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69歳、家族を買いました

    69歳、離婚。子どもも孫もいるのに、なぜこんなに寂しいのだろう――。孤独な老人が見つけたのは「家族を買ってください」という奇妙な募集だった。契約で出会ったシングルマザーと二人の子どもたち。やがて始まる交流は、本当の家族以上の絆へと変わっていく。笑って、泣いて、また前を向く。人生の終盤で見つけた、もうひとつの家族の物語。

    内容

    プローグ... 3
    第一章 家族のいない家... 13
    第二章 ボンレスおばさんの秘密... 27
    第三章 池さん夫婦の後悔.. 43
    第四章 家族を買ってください.. 60
    第五章 契約の孫... 72
    第六章 契約って、いつまでなの?.. 87
    第七章 じいじのプール教室... 109
    第八章 健太の秘密.. 128
    第九章 雨の家出... 147
    第十章 母親の涙... 168
    第十一章 もう一度挑戦... 189
    第十三章 みんなの願い.. 221
    第十四章 初めてのステージ.. 233
    第十五章 健太の挑戦... 246
    第十六章 敬老会の奇跡... 267
    第十七章 言ってはいけない言葉.. 282
    第十八章 壊れた日曜日.. 288
    第十九章 家族会議.. 304
    第二十章 ボンレスおばさんの秘密.. 322
    第二十一章 元妻からの電話.. 338
    第二十二章 契約の更新日.. 353
    最終章 家族... 371
    おわりに.. 390
    著者プロフィール... 394
    著者からひと言... 395

     

    プローグ

    「お世話になりました。出逢ってくれて、ありがとう」
    そう書いて、俺はペンを置いた。
    遺書というには短すぎる。
    だが、長々と書くこともない気がした。
    六十九年も生きれば、言いたいことはだいたい言っている。
    誰かを恨んで死ぬつもりもない。
    感謝だけ残せばいい。
    そう思った。
    窓の外では、西洋もみじの葉が風に揺れていた。
    三十年前、この木の枝にはブランコがぶら下がっていた。
    父の手作りだった。
    子どもたちは取り合いもせず、順番に乗っていた。
    今思えば不思議だ。
    兄弟げんかもしただろうに、あのブランコだけは仲良く使っていた。
    その子どもたちも独立した。
    孫もいる。
    そして妻もいる。
    いや――いた。
    離婚したのは半年前だ。
    正確には、妻に離婚された。
    俺は今でも、その違いがよく分からない。
    六十九歳になって離婚するなど想像したこともなかった。
    定年後は夫婦で旅行をして、孫の成長を楽しみ、最後は家族に囲まれて死ぬ。
    そんな未来を疑いもしなかった。
    だが人生は、こちらの予定表など見てくれないらしい。
    「最期は、自分のために時間を使いたいの」
    妻はそう言った。
    怒鳴るわけでもなく、泣くわけでもなく。
    静かに。
    本当に静かに。
    その一言で四十二年の結婚生活に終止符を打った。
    俺は反論できなかった。
    いや、反論する言葉が見つからなかった。
    家族のために働いてきた。
    それだけは胸を張って言える。
    三人の子どもを大学まで出した。
    住宅ローンも完済した。
    親の介護もした。
    それなのに妻は出ていった。
    今でも答えは分からない。
    分からないまま、一人になった。
    二世帯住宅の一階。
    八畳の和室。
    今夜も布団を敷く。
    家が広すぎる。
    静かすぎる。
    冷蔵庫の音だけが聞こえる。
    テレビをつけても消しても同じだった。
    誰もいない。
    話し相手がいない。
    必要としてくれる人もいない。
    人間は一人でも生きられる。
    そう思っていた。
    だが実際になってみると違う。
    一人で生きることはできても、一人で幸せになるのは難しい。
    最近は友人の訃報も増えた。
    昨日まで元気だった男が突然いなくなる。
    そんな話ばかり聞く。
    死は確実に近づいている。
    だからだろうか。
    俺はときどき、自分の葬式を想像する。
    誰が来るだろう。
    誰が泣くだろう。
    誰が俺を思い出してくれるだろう。
    考えても仕方がない。
    だが考えてしまう。
    テーブルの上の紙を見る。
    先ほど書いた言葉。
    「お世話になりました。出逢ってくれて、ありがとう」
    俺は苦笑した。
    まだ死ぬ予定はない。
    病気でもない。
    借金もない。
    生活にも困っていない。
    なのに、こんなものを書いている。
    よほど暇なのだろう。
    あるいは――よほど寂しいのかもしれない。
    そのときだった。
    スマートフォンが鳴った。
    プール仲間のボンレスおばさんからだった。
    「明日プール来る?」
    開口一番、それだった。
    「行くよ」
    「よかった。池さん夫婦も来るから」
    「そうか」
    「それだけ」
    電話は切れた。
    三十秒も話していない。
    だが、少しだけ部屋の空気が変わった気がした。
    俺は窓の外を見た。
    夕暮れの西洋もみじが赤く染まっている。
    明日も目が覚めるだろう。
    プールへ行くだろう。
    ボンレスおばさんがいて、池さん夫婦がいて、どうでもいい話をするだろう。
    そんな一日が続くだけだ。
    そう思っていた。
    第一章 家族のいない家
    翌朝、目が覚めた。
    時計を見る。
    午前五時四十分。
    最近は目覚まし時計より先に目が覚める。
    年寄りになると朝が早い。
    嬉しくもないが事実だ。
    布団の中で天井を見上げた。
    静かだった。
    誰もいない家の朝は、本当に静かだ。
    昔は違った。
    子どもたちが小さい頃は戦争だった。
    誰かがトイレだと騒ぎ、
    誰かがテレビをつけ、
    妻が朝食を作る音がした。
    その音が当たり前だった。
    今は何も聞こえない。
    俺は小さくつぶやいた。
    「今日も生きてるな」
    最近の口癖だった。
    若い頃には考えもしなかった。
    生きていることに感謝するなど年寄りの発想だと思っていた。
    だが六十九歳になると違う。
    朝、目が覚める。
    それだけでありがたい。
    布団をたたみ、広縁へ向かった。
    掃き出し窓のカーテンを開ける。
    朝日が差し込む。
    西洋もみじが朝露に光っていた。
    父が植えた木だ。
    俺より長生きするかもしれない。
    そう思うと少し悔しい。
    プランクを一分。
    肩甲骨のストレッチ。
    スクワット三十回。
    最近の日課だった。
    最期まで自分の足で歩きたい。
    それだけは譲れない。
    誰に頼まれたわけでもない。
    自分との約束だ。
    運動を終えると仏壇の前に座った。
    父と母の写真が並んでいる。
    「おはよう」
    返事はない。
    当たり前だ。
    だが言わないと落ち着かない。
    生きているときはろくに話もしなかったくせに、人間とは勝手なものだ。
    朝食はいつも同じだった。
    トースト。
    ゆで卵。
    バナナ。
    トマト。
    コーヒー。
    変化はない。
    いや、変化を作る気力がない。
    一人暮らしとはそういうものだ。
    食事は栄養補給になる。
    イベントではなくなる。
    コーヒーを飲みながらテレビをつける。
    ワイドショーでは芸能人の不倫騒動をやっていた。
    六十九歳の男にはどうでもいい話だった。
    テレビを消した。
    静寂が戻る。
    最近はテレビをつける理由も分からなくなっていた。
    音が欲しいだけなのかもしれない。
    時計を見る。
    八時。
    プールへ行くにはまだ早い。
    ソファに腰を下ろした。
    ウクレレを手に取る。
    最初に買った一本は出窓に飾ってある。
    今使っているのは三本目だ。
    少し高かった。
    離婚した腹いせに買った。
    いや、違うな。
    自分への慰めだったのだろう。
    ポロン。
    音が鳴る。
    ウクレレはいい。
    上手でも下手でも音が優しい。
    ギターみたいに威張らない。
    老人にはちょうどいい楽器だ。
    『ハッピーバースデートゥーユー』
    ゆっくり弾く。
    昔、孫の誕生日に弾いた。
    孫は喜んでくれた。
    今は動画でしか会えない。
    息子夫婦も忙しい。
    仕方ない。
    そう思うことにしている。
    だが本音を言えば寂しい。
    ウクレレを弾き終えたときだった。
    スマートフォンが鳴った。
    画面を見る。
    ボンレスおばさん。
    朝から元気な人だ。
    「もしもし」
    「生きてる?」
    開口一番だった。
    俺は笑った。
    「たぶん生きてる」
    「よかった」
    「何だよ、それ」
    「最近さ、訃報が多いから確認」
    「ひどい確認方法だな」
    電話の向こうで大笑いしている。
    この人は本当に遠慮がない。
    七十八歳。本名は佐藤和子でプール仲間。
    だが俺が冗談で付けた「ボンレスおばさん」というあだ名が定着してしまった。
    本人公認だから問題ない。
    「今日プール来る?」
    「行くよ」
    「池さん夫婦も来るって」
    「そうか」
    「じゃあね」
    電話は切れた。
    相変わらず用件だけだ。
    だが不思議なもので、少し気分が軽くなった。
    人間は会話の内容ではなく、
    誰かが自分を思い出してくれたことに救われるのかもしれない。
    俺はウクレレをケースにしまった。
    プールへ行く準備を始める。
    その時はまだ知らなかった。
    ボンレスおばさん。
    池さん夫婦。
    そして、これから出会う子どもたち。
    その全員が、俺の人生を大きく変えることになるとは思ってもいなかった。
     
