
第14章|クリックの向こう
岳は、ときどきクリックを出す。
一定の間隔で鳴る、練習用の電子音。
去年みたいに、五人を迷子にしないためではない。
今は、自分たちがどれくらい速くなっているのか確かめるために使う。
「次、クリック入れる」
岳が言った。
「また数字見るの?」
芽衣がマイクの前から振り返る。
「見るだけ」
「気持ちよければよくない?」
花音がベースを抱えたまま言う。
「気持ちいいだけだと分からない」
「岳らしい」
「悪い?」
「褒めてる」
岳が小さな機械をスピーカーにつなぐ。
ピッ。
ポ。
ポ。
ポ。
誰が焦っても、笑っても、間違えても、同じ速さで鳴る。
機嫌も悪くならない。
「真面目」
花音が言った。
「機械だから」
「岳と気が合いそう」
「花音」
芽衣が笑う。
六月のミニライブまで、あと三週間。
私が家で作って持ってきた曲は、もう最初の形からずいぶん変わっていた。
芽衣が歌いやすい高さへ動かした場所がある。
湊が入れた短いギターがある。
花音と岳が二人で決めた低い音がある。
私も、最初の形へ戻したいとは思わなくなっていた。
譜面に書いていない癖まで増えた。
芽衣はサビの前で一度だけ深く息を吸う。
湊は気分が乗ると右肩が少し上がる。
花音は岳が面白いことをすると、先に口元へ出る。
岳は何か変える前に、必ず一度だけ全員を見る。
一年一緒にやっていれば、嫌でも覚える。
その日の最後の通しでも、クリックは鳴っていた。
ピッ。
ポ。
ポ。
ポ。
岳が四つ数える。
曲が始まった。
最初は電子音がよく聞こえた。
ギターの隙間。
芽衣の声の後ろ。
ドラムの向こう。
でも二番へ入る頃には、ほとんど気にしていなかった。
湊の右肩が上がる。
いつもより早く音を切った。
花音が一瞬だけ湊を見て、その空いた場所へ入る。
岳が拾う。
決めていた通りではない。
でも誰も止まらない。
私も、次に弾くつもりだった音をやめた。
四人のいる方へ入る。
芽衣が歌いながら少し笑った。
私も笑った。
次は花音が変えた。
岳がすぐについていく。
湊が返す。
私も入る。
芽衣の声がその上を抜けた。
何かを成功させようとしている感じがなかった。
上手く弾こうともしていない。
誰か一人の正解へ合わせてもいない。
四人を聞いて、そこへ入る。
それだけだった。
最後のサビへ入る。
芽衣の声が前へ出た。
岳が押す。
花音が行く。
湊が鳴らす。
私も行く。
五人が同じところへ飛び込んだ。
ポ。
クリックが鳴った。
変なところだった。
一人だけ遅れて入ってきたみたいに聞こえた。
一瞬、面白いと思った。
花音も同じだったらしく、口元が動く。
でも演奏は止まらない。
五人はまだ一緒にいる。
次へ行く。
ポ。
もう一度、クリックが鳴った。
今度は笑えなかった。
そこじゃない。
誰が思ったのか分からない。
たぶん全員だった。
岳のスティックが止まる。
花音の音が切れる。
湊の右手が止まった。
芽衣の声も消えた。
私も次を弾けなかった。
五人の音が一度に消える。
ポ。
ポ。
ピッ。
ポ。
クリックだけが続いていた。
何事もなかったみたいに。
「……何、今の」
花音が言った。
岳が機械を手に取る。
数字を見る。
「変わってない」
「嘘」
芽衣が即答した。
「絶対変だった」
「二回目、特に」
湊も言う。
岳がもう一度鳴らす。
ピッ。
ポ。
ポ。
ポ。
さっきまでと同じだった。
「壊れてないよ」
窓際から声がした。
リアム先輩がノートパソコンから顔を上げている。
「聞いてたんですか」
「聞いてた」
岳がクリックを見せる。
「じゃあ、何だったんですか」
「五人で先に行った」
花音が眉を寄せる。
「走った?」
「数字だけ見れば」
「じゃあ駄目じゃん」
リアム先輩が五人を見る。
「戻したい?」
誰もすぐには答えなかった。
さっきの数十秒を思い出す。
湊が変えた。
花音が拾った。
岳がつないだ。
芽衣が笑った。
私も、その中へ入った。
「私は、戻したくないです」
自分でも思ったより早く声が出た。
花音がうなずく。
「私も」
「私も好きだった」
芽衣が言う。
湊も小さくうなずいた。
岳だけが、手の中のクリックを見る。
リアム先輩が言った。
「さっき、誰か置いていかれた?」
岳が顔を上げる。
「……いないです」
「俺もそう聞こえた」
花音がクリックを指さす。
「置いていったの、こいつだけ?」
リアム先輩が少し笑う。
「人だったら、たぶん途中で気づいて寄ってくるから」
「クリックは?」
岳が聞く。
「来ない」
「頑固」
花音が言う。
「かなり」
岳はまだ納得していない顔だった。
「でも、正しいのはクリックですよね」
「速さはね」
リアム先輩はそう答えてから、少し間を置いた。
