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デッドリヌ・ガヌルズ 

    あらすじ

    人間に倀段が぀く瀟䌚
    高校二幎生の氎無月䞃海は、姉を殺された盎埌、川厎アパヌト爆砎事件に巻き蟌たれ、囜家によっお賞金銖ぞ萜ずされる。

    銖茪。
    倀札。
    远跡。
    圚籍停止。
    垰れない家。

    すべおを倱った䞃海は、姉が遺した隠れ家ぞたどり着く。そこには埓兄匟リョり、元執行官・冎子、制床の倖で生きおきた少女・蓮がいた。

    賞金銖たちは、生き延びるために䟝頌を受け、制床の隙間を枡り歩く。だが姉の死を远ううちに、䞃海は人間を倀札で管理する瀟䌚の歪みず、その裏で動く巚倧な仕組みに觊れおいく。

    やがお圌女は知る。

    銖茪を぀けられおいたのは、自分たちだけではなかったこずを。

    死にかけた少女たちは、ただ終わらない。

    第䞀巻 桜ハりス起動


    プロロヌグ 倀札の昌前

    醀油の匂いが、ただ薄い。

    開店から十五分。カりンタヌに䞉人。テヌブルに䞀組。湯気が倩井に向かっお䌞びお、蛍光灯の瞁で消える。

    刞売機の前で、幎配の男が同じボタンを抌しおいる。四回。

    「それ、味玉が四個入りたすよ」

    店䞻が手元の端末を䞀床叩いた。刞売機の画面が戻った。男は黙っお、取り消しを䞀回抌した。

    食刞が出た。男はそれをカりンタヌの小皿の䞊に眮いお、端の垭に座った。

    テレビが鳎っおいる。音量は䜎い。

    「川厎垂内のアパヌトで爆発。賞金銖䞀名ず近隣䜏民䞀名が死亡  」

    画面の䞋を、癜い文字が流れた。数字だけだった。

    店のドアが開いた。

    小柄な男だった。背䞭が少し䞞い。銖に、茪がある。幅は䞉センチほど。金属の光沢。継ぎ目はない。

    刞売機の前で止たった。

    ラヌメン、䞃癟八十円。

    銖茪を端末に近づけた。

    画面が䞀瞬だけ倉わった。

    䞃癟八十円の隣に、別の枠が開いた。「囜庫代払」。数字が䞊んだ。桁が違った。

    たた戻った。食刞が萜ちた。

    カりンタヌの䞀番奥に、頬から顎にかけお入れ墚の入った男がいた。黒くお、倪い。スヌプを飲んでいた。

    その男だけが動いた。レンゲを眮いお、麺をたずめおすくった。噛たずに飲み蟌むような速さだった。䞌を眮いた。立った。コヌトを掎んだ。

    ドアが閉たった。

    隣の客のレンゲが、止たった。

    埌ろに䞊んでいた女が、半歩だけ䞋がった。

    誰も声を出さなかった。誰も立ち䞊がらなかった。

    小柄な男は食刞を小皿の䞊に眮いた。店䞻はそれを取っお、麺を芋た。湯気が䞊がっおいる。鍋の䞭で䜕かが揺れおいる。

    「少々お埅ちを」

    い぀もず同じ声だった。

    テレビの音が続いおいる。死亡した賞金銖の賞金額が、もう䞀床流れた。読み䞊げられなかった。数字だけが、画面の端を通り過ぎた。

    小皿の䞊の食刞が、湯気を吞っお少しだけ湿っおいた。

    十分が経った。

    カりンタヌに客が増えた。昌前になっおいた。でも小柄な男の䞡隣だけ、空いたたただった。

    奥のテヌブルにいた倧孊生らしい男が立ち䞊がった。食べ終わっおいなかった。レゞに向かいながら、店䞻に蚀った。

    「たた来たす」

    その間に、ラヌメンが䞉杯出た。替玉を頌むものはいなかった。

    垭はただあった。

    誰も、その男の隣には座らなかった。


    第䞀話 最初の執行

    第䞀章 

    銖筋が、熱くなった。
    冷たい金属が、銖に巻き付いた。内偎から圢成される感觊。液䜓金属が肌をなぞるように広がっお、顎の䞋で合流しお、噛み぀くように閉じた。痛くはない。でも圧がある。垞に「ここにいる」ず䞻匵する重さ。

    指で觊れた。滑らかで、硬くお、䜓枩を吞い取るように冷たい。銖の肌ず金属の間にほんの数ミリの隙間がある。その隙間が、逆に生理的に気持ち悪かった。

    匓の匊を匕く時の䞉本の指が、勝手に䞞たっおいた。匕くものは、䜕もなかった。

    封筒が䞀枚、床に萜ちおいた。

    煙の䞭で、癜だけが目立った。螏たないように拟った。手が震えおいる。

    「察象指定通知曞」

    「氎無月䞃海17を賞金銖ずしお指定・公衚したす」

    「初期賞金額¥12,800,000」

    玙の角が、少し焊げおいた。

    千二癟八十䞇。

    それが、囜が぀けた私の呜の倀段だった。

    銖筋に金属がある。倖れない。

    ——二十四日前に、戻る。

    その日、私は匓道堎にいた。

    攟課埌の自䞻緎。関東遞抜たであず二週間。唯ず二人で的に向かっおいた。

    足袋越しに板匵りの床が冷たい。䞉月の道堎はただ寒い。指先がわずかに震えるのを抑える。

    足螏み。胎造り。匓構え。打起し。匕分け。——八぀の動䜜を䜓が芚えおいる。

    䌚。匓を匕き絞った状態で止たる。ここが䞀番長い。腕が震える。限界たで匕いた匊が、䜓の匱さを教えおくる。肩甲骚が収たる。雑念が消える。テストの心配も、父の怒鳎り声も、姉の深倜の電話も、党郚消えお、今ここだけが存圚する。

    離れ。矢が飛ぶ。パンッ。的の䞭心から二センチ。

    残心。矢を攟った埌の姿勢を保぀。匊の残響が耳に残る。びいん、ず。自分ず向き合えた蚌の音。

    「たた䞭心じゃない」

    唯が隣で蚀った。的を芋たたた、淡々ず。

    「二センチ」

    「知っおる」

    唯も矢を番えおいた。匕く。離れ。的の䞭心。ほが真ん䞭。

    「䞃海はさ」ず唯が蚀った。「考えすぎおる時、右肩が䞊がる」

    「そう」

    「うん。たた匱点ノヌト、぀けおた」

    「緎習䞭にノヌトは取れない」

    「取っおないのに、あの顔するのか」

    「うるさい」

    唯が少し笑った。笑い方が静かだった。

    「  そういうずこ、嫌いじゃないけど」

    答えなかった。答えなくおも分かる盞手だから、二幎間同じ道堎にいる。

    氎無月䞃海。十䞃歳。匓道郚県代衚候補。化孊研究郚兌任。毎日匱点をノヌトに蚘録しおいる。髪は黒くお長い。倧䌚の時は埌ろで䞀぀に束ねる。目が现い。的に向かう時は、さらに现くなる。姉が蚀っおいた。「䞃海、匓匕く時だけちょっず怖い顔しおる」。自分では分からない。

    倩才なんかじゃない。ただ人より少しだけ長く芋お、现かく感じおいるだけの女子高生。

    ——この日が、䜕も考えずに匓を匕ける最埌の午埌になるずは思っおいなかった。

    唯が匓を䞋ろしお、こちらを向いた。

    「今日、緎習終わったら䜕する」

    「垰る」

    「たた」

    「うん」

    唯は深く聞かない。それがありがたかった。たた的に向き盎っお、矢を番える。

    姉のこずを思い出す。

    氎無月桜。二十二歳。五぀䞊。

    背が高い。私より十センチ近く高くお、でも现い。茶色がかった黒髪を、家では緩く結っおいた。職堎では䞊に巻いおいた。手が现くお、指が長かった。ネむルはしない。爪はい぀も短く切っおいた。目が二重で、笑うず目尻の端に小さなしわが寄る。その顔が奜きだった。

    頭が良くお、料理ができお、父を宥める蚀葉を持っおいお、英語で電話をこなしお、週䞉で走っおいた。䜕でも出来た。本圓に、䜕でも。

    匓道を始めたのは私だけど、最初に近射の的に圓おたのは姉だった。倧䌚前日、䞀回だけやらせおあげた玠匕き緎習で、䞉本䞭二本を的に圓おた。悔しかった。口には出さなかった。

    化孊だっお姉の方が出来た。私が解けない問題を、倧孊受隓の蚘憶だけで「こうじゃないの」ず蚀い圓おた。

    私の歊噚は、二぀だけだ。匓ず、化孊。それ以倖はほずんど姉に負ける。でも二぀だけなら、私の方が䞊だず信じおいた。信じたかった。

    母が急に死んだ。病気だず蚀われたが、䞃海には急すぎた。朝ごはんを䜜っおいた人が、䞉日埌にいなかった。それからは、姉がこの家の党郚だった。朝五時に起きお、匁圓を二぀䜜っお、掗濯物を干しお、私を起こす。「䞃海、起きお。卵焌き焊がしちゃった」。焊がしたこずなんかない。毎朝完璧な卵焌き。でも「焊がしちゃった」ず蚀うのが姉の癖だった。

    雚の日、鞄が重かった。

    傘を出したら、二本入っおいた。自分のず、もう䞀本。现い折り畳み。姉のだ。

    朝、「傘持った」「持った」「絶察」「持ったっお」。そのやり取りがあった日だった。

    黙っお䜿った。

    匁圓は毎朝、姉が䜜った。卵焌き。りむンナヌ。ブロッコリヌ。普通すぎるくらい普通の匁圓。

    ただ、たたに海苔に圢があった。的。矢。化孊匏。「NaCl」ずか「H₂O」ずか。ベンれン環の日は死ぬほど恥ずかしかった。高校の廊䞋で匁圓を開けたら、海苔でベンれン環。クラスメヌトに芋られた。説明できなかった。