    第二章 ボンレスおばさんの秘密
    市民プールは朝から賑わっていた。
    平日だというのに、高齢者ばかりで混雑している。
    現役世代が働いている時間に、年金生活者たちは健康づくりに励んでいるのだ。
    俺もその一人だった。
    更衣室で着替え、プールサイドへ出る。
    すぐに大きな声が聞こえた。
    「おーい!」
    ボンレスおばさんだった。
    隣には池さん夫婦がいる。
    三人とも元気そうだ。
    「生きてたか」
    池さんが笑う。
    「そっちもな」
    「まだ死ねないよ」
    奥さんが笑った。
    この夫婦はいつも一緒だった。
    羨ましいと思うこともある。
    離婚してからは特にそうだ。
    プールに入る。
    水の中は不思議だった。
    六十九歳も七十八歳も関係ない。
    みんな同じように歩き、
    同じように泳ぐ。
    重力から少しだけ解放される。
    それが心地よかった。
    一時間ほど運動し、
    いつものように休憩スペースへ移動する。
    自動販売機の前のテーブル。
    ここが俺たちのたまり場だった。
    ボンレスおばさんは牛乳。
    池さんはスポーツドリンク。
    俺はブラックコーヒー。
    毎回同じだ。
    「昨日ね」
    ボンレスおばさんが話し始めた。
    嫌な予感がした。
    この人の話は長い。
    「スーパーで半額シール待ちしてたのよ」
    「うん」
    「そしたら若い女の人がね」
    「うん」
    「お母さん先にどうぞって」
    池さん夫婦が吹き出した。
    「よかったじゃないか」
    「よくない!」
    ボンレスおばさんは机を叩いた。
    「お母さんじゃないの!」
    「じゃあ何なんだ」
    「お姉さん!」
    全員が笑った。
    本人も笑った。
    だが笑いながらも、
    どこか寂しそうだった。
    俺は気になった。
    「娘さんとは連絡してるのか?」
    一瞬だけ空気が変わった。
    ボンレスおばさんはストローを見つめた。
    「してるよ」
    「そうか」
    「去年のお正月にね」
    俺は黙った。
    池さん夫婦も黙った。
    去年のお正月。
    つまり半年以上前だ。
    「忙しいんだよ」
    ボンレスおばさんは笑った。
    「今の若い人は」
    誰も返事をしなかった。
    俺たちは知っている。
    忙しいだけではないことを。
    会いたければ会う。
    電話したければ電話する。
    半年という時間は短くない。
    話題を変えようとした時だった。
    ボンレスおばさんが突然言った。
    「昨日ね」
    声が少し小さかった。
    「冷蔵庫開けたの」
    「うん」
    「そしたら誰もいなかった」
    池さんの奥さんが苦笑した。
    「当たり前でしょう」
    「そうなんだけどさ」
    ボンレスおばさんは笑った。
    だが目は笑っていなかった。
    「昔はさ」
    少し沈黙してから続けた。
    「夫が帰ってきて」
    「娘がいて」
    「犬がいて」
    「冷蔵庫開けると誰かしら何か食べてたのよ」
    俺は何も言えなかった。
    「今は私だけ」
    ボンレスおばさんは肩をすくめた。
    「だから冷蔵庫も暇そうなの」
    みんな笑った。
    だが笑いながら、
    胸のどこかが痛かった。
    孤独というものは、
    大げさな場面ではなく、
    こういう何気ない瞬間に顔を出す。
    誰もいない冷蔵庫。
    誰もいない食卓。
    誰もいない家。
    それは俺も同じだった。
    帰り際、
    駐車場でボンレスおばさんが言った。
    「ねえ」
    「なんだ」
    「今度の日曜日暇?」
    「だいたい暇だ」
    「私も暇」
    「知ってる」
    「池さん夫婦も暇」
    「だろうな」
    ボンレスおばさんは笑った。
    そして少しだけ真面目な顔になった。
    「私たちさ」
    「うん」
    「暇人同士でご飯でも食べようよ」
    その言葉に、
    なぜだか少し救われた。
    家に帰れば一人だ。
    それは変わらない。
    だが次の日曜日、
    一緒にご飯を食べる相手がいる。
    それだけで人生は少し違って見える。
    俺はうなずいた。
    「いいな」
    「じゃあ決まり」
    ボンレスおばさんは嬉しそうに笑った。
    その笑顔を見ながら俺は思った。
    この人も寂しい。
    俺も寂しい。
    池さん夫婦にも、
    きっと人には言わない寂しさがある。
    だがその時の俺はまだ知らなかった。
    数か月後、
    この三人が本当の家族のようになることを。
    そして、
    そのきっかけが一枚のチラシだったことを。
    第三章 池さん夫婦の後悔
    日曜日。
    久しぶりに誰かと食事をする日だった。
    約束の時間より三十分も早く目が覚めた。
    遠足前の子どもみたいだな、と自分で笑った。
    待ち合わせはファミリーレストランだった。
    年金生活者にはありがたい店だ。
    長居しても怒られない。
    ドリンクバーもある。
    俺が到着すると、池さん夫婦はもう来ていた。
    相変わらず仲がいい。
    二人でメニューを見ながら何やら相談している。
    「あれ?」
    俺は時計を見た。
    「早いな」
    「家にいても退屈だからな」
    池さんが笑った。
    「うちも同じ」
    奥さんも笑った。
    そこへボンレスおばさんが現れた。
    両手に大きな紙袋を抱えている。
    「何だそれ」
    「お菓子」
    「誰にやるんだ」
    「私に」
    全員が吹き出した。
    店員に案内されて席につく。
    四人で食事をする。
    たったそれだけなのに不思議だった。
    家で一人で食べるご飯より何倍も美味しい。
    人間は何を食べるかより、
    誰と食べるかなんだな。
    そんなことを思った。
    食事が終わり、
    コーヒーのおかわりを取りに行ったときだった。
    ボンレスおばさんが突然聞いた。
    「池さんたちってさ」
    嫌な予感がした。
    この人は遠慮がない。
    「どうして子ども作らなかったの?」
    池さん夫婦が固まった。
    俺も固まった。
    普通なら聞かない。
    だがボンレスおばさんは聞く。
    悪気なく聞く。
    それがこの人だ。
    池さんは少し笑った。
    「昔の話だな」
    「聞きたい」
    「私も」
    ボンレスおばさんは身を乗り出した。
    池さんは奥さんを見た。
    奥さんも小さくうなずいた。
    「若い頃はね」
    池さんが話し始めた。
    「自由に生きたかったんだ」
    「自由?」
    「旅行したり」
    「趣味したり」
    「夫婦だけで楽しみたかった」
    奥さんが続けた。
    「子どもを育てる自信もなかったし」
    「お金もなかったし」
    「二人で話し合って決めたの」
    その頃は珍しかった。
    今なら珍しくない。
    だが四十年以上前なら違う。
    周囲から何度も言われただろう。
    それでも二人は決めた。
    子どもを持たない人生を。
    「後悔してるの?」
    ボンレスおばさんが聞いた。
    また直球だった。
    池さんは少し考えた。
    そして首を振った。
    「後悔とは違う」
    「じゃあ何?」
    「寂しい」
    店内が静かになった気がした。
    「若い頃は良かった」
    池さんはコーヒーカップを見つめた。
    「夫婦だけで十分だった」
    「旅行もした」
    「好きなこともやった」
    「楽しかったよ」
    奥さんも微笑んだ。
    思い出しているのだろう。
    だがその笑顔は少しだけ切なかった。
    「でもね」
    奥さんが言った。
    「歳を取ると違うの」
    「どう違う?」
    ボンレスおばさんが聞く。
    「運動会がない」
    誰も言葉を返せなかった。
    「卒業式もない」
    「成人式もない」
    「結婚式もない」
    奥さんは笑った。
    笑いながら目を伏せた。
    「そして孫もいない」
    俺は胸が締め付けられた。
    それは俺にはあるものだった。
    失ったものばかり見ていたが、
    俺には子どもも孫もいる。
    会う機会が少なくても、
    存在している。
    だが池さん夫婦には最初からない。
    「この前ね」
    池さんが言った。
    「公園でさ」
    「うん」
    「孫を肩車してる爺さんがいたんだ」
    「うん」
    「羨ましかった」
    その一言に、
    長い年月が詰まっている気がした。
    ボンレスおばさんが珍しく黙っていた。
    そして小さく言った。
    「私は娘がいるのに会えない」
    池さん夫婦は孫がいない。
    俺は家族に囲まれていたのに離婚した。
    みんな違う。
    だがどこか似ている。
    幸せそうに見える人にも、
    人には言えない穴がある。
    その時だった。
    隣の席から子どもの笑い声が聞こえた。
    五歳くらいの男の子だった。
    おじいちゃんらしい男性と楽しそうに話している。
    池さんがちらりと見た。
    ほんの一瞬だった。
    だが俺は見逃さなかった。
    その目に宿った寂しさを。
    帰り際。
    店を出たところで、
    池さんがぽつりと言った。
    「もし人生をやり直せるなら」
    俺たちは振り返った。
    池さんは空を見ていた。
    「一度くらい父親になってみたかったな」
    その言葉は風に溶けていった。
    誰も返事をしなかった。
    返せなかった。
    そして数日後。
    俺たちの人生を変えることになる一枚のチラシが、
    市民プールの掲示板に貼られることになる。
    第四章 家族を買ってください
    そのチラシを最初に見つけたのはボンレスおばさんだった。
    プールの帰りだった。
    更衣室を出たところにある掲示板の前で立ち止まり、眼鏡を鼻先までずらして何かを眺めている。
    「何見てるんだ?」
    俺が声をかけると、ボンレスおばさんは振り返った。
    妙な顔をしていた。
    笑いたいような、怒りたいような顔だった。
    「変な世の中になったねぇ」
    「何が?」
    「これだよ」
    指差した先を見る。
    大きな文字が飛び込んできた。
    『家族を買ってください』
    費用は保険料として年間千円。
    俺は思わず読み返した。
    二度見した。
    やはり同じだった。
    『家族を買ってください』
    その下には説明が書かれている。
    高齢者と子育て家庭をつなぐ交流事業。
    祖父母世代の経験を必要としている家庭があります。
    子どもたちは祖父母との交流を求めています。
    血縁を超えた新しい家族のかたちを提案します。
    「家族を買うだってさ」
    ボンレスおばさんが鼻で笑った。
    「私は売れ残りだけどね」
    「自分で言うなよ」
    「事実だから仕方ない」
    そう言って笑った。
    ボンレスおばさんは一度も結婚していない。
    若い頃は働くのが好きだったらしい。
    気がつけば適齢期を過ぎていた。
    結婚話がなかったわけではない。
    何度かあったそうだ。
    だが、縁がなかった。
    本人はいつも笑い話にしている。
    しかし時々、子どもの話になると目が遠くなる。
    俺は何度か見たことがあった。
    池さん夫婦も掲示板の前にやって来た。
    「何見てるんです?」
    池さんが尋ねる。
    「これだよ」
    ボンレスおばさんがチラシを渡した。
    池さんは黙って読み始めた。
    奥さんも横からのぞき込む。
    しばらくして池さんが言った。
    「面白そうだな」
    ボンレスおばさんが目を丸くした。
    「本気?」
    「本気」
    「家族ごっこだよ?」
    「そうかもしれない」
    池さんはうなずいた。
    「でも、孫がいたらこんな感じなのかなって思うじゃないか」
    その言葉に奥さんもうなずいた。
    俺は黙っていた。
    少し前のファミレスでの会話を思い出した。
    ――一度くらい父親になってみたかったな。
    あれは本音だったのだ。
    その時だった。
    掲示板の向こうから子どもの笑い声が聞こえた。
    振り返る。
    小学生くらいの男の子だった。
    その後ろを小さな女の子が追いかけている。
    母親らしい女性が慌てて後を追っていた。
    三人とも笑っていた。
    ほんの数秒の光景だった。
    だがなぜか目を奪われた。
    男の子は元気だった。
    女の子は転びそうになりながら走っていた。
    母親は少し疲れた顔をしていた。
    それでも優しい顔だった。
    俺は知らなかった。
    あの親子と、これから深く関わることになるとは。
    帰り道。
    車を運転しながらチラシのことを考えていた。
    家族を買う。
    変な言葉だ。
    だが家族とは何だろう。
    俺は家族のために働いた。
    家を建てた。
    学費を払った。
    家族を守ろうとしてきた。
    それなのに今は一人だ。
    信号待ちで窓の外を見た。
    小さな男の子が父親と手をつないで歩いている。
    胸の奥が少し痛んだ。
    孫を思い出したのかもしれない。
    あるいは失ったものを思い出したのかもしれない。
    その夜。
    一人で夕食を食べながら、何度もチラシを眺めた。
    そして気づいた。
    俺はもう応募用紙を書き始めていた。
    「まったく……」
    苦笑する。
    六十九歳にもなって何をしているのだろう。
    だが心のどこかが少しだけ弾んでいた。
    まるで新しい仕事を始める前のように。
    その時の俺はまだ知らなかった。
    この申し込みが、
    俺の人生だけでなく、
    ボンレスおばさんの人生も、
    池さん夫婦の人生も、
    大きく変えることになることを。
    そして、あの日掲示板の前を走っていた兄妹が、
    俺たちの運命を変える存在になることを。
    第五章 契約の孫
    応募から三週間後。
    俺は市内のコミュニティセンターにいた。
    契約家族交流事業の面談日だった。
    会議室には十人ほどの高齢者が集まっている。
    夫婦で来ている人。
    一人で来ている人。
    みんな少し緊張していた。
    もちろん俺もだ。
    六十九歳になって面接を受けるとは思わなかった。
    「緊張するねぇ」
    隣でボンレスおばさんが小声で言った。
    「おばさんも来たの?」
    「だって暇なんだもん」
    「正直だな」
    「暇な老人に勝てるものはないよ」
    俺は吹き出した。
    その時、池さん夫婦がやって来た。
    二人とも妙にきちんとした服を着ている。
    「見合いか?」
    俺が言うと、
    池さんは笑った。
    「孫に会うんだからな」
    奥さんも照れくさそうだった。
    会議室の空気が少し和らいだ。
    やがて説明会が始まる。
    担当者は三十代くらいの女性だった。
    事業の目的。
    契約内容。
    注意事項。
    そして最後にこう言った。
    「この制度は家族の代わりになるものではありません」
    会場が静かになった。
    「ただし、新しいつながりを作るきっかけにはなれると思っています」
    その言葉だけが心に残った。
    新しいつながり。
    俺にはもう縁のない言葉だと思っていた。
    説明会が終わる。
    順番に個別面談が始まった。
    俺は廊下のベンチで待っていた。
    その時だった。
    遠くから子どもの笑い声が聞こえた。
    走る足音。
    元気な声。
    思わず顔を上げる。
    小学校四年生くらいの男の子が走っていた。
    その後ろを小さな女の子が追いかけている。
    そして母親。
    やはり掲示板の前で見かけた親子だった。
    男の子は俺の前で急に立ち止まった。
    じっと顔を見る。
    「こんにちは」
    突然だった。
    俺は少し驚いた。
    「こんにちは」
    男の子は俺の隣に座った。
    「おじさんも面接?」
    「おじさんじゃない」
    「じゃあ何?」
    「おじいさんだ」
    男の子は大笑いした。
    「確かに!」
    その笑顔につられて俺も笑う。
    向こうで母親が慌てていた。
    「健太!」
    男の子は振り返る。
    「ごめーん!」
    そして走って戻っていった。
    ほんの一分ほどだった。
    だが不思議だった。
    誰もいない家では何日も笑わないことがある。
    それなのに、
    知らない子どもと少し話しただけで笑っている。
    人間とは単純な生き物らしい。
    面談では、
    これまでの仕事。
    趣味。
    健康状態。
    子どもとの関わり方。
    いろいろ聞かれた。
    「趣味は?」
    「ウクレレです」
    担当者が微笑む。
    「素敵ですね」
    「いや、まだ下手です」
    「子どもたちは喜ぶかもしれません」
    そう言われると少し嬉しかった。
    面談を終えて帰宅する。
    夕方になった頃だった。
    電話が鳴った。
    担当者だった。
    「岩宗さんでしょうか」
    「はい」
    「マッチングが成立しました」
    俺は一瞬意味が分からなかった。
    「シングルマザーのご家庭です」
    心臓が少し速くなる。
    「小学四年生の男の子、健太くん」
    やっぱり。
    「五歳の女の子、美咲ちゃんです」
    思わず笑った。
    担当者は続ける。
    「お母さまは三十八歳です」
    「はい」
    「介護施設で働いています」
    「大変ですね」
    「はい。土日勤務も多く、ご苦労されています」
    俺は黙った。
    働きながら子育て。
    簡単ではない。