「でも、曲の中にいたのは五人だったんだろ」
岳が何も言わなくなる。
芽衣が首をかしげた。
「じゃあ、速くなってもいいの?」
「それも違う」
「難しい」
リアム先輩が笑った。
「BAD MONKEY、速いけど客は楽しそうだったでしょ」
三人とも去年より上手くなった。
そして相変わらず速い。
新入生説明会でも、最初から最後まで勢いが落ちなかった。
一年生は笑って、途中から手拍子までしていた。
「分かりやすい」
花音が言う。
「でも、あいつら三人とも同じ方へ行くから」
リアム先輩が言った。
「置いていかれるやつがいない」
岳が少し考える。
「じゃあ、五人が気持ちよければ、それでいいんですか」
「ライブなら違う」
「客がいるから?」
「うん」
リアム先輩は岳を見る。
「夏のノエル、どうだった?」
岳はすぐ答えた。
「手、何本あるんだろうって思いました」
「二本だよ」
「分かってます」
花音が吹き出す。
私も、丘の上のステージを思い出した。
ノエルさんのドラム。
渚さんの白いギター。
リアム先輩のベース。
三人の音に合わせて、客席の腕が上がった。
手拍子が増えた。
最後には、知らない人たちまで同じところで歌っていた。
「あいつのすごいところ、そこじゃないよ」
リアム先輩が言う。
岳が黙る。
「ノエルは、誰一人置いていかないから」
「誰を?」
「俺も。渚も。客も」
岳の顔から、少しだけ笑いが消えた。
「客も?」
「うん」
リアム先輩はそれ以上言わなかった。
岳は手の中のスティックを見る。
しばらくして、ドラムの椅子へ戻った。
「もう一回やります」
花音が聞く。
「クリックは?」
岳は小さな機械を見る。
それからケースの上へ置いた。
「なし」
「さっきみたいにする?」
「しない」
「じゃあどうするの」
岳はスティックを構える。
「四人を聞く」
リアム先輩は窓際へ戻った。
もう一度始める。
今度はひどかった。
全員が相手を気にしすぎて、誰も前へ出ない。
湊が花音を見る。
花音が岳を見る。
岳が私を見る。
私が芽衣を見る。
芽衣が歌を止めた。
「見すぎ」
一度、全員が止まる。
「だって聞けって」
岳が言う。
「聞くのと顔見るの違うでしょ」
「今の誰も何もしてなかったね」
花音が笑う。
「汐音まで待ってた」
湊に言われる。
「湊もでしょ」
笑ってから、もう一回やる。
また違う。
さっきの瞬間には戻らない。
三回目も戻らない。
でも、そのうち誰も探さなくなった。
六月のミニライブ当日。
放課後の音楽室は、人でいっぱいになった。
一年生もいる。
廊下から覗いている人もいる。
私たちの名前より先に、
「芽衣ちゃん」
という声が飛んだ。
芽衣は嫌そうな顔をした。
それでもマイクの前へ出ると、ちゃんと笑う。
花音が小声で言う。
「人気者」
「あとで覚えてて」
怖い。
前の方に虹心がいた。
同じ一年生の子たちと並び、少し緊張した顔でこちらを見ている。
目が合うと、小さく手を上げた。
私も少しだけ上げ返す。
岳がドラムの前へ座る。
クリックは出さない。
スティックを上げた。
一、二、三、四。
始まる。
最初の一音から、練習より少し強かった。
湊もそう思ったらしく、すぐに前へ出る。
花音がついていく。
岳が押す。
芽衣が歌う。
私も入る。
速いかどうかは分からない。
少し速いのかもしれない。
でも今は、数字より四人の方がよく聞こえた。
二番へ入る。
前の方で一年生が身体を揺らしている。
サビで、一人の手が上がった。
その隣も上がる。
後ろから手拍子が聞こえた。
少しずつ増える。
岳のドラムが前へ出る。
ほんの一瞬、客席を見る。
それから叩いた。
花音が乗る。
湊が行く。
私も行く。
芽衣が声を伸ばす。
客席の手拍子が、そのままついてきた。
最後のサビの前で、芽衣がいつもより長く言葉を伸ばした。
練習では一度もやっていない。
湊が次を弾かずに待つ。
花音も止まる。
私も和音を伸ばす。
岳だけが小さく叩き続ける。
芽衣が息を吸う。
次の瞬間、五人で入った。
客席から声が上がった。
虹心が笑っている。
その隣の一年生も笑っている。
後ろでは知らない誰かが手を叩いている。
最後の音を切る。
一拍遅れて、拍手が返ってきた。
去年とは違う。
最後まで弾けたからでも、間違えなかったからでもない。
片づけながら、花音が岳に聞いた。
「クリック、もういらない?」
「いる」
「いるんだ」
「確認する時は」
岳は黒い機械をケースへ入れた。
蓋を閉める前に、一度だけ客席を見る。
虹心が隣の一年生と何か話しながら、まだ笑っている。
その向こうで、知らない一年生がさっきのサビを口ずさんでいた。
岳はそのままケースを閉じた。