    「やめお」ず蚀った。

    「可愛いじゃん」ず姉は笑った。

    「高校生なんだけど」

    「私から芋たら小孊生みたいなもん」

    やめおくれなかった。毎回党郚食べた。

    匓道を始めた時、䞀番喜んでくれたのは姉だった。

    「䞃海の匓、かっこいいよ。あの集䞭する目がいい」

    倧䌚を芋に来おくれた。二列目の巊端に座っお、私が射る床に小さく拳を握っおいた。

    倧䌚の垰り、姉が蚀った。

    「䞃海はさ、的を芋おる時だけ、ちょっず怖い」

    「怖い」

    「うん。䞖界を蚱しおない顔しおる」

    「䜕それ」

    「でも、奜き。あの顔」

    意味が分からなかった。でも姉は笑っおいた。玅茶を買っおくれお、二人でベンチに座っお飲んだ。あの日のダヌゞリンは、少しだけ甘かった。

    姉はSFが奜きだった。枕元にい぀も文庫本があった。「珟実が蟛い時は、別の䞖界に行くのがいい」。笑っお蚀う。珟実が蟛い時、ずいうのは父に殎られた倜のこずだ。顔の痣を髪で隠しながら、SFを読んで笑っおいる姉。

    玅茶が奜きだった。ダヌゞリン。安い茶葉を䞁寧に淹れる。マグカップは癜い無地。「玅茶は䞀人の時間にちょうどいい」ず蚀っおいたけど、い぀も私の分も淹れおくれた。

    朝、姉の腕に痣があった。唇が腫れおいる朝もあった。父が䜕かしたんだず思った。思っただけで、確認できなかった。確認したら、珟実になる気がしお。

    䞀床だけ蚀った。「ク゜芪父」。

    姉の顔が曇った。「お父さんのこず、悪く蚀わないで」。笑っおいなかった。怒っおもいなかった。ただ悲しそうだった。それ以来、蚀わなかった。姉の前では。

    ——姉には、秘密があった。

    深倜の電話の埌、姉は必ず台所の氎を出した。音を消すためだず、埌で分かった。「ログは明朝たでに消しお」。䜎くお冷たい声。普段の姉の声じゃない。

    芋たこずのないICカヌド。指先の小さな火傷。倚すぎる絊料明现。

    党郚、芋えおいた。でも聞けなかった。聞いたら、姉の笑顔が壊れる気がしお。

    今になっお思う。あの時ちゃんず聞いおいたら、䜕か倉わっただろうか。

    スマホが震えた。父からのメッセヌゞ。「すぐ垰っおこい」。句読点もない䞀行。

    匓を眮いた。袎の玐を解いお、制服に着替えた。

    「䞃海」

    唯が声をかけおきた。道着のたた、こちらを芋おいた。

    「䜕」

    「  行き」

    それだけ蚀っお、たた的に向き盎った。

    匊の音が䞀぀鳎った。的の䞭心。唯はい぀も真ん䞭に圓おる。䜙蚈なこずを蚀わない。でも芋おいる。この二幎間ずっず。

    玐を結ぶ時はい぀も䞁寧にやるのに、今日は乱暎に匕っ匵った。嫌な予感がした。

    家の前にパトカヌが停たっおいた。

    赀色灯は消えおいる。でも車䜓の癜が、倕暮れの䞭で劙に目立っおいた。

    足が重くなった。玄関に入る前から、䜓が止たろうずした。

    リビング。父が泣いおいる。棺にすがり぀くように。刑事が二人、立っおいた。

    「お姉さんの、氎無月桜さんが  亡くなりたした」

    音が消えた。

    泣けなかった。䜕も感じなかった。ただ刑事の口が動いおいるのが芋えた。蚀葉が届かない。

    「犯人は藀厎雄䞀。賞金銖です。䞀般垂民ぞの殺害ペナルティにより、賞金額が五癟八十䞇円に匕き䞊げられたした」

    五癟八十䞇。姉を殺したペナルティが、五癟八十䞇。姉の二十二幎間が、数字になっお画面に衚瀺される。

    葬匏は䞀週間埌になった。

    遺䜓の返還に時間がかかるず、刑事が蚀った。事件関連の怜査があるらしい。䞀週間、棺も花もない。姉の䜓がどこかの斜蚭にある。垰っおこない。

    父は毎晩酒を飲んでいた。酒瓶が廊䞋に転がった。壁に穎が開いた。壊すものが足りなくなるず、私の郚屋のドアを蹎った。「お前もどうせ同じ」ず蚀った。

    息が止たった。䜓が動かなかった。恐怖じゃない。それより前の䜕か。䜓が先に固たった。

    意味が分からなかった。でも声から䜕かが䌝わっおきた。父も、怖がっおいる。

    䞀週間、匓道堎に行かなかった。

    唯からメッセヌゞが来た。「来なくおいい。でも関東遞抜、忘れるな」。返事はしなかった。

    第二章 

    姉の郚屋。父が寝静たった埌。

    歯ブラシ。ヘアゎム。読みかけのSF文庫。角を折ったペヌゞ。しおりを䜿わない人だった。「珟実が蟛い時は、別の䞖界に行くのがいい」ず笑っおいた。

    マグカップに残った玅茶の跡。玅茶の枋が茪になっお也いおいる。最埌に飲んだのは玅茶だった。姉はダヌゞリンが奜きだった。

    マグカップに觊れた。冷たい。掗えなかった。掗ったら姉の痕跡が消える気がしお。

    デスクの䞊。ノヌトパ゜コンは譊察が持っおいった。消しゎムのカスが残っおいる。姉がここで䜕か曞いおいた跡。

    匕き出しを開けた。父が昌間に持った埌だから、䞭はぐちゃぐちゃだった。手垳。ハンドクリヌム。䜿い切ったボヌルペン。

    匕き出しの奥に、手が觊れた。

    薄くお、硬い。取り出した。

    癜いカヌド。名刺より少し小さい。衚には䜕も曞いおいない。裏に、数字だけ。携垯番号らしき十䞀桁。印刷じゃない。手曞き。姉の字だ。

    ポケットに入れた。

    枕に顔を埋めた。掗剀ず、少しだけ甘い匂い。姉の匂い。

    泣いた。声を殺しお。隣の郚屋で父がいびきをかいおいる。

    ——でも、泣きながら考えおいた。

    頭の別の堎所が動いおいる。止たらない。

    堎所。姉が殺された通りは、普段の通勀ルヌトじゃない。毎朝芋送っおいたから知っおいる。あの亀差点を右に曲がっお、コンビニの前を通っお、駅に向かう。殺された堎所は逆方向だ。なんであんな所にいた。

    時間。午埌二時。勀務䞭のはずだ。なぜ倖にいた。

    金額。藀厎の賞金額。殺す前は八十䞇。䞀般垂民を殺しおペナルティで五癟八十䞇に跳ね䞊がった。八十䞇の小物が、ペナルティ芚悟で䞀般垂民を殺す理由がない。金にもならない。自殺行為だ。

    どれも、的の䞭心から倖れおいた。通り魔じゃない。

    ——知りたい。

    埩讐じゃない。怒りより先に、疑問が来た。

    原子が結合するのにも理由がある。反応が進むのにも条件がある。なら、姉の死にだっお理由がある。

    ノヌトを開いた。化孊研究郚のノヌト。詊薬の蚘録を曞くのず同じ筆圧で、知っおいるこずを曞き出した。

    堎所。時間。賞金額。ルヌトの矛盟。藀厎の動機のなさ。

    曞いたら、隙間が芋えた。

    誰かが藀厎を動かした。

    䞀週間埌。葬匏。

    父は棺にすがっお泣いおいた。参列者の前では「ありがずうございたす」ず䞁寧に頭を䞋げた。倖面だけは昔からいい。姉を殎っおいた手で棺を撫でおいる。拳の皮が硬い。殎り慣れた手だ。

    棺の前にしゃがんだ。姉の顔を芋た。知っおいる顔だ。でも知らない顔だった。頬に觊れた。冷たかった。枩床がなかった。生き物の冷たさじゃない。

    葬匏が終わった埌、父が姉の郚屋を持った。口座には十䞇円しか残っおいなかった。

    「あい぀のせいで、俺たで迷惑だ  」

    「二十二にもなっお、たったこれだけか」

    酒瓶が壁にぶ぀かった。

    父が床に座り蟌んだ。酒瓶を抱えたたた、声が急に小さくなった。

    「あい぀だけは  幞せにならなきゃいけなかったんだ」

    聞き返せなかった。父は顔を芆った。

    「俺が  」

    そこたで蚀っお、黙った。しばらくしおから、たた酒を飲んだ。

    「もういい」

    䜕がもういいのか、分からなかった。

    姉が䜕のために皌いでいたのか、この人は知らない。知ろうずもしない。

    第䞉章 

    孊校に通い続けた。

    匓道堎にも戻った。関東遞抜の遞考が近い。唯が䜕も蚀わずに隣に立った。

    「右肩、ただ䞊がっおる」

    「分かっおる」

    「分かっおるならなんで盎らないの」

    答えなかった。的の䞭心に向かった。匕く。䌚。——雑念が消えない。姉の通勀ルヌトが頭に浮かぶ。あの亀差点。あの時間。

    二センチのずれが、䞉センチになった。

    垰り道。コンビニに寄った。

    コンビニの棚の前で、足が止たった。

    匁圓コヌナヌ。のり匁。幕の内。唐揚げ匁圓。ラップで包たれた癜い容噚が䞊んでいる。

    そういえば姉は、䞀回だけ匁圓にベンれン環を入れた。海苔で。

    高校の廊䞋で開けた瞬間、隣の垭の子に芋られた。説明できなかった。死ぬほど恥ずかしかった。

    党郚食べた。

    棚から目を離した。

    レゞの䞊のモニタヌにニュヌスが流れおいた。

    「本日の執行結果䞉件」

    䞉人の名前ず賞金額が衚瀺された。顔写真はない。名前ず数字だけ。五秒で次の名前に切り替わる。

    䞀人目。男。䞉十四歳。賞金額九十二䞇円。

    ——姉より安い。

    姉を殺したペナルティが五癟八十䞇で、この人の呜が九十二䞇。数字の倧小で人が䞊んでいる。スヌパヌの倀札ず同じだ。高い安いで棚に䞊べられお、誰かが手に取っお、レゞを通しお、消える。

    画面が切り替わった。倩気予報。明日は晎れ。

    レゞの店員も、隣の客も、画面を芋おいなかった。䞉人死んだニュヌスの隣で、おにぎりを枩めおいる。

    ——姉もこうやっお消費されたのか。五秒の画面で。

    倜、自分の郚屋でノヌトを開いた。

    化孊宀から持ち垰った詊薬リストの隣に、今日拟った情報を曞き足した。藀厎は今も生きおいる。賞金銖のGPS情報は公開されおいる。誰でもスマホで芋られる。珟圚地を割り出すこずは、できる。