    担当者はさらに続けた。
    「お父さまはいらっしゃいません」
    少し間が空いた。
    「そうですか」
    「初回交流会は来週の日曜日になります」
    電話が終わった。
    俺はしばらくソファに座ったままだった。
    妙な気持ちだった。
    期待。
    不安。
    照れくささ。
    全部混ざっている。
    その夜。
    ボンレスおばさんから電話が来た。
    「どうだった?」
    「決まった」
    「私も!」
    向こうで歓声が上がる。
    「池さん夫婦も決まったって!」
    「みんなか」
    「全員採用!」
    まるで就職試験に合格したみたいだった。
    電話を切ったあと、
    出窓のウクレレに目をやった。
    母がくれた一万円。
    あの日のウクレレ。
    あの時は知らなかった。
    そのウクレレが、
    いつか一人の女性を救うことになるなんて。
    俺はまだ知らなかった。
    来週の日曜日。
    健太との再会が、
    俺たち全員の人生を大きく動かし始めることになるのだった。
    第六章 契約って、いつまでなの?
    日曜日。
    俺は約束の三十分も前に会場へ着いていた。
    市民交流センターの一階。
    広い和室には机と座布団が並べられている。
    今日は初めての顔合わせだった。
    たかが交流会。
    そう思っていた。
    だが落ち着かない。
    まるで初出勤の日みたいだった。
    いや。
    初デートの方が近いかもしれない。
    六十九歳にもなって情けない。
    そう思いながら缶コーヒーを飲んでいると、
    ボンレスおばさんが現れた。
    「早いねぇ」
    「お前もな」
    「昨日眠れなかった」
    「遠足か」
    「初孫よ」
    そう言って自分で笑った。
    しばらくすると池さん夫婦もやって来た。
    奥さんは紙袋を抱えている。
    「何それ?」
    ボンレスおばさんが聞く。
    「クッキー」
    「誰に?」
    「子どもたちに」
    「もう孫扱いしてる」
    奥さんは少し照れた。
    「だって楽しみなんだもの」
    池さんも嬉しそうだった。
    七十歳の男がこんな顔をするのか。
    そう思うほどだった。
    やがて担当者が現れた。
    その後ろから一組の親子が入ってくる。
    俺はすぐに分かった。
    健太だった。
    妹の美咲もいる。
    そして母親。
    近くで見ると、思ったより若かった。
    優しい顔をしている。
    だがどこか疲れている。
    無理をして笑っているようにも見えた。
    健太は俺を見るなり叫んだ。
    「あっ!」
    そして走ってくる。
    「おじいちゃん!」
    会場中が笑った。
    俺も笑った。
    ところが次の瞬間だった。
    健太は真顔になった。
    そして聞いた。
    「ねえ」
    「なんだ?」
    「契約って、いつまでなの?」
    一瞬、
    空気が止まった。
    母親が慌てる。
    「健太!」
    「だって気になるじゃん」
    健太は本気だった。
    悪気はない。
    純粋な疑問だった。
    だからこそ答えに困る。
    担当者も苦笑いしている。
    俺も少し考えた。
    そして言った。
    「さあな」
    健太は首を傾げる。
    「分からないの?」
    「分からない」
    「なんで?」
    「人との付き合いはな」
    俺は笑った。
    「やってみないと分からないから」
    健太はしばらく考えていた。
    そして、
    「ふーん」
    と言った。
    納得したのか、
    していないのか分からない。
    だがそれ以上は聞かなかった。
    交流会が始まる。
    自己紹介。
    ゲーム。
    お菓子。
    子どもたちはすぐに打ち解けた。
    やはり順応力が違う。
    美咲はボンレスおばさんの隣に座った。
    「おばあちゃん」
    「誰がおばあちゃんだ」
    「じゃあ何?」
    「お姉さん」
    美咲は首を傾げる。
    「無理があるよ」
    会場中が大笑いした。
    ボンレスおばさんは机を叩いて悔しがる。
    そのやり取りを見ながら、
    俺は久しぶりに腹を抱えて笑った。
    一方、
    池さん夫婦は健太の話を夢中で聞いていた。
    学校の話。
    友達の話。
    ゲームの話。
    たったそれだけなのに楽しそうだった。
    特に池さんの顔が違う。
    少年のような顔だった。
    交流会が終わる頃には、
    最初の緊張はすっかり消えていた。
    帰り際。
    健太が俺の服の裾を引っ張った。
    「ねえ」
    「なんだ?」
    「プール得意?」
    「まあな」
    健太の目が輝いた。
    「泳げるようになりたい」
    「泳げるだろ」
    「もっと速くなりたい」
    「そうか」
    「教えて」
    その時だった。
    母親の顔が曇った。
    ほんの一瞬だったが、
    俺は見逃さなかった。
    健太も気づいたらしい。
    慌てて言い直した。
    「忙しかったらいいよ」
    「いや」
    俺は笑った。
    「今度教えてやる」
    健太は飛び上がった。
    「やった!」
    その横で母親が小さく頭を下げた。
    「ありがとうございます」
    声は小さかった。
    どこか申し訳なさそうだった。
    まるで、
    誰かに頼ることに慣れていない人のように。
    その日の帰り道。
    駐車場で母親と少しだけ話した。
    「お仕事は介護施設でしたね」
    「はい」
    「大変でしょう」
    彼女は苦笑した。
    「慣れました」
    そう答えた。
    だが、
    慣れた人間の顔ではなかった。
    無理をして頑張り続けている人の顔だった。
    その時、
    美咲が転びそうになった。
    母親は反射的に大きな声を出した。
    「美咲!」
    美咲がびくっと肩を震わせる。
    そしてすぐに謝った。
    「ごめんなさい」
    母親も我に返ったようだった。
    「ごめんね」
    優しく抱きしめる。
    だがその瞬間、
    俺は少しだけ違和感を覚えた。
    美咲の怯え方が大きかったのだ。
    子どもは親に叱られる。
    それは普通のことだ。
    だが、
    何かが引っ掛かった。
    うまく言葉にはできない。
    ただ、
    健太が最初に聞いた言葉が頭に残った。
    ――契約って、いつまでなの?
    あれは単なる好奇心ではなかったのかもしれない。
    その夜。
    帰宅した俺は、
    誰もいないリビングで缶ビールを開けた。
    静かな家だった。
    だが以前とは違う。
    来週の予定がある。
    会いたい子どもたちがいる。
    池さん夫婦がいる。
    ボンレスおばさんがいる。
    それだけで家の空気が変わる。
    俺はソファに座りながら思った。
    人生は終盤だと思っていた。
    だが、
    どうやらまだ続きがあるらしい。
    その時の俺は知らなかった。
    数週間後、
    プールで健太の背中に残る青あざを見つけることになるとは。
    そしてその傷が、
    一つの家族の悲しい過去を教えてくれることになるとは。
    第七章 じいじのプール教室
    翌週の日曜日。
    俺は市民プールの入り口で待っていた。
    約束の十五分前だった。
    昔から待つのは嫌いじゃない。
    営業マン時代から、
    客を待たせるなと叩き込まれてきた。
    六十九歳になっても抜けない癖だった。
    やがて遠くから元気な声が聞こえた。
    「じいじー!」
    健太だった。
    その後ろを美咲が走っている。
    母親が追いかけていた。
    さらに後ろから見慣れた顔が近づいてくる。
    ボンレスおばさんだった。
    その隣には池さん夫婦もいる。
    「なんで全員いるんだ?」
    俺は笑った。
    「だって楽しそうじゃない」
    ボンレスおばさんが言う。
    「健太の水泳教室だよ」
    「応援だけじゃないよ」
    池さんが笑う。
    「俺たちも泳ぐ」
    「そうそう」
    奥さんもうなずく。
    結局、みんなプールが好きなのだ。
    だから仲良くなった。
    健太は不思議そうにボンレスおばさんを見上げた。
    「ボンレスおばさんって速いの?」
    俺は笑った。
    「速いぞ」
    「本当?」
    「俺が昔付けたあだ名がある」
    ボンレスおばさんが嫌な顔をした。
    「言わなくていい」
    「ボンレスおばさん」
    健太が吹き出した。
    「なにそれ!」
    美咲も笑い転げる。
    「ボンレスおばさん!」
    「ボンレスおばさん!」
    ボンレスおばさんは腰に手を当てた。
    「誰がボンレスハムだい!」
    「いや、ボンレスおばさん」
    俺が訂正する。
    池さん夫婦まで大笑いしている。
    それ以来だった。
    健太も美咲も、
    ボンレスおばさんを見るたびに、
    「ボンレスおばさん!」
    と呼ぶようになった。
    本人は怒るふりをしている。
    だが満更でもない。
    むしろ嬉しそうだった。
    更衣室で着替え、
    プールサイドへ出る。
    健太は少し緊張していた。
    「泳げるか?」
    「二十五メートル」
    「立派だ」
    「でも息継ぎが苦手」
    なるほど。
    俺は昔、
    水泳ボランティアをしていたことがある。
    子どもの苦手はだいたい分かる。
    まず浮くこと。
    そして呼吸。
    焦らないこと。
    「いいか」
    俺は健太に言った。
    「泳ぐのは力じゃない」
    「うん」
    「水を信じるんだ」
    健太は首を傾げた。
    だが素直だった。
    言われた通りにやる。
    何度も。
    何度も。
    失敗してもやる。
    その姿が嬉しかった。
    三十分後。
    少しずつ形になってきた。
    「よし、一本泳いでみろ」
    健太はうなずいた。
    壁を蹴る。
    腕を伸ばす。
    息継ぎ。
    また伸びる。
    二十五メートル。
    最後まで泳ぎ切った。
    ゴールにつかまりながら、
    目を丸くしている。
    「できた」
    「できたな」
    「できた!」
    プール中に響く声だった。
    その瞬間。
    拍手が起きた。
    ボンレスおばさん。
    池さん夫婦。
    美咲。
    母親。
    みんな笑っていた。
    健太は照れながら笑った。
    俺も笑った。
    たった二十五メートル。
    だが人生には、
    たった二十五メートルが宝物になる日もある。
    休憩時間。
    健太はシャワーへ向かった。
    俺も後から歩いていく。
    その時だった。
    健太の背中が見えた。
    大きな青あざだった。
    肩甲骨の下。
    一つではない。
    いくつもあった。
    俺は思わず立ち止まった。
    健太も気づいたらしい。
    慌ててタオルを背中に回した。
    そして笑う。
    無理をした笑顔だった。
    「どうした?」
    俺は何気なく聞いた。
    「何が?」
    「背中」
    健太は目をそらした。
    「転んだ」
    そう答えた。
    俺は黙った。
    長く営業をやっていると、
    本当のことを言っている顔と、
    嘘をついている顔くらい分かる。
    健太は嘘をついていた。
    だがそれ以上聞かなかった。
    聞けなかった。
    昼食は近くのファミレスだった。
    みんなでテーブルを囲む。
    笑い声が絶えない。
    美咲がジュースをこぼす。
    ボンレスおばさんが拭く。
    池さん夫婦が笑う。
    健太がからかう。
    母親が謝る。
    誰かがフォローする。
    その繰り返しだった。
    ふと気づく。
    母親はほとんど食べていない。
    子どもたちの世話ばかりしている。
    そして時々、
    健太の顔色をうかがっていた。
    健太もまた、
    母親の顔色をうかがっていた。
    何かがおかしい。
    そう思った。
    帰り際。
    健太が聞いた。
    「じいじ」
    「なんだ?」
    「来週も来る?」
    「来るよ」
    「絶対?」
    「絶対」
    健太は安心したように笑った。
    その顔を見ながら、
    俺は背中のあざを思い出していた。
    そして胸の奥に、
    小さな不安が残った。
    その不安が現実になるまで、
    そう時間はかからなかった。
    第八章 健太の秘密
    夏休みが近づいていた。
    俺たちの交流はすっかり日常になっていた。
    日曜日になれば誰かが連絡する。
    「今週どうする?」
    そんなやり取りが当たり前になっていた。
    プール。
    公園。
    図書館。
    ファミレス。
    特別なことは何もない。
    だが誰かと過ごす時間は特別だった。
    ある日曜日。
    俺たちは市民公園で弁当を広げていた。
    ボンレスおばさんが朝五時から作ったという唐揚げ。
    池さんの奥さんのおにぎり。
    俺が買ってきた麦茶。
    美咲は芝生を走り回っている。
    だが健太は元気がなかった。
    俺は気になった。
    「どうした?」
    健太は首を振る。
    「別に」
    子どもの『別に』には意味がある。
    大人の『別に』とは違う。
    すると池さんが隣へ座った。
    「学校か?」
    健太が驚いた顔をする。
    「なんで分かったの?」
    池さんは笑った。
    「長く生きてるからな」
    健太はしばらく黙っていた。
    やがて小さな声で言った。
    「友達に言われた」
    「何を?」
    「本当のじいちゃんじゃないだろって」
    風が吹いた。
    芝生が揺れる。
    誰もすぐには言葉を返せなかった。
    健太は続けた。
    「契約なんだろって」
    下を向いたままだった。
    ボンレスおばさんが腕を組む。
    説教を始める時の顔だった。
    「バカだねぇ」
    健太が顔を上げる。
    「え?」
    「そんなの簡単だよ」
    みんな黙って聞く。
    「本当の親でも仲が悪い人はいる」
    「・・・」
    「本当の子どもでも会わない人もいる」
    「・・・」
    「本当の家族でも憎しみ合うことだってある」
    健太は黙っていた。
    ボンレスおばさんは続けた。
    「でもね」
    声が少し優しくなる。
    「私たちは健太が好きなんだよ」
    健太が目を丸くした。
    「契約だからじゃない」
    「・・・」
    「健太だから」
    その瞬間だった。
    健太の目に涙が浮かんだ。
    慌てて横を向く。
    男の子は泣き顔を見られたくない。
    俺もそうだった。
    池さんもそうだった。
    だから誰も見ないふりをした。
    その帰りだった。
    駐車場で母親が頭を下げた。
    「ありがとうございました」
    「何が?」
    俺が聞く。
    母親は少し迷った。
    そして言った。
    「健太、あの子・・・」
    言葉が続かない。
    「不安なんです」
    俺たちは黙って聞いた。
    「誰かがいなくなるんじゃないかって」
    胸が痛くなった。
    だから何度も確認するのか。
    来週も来る?
    絶対?
    約束だよ?
    全部同じだったのだ。
    母親は苦笑した。
    「子どもなのに気を遣うんです」
    「・・・」
    「私の顔色ばかり見ています」
    その時だった。
    美咲が車の後ろで遊んでいて転びそうになった。
    母親が振り返る。
    「美咲!」
    鋭い声だった。
    美咲がびくっと身体を震わせる。
    そして小さくなる。
    母親はすぐに我に返った。
    「ごめんね」
    抱きしめる。
    だがその顔は青ざめていた。
    帰宅してからも、
    その様子が頭から離れなかった。
    そして数日後。
    プールの日だった。
    健太と二人で休憩している時、
    ふと聞いてみた。
    「お母さん、最近疲れてるな」
    健太は黙った。
    「仕事が大変なのか?」
    健太はプールの水面を見つめていた。
    そして小さな声で言った。
    「お母さんね」
    「うん」
    「昔、いっぱい殴られたんだって」
    俺は黙った。
    「誰に?」
    「お父さん」
    胸が重くなる。
    健太は続けた。
    「だから離婚した」
    「・・・」
    「お酒飲むと怒るんだって」
    俺は何も言えなかった。
    健太はしばらく黙っていた。
    そして、
    「でもね」
    と言った。
    嫌な予感がした。
    「最近・・・」
    健太の声が震えた。
    「お母さんも怒るんだ」
    俺は息を呑んだ。
    「前は違ったんだけど」
    「・・・」
    「最近すぐ怒る」
    健太は笑おうとした。
    だが笑えなかった。
    「たぶん疲れてるだけ」
    そう言った。
    だがその顔は、
    疲れているだけではないことを知っていた。
    俺は背中のあざを思い出した。
    そして確信した。
    あれは転んだ傷ではない。
    その夜。
    眠れなかった。
    もし俺の考えていることが本当なら、
    健太は助けを求めている。
    だがどうすればいい。
    俺は家族ではない。
    契約上の祖父だ。
    踏み込んでいいのか。
    そんなことを考えていた。
    その時だった。
    深夜十時過ぎ。
    玄関のインターホンが鳴った。
    こんな時間に誰だろう。
    俺は立ち上がった。
    そして玄関を開ける。
    そこには――
    びしょ濡れの健太が立っていた。
