
#15【凛視点】 先輩、ずるいです。あえて離れて私を信じてくれた、その不器用な優しさに触れた日
八月の、逃げ場のないような蒸し暑い日だった。
SNS施策の予算承認が、どうしても下りない。 部長は数字の整合性に極めて厳しい人だ。費用対効果を何度説いても、「リスクが高い」「前例がない」と一蹴される。私はメンバーと連日深夜まで資料を作り直し、切り口を変えて挑んだが、その壁は絶望的なほどに厚かった。
(……どうしよう。このままじゃ、みんなの努力が形にならない)
焦燥と悔しさで、視界が滲みそうになる。
自分で決断を下すという最初の試練を乗り越えた私を待っていたのは、企画部の先輩からのサポートを受けてもなお立ちはだかる、上層部の理解を得るというリーダーとしての「二度目の壁」だった。
喉まで出かかった「助けてください」という言葉を、私は必死に飲み込む。あの給湯室での、彼の静かな声を思い出したからだ。
『SNSのリーダーは君だろ。君の判断が、このプロジェクトの正解だよ』
(……やるしかない。私が、やるんだ)
私は資料の数値を睨みつけマウスを強く握りしめた。
数日後。 信じられないことに、予算が通った。 部長から「承認」の二文字が届いた瞬間、私は思わずデスクで小さく跳ね、隣のメンバーと顔を見合わせて笑った。

けれど、どこか腑に落ちなかった。 あれほど頑なだった部長を、何が変えたのか。
その日の夕方。給湯室で鉢合わせた営業の同期が、氷をコップに落としながら何気なく言った。
「あ、りんりん。SNSの予算、おめでとう。……うちの主任、部長に相当詰め寄ったらしいね」
「えっ、先輩が……?」
「なんでも、『このSNS企画は、ブランドの魂です。ここを削るなら、俺はこのプロジェクトを降りる』とかなんとか。そんなに熱くなってる主任、想像できないよね」
私は、給湯室の棚を掴んだまま、息をすることさえ忘れていた。
(……嘘。私の前ではあんなに素っ気ないのに)
「ブランドの魂だ」——彼は、そう言ったのだ。
私を突き放して、独り立ちを促しながら。その裏では誰よりも泥をかぶり、自分の立場を賭けてまで私の居場所を守ってくれていた。
驚きで固まっている私を見て、同期が「あ……」と顔を引きつらせた。
「ちょっと、りんりん、もしかして本人から聞いてなかった?」
「……うん。何も」
「やば、地雷踏んだかも! 今の、絶対本人には言わないでよ? あの人、自分が裏で動いたのがバレるの一番嫌いそうじゃん。俺がペラペラ喋ってたのがバレたらどんなに詰められるか……。いい? 本当に内緒で! 俺もチラッと小耳に挟んだだけだから!」
「……分かってる。誰にも言わないから、大丈夫」
なんとかそれだけ返すと、同期は「頼むよー!」と言い残して、逃げるように給湯室を出ていった。
一人取り残された私は、胸の奥から熱いものが一気に込み上げてくるのを感じた。耐えきれず壁に手をついて立ち尽くす。
(……先輩。ずるい。本当に、ずるい人だ)
本当なら今すぐ彼のデスクへ走って行ってお礼を言いたい。
けれど、同期との約束もある。何より先輩が何も言わなかったということは、自分でやり遂げたという自信を私に持たせたかったからではないだろうか。…その思いをこんな告げ口のような形で台無しにするわけにはいかない。
執務エリアに戻った私はふと、営業フロアの方に目をやった。
いくつものデスクが連なる、その先。受話器を置き、ふっと息をついた彼の姿。
不意に、視線がぶつかった。
距離にして、およそ15メートル。 喧騒にかき消されて、声など届くはずのない場所で彼の瞳がまっすぐに私を捉える。
一秒、二秒。 いつもなら即座に逸らされるはずの視線が、なぜか今日だけは磁石に吸い寄せられたかのように動かなかった。 突き放した冷たさではない。冷徹な上司の目でもない。
「よくやってる」と。 ただそれだけを語りかけてくるような、力強いけど穏やかな眼差し。
(……先輩)
私が先輩の方に一歩踏み出しそうになった瞬間、彼はハッとしたように視線を手元に落とした。
何事もなかったかのように、まるで、今のは私の勘違いだったかのように。
私はその場で小さく、けれど確かな呼吸を繰り返した。
(……やっぱり、嫌われてなんかいない。先輩は、あえて離れて私を信じて見守ってくれてるんだ)
突き放された言葉も、孤独だった夜も——すべては、彼なりの不器用で誠実な「信頼の形」だったのだ。
(……だったら、今はまだ、言葉でお礼を言う時じゃない)
私は唇を強く結び、自分の戦場へと歩き出した。
彼が自分のキャリアを賭けて守ってくれたこの場所で、彼が予想もしなかったような最高の景色を見せたい。独り立ちの本当の意味を、証明したい。
これはもう単なる憧れではない。
私が孤独な暗闇にいる時、いつも見えないところで道を照らしてくれていた——彼という光に報いたいという、執着に近い決意だった。
デスクに戻り、パソコンを開く。承認された予算の通知が、画面で誇らしげに輝いている。 私はそれを見つめながら、フロアの向こう側をもう一度だけそっと見やった。
彼はすでに、いつもの静かな横顔で仕事に戻っていた。
(……不器用すぎますよ、先輩。でも、ちゃんと届きました)
声には出さず、心の中でだけ告げた。 この距離がいつかゼロになる日を信じて。
私は深く息を吸い、キーボードを叩き始めた。
(次回予告)
プロジェクトのイベント前日の夜、重大トラブル発生。
60枚の展示パネルに、致命的なミスが見つかった。