恋愛の甘い霧は、たちまち家計簿の蛍光灯に照らされる。月の下で語つた未来が、翌朝、エクセルの表になる。これをもつて「若者に夢がない」と責めるのは、少し酷である。
    むしろ夢を削つてゐるのは、毎月の手取りの細さである。
    子どもは可愛い。だが、無料ではない。ここに現代社会の、身も蓋もない、しかし避けて通れない真実がある。
    もちろん、高齢者を支へることは大事である。年金も、医療も、介護も、文明国の大切な仕組みである。老いた人を見捨てる社会は、いくら税率が低くても、住みよい社会ではない。人は皆、運がよければ老人になる。老人を粗末にする国は、未来の自分を粗末にする国である。
    だが問題は、その支へ方である。
    いまの仕組みでは、現役世代、とりわけ働き始め、家庭を持ち、子を育てるはずの二十代、三十代、四十代の肩に、税と社会保険料が重くのしかかつてゐる。肩車といふ言葉がある。幼い子を肩車するなら微笑ましい。祭の日の父親の背中である。
    しかし、国家財政の肩車は、少し様子が違ふ。上に乗つてゐるのは、年金、医療、介護、国債、少子化対策、地方財政、教育費、住宅不安である。下で支へてゐる若者は、そろそろ膝が笑つてゐる。
    しかも、その若者に向かつて、国は言ふのである。「結婚しませんか」「子どもを産みませんか」「将来の社会を支へてください」。ある評論家などは、子供一人生んでくれたら1,000万円払うことしたら少子化は止まるなどと若者を馬鹿にした提案まで恥ずかしげもなく披露する。
    まことに厚かましい。重い荷物を背負はせたまま、「さあ、踊りませう」と言つてゐるやうなものだ。踊れぬことはない。だが、腰を痛める。
    ここで、消費税の話が戻つてくる。
    消費税は嫌はれる税である。これは否定しやうがない。名前からして、生活に手を突つ込む感じがする。レジで十円、百円と取られるたびに、国が買物籠の中を覗いてゐるやうな気分になる。あまり感じのよいものではない。
    しかし、消費税には一つ大きな性格がある。負担が、現役の賃金だけに集中しないのである。
    働いてゐる人だけでなく、年金生活者も、資産所得で暮らす人も、貯蓄を取り崩して消費する人も、消費の場面では一定の負担をする。つまり、社会保障の財源を社会保険料ばかりに頼るよりも、負担を世代全体に薄く広げることが出来る。
    これは、少子高齢化の時代にはかなり重要である。社会保険料は、働く人の肩にかかる。消費税は、消費する人の肩にかかる。この違ひは小さくない。
    いま必要なのは、消費税を上げて国民からさらに搾り取ることではない。そんな話なら、誰だつて嫌である。必要なのは、負担の置き場所を変へることだ。
    若い勤労世代に重くのしかかつてゐる所得税や社会保険料を軽くする。その財源を、消費税によつて、社会全体で広く分け合ふ。増税分は、若者と子育て世帯の所得税と保険料軽減に結びつける。これを法律上も、会計上も、誰の目にも見える形で行ふ。
    ここまでやつて、はじめて消費税増税は、ただの増税ではなくなる。それは、若者の給与明細を少しだけ明るくする改革になる。結婚や出産の入口に置かれた石を、一つどける政策になる。
    少子化対策といふと、国はすぐ給付を考へる。児童手当を増やす。出産費を助成する。保育所を増やす。もちろん、どれも必要である。だが、片方で毎月の社会保険料を重くしてゐれば、若者はこう思ふだらう。
    右手で祝儀袋を渡され、左手で財布を抜かれてゐるのではないか。
     
