
本当の音はどこにあるか。
私は、自分のことをピアニストだなんて思っていない。
それは、当然上には上がいるからで、上手い人はもっと血の滲むような努力をしている、と思うからだ。
私はどこまでいっても、自分はまだまだ、
そんなふうに思うタチで、まだまだ足りないし本気で向き合っている人には到底及ばないと考えている。
きっとどれだけ上手くなろうが、自分のことをピアニストとは名乗らないと思う。
せめて"ピアノ弾き"ぐらいだ。
(屁理屈を言うな。笑)
私はいつもどこか本気じゃないと見えるように、
どんな時でも「本気ではないので、そこそこでやってます」
という顔をして、昔からそんなふうに予防線をはって生きることを当たり前だと思ってやってきたのだ。
何故なら、本気だと思われて上手くいかなかったら恥ずかしいからだ。
本気じゃないと言っておけば、それなりでいることが許されるからだ。
人との関わり方だってそうだったかもしれない。
自分のことを好きになってくれる人がいたとして、自分がその人のことを相手の気持ち以上に好きになることに怯えてしまう。
そうなって、相手がそれほどでもないと分かった時に傷つくのが嫌だからだ。
だからはじめから、そうでもないよという空気を持ってして、一定の距離を保とうとする。
そうやって長らく生きてきてしまった。
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子どもの頃、
「音楽で生きていきたい」と親に話したときに、
何バカなことを言ってるのか、と言われたことがある。
そんなことが出来るはずないし、プロになんてなれるはずないと諭すように言われた。
好きなことを好きと言って、馬鹿にされるのか。
叶うわけがないと、可能性すら否定されるのか。
その頃からすべてにおいて、「本気」だと言うことを隠す癖がついた。
好きなことは本気でやっている訳じゃない。
好きな人や友達は一定の距離感をもって、のめり込み過ぎないように付き合っている。
本気の夢なんかない、本気の仲間なんか居ない。
そうやって思い込もうとする癖がついた。
でも本当は全部が本気だった。
ただ、そうでも言ってないと
「また本気になって失敗なんてして馬鹿馬鹿しい」と言われると思っていたからだった。
それは親なりの親心だったのかもしれない。
子どもが傷つく姿を見たくない、転んで傷つくのならば始めから転ばないで進める道を選ばせようとした、それだけのことかもしれない。
だけど子どもの人生は、子ども自身が歩いていくものだし、本人にしか経験できないすべての出来事や感情は、すべてその子のものだ。
そのすべてが、痛い経験も含めて、本人の宝物だ。
その宝物は誰にも奪えないし、否定もできない。
どんなに馬鹿だと笑われても自分の気持ちを見ないふりしなくていいし、好きなものは好きで居ていい。
本気になることは恥ずかしいことじゃない。
悔しかったことも全部自分のものだ。
本当の宝物は、光り輝いているものばかりではないのだと思う。
出来た傷には新たな光が差し込み、また誰かを照らす光になるかもしれない。
だから傷ついてもいい。
たとえ叶わなくても本気でやっていい。
たくさん傷があった方が、より多くの光を反射できる。
だから私はこれからも大好きな音楽を続けていく。