
第3章|名もなき来訪者
差出人のない一枚の写真が、
静かな島の夏に、まだ知られていない未来の影を落とす。
――2033年7月25日/南風島の港
時は遡ること一ヶ月ほど前。
「……何でこんなことになったんだ」
男は、港に降り立ったとき、小さくそう呟いた。
目の前には、広がる海と、ゆるやかに起伏する島影。
灼けたアスファルトから立ちのぼる陽炎の向こうに、
昼寝でもしているみたいな小さな集落が見えた。
──こんな場所に、たどり着くなんて。
自嘲ともため息ともつかない感情が、胸の奥で渦を巻いている。
それでも、足を止める気にはなれなかった。
今朝、自宅のポストにそれは届いた。
差出人の記載はない、無地の封筒。
いたずらかダイレクトメールだろうと、最初は思った。
だが、中に入っていた一枚の写真を見た瞬間、
男の時間は、ほんの少し軌道を外れた。
巨大なドーム。
無数のライトと、拳を突き上げた観客たち。
眩いスポットライトの中心には、三人の演奏者がいた。
ベースを弾く少年。
白いテレキャスターを構える少女。
ドラムスティックを振り上げる長髪の青年。
全員が真剣な目をして、音の奔流の中にいる。
写真の裏には、短い文字が記されていた。
「Aosagi 2038.11.15」
「Aosagi」。
それが何を意味するのか、男にはわからなかった。
バンド名だろうか。
それとも何かのタイトルか。
だが、それ以前の問題として──
撮影された「日付」がおかしかった。
2038年。
今から五年も先。
どこかのライヴハウスで撮られたブロマイド、
そう考えるのが自然だった。
自分の知らないバンドが、
五万人規模のドームを埋め尽くす未来。
合成だと言われれば、納得もできたはずだった。
男は写真を光に透かし、紙の質感を確かめ、
影の落ち方や、観客の一人ひとりの輪郭まで目をこらした。
どう見ても、そこに写っているのは「本物」の熱だった。
スクリーン越しではない、生の光と汗と息づかいが封じ込められていた。
──もしこれが、本当に未来の現実を写したものだとしたら?
喉の奥が、少しだけ焼けるように熱くなる。
この写真を送ってきた人物は、
ただの悪ふざけでこんなものを投げ込んできたわけじゃない。
男にはそう思えた。
自分にこの写真が届いたことには、
何か意味がある。
まるで、遠くから助けを求める声が
この一枚に折り畳まれているような──
そんな錯覚すら覚えた。
消印だけが、唯一の手がかりだった。
地図を開き、小さな島の名前を確認する。
「南風島」と記されたその場所を指先でなぞり、
男はその日のうちにチケットを取った。
そして今、
夏の海に抱かれたその孤島の港に立っている。
旅の荷は少ない。
だが、例の写真だけは胸ポケットに固く入れていた。
風がシャツのすきまを抜ける。
塩気を含んだ空気が、肌に薄く貼りつく。
男はゆっくりと港の坂をのぼりはじめた。
陽炎が揺れる先で、どこかの学校のチャイムの音がかすかに聞こえる。
この島のどこかに、
写真に写っていた三人へ繋がる“何か”がある。
差出人の名前は書かれていなかった。
けれど、男には一人だけ思い当たる人物がいた。
未来の出来事をこうして目の前に突きつけてくる人物なんて、自分の人生で一人しか思いつかない。
「……来いって意味なんだろ、これ」
胸ポケットの写真に触れる。
足元の砂利が小さく音を立てる。
蝉の声が重なり合って、夏の厚みを増していく。
男はまだ知らない。
三日後、この島でひとつの命が消えかけることも。
その運命が、たった一枚の写真によって
静かに狂い始めていることも。
あるいは、それを正そうとする「何か」が、
もう動き出しているのかもしれない。
夏の光の中で、
物語は、静かに新しいページをめくろうとしていた。