    これは、なかなか切ない。国が「子育てを応援します」と言ひながら、給与明細のところで毎月きつちり回収してゐる。役所の帳尻は合ふかもしれぬが、若い夫婦の台所には、あまり詩がない。夕餉の宅にキャンドルライトも灯らない。
    本当に少子化を憂ふなら、子ども家庭庁の看板を磨いて何かしてゐるふりをしてはいけない。若者の給与明細を見なければならない。そこに、所得税、住民税、厚生年金、健康保険、雇用保険が、まるで町内会の役員名簿のやうに並んでゐる。
    これを見ずに少子化対策を語るのは、台所を見ずに料理を論ずるやうなものである。鍋の中身を知らずに、「味つけが大事です」と言ふ。なるほどその通りだが、まず米が足りない。
    もちろん、消費税には逆進性がある。所得の低い人ほど、所得に占める消費の割合が高いからである。ここを軽んじてはならない。税制を論ずるとき、弱い家計を忘れた議論は、どこか薄情になる。
    しかしながら、軽減税率などを持ち出してはいけない。消費税に複数税率を持ち出すと税務署の行政権限が強くなりすぎるだけでなく、一般税率と軽減税率の適用対象の峻別が困難になり、まじめな納税者を困惑させる。同じトウモロコシでも、人間が食べるなら軽減税率、豚の餌にするなら、一般税率などというのは判別が難しく現場を混乱させるだけだ。消費税は竹刀ではない。振り回してはいけない。外科手術のメスのやうに、切る場所を考へなければならぬ。税制改革で乱暴をして、患者より先に医者が得意顔になる。これはいけない。
    それでもなお、現役世代の社会保険料をこのまま放置するより、消費税を用ゐて負担を広く分け合ふ方が、少子高齢化の時代には筋が通る。弱者救済にはベーシックインカムを導入すべきなのです。思うに、来日したばかりの外国人に生活保護を支給するなど無思慮な行政は、市町村の担当者ならではの行いである。税務署は強大な調査権限も能力もある。市町村の職員にくらばると騙すことも脅すこともはるかに難しい。
    いまの日本では、働く若者の肩に、未来と過去が同時に乗つてゐる。未来とは、子どもである。過去とは、すでに築かれた社会保障制度である。どちらも大切である。だが、肩は二つしかない。
    この肩に、さらに税と保険料を積み上げておいて、「なぜ若者は結婚しないのか」「なぜ子どもを持たないのか」と問ふのは、荷車に石を積んでおいて「なぜ速く走らないのか」と叱るやうなものだ。
    若者は、怠けてゐるのではない。若者は、国を嫌つてゐるのでもない。若者は、ただ、毎月の残高を見てゐるのである。
    その残高を少し増やす。そのために社会保険料を軽くする。その財源を、消費税によつて社会全体で負担する。
    これは、消費税を愛せといふ話ではない。消費税を、若者のために使へといふ話である。
     
    税制には、その社会の性格が現れる。労働に重く課す社会は、働く人を疲れさせる。若者に重く課す社会は、未来を細らせる。子育て世帯に「産め」と言ひながら、給与明細で奪ふ社会は、呆れるほど間が抜けてゐる。
    消費に広く課し、その分、働く世代の負担を軽くする。これは少なくとも、未来に対して少し礼儀正しい。
    社会保険料を「保険料」と呼ぶか、「税」と呼ぶかは、法律学者に任せてもよい。だが、若い勤労者の給与明細から見れば、それは毎月確実に手取りを削る公的負担である。名前の問題ではない。財布の問題である。
    だからこそ、少子高齢化の時代に必要なのは、消費税をただ上げることではない。所得税や社会保険料といふ名の労働課税を軽くし、その財源を、消費を通じて社会全体で分け合ふことである。
    消費税は、目立つ。社会保険料は、目立たない。消費税は、レジで嫌はれる。社会保険料は、給与明細の中で静かに若者を疲れさせる。
    政治家諸君が本当に見るべきなのは、レジの怒りだけではない。給与明細の溜息である。
     
    毎月、若い勤労者の手取りから、静かに、確実に、未来の余白が削られてゐる。そこに目を向けず、消費税だけを悪者にして拍手を取るのは、いかにも易しい。易しいが、易しすぎる議論には、たいてい落し穴がある。
    少子高齢化の時代に必要なのは、若者の肩から少し荷を下ろすことである。そのために、所得税や社会保険料を軽くする。そのために、消費税を使ふ。
    嫌はれる税を、未来のために使ふ。そこにこそ、政治の仕事がある。
    税制とは、帳尻を合はせる技術であると同時に、誰の肩に荷物を載せるかを決める作法でもある。いまの日本では、その荷物が、少し若い肩に寄りすぎてゐる。若い肩は強い。だが、無限ではない。
    そこを忘れると、社会は静かに老いてゆく。そして気がついた時には、レジの前で消費税に怒る人はゐても、そのレジを打つ若者が足りない、といふことになる。
    これは、笑ふに笑へぬ話である。税制の失敗は、いつも少し遅れて、人口表に現れるのである。
     #創作大賞2026 #ビジネス部門
    【整理】負担の置き場所