    ランドセルを背負ったまま。
    涙をこらえながら。
    「じいじ・・・」
    俺は言葉を失った。
    健太は震える声で言った。
    「今日は・・・」
    「帰りたくない」
    雨が静かに降っていた。
    そして俺たちの関係は、
    その夜から大きく変わることになるのだった。
    第九章 雨の家出
    玄関のインターホンが鳴った。
    時計を見る。
    午後十時を過ぎている。
    こんな時間に誰だろう。
    俺は立ち上がった。
    玄関を開ける。
    そこには健太が立っていた。
    びしょ濡れだった。
    ランドセルを背負ったまま。
    顔は真っ青だった。
    「健太!」
    俺は思わず声を上げた。
    健太は唇を震わせながら言った。
    「じいじ……」
    そして、
    「今日は帰りたくない」
    そう言った。
    俺は何も聞かなかった。
    ただ肩を抱いた。
    「入れ」
    健太は小さくうなずいた。
    居間へ連れて行く。
    タオルを渡す。
    着替えを貸す。
    温かいお茶を入れる。
    しばらく二人で黙っていた。
    雨音だけが聞こえる。
    やがて健太がぽつりと言った。
    「お母さん泣いた」
    俺は黙って聞いた。
    「僕のせいで」
    事情は少しずつ見えてきた。
    仕事で疲れて帰宅した母親。
    学校で先生に注意された健太。
    些細なことから口論になった。
    母親は感情的になった。
    健太も言い返した。
    そして母親が手を上げた。
    健太は反射的に腕を上げた。
    その瞬間だった。
    母親が泣き崩れたという。
    「お母さん……」
    健太は俯いた。
    「僕の顔見て泣いた」
    声が震えていた。
    「僕……」
    拳を握る。
    「お父さんみたいだった」
    胸が締め付けられた。
    健太は続けた。
    「僕、お父さん嫌いなんだ」
    窓の外では雨が降り続いている。
    「お母さん殴ったから」
    「……」
    「美咲も泣かせたから」
    俺は黙って聞いていた。
    「だから守ろうと思ったんだ」
    健太は初めて顔を上げた。
    目が真っ赤だった。
    「守ろうと思ったのに」
    涙がこぼれる。
    「守れなかった」
    俺は何も言わない。
    健太は続けた。
    「お父さんがいた時さ」
    声が小さくなる。
    「美咲が泣いてたんだ」
    「……」
    「お母さんも泣いたんだ」
    「……」
    「ぼく悪かったのかな」
    十歳の子どもの言葉とは思えなかった。
    「でも何もできなかった」
    涙をぬぐう。
    「小さかったから」
    「……」
    「だから大きくなったら守ろうと思った」
    俺は胸が痛かった。
    健太はまだ十歳だ。
    本当なら守られる側だ。
    それなのに、
    この子はずっと、
    自分が家族を守らなければならないと思って生きてきたのだ。
    「でもさ……」
    健太が唇を噛む。
    「今度はお母さんが怒るんだ」
    「……」
    「美咲が怖がるんだ」
    「……」
    「僕、止められない」
    声が震えた。
    「力が足りないんだ」
    涙が落ちる。
    「男なのに」
    俺は首を振った。
    「違う」
    健太が顔を上げる。
    「男だから守るんじゃない」
    「……」
    「まだ子どもだから守れなくて当たり前だ」
    健太は黙った。
    「守るのは大人の仕事だ」
    俺は健太の肩に手を置いた。
    「だから今回はじいじたちに任せろ」
    健太は何も言わなかった。
    だが、
    張り詰めていた糸が少しだけ緩んだように見えた。
    その時だった。
    スマホが鳴った。
    健太の母親だった。
    着信履歴が何件も並んでいる。
    健太の顔が青くなる。
    「怒ってる……」
    俺は電話に出た。
    「もしもし」
    向こうから泣き声が聞こえた。
    「健太いますか!」
    「います」
    大きなため息。
    そして嗚咽。
    「よかった……」
    怒っているのではなかった。
    怯えていたのだ。
    息子を失ったかもしれない恐怖に。
    「迎えに行きます」
    母親が言う。
    だが俺は静かに答えた。
    「今日はやめましょう」
    沈黙。
    「え……」
    「健太も落ち着いていません」
    「……」
    「お母さんも同じでしょう」
    電話の向こうで泣き声が大きくなった。
    「私……」
    「……」
    「またやってしまいました」
    その言葉が重かった。
    「主人と同じことを……」
    俺は目を閉じた。
    やはりそうか。
    「今日は休みましょう」
    長い沈黙。
    やがて、
    「お願いします」
    という声が返ってきた。
    電話が切れた。
    その夜。
    健太は和室で眠った。
    昔、息子が使っていた部屋だった。
    布団に入ってもなかなか眠れない。
    天井を見つめている。
    「じいじ」
    「なんだ」
    「お母さん……」
    「うん」
    「僕のこと嫌いになってないかな」
    俺は苦笑した。
    「誰が?」
    「お母さん」
    俺は首を振った。
    「嫌いな子どもをあんなに探さない」
    健太は黙った。
    「何回電話してきたと思う」
    少し考える。
    「いっぱい」
    「そうだ」
    健太は布団を鼻まで引き上げた。
    そして小さな声で言った。
    「僕、お母さん好きなんだ」
    「知ってる」
    「美咲も好き」
    「知ってる」
    「だから守りたい」
    胸が熱くなった。
    俺は電気を消した。
    しばらくすると寝息が聞こえてくる。
    居間へ戻った。
    テーブルの上にはウクレレが置いてある。
    何気なく手に取った。
    ポロン。
    優しい音が鳴る。
    静かな夜だった。
    そして俺は思った。
    救わなければならないのは健太だけではない。
    あのお母さんも同じだ。
    誰より苦しんでいるのは、
    もしかすると彼女なのかもしれない。
    翌朝。
    俺たちはその苦しみの正体を知ることになる。
    第十章 母親の涙
    翌朝。
    俺はいつもより早く目が覚めた。
    居間へ行くと、
    健太はまだ眠っていた。
    昨夜は何度も寝返りを打っていた。
    小さな背中だった。
    本来なら、
    友達と遊び、
    ゲームのことを考え、
    好きな女の子のことを気にする年頃だ。
    それなのに、
    母親と妹を守ろうとしている。
    胸が痛んだ。
    七時を過ぎた頃、
    インターホンが鳴った。
    玄関を開ける。
    健太の母親だった。
    目が真っ赤だった。
    たぶん一睡もしていないのだろう。
    「おはようございます」
    声もかすれていた。
    「どうぞ」
    居間へ案内する。
    しばらくすると健太も起きてきた。
    母親の姿を見る。
    足が止まる。
    母親も立ち上がった。
    二人とも何を言えばいいのか分からない。
    長い沈黙だった。
    先に頭を下げたのは母親だった。
    「ごめんね」
    健太の目が大きくなる。
    「お母さん……」
    「本当にごめん」
    涙が落ちる。
    「ごめんね」
    健太も泣いていた。
    「僕もごめん」
    母親は首を振る。
    「違う」
    「でも……」
    「違うの」
    震える声だった。
    「悪いのは私」
    そう言って健太を抱きしめた。
    健太も抱き返す。
    二人とも泣いていた。
    しばらくして、
    美咲も起きてきた。
    何が起きているのか分からない顔をしている。
    それでも母親に抱きついた。
    家族というのは不思議だ。
    言葉がなくても伝わる。
    その日の午後。
    健太と美咲は庭で遊んでいた。
    俺と母親は縁側に座っていた。
    風が吹く。
    西洋もみじの葉が揺れている。
    しばらく沈黙が続いた。
    やがて母親が話し始めた。
    「主人は暴力を振るう人でした」
    俺は黙って聞いた。
    「最初は優しかったんです」
    遠くを見る目だった。
    「でも少しずつ変わりました」
    酒を飲む。
    怒鳴る。
    物を投げる。
    殴る。
    蹴る。
    その繰り返しだった。
    「子どもたちの前でもですか」
    母親は小さくうなずいた。
    「健太はいつも美咲を抱きしめていました」
    胸が苦しくなった。
    まだ小さな子どもだったはずだ。
    「離婚した時は嬉しかったんです」
    母親は言った。
    「これで守れると思った」
    そして俯いた。
    「なのに……」
    声が震える。
    「最近の私は主人と同じなんです」
    「違う」
    俺は言った。
    だが母親は首を振る。
    「違いません」
    涙が落ちた。
    「怒鳴るんです」
    「……」
    「感情を抑えられないんです」
    「……」
    「健太を叩いてしまいました」
    両手で顔を覆う。
    「最低です」
    「違う」
    俺はもう一度言った。
    「本当に同じなら苦しまない」
    母親は黙った。
    「同じなら反省しない」
    「……」
    「同じなら今ここに来ない」
    風が吹いた。
    しばらく誰も話さなかった。
    やがて俺は話題を変えた。
    「昔、趣味はありましたか」
    母親は少し驚いた。
    「趣味?」
    「ええ」
    少し考えている。
    そして、
    「二十年くらい前にギターを買いました」
    と答えた。
    「ギター?」
    「はい」
    少し恥ずかしそうだった。
    「結婚する前です」
    「弾けたんですか」
    母親は笑った。
    久しぶりに見た自然な笑顔だった。
    「全然」
    「そうなんですか」
    「Fコードで挫折しました」
    俺は吹き出した。
    「仲間だ」
    母親が驚く。
    「え?」
    「俺もそうだった」
    二人で笑った。
    久しぶりに肩の力が抜けた気がした。
    「子どもが生まれて」
    母親は続けた。
    「仕事して」
    「家事して」
    「毎日が忙しくて」
    「気が付いたらギターは押し入れの奥でした」
    俺はうなずいた。
    人生にはそんなことが多い。
    好きだったものが、
    いつの間にか消えてしまう。
    「じゃあ今度はウクレレです」
    俺は言った。
    母親が苦笑する。
    「無理ですよ」
    「大丈夫」
    「できません」
    「俺が六十四歳で始められたんだ」
    母親は笑った。
    「比較になりません」
    俺は立ち上がる。
    出窓の横に置いてあったウクレレを持ってきた。
    そして差し出した。
    「やってみましょう」
    母親は戸惑っている。
    「本気ですか」
    「本気です」
    「難しいですよ」
    「人生より簡単です」
    思わず母親が吹き出した。
    久しぶりの笑い声だった。
    俺は嬉しかった。
    母親はおそるおそるウクレレを受け取る。
    そして弦を弾いた。
    ポロン。
    優しい音が響く。
    母親は驚いた顔をした。
    たった一つの音なのに、
    何かが心に触れたようだった。
    「いい音……」
    小さく呟く。
    その表情を見て確信した。
    この人はまだ大丈夫だ。
    壊れてはいない。
    ただ疲れているだけだ。
    ずっと一人で頑張り続けてきただけだ。
    縁側では健太がその様子を見ていた。
    そして初めて、
    少しだけ安心したように笑った。
    母親が笑っている。
    それが嬉しかったのだろう。
    その時の俺たちはまだ知らなかった。
    この一台のウクレレが、
    やがてみんなを笑顔にすることになるとは。
    そして、
    健太がもう一人で家族を守ろうとしなくてもよくなる日が来ることを。
    第十一章 もう一度挑戦
    翌週の日曜日。
    いつものように健太たちがやって来た。
    玄関を開けると、
    美咲が真っ先に飛び込んでくる。
    「岩崎じいじー!」
    その後ろから健太。
    そして母親。
    先週より表情は少し柔らかくなっていた。
    だが、
    まだどこか遠慮がある。
    無理もない。
    何年も一人で頑張ってきた人間が、
    急に変われるわけではない。
    居間へ入ると、
    ボンレスおばさんが待っていた。
    「遅いよ」
    「十分前です」
    母親が苦笑する。
    「私より早く来る人がいるとは思いませんでした」
    「暇だからね」
    ボンレスおばさんは胸を張った。
    池さん夫婦もやって来る。
    最近は誰も連絡しない。
    それでも自然に集まる。
    不思議なものだった。
    昼食の後。
    俺はウクレレを取り出した。
    母親がすぐに苦笑する。
    「やっぱりですか」
    「やっぱりだ」
    健太が興味津々で近づいてくる。
    「お母さん、やるの?」
    「やらされるの」
    母親が答える。
    みんなが笑った。
    俺はウクレレを手渡した。
    「まず持ち方から」
    「そこからですか」
    「そこからだ」
    母親はおそるおそる構える。
    まだぎこちない。
    その姿を見ていると、
    二十年前にギターを始めようとしていた若い頃の彼女が見えるような気がした。
    「軽いですね」
    「ギターよりずっとな」
    母親は弦を弾いた。
    ポロン。
    優しい音が響く。
    美咲が拍手した。
    「お母さん上手!」
    「まだ何もしてないよ」
    ボンレスおばさんが笑う。
    まずはCコード。
    「指一本だけだ」
    俺が言う。
    母親は驚いた顔をした。
    「それだけ?」
    「それだけ」
    言われた通りに押さえて弾く。
    ポロン。
    きれいな和音が鳴った。
    「鳴った」
    少し嬉しそうだ。
    次はFコード。
    母親は急に身構えた。
    「難しいですか?」
    俺は吹き出した。
    「それはギターだ」
    「え?」
    「ウクレレのFは簡単」
    実際に見せる。
    母親も真似をする。
    ポロン。
    あっさり鳴った。
    「本当だ」
    母親は目を丸くした。
    「二十年前にこれを知っていたら挫折しなかったかもしれません」
    みんなが笑った。
    最後はG7。
    少し苦戦したが、
    何度か練習すると音が出るようになった。
    俺は一枚の紙を差し出した。
    「今日はこれを弾こう」
    母親が楽譜を見る。
    『犬のおまわりさん』
    と書いてあった。
    「懐かしい」
    健太が覗き込む。
    「僕知ってる」
    美咲は飛び跳ねる。
    「私も!」
    母親は楽譜とコードを見比べた。
    C。
    F。
    G7。
    さっき覚えた三つだけだった。
    「本当に弾けるんですか?」
    「弾ける」
    俺はうなずいた。
    母親はゆっくり弾き始めた。
    途中で止まる。
    間違える。
    またやり直す。
    ボンレスおばさんが横から口を出す。
    「そこ違うよ」
    「分かってます」
    母親が笑う。
    珍しく言い返した。
    みんなが笑った。
    そして三度目。
    ついに最後まで弾き切った。
    ♪まいごの まいごの こねこちゃん
    ボンレスおばさんが歌い始めた。
    池さん夫婦も歌う。
    美咲も大声で歌う。
    健太まで歌い出した。
    音程はバラバラだった。
    リズムも怪しかった。
    それでも楽しかった。
    曲が終わる。
    母親はしばらくウクレレを見つめていた。
    そして小さく言った。
    「私、本当に弾けたんですね」
    その顔は、
    驚いているようにも、
    喜んでいるようにも見えた。
    「弾けたな」
    俺は言った。
    母親は微笑んだ。
    そしてぽつりと言った。
    「何年ぶりだろう」
    「何が?」
    俺が聞く。
    母親は少し考えた。
    「失敗しても楽しいって思ったの」
    誰も言葉を返せなかった。
    その一言に、
    この人がどれほど頑張ってきたのかが詰まっていた。
    失敗してはいけない。
    母親だから。
    働かなければならない。
    生活を守らなければならない。
    ずっとそうやって生きてきたのだろう。
    だから、
    失敗してもいい時間を忘れていた。
    夕方になった。
    健太と俺は庭でキャッチボールをしていた。
    しばらくして健太がぽつりと言った。
    「岩崎じいじ」
    「なんだ」
    「お母さん、笑ってたね」
    俺はうなずいた。
    「そうだな」
    健太は少し黙った。
    そして小さな声で言った。
    「僕、あの顔好きなんだ」
    胸が熱くなった。
    母親の笑顔。
    それが健太にとって一番の願いだったのだ。
    縁側を見る。
    母親はまだウクレレを抱いていた。
    ボンレスおばさんが歌っている。
    池さん夫婦が手拍子をしている。
    美咲は踊っている。
    なんとも賑やかだった。
    半年前。
    離婚したばかりの俺は、
    一人で夕飯を食べていた。
    静かな家で。
    誰もいない部屋で。
    だが今は違う。
    笑い声がある。
    会いたい人がいる。
    守りたい人がいる。
    そして、
    守られている自分もいる。
    その時だった。
    ボンレスおばさんが声をかけた。
