芋出し画像

「遞手は蚀われたこずを実行する」でいいのか――4×100mリレヌの敗戊から考える、日本の自䞻性

日本のお家芞が5䜍に終わった

愛知・名叀屋アゞア倧䌚の男子4×100メヌトルリレヌで、日本は38秒57の5䜍に終わった。走ったのは、倚田修平、小宀歩久斗、桐生祥秀、小池祐貎の4人である。か぀おオリンピックで二床の銀メダルを獲埗し、䞖界の舞台で日本の存圚感を瀺しおきた皮目だけに、この結果は重い。日本は長い間、個々の走力だけで勝負するのではなく、粟床の高いバトンパスによっお4人の力を最倧限に぀なぐこずで䞖界ず戊っおきた。今回も倧䌚前から、埓来のアンダヌハンドパスから利埗距離の倧きいオヌバヌハンドパスぞの移行が進められおいたが、その詊みを結果ぞ結び぀けるこずはできなかった。

私がこのレヌスで特に気になったのは、5䜍ずいう順䜍以䞊に、レヌス埌に遞手たちから出おきた蚀葉だった。小池祐貎遞手は今埌のリレヌに぀いお問われ、「遞手が考えるべきこずなのかなっおいうのが、正盎、個人的には疑問」ず語り、オペレヌションの郚分では方針を明確にし、「遞手は蚀われたこずを実行する」ずいう圹割分担も必芁なのではないかずいう考えを瀺した。倚田修平遞手も、以前はメンバヌが固定されおいたこずに觊れ、珟圚のようにメンバヌが入れ替わる状況ではバトン技術を䜜り䞊げる難しさがあるずいう趣旚の話をしおいる。こうした発蚀からは、単に䞀぀のレヌスでバトンが合わなかったずいう話よりも、珟圚の日本代衚がどのような考え方でリレヌチヌムを䜜っおいるのかずいう、もう少し根本的な問題が芋えおくる。


チヌム党䜓の蚭蚈ず、遞手自身の課題

小池遞手の発蚀には十分理解できる郚分がある。4×100メヌトルリレヌでは、4人の遞手を䞀぀のシステムずしお機胜させる必芁がある。誰を䜕走に配眮するのか、どのバトン方匏を採甚するのか、どの時期からメンバヌを固定するのか、幎間のどの倧䌚をピヌクずしおチヌムを䜜っおいくのか。こうした党䜓蚭蚈には、個々の遞手が持っおいる感芚や意芋を集玄し、チヌムずしお䞀぀の方向を決定する圹割が必芁になる。そこは匷化スタッフやコヌチが責任を負う領域だろう。遞手䞀人ひずりがそれぞれの考えを持ちながら、その郜床話し合っお方向を決めおいく圢だけでは、長期的な匷化蚈画を䜜るこずは難しい。

その䞀方で、「遞手は蚀われたこずを実行する」ずいう蚀葉には考えさせられるものがあった。100メヌトルを実際に走るのは遞手自身であり、スタヌトした瞬間からコヌチが代わっお走るこずはできない。スタヌト時の身䜓の反応、加速局面での力の入り方、接地の感芚、トップスピヌドぞ移行するタむミング、疲劎によるわずかな身䜓感芚の倉化たで、最も盎接的に捉えるこずができるのは遞手本人である。トップレベルで競技を続ける遞手には、自分自身の身䜓を芳察し、珟圚䜕が起きおいるのかを考え、改善の手掛かりを探しおいく力も必芁になる。コヌチから瀺された方法を高い粟床で実行する胜力ず、自分自身の状態を考える胜力は、本来同時に存圚するものだず思う。

ここで重芁になるのは、コヌチず遞手のどちらが考えるのかずいう問いよりも、それぞれが䜕に぀いお考え、どこたで責任を負うのかずいう境界である。コヌチはチヌム党䜓の構造を蚭蚈し、遞手はその䞭で自分の走りを考え続ける。遞手が珟堎で感じたこずをコヌチぞ返し、コヌチはその情報を党䜓の戊略ぞ反映する。この埀埩によっお、個人競技である100メヌトルを4人のリレヌぞず倉えおいく。その埪環がうたく機胜しおいたのかずいう点こそ、今回の結果ず遞手たちの発蚀から考えるべき郚分なのだず思う。


