
第9章 | 風の記憶
時をまたいで戻ってきたルナが足を踏み入れたのは、あの日の島の夏。
未来を取り戻すための一枚の写真をポストに託し、残りの時間で、気ままに夏休み?
もう一度だけ“アオサギ”と出会い直す。
――2033年7月/南風島
気がつけば、波の音がすぐそこにあった。
あたしは白い砂の上に立っていた。
まぶしい夏の光と、潮の匂い。背中に貼りつく湿った風。
どれも現実味がありすぎて、夢の続きとは思えなかった。
「……ここ、どこ?」
スマホを取り出す。圏外の文字。そのすぐ下に、日付だけが静かに表示されていた。
2033年7月22日
まさかこの時代に来るとは。。
今なら別の未来を作れる?助けたい衝動だけが先に立つ。
でも、今は触れちゃいけない気がした。
下手に動けば、大事な未来まで巻き込んでしまう。
ポケットに触れた指先が、現実に引き戻す。
封筒の中には、照人が写した一枚の写真。
満員のドーム。
光の中に立つ、渚、ノエル、リアム。
(……まずは、アオサギだ)
胸の奥の痛みを、そっと押し戻す。
今は、これだけを守ればいい。
あたしは写真を握りしめ、島の夏へと歩き出した。
集落のほうへ歩いていくと、赤いポストが見えた。
周囲に人がいないのを確かめて、封筒を取り出す。
宛名は「照人様」。
差出人は、空欄のまま。
中身は、一枚だけ。
──ドームライブの写真。
ポストに滑り込ませたとき、金属が小さく鳴った。
(……見てくれますように)
それが、あたしにできる唯一の“仕込み”だった。
戻るまでの“猶予”があるなら、あたしはこの世界に、もう少し滞在してもいいはずだ。
「せっかくだし、ちょっとだけ夏休みさせてもらおうかな」
港のほうへ歩いていくと、提灯の下がった店が目に入った。
《しおはま》
引き戸の向こうから、話し声と、ギターの音。
理由は分からない。
でも、足が自然に止まった。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、男性の声。
客として中に入ると、少し改造された店内の奥に、小さな演奏スペースが見えた。
そこで、ひとりの女の子がギターを弾いている。
白いTシャツに、ジーンズ。
まだ少しあどけなさの残る横顔。
──渚。
あたしは、言葉を失った。
未来で、何万人の前でギターを鳴らしていたあの渚が、
今は、ここで、高校生として、ひとりで音を出している。
曲が終わったところで、思わず拍手してしまった。
渚が少し驚いた顔でこちらを見る。
「……ありがとうございます」
「すごく、きれいな音ですね」
「え、ほんとですか?」
少し照れたように笑う。
「明日、夏祭りで演奏するんです。まだ練習中なんですけど」
「そうなんだ」
未来では、ドームで歌ってた、なんて言えるわけがない。
「……ギター、好きなんですね」
「はい。ずっと」
その一言が、胸に刺さった。
(あなたは、このあと、どこまで行くんだよ)
自然と音楽の話になった。
コードの話、リズムの話、好きなフレーズの話。
渚は、まだ粗いけれど、素直に音と向き合っている。
「……弾きます?」
渚が、おずおずとギターを差し出した。
「借りてもいい?」
「ぜひ!」
アコースティックギターを受け取る。
ネックを握った瞬間、思わず口元が緩んだ。
古いが丁寧に手入れされているギター。
未来で、あたしを何度も圧倒し感動したギター。
何万人の前で、当たり前みたいに鳴らしていた音。
その“少し手前”に、今の彼女はいる。
あたしは、深く構えず、指先を軽く落とした。
最初の一音は、ただ、やさしく。
空気が、ふわりと変わる。
渚の目が、驚いたように開かれた。
(大丈夫。今はまだ、これでいい)
本気のスピードも、火力も、抑える。
――“音楽って、こんなに面白いよ”って伝えるための音。
(でもね。未来のあなたは──
これくらい、すぐに追い越してくる)
そう分かっているからこそ、あたしは楽しかった。
先を知っているのに、追い越される未来が待ち遠しい。
ギターを通して、胸の奥がわくわくしていくのが分かった。
短いフレーズを弾き終えたとき、
渚はしばらく、言葉を忘れたみたいに立ち尽くしていた。
「……すご」
渚が、ぽつりと言った。
「ごめん、ちょっと本気出しちゃった」
「いえ……なんか、胸が……」
渚は言葉を探しながら、ぎゅっとギターを抱えた。
「ねえ。この後近くのスタジオで練習なんです、一緒に来ませんか?」
「少しでいいのでバンドメンバーにも会ってほしいんです。」
あたしは、迷わず笑った。
「うん。バンドメンバー、気になるね」
その瞬間、古いスピーカーの奥で、
夏の始まりみたいなハウリングが、小さく鳴った。