    「岩さん」
    「なんだ」
    「いい顔してるよ」
    「そうか?」
    「うん」
    ボンレスおばさんは笑った。
    「前は死にそうな顔してたからね」
    「余計なお世話だ」
    みんなが笑った。
    俺も笑った。
    人生は不思議だ。
    終わったと思った場所から、
    また始まることもある。
    西洋もみじの葉が夕暮れの風に揺れていた。
    この場面はとても大切ですね。
    美咲の誕生日が単なるパーティーではなく、
    「みんなが本当の家族になっていく日」
    になるからです。
    第十二章のケーキの前あたりに、こんな場面を入れてみてはいかがでしょう。
    ケーキの前に、
    プレゼントの時間になった。
    美咲は朝からそわそわしていた。
    まず池さん夫婦。
    「はい、どうぞ」
    包みを開ける。
    中からかわいい絵本が出てきた。
    「わぁ!」
    美咲の目が輝く。
    「読んで!」
    「今かい?」
    池さんの奥さんが笑った。
    次はボンレスおばさん。
    大きな袋を差し出す。
    「これは何かな?」
    美咲が開ける。
    中にはピンク色のワンピースが入っていた。
    「かわいい!」
    思わず抱きしめる。
    「着てみる?」
    ボンレスおばさんが聞く。
    「着る!」
    美咲は大喜びだった。
    「おばあちゃんありがとう!」
    「誰がおばあちゃんだい」
    みんなが笑った。
    それでもボンレスおばさんは嬉しそうだった。
    次は俺。
    「はい」
    小さな箱を渡した。
    美咲が開ける。
    中にはイルカのキーホルダー。
    プールが大好きな美咲のために選んだものだった。
    「イルカ!」
    美咲は飛び跳ねた。
    「かわいい!」
    すぐにランドセルにつけると言い出した。
    健太も照れくさそうに包みを差し出した。
    「僕から」
    「え?」
    美咲は驚いた。
    中には髪飾りが入っていた。
    お小遣いで買ったのだろう。
    決して高価なものではない。
    だが美咲は一番嬉しそうだった。
    「お兄ちゃん!」
    抱きつく。
    健太は照れていた。
    みんなが笑った。
    そして最後。
    母親が小さな包みを差し出した。
    「これは?」
    美咲が首を傾げる。
    開けてみる。
    中には家族四人の写真が入った小さなフォトフレームだった。
    俺。
    健太。
    美咲。
    そして母親。
    みんなでプールへ行った日の写真だった。
    美咲はしばらく見つめていた。
    「これが一番好き」
    そう言った。
    母親の目が潤む。
    その時だった。
    健太が聞いた。
    「そういえばお願い事は何だったの?」
    美咲は少し考えた。
    そして小さな声で言った。
    「内緒だったけど」
    みんなが聞いている。
    美咲は母親を見た。
    そして言った。
    「お母さんがずーっと優しいお母さんでいてくれますように」
    部屋が静かになった。
    母親の肩が震える。
    美咲は続けた。
    「今のお母さん、大好きだから」
    母親は顔を覆った。
    涙が止まらなかった。
    健太も黙っていた。
    ボンレスおばさんも、
    池さん夫婦も、
    誰も言葉が出なかった。
    俺だけが思った。
    この願いだけは、
    みんなで守らなければいけない。
    そう。
    もう母親一人の問題じゃない。
    俺たち全員の願いになったのだから。
    第十三章 みんなの願い
    美咲の誕生日会から数日後だった。
    健太から電話があった。
    珍しいことだった。
    「岩崎じいじ」
    「なんだ」
    「今度の日曜日、プール行ける?」
    「もちろん」
    電話の向こうで安心したような声がした。
    「よかった」
    最近の健太は少し変わった。
    以前ほど顔色をうかがわなくなった。
    それでも時々、
    不安そうな目をすることがある。
    長い時間をかけてできた心の傷は、
    そう簡単には消えない。
    だから焦らないことにした。
    日曜日。
    いつもの市民プール。
    俺たちは泳ぎ終わった後、
    いつものファミレスへ向かった。
    健太はずいぶん泳げるようになった。
    息継ぎも安定している。
    「もう俺の教えることはないな」
    そう言うと、
    健太は首を振った。
    「まだある」
    「何だ?」
    「ターン」
    欲張りになってきた。
    それが少し嬉しかった。
    ファミレスに着く。
    ボンレスおばさんはパフェ。
    池さん夫婦はコーヒー。
    美咲はお子様アイス。
    いつもの顔ぶれだった。
    その時だった。
    母親が言った。
    「実は・・・」
    みんなが顔を上げる。
    少し緊張している。
    「来月、施設のレクリエーションで演奏することになりました」
    俺は思わず聞き返した。
    「ウクレレか?」
    母親が照れながらうなずく。
    「一曲だけですけど」
    ボンレスおばさんが拍手した。
    「すごいじゃない!」
    池さん夫婦も喜んだ。
    健太は誰よりも嬉しそうだった。
    「お母さん頑張って!」
    母親は笑った。
    その笑顔は以前とは違っていた。
    無理に作った笑顔ではない。
    自然な笑顔だった。
    「失敗してもいいんです」
    母親が言った。
    俺は少し驚いた。
    「前は失敗するのが怖かった」
    窓の外を見ながら続ける。
    「でも今は違います」
    「・・・」
    「みんながいるから」
    その言葉に誰も何も言えなかった。
    俺はコーヒーを飲んだ。
    少し熱かった。
    だが胸の奥はもっと熱かった。
    あの日。
    雨の中で健太が訪ねて来なければ。
    あの日。
    プールの掲示板を見なければ。
    あの日。
    契約家族なんて馬鹿げていると思って帰っていたら。
    今の俺たちはいなかった。
    人生とは不思議なものだ。
    ほんの小さな選択で変わってしまう。
    帰り際。
    ボンレスおばさんが言った。
    「演奏会の日はみんなで行こう」
    「もちろん」
    池さんが答える。
    「最前列だな」
    「プレッシャーですよ」
    母親が笑う。
    美咲が手を挙げた。
    「私も応援する!」
    健太もうなずいた。
    「僕も」
    みんなが笑った。
    その光景を見ながら、
    俺はふと思った。
    美咲の願い。
    ――お母さんがずーっと優しいお母さんでいてくれますように。
    あの願いは、
    母親一人では叶えられない。
    健太一人でも無理だ。
    だから俺たちがいる。
    ボンレスおばさんがいる。
    池さん夫婦がいる。
    みんなで支える。
    みんなで笑う。
    みんなで見守る。
    それが家族なんだろう。
    血のつながりはない。
    契約書もない。
    それでも確かに家族だった。
    窓の外では夏の夕暮れが広がっていた。
    そして俺は、
    これから先もずっと、
    この子たちの成長を見ていたいと思った。
    第十四章 初めてのステージ
    レクリエーションの日がやって来た。
    会場は母親が勤めている介護施設だった。
    日曜日の午後。
    俺たちは全員で施設へ向かった。
    「緊張する」
    母親が何度も言う。
    「大丈夫だよ」
    ボンレスおばさんが笑う。
    「間違えたって誰も怒らない」
    「そうそう」
    池さんの奥さんもうなずく。
    「楽しめばいいのよ」
    それでも母親の顔は硬かった。
    健太が小さな声で言った。
    「お母さん」
    「なに?」
    「失敗しても拍手するから」
    母親は少し驚いた顔をした。
    そして笑った。
    「ありがとう」
    会場には高齢者が集まっていた。
    車椅子の人。
    杖をついた人。
    みんな楽しそうだった。
    職員の紹介が終わる。
    いよいよ母親の出番だった。
    「それでは職員の〇〇さんによるウクレレ演奏です」
    拍手が起こる。
    母親が前へ出る。
    俺まで緊張してきた。
    ウクレレを構える。
    一度深呼吸。
    そして演奏が始まった。
    曲は、
    『見上げてごらん夜の星を』
    だった。
    ゆっくり。
    丁寧に。
    少しだけ間違えた。
    だが止まらない。
    最後まで弾き切った。
    会場が静まり返る。
    そして大きな拍手が起こった。
    母親は驚いた顔をしていた。
    まるで信じられないというように。
    前列にいたおばあさんが言った。
    「よかったよ」
    別のおじいさんも言う。
    「元気が出た」
    母親の目に涙が浮かんだ。
    職員になってから、
    利用者に感謝されることはあった。
    だが、
    自分自身のために頑張ったことで拍手をもらったのは、
    何年ぶりだっただろう。
    演奏が終わる。
    美咲が真っ先に飛びついた。
    「お母さんすごい!」
    健太も照れながら言った。
    「上手だった」
    母親は泣きながら笑った。
    「ありがとう」
    その顔は本当に幸せそうだった。
    帰り道。
    施設の駐車場で、
    健太が俺の隣に並んだ。
    「岩崎じいじ」
    「なんだ」
    「僕ね」
    少し考えてから言った。
    「安心した」
    「何が?」
    健太は母親を見た。
    美咲と手をつないで歩いている。
    笑っている。
    楽しそうだった。
    「お母さんが元気になったから」
    俺はうなずいた。
    健太は続けた。
    「前はずっと心配だった」
    胸が少し痛んだ。
    「学校にいても」
    「プールにいても」
    「お母さん大丈夫かなって」
    十歳の子どもの言葉ではなかった。
    ずっと家族を背負っていたのだ。
    「でも今は違う」
    「そうか」
    「ボンレスおばさんもいるし」
    「池さんたちもいるし」
    「岩崎じいじもいる」
    健太は笑った。
    「だから大丈夫」
    その言葉を聞いて、
    俺は胸が熱くなった。
    あの日の雨の夜。
    『僕が守らなきゃ』
    と言っていた少年が、
    初めて誰かを頼ることを覚えたのだ。
    人は一人では生きられない。
    それは子どもも大人も同じだった。
    帰宅すると、
    西洋もみじが夕日に照らされていた。
    俺は縁側に座る。
    静かな時間だった。
    だが以前の静けさとは違う。
    孤独ではない。
    次の日曜日も、
    またみんなが来る。
    笑い声が聞こえる。
    ウクレレの音が聞こえる。
    そんな未来が待っている。
    俺は空を見上げた。
    青い空だった。
    そして心の中でつぶやいた。
    「まだまだ忙しくなりそうだな」
    自然と笑みがこぼれた。
    第十五章 健太の挑戦
    九月に入った。
    朝夕は少し涼しくなったが、
    昼間はまだ暑い。
    そんなある日、
    健太が珍しく興奮した声で電話をかけてきた。
    「岩崎じいじ!」
    「なんだ」
    「水泳大会に出る!」
    思わず笑った。
    「そうか」
    「五十メートル自由形」
    「いいじゃないか」
    電話の向こうで健太が笑った。
    以前なら、
    自信のなさそうな声だった。
    今は違う。
    挑戦したいという気持ちが伝わってきた。
    「最後まで泳ぎ切る」
    健太は言った。
    俺は嬉しかった。
    あの日、
    『僕には力が足りない』
    と泣いていた少年が、
    今は自分の目標に向かっている。
    それだけで十分だった。
    日曜日。
    いつものプールだった。
    健太は以前より真剣だった。
    スタート。
    息継ぎ。
    そしてターン。
    何度も何度も練習する。
    五十メートル自由形では、
    ターンが大事だ。
    二十五メートルを泳ぎ切るだけなら、
    もう健太にとって難しくない。
    だが、
    ターンしてからの後半が苦しい。
    そこを乗り越えなければならない。
    「壁を見るな」
    俺は言った。
    「もっと手前で準備する」
    「はい!」
    健太が返事をする。
    「返事だけは日本代表だな」
    健太が笑った。
    その笑顔に余裕が見えた。
    練習が終わる頃には、
    肩で息をしていた。
    だが表情は明るかった。
    その様子を見ながら、
    ボンレスおばさんが言った。
    「頑張るねぇ」
    「大会ですから」
    健太は胸を張る。
    「優勝したいの?」
    健太は少し考えた。
    そして首を振った。
    「ううん」
    「じゃあ何のため?」
    ボンレスおばさんが聞く。
    健太は少し照れながら答えた。
    「お母さんに見てもらいたい」
    母親は黙っていた。
    そして、
    そっと健太の頭を撫でた。
    大会当日。
    俺たちは全員で応援に行った。
    ボンレスおばさん。
    池さん夫婦。
    母親。
    美咲。
    そして俺。
    まるで家族の大応援団だった。
    健太はスタート台の前で緊張していた。
    「大丈夫か?」
    俺が聞く。
    健太はうなずいた。
    だが顔は引きつっている。
    するとボンレスおばさんが言った。
    「健太」
    「うん」
    「順位なんて気にしなくていいよ」
    健太が顔を上げる。
    「え?」
    「最後まで泳ぎ切れば百点だよ」
    優しい声だった。
    池さんも笑った。
    「そうそう」
    「途中で帰ってきたら失格だけどな」
    みんなが笑った。
    健太も笑った。
    少し肩の力が抜けたようだった。
    やがて名前が呼ばれる。
    スタート台へ上がる。
    ピッ。
    電子音が鳴った。
    健太は勢いよく飛び込んだ。
    きれいなスタートだった。
    二十五メートル。
    腕を大きく回す。
    息継ぎも安定している。
    壁が近づく。
    ターンだ。
    俺は思わず拳を握った。
    健太は練習通りに身体を丸めた。
    少しぎこちなかったが、
    ちゃんと回った。
    水中を蹴る。
    そして後半へ。
    残り二十五メートル。
    ここからが苦しい。
    腕が重くなる。
    息も苦しい。
    だが健太は止まらなかった。
    観覧席を見る余裕はない。
    ただ前だけを見る。
    ゴール。
    健太は壁を掴んだ。
    しばらく顔を上げられない。
    苦しかったのだろう。
    だが、
    やがて顔を上げた。
    電光掲示板を見る。
    順位は五位だった。
    表彰台には届かなかった。
    だが、
    健太は笑っていた。
    俺にはその理由が分かった。
    完泳したのだ。
    最後まで泳ぎ切ったのだ。
    それが嬉しかった。
    観覧席から声が飛んだ。
    「健太ー!」
    美咲だった。
    「すごかったー!」
    ボンレスおばさんが大きく手を振っている。
    池さん夫婦も拍手している。
    母親は泣いていた。
    健太はその顔を見た。
    そして、
    照れくさそうに笑った。
    表彰式が終わる。
    外へ出る。
    健太が母親のところへ走っていった。
    「どうだった?」
    母親が聞く。
    健太は胸を張った。
    「五位!」
    「すごいじゃない!」
    母親が抱きしめる。
    健太は少し照れていた。
    そして小さな声で言った。
    「見ててくれた?」
    母親は何度もうなずいた。
    涙を浮かべながら。
    「ちゃんと見てたよ」
    「ターンも?」
    「うん」
    「最後まで?」
    「最後まで」
    健太は嬉しそうに笑った。
    その顔を見ながら、
    俺は思った。
    健太はもう、
    母親を守るためだけに頑張っているんじゃない。
    自分の夢のために努力している。
    それは大きな成長だった。
    帰り道。
    ボンレスおばさんが健太の肩を叩いた。
    「立派だったよ」
    健太が笑う。
    「五位なのに?」
    するとボンレスおばさんは首を振った。
    「違うよ」
    「え?」
    「最後まで諦めなかったからだよ」
    健太は少し黙った。
    そして、
    「うん」
    とだけ答えた。
    秋の風が吹いていた。
    西洋もみじの葉が少しだけ色づき始めている。
    季節は変わる。
    人も変わる。
    そして俺たちも、
    少しずつ前へ進んでいた。
    第十六章 敬老会の奇跡
    水泳大会から一か月ほど経った頃だった。
    ある日曜日。
    プールの帰りにファミレスへ寄ると、
    母親が少し困った顔をしていた。
    「どうした?」
    俺が聞く。
    母親は苦笑した。
    「また施設なんです」
    「今度は何?」
    「敬老会」
    ボンレスおばさんが笑った。
    「またウクレレ?」
    母親は小さくうなずいた。
    「今度は利用者さんと一緒に歌うことになって」
    池さんが言った。
    「いいじゃないか」
    「でも一曲じゃないんです」
    「何曲?」
    「三曲です」
    さすがに緊張しているらしい。
    俺は笑った。
    「二曲増えただけだ」
    「岩崎さんは簡単に言いますね」
    「俺も最初はそうだった」
    母親はため息をついた。
    だが以前のような暗いため息ではなかった。
    挑戦する人間のため息だった。
    それから毎週、