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    出典:財務省資料を基に筆者作成
    注:概算であり、個別事情により異なる
     #創作大賞2026#ビジネス部門  

    第16章        ベーシックインカムといふ発想

    近年、税制と社会保障をめぐる議論のなかで、ベーシックインカムといふ考へ方が注目されてゐる。名前だけ聞くと新しいが、発想としてはそれほど奇矯ではない。むしろ素朴である。
    政府がすべての国民に、一定の所得を無条件で給付する。働いてゐるかどうかに関係なく、同じ金額が支払はれる。目的は単純である。最低限の生活を保障すること。難しい理屈は要らぬ。人は生きてゐるだけで、ある程度の金が要るのである。
    この制度を考へるとき、避けて通れぬのが財源である。全国民に給付を行ふ以上、その原資はどこかから持つてこなければならぬ。財布は魔法ではない。
    そこでしばしば登場するのが、消費税である。消費税は税収が安定してゐる。捕捉が比較的容易である。このため、消費税とベーシックインカムの組合せは、税制改革の議論でたびたび提案される。なかなか相性のよい取り合わせである。酒と肴ほどではないが。
    ベーシックインカムの議論には、もう一つ重要な視点がある。それは、労働への課税である。多くの国では、働いて得た所得に税がかかる。しかしこれは見方を変へれば、働くほど税負担が増える仕組みでもある。
    そこで次のやうな発想が出てくる。労働には税をかけない。その代り、消費と資本所得に課税する。そして最低限の所得は、ベーシックインカムとして保障する。
    もちろん、ベーシックインカムには賛否がある。財源はどうするのか。働く意欲は弱まらぬか。議論は尽きない。議論が尽きない制度は、たいてい重要である。
    しかし、この議論が示してゐることは一つである。税制と社会保障は一体である。税をどこに課すか。給付をどこに配るか。この二つは切り離せぬ。片方だけ考へるのは、片輪で走るやうなものである。
    本書の主題はベーシックインカムではない。したがつて深入りはしない。ただ、税制を考へることは、社会保障を考へることでもある。このことだけは、終盤でぜひ確認しておきたい。
     
     
     #創作大賞2026 #ビジネス部門


    【コラム】社会保険料五十年記
    ――税と名乗らぬ徴税官の話
    給与所得控除の五十年を眺めると、そこにはまだ、俸給取に対するいささかの同情があつた。税務署に懐具合を残らず知られる勤め人に、せめて概算経費ぐらゐは認めてやらうではないか、といふ、昭和らしい大らかさである。
    ところが、同じ五十年を社会保険料の側から眺めると、景色はがらりと変る。こちらには、同情の匂ひが少ない。あるのは、年金、医療、介護、雇用といふ、いづれも立派な大義名分である。大義名分といふものは厄介で、正しければ正しいほど、こちらは文句を言ひにくい。
    社会保険料は、税ではないといふ顔をしてゐる。
    だが給与明細の上では、所得税や住民税と同じやうに、実にきちんと差し引かれる。いや、きちんとし過ぎてゐる。給与が支払はれるたびに、厚生年金、健康保険、雇用保険がやつて来る。四十歳を過ぎれば、そこへ介護保険も加はる。招いた覚えはないのに、客間に座布団を敷いて坐つてゐる親戚のやうなものだ。
    しかも、これらは本人だけでなく会社も負担する。労使折半と聞けば、いかにも会社が半分持つてくれるやうに思へる。だが会社負担分も、長い目で見れば人件費である。人件費である以上、それは賃金原資の一部であり、めぐりめぐつて給与所得者の取り分を細らせる。つまり、本人負担は右の袖から、会社負担は左の袖から、同じ着物を少しづつ切り取つてゐるやうなものである。
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    昭和五十年代――まだ遠慮深かつた控除欄の住人
    一九七六年、昭和五十一年頃の社会保険料は、今から見ればまだ控へ目であつた。厚生年金と健康保険はもちろん存在してゐたが、現在のやうに、給与明細の控除欄で大名のごとく威張つてゐたわけではない。
    当時の給与所得者を苦しめてゐた主役は、むしろ所得税であつた。累進税率は高く、名目賃金が上がると、税金もそれに連れてぐんぐん上がる。いはば、所得税が正面玄関から堂々と入つて来て、社会保険料は脇の縁側に腰を掛けてゐた。
    もちろん、社会保険料もただ茶を飲んでゐたわけではない。厚生年金は老後を支へる制度として、健康保険は医療を支へる制度として、すでに給与明細に席を占めてゐた。ただ、高齢化の波はまだ今日ほど露骨ではなく、医療費の膨張も、まだ現在のやうな怪物にはなつてゐなかつた。
    つまり昭和五十年代の社会保険料は、怖いには怖いが、まだ襖の向うにゐる程度であつた。
    令和のそれのやうに、膳の前に坐つて箸を持つてゐたわけではない。

