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日記を書くのが恥ずかしい理由と、その対処法

    基本的に、私は何かから気づきやインスピレーションを受けて文章を書いています。

    文章を書く目的の一つは、「自分が何に影響を受け、どんなことを感じるのか」を表現することです。

    この「何か」とは、日常の出来事にも存在するはずですが、それを書くことに対しては恥ずかしさを感じます。

    具体的には、身バレの心配や、自分のストレートな気持ちを表現することに対する抵抗があります。

    特に、自分の感情を表現することが目的であるにもかかわらず、それを避けているという矛盾があります。

    この背景には、身バレの不安があるからです。

    この微妙なバランスを取ろうとしている自分に気づきました。

    作家の森博嗣が「人に話すことは物事を抽象化すること」と述べていたことを思い出した。彼は大学教員時代、学生から様々な相談を受けていた。学生は相談事を説明する際に、ある程度具体的な部分を伏せる。例えば、人名や詳細なセリフなどを。

    それは物事が具体的すぎると伝わらないからです。伝えるためには、「要するにどういうことか?」と自分で噛み砕いて物事を伝える必要があります。

    基本的にこのnoteは自分のために書いていますが、世界に公開しています。独り言のように書いているものの、読者は存在する(と思っている)。そのため、読む人のことを考えるなら、ある程度抽象的にした方が良いこともあります。

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    文章術の本では「具体例を書くこと」が推奨されています。しかし、それを理解した上で、私は抽象的に書くことを選んでいます。

    要は使い分けの問題です。日常的なことは身バレを避けるため抽象的に書き、コンテンツに触れた際に感じたことは具体的に書く。

    特定の地域でしか体験できないコンテンツもありますが、私が影響を受けているのは主に本や動画なので、地域性は少ない。

    自分の感情を書いている以上、そこから身バレする可能性は否定できません。しかし、それを外で話さなければ問題はありません。

    こうして書いてきて、遠回りしてきたように感じる。

    結局、恥ずかしい理由の結論は既に序盤に出ています。

    「身バレの心配や、自分のストレートな気持ちを表現することに対する抵抗」があるという点です。

    これからもこのシーソーを上手く保ちながら書いていくのでしょう。しかし、未来の自分がこの文書を振り返った時に、少しても当時の葛藤もムダじゃなかったと思えればいいです。


     
     
     
    日常の研究ノート。読んで、考えて、書いている人。ありふれたことを小難しく、どこまでもどこまでも考えることが好きです。ほぼ毎日投稿。

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