    うちの縁側で練習会が始まった。
    『見上げてごらん夜の星を』
    『ふるさと』
    『上を向いて歩こう』
    高齢者施設で人気の曲ばかりだった。
    美咲は歌担当。
    健太は譜面係。
    ボンレスおばさんは応援団長。
    池さん夫婦は観客。
    みんな勝手に役割を決めていた。
    ある日、
    母親がコードを間違えた。
    すると美咲が言った。
    「大丈夫」
    みんなが笑った。
    どこかで聞いた言葉だった。
    母親も笑った。
    「そうだね」
    以前なら落ち込んでいた。
    だが今は違う。
    失敗してもやり直せる。
    そんな当たり前のことを、
    少しずつ思い出していた。
    そして敬老会当日。
    会場には大勢の利用者が集まっていた。
    去年までは、
    司会や準備をするだけだった母親が、
    今年は演奏者として舞台に立つ。
    俺たちは最前列に陣取った。
    「緊張する」
    母親が言う。
    「大丈夫」
    健太が答えた。
    「最後までやれば百点だから」
    俺は思わず笑った。
    ボンレスおばさんの言葉を覚えていたのだ。
    演奏が始まる。
    最初は『ふるさと』。
    利用者たちが歌い始める。
    二曲目は『上を向いて歩こう』。
    手拍子が起きる。
    そして最後。
    『見上げてごらん夜の星を』
    だった。
    母親は落ち着いていた。
    一か月前とは別人だった。
    演奏が終わる。
    会場は大きな拍手に包まれた。
    その時だった。
    最前列のおばあさんが手を挙げた。
    職員がマイクを渡す。
    おばあさんはゆっくり立ち上がった。
    九十歳近いのだろう。
    小さな身体だった。
    「ありがとう」
    会場が静かになる。
    「久しぶりに歌いました」
    母親の目が潤む。
    おばあさんは続けた。
    「主人を亡くしてから歌わなくなったんです」
    誰も声を出さなかった。
    「でも今日は歌えました」
    涙を流していた。
    「ありがとう」
    その言葉に、
    母親も泣いていた。
    俺も胸が熱くなった。
    帰り道。
    母親は車の中で言った。
    「初めてなんです」
    「何が?」
    「自分が誰かの役に立てたと思えたの」
    俺は驚いた。
    「今までも役に立ってただろ」
    母親は首を振った。
    「仕事だから」
    そして少し考えて続けた。
    「でも今日は違った」
    健太が後ろから言った。
    「お母さんすごかった」
    美咲もうなずく。
    「うん!」
    母親はバックミラー越しに二人を見た。
    そして微笑んだ。
    優しい顔だった。
    美咲が誕生日に願った顔だった。
    ――お母さんがずーっと優しいお母さんでいてくれますように。
    俺は窓の外を見た。
    秋の空は高かった。
    人生は思い通りにならない。
    離婚もした。
    孤独にもなった。
    泣いたこともある。
    それでも、
    生きていれば思いがけない出会いがある。
    思いがけない幸せもある。
    そのことを、
    俺はこの仲間たちから教わっていた。
    そして、
    俺たちの物語はまだ続いていくのだった。
    第十七章 言ってはいけない言葉
    秋も深まってきた頃だった。
    その日、
    俺たちはいつものようにファミレスに集まっていた。
    話題は健太の進路だった。
    まだ小学生だ。
    進路というほど大げさな話ではない。
    だが母親は真剣だった。
    「塾へ通わせたいんです」
    母親が言った。
    健太は黙っていた。
    俺は聞いた。
    「健太はどう思ってる?」
    健太は少し困った顔をした。
    「僕・・・」
    言葉が続かない。
    母親が言う。
    「この子は優しいから言えないんです」
    ボンレスおばさんが首を傾げた。
    「遊ぶ時間なくなるんじゃない?」
    「今が大事なんです」
    母親は少し強い口調だった。
    池さんも言った。
    「まだ子どもだぞ」
    「だからです」
    母親は譲らない。
    話はだんだん熱を帯びていった。
    俺も口を挟んだ。
    「健太は最近やっと自分のやりたいことを見つけた」
    「・・・」
    「水泳も頑張ってる」
    「勉強も大事です」
    「もちろんだ」
    「だったら」
    母親の声が強くなった。
    「どうして反対するんですか」
    静かになった。
    誰も反対しているわけではない。
    だが母親にはそう聞こえたのだろう。
    一人で子育てをしてきた。
    失敗したくない。
    子どもを幸せにしたい。
    その気持ちは分かる。
    だが、
    その時だった。
    母親が言ってしまった。
    「皆さんには分からないんです」
    誰も話さない。
    母親は続けた。
    「本当の家族じゃないんだから」
    空気が止まった。
    健太の顔が青くなった。
    美咲も固まった。
    ボンレスおばさんの笑顔が消える。
    池さんも黙った。
    俺も言葉を失った。
    母親自身も、
    言った瞬間に気づいたようだった。
    「違う・・・」
    そう言ったが遅かった。
    誰も何も言わなかった。
    その日はそこで解散になった。
    第十八章 壊れた日曜日
    あの日から、
    誰も集まらなくなった。
    日曜日になっても電話は鳴らない。
    プールにも行かない。
    ファミレスにも行かない。
    俺の家は、
    また静かになった。
    だが以前の静けさとは違った。
    寂しいのだ。
    俺は西洋もみじを眺めながら、
    ため息をついた。
    ボンレスおばさんも来ない。
    池さん夫婦も来ない。
    健太たちも来ない。
    あの一言は、
    みんなを傷つけた。
    本当の家族じゃない。
    間違いではない。
    だが、
    言ってはいけない言葉だった。
    その頃、
    母親も苦しんでいた。
    健太から後で聞いた話だ。
    帰宅してから泣いていたらしい。
    「またやっちゃった」
    何度もそう言っていたという。
    健太は何も言えなかった。
    美咲も黙っていた。
    そして二週間が過ぎた。
    ある土曜日の午後だった。
    インターホンが鳴った。
    玄関を開ける。
    そこには健太がいた。
    一人だった。
    「おう」
    俺は笑った。
    健太は笑わない。
    真剣な顔だった。
    「岩崎じいじ」
    「なんだ」
    「お願いがある」
    嫌な予感がした。
    健太は深呼吸した。
    そして言った。
    「仲直りして」
    俺は言葉を失った。
    「・・・」
    「お願い」
    小さな声だった。
    「お母さん毎日泣いてる」
    胸が痛んだ。
    「僕のせいじゃないのに」
    健太は唇を噛んだ。
    「みんなのせいでもないのに」
    俺は黙っていた。
    健太は続けた。
    「お母さんね」
    「うん」
    「本当は嬉しかったんだ」
    「・・・」
    「みんなが僕たちを大事にしてくれて」
    目が赤かった。
    「でも怖かったんだと思う」
    俺は何も言えなかった。
    たぶん健太の言う通りだった。
    幸せになるのが怖かったのだ。
    失うのが怖かったのだ。
    だから心にもない言葉を言ってしまった。
    その時だった。
    玄関の向こうから声がした。
    「私もいるよ!」
    美咲だった。
    植木の陰から飛び出してくる。
    「いたのか」
    「うん!」
    俺は思わず笑った。
    美咲は真顔になった。
    「岩崎じいじ」
    「なんだ」
    「仲直りして」
    兄妹そろって同じことを言う。
    反則だろう。
    俺は困ってしまった。
    すると美咲が続けた。
    「私ね」
    「うん」
    「本当の家族って分からない」
    「・・・」
    「でもね」
    美咲は指を折りながら数え始めた。
    「お母さん好き」
    一本。
    「お兄ちゃん好き」
    二本。
    「岩崎じいじ好き」
    三本。
    「ボンレスおばさん好き」
    四本。
    「池さんも好き」
    五本。
    そして満面の笑顔で言った。
    「だから家族!」
    俺は思わず吹き出した。
    なんとも美咲らしい理屈だった。
    だが、
    胸の奥に真っすぐ届いた。
    健太も言った。
    「僕もそう思う」
    静かな声だった。
    「血がつながってなくても」
    「・・・」
    「家族だと思う」
    俺は目を閉じた。
    子どもたちには敵わない。
    本当にそう思った。
    翌日。
    俺はボンレスおばさんに電話した。
    「久しぶりだね」
    いつもの明るい声だった。
    だがどこか無理をしている。
    俺は言った。
    「子どもたちから呼び出しだ」
    「え?」
    「来週の日曜日」
    しばらく沈黙。
    そして、
    「池さんも?」
    と聞いた。
    「もちろん」
    ボンレスおばさんは笑った。
    少し泣いているような声だった。
    「しょうがないね」
    その夜。
    池さん夫婦にも電話した。
    みんな同じだった。
    怒っているわけではない。
    傷ついただけだった。
    だからこそ、
    仲直りできる。
    俺はそう思った。
    そして翌週の日曜日。
    子どもたちが用意した、
    小さな仲直り作戦が始まろうとしていた。
    第十九章 家族会議
    日曜日。
    久しぶりに俺の家へ人が集まった。
    ボンレスおばさん。
    池さん夫婦。
    そして健太たち。
    だが以前のような賑やかさはない。
    どこかぎこちない。
    大人たちは何を話していいか分からなかった。
    そんな空気を破ったのは美咲だった。
    「みんな座って!」
    大きな声だった。
    全員が驚く。
    「今日は家族会議です!」
    いつ覚えた言葉なのか分からない。
    ボンレスおばさんが吹き出した。
    「家族会議?」
    「そう!」
    美咲は胸を張る。
    「大事なお話があります」
    健太も真面目な顔でうなずいた。
    どうやら二人で考えたらしい。
    俺たちは言われるまま椅子に座った。
    美咲が前に立つ。
    まるで司会者だ。
    「まず最初に」
    小さな咳払いをした。
    「なんでケンカしたの?」
    誰も答えられない。
    健太が助け船を出す。
    「お母さん」
    母親は俯いた。
    しばらく沈黙。
    やがて立ち上がった。
    「ごめんなさい」
    震える声だった。
    「本当にごめんなさい」
    誰も話さない。
    母親は続けた。
    「私は怖かったんです」
    ボンレスおばさんが顔を上げる。
    「怖かった?」
    母親はうなずいた。
    「皆さんに頼りすぎてしまうのが」
    静かな声だった。
    「皆さんがいなくなったらどうしようって」
    胸が痛くなった。
    「また一人になったらどうしようって」
    涙が落ちる。
    「だから・・・」
    言葉が詰まる。
    「だからひどいことを言いました」
    部屋が静まり返る。
    母親は深く頭を下げた。
    「本当の家族じゃないなんて・・・」
    肩が震えていた。
    「思っていません」
    涙が畳に落ちる。
    「思ったこともありません」
    健太も泣いていた。
    美咲も泣いていた。
    その時だった。
    ボンレスおばさんが立ち上がった。
    母親のところまで歩いて行く。
    そして肩を抱いた。
    「もういいよ」
    優しい声だった。
    母親が顔を上げる。
    「でも・・・」
    「傷ついたよ」
    ボンレスおばさんは正直だった。
    「すごく傷ついた」
    母親がまた泣く。
    「ごめんなさい」
    「でもね」
    ボンレスおばさんは微笑んだ。
    「私も子どもだったら同じこと言ったかもしれない」
    誰も話さない。
    「失うのが怖かったんだろ?」
    母親は黙ってうなずいた。
    ボンレスおばさんも目を潤ませていた。
    「家族ってね」
    ゆっくり言った。
    「血じゃないんだよ」
    部屋が静かになる。
    「会いたいと思う人」
    「心配になる人」
    「幸せになってほしい人」
    健太を見た。
    美咲を見た。
    母親を見た。
    そして俺たちを見た。
    「それが家族だよ」
    池さんがうなずいた。
    「そうだな」
    池さんの奥さんも微笑む。
    俺も同じ気持ちだった。
    その時だった。
    美咲が言った。
    「じゃあ仲直り?」
    みんなが笑った。
    子どもらしい。
    本当に子どもらしい。
    ボンレスおばさんが答えた。
    「仲直りだよ」
    すると美咲は拍手した。
    「やったー!」
    健太も笑った。
    久しぶりに見る笑顔だった。
    その時、
    母親が俺の前に来た。
    「岩崎さん」
    「なんだ」
    「ありがとうございました」
    俺は首を振った。
    「俺じゃない」
    そして健太と美咲を見る。
    「二人のおかげだ」
    健太は照れた。
    美咲は意味が分かっていない。
    だが満面の笑顔だった。
    その後、
    ボンレスおばさんが持ってきた唐揚げをみんなで食べた。
    池さんの奥さんがおにぎりを配る。
    美咲が走り回る。
    健太が笑う。
    母親も笑う。
    いつもの日曜日だった。
    いや、
    少し違う。
    前よりもっと家族になった気がした。
    夕方。
    帰り際に健太が言った。
    「岩崎じいじ」
    「なんだ」
    「家族会議成功だね」
    俺は笑った。
    「ああ」
    すると美咲が胸を張った。
    「私が考えたの!」
    健太がすぐに言う。
    「半分ね」
    「違うもん!」
    また兄妹げんかが始まった。
    みんなが笑った。
    俺も笑った。
    西洋もみじの葉が風に揺れている。
    その音を聞きながら思った。
    家族は壊れない。
    壊れても、
    また作り直せる。
    大切なのは、
    誰かが仲直りしたいと思うこと。
    そして俺たちには、
    その役目をしてくれる子どもたちがいた。
    それが何より幸せだった。
    第二十章 ボンレスおばさんの秘密
    仲直り会議からしばらく経った頃だった。
    俺たちはまた以前のように集まるようになっていた。
    プールへ行き、
    ファミレスへ行き、
    誰かの家でお茶を飲む。
    そんな何気ない日々だった。
    ある日、
    ボンレスおばさんが珍しく遅れてやって来た。
    「遅いよ」
    池さんが言う。
    「ごめんごめん」
    そう言って笑う。
    だが俺は気づいた。
    少し元気がない。
    いつもなら一番うるさいのに、
    今日は静かだった。
    健太も気づいたらしい。
    「ボンレスおばさん」
    「なあに?」
    「元気ないね」
    ボンレスおばさんは笑った。
    「そんなことないよ」
    だが誤魔化し方が下手だった。
    その日の帰り。
    俺はボンレスおばさんを駅まで送った。
    車の中で聞いてみた。
    「何かあったのか」
    ボンレスおばさんは少し黙った。
    そして窓の外を見ながら言った。
    「命日なんだ」
    俺は何も言わなかった。
    「昔ね」
    静かな声だった。
    「結婚しようと思った人がいた」
    初めて聞く話だった。
    ボンレスおばさんは未婚だ。
    誰も理由を聞いたことがない。
    「二十五歳の時」
    「・・・」
    「交通事故だった」
    俺はハンドルを握ったまま黙っていた。
    「あと三か月で結婚式だった」
    信号が赤になる。
    車が止まる。
    「だから私は結婚しなかった」
    ボンレスおばさんは笑った。
    だが目は笑っていなかった。
    「バカだろ?」
    俺は首を振った。
    「そんなことない」
    長い沈黙。
    やがてボンレスおばさんは言った。
    「子どもも欲しかったんだけどね」
    胸が締め付けられた。
    だからなのか。
    健太や美咲にあんなに優しい理由が。
    だから母親のように見守っていたのか。
    信号が青になる。
    車を走らせる。
    「最近さ」
    ボンレスおばさんが言った。
    「幸せなんだよ」
    「そうか」
    「みんながいるから」
    少し笑った。
    「だから時々怖くなる」
    俺は聞き返した。
    「何が?」
    「また失ったらどうしようって」
    その言葉に、
    俺は思わず笑ってしまった。
    ボンレスおばさんが睨む。
    「何がおかしいの」
    「同じだなと思って」
    「何が?」
    「健太の母親と」
    ボンレスおばさんは一瞬驚いた。
    そして吹き出した。
    「本当だ」
    二人で笑った。
    人は何歳になっても同じなのかもしれない。
    大切なものができると、
    失うのが怖くなる。
    だが、
    怖いからといって離れていては、
    何も始まらない。
    駅に着いた。
    ボンレスおばさんが降りる。
    そして振り返った。
    「岩さん」
    「なんだ」
    「ありがとう」
    「何が?」
    ボンレスおばさんは笑った。
    「みんなを集めてくれて」
    俺は首を振った。
    「俺じゃない」
    そう言って空を見上げた。
    「健太たちだ」