    #創作大賞2026 #ビジネス部門


    昭和末から平成へ――高齢化といふ請求書
    ところが昭和が暮れ、平成が始まる頃から、事情は静かに変つてゆく。日本社会は、いよいよ本格的な高齢化の入口に立つた。年金を受け取る人は増え、医療を必要とする人も増える。制度を支へる現役世代は、さう簡単には増えない。
    これは感情ではなく算術である。
    受け取る人が増え、支払ふ人が増えなければ、一人当たりの負担は重くなる。まことに愛想のない理窟だが、愛想がないからこそ強い。
    所得税や消費税の増税は、政治の表舞台で騒がれる。新聞も書くし、選挙でも争点になる。ところが社会保険料は、もう少し地味な衣裳を着てゐる。標準報酬月額、保険料率、労使折半、財政再計算。どれもこれも、聞いただけで眠気を誘ふ言葉である。
    しかし、この眠気こそ曲者である。
    国民が少し眠つてゐる間に、料率は少しづつ上がる。少しづつだから目立たない。目立たないが、積み上がる。雨漏りのやうなもので、最初は一滴、二滴でも、気がつけば畳が湿つてゐる。


    平成十五年――賞与袋にまで手が伸びる
    社会保険料の歴史で、ひときは大きな節目となつたのが平成十五年、二〇〇三年である。この年、厚生年金などに総報酬制が導入された。
    それまで社会保険料は、主として毎月の給与をもとに計算されてゐた。賞与にも一定の負担はあつたが、現在ほど正面から捕捉されてゐたわけではない。そこには、いくらかの隙間があつた。
    ところが総報酬制によつて、その隙間は丁寧に塞がれた。月給だけではない。夏の賞与にも、冬の賞与にも、社会保険料がきちんと手を伸ばすことになつたのである。
    制度論として言へば、これは公平化である。
    同じ年収なのに、月給型と賞与型で負担が違ふのはおかしい。なるほど、その通りである。
    しかし、暮しの実感として言へば、これはなかなか痛い。
    年に二度の賞与といふものは、給与所得者にとつて、少しばかり夢を見るための袋である。冷蔵庫を買ひ替へるか、旅行に出るか、子供の学費に回すか、あるいは何も考へずに寿司でも食ふか。さういふ淡い夢の袋である。
    そこへ社会保険料が、白い手袋をはめてやつて来る。
    「公平のためでございます」と言つて、袋の紐を解く。
    公平といふ言葉は、しばしば財布に冷たい。


    平成十六年から二十九年――厚生年金、毎年きちんと上がる
    平成十六年から平成二十九年にかけて、厚生年金保険料率は段階的に引き上げられた。そして平成二十九年九月以後、一八・三%で固定されることになつた。労使折半であるから、本人負担は九・一五%である。
    九・一五%。
    この数字は、なかなか堂々としてゐる。
    所得税なら、所得に応じて控除があり、累進税率があり、扶養だ医療費だといふ情状酌量もある。ところが厚生年金保険料は、標準報酬の上限に達するまでは、かなり機械的にかかつてくる。泣いても笑つても、給与があれば取られる。
    しかも厚生年金には、将来の給付といふ立派な名目がある。これがまた強い。
    「今は取りますが、老後に返します」
    さう言はれると、なかなか反論しにくい。
    ただし、いまの手取りが減ることもまた事実である。
    未来の安心と現在の窮屈。
    厚生年金とは、その二つを一枚の給与明細に同居させる制度である。
    昭和の所得税が、大上段から振り下ろす大鎌であつたとすれば、平成以後の厚生年金保険料は、低い音を立てて回り続ける草刈機である。大袈裟な身振りはしない。ただ、確実に刈つてゆく。


