
静けさを選び続けたら、今の私になっていた。―美しい生き方を探し続けた、一人のヘアメイクアップアーティストの記録―
人生が変わる瞬間というと、劇的な出来事を思い浮かべる人が多いのかもしれない。
涙を流した日。
大きな挫折を経験した日。
何かを成し遂げた日。
でも、私にはそういう瞬間がほとんどない。
私の人生が動く時は、いつも静かだった。
音が消える。
余計な思考が消える。
焦りが消える。
ただ、「これでいい」という感覚だけが残る。
それは、禅でいう「無」や「空」に少し似ている。
私は、その静けさを合図に人生を選んできた。
ふくいで生まれ育ち、二十歳で美容師になった。
美容という仕事は好きだった。
髪を整えること。
その人らしさを引き出すこと。
鏡を見た瞬間、お客様の表情が少し明るくなること。
私は、人の外見を変えたいのではなく、その人の内側にある美しさが自然と表に現れる瞬間が好きだった。
だから十四年間、美容師として働き続けた。
振り返れば、私の人生は決して波瀾万丈ではない。
誰より苦労したとも思っていない。
世の中には、もっと大変な経験をし、それを乗り越えてきた人がたくさんいる。
だから私は、自分の人生を「苦労話」として語りたいとは思わない。
私の人生は、とても静かだった。
ただ一つ違ったのは、私はずっと「心地よさ」を探していたということだ。
子どもの頃、私は外で遊ぶことも好きだった。
でも、小さな子どもの社会には、どこか息苦しさも感じていた。
誰が中心なのか。
誰と誰が仲がいいのか。
そんな空気に疲れることがあった。
だから私は、人よりも自然の中にいる方が落ち着いた。
森。
海。
川。
雪景色。
誰もいない広い場所。
風が通り抜ける音。
その静けさの中にいると、自分の呼吸が戻ってくるような気がした。
大人になってから茶道に惹かれたのも、きっと同じ理由だ。
茶室には、必要以上のものがない。
余白がある。
静けさがある。
私は昔から、「美しいもの」が好きだったのではない。
静けさを、美しいと思う人間だった。
侘び寂びという言葉を知るずっと前から、その感覚だけは体の中にあった。
三十四歳のある日、東京で受けたヘアアレンジの講習が、一つのきっかけになった。
「東京へ行こう。」
その決断は驚くほど静かだった。
新幹線の中で涙は流していない。
胸が熱くなったわけでもない。
ただ、解放感があった。
それまで何かに縛られていたというよりも、「ここを出てもいい」と、自分に許可を出せた感覚だった。
私は人生を変えようとしたのではない。
ただ、自分が心地いいと思える方向へ、一歩動いただけだった。
東京でブライダルヘアメイクとして働き始めた。
華やかな世界に見える仕事だけれど、私が惹かれたのは華やかさではなかった。
花嫁が、自分らしい表情になる瞬間。
その人自身が、その人として美しく立っている瞬間。
私はずっと、その一瞬を見つめてきた。
美容とは、人を変えることではない。
その人の本来の美しさを、邪魔しないことなのだと思うようになった。
四十歳を過ぎて、私はアートを始めた。
特別な理由はない。
「描いてみたい。」
ただ、それだけだった。
キャンバスに向かった時も、感動で震えたわけではない。
静かだった。
色を重ね、質感を作り、余白を残す。
私は絵を描いていたというより、自分の内側を整えていたのだと思う。
私の作品には、派手な色は少ない。
くすんだ色。
白。
黒。
深みのある色。
そこには、森や雪景色を見た時に感じた静けさがある。
侘び寂びがある。
私は今も、作品を通して「心地よさ」を探し続けている。
その延長線上に、「SOIE.」という名前が生まれた。
SOIE.はフランス語で「絹」。
しなやかで、柔らかく、形を変えながらも本質は変わらない。
私は、そんな人でありたいと思った。
強さを見せるために硬くなるのではなく、
状況に合わせてしなやかに変わりながら、自分らしさは失わない。
それが私の思う美しさだった。
最近、「人生を変えたい」という言葉をよく耳にする。
でも私は、人生は変えるものではなく、整えていくものだと思っている。
心地よくないものを少し手放す。
静かな場所を選ぶ。
好きなものを増やす。
そうしているうちに、気づけば人生の景色が変わっている。
私の人生は、その繰り返しだった。
今も私は完成していない。
ヘアメイクとしても。
アーティストとしても。
一人の人間としても。
まだ途中にいる。
でも、不安はあまりない。
人生のステージが動く瞬間を、私は知っているからだ。
その時はいつも静かだ。
音が消える。
思考が静まる。
「これでいい。」
その感覚だけが残る。
私は、その静けさを信じてきた。
そしてこれからも、きっと信じていく。
誰かと比べて生きるよりも、
昨日の自分より少し心地よく生きる。
私にとって人生とは、
成功を積み重ねることではない。
静けさを選び続けることだった。
振り返ると、
私は人生を変えようとしたことは、一度もない。
ただ、自分にとって心地いい方へ歩き続けた。
その結果が、今の私だった。