
『30年目のラブレター ― 昭和の嫁が、令和の私に還るまで』
序章 なぜ、棘言葉だけが消えないのか
人はなぜ、傷つけられた言葉だけをこんなにも鮮明に覚えているのでしょうか。
義母は上品に見え、柔らかい笑顔を浮かべながら、ふとした瞬間に鋭い棘言葉を放つ人でした。 その棘は、30年経った今も私の胸の奥でチクチクと疼き続けています。
私はずっと「忘れよう」としてきました。 深く考えないようにしてきました。 でも、忘れられなかったのです。
第1章 息子の婚約者が気づかせた“真実”
息子が婚約者を連れてきた日、私は確信しました。
――義母は、私のことが嫌いだったのだ、と。
息子の婚約者は、可愛らしく、素直さがふわりと漂うようなお嬢さんでした。
お嬢さんと一緒にご飯を食べている時、並んで歩いている時、私はふと気づいたのです。
義母が、私に対して放った言葉を思い出し、蘇ってきたのです。
「〇〇さんは足首が太いから、回り廊下のカーテンを引く時は、つま先で歩きなさい」「〇〇さん、私が歩けなくなったら、あなたに車いすを引いてもらわないと」「やっぱり、息子がかわいいのよ」微笑みながら言いました。
私は目の前でお嬢さんに同じ言葉を言えるのだろうか。…いや、言えないと思いました。
皮肉や嫌味は、好意のある相手には向けられません。 では、なぜ私には言えたのか。 答えはひとつでした。
「私は、ずっと見下されていたのだ」 その事実に気づいた瞬間、過去の棘言葉が一気によみがえり、 30年の歳月を経てなお、胸の奥に鋭く突き刺さりました。
第2章 義実家という異文化への着地
義実家は、九州の田畑に囲まれた大きな入母屋の家に、 寡黙な大姑、九州男児そのものの義父、京都出身で上品ぶる義母とで暮らしていました。
私は29歳でした。 世間知らずで、結婚とは家と家の結びつきだという感覚もなく、ただ純粋に新しい生活を楽しんでいました。 そんな私に、義父は静かに言いました。
「内助の功は知っているかい。これからは、息子を支えてくれ。」 その言葉を聞いた瞬間、身が引き締まる思いと、どこか時代錯誤のような重さが胸にのしかかりました。 「山内一豊の妻」のように献身的であれという期待なのだろう――そう思うと、気持ちは複雑でした。
そして私は、義実家に足を踏み入れるたびに不安が胸を占めていきました。 「どう振る舞えばいいのだろう」 「間違えたら迷惑をかけてしまうのでは」 そんな思いが、若い私の心を静かに締めつけていました。
第3章 妊娠・出産と、孤独のNICU
妊娠は順調ではなく、私はNICUのある病院に入院することになりました。 大量出血の可能性が高く、「母体を優先します」と医師に告げられるほどのリスク出産でした。
その不安が現実となり、私は出血し、緊急手術で子どもを迎えることになりました。
その日は、"義父の誕生日”でもあり、夫や義父母にとっては喜びの日だったのだと思います。
けれども私は、出産直後に子どもを抱くことが出来ませんでした。
母乳室では、他の母親たちが赤ちゃんを胸に抱き、優しい声で授乳していました。 その光景を横目に、私は搾乳した母乳を冷凍し、NICUへ届けてもらうだけの日々です。
生まれてきた子の母になったのに、「すぐに抱きしめてあげられなかった」―― その悔しさと懺悔の気持ちで胸がいっぱいでした。
もし母が生きていたら、きっとそばで「大丈夫だよ」と慰めてくれたでしょう。 けれども、その優しい声はもうどこにもなく、私はただ静かに耐えるしかありませんでした。 いたたまれないほど孤独な時間でした。
そんな中、義母から手紙が届きました。
そこには、 「入院中、英気を養ってください」 と書かれていました。
本来は励ましの言葉だったのでしょう。
けれども、子どもを抱けない悔しさと不安でいっぱいだった私には、その言葉が冷たく響きました。
義母には、私の精神状態がまったく伝わっていなかったのです。