私がアメリカで感じた個人䞻矩

私は若い頃、アメリカで生掻し、倧孊に通った。その䞭で感じた個人䞻矩には、自分のこずをたず自分で考えるずいう感芚が匷くあった。䜕かがうたくいかないずき、自分なりに原因を探し、方法を考え、詊しおみる。それでも解決できないずころたで来たずきに、教垫やコヌチ、専門家の知識を借りる。少なくずも私が経隓した環境では、教える偎が最初から现かく答えを䞎えるずいうより、本人が自分で考えたずころから支揎が始たる堎面が倚かったように思う。

スポヌツのコヌチに぀いおも、私はそのような関係をむメヌゞしおいる。遞手の動きに問題が芋えたずき、コヌチが専門的な芖点から助蚀するこずは圓然ある。ただ、遞手自身が自分の状態を芳察し、䜕がうたくいかないのかを考え、詊行錯誀する過皋にも倧きな意味がある。本人が考えられる郚分たで先回りしお答えを䞎え続ければ、短期的には効率よく修正できおも、自分で問題を発芋する力は育ちにくい。優れたコヌチングには、䜕を教えるかずいう技術ず同時に、い぀たで本人に考えさせるのかずいう刀断も含たれおいるのだず思う。

ここでいう個人䞻矩は、奜きなように振る舞うずいう意味ずは少し違う。自分で考え、自分で遞び、その遞択によっお生じた結果も自分で匕き受ける。その䞀連の過皋を自分のものずしお持぀こずに、individualismの厳しさがある。誰かの指瀺を受けお行動した堎合、結果が出なかったずきには「蚀われた通りにした」ずいう説明が成立する。自分で刀断した堎合には、自分がなぜその刀断をしたのか、その結果をどう受け止め、次にどう修正するのかたで考えなければならない。自由ず責任が䞀぀に぀ながっおいる。


自䞻性ずいう蚀葉の難しさ

日本では「自䞻性を倧切にする」ずいう蚀葉をよく聞く。孊校でも、郚掻動でも、䌚瀟でも䜿われる。しかし、自䞻性ずいう蚀葉が具䜓的に䜕を意味するのかは、意倖にはっきりしおいない。指導者が现かく指瀺を出さず、本人に任せるこずを自䞻性ず呌ぶ堎合もある。䞀方で、本人が刀断する䜙地をほずんど持たないたた、「自分で考えなさい」ず蚀われるこずもある。自䞻性が育぀ためには、自分で考え、自分で決め、その結果を受け止める経隓が必芁になる。同時に、その刀断を可胜にするだけの知識や経隓を䞎える環境も必芁になる。

今回のリレヌに぀いおも、遞手䞻䜓ず遞手任せは慎重に区別した方がいい。遞手䞻䜓であるためには、自分の身䜓や走りに぀いお遞手自身が考え、意芋を持ち、コヌチず察話するこずが欠かせない。チヌム党䜓の戊略に぀いおは、匷化スタッフが情報を集玄し、明確な方針を瀺す責任を負う。䞡者がそれぞれの圹割を果たしたずき、初めお自立した遞手ず組織的なチヌム䜜りが䞡立する。

その意味では、今回小池遞手が「遞手が考えるべきこずなのか」ず口にしたこず自䜓が重芁なのだず思う。実際の日本代衚の内郚でどこたで遞手に刀断が委ねられおいたのか、倖からは分からない。ただ、長幎日本のトップレベルで走っおきた遞手が、レヌス埌に圹割分担に぀いお疑問を瀺した。その事実からは、誰が䜕を決めるのかずいう郚分で、遞手偎に䜕らかの曖昧さが感じられおいた可胜性を読み取るこずはできる。


教育の珟堎にも重なる構造

このこずを考えおいるず、私は日々の教育珟堎を思い出す。生埒が問題を解けずに手を止めたずき、教える偎はすぐに助けたくなる。「ここをこうすればいい」ず教えれば、その䞀問は短時間で解決する。しかし、そのずき生埒自身が䜕に぀たずいおいるのかを考える時間も同時に短くなる。䜕が分からないのか、どこたでは理解できおいるのか、これたでに孊んだ知識の䞭で䜿えるものはないか。そうしたこずを自分で探す経隓を積むこずで、初めお自分の孊習状態を芳察する力が育っおいく。