    平成十二年――四十歳になると、もう一人来る
    二〇〇〇年には、介護保険制度が始まつた。これによつて、四十歳以上六十五歳未満の健康保険加入者は、健康保険料とあはせて介護保険料を負担することになつた。
    四十歳になると、給与明細に新しい住人が増える。
    誕生日の贈り物としては、いささか風流を欠く。
    介護保険料は、単独で見れば、厚生年金ほど大きくはない。けれども、すでに厚生年金があり、健康保険があり、雇用保険があるところへ、さらに加はるのである。料理でいへば、すでに天ぷら蕎麦を食べてゐるところへ、店主が「サービスです」と言つて餅を入れてくるやうなものだ。ありがたいのか重いのか、判断に困る。
    もちろん、介護は社会全体で支へなければならない。そこに異論は少ない。問題は、その正しさが、給与所得者の手取りを少しづつ細らせることである。正論は時に、懐に対して無慈悲である。


    健康保険――一割前後の、地味だが大きな山
    健康保険料もまた、この五十年でずいぶん重くなつた。保険者によつて料率は異なり、協会けんぽなら都道府県ごとに違ひ、健康保険組合なら組合ごとに事情がある。だから一口には言へない。
    しかし大きな流れとしては、医療費の増加と高齢者医療への拠出により、負担は重くなつた。現在では、おおむね一〇%前後と見てよい水準にある。これも労使折半であるから、本人負担は五%前後である。
    五%と聞けば、所得税の最低税率と同じではないか、と思ふかもしれない。
    だが健康保険料は、厚生年金の九・一五%と肩を組んでやつて来る。四十歳以上なら介護保険料も連れてくる。雇用保険も後ろから小走りについて来る。
    かうして見ると、健康保険料は単独の登場人物ではない。
    社会保険料一座の、なかなか重い中堅俳優である。
    しかも健康保険は、医療といふきはめて切実な制度を背負つてゐる。病気になつたときに頼る制度である以上、誰も簡単には否定できない。否定できないものが重い。ここに社会保険料の怖さがある。


    雇用保険――小兵ながら、最後に小銭をさらふ
    雇用保険料は、厚生年金や健康保険に比べれば小さい。給与明細の中でも、体格はさほど立派ではない。だが、侮つてはいけない。小さいながらも、毎月きちんと差し引かれる。
    雇用保険は、失業、育児休業、雇用安定などのための制度である。これもまた、必要性は分かる。分かるが、差し引かれるものは差し引かれる。
    大名行列の最後尾にゐる小者のやうなものだ。槍も持たず、馬にも乗らない。だが、通り過ぎたあとに、こちらの小銭入れが少し軽くなつてゐる。


    平成二十八年以後――網は広がる
    平成二十八年、二〇一六年からは、短時間労働者への社会保険の適用拡大が始まつた。一定規模以上の会社で働くパートや短時間労働者も、条件を満たせば健康保険・厚生年金に加入することになつたのである。
    これは、社会保険料の歴史が、単に「料率を上げる時代」から「対象を広げる時代」へ移つたことを意味する。
    税の世界なら、課税ベースの拡大といふ。
    社会保険の世界では、適用拡大と呼ぶ。
    言葉は違ふ。
    だが給与明細から見れば、どちらも入口の門が広くなつたといふことである。
    令和に入ると、この流れはいよいよ強まる。いはゆる年収一〇六万円の壁、企業規模要件、短時間労働者の加入要件などが見直され、より多くの人が社会保険の網に入る方向へ進んでゐる。
    もちろん、これは悪いことばかりではない。加入すれば、将来の年金が増え、健康保険の保障も厚くなる。制度の外にゐる不安から解放される面もある。
    しかし、手取りは減る。ここが悩ましい。保障が厚くなることと、今日の財布が薄くなることは、同時に起る。制度の説明では前者が強調され、給与明細では後者が印字される。