退院後、義母から届いたのは「布おむつ60枚」
期待に応えようと必死だった私は、ただ黙って受け取りました。
その沈黙こそが、当時の私の精一杯だったのだと思います
第4章 初節句と五月人形――「お下がり」が刺した棘
初節句。
無事に育ってほしい願いや愛情をこめて、五月人形の用意を考えていました。
ある日、義母から電話がありました。
夫が受話器を取り、しばらく義母と話した後、少し気まずそうな顔で私の方を向きました。
「〇〇さんの実家は、五月人形は何も用意されないの?って言ってる」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮むような感覚がありました。
私の母はすでに他界し、父は高齢で年金暮らしです。
兄と同居している父に、そんな気配りを求めることなどできないことは、私が一番よくわかっていました。
夫は続けました。
「もし用意しないなら、俺が使っていた五月人形でいい?」
私は、ほんの一瞬だけ言葉を失いました。 “用意しない”のではなく、“用意できない”のです。 でも、その違いを説明する気力もなく、ただ小さくうなずきました。
「……うん。私の実家は、そういうの、できないからね」
そう答えながら、胸の奥にじんわりと広がる寂しさを押し込めました。
4月初旬、大きな段ボールが3箱、玄関に積まれて届きました。
開けてみると、昭和40年代の3段飾りの五月人形が姿を現しました。
日焼けした毛氈、丸まってしまった太刀、色の褪せた太鼓。 そして、夫の名前が大きく書かれたのぼり旗。手紙が添えてありました。
手紙には、 「この五月人形は義母の母が用意し、のぼり旗は義父の母が用意したものです」 と記されていました。
その人形と手紙を見た瞬間、胸の奥がじわりと重くなりました。
母方が用意するものだと知っていたからこそ、私の実家が用意できなかったことへの引け目がまず押し寄せました。
けれども、それ以上に辛かったのは
―― 「お下がり」であるという事実でした。
義母の行いは、私の“持たざる側”をそっと突きつけてくるようでした。
そして義母には、いつもどこか“優位に立つ”空気がありました。
言葉の端々が、私にみじめさと引け目を感じさせるのです。
当時の私は、義母の行動の奥に、私の実家をどこか軽んじられているような気配さえ感じていました。
その感覚は、誰にも言えないまま、静かに胸の奥へ沈んでいきました。
今思えば、あのとき夫に、 「お下がりには抵抗がある」 「わが子のために、私たちの手でささやかな人形を買いたい」 そう伝えればよかったのだと思います。 けれども当時の私は、その気持ちを言葉にする勇気がありませんでした。
新聞紙で兜を折り、子どもにかぶせて写真を撮ったあの日。
「これが、この子の兜」 そう思いながらも、胸の奥にはどこかみじめな気持ちが残りました。 その感情は、今でも静かに私の中に横たわっています。
第5章 義実家のお正月と“おしんの台所”
子どもが1歳になった年末年始、義実家で過ごすことになりました。
義実家は日本の伝統的な家で、”しきたり”があるとは、頭では理解していました。
私は、どうふるまっていいのか、間違ったら迷惑かけるなど色々考えて、行く前から怖気づいていました。
また、今までとは違い、子どもと長い滞在で、体力・精神的にも負荷がかかりそうでとても不安でした。
義母が、特急停車駅まで、車で迎えに来てくれました。
荷物をトランクに入れて、夫は迷わず助手席のドアを開けました。
ーーーあれ、前に座るんだ。と思いました。
私と子どもは後部座席に乗ります。
義母は夫と楽しそうに話をしています。
車窓から見える景色は、ぽつりぽつりと民家が並んで、遠くには冬の山々が連なっています。年末ですが、歩行者はひとりもいません。
私は後部座席で子どもを抱きながら心細さを押し殺していました。
