
歌手と音痴と優しい目
小学校にやってきたオペラ歌手
夕食を作りながら、鼻歌を唄っていると
妻と子供が笑い出した。
「パパ、その歌なに〜笑」
いつものことだが、笑われると胸の奥が
少しだけざわつく。
その瞬間、ふと昔のことを思い出した。
私は、あの眼差しを決して忘れないだろう。
小学生の頃、現役のオペラ歌手が学校にやってきた。
この学校の卒業生らしく、凛とした佇まいでステージに立った。
挨拶代わりに披露された一曲。
ソプラノの高音が体育館の天井を震わせ、空気そのものが揺れた気がした。
あんな“音の壁”を浴びたのは、あれが初めてだった。
演奏が終わると、歌手は優しい声で語り始めた。
「皆さんは楽器を演奏したことがありますか?」
数人の手が挙がる。
「ピアノ、吹奏楽、リコーダー。いろいろあるわね。
でも、楽器を触ったことがない子でも、みんな素敵な楽器を持っているの。
それは“声”。歌声よ。」
体育館が静まり返る。
「それぞれの声が重なり合って、さっきのような音楽が生まれるんです。」
私は、その言葉を真正面から受け取れなかった。
幼い頃から「音痴」とからかわれ続けた。
歌うたび笑われ、自分の声が大嫌いだった。
素敵な楽器?
私にとっては呪いみたいなものだった。
演説が終わり、私は勇気を振り絞って手を挙げた。
「音痴でも、素敵な楽器なんですか?」
クラスの笑い声が広がる。
歌手の表情が一瞬だけ険しくなった。
「勇気を出して聞いてくれてありがとう。
いい? 音痴なんていません。
上手い下手はあるけれど、それは“発声”や“理解”の問題。
あなたの声はあなたの楽器。
練習すれば、必ず自分の音楽を楽しめるようになります。」
綺麗ごとかもしれない。
でも当時の私には、胸の奥に光が差し込むようだった。
そして授業の最後、卒業式でよく歌う曲を全員で合唱した。
私は震える声のまま、でも全力で歌った。
そのとき、ふと視線を感じた。
オペラ歌手が、まるで捨てられた子猫を見るような、
それでいて
「まだこれからよ。頑張りなさい。」
と、背中を押すような眼差しで、私を見ていた。
三十歳を前にして、ふと思う。
──先生、ごめん。
やっぱ音痴はいると思う。
でも、あの目だけは忘れられない。
あの日の私は、確かに救われていた。