    令和の給与明細――所得税より大きな顔をする者たち
    かくして、昭和五十一年から令和八年までの五十年を振り返ると、社会保険料の歴史は、静かな増負担の歴史であつたと言つてよい。
    昭和の給与所得者を苦しめた主役は、所得税であつた。累進税率は高く、給与所得者は源泉徴収で逃げ場もなかつた。そのため、給与所得控除は、丸裸の俸給取に与へられた一枚の浴衣であつた。
    ところが平成以後、とりわけ二〇〇〇年代以後になると、手取りを削る主役は税だけではなくなつた。厚生年金は着実に重くなり、健康保険は一割前後の山となり、四十歳からは介護保険が加はり、賞与にも総報酬制の網が掛けられた。
    そして令和には、社会保険の対象者そのものが広がつてゆく。
    昔、給与明細の控除欄で一番威張つてゐたのは所得税であつた。
    いまでは、社会保険料が大きな顔をして中央に坐つてゐる。所得税は、その横で少し肩身が狭さうである。税金は悪役になりやすい。増税と聞けば人は怒る。だが社会保険料は、善人の顔をしてゐる。
    「老後のためでございます」
    「医療のためでございます」
    「介護のためでございます」
    「雇用を守るためでございます」
    どれも嘘ではない。嘘ではないところが、まことに手強い。
    給与所得控除が、昭和の俸給取に差し出された浴衣であつたとすれば、社会保険料は、平成から令和にかけて、その浴衣の懐へ静かに手を入れてくる番頭である。
    番頭は礼儀正しい。帳面も正確である。言ふことにも一理ある。だからこそ厄介なのである。
    そして給与所得者は、毎月の給与明細を眺めながら、また同じことを思ふ。働いたのは自分である。けれども、自分より先に取り分を決める者が、どうにも多すぎる、と。

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    第17章 外為特会という伏魔殿

    ――金庫の中に、まだアメリカがゐる
    日本政府の借金といへば、国債である。いまでは小学生でも、ニュースで「国の借金」と聞けば、何やらたいへんなものらしい、と眉をひそめる時代になつた。ところが、その国債の蔭に、あまり語られぬ巨大な金庫がある。
    外国為替資金特別会計。略して外為特会といふ。
    正式名称からして、すでに眠い。役所は昔から、重要なものほど退屈な名をつける癖がある。もし浦島太郎が霞が関に就職してゐたなら、竜宮城はおそらく「海洋滞在型余暇施設特別利用区域」とでも呼ばれたであらう。玉手箱は「経年変化促進装置」である。まことに有難迷惑な命名法である。
    さて、その外為特会である。難しく言へばきりがないが、乱暴に言へば、日本国の巨大なドル金庫である。もう少し乱暴に言へば、その中身の大半は米国債である。つまり日本国の金庫を開けると、そこにはアメリカ政府の借用証書が、几帳面に積み上げられてゐる。
    これはなかなか妙な眺めである。住宅ローンに苦しむ家の金庫を開けたら、隣家への貸付証文がぎつしり入つてゐたやうなものだ。家計相談の番組なら、司会者が眼鏡を外して、しばらく黙り込む場面である。
    もちろん、昔は事情があつた。戦後の日本は外貨不足であつた。ドルは貴重品であり、海外旅行に行くにも手続が要つた。企業がドルを調達するにも骨が折れた。だから政府がドルを管理した。国家が外貨の番頭を務めたのである。外為特会には、それなりの生れの事情があつた。
    しかし、時代は変つた。いまや個人投資家が居間で米国株を買ひ、中小企業が為替予約を行ひ、学生がスマートフォンでドル建て資産を持つ。金融市場は成熟した。にもかかはらず、国家だけが戦後の巨大金庫を抱へ続けてゐる。冷蔵庫の時代になつても、庭の氷室を「先祖伝来でございます」と言つて取り壊せずにゐるやうなものだ。
    そこで素朴な疑問が生まれる。本当に、これほどのドルが要るのだらうか。
    もちろん、国家の外貨準備を一夜にして畳めなどといふ話ではない。そんなことをすれば、経済政策といふより夜逃げである。しかし、必要以上に持つてゐるのなら、長い時間をかけて、少しづつ整理してもよいのではないか。少なくとも、国民の知らぬところで、巨大な金庫がいつまでも神棚のやうに祀られてゐるのは、いささか気味が悪い。
     