    麻痺剀。筋匛緩䜜甚のある薬品を䜿えば、意識を保ったたた䜓の動きだけを止められる。化孊研究郚の棚に材料がある。矢に塗垃できる圢に加工できるかどうか。

    曞いお、止たった。

    ——これは䜕だ。

    でも手が震えおいた。

    知りたいだけなら、なぜ麻痺剀の名前を曞いおいる。

    もう䞀床考えた。

    話を、聞きたい。盎接。それだけだ。殺しに行くんじゃない。矢を撃぀のは、逃げられないようにするためだけだ。聞いお、垰っおくる。

    ノヌトに線を匕いた。

    「目的藀厎に話を聞く。それだけ」

    曞いたら、少し萜ち着いた。

    第四章 

    翌日。攟課埌。化孊研究郚の棚を確認した。

    詊薬の瓶を䞀぀ず぀芋おいく。手順は頭に入っおいる。合成は難しくない。倱敗するずしたら濃床の調敎だ。効果時間を十五分前埌に抑えたい。長すぎるず危険になる。短すぎるず話を聞く前に動き出す。

    ノヌトに蚈算を曞いた。

    ——これをやったら、戻れない。

    手が止たった。

    詊薬の棚の前で、しばらく動けなかった。棚の䞀番䞊に、去幎の文化祭で䜿った緑の詊薬の残りがある。あの時は姉が芋に来おくれた。実隓の説明をしたら「䞃海、楜しそう」ず蚀っおいた。

    棚を閉めた。

    息が詰たった。姉が文化祭に来おくれた日の顔が、急に出おきた。「䞃海、楜しそう」。笑っおいた。

    埌から来た。波みたいに。

    廊䞋の壁に手を぀いた。しばらくそうしおいた。

    廊䞋に出た。窓の倖に倕日が芋えた。

    ——聞くだけだ。

    たた化孊宀に戻った。棚を開けた。

    䞀回目は濃床が高すぎた。詊隓䜓のゎムが溶けた。姉の声が聞こえた気がした。やめろ、ず。

    二回目は反応が途䞭で止たった。蚈算匏を芋盎した。どこかが間違っおいる。間違いを探すのは匱点ノヌトず同じだ。感情を脇に眮いお、数字だけ芋る。

    五回目は惜しかった。効果が出たが、時間が短すぎた。䞉分で切れる。話を聞くには足りない。

    六回目。䞉日埌。安定した。効果時間玄十五分。意識はあるが䜓が動かなくなる。

    倜、自分の郚屋の窓から倖を芋た。

    殺す、ず思った。

    違う。思っおいない。

    でも頭の䞭に「殺す」ずいう蚀葉が浮かんだ。消えなかった。

    姉の顔が出おきた。笑っおいる。「䞃海の匓、かっこいいよ」。その顔。

    殺しおはいけない。聞くだけだ。麻痺させお、聞いお、垰る。それだけだ。

    でも——。

    もし手が滑ったら。もし量が倚すぎたら。もし——。

    コロス。

    その文字が、頭の䞭だけで、䞀回だけ浮かんだ。

    姉の顔がたた出おきた。今床は笑っおいなかった。

    ——話を聞くためだ。

    それだけだ。それだけのはずだ。

    間違えたら、しかたない。

    その蚀葉が出おきた瞬間、自分でも驚いた。

    しかたない、ず思っおいる。

    それでも止たれなかった。

    第五章 

    矢の先端にれラチンカプセルを取り付けた。呜䞭すれば砎裂する。倖れればただのゎミ。予備を含めお䞉本。

    匓はホヌムセンタヌの金属パむプずゎムチュヌブで自䜜した。道堎のグラス匓ずは別物だ。自分の郚屋の窓から、倜䞭に裏庭で詊射した。十メヌトルなら圓たる。十五メヌトルは賭け。

    父は深倜たで飲んでいる。気づかなかった。

    決行前倜。眠れなかった。

    自分の郚屋の倩井に染みが䞀぀ある。雚挏りの跡。ずっずそこにある。

    明日、人に向かっお矢を攟぀。人間に。道堎で的を射る時は、䞖界が止たる。雑念が消える。でも盞手が人間なら、止たるだろうか。

    姉の声が聞こえる気がした。「やめなさい、䞃海」。

    でも姉の声より、疑問の方が倧きかった。

    ——やめる理由を考えた。

    倱敗したら捕たる。捕たったら銖茪が付く。賞金銖になる。匓道も化孊も党郚終わる。

    ——やめない理由も考えた。

    姉が芋たものが、ただどこかにある。誰かが姉を消した。その誰かは今も生きおいる。それだけが、どうしおも飲み蟌めなかった。

    話を聞くだけだ。

    ——やめない。

    自分で決める。匓を匕くのも、離すのも、自分だ。

    ノヌトに最埌に䞀行曞いた。

    「明日、聞いおくる」

    ノヌトを閉じた。

    第六章 

    翌日。倕方。

    電車に乗った。

    匓道の詊合甚バッグを持っおいた。䞭身は違う。矢筒ず、簡易匓ず、ノヌトだけ。

    座垭に座っお、窓の倖を芋た。駅が流れおいく。䜏宅街。線路沿いのマンション。コンビニの看板。倕方の普通の景色。

    ——降りおもいい。

    乗り換え駅のホヌムに滑り蟌んだ。ドアが開いた。人が降りた。人が乗った。

    立ち䞊がりかけた。膝が半分だけ浮いた。

    足が動かなかった。

    次の電車を埅぀人の列が芋えた。制服の高校生。仕事垰りのスヌツ。子ども連れ。みんな前を向いおいる。誰も私を芋おいない。

    ドアが閉たった。

    電車が動いた。

    ——乗り続けた。

    膝の䞊に手を眮いた。ノヌトの角が倪ももに圓たっおいる。「目的藀厎に話を聞く。それだけ」ず曞いた文字が、バッグの䞭にある。

    川厎たで、あず二十分。

    窓に自分の顔が映っおいた。

    匓を匕く時の顔じゃない。的に向かう時の、䞖界を蚱しおいない顔でもない。ただ青い。

    ——姉は、こんな顔をしお深倜の電話をしおいたのか。

    台所の氎を出しお、声を殺しお。それが姉の仕事だった。私は知らなかった。

    川厎駅で降りた。改札を出た。倕方の空気が冷たい。人が倚い。賞金銖のGPS情報を開いた。誰でも芋られる情報だ。藀厎の珟圚地。ボロアパヌト。

    埒歩十二分。

    歩いた。

    ボロアパヌト。藀厎の朜䌏先。䞉〇五号宀。

    向かいの空きビルの屋䞊。䞀人で来た。圓たり前だ。誰にも蚀っおいない。

    距離十五メヌトル。ギリギリだ。颚はない。窓は開いおいる。換気のためだろう。

    窓越しに男を芳察した。匓道で鍛えた目。暗い郚屋の䞭にも焊点が合う。

    テレビを芋おいる。ビヌル。コンビニ匁圓の空箱が䞉぀。脱ぎっぱなしの靎䞋。灰皿が溢れおいる。バラ゚ティ番組の笑い声が窓越しに聞こえる。

    ——この男が、姉を殺した。

    怪物じゃない。ただの男だ。昌間からビヌルを飲んでテレビを芋おいる䞭幎。父ず倧しお倉わらない。こんな人間に、姉の二十二幎間は終わらされた。

    五分。十分。男はビヌルを取る時だけ、右足を半歩匕いた。

    匓道の呌吞法で心拍を䞋げた。吞っお、止めお、ゆっくり吐く。道堎で䜕千回もやった呌吞。普段はテスト前に䜿う。今日は人を撃぀前に䜿っおいる。

    簡易匓を構えた。麻痺矢を番える。手が震えおいる。道堎では震えない。的に向かう時は䞖界が止たる。今は止たらない。的じゃないから。人間だから。

    男が立ち䞊がった。窓際を通る。

    ——今だ。

    匓を匕いた。䌚。簡易匓の感觊は正芏のグラス匓ず党然違う。反発が硬い。匕きが浅い。でも呌吞は同じ。肩甲骚の収たりは同じ。的は人間の肩。殺さない堎所。

    離れ。

    矢が飛んだ。窓の隙間を通っお、男の右肩に刺さった。

    「っ——」

    カプセルが砎裂した。䞉十秒で右腕が動かなくなった。䞀分で䞡脚が厩れた。床に倒れた。

    空きビルから降りお、ボロアパヌトに入った。階段を䞊がる。足音が響く。コンクリヌトの階段。萜曞き。煙草の吞い殻。二階の廊䞋に干からびたカップ麺の容噚。

    䞉〇五号宀。ドアの鍵は壊れおいた。抌すず開いた。

    郚屋の䞭。ビヌルの匂い。汗の匂い。窓から入る倕日が、床に転がった男を照らしおいる。

    男が目だけでこちらを芋おいる。瞳孔が開いおいる。額に汗。唇の震え。この男は本圓に怖がっおいる。私にじゃない。もっず倧きなものに。

    「氎無月桜を殺したよね」

    男の目が動いた。

    「  桜」

    名前を反芻するように、口だけ動いた。それだけだった。

    「誰に頌たれた」

    「  分からねえ。金だけ来た」

    唇が震えおいる。麻痺した䜓で、目だけが動いおいる。自分がどうなるか分かっおいる顔だ。

    「桜は  芋たんだよ」

    「䜕を」

    口が開いた。声が出なかった。

    息を吞った。

    郚屋の奥で、光った。

    テレビ台の裏。金属の箱。赀いLEDが点滅しおいた。

    癜い閃光。

    䜓が浮いた。壁にぶ぀かった。背䞭に衝撃。芖界が癜くなっお、赀くなっお、暗くなった。

    第䞃章 

    意識が戻った時、床に転がっおいた。

    䜕秒経ったのか分からない。十秒か。䞉十秒か。

    耳が聞こえない。高い音が鳎り続けおいる。金属が震えるような音。煙が充満しおいる。黒い煙。焊げた匂い。プラスチックが溶ける匂い。化孊で嗅いだこずがある。塩化ビニルが燃える時の匂いに近い。

    倩井が厩れかけおいる。コンクリヌトの砎片が萜ちおくる。

    䜓を動かした。右腕。動く。巊腕。動く。脚。動く。——生きおる。

    藀厎は——

    芋た。芋なければよかった。

    爆発の䞭心にいた藀厎は、もう人の圢をしおいなかった。テレビ台の裏に仕掛けられた爆匟の盎䞊。片方の腕が、肘から先がない。胎䜓が床に぀いおいる角床が、人間のそれじゃない。顔だけがただ顔の茪郭をしおいた。目が開いたたた動かなかった。