義実家に着き、一服すると義父は夫を連れて出かけます。
お付き合いのあるお寺に挨拶に出かけ、お飾りで使う「うらじろ」の採れる山に行くようです。
ーー夫とは別行動なのか。
今から数日間は、『夫は外の仕事』『私は台所に隔離される』途端に心細くなりました。
土間の台所でお正月料理の準備を任されました。
「新鮮なイナダ」「ナマコ」「地域のかまぼこ」・・・など用意してあります。
ーー私は何をやるんだろう……これから始まる「未知のお正月」へ怖気づき、めまいがしそうでした。
いよいよ、おせち料理の準備です。
義母は、「当然作れるでしょう」と言わんばかりの口調で言いました。
「菊花かぶを作って」
家庭科で習った記憶を必死にたぐり寄せ、蕪を割りばしで挟み、縦横に包丁を入れていきます。
続けて義母が言います。
「三杯酢作って」 ――どうやって作るんだっけ。 お酢、砂糖、醤油……これで合っているのだろうか。
おそるおそる味を整えながら、私は手を動かしました。
30年前、スマホでレシピを調べることなどできない時代です。
義母の指示は止まりません。
「もうちょっと、甘くして」
「お煮しめ作るから、人参は人参だけで、しいたけはしいたけだけで、煮ますから」
その言葉を聞きながら、心の中でつぶやきました。
一緒に煮るのはだめなのか。 これが、この家の“しきたり”なのだろうか。
きついな……。
義母の声は淡々としているのに、私の胸の奥では、 焦りと不安と疲労がじわじわと広がっていきました。
「出来て当然」という空気の中で、私はただ黙って従うしかありませんでした。
ストーブもない12畳ほどの土間の台所で、私はサンダルを履いたまま、お正月の準備をしていました。
冷たい土間の空気が、足元からジワジワと体に上がってきます。
子どもをおんぶしながらの台所仕事は、想像以上に体にこたえました。
義母は容赦なく次の指示を出します。
直径50センチほどの竹ざるに山盛りになった里芋を持ってきて、 「この里芋を剥いて」とだけ言いました。
「どのくらいですか?」と聞いても、義母ははっきり答えません。
「たくさん必要だから…」 その言葉だけが、冷たく土間に響きました。
――手が痒くなりそう。 ピーラーはないのか。 包丁も使いづらい。 これは本当に現代なのだろうか。
一番つらかったのは、2、3個ではなく、 山盛りの里芋を、数十個も剥かなければならないという現実でした。
おんぶした子どもの体重が、肩と腰に食い込み、 井戸水で野菜を洗い、手は一日で荒れていきました。
心の中は、静かにあふれる涙でいっぱいでした。 「ああ……もう無理かもしれない」 冷たい井戸水が、さらに私の心まで冷たくしていきました。
冷たい土間で、子どもをおんぶしながら働く自分の姿は、 まるで昭和初期のようでした。
ふと、昔話題になったドラマ『おしん』の主人公になったような気さえしました。
時代が逆戻りしたような感覚に、胸の奥がきゅっと締めつけられました。
夜、夫に「つらい」と伝えた時、 夫は「ごめんね」と言い、 コンビニへハンドクリームを買いに走ってくれました。
あの日の私は、本当によく頑張っていたのだと、今なら思えるのです。
第6章 大姑の静かな味方
義母から夫に連絡があり、義実家の「増築」をするという話を聞かされました。
2階の義父母の部屋の隣に、2部屋を増やすらしく、その地鎮祭に、夫へ出席の依頼があったのです。
日程を聞いた瞬間、胸がざわつきました。
地鎮祭の日は、わが子の誕生日当日。
子どもの誕生日は義父の誕生日でもあり、せめて家族3人で祝いたいと思っていたのに、私は何も言えずにいました。
数日後、義母は「誕生日だから」と言い、私と子どもも同行することになりました。
3人ではないけれど、夫と一緒に祝えることに少し安心しました。
当日、地鎮祭が始まりました。
けれども、母屋に住む大姑の姿はありません。