    ボンレスおばさんもうなずいた。
    「そうだね」
    その翌週だった。
    健太と美咲が俺の家にやって来た。
    手には大きな紙がある。
    「何だそれ?」
    健太が広げる。
    色鉛筆で描かれた絵だった。
    真ん中に大きな家。
    その周りに人がいる。
    俺。
    母親。
    健太。
    美咲。
    池さん夫婦。
    そしてボンレスおばさん。
    みんな手をつないでいた。
    上には大きく書かれている。
    『ぼくたちのかぞく』
    ボンレスおばさんはその絵を見た瞬間、
    泣き出してしまった。
    「ずるいよ・・・」
    そう言いながら。
    美咲は首を傾げる。
    「なんで泣くの?」
    健太が少し照れながら言った。
    「嬉しいからだよ」
    ボンレスおばさんは何度もうなずいた。
    「そう」
    涙をぬぐう。
    「嬉しいから」
    その日、
    俺たちはその絵を額に入れて居間へ飾った。
    西洋もみじの見える場所だった。
    そして誰かが来るたびに、
    その絵を見て笑うようになった。
    血のつながりはない。
    戸籍にも載らない。
    だが、
    そこには確かに家族が描かれていた。
    そして俺たちは、
    それを誇りに思っていた。
    第二十一章 元妻からの電話
    秋が深まっていた。
    西洋もみじは赤く色づき始めている。
    日曜日の夕方。
    みんなが帰った後だった。
    俺は一人で居間に座っていた。
    壁には健太たちが描いた
    『ぼくたちのかぞく』
    の絵が飾ってある。
    自然と笑みがこぼれた。
    その時だった。
    スマホが鳴った。
    知らない番号だった。
    「はい」
    電話に出る。
    しばらく沈黙。
    そして、
    聞き覚えのある声がした。
    「久しぶり」
    元妻だった。
    俺は言葉を失った。
    離婚してからほとんど連絡はなかった。
    用事がある時だけ。
    それも事務的な話だけだった。
    「どうした」
    俺は努めて平静を装った。
    元妻は少し笑った。
    「相変わらずね」
    「用件は?」
    「冷たいなあ」
    昔と同じだった。
    だが、
    不思議と腹は立たなかった。
    「元気?」
    元妻が聞く。
    「元気だ」
    「そう」
    少し沈黙。
    そして言った。
    「風の噂で聞いた」
    嫌な予感がした。
    「何を?」
    「最近楽しそうだって」
    俺は思わず笑った。
    どこからそんな話が伝わったのか。
    田舎とは恐ろしい。
    「まあな」
    元妻も笑った。
    「よかった」
    その言葉は本心だった。
    俺には分かった。
    しばらく昔話をした。
    若い頃のこと。
    子どもたちのこと。
    旅行のこと。
    今なら笑える話ばかりだった。
    やがて元妻が言った。
    「ごめんね」
    俺は驚いた。
    「何が?」
    「いろいろ」
    言葉は短かった。
    だが十分だった。
    離婚には理由がある。
    どちらか一方だけが悪いわけじゃない。
    俺にも悪いところはあった。
    元妻にもあった。
    だから今さら責める気はなかった。
    「俺も悪かった」
    そう答えた。
    電話の向こうで、
    元妻が泣いている気がした。
    「ありがとう」
    そして電話は終わった。
    静かな部屋に戻る。
    俺はしばらく動けなかった。
    長い時間が過ぎたのだと思った。
    許すとか、
    許されるとか、
    そんなことではない。
    ただ、
    過去を過去として受け入れられるようになったのだ。
    その時だった。
    居間の絵が目に入った。
    『ぼくたちのかぞく』
    子どもたちが描いた絵だ。
    俺は立ち上がった。
    そして絵を見つめる。
    そこには笑顔の俺がいた。
    昔の俺なら信じなかっただろう。
    離婚した六十九歳の男に、
    新しい家族ができるなんて。
    翌週の日曜日。
    みんなが集まった。
    いつものように賑やかだった。
    昼食の後。
    俺は何気なく元妻から電話があったことを話した。
    みんな驚いた。
    ボンレスおばさんは真っ先に聞いた。
    「復縁?」
    俺は吹き出した。
    「違う」
    「つまらないね」
    みんなが笑った。
    母親も笑った。
    健太は意味が分かっていない。
    美咲はもっと分かっていない。
    だが一緒に笑っていた。
    その時だった。
    池さんがぽつりと言った。
    「岩さん」
    「なんだ」
    「今、幸せか?」
    突然だった。
    俺は少し考えた。
    そして周りを見た。
    健太がいる。
    美咲がいる。
    母親がいる。
    ボンレスおばさんがいる。
    池さん夫婦がいる。
    笑い声がある。
    居場所がある。
    会いたい人がいる。
    「幸せだな」
    自然に言葉が出た。
    池さんがうなずく。
    「そうか」
    それだけだった。
    だが、
    なぜか胸が熱くなった。
    窓の外では西洋もみじが揺れている。
    秋の風が吹いていた。
    そして俺は思った。
    人生は終わるまで分からない。
    六十九歳になっても、
    新しい出会いがある。
    新しい家族ができる。
    新しい幸せが見つかる。
    だから人生は面白い。
    そう思えたのだった。
    第二十二章 契約の更新日
    冬の足音が近づいていた。
    西洋もみじの葉はほとんど落ち、
    庭には赤いじゅうたんが広がっている。
    その日曜日。
    俺たちはいつものように集まっていた。
    鍋を囲みながら、
    わいわい騒いでいる。
    美咲は肉ばかり狙う。
    健太は野菜を食べろと注意する。
    母親は苦笑する。
    ボンレスおばさんは相変わらず唐揚げを持参してきた。
    鍋なのに唐揚げだった。
    池さんが言った。
    「そういえば」
    みんなが顔を上げる。
    「もう一年だな」
    俺も思い出した。
    契約家族を始めて、
    ちょうど一年だった。
    健太は不思議そうな顔をする。
    「何が?」
    「お前たちと会って一年だよ」
    健太が驚いた。
    美咲はもっと驚いている。
    「ええー!」
    一年というのは早い。
    あの日、
    ぎこちなく顔を合わせた俺たちが、
    今では毎週のように集まっている。
    池さんが笑った。
    「契約更新だな」
    その言葉に、
    みんなが笑った。
    母親も笑った。
    だが健太だけは真面目な顔になった。
    「契約って何?」
    母親が困った顔をする。
    俺が説明した。
    「最初はな」
    「うん」
    「お互い知らない人だったんだ」
    健太は黙って聞いている。
    「だから一年だけ家族をやってみようって話だった」
    健太は少し考えた。
    そして言った。
    「変なの」
    みんなが笑った。
    確かに変だった。
    今考えても変だった。
    その時だった。
    美咲が手を挙げた。
    「はい!」
    学校みたいだった。
    「なんだ?」
    「じゃあ今日で終わり?」
    部屋が静かになった。
    誰も答えない。
    美咲の顔が曇る。
    「やだ」
    小さな声だった。
    「終わったらやだ」
    母親が美咲を抱き寄せた。
    健太も黙っている。
    そして、
    ゆっくり立ち上がった。
    みんなが見る。
    健太は緊張していた。
    だが、
    しっかり前を向いていた。
    「僕ね」
    静かな声だった。
    「最初は嫌だった」
    母親が驚く。
    俺も驚いた。
    健太は続けた。
    「知らない人だったから」
    「・・・」
    「本当に家族になれるのかなって思った」
    俺たちは黙って聞いていた。
    「でも今は違う」
    健太は俺を見た。
    「岩崎じいじ」
    次にボンレスおばさんを見る。
    「ボンレスおばさん」
    池さん夫婦を見る。
    「池さんたちも」
    そして母親を見る。
    「みんな家族だと思ってる」
    部屋が静まり返る。
    健太は続けた。
    「だから」
    少し照れながら言った。
    「契約じゃなくていいと思う」
    母親が泣いていた。
    ボンレスおばさんも目を押さえている。
    池さんは天井を見上げた。
    照れ隠しだろう。
    その時だった。
    美咲が飛び上がった。
    「そうだそうだ!」
    みんなが笑った。
    美咲は続ける。
    「契約反対!」
    何の選挙だ。
    さらに言う。
    「永久家族!」
    今度は大笑いになった。
    母親も泣きながら笑っている。
    俺も笑った。
    こんな形で契約更新の話が終わるとは思わなかった。
    その時、
    母親が立ち上がった。
    「私からもいいですか」
    誰も反対しない。
    母親は深く頭を下げた。
    「皆さんに出会わなかったら」
    声が震える。
    「私は今も一人で苦しんでいたと思います」
    健太がうなずく。
    美咲もうなずく。
    「ありがとうございました」
    ボンレスおばさんが言った。
    「違うよ」
    母親が顔を上げる。
    「え?」
    ボンレスおばさんは微笑んだ。
    「私たちも助けてもらったんだから」
    池さんもうなずいた。
    「そうだな」
    俺も同じ気持ちだった。
    孤独だったのは、
    母親だけじゃない。
    俺もそうだった。
    ボンレスおばさんもそうだった。
    みんな誰かに救われていた。
    窓の外を見る。
    葉を落とした西洋もみじが立っていた。
    春には新しい芽を出すだろう。
    人も同じだ。
    傷ついても、
    葉を落としても、
    また新しい季節が来る。
    その夜。
    みんなが帰った後、
    居間には子どもたちが描いた
    『ぼくたちのかぞく』
    の絵が飾られていた。
    その下に、
    美咲が今日書いた紙が置いてあった。
    大きな字でこう書かれていた。
    「えいきゅうかぞく」
    俺は思わず笑った。
    そして、
    少しだけ涙が出た。
    人生の終盤に、
    こんな宝物をもらえるとは思わなかった。
    最終章 家族
    あれから八年が過ぎた。
    月日の流れは早い。
    本当に早い。
    西洋もみじは今年も赤く染まっていた。
    俺は縁側に座りながら、
    温かいお茶を飲んでいる。
    七十七歳になった。
    少し膝は痛い。
    泳ぐスピードも落ちた。
    だが悪くない。
    いや、
    かなり幸せだ。
    玄関のドアが開く音がした。
    「ただいまー!」
    美咲だった。
    中学二年生になった。
    相変わらず元気いっぱいだ。
    小さかった少女は、
    いつの間にか母親によく似た娘になっていた。
    その後ろから健太が入ってくる。
    「こんにちは」
    高校を卒業し、
    スポーツトレーナーを目指して専門学校へ通っている。
    背はとっくに俺を追い越した。
    肩幅も広い。
    だが優しさだけは、
    あの頃のままだった。
    「お母さんは?」
    俺が聞く。
    「駐車場」
    健太が答える。
    その直後、
    母親が買い物袋を抱えて入ってきた。
    「岩崎さん、こんにちは」
    以前の面影はある。
    だが、
    あの頃の疲れ切った顔はもうない。
    施設ではレクリエーション担当の責任者になり、
    ウクレレ教室まで任されている。
    利用者のおじいさん、おばあさんたちに大人気らしい。
    人生は分からない。
    ギターのFコードで挫折した女性が、
    今では人前で演奏し、
    人に教える側になっている。
    その後ろから、
    大きな声が聞こえた。
    「岩さん!」
    ボンレスおばさんだった。
    八十代になった。
    だが相変わらず元気だ。
    元気すぎるくらいだ。
    「唐揚げ持ってきたよ!」
    みんなが笑う。
    八年経っても変わらない。
    池さん夫婦もやって来た。
    白髪は増えた。
    だが笑顔は変わらない。
    いつもの顔ぶれだった。
    誰一人欠けていない。
    それが何より嬉しかった。
    夕方。
    食事を終えて、
    みんなで庭へ出た。
    西洋もみじが夕日に照らされている。
    美しかった。
    その時だった。
    健太が言った。
    「そういえば」
    みんなが顔を上げる。
    「覚えてる?」
    「何を?」
    美咲が聞く。
    「契約家族」
    一瞬静かになる。
    そして大笑いになった。
    「あったね!」
    美咲が笑う。
    ボンレスおばさんも笑う。
    池さんも笑う。
    母親も笑っている。
    俺も笑った。
    今となっては懐かしい。
    健太が続けた。
    「最初は変な話だと思った」
    「俺もだ」
    池さんが言う。
    「私は今でも変だと思うよ」
    ボンレスおばさんが笑う。
    またみんなが笑った。
    すると美咲が言った。
    「でも契約じゃなかったじゃん」
    「え?」
    健太が聞く。
    美咲は当然のように言った。
    「最初から家族だったんだよ」
    誰も言葉が出なかった。
    そして母親が泣いた。
    静かに涙を流していた。
    俺も胸が熱くなった。
    あの日。
    雨の夜。
    健太が家出してきた。
    あの日。
    美咲が、
    「お母さんがずーっと優しいお母さんでいてくれますように」
    と言った。
    あの日。
    子どもたちが大人を仲直りさせた。
    いろんなことがあった。
    だが、
    全部必要だったのだろう。
    日が沈み始める。
    西洋もみじが風に揺れる。
    俺はみんなの顔を見た。
    笑っている。
    みんな笑っている。
    その光景を見ながら、
    ふと思った。
    俺は若い頃、
    家族のために働いてきた。
    営業成績を上げ、
    休日も返上し、
    家族を養うことが男の役目だと思っていた。
    だが本当は違った。
    家族に支えられて生きてきたのだ。
    血のつながった家族にも。
    人生の途中で出会った家族にも。
    人は一人では生きられない。
    だから誰かと笑う。
    だから誰かを支える。
    そして支えられる。
    それが幸せなのだと思う。
    その時、
    健太が言った。
    「岩崎じいじ」
    「なんだ」
    健太は少し照れながら笑った。
    「あの時、家出してよかった」
    みんなが笑った。
    母親だけが、
    「よくない!」
    と怒った。
    だがその顔も笑っていた。
    美咲が言う。
    「私は契約反対って言ったよね」
    「言ったな」
    「正しかったでしょ?」
    「正しかった」
    胸を張る美咲。
    その姿にまた笑いが起きた。
    西洋もみじの葉が、
    風に乗って舞い落ちる。
    その景色を見ながら、
    俺は静かに思った。
    人生は何歳からでもやり直せる。
    六十九歳からでも遅くない。
    人は変われる。
    家族は作れる。
    幸せにもなれる。
    だから、
    今日が人生で一番若い日だ。
    俺たちの物語は終わる。
    だが、
    人生はまだ続いていく。
    明日もきっと、
    誰かの笑い声が聞こえる。
    その笑い声を聞きながら、
    俺は生きていくのだろう。
    西洋もみじが揺れる庭で。
    大切な家族たちとともに。
                                  完
    おわりに
    最後までお読みいただき、ありがとうございました。
    この物語はフィクションです。
    登場する人物、団体、出来事はすべて架空のものですが、物語の中で描いた「孤独」や「出会い」、「家族への思い」は、多くの人が人生のどこかで経験するものではないかと思います。
    主人公の岩崎は、離婚を経験し、自分の人生はもう終盤だと思っていました。
    しかし人生は不思議なもので、自分では終わったと思った場所から、新しい物語が始まることがあります。
    血のつながりがなくても、人は支え合うことで家族になれる。
    年齢を重ねても、新しい友人ができる。
    失敗しても、何度でもやり直せる。
    そんな思いを込めて、この物語を書きました。
    健太や美咲、母親、ボンレスおばさん、池さん夫婦は架空の人物ですが、書いているうちに私にとっても大切な存在になりました。
    特に子どもたちは、大人が忘れてしまった素直さや優しさを思い出させてくれます。
    この物語の中で、一番成長したのは健太や母親ではなく、もしかすると岩崎だったのかもしれません。
    人生の後半になって初めて、人に頼ることや、人とつながることの大切さを知ったのですから。
    もし今、
    孤独を感じている人がいたら、
    もし今、
    人生はもう遅いと思っている人がいたら、
    この物語が少しでも希望になれば嬉しく思います。
    人生は何歳からでも変えられます。
    新しい出会いもあります。
    新しい挑戦もできます。
    そして、新しい家族に出会えることもあります。
    明日が人生で一番若い日です。
    どうか自分らしい一歩を踏み出してください。
    最後に、この物語に登場したすべての人物へ感謝を込めて。
    そして、この本を手に取ってくださったあなたへ、心からの感謝を込めて。
    ありがとうございました。
    令和8年6月
     
