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ひび割れた月の標本

    夜はまだ

    わたしの名前を知らない

    知らないまま

    静かな水面を撫でている

    月は硝子の臓器みたいに

    冷たく光っていた

    触れれば割れるのに

    誰も触れようとしない

    遠くで鳥が鳴く

    その声は

    骨の奥に沈んだ記憶と

    よく似た響きをしていた

    水底には

    呼ばれなかった名前たちが眠る

    藻のように揺れながら

    ゆっくり腐らずに沈んでいる

    わたしは

    そのひとつを飲み込んだ

    喉の奥で

    小さな棘になったまま


    ねえ

    あなたは知っている?

    夜がこんなにも柔らかく

    人を壊すことを

    風が吹くたび

    耳の奥に埋まった硝子片が

    かすかに軋んだ

    それは痛みではなく

    痛みになり損ねた何か

    月光は

    空洞の内壁を舌のように舐めていく

    満たされない場所ばかり

    正確に見つけ出して

    飢えは祈りに似ている

    祈りは傷口に似ている

    傷口は夜によく似ている

    だからわたしは

    夜を愛してしまった


    誰にも見えない場所で

    小さな獣が目を覚ます

    牙を持ちながら

    まだ名前を持たないまま

    その呼吸は

    胸骨の裏側で波打ち

    眠れない海みたいに

    わたしを揺らし続ける

    もしも

    怪物と呼ばれるものがあるなら

    抱きしめ損ねた体温が

    寄り集まった影だ

    抱きしめられなかった夜

    呼ばれなかった名前

    行き場を失った体温

    それらが寄り添いあって

    ひとつの影になる


    月は何も言わない

    水も何も答えない

    けれど

    沈黙だけが知っている

    壊れたものほど

    美しく光ることを

    ひび割れた月が

    静かに水面へ沈む

    そのたび

    わたしの中の怪物が

    やさしく身じろぎする

    食べたいわけじゃない

    奪いたいわけじゃない

    ただ

    誰かの温度に

    触れてみたかっただけ


    夜よ

    どうか隠さないで

    この醜さを

    この飢えを

    この祈りを

    月蝕の底で眠る

    名前のない獣を


    夜はまだ

    わたしの名前を知らない

    それでも

    怪物は呼吸している

    ひび割れた月の標本として

    胸の奥で

    静かに光りながら


    ある夜

    怪物はとうとう

    わたしの声で話しはじめた

    「寂しかった」とも

    「愛していた」とも言わない

    ただ

    飢えている、と言った

    その声は

    古い井戸の底で鳴る鐘に似ていた

    ひどく静かで

    ひどく正確だった

    わたしは知っていた

    その音が

    ひび割れた肋骨を叩くことを

    吐き出せなかった名前だけが

    黒い水を飲み続けていた


    怪物は

    牙の代わりに祈りを持っていた

    祈りの代わりに

    傷を持っていた

    だから誰にも届かない

    届かないまま

    胸骨の裏で育ち続けた


    月蝕が始まる

    水面の月が

    ゆっくりと欠けていく

    それは終わりではなく

    ようやく輪郭を得るための暗転だった


    怪物は

    わたしの名を呼ばない

    わたしも

    怪物の名を知らない

    それでも

    その鼓動だけは

    あまりにも自分に似ていた


    だから

    わたしは

    その額に触れる

    冷たい骨の下で

    かすかな体温が震えた


    ねえ

    もしもおまえが怪物なら

    わたしも怪物だ

    誰にも愛されなかった欠片ではなく

    愛を欲したまま

    生き延びてしまった影として


    月は沈む

    夜は深くなる

    名前のない獣は

    ようやく眼を開く

    そして初めて

    わたしはその名を知る

    ──わたし




     
     

    白夢

     
     
    氷見現代詩大賞2025 入選 『嗤う焔、湿地にて』 『紫陽花の庭で、名を失う』 『残香は、名を呼ばず夜へ溶ける』 『焔の舞踏会』  ──“魂の共鳴”を核に、 焔と影、水のあわいから祈りを紡ぐ。 詩、幻想譚、物語、そして音へ。 言葉が縁を結び、 祈りの残響となりますように

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