    吐いた。

    四぀ん這いで吐いた。胃の䞭身が床に広がった。

    這っお廊䞋に出た。壁の砎片が肩に圓たった。膝が痛い。

    䞉〇四号宀。ドアが吹き飛んでいる。䞭に人がいた。

    若い女性。二十代くらい。スヌパヌの袋を持ったたた倒れおいる。銖茪がない。䞀般垂民だ。垰宅したずころだったんだろう。鍵をただ握っおいる。右手に。買い物袋は巊手。

    人圢が糞を切られお萜ちたみたいに、関節の力だけが抜けおいた。

    こめかみのあたりから血が出おいた。壁に叩き぀けられた跡が壁偎に残っおいた。目を閉じおいた。眠っおいるみたいに芋えた。眠っおいなかった。

    駆け寄った。頭を支えた。血が手を濡らした。枩かい。ただ枩かい。

    女性の目が開いた。焊点が合っおいない。口が少し動いた。䜕か蚀おうずしおいる。でも音にならない。

    ——閉じた。

    手の䞭で、枩床が䞋がっおいった。

    買い物袋の䞭身が床に散らばっおいた。

    豆腐。長ネギ。ひき肉。

    豆腐の角が、袋の䞭で厩れおいた。

    床に座ったたた、女性の手を握っおいた。もう冷たい。それでも離せなかった。

    サむレンが近づいおくる。遠くから。でも確実に近づいおいる。

    立ち䞊がろうずした。膝が笑った。壁に手を぀いた。煙で目が痛い。

    銖筋が、熱くなった。

    冷たい金属が、銖に——

    芖界が、暗くなった。


    第二話 狩られる偎

    第䞀章
    病宀のテレビが喋っおいた。

    音量は䜎い。でも聞こえた。

    「川厎アパヌト爆砎事件から䞉日。譊察は珟堎で化孊薬品の残留を確認し、爆発物は珟堎にいた十䞃歳の女子高校生が化孊研究郚の知識を甚いお補造した可胜性が高いず——」

    「——死亡した䞀般垂民ぞの過倱傷害も含め、氎無月䞃海容疑者の賞金額は䞀千二癟八十䞇円に蚭定。珟圚、近隣賞金銖ぞの察象情報配信が完了したした——」

    䞀千二癟八十䞇。

    䞃海は銖茪に觊れた。䞉センチ幅。継ぎ目。倖れない。画面に写真が出た。匓道の、䞃海の写真。「女子高生爆匟魔」ずテロップが出た。

    䞃海は目を閉じた。

    第二章
    退院は昌前だった。

    病宀のドアを開けるず、廊䞋に父がいた。スヌツのたた。ネクタむが少しゆがんでいた。仕事を途䞭で抜けおきたんだず思った。

    䞃海を芋た。銖茪を芋た。

    䞀秒だけ、䜕か蚀いかけた。やめた。

    「行くぞ」

    それだけだった。

    車は父の軜だった。助手垭に乗った。シヌトベルトを締める。銖茪ず肩ベルトが干枉した。少しずらしお、ようやく留たった。

    父が゚ンゞンをかけた。バックミラヌを盎した。道路に出た。

    しばらく黙っおいた。

    「私は殺しおない」

    䞃海が蚀った。

    父がハンドルを握ったたた、前を芋おいた。

    「信じおる」

    父が間を眮いた。

    「銖茪は付いた」

    「  分かっおる」

    ハンドルを持ち盎した。信号が赀になった。停たった。

    「だから家にいろ」

    家に぀いた。リビングのテレビが぀いおいた。ニュヌスだった。画面の隅に「川厎アパヌト爆砎事件」の文字が出た。

    父がリモコンを取った。テレビを消した。

    「なんで消すの」

    「芋るな」

    それきり、父は黙った。

    倕食はなかった。父は台所で猶ビヌルを開けた。䞃海は自分の郚屋に戻った。

    倜になっお、リビングから声が聞こえた。テレビが付いおいた。父が䞀人で芋おいた。

    ドアの隙間から芋た。父の手に猶ビヌルがある。画面に「川厎アパヌト爆砎事件」の文字。䞃海の写真。テロップに䞀千二癟八十䞇ずいう数字。

    父が猶を握り朰した。

    翌朝、父が䞃海の郚屋のドアをノックした。

    開けたら、父がこちらをたっすぐ芋おいた。

    昚日みたいに目を逞らさなかった。䞃海の顔を、正面から芋おいた。䜕か蚀いかけた。口が少し開いた。でも音にならなかった。

    父が䞀床、深く息を吞った。

    「九州ぞ行く」

    父の芖線が䞋りた。銖茪を芋た。䞀秒。それだけ芋お、目を逞らした。

    「明日戻る。冷蔵庫に食い物ある。倖に出るな。鍵かけずけ」

    ドアが閉たった。廊䞋に靎音。玄関が開いお、閉たった。

    郚屋に䞀人になった。

    銖茪が銖に圓たる。仰向けになるず、埌頭郚の骚ず金属の瞁がじわじわ抌し合っお痛い。暪を向けば肌がこすれる。う぀䌏せはもっず駄目だった。喉がふさがる感じがしお、息が浅くなる。タオルを折っお挟んだ。枕の䜍眮も倉えた。䜕をしおも、そこに茪がある。

    昚日たで、寝るっおただ目を閉じるこずだった。垃団に入っお、意識が遠くなっお、朝になる。昚日たではそうだった。

    今は違う。目を閉じおいる間に、誰かがドアを蹎るかもしれない。窓を割るかもしれない。銖に䞀千二癟八十䞇の倀札を巻いお眠る。そういう倜になった。

    時蚈は䞉時を回っおいた。通知音は切っおあるのに、スマホの画面が光るたびに心臓が跳ねた。倩気。広告。どうでもいい速報。党郚、襲撃の合図みたいに芋える。

    起き䞊がっお、玄関のチェヌンを觊った。窓の鍵も芋た。カヌテンの端を指で開けお倖をのぞく。街灯の色だけが入っおきた。人圱はない。さっきも確認した。分かっおいる。それでも、もう䞀回芋た。

    ドアスコヌプものぞいた。廊䞋は空だった。誰もいない。それなのに、䞞い暗さだけが嫌だった。目を離したあずも、あの小さい黒が顔の䞭に残った。

    姉がいたらず思った。安いアパヌトの薄い壁でも、姉が隣にいるだけで倜は倜のたたで枈んだ。怖いものはあっおも、眠れた。

    目を閉じる。䞀秒で開ける。玄関の向こうに誰かが立っおいる映像が、勝手に頭の䞭に出る。ノブが回る音。ガラスが割れる音。実際には䜕も鳎っおいないのに、脳だけが先に始たっおいた。

    銖茪が震えた気がしお、飛び起きた。心臓がうるさい。通知はない。䜓枩かもしれない。気のせいかもしれない。たぶん、でしか今は暪になれない。

    うずうずしたのは五時を過ぎおからだったず思う。
    垃団が熱かった。䜓の䞋だけが蒞しおいる。タオルをどけお、戻しお、たた裏返した。銖茪の瞁が汗でぬる぀く感觊だけがはっきりしおいた。
    倖で自転車が通った。チェヌンの音。そのたびに背筋が䌞びた。動いたものは党郚、たず敵の音ずしお聞いた。

    第䞉章
    シャワヌを济びた。

    銖茪は倖れない。分かっおいる。でも、実際に湯が金属に圓たるず倉な感じがした。自分の䜓じゃないのに、熱だけは真面目に䌝わっおくる。

    銖のたわりを掗う。肌ず金属の隙間にぬる぀いた汗が残っおいた。倏はかぶれる。冬は冷える。どっちにしおも、倖れない。春でも秋でも、マシなだけだ。

    鏡の前に立぀。裞の銖に、銀の茪がある。

    昚日たで鏡で先に芋るのは顔だった。前髪ずか、寝癖ずか、ニキビずか。そういう順番だった。今日は違う。最初に目に入るのが銖茪だ。顔はそのあずだった。

    制服を着おも、消えない。ブラりスの襟が瞁に匕っかかった。䞊たで留めるず肌を噛む。䞀぀倖しおもこすれる。制服は、銖茪を぀ける偎の人間のためには䜜られおいない。

    髪を結びかけお、やめた。ポニヌテヌルにするず銖茪が党郚芋える。髪を䞋ろした。隠れおも半分だ。

    昚日たでずっず結んでいた。姉が、䞃海は結んだほうが䌌合うず蚀ったからだ。䞭孊から、そのたただった。

    もう結べない。

    そんな小さいこずが、朝から喉に刺さる。

    スカヌトのポケットに定期刞が入っおいた。反射で握った。駅たで歩けば、い぀もの改札がある。䜓が勝手にそっちぞ向かった。通孊路だからだ。

    家を出お最初の角を曲がる。クリヌニング屋。自販機。信号機。い぀もの朝なら、䜓が順番を芚えおいた。今日は党郚、よく䌌た別の景色だった。道は同じなのに、歩いおいる偎だけが入れ替わった感じがした。

    通孊䞭の生埒が前を歩いおいた。男子二人が眠そうに欠䌞をしお、女子䞉人がスマホをのぞき蟌んで笑っおいる。誰もこっちを芋ない。その芋ないこずが、逆に遠かった。私はもう、同じ列の䞭に玛れられない。

    駅前たで来お、ガラスに映った自分を芋る。マフラヌはぎりぎり自然だった。でも、自然に芋えるように巻いおいる時点で、もう昚日の朝じゃなかった。

    改札の前で止たった。

    スヌツ姿の人が流れおいく。制服の子がタッチしお抜けおいく。眠そうな顔。むダホン。コヌヒヌ。みんな、朝の続きの顔をしおいる。

    私も通れないわけじゃない。定期刞じゃなく、銖茪で。

    でも、かざした瞬間に蚘録が残る。賞金銖通過。䜍眮。時刻。監芖。ホヌムで埅぀時間。背䞭の広さ。電車の䞭の逃げ堎のなさ。そこたで䞀気に浮かんだ。

    改札の手前で立ち尜くしたたた、定期刞を握っおいた。

    隣のレヌンを、同じ制服の子が通っおいく。たぶん䞀幎䞋。知らない顔。でも同じ制服だった。それだけで充分だった。あの堎所に、もう私は立おない。

    匕き返した。定期刞をポケットに戻す。持っおいおも䜿えないものは、ただの玙だ。

    スマホが震えた。孊校の連絡アプリだった。

    担任から䞀件。

    「氎無月さん。事情は孊校にも通知されおいたす。しばらくは自宅で過ごしおください。䜓に気を぀けお」

    続けお事務局。

    「氎無月䞃海様。貎殿が賞金銖ずしお公瀺されたこずに䌎い、圚籍の䞀時停止措眮を通知したす。圓面の間、登校を控えおください。孊籍の取り扱いに぀いおは远っお連絡したす」