    すると、必ず現れる人がゐる。「米国債を売れば大変なことになる」
    この種の人々は、大変なことが大好きである。何かを少し動かさうとすると、すぐに現れて「大変なことになりますよ」と言ふ。ところが、その大変なことが実際に起きた例は、案外少ない。世の中には、心配性といふ職業があるのかもしれない。
    たしかに、米国債を売ればドルを受け取る。ドルを円に換へれば、円高要因になる。そこまでは正しい。算数の問題である。しかし、正しいことがいつも重要とは限らない。世の中には、正しいが大した話ではないことと、重要なのに誰も口にしないことがある。
    近年の為替相場を動かしてゐる大きな潮流は何か。日米金利差である。アメリカの金利が高く、日本の金利が低ければ、世界中の金はドルへ向かふ。これは理屈といふより、すでに現実である。近年の円安を眺めれば、よほどの吞気者でないかぎり分る。
    米国債の売却にも影響はある。しかし、それは潮流ではなく櫂である。市場を押し流してゐるのは、日米金利差といふ大河であつて、外為特会の売買はその上を漕ぐ小舟にすぎない。もちろん小舟も水をかく。だが、太平洋の流れそのものを変へるわけではない。
    ところが役所の説明を聞いてゐると、潮流には触れず、櫂ばかり論じてゐるやうに見えることがある。これは少し不思議である。いや、不思議といふより、便利なのであらう。大きな構造を語るより、細かな危険を語る方が、人は黙りやすい。
    この話には、もう一つ面白い点がある。日本政府は米国債を大量に保有してゐる。その一方で、日本国債も大量に発行してゐる。つまり、借金をしながら貸金をしてゐるのである。これを家庭に置き換へれば、住宅ローンを抱へながら、隣家に長期低利で金を貸してゐるやうな話である。隣人愛としては立派だが、家計簿としては少し考へ込む。
    では、外為特会の資産を、長い年月をかけて整理し、その資金で国債を償還したらどうなるか。むろん魔法ではない。外貨資産を売れば、その分、外貨資産は減る。金庫の中から宝石を取り出して借金返済に充てるのだから、純粋に財産が増えるわけではない。少子高齢化も消えない。社会保障費も消えない。財政赤字が、春の雪のやうに溶けるわけでもない。
    しかし、少なくとも国債残高は減る。利払ひ負担も軽くなる。財政の身動きも、いくらか取りやすくなる。そして、そこで少し楽になる者がある。
    日本銀行である。
    近年の日銀は、まことに気の毒である。本来は物価と景気を見て金利を決めるべきなのに、国債残高の巨大さまで気にしなければならない。まるで手術中の外科医が、同時に病院の経理と駐車場係を兼ねてゐるやうなものだ。患者の脈を見たいのに、病院の借入金利まで耳元で囁いてくる。
    国債残高が少しでも軽くなれば、日銀は今より自由に金利政策を考へられる。アメリカの景気はどうか。日本の物価はどうか。賃金はどうか。本来見るべきものに、もう少し目を向けることができる。中央銀行が中央銀行らしくなる。それだけでも、かなり大きな話である。
    もつとも、この議論を突き詰めると、最後は経済だけの話ではなくなる。
    なぜなら、外為特会の本質は米国債ではない。戦後日本そのものだからである。
    日本は長いあひだ、アメリカに守られ、アメリカに依存し、アメリカの国債を買ひ続けてきた。安全保障でも、通貨でも、金融でも、どこかでアメリカを座敷の上座に据ゑてきた。その構造の象徴が、外為特会なのである。金庫の中に、まだアメリカが住んでゐる。
    だから外為特会を論ずることは、単に金庫の整理を論ずることではない。
    日本はいつまで戦後でゐるのか。日本はどこまで自分の財布を自分で使へるのか。日本国の金庫の鍵は、誰の手にあるのか。さういふ、少々面倒で、あまり新聞の一面には向かぬ話になる。
    外為特会は神棚ではない。だから拝んで済ませるものではない。しかし夜店の福引でもない。だから一晩で景品に替へてしまふものでもない。一切触れてはならぬといふのも幼稚なら、すぐ売れ、全部売れ、と叫ぶのもまた乱暴である。
    必要なのは、まず正体を見ることである。
    戦後八十年近く経つても、日本国の金庫の中には、まだ大量のアメリカがゐる。そして我々は、その金庫をどうするかについて、ほとんど正面から議論してこなかつた。
    伏魔殿といふと、何か恐ろしい魔物が棲んでゐるやうに聞こえる。しかし本当に怖いのは、魔物そのものではない。そこに何があるかを、見ないことにしてきた私たちの方である。
    外為特会とは、巨大なドル金庫であると同時に、戦後日本の帳簿である。
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    最終章 税とは何のためにあるのか

