
第31章|Re:Light
音楽の話をする時、人はたいてい「準備が大事だ」と言う。
だいたい正しい。
でも、たまに例外がある。
準備不足のまま走り出した方が、なぜかちゃんとした景色に辿り着いてしまう夜だ。
リアムからメッセージが来たのは、ライブ本番の一週間ほど前だった。
夜の十一時すぎ。
ルナはベッドの上で、ユウから送られてきたセットリスト案を見ていた。
見ていた、というか、見ているふりをしていた。
数字は並んでいるが、脳はもう半分寝ている。
そういう時に限って、ろくでもない通知は鳴る。
普通のツーマン、やめない?
思いつきにしては、迷いがなかった。
まるで、この形にたどり着くこと自体はもう決まっていて、あとは言い出すタイミングだけを選んでいたみたいに。
ルナは三秒、画面を見た。
それから五秒、天井を見た。
最後に、ため息をついた。
「嫌な予感しかしない」
送るまでもなく、その十分後には全員が通話画面の中にいた。
SlowRush五人、Aosagi三人。
人数が多いと、それだけでちょっとした部族会議みたいになる。
しかも深夜だ。
誰もが少しだけ眠く、少しだけ本音に近い。
『せっかくZephyrでやるのに』
と、リアムが言った。
『前半SlowRush、後半Aosagi、最後アンコール、みたいな普通の形、もったいなくない?』
「始まったな」
ユイナが言う。
「何が」
ノエルが笑う。
「リアムの、“思いついた瞬間にはもう他人のスケジュールを無視してる提案”」
『ひどい』
「事実です」
ユウが言った。
会議開始二分で、もう空気は断りに入っている。
リアムは気にしない人間だった。
気にしない、というより、気にしても進める人間だ。
『三時間で一本のライブにしたい』
「無理」
ユウが言う。
「まだ二行しか聞いてないけど」
ユイナが言う。
「二行で十分だろ」
『二組が別々にやるんじゃなくて、交互に出る』
「無理」
『流れで繋ぐ』
「無理」
『途中で混合編成も入れる』
「無理」
『ポジションも崩す』
「無理」
『互いの曲もやる』
「もう無理っていうか事故」
『最後は全員で一曲』
「そこだけ少し気になるな」
ユイナが言った。
ルナも、ちょうど同じところで引っかかった。
最後は全員で一曲。
その言葉だけが、妙にきれいに残った。
ずっとポケットに入れっぱなしにしていた何かが、そこで急に形を持つ。
なくしたイヤホンが、冬物のコートの内ポケットから出てきた時みたいな感じで。
「あ」
と、ルナは言った。
全員がルナを見る。
画面越しなのに、ちゃんと“見る”が起きるのが通話の面白いところだ。
「何?」
ユイナが言う。
「……ある」
「何が」
「みんなでやりたい曲」
その瞬間、通話の空気が少しだけ変わった。
断る会議から、少しだけ覗き込む会議に変わる。
ルナは迷った。
でも、迷っている時間があるなら流した方が早い。
そういうことを最近ようやく覚えた。
「まだ全然ラフなんだけど」
と言って、画面共有を開く。
デモは本当にラフだった。
メロディも仮。
コードもまだ、骨組みが見えている建物みたいな状態だ。
でも、曲にはそういう時期がある。
化粧前の顔の方が、むしろ性格が分かることもある。
音が流れる。
誰も喋らない。
ユウは腕を組んだまま。
絢音は少しだけ目を細めている。
カイは画面のどこを見ているのか分からない。
ユイナは珍しく口を挟まない。
渚は頬杖のまま、でもさっきよりずっとちゃんと聴いている顔だ。
ノエルは口元だけ笑っている。
リアムは、少し遠いところを見る時の顔をしていた。
デモが終わる。
最初に口を開いたのはリアムだった。
『タイトルは?』
初めて聴いたはずなのに、リアムの反応はやけに速かった。
その曲を“知っている人間”の頷き方に見えた。
「まだ仮なんだけど“リライト”かな」
『書き換える?』
と、リアムが言った。
『いいね』
ルナは一瞬きょとんとしたあと、すぐに首を振る。
「いや、違う」
『違う?』
「ああ、そう思うよね」
ルナは自分で少し笑ってしまう。
「そんな言葉ないんだけど、Re:Lightって造語で、“再び光る”って意味なんだ」