    圚籍停止。退孊じゃない。でも、戻れる日も曞いおいない。

    ホヌムルヌムの時間を思い出した。今ごろ教宀では、䞀限のプリントが回っお、誰かが先生の物真䌌をしお、小さく笑いが起きおいるかもしれない。私はそこにいたはずなのに、文章䞀぀で倖に出された。垭だけ残しお、䞭身だけ捚おられたみたいだった。

    クラスのチャットはただ芋られた。矎咲が曞いおいた。

    「䞃海のこず知っおる人いる」

    その䞋に、短い返事が䞉぀䞊ぶ。

    「関わらないほうがいいっお」

    「芪に止められた」

    「ちょっず怖い」

    続きも来おいたけど、開かなかった。既読を぀けるだけで、自分がただそこにいるふりをするみたいで嫌だった。

    通知を閉じた。アプリを消した。たた入れればいいだけだず分かっおいた。それでも消した。

    改札たで行っお、通知で远い返されお、チャットで切られた。朝のうちに孊校から䞉回締め出された気がした。足は䞀床も校門に着いおいないのに、もう戻る道だけが遠くなっおいた。

    第四章
    昌すぎ、倖に出た。

    道堎に匓を眮いおきた。取りに行かなければならない。

    電車には乗れなかった。改札を芋た瞬間、昚日ず同じ感芚が来た。ホヌムで埅぀時間。背埌の広さ。銖茪で通った蚘録が残る。匕き返した。

    歩く。孊校ずは反察方向。䜏宅街に入るず人が枛る。枛るのはありがたいが、枛るほど䞀人が目立぀。どっちでも、背䞭が広くなる。

    むダホンはしない。足音。自転車のベル。遠い゚ンゞン。自販機の䜎い唞り。党郚聞いおいたい。䜕か䞀぀欠けたら、その隙に刺されそうだった。

    信号埅ちのずきも、背埌のガラスに映る人圱を確認した。コンビニの自動ドアが開く音だけで肩が動く。譊戒っお、考えおするものじゃないんだず思った。䜓が勝手にやる。勝手にやっお、そのたびに疲れる。

    音楜を聎きながら歩ける人生は、昚日で終わった。

    䞀時間半歩いお、孊校の裏門が芋えた。生埒の出入りはない時間垯だった。

    甚具宀ぞの通路は、倖からでも入れる。鍵は掛かっおいなかった。昔からだ。顧問もそれを分かっおいお、黙認しおいた。

    薄暗い。匓道堎の空気は、倖ず少し違う。ワックスず、匊の脂ず、板の埃。嗅いだ瞬間に䜓が戻ろうずした。戻れない䜓が、それでも芚えおいた。

    匓ケヌスはロッカヌの䞀番䞋にあった。匕っ匵り出す。矢筒も。重かった。こんなに重かったか、ず思った。二幎間毎日持ち歩いたものなのに。

    振り返ったら、唯がいた。

    道着のたた立っおいた。手に䜕も持っおいない。

    䞃海は䜕も蚀えなかった。

    唯も䜕も蚀わなかった。

    しばらくそうしおいた。匊の音も、的の音も、䜕もない道堎で。

    唯が、䞀床だけ頭を䞋げた。

    それだけだった。

    䞃海が先に出た。振り返らなかった。

    垰りは電車に乗った。行きに乗れなかったのに、垰りは乗った。理由はない。荷物が重かったからかもしれない。匓ケヌスを抱えお䞀時間半歩く気力が、もうなかっただけかもしれない。

    少し混んでいた。座れた。

    隣の垭が、空いたたただった。䞀駅。二駅。誰も来なかった。向かいの垭も、巊の垭も、じわじわず人が枛っおいく感じがした。芋おいないのに、分かった。銖茪があれば、分かられる。

    スマホを開いた。

    唯からDMが来おいた。

    「匓、持っおいっお」

    短い文字だった。送信時刻は昚倜の十䞀時。䞃海が眠れなかった倜に、唯も起きおいた。

    返せなかった。䜕を返しおも、嘘になりそうだった。既読だけ付けた。

    クラスのチャットに通知が来おいた。開いた。

    矎咲が曞いおいた。「䞃海のこず、ヘルメスに茉っおる」

    続きが䞊ぶ。「S刀定だっお」「マゞで」「うちのクラスに賞金銖いたの」「怖すぎ」「普通だったのに」「いや、なんか暗かったじゃん」「䞃海っおそういう感じだったかも」

    スクロヌルした。止たらなかった。

    「だから匓道うたかったんじゃね」「歊噚ずしお」「草」

    閉じた。アプリごず消した。

    窓の倖に線路沿いのマンションが流れおいく。掗濯物が干しおある。ベランダに自転車。普通の午埌。あの郚屋の䞭には誰かの続きがある。私のは昚日で切れた。

    同じくらいの幎の女の子ずすれ違った。制服。むダホン。スマホを芋お笑っおいる。

    二日前たでの私だった。

    コンビニに入る。氎、おにぎり二぀、カップ麺。レゞぞ持っおいく。

    店員は若い女だった。爪だけ劙にきれいだった。

    「袋お持ちですか」

    「いえ」

    そこたでは普通だった。

    マフラヌを少しずらしお、銖茪を端末に近づける。

    ピッ。

    店員の指が止たった。ほんの䞀瞬、銖元を芋る。

    顔は倉えない。でも、枡し方だけが倉わった。最初は手枡ししようずしおいたのに、次はトレむの端に商品を眮いた。指が觊れないように。

    埌ろに䞊んでいた男が、半歩だけ䞋がった。

    誰も䜕も蚀わない。でも、分かる。分かられる。

    店を出お、おにぎりの袋を砎った。噛んでいるのに飲み蟌めない。喉が拒吊しおいた。氎で無理やり流し蟌む。胃に萜ちる感芚だけがあった。
    ゎミ箱が芋圓たらなかった。袋を手に持ったたた歩き続けた。カップ麺の䞞い容噚が袋の底で揺れる。さっきの女の店員の顔は思い出せなかった。手だけが残った。トレむの端に商品を眮いた指先だけが。
    信号が赀になった。䞊んだ人の銖を芋た。茪がない。党員ない。䞃海だけある。赀から青に倉わった。みんな歩き出した。䞃海も歩いた。

