
第七夜 敬語 敬うことと、縮こまること 混ぜていないか。
その日、私は店に入った時点で、すでに少し疲れていた。
あの日マスターから教えてもらったことの実践はうまくいったが、今度は些細だが気になることがあって、聞きに来た。問題というほどのことではなく、もっと日常的なことだった。
疲れていた、というより、どこかがずっと引っかかったままだった。眉間でも口元でもなく、もう少し奥の、うまく飲み込めなかった会話が、そのまま残っているような感じだった。
「いらっしゃい」
私は軽く手を上げて、カウンターの端に座った。
「……っ、いつもの」
「今日はこないだと違って早いね」
「今日はもう、さっさと帰ってきたんすよ」
店主は少しだけ眉を上げる。
「帰ってきたっていうより、逃げてきたっていう血相だったよ」
また見抜かれた、と思った。
「なんでわかるんすか? いつも思うっすけど」
「いや今日はあからさまだったよ」
氷の音が小さく鳴った。しかし今日は酒ではなく並々と注がれた水を渡してきた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
私は一気に飲み干した。飲み干した喉が冷たく強張りすぐには喋れなかった。こういう時の沈黙は、無理に埋められると少し違う。Vesperがありがたいのは、そこを急かさないことだった。
しばらくしてから、私はぽつりと言った。
「今日マスターに敬語について聞こうと思って」
店主は手を止めなかった。
「僕は国語の先生じゃないよ」
「そういうことじゃないっすよ。ただ世の中に出たらよく使うって意味で」
「あーね」
「特に何かあったわけじゃないんすけど、疲れてると細かいことに気づくんすよ」
私はふっと、力なく笑った。
「これは気持ち半分くらいに思ってるんすけど、あの言葉って、疲れないっすか」
「そうね。僕もあまり敬語は使う方じゃないし」
「まあ、敬われる側っすもんね」
マスターは「まあね」と少し優越感に浸ったような声で返事をした
「完全なタメ口がいいってわけじゃないんですけど、なんか疲れるんすよね」
「確かに、使いすぎだとも思う」
「その通りっす。しかも自分、苦手で……」
「僕と話してる時は崩してるもんね」
私はうなずいた。
「敬語使えって言わないんすか?」
「バイトしてる時に丁寧だったのは知ってるからね。それに言ったじゃない。僕も得意じゃないから他人ととやかく言えないよ」
私はまた、力が抜けたように少し笑った。
「本当に、それが社会人としての基本だ! みたいなの、親から言われてて。うち、家系がサービス系なんで」
「親からの教えって、そのまま社会からの教えくらいの迫力があるよね」
「でも結局、何を話すかとかあるじゃないですか。『言い方じゃなくて、内容の方が先でしょ』って」
店主は「なるほどね」とだけ言った。
私は続けた。
「もちろん、分かるんですよ。会社だし、最低限の作法はある。課長に向かって友達みたいに喋るのは違うだろうなって。でも、その場でみんなが気にしたのって、実際には敬意だったんですかね」
店主は少しだけ視線を上げた。
「どういう意味」
「要は、畏まった言い方でも、その人への関わり方が悪いこともあると思うんすよ。で、その逆もまた、って」
「うん」
「でも空気としては、“敬意がない”になりがちだよなって」
「なりやすくはあるだろうね」
私はグラスを持ったまま、少し黙った。
「最近、たまに見る“敬語が話せてない、正しくない”って、よく分からなくなるんです」
「何が」
「敬意って、本当にその場にあったのかな、って」
店主はグラスを棚に戻しながら言った。
「君は、敬意と敬語を分けたいんだろうね」
私は少し驚いた。
「……そうなんすよ。中身の方が大事だと思うんすよ」
「敬語は使ってても雑な人はいるし、敬語じゃなくても別に失礼じゃない場面はある、って感じ?」
「はい」
私は少しだけ前のめりになった。
「紙一重だよね」
「なのに、形式の方だけが先に評価されることが多い気がして」
店主はうなずいた。
「そうでしょう。そっちの方が分かりやすいから」
「まあ、そこができてるかできてないか、みたいなのはあると思うんすよ」
「敬語を使ってるかどうかは見やすい。態度の中身とか、相手を人として見てるかどうかは、ちょっと判断するのに時間がかかるからね」
私は小さく息を吐いた。
「……っ、そうなんですよー」
「で、結局分かりやすい方が先行しちゃうね」
「それで“敬意がある・ない”を決めちゃってるのって、浅はかなんすよ」