私は義父の還暦祝いに家族で贈ったカメラを託され、カメラマンとしてファインダーを覗き込みました。
晴れやかな顔で並ぶ義父母と夫。
その輪の外側に立つ私は、シャッターを切りながら、なぜか胸が寂しくなりました。
うまく撮れただろうか、自信も持てませんでした。
地鎮祭が終わる頃、大姑は茶の間で静かにお茶を飲んでいました。
食事の時も、テレビを見ている時も、義母に話しかける姿を見たことがありません。
もちろん私にも、気軽に声をかけることはなく、多くを語らない人でしたが、どこか揺るがない芯の強さを感じる人でした。
結局、大姑は最後まで地鎮祭に参加しませんでした。
その後、子どもがぐずり始めました。
義実家には子どもをあやすオモチャを持ってきていません。
ふと、テレビで見た「即席のオモチャ」を思い出しました。空のペットボトルにビーズを入れるだけの簡単なものです。
玄関前には南天の実が赤く実っていました。
それをビーズ代わりに使おうとひらめき、南天の実を摘み、洗い、乾かしてペットボトルに入れました。
「〇〇、みてみて〜」 私は手を高くあげて子どもに見せました。
すると義母が、穏やかな声のまま、しかし冷たく刺すように言いました。
「なに、それ。なんなの。」
また何も言えずにいると、茶の間に座っていた大姑が小さな声で言いました。
「ガラガラだね。南天の実で…」
その一言は、私をそっと肯定してくれるようでした。
義母はくるりと背を向け、無関心に台所へ戻っていきました。
大姑は、静かに、確かに、私の味方をしてくれたのです。
小さな1コマでしたが、私にとって忘れられない瞬間でした。
第7章 義母の声と、義父の手
子どもが2歳の年末年始、私たちはまた、義実家で過ごすことになりました。荷物は事前に送っておき、できるだけ身軽に移動しようと夫と相談したからです。
移動日前夜は、私は眠れませんでした。あの土間の台所で、何十個もの里芋を剥いた記憶がフラッシュバックし、不安が胸を締めつけたのです。
特急停車駅まで迎えに来たのは義父でした。車内では自治会の自慢話が続き、私は上の空で聞いていました。義実家に着くと、玄関には送った荷物が土間に無造作に置かれています。義母は歩きながら、夫には聞こえないような小さな声で言いました。
「随分、どれだけ服を持っているの。手荷物で持ってくればよかったのに…」
送料のこと?冬物だから?お金を出したのは私たちなのに――心の中でつぶやきながら、私は聞こえないふりをしました。
夫が荷物を2階へ運ぶ間、私は急いで段ボールを開け、エプロンを取り出し、ハンドクリームをポケットに入れて茶の間へ向かいました。
今回は覚悟して、エプロンを持ってきました。
義母がそれを見て、少しでも「お嫁さんとして合格」と思ってくれたら――そんな子どものような期待を抱いていました。けれど義母は無言でした。
私は何を期待していたんだろう、 肩が静かに落ちました。
茶の間で休んでいると、子どもの夕飯が気になり始めました。
義父母の生活は緑茶と牛乳だけ。
アレルギーが心配で、まだ食べさせていない食品もあります。
帰省前は「嫁としての任務」で頭がいっぱいで、子どもの事まで気が回らなかったのです。夫に頼んで麦茶と食パンを買ってきてもらいました。
その後、夫は義母に頼まれた蛍光灯の掃除や風呂掃除に追われました。
夕飯前に蛍光灯を外すと、ふわりと埃が舞い上がります。
ーー明日にすればいいのに、そう囁こうと一歩踏み出したものの、言葉にはなりませんでした。
埃が落ちてくる前にその場を離れたのは、自分を守る為でもあり、言えない自分をごまかす為でもありました。
私はエプロンをつけ、夕飯の準備に入りました。
土間の台所は、台所であり、風呂を沸かす場所でもあります。
薪で焚く風呂釜の炎が、冷え切った土間を少しずつ温め、張りつめていた私の心もゆるめていきました。
ーーなるほど、これが昔の暖房器具なのね。