    第五章
    垰り道、スマホが震えた。

    赀ず黒の掟手なサむトの通知だった。ヘルメス・むンデックス。賞金銖の狩りやすさを勝手に倀螏みしお回す、あの手の民間サむトだ。

    䞭倮にランク衚が出おいた。、、、、。

    S刀定の説明欄には、こうあった。

    「賞金額に察しお戊闘力が著しく䜎い察象。狩り成功率が最も高い。初回執行の実瞟䜜りに掚奚」

    掚奚。私を殺すこずが、掚奚されおいた。

    「氎無月䞃海 十䞃歳 賞金額䞀千二癟八十䞇円」「ヘルメス刀定 S」「䞀般垂民からの転萜。戊闘経隓なし。防衛拠点なし。単独行動の暡様。掚定狩り難床 極䜎」

    その䞋のコメント欄が流れおいた。

    「初手で狙うならこい぀」「履歎曞䞀枚目」

    喉の奥が熱くなった。

    スマホを閉じた。歩き出した。

    商店街の裏の现い道に入った。近道の぀もりだった。

    足音がした。埌ろ。䞀人分。私ず同じ速さで歩いおいる。

    心臓が跳ねる。振り返らない。歩幅だけ少し広げる。埌ろの足音も少し速くなる。

    偶然じゃない。

    「よう、S刀定ちゃん」

    軜い声だった。楜しそうですらある。

    振り返る。男。二十代埌半くらい。痩せた䜓。フヌドを深くかぶっおいる。右手に折りたたみナむフ。安物っぜいのに、刃だけはちゃんず光っおいた。

    銖には銖茪。

    「ヘルメスで芋たぜ。䞀千二癟八十䞇の女子高生」

    男が半歩近づく。ナむフの先がこっちを向く。

    「コンビニ垰りに、倧したもん持っおねえだろ」

    袋の䞭にスプレヌがある。でも、ただ抜かなかった。こい぀が䜕で来たのか、聞きたかった。

    「あんたの賞金、いくら」

    男が笑った。「九十䞇」

    九十䞇。私より䜎い。

    九十䞇の男が、䞀千二癟八十䞇の私を殺せるず思っおいる。そのこずが、怖いより先に腹が立った。

    「ヘルメスの情報、叀いよ」

    声が出た。震えおいないか確認する暇もなかった。

    男の顔が少し止たった。

    「昚日から曎新されおる。S刀定じゃない。うちのチヌムが今日だけで䞉人始末した。ネットに出おない話だけど」

    党郚でたらめだった。チヌムなんかない。䞉人も始末しおいない。昚日たで制服を着おいた。

    でも足が震えおいるのは本圓だった。だから声だけは萜ち着けた。震えおいるものは声に出さないようにできる。匓道で芚えた。射前に䜓が震えおも、息だけは止められる。

    男の足が、止たった。

    蚈算しおいる目だった。ネットの情報が正しいのか、この女の話が正しいのか。どっちか分からない顔だった。

    袋を巊手に持ち替える。右手をポケットぞ滑らせる。猶の冷たさが指に圓たる。

    「玠盎にやられろよ。顔だけなら傷぀けねえから」

    ハッタリが効かなかった。でも、ひるんだ䞀秒が取れた。

    右手で癜煙スプレヌを抜く。安党ピンを倖す。男の目が動いた。その䞀瞬に抌した。

    癜い煙が路地いっぱいに広がる。

    「っ、なんだこれ」

    男が咳き蟌み、目をこする。䞉十秒あれば、こっちは抜けられる。

    走る。袋が揺れる。路地を抜けお倧通りぞ出る。人がいる。振り返る。男はただ煙の䞭でもがいおいる。

    角を曲がった瞬間、匓ケヌスが邪魔だず分かった。長くお、重くお、目立぀。どこで持っおいたかが分かる。

    ゎミ集積所があった。青いネットが掛かっおいる。䞀秒考えた。考えるたでもなかった。

    匓ケヌスを眮いた。矢筒も。ネットの隙間に抌し蟌んだ。

    二幎間、毎日持ち歩いた。十秒で眮いた。

    振り返らなかった。

    信号を二぀枡っおから、ようやく足が緩んだ。自販機の暪で立ち止たる。膝が现かく震えおいた。袋の持ち手を握りすぎお、指先が癜くなっおいる。

    自販機の明かりの䞭で、呌吞だけが䞋手になっおいた。吞うたびに喉の裏がざら぀く。

    近道っお蚀葉が、もう䜿えない気がした。曲がり角を芋るたびに、そこに誰かの倀螏みが埅っおいる気がした。

    袋の持ち手の跡が、手のひらに残っおいた。癜い線。じきに消える。消えおもたた明日から同じ道を歩く。それだけのこずだった。

    自販機の明かりが背䞭に圓たっおいた。光の䞭に立っおいるのが急に嫌になった。暪ぞ䞀歩、ずれた。

    第六章
    アパヌトに戻った。

    ドアを閉めた瞬間、膝が抜けた。壁にもたれお、その堎に座り蟌む。コンビニ袋が倒れお、ペットボトルが床を転がった。

    誰もいない郚屋だった。

    冷蔵庫を開けた。氎を飲んだ。喉が枇いおいた気づかなかった。もう䞀杯飲んだ。

    暗くなりかけた窓の倖に、誰かがいた気がしお、カヌテンを匕いた。誰もいなかった。でもカヌテンはそのたた閉めた。

    しばらくしお、むンタヌフォンが鳎った。

    画面を芋た。䞉十代くらいの男が立っおいた。宅配の制服じゃない。普通の服。玺のゞャケット。ポケットに䞡手を入れおいた。

    「氎無月䞃海だな」

    「  誰ですか」

    「今日、路地裏で癜煙を䜿ったな」

    䞃海は黙った。

    「お前のこずを芋おいた。逃げ方は悪くない。でも今倜、ここは終わりだ」

    「どういう意味ですか」

    「ヘルメスにお前の䜏所が出た。䞀時間前から。本気の奎が来る前に動け」

    䞃海はドアを芋た。板䞀枚。チェヌンをかけおある。

    「信甚できない」

    「そうだな」ず男が蚀った。「俺のこずは信甚しなくおいい。今倜ここにいるこずの方が信甚できないだろ」

    「  䞀぀聞いおいいですか」

    「䜕だ」

    「姉ちゃんを知っおたすか。氎無月桜」

    男が黙った。䞉秒。

    「来い」

    答えじゃなかった。でも答えだった。

    䞃海はチェヌンを倖した。

    第䞃章
    男は倚く喋らなかった。

    「リョり」ずだけ名乗った。苗字か名前か分からなかった。聞かなかった。

    電車には乗らなかった。地䞋鉄の入口を避けお、路地を抜けた。コンビニの前を通った。ガラスに䞃海が映った。銖茪が映った。リョりが速床を䞊げた。

    「銖茪、觊るな」

    䜎く蚀った。䞃海は觊っおいた。気づかなかった。手を䞋ろした。

    䞉十分歩いた。䜏宅街の䞭の、叀いマンションに着いた。゚レベヌタヌを䜿わず階段で五階たで䞊がった。廊䞋の突き圓たり。五〇八号宀。

    リョりが鍵を開けた。

    「入れ」

    狭い郚屋だった。六畳くらい。窓が䞀぀。段ボヌルが積んである。机の䞊にパ゜コンが二台。配線が床を這っおいる。生掻の匂いがあった。誰かが長くいる郚屋の匂いだった。

    䞃海は郚屋に入った。

    壁を芋た。

    写真が䞀枚、画鋲で留めおあった。

    姉だった。

    笑っおいた。どこかの倖。光の角床からしお倏だ。髪を束ねおいた。い぀も束ねおいた。笑うず目が匷くなる姉だった。

    「なんで」

    声が出た。

    リョりは答えなかった。机の怅子を匕いた。パ゜コンに向かった。キヌボヌドを叩き始めた。

    䞃海は写真から目が離せなかった。

    姉の束ねた髪。倏の光。その笑顔。䞃海だけに向けおいた笑顔ず同じ目が、知らない男の郚屋の壁にあった。

    「  腹枛っおるか」

    リョりがパ゜コンから目を離さずに蚀った。

    䞃海は壁の写真を芋たたた答えた。「  うん」

    しばらくしお、台所でフラむパンが鳎った。にんにくの匂いがした。

    姉ず同じ匂いだった。

    銖茪が、冷たかった。

    第䞉話 玳士ず事務屋

    第䞀章 

    眠れなかった。

    リョりのアパヌトの倩井には染みが䞉぀ある。巊のや぀は暪を向いた犬に芋える。初日の倜からずっずそうだった。犬の圢だけは倉わらない。倉わったのは私のほうだ。

    銖茪の冷たさで目が芚めた。暪を向くたびに金属が肌をこする。慣れたず思っおいた。慣れたんじゃない。感芚が鈍っただけだった。

    昚倜、姉が残した癜いカヌドの番号に電話をかけた。男の声は穏やかで、䞁寧で、堎違いなくらい萜ち着いおいた。「お埅ちしおおりたした」——その声がただ耳の裏に貌り぀いおいる。こっちからかけたのに、埅っおいたず蚀った。私がかけるこずを、知っおいた。

    スマホの画面を芋る。通話履歎。䞉分四十二秒。堎所ず時間を決めただけの䌚話だった。駅前のファミレス。今日の昌。

    スマホを眮いお、たた倩井の犬を芋た。染みは動かない。窓の倖で鳥が鳎いた。䞉月の朝。昚日も同じ鳥が鳎いた。䞀週間埌も同じ鳥が鳎くのかどうか、私には分からない。

    倩井を芋おいたら、䜕か思い出しかけた。あのお兄ちゃん。倏の蚘憶。ラムネのビヌ玉が転がる音。花火の光の䞭で、誰かがうちわを持っおいた。私の隣に座っお、ラムネの開け方が䞋手だっお笑っお、代わりにやっおくれた。顔たではたどれない。でも䞀緒にいた気がした。姉も䞀緒だった気がした。

    リョりが起きおきた。目の䞋に隈がある。私より寝おいない顔をしおいる。棚からパヌカヌを匕っ匵り出しお、矜織る。「行くのか」。聞く前に着始めおいる。

    「行く」

    「䞀人じゃ行かせない」

    知っおる。そう蚀うず思った。リョりは䜕も聞かず、ポケットにモバむルバッテリヌを二぀突っ蟌んだ。端末の充電を確認しお、画面を䞉回タップする。䜕かのログを保存したんだず思う。

    朝食はカップ麺だった。同じ銘柄。もう四日目。お湯が沞くたでの間、湯気を芋おいた。リョりが麺を抌さえながら読んでいるのは、䜕かの数字が䞊んだ画面だった。芋せおくれない。聞かなかった。

    麺を啜りながら、姉の卵焌きを思い出した。甘くお、少しだけ焊げ目が぀いおいお。毎朝「今日は焊がしちゃった」ず蚀うのに、焊がした日なんかなかった。あの味がもう䞀床来るなら、銖茪ごず食べおもいいずふず思っお、その考えの荒さに自分で驚いた。

    湯気の向こうに、リョりの顔がある。

    なんずなく、もう䞀床思い出しかけた。あのお兄ちゃん。花火の光。

    「  あのお兄ちゃん、っお」

    私の声に、リョりのスプヌンが止たった。

    「やっず思い出したか」

    リョりの顔が、わずかに緩んだ。笑ったずは蚀えない。でも、確かに緩んだ。

    「あの倏祭り、俺も行った」

    そうだ。倏祭り。父が来おいなくお、姉がかき氷を買っおくれお。ラムネを持っおいた誰かが、ビヌ玉の取り出し方が䞋手だっお笑った。

    「リョりだったの、あれ」

    「お前が芚えおないだけだ」

    カップ麺を食べ終えた。お湯が少し冷めた麺だった。でも、悪くなかった。

    マフラヌを巻いた。靎を履いた。ドアスコヌプをのぞく。廊䞋は空。倖に出るたびに、銖の倀札が先に出る。今日もそうだった。

    第二章 

    駅前のファミレスは、平日の昌にしおは人が倚かった。

    サラリヌマン。䞻婊。孊生。党員、銖に茪がない。圓たり前のこずなのに、それを確認しおいる自分がもう普通じゃなかった。䞀週間前たで、自分も同じ偎にいた。たった䞀週間で、こっちが圓たり前じゃなくなった。

    リョりが先に奥のボックス垭を取った。出口に近い偎。背䞭を壁に぀ける。私もその隣。二人ずも入口が芋える向きだった。

    氎を頌んだ。グラスの底に、照明の光が小さく揺れおいた。グラスを䞡手で持った。冷たかった。ただ冷たかった。

    十二時五分。玄束は十二時。

    男が入っおきた。

    最初に目に入ったのは靎だった。黒い革靎。磚かれおいる。底が枛っおいない。匓道で足元を芋る癖がある。道堎では足袋の螏み方䞀぀で射型が分かる。底が枛らないずいうこずは、この男は移動に車を䜿う。歩かない生掻をしおいる。この男の靎は、地面を遞んで歩く人間の靎だった。遞べる人間の靎だった。

    薄いグレヌのゞャケットに癜いシャツ。ネクタむなし。倀段の匂いがするのに、芋せ぀けない着方。目立たない。でも安くない。四十代埌半か五十代の入口。髪は短く、少し癜いものが混じっおいる。顔は穏やかだった。穏やかすぎた。ファミレスの昌に来る顔じゃない。

    銖にはもちろん、䜕もない。

    男は入口で䞀床だけ店内を芋回しお、私たちを芋぀けた。迷わなかった。顔を知っおいる。ゆっくり歩いおくる。革靎なのに、フロヌリングに音をほずんど立おない。

    垭に座る前に、テヌブルの䞊のメニュヌ立おを二センチだけ暪にずらした。芖界を敎えたのか、癖なのか。䜕にしおも、この男がテヌブルの䞊を自分の堎所にした瞬間だった。

    コヌヒヌを頌んだ。ブラック。砂糖もミルクも、断らない。最初から芁らないものずしお扱っおいた。

    玳士の手を芋た。匓道で鍛えた癖。人の手は口より正盎だ。指は现くお長い。爪が綺麗に切り揃えおある。劎働者の手じゃない。でも柔らかいだけの手でもない。カップの持ち方に力の加枛がある。重いものを持ったこずがある手だ。

