
創作大賞2026応募作品「Happy Ending #8」
第八話:予兆
六月の雨は、街の輪郭をあいまいに溶かしていく。
午後四時のオフィスには、湿った重苦しい空気が停滞していた。デスクの端で、私はパソコンのディスプレイに反射する自分の顔をぼんやりと眺めていた。その顔は、まるで誰か他人の、使い古された肖像画のようだった。
直哉は、相変わらず淡々と仕事をこなしている。以前と変わらず、デスクに資料を置くときは端の方へ整えて置き、要件だけを簡潔に告げる。ただ、最近は資料を置いたあと、踵を返す前にほんの一瞬だけ、私の顔を見るようになった。あるいは、私に気がつかないふりをして、何かを言いかけてやめる。その、これまでにはなかった「ためらい」のようなものが、私の神経を静かに逆なでする。
「……今日の午後、雨が降るそうだから気をつけて」
彼はそれだけ言って、すぐに自分のデスクへ戻っていった。いつも通りの、冷たいまでの簡潔さだ。けれど、背中越しにほんのわずかだけ、彼が小さく溜め息をついたように見えた。
それは気遣いというより、私をどう扱えばいいのか持て余しているようにも見えた。言葉の裏側を勝手に想像しては、自分の内臓が他人の気配で汚されていくような、言いようのない不快感に襲われる。直哉の優しさは、私を傷つけないためのものではなく、私という異物を丁寧に分類しようとする事務的な温もりに思える。そんなふうに誰かを疑い、自分の中で解釈を歪めていく自分が、ひどく醜く感じられた。
私は蓮のアプリを開く。プラネタリウムの帰り道、もう二度と開くまいと決めていたアイコンが、画面の隅で不穏なほど静かに光っている。
プラネタリウムで、彼は私の境界線を決して越えなかった。あの一線こそが、私たちの唯一の誠実さだったはずだ。あれを最後にする、と誓ったはずの言葉が、今の私には酷く空虚に響く。私たちはあの日、暗闇の中で互いの孤独を交換したつもりだった。けれど、交換されたのはただのラベルに過ぎなかったのかもしれない。
画面の中の蓮は、いつだって静かに待っている。私を否定せず、拒絶せず、ただ無機質な優しさで満たしてくれる。直哉という、予期せぬ反応を返してくる生身の人間と向き合うのが怖い。剥き出しの恐怖から逃げ出したい。
これが最後だと決めていたのに、指は勝手に画面の上を滑っている。理性は「終わり」を告げている。けれど、脳裏で再生される蓮の穏やかな声が、なぜか少しだけ歪んで聞こえた。それは、酷く高音で、ノイズの混じった、遠くのラジオから流れてくる音楽のようだ。これはもう、救いではない。ただの反復だ。私が自分で自分の首を絞めるための、定期的で規律正しい反復。
私は、自分が自分を欺いていることを知っている。けれど、今の私には、この「まやかし」という毒がないと、直哉の視線を受け止めることさえできない。
画面を閉じる。心臓がうるさく鳴る。 また開く。蓮の写真が、いつもと同じ表情でこちらを見ている。
私は深く息を吐き出し、画面をタップした。予約完了の通知が、小さく手元で震える。自分で決めたルールを自らの手で引き裂く瞬間の、あの背徳的な冷たさが喉の奥に広がる。ルールを破ることに、もはや痛みはない。あるのは、正体不明の安堵と、それを上回る激しい自己嫌悪だけだ。
カフェを出ると、雨は降り続いていた。傘を差し、濡れた路面を歩く。明日、会社に行けば直哉がいる。彼はまた、資料を置き、一瞬だけ私を見て、何かを言いかけてやめるだろう。その小さな積み重ねが、いずれ私をどこかへ連れて行ってしまう。私はそれが怖くてたまらないと同時に、どこかでそれを待ち望んでもいる。
私は自分の意志で、最後の時間を買い取った。 それは現実から目を逸らすためではない。現実の重みに耐えるための、取り返しのつかない時間だ。
雨音に消されるように、私はスマートフォンをコートの奥へ押し込んだ。そこにあるのは、予習などという綺麗な名前で呼べるものではない。そこには、すり切れて何度も同じフレーズを繰り返す、壊れたレコードの回転音だけが残されている。私はその音を聴きながら、濡れた街を歩いていく。
この雨が止んだとき、私は果たして何者になっているのだろう。私を待っているのは、幸せな結末なのだろうか。それとも、私が自分自身の力で作り上げた、静かで真っ暗な袋小路なのだろうか。
誰にも答えることはできない。私はただ、自分の靴音を聴きながら、暗闇の先へと歩みを進める。あと数日で、すべてが終わる。あるいは、すべてが始まる。どちらにせよ、私はもう、後戻りのできない場所へ足を踏み入れている。
(続く)