
○○の日とか○○DAYとか、商戦とわかっていてもつられちゃうよね
5月10日、日曜日。
今年も「母の日」が過ぎた。
平日を休みにすれば、GWの最終日だった人もいただろう。
大型スーパーには少し前から、カーネーションやギフトの特設コーナーが、赤だピンクだと賑わっていた。
「去年もこんなのだったよな」
「そうだっけ。まぁいいんだよ、気持ちで」
父と息子だろうか。
通りすがりにそんな会話が聞こえた。
毎年のプレゼント選び、正直面倒くさいし困る苦労するよなぁ。わかる、わかる。
妄想 心の中では確かに、頷きながら彼らにそう声をかけた。
それでも。
この日の存在を忘れずに、行動に移している彼らは立派だと思う。
人は怠惰な生き物だからね。
何かきっかけがなければ、ついついタイミングを見逃してしまうものだ。
かくいう私も……
と、続きたいところなのだが。
期待を裏切るようで悪いが、私は「その時その場で必ず感謝、或いは謝罪をすること(持ち越さないこと)」を、モットーにしている。
何気ない小さなことに対してもそうだし、言いそびれたら次の日中までには伝えると決めている。
そこまでするのは極端というか、わざわざ感はあるかもしれない。
でも、それでいいと今のところ思っている。
こんな自分になったのにはキッカケがある。
とある調査で、最期を迎える人が最も後悔していると話すことの上位に、必ずと言っていいほど入るのが、「感謝または謝罪を伝えられなかったこと」、という事実があることを知ったからだ。
「なんだ、そんな話なら自分だって聞いたことあるよ」と思うかもしれない。
普通なら私もそう言うだろう。
ただそのときは、何故かこの話と同じようなことをほぼ毎日のように、どこかしらで聞くみたいな時期に遭遇していた。
「またこの話だな……」
"何かあるんじゃないか"と思うほどだった。
だが別に、その時期に自身や身内に不幸などが起きるでもなかった。
つまり、"何かの知らせ"ってことではなかった。
だけど確かに、先人が、それも多くの人が口を揃えて言うのだから、「予めわかっていることをやらないというのはナンセンスだな」と納得した自分がいて。
そこからこのモットーは現在にまで至っている。
いい人でありたいから、とかじゃない。
完全に自分のエゴだ。
かっこよく「美学」だなんて言えるものじゃない。
でも、「大切なこと」だとは思っている。
そんな自分になって変化を感じたのは、ひと月経った頃だったろうか。
日々が軽やかになった実感があったのだ。
時に、「こちらが謝る義理などあるものか!」という場面に出くわすことってあると思うのだけど。
前の自分はそれを、感情的に納得していないのだから当然だと思っていて。
勿論すぐに謝罪なんて出来なかった。
「どちらにも非がある、100%なんてことはない」なんて理論もわからなくはないけど、それは感情的な納得が伴ってはじめて適用されるものだと思っていた。
でも、そうじゃなかった。
相手を許可するための謝罪じゃない。
自分に許可をするための謝罪だった。
じゃあ、何を自分に許可するかって?
それは、自分の心のノイズを終わらせることの許可だ。
こういうときって、心の中がささくれ立って、ギスギスしたりザラザラしたりドロドロしたりしている。
その感覚って、どれも尾を引くんだよね。
で、「見ないフリ、見ないフリ」ってしているのね。
これ、結構知らない間に自分が消耗してたりする。
感謝の場合も同じでさ。
「あ、言えばよかった(後にしよう)」の「あ、」がストレスになってたんだって、変化を通して気付いた。
見えないタスクが溜まっていて、自分の容量を知らずに圧迫しているというか……
うちの親はどこか昔気質なところがあって。
肝心なところでの感謝や謝罪が、どうしても出ないタイプ。
昔はそれが、「子供だからいい( = 大人が偉い )」「家族だからいい」っていう、その甘えというか、リスペクトのなさが好きになれなかった。
今でも個人的にはその在り方は好まないけれど、とあるアニメ作品でのセリフが、「それでもいいか」と腑に落とさせてくれたんだよね。
ひとつ言っとくけど、次にこんなことがあっても、もういちいち礼とか言わないからな。だからもし今度逆にオレがお前を助けるようなことがあっても、お前は礼なんか言わなくていい。そんなことでお互い縛り合うのはもうナシだ
このとき、こういう表現の形もあるのかって気付かされた。
当たり前過ぎて忘れていたのかもしれない。
どんなに近い存在でも、自分とは別の存在なんだって。
そこに腑に落ちる決め手がこれだった。
人は良心を持って生まれてこないんだよって
(略)
良心は体が成長するのと同じで自分の中で育てていく心なんだ…って
だから人によって良心の形は違うんだ…って
丸だったりトンガリだったり色んな形の良心があるのかと思うとワクワクしました
「あぁ、こういうことなのかな」って。
(作者様には感謝申し上げます)
だから、誰がどうこうってことじゃなくて、結局は自分がどうしたいかだけだったんだよね。
こんな風に、色んな形で自分が作り上げていたストレス。
それが正体だったとわかったと同時に、日々の軽さの理由もそこにあったというわけだ。
だからといって、違和感を我慢して呑み込んでそうしているわけじゃない。
あくまで自分で舵を握っているというだけ。
そんなわけで私は、こういう○○の日とか○○DAYとかを"特別"なんかに据え置かない。というか、据え置いてなどやらない。
普段から伝えているから、敢えて「何かしなきゃ」という罪悪感がない。
したいならする。しなくても平気。
誕生日でも特別何かするわけじゃないスタイルを取る人っているけど、それと似ているかも。
ただ、期間限定の美味しそうなものを、大義名分で堂々と共に楽しめるから、つい、つられてしまうのだけどね。
だから人って結局、「気持ちで動き、やりとりしたい生き物」だって話だ。
さて、最後に。
人がゴシップネタで、やいのやいの言うのは何故かご存知だろうか。
実はそれ、一種の"グルーミング(毛繕い)"なのだそうだ。
では、何のためにそれをやるのか。
コミュニケーションを取るため、正確にはそのきっかけのアクションだ。
どんなに時代の進歩でプレゼントのクォリティーが上がろうとも、人は太古の昔から何も変わっていないのかもしれない。