短編 泥
泥
深い眠りにつくことを、『泥のように眠る』と、表現することがある。私はそれをしたいのだ。
出来れば二度と起き上がれない、本当の泥になりたいのだ。
『泥のように眠る』のは大抵、浴びるほど酒を飲んだ夜か、過酷な労働を終えて酷く疲れたときくらいだ。
せっかく仕事を辞めたんだ、労働意欲があるわけもない。迷うことなく前者を選んだ。
私はサンダルをつっかけ、近くのスーパーへと向かった。
愉快な店内BGMに、入店音が割り込んだ。店員が私の方を振り向く。
「いらっしゃいま…」
お互い「しまった」と思った。
一瞬合った目を逸らし、店員はそそくさと野菜売り場の方へ行ってしまった。
私は平然を装って「今日は牛乳が安いんだったかな」と呟きながら野菜売り場の正反対にある乳製品売り場へ進んだ。
そうか、ここはあいつが働いていたんだ。
仕事を退職し、宛もなく地元に戻ってきた私にとって、働いている旧友の存在は妙にこたえる。
都会に行くと息巻いて街を出たくせに、職をなくし戻ってきているのだ。散々馬鹿にしていたこの街に。誰に何を言われているかなんてわかったもんじゃない。
結局、私は何も買えなかった。
たまには運動するのもいい、私は少し離れたコンビニへと向かった。ここでは誰も働いていないはずだ。
聞き慣れていないBGMが妙に落ち着かない。アルコールコーナーで缶ビールを一缶だけ買い、店を出た。
家を出たのは昼過ぎだったはずなのに、もう日が暮れかけている。
ソファに顔を埋め目を瞑る。このまま寝てやろうかとも考えたが、先程の光景がフラッシュバックしすぐに起き上がった。
私はなんのためにここに戻ってきたのだろう。少なくともこんな惨めな思いをするためではなかった。
居場所を無くし逃げてきたのではなく、もとより居場所なんてどこにもなかったのかもしれない。そう考えると少しだけ楽になった。
一段と重くなった腰を上げ、コップを用意した。
酒を注ぐなんて何ヶ月ぶりだろう、下戸の私にとって飲酒はそうそうあるイベントではない。
前飲んだのは、いやいや連れてかれた会社の飲み会だったかーー
思い出そうとしたことを後悔しながら、既に汗をかいているコップに目を落とした。おもむろに手を伸ばし、口へと運ぶ。
「苦い…」
やはり苦い。なんなら前に一度口にした時より苦く感じる。
顔を顰めながらもう一口含んでみる。
変わらず苦い。
もう一口もう一口としているといつの間にか空き缶が出来上がっていた。一人で一缶開けるのなんて初めてだ。
とても美味しいなんてものじゃない。こんなものを飲むために上司達は私に仕事を押し付けて早々と帰っていたのか。私に言わせればそれほどの価値はないだろう。
それにしても苦い。飲み干してみて苦いという感想しか出てこない。
ふと、えも知れぬ『頭の重さ』に気づいた。
立ちくらみや目眩といった病的なものではない。
少し遅れて来た眠気に、それがアルコールによるものだと気付かされた。
そこで私は忘れかけていた目的を思い出した。
この眠気がアルコールによるものだとするなら、あの苦い酒も悪くないかもしれないと思った。
『良薬は口に苦し』ともいう。このアルコールは私が泥になるのを助けているのかもしれない。そう考えると、あの苦さも少しマシに思えた。
ああ、こんなことならあと二、三缶追加で買っておけばよかった。
私の意識が瞼の重さに負けた時には、缶の水滴も乾き始めていた。