『ああ』
「普通は上書きの方だと思うよね」
その説明に、画面の何人かが同時に頷いた。
「まあ、最初はそう取る」
カイが言う。
「うん、私も」
絢音が言う。
「“リライト”って言われたら普通そっち」
「だよね」
ルナは少し安心する。
自分だけが変なことを考えているわけじゃないのだと分かる瞬間は、人を少しだけ元気にする。
リアムは、そこで少しだけ黙った。
言葉を選ぶというより、言葉の裏側を見ている感じの沈黙だった。
『でも、いい』
と、リアムが言う。
『むしろ、そのズレいいな』
「ズレ?」
『ルナは“再び光る”で持ってきた。でも聴いた側は最初、たぶん“書き換える”って思う』
「まあ、そうだね」
『その二重の感じ、曲にできる』
ルナは少しだけ息を止めた。
「……どっちでもあるかもね」
渚が静かに言った。
その一言が、やけに効いた。
「いいね、それ」
ノエルが言う。
「一個の意味しかないより、ちょっと厄介なくらいが曲っぽい」
「面倒な言い方だな」
ユイナが言う。
「でも分かる」
絢音が言った。
そこから、会議の重心が変わった。
さっきまで全員で「無理」を積み上げていたのに、今は「でもこれなら」が増え始めている。
会議というのは不思議だ。
面白くなった瞬間に、みんな急に有能になる。
『二人で歌うなら』
リアムが言った。
『オレも歌詞書くよ』
「え」
ルナが言う。
『せっかくなら掛け合いにしたい』
リアムは続ける。
『ルナが“再び光る”なら、オレはもう少し別の方から入れる。夜とか、痛みとか、やり直しとか。そういうのが隣にある方が、このタイトルっぽい』
「それ、いいかも」
絢音が言う。
「景色が立つね」
渚が言う。
「急に作家みたいなこと言うな」
ユイナが言った。
「今わりと全員そうだろ」
ユウが返す。
そして、そこからが速かった。
ルナが最初のサビの断片を出す。
闇を越えること。
胸の奥に残る光。
声を聴いて、音を選ぶこと。
リアムが、その隣に別の温度の言葉を置いていく。
雨。
ネオン。
消えない痛み。
それでももう一度鳴らすこと。
壊れたまま終わらないこと。
「最初のフックはルナ側でいい」
絢音が言う。
「うん、タイトルの意味をまず見せるならその方が入りやすい」
ユウが頷く。
「じゃあAメロはリアムが景色持ってくる?」
カイが言う。
「あり」
渚が答える。
「最初から全部説明しない方が、逆に入れる」
「今日の渚、急に発言がいちいち強いな」
ユイナが言う。
「いつも強いよ」
ノエルが笑う。
「口数が少ないだけで」
リアムが口ずさむ。
『雨の中で笑ってた ひとりきりの summer day』
それが、もう曲だった。
誰も「それ採用」とは言わない。
でも、画面の向こうの顔を見ると分かる。
あ、今のは残るやつだ、という顔をみんなしている。
「じゃあその返し、こっち」
とルナが言う。
「You were chasing notes, not running away」
『いい』
リアムが言う。
「早っ」
ユイナが言う。
「判断が通販サイトのカート並みに早い」
「迷うやつは後で困るからね」
リアムは平然としている。
会話は、いつの間にかボール遊びみたいになっていた。
誰かが投げる。
誰かが返す。
思っていたより球筋がいい。
また投げる。
誰かがちょっとだけ回転を変える。
そのたびに、曲の輪郭が少しずつ立っていく。
絢音は語感と母音を見ている。
カイは言葉が音に乗った時の抜けを考えている。
ユウは構造の骨を整えている。
ユイナとノエルは“歌うとダサいかどうか”で容赦なく切る。
「その英語、意味はいいけど歌うと急に洋楽ぶる」
「言い方ひどいな」
「でも分かる」
リアムが笑う。
「じゃあ削る」
「削る判断も早いな」
カイが言う。
「今日はみんな速い」
「たぶん暇じゃないからだろ」
ユウが言った。
「余裕があると人は迷う」
その通りだった。
気づけば、三十分も経っていなかった。
「……早くない?」
ルナが言う。
話が早すぎる。
誰も止めていないのに、最短距離だけを通っているみたいだった。
