
泥の番人
ある夏の夕暮れ、宿屋『宿り木亭』のテラスで、主人のバルドが怪奇小説のためのアイデア帳を広げていました。その横では、旅の楽師のレンがお茶をすすっています。レンはバルドに促され、静かに語り始めました。その周りには、バルドの息子のトト、手伝いのニフ、そしてポットの横に陣取った風変わりな少女のミミがいます。
「さぁ、レン。さっき言っていた不思議な話を聞かせておくれ」
レンはバルドに促され、静かに語り始めました。
「去年のことです。僕は、この町を出て、ぶらぶらと南に向かったのだけど、何日か歩いたら、どこまでも続く一本道に出ました。周りは荒野で何もなかった。そんな場所で、僕は一人の奇妙な旅人に呼び止められたんです。彼はひどく怯えた様子で、僕に『頼む、ここから西へ三日歩いたところに、一軒家がある。その家の様子を見てきてくれないか』と言うんですよ。もう少し詳しいことを聞きたかったのだけれど、その旅人は逃げるようにあっという間に去っていったんです。
僕は、どうしようかと思ったんだけど、むくむくと好奇心が湧いてきて、行ってみることにしました。
だけど実際に着いてみると、僕はその家に入る気が失せちゃったんですよ」
バルドが聞きました。
「ふむ、どうして、その気が失せてしまったのだね? 一体、何があったのかね?」
「家全体の窓という窓、カーテンというカーテンが固く閉ざされていたんです。そして、中からはガタガタ、ドスンと、何かが暴れる恐ろしい音が響いていたんですよ。僕がドアノブに手をかけようとすると、鍵が内側から乱暴に閉められ、窓の隙間から目のようなものがギョロギョロと動いて、外にいる僕を監視するように睨みつけてきたんです。あとから分かったんだけれども、その目は土でできていたんです。こんな調子だったから、最初は僕も中に入れなかったんですよ」
レンは答えました。
「わあ……それじゃあ、どうやって中に入ったの?」
トトが身を乗り出して聞きました。
「僕はドアの前に座って、マンドリンを弾き始めたのさ。その家に漂う、ピリピリした雰囲気をなだめるように、心を込めてね。ゆっくりとしたメロディが流れるうちに、家の中の物音がピタリと止んだ。やがて、カチャリと静かに鍵が開いて、ドアが少しだけ開いたんだ。僕を受け入れるようにね。
そこで僕は、ドアをゆっくりと開けて中に入ったんだ。すると、暖炉の前に、あの旅人にそっくりな『土でできた人形』が座っていた。その人形はカタカタと関節を鳴らして立ち上がり、相変わらず僕をギョロギョロと睨みつけていたけれど、僕に危害を加える気配はなかった。その人形をよく見ると、人形の左胸の表面に、数本の毛が植え込まれていたんだ」
「ひえぇぇぇ! 胸から生えた毛!?」
ニフはお茶のカップをガタガタ震わせ、毛布にくるまりました。
「もうやめてよ、レン、夜にトイレに行けなくなっちゃう! それで、その毛は何だったの!?」
「ニフ、そう話を急くなよ。僕はそのまま、この家から出ていこうかとも思ったんだけれど、その人形のことがどうしても気になってね。その家にしばらく留まることにしたんだ。そして、数日間、その人形と不気味な共同生活を送ったんだよ。人形は、激しく暴れまわるか、僕をギョロギョロとした目で監視するかしたけれど、僕に直接危害は加えなかった。僕は、人形の監視を受けながらも、家の中をできるだけ調べてみた。そして、書斎の机の上に開いたまま残されていた古い本を見つけたんだ。そして、その本を読んで、ようやく全てが見えてきたんだよ。その本には『土でできた奴隷の作り方』が書いてあってね、ある特殊な土で人形をつくり、主人の髪の毛を人形の左胸に植え込むと、髪の毛の持ち主の言うことを聞く土人形が出来上がるんだ。この家の住人が、家を空けるにあたり、家に隠してある『大切な何か』を誰にも盗まれないよう、見張らせるためにその人形を作ったらしいのさ。だから、人形は、家中を監視していたんだよ」
ニフは怯えていたのが嘘のように、耳をピンと立てました。
「大切な何か……!? お宝!? もしかして金貨とか!?」
「だけどね、話はそこで終わりじゃない」
レンは静かに続けました。
「長い間放置され、守るべきものへの執着だけで動いていた人形は、いつの間にか『自我』を持ち始めていたんだ。旅から戻った主人が『もう戻ったから、土に還れ』と言っても全く言うことを聞かず、それどころか主人に襲いかかり、家から追い出してしまったらしいんだよ。だからあの旅人は、あんなに怯えていたのさ」
「へえ! 自分で作っておいて、自分の人形に家を乗っ取られちゃうなんて、これ以上ないくらいマヌケな男ね!」
ミミがポットのふたに手をかけながら、フフンと鼻で笑いました。