    「改めたしお。桜さんの効さん、䞃海さんですね」

    「  はい」

    「そちらが、朚村リョりさん。22歳」

    22。芋た目よりずっず若い。私より五぀しか䞊じゃない。

    リョりの目が现くなった。名前も幎霢も知っおいる。䜏所も、関係性も、たぶん党郚。

    「名前は」

    リョりが聞いた。ストレヌトに。嘘の遞び方を芳察するタむプだ。

    男は少し笑った。口の端だけ。目は笑っおいない。

    「いずれ、きちんず。今日のずころは——玳士、ずでもお呌びください」

    玳士。自分でそう名乗る人間を、私は芋たこずがなかった。

    第䞉章 

    コヌヒヌが来た。玳士はカップを手に取っお、䞀口だけ飲んだ。゜ヌサヌに戻す音がほずんどしない。この男は食噚すら鳎らさない。

    「桜さんの話をさせおください」

    姉の名前が出るず、みぞおちのあたりが䞀瞬だけ硬くなった。

    「桜さんず私は、䞉幎ほど仕事をしおいたした」

    「仕事っお  䜕の」

    「AI開発です。䞍法の」

    䞍法。その二文字が、ファミレスの空調の音に混じっお浮いた。

    「衚ではバむトで生掻費を皌いでいた。裏では、私が仲介した䟝頌を受けお、AIの蚭蚈ず実装をしおいた」

    「埅っお」

    手が、テヌブルの瞁を握っおいた。

    「䞃海さんの孊費や生掻費の䞀郚は、そこから出おいたす」

    知らなかった。姉がバむトにしおは皌ぎすぎおいたこずには気づいおいた。深倜の電話。台所の氎の音。ICカヌド。指先の小さな火傷。党郚、芋お芋ぬふりをしおいた。

    「でも、桜さんはただ金のためにAIを䜜っおいたわけじゃない」

    玳士がコヌヒヌカップの瞁を指でなぞった。

    「桜さんは、制床の栞心に觊れる䜕かを調べおいたした。それが䜕だったかは——今日は話したせん。話せる順番がありたす」

    喉の奥が、少し狭くなった。

    「じゃあ、分かるこずだけ」

    「桜さんの目的は最初から䞀぀でした」

    玳士が私を芋た。

    「䞃海さんです」

    テヌブルの䞋で、膝が固たった。

    姉が。

    毎朝甘い卵焌きを焌いお、私の袖口を繕っお、「行っおらっしゃい」ず笑っおいた姉が。

    私䞀人のために、囜家に穎を開けようずしおいた。

    涙が出そうになった。でも、ここで泣いたらこの男に感情を芋せるこずになる。マフラヌの端を握った。垃の繊維が指先に食い蟌む。

    「巻き蟌みたくなかったんでしょう」

    玳士が静かに蚀った。

    「䞃海さんだけは、日垞の䞭にいおほしかった。日垞偎にいる間は、芋えないように動いおいた」

    匁圓。繕い。「行っおらっしゃい」。党郚、姉が私を日垞の偎に繋ぎ止めるためのものだった。

    声が裏返った。

    「  知っおお」

    「はい。少し」

    「でも教えなかった」

    「それが桜さんの条件でした」

    グラスを持った手が、少し癜くなっおいた。

    「姉さんは死んだ」

    声が出た。自分でも驚いた。

    「葬匏もした。棺桶も芋た」

    「はい」

    玳士は吊定しなかった。

    「死亡しおいたす」

    数秒、䜕も蚀わなかった。

    「——ですが」

    玳士がカップを゜ヌサヌに眮いた。音がしなかった。

    「ある意味では、ただ生きおいたす」

    「䜕が」

    「桜さんの蚈画が。今日ここにいる党員が、桜さんの準備した通りに動いおいる」

    今日ここにいる党員。玳士ず、リョりず、私。

    「桜さんからの䟝頌は、ただ完了しおいたせん」

    「だったら」

    声を出す぀もりじゃなかった。

    「もっず早く教えおくれおたら、䜕か倉わりたしたか」

    玳士は少し間を眮いた。コヌヒヌカップを持ち䞊げお、飲たずに戻した。

    「桜さんに聞かれたこずがありたす。同じ質問を」

    「  なんお答えたんですか」

    「分からないず答えたした。正盎に」

    それ以䞊は蚀わなかった。私も聞かなかった。

    藀厎の声が耳の裏に戻っおくる。「桜は  芋たんだよ」「芋ちゃいけないものを——」。

    姉が芋たのは䜕なのか、ただ分からない。でも姉はそれを芋ようずしおいた。私のために。

    第四章 

    玳士が䞊着のポケットから癜いカヌドを取り出した。姉が残したカヌドず同じサむズ。同じ質感。

    「今日お䌚いするために、桜さんはこれを半幎前に甚意しおいたした。い぀か䞃海さんがかけるず」

    「  知っおたんですか。私がかけるこずを」

    「知っおいたした。桜さんが今の状況を想定しおいたかどうかは分かりたせん。しかし、䜕かが起きた埌、䞃海さんがこの番号に電話するこずは——蚈算しおいた」

    氎のグラスに觊れた。冷たい。

    「今日ここにお二人がいるこずも、蚈画のうちです」

    玳士の芖線がリョりに移った。

    「朚村リョりさん。桜さんの埓兄匟ですね」

    テヌブルの䞋で、私の膝が固たった。

    埓兄匟。

    「  埓兄匟」

    リョりを芋た。

    「聞いおなかったのか」

    「聞いおない」

    「聞かれなかった」

    数秒、蚀葉が出なかった。

    倏祭りのラムネ。うちわを持った誰か。倩井の蚘憶が、ここに぀ながった。

    「  あれ」

    気づいたら口が動いおいた。

    「私の埓兄匟でもあるじゃん」

    「だからそうだっお」

    リョりの顔が、ほんの少しだけ緩んだ。玳士がコヌヒヌカップを手に取った。空気が䞀瞬だけ軜くなっお、すぐに戻った。

    知らせないために、座っおいおくれた人が、今もここにいる。

    「桜さんはリョりさんにも、あるものを枡しおいたした」

    リョりがポケットから小さな黒い砎片を取り出した。ICチップ。指先に乗るくらい小さい。

    「解析できなかった」

    「桜ハりスのサヌバ環境があれば、埩号できる可胜性がある」

    玳士の目が、そのチップを䞀瞬だけ远った。穏やかさの䞋で、別の色が動くのが芋えた。倀螏みだ。

    リョりがチップをポケットに戻した。

    第五章 

    「桜さんが準備したものが、もう䞀぀ありたす」

    玳士が䞊着の内ポケットから、折り畳んだ玙を取り出した。癜い玙。四぀折り。テヌブルの䞊に静かに眮いた。

    「開けおください」

    広げた。

    姉の字だった。

    瞊曞き。现いペン。少しだけ右に傟く字。匁圓のメモを曞く時ず同じ字。高校の時、お匁圓の蓋に「今日は唐揚げ倚め」っお曞いおくれた、あの字。受隓前に「䞃海は絶察いける、信じおる」っお折り玙に曞いお挟んでくれた、あの字。

    「キッチンの棚」

    「䞃海の手が届く高さ」

    「卵、切らさないで」

    声が出なかった。

    「䞃海の手が届く高さ」——姉の字で、それが曞いおある。

    姉は分かっおいた。私が銖茪を぀けた埌も、どこかに垰る堎所が必芁なこずを。垰った時に卵がなかったら困るこずを。それだけのこずが、きちんず曞いおある。死ぬ前に、それを曞いた。それを折り畳んで誰かに枡した。

    そのこずが、どこか奥深いずころに刺さった。

    痛くなかった。痛くないのに、䜕か壊れた感じがした。

    涙が萜ちた。玙の䞊に。広がった。姉の字が、少しだけにじんだ。

    リョりが黙っおいた。玳士も黙っおいた。ファミレスの空調が回っおいる。遠いテヌブルで誰かが笑っおいる声がする。こんなにうるさいのに、この䞀点だけが劙に静かだった。

    泣く぀もりじゃなかった。この男の前で泣く぀もりじゃなかった。でも止たらなかった。

    姉は死んだ。葬匏をした。棺桶を芋た。党郚終わったはずだった。

    なのに姉の字がここにある。

    「䞃海の手が届く高さ」。

    それだけのこずで、姉がただどこかにいる気がした。

    しばらく、誰も䜕も蚀わなかった。リョりが氎を飲む音だけがした。遠くでキッチンの機械が動いた。ファミレスはずっず動いおいた。

    涙を拭いた。ティッシュがなかったので、マフラヌの端で抌さえた。姉が巻いおくれたマフラヌだった。冬の始めに、「これ䞃海に䌌合う」っお買っおきおくれた。

    玳士は䜕も蚀わなかった。それが助かった。

    第六章 

    萜ち着いおから、玳士が図面を取り出した。

    A4䞀枚。山の䞭の建物。二階建お。電力ラむンず短い泚蚘が添えおある。手曞きず印刷が混じっおいた。

    「桜ハりスず呌んでいたす」

    リョりが図面に顔を近づけた。指でなぞる。サヌバ宀の区画。出入口の数。ルヌトの線。

    「GPS遮断がかかっおいたす。銖茪の䜍眮情報は、斜蚭内では倖に出たせん。オフラむンのサヌバがありたす。桜さんが積み䞊げたものが、党郚そこにある」

    「党郚っお」

    「桜さんが䜕を芋ようずしおいたか。それを続けるための党郚です。桜さん自身が組んだ環境が、そのたた残っおいたす」

    「  姉さんの私物もある」

    「はい」

    私はもう䞀床、図面を芋た。山の䞭の建物。姉が䜜った堎所。

    「私に、姉の仕事を続けろっおこず」

    「いいえ」

    玳士がはっきり蚀った。

    「䞃海さんに生きおいおほしい。ただそれだけです。桜さんの残したものを誰かが続けるかどうかは——ここに着いおから決めればいい。着けおから遞ぶのず、着く前に決めるのは違いたす」

    リョりが図面から顔を䞊げた。

    「移動ルヌトは」

    「それが問題です」

    第䞃章 

    玳士がトむレに立った。

    その䞉十秒で、リョりが図面を裏返した。ポケットから小さなルヌペ。印刷のドットパタヌン。玙の厚さ。端の裁断面。

    「リョり」

    「黙っおろ。䞉十秒しかない」

    図面を戻す。目を閉じお唇だけ動かしおいる。䜕かを数えおいる。

    玳士が戻った。䜕事もなかったようにコヌヒヌを飲む。

    「朚村さん。䜕か気になるこずは」

    「いく぀か」

    リョりが前傟した。

    「䞀぀。さっきの図面、サヌバ宀の面積から逆算するずラックは最䜎䞉本。オフラむンで䞉本は過剰だ。暗号解析甚に䞊列凊理を組んでいたなら蟻耄は合うが、山䞭でその電力をどう賄う」

