
物に重なる時間
残されたもの
両親を見送り、実家の片づけをしていた頃のことです。
父は大学で理学療法士を育てる仕事をしていました
書斎には専門書がびっしりと並び、どこから手をつけていいのか思いあぐねるほどでした。
試験問題を作るお手伝いをしたこともあり、一冊一冊を手に取るたび、父の仕事を思い出しました。
その多くは大学へ寄贈しましたが、それ以外にも茶道具や掛け軸、花瓶、抹茶茶碗など、たくさんの物が残されていました。
主人の実家は、また違った光景でした。
物入れからは義母が集めていた手芸材料が次々と出てきて、夫も義弟も見たことのない大正琴までありました。
さらに、きれいに洗ったかまぼこ板が何枚も。
「どうしてこんなものまで取ってあるの?」
みんなで笑いましたが、義父は日曜大工が得意で、簡単なリフォームまでしてしまう人でした。
きっと何かに使おうと思っていたのでしょう。
そう思うと、そのかまぼこ板まで義父らしく思えてきたのです。
残された物を見ていると、その人がどんな毎日を過ごしていたのかが、少しずつ見えてくるようでした。
暮らしの中で
遺品整理をしていて、物との付き合い方を考えるようになりました。
器は食卓で使われ、服は袖を通して季節を重ねる。
そんな当たり前のことを、私はいつの間にか忘れていたのかもしれません。
「もったいないから。」
「いつか使おう。」
そう思ってしまい込んでいた器が、わが家にもいくつかありました。
でも最近は、お気に入りの器で食事をする時間がとても好きです。
いつもの献立でも、「今日はこの器にしよう」と思うだけで、食卓の景色が少し変わります。
好きな服を着て出かける日もそうです。
ほんの小さなことですが、その積み重ねが毎日を心地よくしてくれることを、今になって知りました。
着物に袖を通す日
親が私のために用意してくれた着物があります。
ほとんど着る機会もなく、私は着付けもできません。
手放そうと思って調べてみると、買った時の値段と売る時の値段の差に驚きました。
でも悲しかったのは、その値段ではありません。
親が私のために選び、用意してくれた思いまで、安く値踏みされてしまったような気がしたのです。
だから最近は、処分を考える前に着付けを習ってみようかなと思っています。
せっかく私のために用意してくれた着物です。
一度くらいは自分で袖を通し、その時間を味わってみたい。
そのあとで「ありがとう」と言えたなら、それが私にとって一番自然な別れ方のような気がしています。
娘が選ぶもの
娘は、日々の暮らしをとても大切にしています。
何かを買う前には、SNSや雑誌を見ながら時間をかけて調べます。
そして、お店へ足を運び、自分が本当に気に入ったものを選びます。
私なら「これでいいかな」と決めてしまいそうな場面でも、娘は妥協しません。
暮らしも、美容も、服装も。
娘の基準はいつも、「自分が心地よいかどうか」です。
そんな娘を見ていると、「こんな選び方があるんだ」と感心することがあります。
お気に入りは偶然見つかるものではなく、自分の暮らしを大切に思うからこそ出会えるものなのかもしれません。
「好きなものだからこそ使えばいい。」
「まずは自分の気持ちを大切にしたらいい。」
そんな娘の姿を見ているうちに、私も少しずつ、お気に入りを今日使う暮らしが心地よく思えるようになりました。
これから
「いつか使おう」としまい込んできた私ですが、その「いつか」は案外やって来ないのかもしれません。
だから私は、お気に入りの器でご飯を食べます。
好きな服を着ます。
そして、近いうちに着物にも袖を通してみたいと思っています。
そんな暮らしを続けていった先で、子どもたちが私の残した物に触れながら、
「お母さん、これ、本当に大好きだったね。」
「いつも愛おしそうに使っていたもんね。」
そんなふうにつぶやいてくれたら嬉しい。
それはきっと、一つひとつの物に重ねてきた私の日々まで、受け取ってもらえたということなのかもしれません。