私は拳を握り机を軽く叩いた。
「結局先生とか上司に諂って上の立場に行く人って何も出来ないし、それで評価が高くなるなら頑張る意味なくないっすか」
店主は少しだけ笑った。
「それはその通りだね」
「ですよね」
「敬語は、敬意を表す手段の一つではある。でも、それ自体が敬意そのものではない」
私は静かにうなずいた。
「その違和感なんです。こう親とか見てても客とかに接客ではなく諂い気味な態度とってて嫌気がさしたことがあったんす」
「それは、まだ幼い頃の話?」
「はい。『あなたも頭下げて挨拶しなさい』とか『ちゃんと敬語使って話しなさい』って子供の手伝いでやってるのにすげぇ怒られたのが最近思い出されるんすよ」
しばらく沈黙があった。スピーカーから流れる音楽は、今日も主張しすぎない。ベースが少しだけ床を鳴らし、ピアノがそれに薄く乗る。話すにはちょうどいい程度の静けさだった。
店主はやれやれと言う顔をしながら言った。
「なんか、日本って、敬語を象徴として扱いすぎる感じがあるよね」
「ああ…たしかに」
「もはやそれが出来たら成果みたいなね」
店主は短くうなずいた。
「分かるっす」
「でも、本当にそんな単純かなとは思うよ。だから敢えて僕は使わない節はある」
「本来は、そんな単純な話ではないっすよね」
私は少し言葉を選ぶようにしてから続けた。
「そもそも、長く生きたからとか、長くそこにいたからとか、それだけで敬意を受けるって、少し違うと思うんすよ」
店主は視線を上げた。
「そこまで言うのね」
「今日は言いますよ。一応目の前に“目上の人”いますけど」
「敬語を使わないことの方が僕への敬意だよ」
店主が吹き出すように笑った。私も釣られて少しだけ笑った。さっきより、少し力の戻った笑いだった。
「たぶん、そこが一番引っかかってるんです」
「なんで、そこからくるんだろうね」
店主はしばらく黙ってから言った。
「別だよ、やっぱ。前者と後者はさ」
私はその返答に、少し安心した。
「ですよね」
「立場と敬意が、混ざりやすいんだろうね」
「年っていう立場が偉いって成り立ちませんし、結構短絡的ですよ。それこそ男はガサツみたいな主語のでかいはなしっす」
「敬語を使われる位置にいる人が、そのまま敬われるべき人だって、誰が決めたかなんてわからないのにね」
私は思わず笑った。
「それです」
店主は肩をすくめた。
「まあ、通念ってそういうもんだから」
「でも、その通念が残ると、かなり権威側に都合のいいルールが作れますよ。実際その節があるし」
店主はそこで少しだけ笑った。
「今日はわりと容赦ないね」
「そんなつもりはないんすけどね」
私はグラスを飲み干して、少しだけ間を置いた。
「敬語を使いたい人は使えばいいんです。でも、“使われる位置にいるから敬われている”ってなると、そこからおかしくなる気がして」
「うん」
「敬語が、その人の能力や態度の不足を隠す盾みたいになることもあるし」
店主は短く息を吐いた。
「あるだろうね」
私は少しの沈黙の後こう言った。
「敬語って、本来は文化的な作法の要素が強いと思うんです」
「たとえば?」
「距離感を測るとか、場を荒立てないとか、最低限の礼を保つとか」
「うん」
「だから、それ自体は否定しないんです。別に全部タメ口でいいとも思わない」
「でも」
「でも、それ以上でもそれ以下でもない気がするんです」
店主は少しだけ視線を細めた。
「作法以上にしすぎるな、ってことか」
「たぶん、そうです」
「敬語を使わないことを、即、人格の欠陥みたいにするな、とか。それを使いすぎるな、ってね」
私はうなずいた。
「そこなんですよ」
「なるほどね」
二人で少しだけ笑った。それから私は、ふと真面目な顔に戻った。
「だし、もしそれが権威側のルールならあなたたちも丁寧な言葉を使ったり若い人たちを敬うべきではと思うんすよ」
「おお、すごいしっくりくる意見が出たね」
「この、敬語と敬意がごちゃごちゃになる感じってそこが整備されてないからだとおもうんすよ」
店主は少し考えるようにグラスを拭きながら言った。
「まず、敬語のレベルを上げすぎないだよ。ただの手段なのにね」
私は少しだけ目を上げた。店主がこちらを覗き付け加えた。
「敬語って、極端に上げると、それだけで対話のハードルも上がるから」
「たしかに」
「最低限の作法として回るくらいでいいのに、“完璧に使え”“崩すな”“そこに心も乗ってないと駄目”ってやり始めると、それはもう言語学者とかマナー講師だよ」