画面の中には、もう曲の骨組みがちゃんとあった。
サビの位置。
掛け合い。
ブリッジの温度。
最後にどう着地するか。
全部、ほぼ見えている。
「ほんとだ」
絢音が言う。
「しかも、まだ誰も楽器触ってない」
「それな」
と、渚が珍しく少しだけ笑った。
「こんな作り方、初めて見た」
全員が渚を見る。
「まだ一度も合わせてないんだよ」
渚は続ける。
「なのに、もう最後の景色だけ先に見えてる」
「確かにちょっと気持ち悪いな」
ユイナが言う。
「でも、曲っぽい」
渚は答えた。
それが、なんだかうれしかった。
リアムはそのやり取りを見て、満足そうに言う。
『じゃあ、最後はこれでいこう。Re:Light』
「うん」
ルナは頷く。
まだ実際の音は存在していない。
存在しているのは、画面越しの会話と、頭の中の景色だけだ。
それなのに、この曲だけはもう大丈夫な気がした。
もちろん、現実はその後すぐに戻ってきた。
「はい、夢の話はここまで」
ユウが言う。
「急に冷たいな」
「冷たくない。事実だ。まだ一度も合わせてない」
「大事なことだから二回言ったね」
ユイナが言う。
「三回でも言うよ」
そこから先の二時間は、完全に現場だった。
混合編成をどこに置くか。
Blazing Horizon のアコースティック版をどういう温度で差し込むか。
互いの曲をどこまで崩していいか。
クリックを使うのか。
転換に何秒使えるか。
誰がどこではけるか。
ギターの持ち替えは間に合うか。
トークは何回までなら温度を切らないか。
夢の話をしたあとに、秒単位の話をする。
音楽の現場はだいたいそういうところがある。
ロマンとストップウォッチが仲良く同居している。
「Blazing Horizon、原曲の熱のまま行くと浮くよね」
絢音が言う。
「だからアコースティック」
リアムが言う。
「ルナと渚メイン。絢音は後ろから薄く」
「後ろから薄く、便利な言葉だな」
ユイナが言う。
「でも分かるでしょ」
「分かるのが腹立つ」
カイは曲順表の横に、ギターの質感メモを増やしていく。
ユウは転換時間を削っては足し、削っては足しを繰り返す。
絢音は自分の曲が別の編成でどう息をするかを静かに考えている。
ノエルはトークパートで余計なことを言う気満々の顔をしている。
渚は全体を眺めながら、ときどき一番効く一言だけを落とす。
リアムは全部を面白がっているように見えて、妙に要点を外さない。
最初は全員、断る気だった。
そのはずなのに、気づけば誰も「無理」とは言わなくなっていた。
不思議なものだ。
人は、面白くなった時に負ける。
正確に言うと、自分の中の現実主義を、少しだけ気持ちよく裏切られる。
通話が終わる頃には、全員少し疲れていて、でも少し笑っていた。
「これ、ほんとにやるんだ」
ルナが言う。
「今さら?」
ユイナが言う。
「今さらだよ」
「でもまあ」
カイが静かに言う。
「普通のツーマンよりは、絶対こっちの方が見たい」
その一言で、ルナは少しだけ安心する。
演者が見たいと思えるライブは、たいていちゃんと強い。
通話が切れて、部屋が急に静かになる。
さっきまで八人分の声が飛び交っていたのに、今は自分の部屋のエアコンの音しかない。
ルナは少しだけぼんやりして、それからギターを手に取った。
Re:Light。
まだ粗い。
でも、もうひとりの曲じゃない。
ルナが「再び光る」で持ってきたタイトルは、リアムにとっては最初「書き換える」に聞こえた。
そのズレは、訂正したのに、なぜか消えなかった。
消えないどころか、むしろ曲の中にちゃんと残った。
再び光る。
上書きする。
やり直す。
取り戻す。
灯し直す。
どれも少しずつ違うのに、全部この曲に住めそうだった。
たぶん音楽には、ちゃんと作り込んだから鳴る曲と、
先に誰かと分け合いたい気持ちがあって、それで鳴り始めてしまう曲がある。
Re:Lightは、きっと後者だ。
そして問題は、その翌日からだった。
まだ一度も合わせていない。
それなのに、ライブは一週間後にある。
夢から覚めるには、少し遅い。
現実に戻るには、ちょうどいいタイミングだった。