
第5章|戻れない一小節
六月の放課後ミニライブも、場所はいつもの音楽室だった。机を壁際へ寄せ、窓側へ椅子を並べる。それだけで別の場所に見える。
十五分の練習枠では、自分たちの音しか聞こえない。今日は同じ制服の人たちが、演奏しない側に座っている。それだけで、音楽室が急に狭くなった。
「人、多くない?」
芽衣がカーテンの陰から客席を見た。
「部員と友達だけだよ」
花音が言う。
「友達が多い」
「芽衣のね」
芽衣のクラスメイトだけで、前の列が半分埋まっている。芽衣は笑わず、カーテンの隙間をもう一度覗いた。
「歌詞、飛んだらどうしよう」
「飛んでも戻ればいい」
岳が答えた。
「どこへ?」
「次の頭」
「その次の頭も飛んだら?」
「さらに次」
「曲なくなるよ」
花音が笑った。
私はキーボードの電源を入れた。鍵盤に触れた指が冷たい。ピアノの発表会なら何度も出ている。一人で弾くなら、間違えた場所も戻る場所も自分で分かる。止まるなら、自分で止まれる。
バンドは違う。私が止まっても、四人の時間は進む。その速さを、まだ身体が覚えていない。
「汐音は緊張してないの?」
湊が聞いた。
「してない」
「リアム先輩にも同じこと言ってた」
「見てたの」
「見学会にいたから」
「その話、今いる?」
「緊張してそうだから」
湊は自分のギターのつまみを何度も確認している。人のことを言える状態ではない。
朝比奈先輩が手を叩いた。
「次、Q-RAN。準備できたら始めて」
名前を呼ばれた。実力より先に申し込まれた名前が、今度は私たちをステージへ呼ぶ。
五人で前へ出る。カーテンの陰では見えなかった人の顔が、一度に見えた。芽衣の友達が手を振る。男子三人のBAD MONKEYは後ろの壁際に座っている。ギターの男子が親指を立てた。
上級生たちの中に、リアム先輩もいた。窓際ではなく、最後列の端。膝の上に何も置かず、こちらを見ている。指先の冷たさが増した。
岳がスティックを上げる。
一、二、三、四。
湊のギターが入った。練習より少し速い。花音のベースが追う。私はコードを鳴らした。芽衣が歌い始める。
最初の八小節。何も起きない。
そう思ったところで、芽衣の声が一語だけ遅れた。岳が少し音量を落とす。花音が芽衣へ寄る。湊は練習どおり進んだ。私だけが、どちらへ合わせるか迷った。
次のコードを半拍遅れて鳴らす。遅れたと分かって、その次を早くした。今度は早すぎる。頭の中で、小節線がひとつずれた。
一つ前へ戻ろうとする。でも、四人はもう次へ進んでいる。クリックはない。
岳のドラムを探す。そこへ戻ればいいはずなのに、芽衣の声が入る。湊のギターが鳴る。花音の低音が足元で揺れる。全部聞こえる。なのに、今がどこか分からない。
私は鍵盤の上で手を止めた。
一小節。
二小節。
四人は演奏を続ける。岳が強くスネアを叩き、花音がそこへ戻る。湊は一度コードを省き、次の頭で入り直す。芽衣は息が足りなくなった語尾を飲み込み、そのままサビへ入った。
四人が同じ場所へ戻った。
私だけが戻れない。
次のコードは分かる。指の形も分かる。今押せばいい。そう思うたび、鍵盤が遠くなる。
間違えるくらいなら、何も鳴らさない方が目立たない。そんなことを考えた。キーボードが消える。曲の真ん中に、私の分だけ空白ができた。
芽衣が一度こちらを見た。指が、さらに動かなくなる。
最後のサビに入ってから、ようやくコードを一つ鳴らした。音量が大きすぎる。次は小さすぎた。曲の中へ戻ったのではなく、外から何度か触れただけだった。
岳が最後の一打を叩いた。湊がコードを伸ばす。花音の低音が止まる。芽衣が息を吐く。
拍手が起きた。失敗しても、拍手は来る。優しい音だった。今は、その優しさが痛い。
「ありがとうございました」
芽衣がマイクへ言った。
私は頭を下げた。顔を上げると、最後列にリアム先輩がいた。表情は見えない。見たくなかった。
機材を壁際へ戻す。
「途中、やばかったね」
花音が笑おうとした。
「でも最後まで行けた」
岳が言う。
湊はギターのケーブルを巻きながら、私を見た。
「汐音、大丈夫?」
「大丈夫」
口が先に答えた。自分の手だけが、まだ鍵盤の上にあるみたいに固い。
次はBAD MONKEY。
三人は最初の一音から大きい。ギターは二番の頭で、一番と同じリフをもう一度弾く。ベースは一度完全に止まる。ドラムは気づかず先へ行く。
それでもギターの男子が笑いながら叫んだ。
「もう一回サビ!」
予定にはないサビが始まる。ベースが戻る。ドラムがさらに速くなる。三人は最後まで止まらなかった。
上手いとは思わない。でも、ステージの中に居続けた。
私はさっきの自分の手を見る。間違えたから止まったんじゃない。間違えた自分を見られるのが怖くて、私は曲から降りた。
四人は、私がいない間にも戻った。私がいなくても演奏できる。私だけ、五人の中へ戻れなかった。
ライブが終わる前に、私は音楽室を出た。
廊下はまだ明るい。窓の外に海が見える。音楽室の中では、次のバンドが鳴っている。扉一枚しかない。それでも、さっきまでいた場所が遠い。
階段を下りる。途中で、ピアノの鍵盤を思い出した。
一人なら、止まっても自分で戻れる。バンドでは戻れない。それなら、最初から一人で弾けばいい。
そう考えると、少しだけ息がしやすくなった。
退部、という言葉が浮かんだ。
誰もいない教室へ入り、自分の席に座る。閉じた楽譜を机の上へ置く。音楽室の音も、ここでは遠い。
一人になれたと思った。
廊下から足音が近づく。教室の前で止まる。
顔を上げた。
扉が開く。