私はうなずいた。
「分かります」
「だから場によって作法を先に決めるのも大事かもね」
「どんなこと決めるんすか」
「この場ではこれくらいでいい、この関係ではここまででいい、って共有する」
私は少し考えた。
「たしかに、未共有だと、余計に揉める気がする」
「暗黙の作法って、ズレた時に、全部人格の話になりやすいから」
その言い方は、かなりしっくりきた。敬語そのものの問題というより、基準が曖昧で、それが人格評価へ滑っていくことの方が問題なのだ。
私はグラスの底を見た。氷はもうほとんど溶けていた。
「使えなかった場合も、もっと低いレベルのミスとして処理していい気がするんですよね」
店主はうなずいた。
「作法のミスとしてね」
「はい。もちろん、何度も故意にやるなら別ですけど、一回くらい、少し雑、くらいなら無傷っすよ」
「その程度で“無礼な人間”にはしない方がいいだろうね」
私は少し笑った。
「そうなんですよ。敬語のミスで、人間全体を測りすぎる」
「簡単で恣意的だと、そうもなるよ」
「それが嫌なら厳格にして欲しいし、片務的にするなって思うっす。繰り返し言ってますけど」
店主はそこで少しだけ笑った。
「そこまで言うなら、今日の君はだいぶ決まってるね」
「そうですか」
「うん。要は、形式より中身を見ろ、って言いたいんだろうね」
私は静かにうなずいた。
「はい」
「敬語を使われる位置にいるだけで、自動的に敬われるべき人間になるわけじゃない」
私は少しだけ目を細めた。
「その通りっす!」
「でも、その勘違いがあると、玉座に座ったまま、偉そうな顔してられる」
私は思わず吹き出した。
「今日のマスターは、少しノリっぽいすね」
「たまには、こういう趣もいいでしょ」
「いいと思います」
私は笑いながらも、その比喩が少しだけ気に入っていた。偉そうにしているだけで、中身が伴わない人間。形式だけがその人を守っている状態。たしかにそれは、どこにでもいる。
少し間が空いてから、私はまた言った。
「ただ、関係の場面だと、もっと微妙ですよね」
「関係?」
「友達とか、恋人とか、近い人間関係です。あそこでは別に、敬語って最重要じゃないと思うんです」
店主は短くうなずく。
「まあ、そうだろうね」
「確かに、最低限の作法として丁寧に喋れることが、知性や文化への親しみみたいに見えるのは分かるんすよ。でも、それは趣味とか主観の問題になっちゃいますよ」
「うん」
「むしろ、敬語が強すぎると、直接的な対話の邪魔になることもある。フラットだからこそメリットになるのに」
「あるだろうね。慇懃すぎると、距離が固定されるから。しかもそれは、ものすごく遠い感じ」
「そうなんです」
「崩していいのは、結局こっちが気楽な立場にいるからかも」
私は少し前のめりになった。
「そう言われちゃうと、敬語と敬意の違いがわかんなくなっちゃいますよ」
「はは。すまん。でも、評価とかはやっぱり敬語よりも敬意とかそれ以外の能力ではかられるべきって思うよ」
「関係なら相手を見て敬語を使う使わないって選んだ方がいいっすね」
店主はしばらく黙ってから言った。
「かなり、筋は通ってると思うよ」
私はそこで、ようやく少し大きく息を吐いた。たぶん私は、それを誰かに言ってほしかったのだと思う。全部が正しいとは言わなくても、少なくとも論理として破綻はしていない、と。
「敬意って」と私は言った。
「本当は、もっと自発的なものですよね」
「ルールはあるけど、それはいつどこでどんな敬語が使われるかってことだからね」
「この人はちゃんとしてるな、とか。この人は信頼できるな、とか。そういう積み上がりで出てくるもので」
「うん」
「なのに、形式だけ先に強制すると、敬意があるように見えるだけになる」
店主はグラスを棚に戻した。
「そういうことなんだろうね」
私は少しだけ笑った。
「今日は、だいぶ頭のモヤモヤが解消されました」
「敬語をやめたいんじゃなくて、敬語を人格査定や上下確認の道具にしないでほしいだけだったんだよ」
店主は自分の答えに納得したようにうんうんとうなずいた。
「そこが芯だと思うっす」
私は会計を済ませて立ち上がった。ドアの前で、少しだけ振り返る。
「ありがとうございました」
「うん」
「マスター……いや、師匠のおかげで、また悩み解決したっす!」
「師匠じゃないよ」
店主は少しだけ笑った。
「それは、たぶん大事だね」
外へ出ると、夜風は少し冷たかった。駅前の明るさは相変わらず騒がしい。だが、頭の中は来た時より静かだった。