義母が夫に「うちわで扇いで」と指示し、炎の調節に奮闘してます。私は笑ってしまいました。その姿に、少しだけ救われる気がしました。
夕飯が終了し、食後のお茶の時間、私は次の家事の心配をしていました。
食器を重ね始めると、義母がすまし顔で言いました。
「まだ早いわよ。もうちょっと休みなさい」
気遣いなのか、命令なのか分からず戸惑いました。
早く片付けてゆっくりしたいのに、義母の真意が読めません。
その時、義父がみかんの皮を丁寧に剥き始めました。皮が切れないよう指先で力を抜き、白い筋をきれいに取り除き、半分に割って子どもに差し出しました。几帳面で優しい義父らしい光景でした。
私はふと願いました。
――このみかんの皮のように、わが子をいつまでも優しく包んでくれますように。
第8章 「台所に立つ私」と「立たない妹」
年末年始の帰省2日目の午後に、庭に1台の大きな車が駐車しました。
義母が「〇〇(妹)が来たわ~」と弾んだ声で、土間の玄関に向かいます。
表情も柔らかくなり、笑顔を見せながら、「疲れたでしょう。」と
義妹夫婦をねぎらっていました。
義妹の子は、私たちの子どもと1歳違いです。
大晦日が賑やかになることに、私も嬉しく雰囲気が明るくなるだろうと安堵しました。
義妹夫婦は、2階に上がり、義母も義妹の子どもを抱きながら、後ろからついていきます。
2階から義母が呼びます。
「増築した部屋を義妹たちに使ってもらいますから」
丁寧な口調で言いました。
義妹と何か話し合われたのでしょうか…。
私たちの荷物は、2階にある以前義父母が使っていた部屋に、
移動することになりました。
説明はなく、義母の中ではすでに筋書きが出来あがっていたのかもしれません。
台所に立つ私に、義母がふいに言いました。
「〇〇(妹)は、小さい子がいるから、台所には立たないから」
その言葉が耳に入った瞬間、胸の奥にぎゅっと掴まれたような痛みがありました。返事をする余裕はありません。
昨年、私は土間の台所で、山のような里芋の皮を剥きました。
子どもをおんぶしたまま、手は冷たく、腰は痛くても、誰にも文句を言わずに、逆らうことなく、里芋を剥いたのです。
「あの時の私は、どう扱われていたんだろう」という思いが次々に浮かび、冷たい水で野菜を洗いながら、涙が頬を伝わります。
夕飯の支度をする時間になりました。
今日のメニューは「すき焼き」です。
義母は、朝市で牛肉を奮発したことを、私たちや義妹夫婦に、誇らしげに
言います。
冷蔵庫には、竹皮に包まれた牛肉があります。
畑から泥のついたたくさんのネギを、大きな新鮮な白菜、肉厚な大きなしいたけ、食材を見るだけで、夕飯が楽しみです。
義母のダメ出しが飛んできました。
竹皮からお肉を出して並べていたら、
「お肉は半分に切って。全部食べずに、冷蔵庫に残しておいて」
いいお肉だから…ってこと?義母の“ルール”に従いながら、
冷蔵庫に半分切ったお肉を入れます。
私は、義母が気に入るように、ただ手を動かすしかありません。
副菜のポテトサラダを作っていると義妹が来て、
「塩・コショウします?」と聞きました。
答えるとすぐ茶の間へ戻り、「お母さん、やっぱり塩・コショウするんじゃない?」と言います。義母の反応はなく無言です。
私は自分のやり方で、作るしかありませんでした。
すき焼きを作る時間になりました。
「●●家(義実家)では、すき焼きを作るのは男の人なのよ」
義妹がそう言った瞬間、私は少し驚きました。
ここの家では、「台所仕事」は女性の役目だと思い込んでいたからです。
テーブルの上にはコンロが置かれ、夫は義父の隣に行き、高級肉を鍋に広げ、酒を回し入れていました。
その様子を、義母はじっと見つめながら、生卵を割りはじめます。
「あっ、生卵……。子どもにはまだ食べさせたことがない」
義母は“アレルギー”のことなど気に留める様子もなく、