バルドはパイプの煙をくゆらせながら、深くうなずきました。
「ふーむ、守るべき財産が、守り手を怪物に変えてしまったわけか。皮肉なものだが、実に見事なドラマだ」
そこへ、奥の厨房から焼きたてのクッキーを持った女将のマーサが加わりました。
「まあ、おもしろそうなお話ね。クッキーはいかが? それでレンさん、その人形はどうやったら元の土に還るの?」
「ありがとう、女将さん」
レンはクッキーをひとつ受け取りました。
「本には、主人が人形に『水を注ぐ』と土に還ると書いてあった。だけど、主人は怖がって二度と近づけない。主人が戻らない場合の方法も小さく書かれていたんだが……それが僕には難解だった。『人形に無条件の愛を注ぐこと』と書かれていたんだ。ねえ、みんな。君たちなら、その人形にどうやって『無条件の愛』を注ぐかい?」
トトは真剣に考えて言いました。
「うーん……泥まみれで怖くても、ぎゅっと抱きしめてあげることかな? 離れていても、君のことが大好きだよって伝えるみたいに」
「ダメだよトト、泥が服についちゃうじゃないか!」
ニフは首を激しく横に振りました。
「僕なら……そうだな、その人形に金貨を1枚あげる! お金を与えることこそが、最高の愛だよ!」
「ふん、あんたの愛は安っぽいわね、ニフ」
ミミが言いました。
「だいたい『無条件』っていうのはね、その人形がどれだけ不細工で、どれだけ家の中をめちゃくちゃに壊したとしても、『あんたはあんたのままでいいよ』って放っておいてあげることじゃないかしら?」
「ふむ、ミミの言うことにも一理ある。何の見返りも求めず、ただ相手の存在そのものを認めること……。マーサ、君はどう思うね?」
バルドが尋ねると、マーサは優しく微笑んで答えました。
「そうねえ。その人形が、本当はどれだけ寂しくて、どれだけ怖がっているかを、ただ静かに分かってあげることかしらね」
「みんな、ありがとう」
レンは微笑みました。
「僕も、女将さんやミミと同じようなことを考えたんだ。僕は、ギョロギョロと僕を監視し続ける人形を無理に止めようとはしなかった。一軒家で、ずっと一人ぼっちで何かを守っていたのは、さぞ寂しかっただろうと思ってね。彼が家具をひっくり返しても怒らず、ただ好きにさせた。そして夜、暖炉のそばで、彼のためだけに一晩中マンドリンを弾き続けたんだ。彼を『恐ろしい怪物』としてではなく、一人の『孤独な友達』として包み込むようにね」
「それで、人形はどうなったの?」
トトが息をのんで聞きました。
「夜が明ける頃、人形は僕を監視するのをやめて、静かに僕の隣に座った。そして、泥の目から涙を流すように泥の粒をこぼしたんだ。誰に水をかけられたわけでもないのに、人形は安心したように自ら崩れ始めた。……だけど、完全に壊れるその直前、人形は最後の力を振り絞るようにして、部屋の隅にある『古いタンス』をそっと指し示したんだ。そしてそのまま、サラサラと音を立てて、ただの土へと還っていったよ。
驚いて、言われた通りにそのタンスの中を徹底的に探してみたらね……隠し引き出しがあって、そこから、拳の大きさほどもある、見事なサファイアの原石が出てきたんだ。人形は、最後まで命がけで守っていた宝物を、僕に託して消えていったのさ」
「さ、サファイア……!」
ニフがガタッと椅子から立ち上がり、目をギラギラさせました。
「それは本物のサファイアだよね!? それ、今はどこにあるの!?」
「あんなものは、持っていれば必ずやっかいごとの種になる。だから、その一軒家から一番近い森の地中深くに埋めてきちゃったよ。誰にも見つけられないようにね」
レンが事も無げに言うと、ニフは絶叫しました。
「な、何だってーーーっ!? もったいない! なんてことをするんだ、レン! 拳の大きさのサファイアだよ!?」
「おいニフ、落ち着きなさい!」
バルドが同じく目を輝かせて立ち上がりました。
「……レン、その森というのは、その家から見てどの方角かね? どんな木が生えていた? よし、ニフ、冒険の準備だ! 男のロマンが我々を待っているぞ! 私がシャベルを持つ!」
「賛成、賛成! 僕が地図を書くよ、旦那! 今すぐ出発だーーーっ!」
「ニフは、さっきまでトイレにも行けないって泣いてたくせに。バルドだって、小説のネタ探しをしていたんじゃないの?現金なひとたちね」
ミミがあきれ顔でタルトをかじりました。
「そうねえ。でも、その前に冷めないうちにお茶をどうぞ。掘り出すのは、明日になってからでも遅くはありませんよ」
マーサがクスクス笑いながら言いました。
夏の夕闇が迫る『宿り木亭』のテラスに、宝探しに息巻くバルドとニフの声、そしてすべてを優しく包み込むお茶の香りが、穏やかに広がっていくのでした。
おわり