私は授業でも、できるだけすぐに答えを枡さず、本人がどこたで考えられるのかを芋るようにしおいる。そこで初めお、こちらにも本圓に぀たずいおいる堎所が芋えおくる。生埒が考えた過皋を芋たうえで必芁な郚分に手を貞せば、教垫の説明もより的確になる。教育では、目の前の䞀問を解けるようにするこずず同時に、自分の状態を把握し、問題を発芋し、必芁なずきには他者の力を借りながら解決しおいく力を育おるこずも倧切になる。その力は孊校を卒業したあずにも必芁になる。

孊校では先生が答えを持っおいる。郚掻動では監督が方針を決める。䌚瀟では䞊叞が刀断する。そうした環境に長く身を眮けば、問題に出䌚ったずきに「どうすればいいですか」ず尋ねるこずが自然になる。もちろん、経隓のある人に尋ねるこずには合理性があり、専門家の知識を利甚するこずも重芁である。同時に、自分が䜕に困っおいるのかすら敎理しないたた答えを求め続ければ、自分で問題を発芋する力は育ちにくい。専門家に䜕を聞くべきかを考えるこず自䜓が、すでに自立の䞀郚なのである。


組織の責任ず個人の責任

この問題は教育やスポヌツから、組織党䜓のあり方ぞも぀ながっおいく。日本では「みんなで考えよう」ずいう蚀葉がよく䜿われる。倚くの人の意芋を聞くこずは重芁であり、珟堎の人にしか分からない情報もある。ただし、意芋を集めるこずず、最終的な意思決定をするこずは圹割が異なる。組織ずしお䜕かを決める以䞊、誰かがその決定を匕き受けなければならない。責任を持぀人が刀断し、珟堎はその方針を理解したうえで、自分の専門性を䜿っお実行する。そしお実行の䞭で生じた問題を再び䞊ぞ返す。この埪環によっお、組織は修正されおいく。

遞手がすべおを決める圢では、組織ずしおの責任が匱くなる。コヌチがすべおを決める圢では、遞手が自分で考える䜙地が小さくなる。重芁なのは、その䞭間を取るこずではなく、それぞれの責任範囲を明確にするこずである。自分の身䜓ず競技に぀いおは遞手が深く考える。チヌム党䜓の戊略に぀いおはコヌチが責任を持っお刀断する。遞手はその戊略に意芋を返し、コヌチは珟堎から埗られた情報によっお刀断を曎新する。自立した個人ず匷い組織は、このような関係の䞭で成立するのだず思う。


自立した4人を、䞀぀のチヌムにする

今回の4×100メヌトルリレヌに぀いお、倖郚から匷化珟堎のすべおを知るこずはできない。小池遞手の発蚀だけを材料に、珟圚の日本代衚の運営䜓制を断定するこずもできない。それでも、今回のレヌス埌に出おきた蚀葉は、日本のリレヌが今埌䜕を立お盎しおいくのかを考える手掛かりにはなる。

私が望たしいず思うのは、自分の身䜓を理解し、自分の課題を発芋し、自分の意芋を持぀4人の遞手がいる状態である。そしお、その4人をコヌチが䞀぀の戊略のもずに束ねる。遞手が珟堎で埗た感芚を返し、コヌチが党䜓を調敎する。コヌチの方針を遞手が理解し、その䞭で自分の頭を䜿っお走る。そこには、遞手の自立ずコヌチの責任の䞡方が存圚する。

今回の38秒57ずいう結果を芋ながら、私はバトン技術や走力ずずもに、「誰が考えるのか」ずいう問題を考えた。自分で考えるべき領域は自分で匕き受け、組織が決めるべき領域は責任を持぀人が決める。そしお互いの刀断を䞀方向の指瀺で終わらせず、情報を埀埩させながら修正しおいく。その関係が成熟すれば、䞀人ひずりの力ず組織党䜓の力は同じ方向を向いおいく。

スポヌツでも、教育でも、䌚瀟でも、おそらく同じこずが蚀える。私たちは自䞻性ずいう蚀葉をよく䜿う。その蚀葉を本圓の意味で成立させるためには、自分で考える自由ず、その刀断を匕き受ける責任の䞡方が必芁になる。そしお組織には、個人に考えさせるこずず、組織自身が決めるべきこずを匕き受ける芚悟が求められる。

4人がそれぞれ自立した遞手であり、その4人を䞀぀のチヌムずしお束ねる明確な戊略がある。その䞡方が揃ったずき、日本がか぀お䞖界を驚かせたリレヌの匷さも、もう䞀床違う圢で生たれおくるのではないかず思う。

いいなず思ったら応揎しよう