
思いこみの深度
優しさだと思っていたものの、半分は思いこみだった。
三つの「キレる」瞬間。
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一話 母の予定表
「先生、この子、思い通りにならないと本当にすぐキレるんです」
母親は付箋だらけの手帳を鞄から出した。息子の翔太は椅子の上で足をぶらぶらさせながら、床の一点を見ている。
「今日も、朝ごはんの卵焼きが甘くなかったってだけで、皿を投げたんです。いつもは甘い卵焼きなのに、今日はしょっぱくして、それでもう...」
賀来はカルテ記入を止め、母へたずねた。
「お母さん、翔太くんに聞いてみたことはありますか。なんで甘い卵焼きだと思ってたのか」
母親は一瞬止まった。
「聞くも何も……いつもそうだから、そう思うじゃないですか」
「翔太くんも同じなんです。いつもそうだから、今日もそうだと思いこんでる。裏切られた、と感じた瞬間には、もう『なぜ今日はしょっぱいのか』を考える余裕がない。ワーキングメモリという、頭の中の作業台が狭いんです。予測とのズレを検証する前に、感情が先に着地してしまう」
翔太が初めて顔を上げた。
「……ママ、なんで味変えたの」
母親は答えられなかった。息子の「思いこみ」を叱る前に、自分もまた「聞けば分かるはず」と思いこんでいたことに、賀来は何も言わなかった。
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二話 カウンターの向こうで
区役所の福祉課から、職員研修の依頼が来た。「暴言を吐く来庁者への対応」というテーマだった。
賀来が呼ばれたのは、ある事例がきっかけだった。生活保護の申請に来た男性が、窓口で突然大声を上げ、書類を投げつけたという。
「なぜ書類が足りないと分かった時点で、冷静に聞けなかったのか。そこが分からないんです」と担当者は言った。
賀来は録音記録を聞かせてもらった。職員の説明は正確で、丁寧だった。だが早口だった。
「彼の中では、窓口に来た時点で『今日で終わる』という予定表がすでに出来上がっていたんだと思います。書類不足という一言が、その予定表を丸ごと壊した。壊れた瞬間、彼の頭にあったのは書類の中身じゃなく、また振り出しに戻る絶望だけだった」
「でも、こちらは何も悪いことをしていません」
「そう、悪いのはどちらでもない。ただ、彼にとっての『分かっているはず』と、あなたの『説明したはず』が、すれ違ったんです」
担当者はしばらく黙ってから、「思いやりのつもりで丁寧に話したのに」とつぶやいた。
賀来はうなずいた。それも、思いこみの一種だ、とは言わなかった。
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三話 少年院の面接室
「殴った理由、覚えてない」
少年はそう繰り返した。担当の法務教官は、賀来の顔をちらりと見た。またか、という顔だった。
賀来は少年の対面に座った。
「殴る前、何を考えてた」
「別に。あいつが、俺のこと舐めた目で見たから」
「舐めた目、ってどんな目」
少年は答えに詰まった。長い沈黙のあと、「分かんない」と言った。
「それでいいんだ」と賀来は言った。「本当は、その目を見た0.3秒後にはもう手が出てた。『舐められた』という結論だけが先に出来上がって、その根拠を確かめる時間はなかった。今聞かれても、後から理由を探しても、見つからないのは当然だ」
教官が身を乗り出した。
「先生、それは言い訳になりませんか」
「言い訳じゃありません。仕組みの説明です。仕組みが分かれば、次に同じ目を見た時、殴るまでの0.3秒に、別の一手を挟む練習ができる。理由を後付けで責めても、この子は変わらない」
少年は初めて、賀来の目をまっすぐ見た。
「……先生、俺、頭悪いんじゃなくて」
「うん。悪いんじゃない。速いんだ、いろんなことが」
少年は何も言わなかったが、握っていた拳が、少しだけ緩んだ。
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三つの「キレる」は、すべて同じ地図の上にある。予測と現実がずれた瞬間、検証する暇のないまま、思いこみが答えを出してしまう——優しさも、暴言も、暴力も、実は、根は同じ場所から生まれている。
児童精神科医
賀来 誠司