敬意を持つことは、敬語を使うことと同義ではない。敬語は文化的な作法として機能するし、場を整える力もある。けれど、それがそのまま敬意そのものになるわけではない。また、敬語を使われる位置にいる人間が、自動的に敬われるべき人間になるわけでもない。
問題なのは、敬語が人格評価や上下確認の道具として濫用されることだ。形式があることと、相手を人として扱っていることは別である。長く生きたこと、長くその場にいたこと、上の立場にいることと、尊敬に値することもまた、別だ。
測られるべきは、関係の形式よりも、その人の態度や能力や判断の方であるはずだ。そうでなければ、形式だけで守られた人間が、ただ座っているだけで敬われることになる。
敬語は、使うなら作法として使えばいい。だが、それ以上のものとして扱いすぎないこと。使えなかった時に、人間全体の欠陥とみなさないこと。そして、敬意の名の下に、従順さや萎縮まで求めないこと。
たぶん必要なのは、敬意を高く持ち上げることではなく、敬意の使い方を慎重にすることなのだと思った。
マスターの居残りコラム
5杯目【言語的プロトコルとしての敬語と、敬意の特権化】
一 「言語的プロトコル」と「主体的評価」の乖離、そして形式の特権化
人間社会のコミュニケーションにおいて、敬語とは一種の言語的プロトコル(標準化された通信規格)である。システム内のノード(個人)どうしの心理的距離を一定に保ち、摩擦を下げるための「外面的なコード」にすぎない。これに対し敬意とは、他者の能力、実績、あるいは人間性に対する「内面的・主体的な評価(リスペクト)」である。この両者は本来、完全に独立して働きうる性質のものだ。
しかし多くの組織や共同体で、両者は非合理的に混同されている。内面的な敬意を測るには、相手の行動や判断を中長期的に観察せねばならず、きわめて高い「認知コスト」がかかる。一方、外面的な敬語の有無を判定するコストは、きわめて低い。この「評価コストの非対称性」ゆえに、簡便な指標である「形式(敬語)の遵守」が特権化され、それが満たされない場合、中身を問わずただちに「全人格的な無礼・欠陥」へと回収される。結果として、慇懃無礼な(形式だけを過剰に満たした)有害な存在が見過ごされ、実質的な敬意や貢献を持つ者が、形式の不備ゆえに不当に排除されるという、評価システムの逆転現象が起きる。
二 権力勾配の隠蔽と、「従属確認」の道具への変質
非対称な敬語空間(一方が敬語を使い、他方がタメ口を利く空間)は、年齢・年次・職位といった記号的な上位性にもとづいて構築される。ここでの構造的なバグは、上位者が「敬語を使われる立場にいる」という事実を、「自分は人間的に尊敬されるべき存在だ」という実質的な正当性へと、いつのまにかすり替えてしまう点にある。
この錯覚が定着すると、敬語は単なる作法ではなく、「権力勾配を温存する装置(従属確認の道具)」へと変質する。上位側は、自らの能力不足や態度の横暴、論理の欠如といった実質的な瑕疵を、「正しい言葉遣いを要求する」という形式論の盾で覆い隠せるようになる。下位側に求められているのは、実質的な敬意ではなく、「私はあなたより下の序列にいて、反抗の意志を持たない」という、萎縮と従順のパフォーマンス(縮こまり)にほかならない。敬意という自発的・合理的な感情が、こうした権威保護の仕組みへ濫用されるとき、対話のフラットな機能性は根底から麻痺する。
三 「文化的インターフェース」への機能限定と、エラーの脱・人格化
敬語をコミュニケーションの健全なインフラとして復権させるには、それを「道徳や人格の査定基準」から引き剥がし、単なる「低コストな文化的インターフェース」へと機能を限定(ダウングレード)する必要がある。
具体的には、組織や関係における敬語の要求水準を必要最小限に――たとえば、過剰な最高敬語を外した、フラットな丁寧語ベースに――抑え、その基準を明示的に共有することだ。そして、その形式からの逸脱(ミスコミュニケーション)が生じたとき、それを「不敬な人間性の表れ」として全人格的に糾弾するのではなく、単なる「プロトコル上のエラー(作法のミス)」として処理する、運用の脱・情緒化が求められる。測られるべきは形式の完全さではなく、その奥にある具体的な判断や業務態度といった、実質的なパラメータである。「敬うこと(主体的な評価)」と「縮こまること(不条理な従属)」の境界線を明確に引くことこそが、言葉を通じた人間関係の搾取を防ぐための、最低限の防衛策である。