     
     
    著者プロフィール
    岩宗 繁樹(いわむね しげき)
    埼玉県在住。
    東京の私立大学卒業。積水ハウス株式会社勤務後、五七歳で早期退職。
    株式会社ライフステージらしく設立し代表となる。
    定年後は「人生はまだ終わらない」をテーマに新しい挑戦を続けている。
    定年後に相続対策・空室問題「定期借地」がすべて解決します。商業出版。
    六十代でフィリピン・マニラへの語学留学に挑戦。その体験をもとに執筆した『英語アレルギーの六四歳、マニラに留学する』を出版。
    七十歳で水泳のマスターズに挑戦した「ぶくぶく」を出版。
    終活をテーマにしたエッセイ誌「あなたの人生を味わい直してみませんか?」出版。
    趣味は水泳とウクレレ。市民プールでの活動や地域交流を通じて、多くの人との出会いを楽しんでいる。
    本作では、血のつながりだけではない「家族のかたち」をテーマに、人と人との支え合いや再生の物語を描いた。
    「人生は何歳からでも変えられる」
    を信条に、これからも新しい挑戦を続けていきたいと考えている。

    著者からひと言

    若い頃は仕事に追われ、定年後は老後の不安に悩みました。
    しかし人生は、思いがけない出会いによって大きく変わります。
    この物語を書きながら、私自身も人とのつながりの大切さを改めて感じました。
    もしこの本が、誰かの「次の一歩」を踏み出すきっかけになれば、これほど嬉しいことはありません。
    どうぞ、これからも人生を楽しんでください。
    岩宗 繁樹
     

    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門


     
     
    13年前に起業、相続・不動産コンサルタント、元積水ハウス営業部長、ビジネス本著者、セミナー講師、定期借地権の第一人者、ファイナンシャルプランナー、不動産コンサルティングマスター、宅地建物取引士、好奇心旺盛なアラウンド古希。 電子書籍「目からウロコの持ち家取得」

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