当然のように子どもにも生卵を差し出しました。
私は慌ててその卵を夫にそっと渡し、子どもには生卵をつけずに取り分けます。
義母に悟られないように、そっと、そっと。
「まだ、食べさせたことないんです」
あの場の空気では逆らいづらく、声に出せませんでした。
お風呂の時間になると、義実家では決まった順番があります。
義父の次は夫です。
義母が「ほら、あなたも入りなさい」と促すのがいつもの流れです。
夫は、最後になる私を気遣って、いつも“からすの行水”のようにさっと上がり、「〇〇、早く入りなよ」と私に声をかけてくれます。
義母や今回は義妹夫婦もいます。
「私は熱いお風呂が苦手なので」と遠慮し、最後のぬるくなったお風呂に入るのが、いつもの私の役目です。
気がつけば深夜1時です。髪はドライヤーで乾かさず、
そっと2階に行きました。
子どもは夫が寝かしつけてくれていました。
終章 30年後の私が「あの頃の私への手紙」
あの頃のあなたへ。
1990年代、山口智子さん主演の『ダブルキッチン』を夢中で見ていたあなたは、嫁姑の関係は努力すれば何とかなると信じていましたね。
けれど、あなたが嫁いだ先は「昭和の家」。
義母は京都の気質を持ち、義父は九州男児そのもの。
家の中には、縦のつながりを重んじる空気が濃く流れていました。
平成になり、女性が精神的に自立し始めた時代。
あなたはその変化の波の中にいながら、「昭和のお嫁さん」という型の中に押し込まれていたのだと思います。
義母の「三つ子の魂、百までも」という言葉。
新天地で働き始めたあなたに「子どもが可哀想でしょう」と電話で責めた声。
義実家に行くたびに感じた違和感。 それでも「愛があれば大丈夫」と自分に言い聞かせていたあなたは、本当に健気でした。
次々と降ってくる義母の嫌味や冷たい態度に、あの頃のあなたは「ただ耐える」しかなかった。 反論すれば角が立ち、黙れば自分が消えていく感覚。 「自慢のお嫁さんでいなきゃ」「この家族の一員にならなきゃ」 そんな狭い場所で必死に頑張っていたのです。
あなたは「昭和のお嫁さん」と「平成のお嫁さん」の狭間に立たされていて、 その苦しさは、あなたのせいではなかったと思います。
今の私が、あの頃のあなたへ伝えたいこと
あれから30年の月日が流れました。
私は義母と距離をとっています。
チクチクと言われ続けた年月を経て、私はもうあの頃の私ではありません。
私は自分の感情を言葉にできるようになりました。
何が理不尽だったのかがわかりました。
「時間が解決した」のではなく、私自身が成長し、語れる強さが育ったのだと思っています。
話すこと、書くことは、過去を蒸し返すことではないと思います。
過去の自分を受け入れ、私の人生の一部として受け止めることなのだと
今の私は知っています。
そして、これから姑になる私へ
時代は変わり、ライフスタイルも価値観も変わりました。
やがて私も「姑」という立場になります。
私が義母に求め続けたものは、たった二つでした。
「家制度」からの解放と「尊重」。
息子にも、パートナーにも「親しき中にも礼儀あり」 境界線を踏み越えず、感謝を言葉にすること。 それが、これから姑になる「私の決意」です。
息子夫婦を尊重し、スマートな距離感を保ち、互いをリスペクトする関係でいること。 それがきっと、息子が一番喜ぶ生き方だと、今の私は確信しています。
30年前のあなたへ、最後にひとこと
あなたは弱くなんてなかったのです。
ただ、時代と家の価値観の狭間で、戦っていただけです。
その孤独を、私はもう理解しています。
あなたが耐えた日々は、私の中で確かな力になりました。
あなたが流した涙は、私の優しさになりました。
あの頃のあなたがいたから、今の私がいます。
そしてこれからの私は、誰かを傷つけない姑になります。
あなたが願い続けた「尊重される家族」を、私がつくっていきます。