    税の話になると、私たちはしばしば数字ばかりを見てしまふ。数字は便利である。争ひやすく、見出しにもなりやすい。
    消費税は何%がよいのか。所得税は上げるべきか、下げるべきか。法人税は高すぎるのか、まだ足りぬのか。新聞もテレビも、このあたりで忙しくなる。数字は人を興奮させる。野球の打率と支持率と税率は、その好例である。
    しかし本来、税制の議論には、もう一つ大事な問いがある。むしろ、こちらの方が根本に近い。
    税は、何に課されるべきなのか。
    この問いを、かなり明晰なかたちで世に示した人物の一人が、十八世紀の経済学者アダム・スミスである。彼は『国富論』の中で、税制の原則を論じた。いまでも有名な、いはゆる租税の四原則である。公平、確実、便利、効率。まことに筋のよい四項目である。現代の行政機関が読むと少し照れるかもしれぬ。
    スミスには、もう一つ重要な考へがあつた。税は、できるだけ生産活動を妨げぬやうに課されるべきだといふ思想である。
    社会の富は、空から降つてくるのではない。誰かが働き、誰かが投資し、誰かが物を作り、誰かが運び、誰かが売つて、やうやく生まれる。つまり、富の源泉は生産活動である。
    もし税がこの活動を強く妨げるなら、社会全体の富は小さくなる。畑に種をまく前に収穫を取り立てるやうなものである。役所ならやりかねぬが、賢明とは言ひがたい。
    ここから、一つの大きな問いが生まれる。労働に税をかけるべきなのか。
    多くの国では、働いて得た所得に税がかかる。いはゆる給与所得税である。毎月の給料日に明細を見て、額面と手取りの差に人生の現実を学んだ人も多いだらう。給与明細は、かなり優秀な哲学書である。
    しかし労働とは、社会の富を生み出す最も基本的な活動である。人が働き、企業が物を作り、店が開き、電車が走り、病院が動く。社会は、その積み重ねで回つてゐる。
    一方、消費は生産とは異なる。消費とは、すでに生み出された富を使ふ行為である。食べる、着る、住む、遊ぶ、旅行する、少し贅沢な時計を買ふ。いづれも人生には必要だが、生産とは別物である。
    このため古くから、税は消費に課す方が望ましいといふ考へ方がある。消費税は、まさにこの発想に立つ税である。制度上は企業の付加価値に課税されるが、最終的な負担は消費の場面で現れる。レジに並ぶとき、人は税制思想と対面するのである。
    税制に絶対的な正解はない。所得税を重んずる国もあれば、消費税を重んずる国もある。資産課税に熱心な国もあれば、さうでない国もある。国民性は、案外、税目に現れる。
    しかし税制を設計するとき、一つ大事な視点がある。社会のどこに負担を置くのか。労働に課税するのか。資本に課税するのか。消費に課税するのか。この選択には、その社会が何を大切にし、何を抑へたいかが現れる。税制とは、数字の集まりであると同時に、社会の価値観の告白でもある。
    本書では、消費税の仕組みを、できるだけ平明に説明してきた。
    消費税とは、企業の付加価値に課税され、市場を通じて転嫁され、最終的に消費者が負担する税である。
    この構造を理解すれば、消費税をめぐる多くの混乱は整理される。少なくとも、なじり合ひの半分くらゐは不要になる。
    そして、もう一つ見えてくることがある。それは、税をどこに課すべきか、といふ問いである。
    もし社会が、労働をできるだけ尊重する税制を選ぶなら、税の重心は消費や資本へ移つてゆくだらう。もし再分配を強く求めるなら、また別の設計になる。
    どの税制を選ぶかは、最終的には社会の選択である。政治家だけの仕事ではない。納税者もまた、有権者として参加してゐる。そこが税の面白く、かつ厄介なところだ。
    しかし、その議論をするためには、まず制度を正確に理解しなければならぬ。地図も見ずに旅行の相談をしても、たいてい迷ふ。税制も同じである。
     
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