    玳士の目が、ほんの少しだけ動いた。

    「二぀。写真の印刷は業務甚レヌザヌ。玙はコクペの䞊質玙。裁断が均䞀。あんたは個人の仲介屋じゃなく、どこかに拠点を持っおる人間だ」

    「䞉぀」

    リョりがテヌブルに指を眮いた。

    「あんたは桜さんのデヌタ自䜓に商品䟡倀を芋おる。善意で動いおるんじゃなく、桜さんの遺産を回収したい。䞃海を守るのは、その過皋のおたけだ」

    玳士はしばらく黙っおいた。コヌヒヌカップの取っ手に指をかけたたた、動かさない。

    「おたけ、ずいう評䟡だけは違いたす」

    「どこが」

    「䞃海さんを守るこずは、桜さんずの玄束です。玄束を守るこずは、私の商売の土台です。信甚がなければ仲介業は成り立たない」

    「善意ず商売を混ぜおるだけじゃないか」

    「混ぜおいるのではなく、最初から分けおいたせん。善意だけで動く人間は、この䞖界では真っ先に死にたす」

    リョりは䜕も蚀わなかった。コヌヒヌがもう湯気を立おおいなかった。

    第八章 

    「桜ハりスたでの移動は半日以䞊かかりたす。その間、銖茪が䜍眮を出し続ける」

    玳士が写真を䞀枚テヌブルに眮いた。

    女性。䞉十代前半。黒髪を短く切っおいる。目぀きが鋭い。疲れた色がある。唇は薄くお、笑っおいない。巊手の薬指だけが癜く色抜けしおいた。䜕かを倖した跡。

    「霧島冎子。䞉十二歳。元政府執行官です」

    政府執行官。十八人しかいない。銃が䜿える。来たら詰む——リョりがそう蚀っおいた。制床の頂点にいる人間。

    「元」

    「今は賞金銖です。玄四千二癟䞇円」

    四千二癟䞇。私の千二癟八十䞇ずは栌が違う。写真の䞭の女の目の重さが、数字ず重なった。

    「なんで執行官が賞金銖に」

    「䌚えば分かりたす」

    「  執行官っお、䜕する人ですか」

    「あなたを狩る偎だった人です」

    短かった。それだけだった。写真の䞭の女の目が、たた重くなった。

    玳士が䌝祚を手に取った。私たちの分もたずめお。

    「路地裏で埌ろから远われたこずを芚えおいたすか。あの距離、あの状況で生き延びたのは運もありたすが——半日の移動は、あの状況が連続したす。護衛が必芁です」

    「冎子さんは元執行官です。移動䞭の護衛ずしお、これ以䞊の人材はいない」

    「  䌚えば分かる、っおどういう意味ですか」

    「信甚できるかどうかは、あなたが刀断するこずです。私が保蚌する立堎にない。ただ——あの人は制床の䞭にいおも守っおもらえなかった偎の人間です。それだけは蚀えたす」

    写真の䞭の女は、ただこっちを芋おいる。疲れた目で、笑っおいない口で、たっすぐこちらを芋おいる。制床の䞭にいおも守っおもらえなかった人間の顔、ず玳士は蚀った。

    喉が、少し枇いた。

    それがどういう顔なのか、今なら少し分かる気がした。

    第九章 

    店を出た。䞉月の颚が冷たかった。

    垰り道に聞いた。

    「仕事は」

    「蟞める」

    終わり。

    「郚屋は」

    「どうにかなる」

    終わり。

    「車は」

    「売れる」

    リョりが前を向いたたた蚀う。私が次を聞くたびに䞀蚀で切っお、それ以䞊を話さない。説明しない。理由も蚀わない。なぜかず聞いおも答えないだろう。そういう空気だった。だから聞かなかった。ただリョりが隣を歩いおいた。それだけだった。

    「  埓兄匟なら、姉ちゃんのこず、ずっず知っおたんでしょ」

    「党郚じゃない」

    「どのくらい」

    「深倜に動いおるこずは分かっおた。詳现は教えおもらえなかった。匕き蟌たないためだっお、埌で分かった」

    「巻き蟌みたくなかったんだ」

    「そういうこずだろ」

    「桜さんなら、やる」

    リョりが少し歩いおから蚀った。声が少しだけ、ほんの少しだけ震えおいた。

    「䞀人分の穎を開けようずするなんお——普通そんな発想しない。でも桜さんなら、やる。あの人はそういう人間だった」

    しばらく歩いおから、声が出た。

    「ごめん」

    「䜕が」

    「仕事も郚屋も、党郚」

    リョりが少し間を眮いた。

    「桜さんのせいだ」

    「  」

    「あの人は昔から勝手だった。俺の話を聞かずに党郚決める。死んでも同じだ」

    声が也いおいた。怒っおいるんじゃない。でも怒っおいないずも蚀えなかった。

    䞉月の颚が埌ろから来た。電柱の圱が長く䌞びおいた。もうすぐ倕方だった。

    第十章 

    信号埅ちで、リョりが私の袖を匕いた。速かった。

    「䞃海。振り向くな」

    「  䜕」

    「ファミレスの向かいの駐車堎。黒いセダン。俺たちが入ったずきからあった。今も動いおない」

    背䞭に、冷たいものが走った。銖茪が皮膚を抌す感觊がした。

    「運転垭の窓が二センチだけ開いおる。䞭に二人。スヌツ。賞金銖じゃない。でも䞀般垂民でもない」

    「じゃあ——」

    「襲う぀もりなら、二時間で動いおる。動かなかったっおこずは——泳がせおる」

    泳がせおいる。殺すんじゃない。芋おいる。私を通しお、䜕かを。

    「桜さんの残したものを远っおる可胜性がある。囜家偎の監芖班だずしたら、䞃海を逌にしおデヌタの圚凊を探しおるのかもしれない」

    「でも、行くしかない。今のたたじゃ䞀週間持たない。桜さんが家を甚意しおくれたなら——䜿わない理由がない」

    「桜さんが芋たものを、お前も芋に行くのか」

    「分からない」

    正盎に答えた。

    「でも、姉が䜜った堎所に行っおみたい。それだけは分かる」

    リョりが少し黙った。

    信号が倉わった。暪断歩道を枡った。

    改札の前で少し止たりそうになった。銖茪で通る。ログが残る。䜍眮が残る。

    でも垰らなきゃいけない。

    ポケットの䞭で、玳士のカヌドの角が指先に觊れた。硬い玙。姉のカヌドず同じ質感。この䞖界では、柔らかいものが䜕もない。

    改札をくぐった。ピッ、ず小さな音が鳎った。

    どこかの画面で、私の倀段がたた少しだけ曎新された。

    ポケットの䞭に、折り畳んだ癜い玙がある。

    姉の字が、ただにじんでいる。

    ——姉ちゃんは、䜕を芋たの。

    そのあず、私たちは䞉回電車を乗り換えた。理由はリョりが決めた。「同じ路線に二駅以䞊いるな」。それだけ蚀っお、たた歩き出した。

    深倜、リョりが路地の奥を指した。ピンクの看板。「ラブホだ」ず私が蚀ったら、「珟金払いで顔が映らない。他に遞択肢があるなら蚀え」ず返っおきた。なかった。

    郚屋は狭かった。ベッドが䞀぀。間接照明がオレンゞで、壁玙がよく分からない暡様だった。リョりはバッグを゜ファに眮いお、靎のたた床に座った。「先に寝ろ」。

    ベッドに暪になった。倩井がオレンゞだった。心臓が少しだけ速かった。

    昔、おもちゃの匓があった。瞁日で姉が圓おた景品で、私にはサむズが倧きすぎた。それでも匵っお、倖れお、たた匵った。䞉回目に的の端をかすっお、リョりが「すごい」ず蚀った。䞀蚀だけ。でも私はその日ずっずそれを持ち歩いた。

    別の日の蚘憶も来た。台所で姉ずリョりが䜕か話しおいた。声は䜎くお内容は聞こえなかった。私が入っおいったら二人が同時にこっちを芋た。「あ、䞃海」ず姉が笑った。リョりは䜕も蚀わなかった。話が終わった空気だった。私はお茶を䞀杯だけ飲んで出た。

    なんでこんなこずを思い出しおいるんだろう。

    倉なこずしちゃダメだ、ず思った。䜕が倉なのかは分からない。でも思った。

    「うるさい」ずリョりが蚀った。

    「䜕も蚀っおない」

    「心臓が」

    毛垃を頭たで匕き䞊げた。顔が熱かった。リョりはもう䜕も蚀わなかった。空調の音だけがあった。

    眠れなかった。目を閉じるず、頭の䞭に昌間の道路が出おきた。黒いセダン。二人のスヌツ。あの車の人間は今どこにいるんだろう。

    明日、死ぬかもしれない。

    だったら、リョりず——

    考えちゃダメだ、ず思った。でも䞀回浮かんだ蚀葉は消えなかった。死ぬかもしれない。明日じゃなくおも、明埌日かもしれない。䞀週間埌かもしれない。銖茪を぀けた日から、どこかの画面で私の倀段は少しず぀䞊がっおいる。ずっずそうだったのに、今倜はじめおそれが本圓のこずに思えた。

    床でリョりが動く気配がした。寝返りか、それずも起きおいるのか分からなかった。聞けなかった。

    早朝、リョりに肩を叩かれた。「出るぞ」。倖はただ暗かった。

    誰も答えない。玳士は角を曲がっお消えた。リョりは暪を向いおいる。銖茪は銖にある。

    だから自分で行く。

    第四話 盟の女

    第䞀章 

    玳士が指定した堎所は、郊倖の喫茶店だった。

    駅からバスで二十分。䜏宅街の倖れにある、叀い䞀軒家を改装した店。看板は色耪せおいお、営業しおいるのか怪しい。窓のカヌテンが黄ばんでいる。䞭からコヌヒヌの匂いがした。

    客は私たち以倖にいなかった。

    リョりず二人で入った。昚倜は䞉時間しか眠れなかった。垃団に入る盎前、玄関のチャむムが二回聞こえた気がしお飛び起きた。確認しおも誰もいない。幻聎だった。䜓はもう䞉時間で動ける。慣れ始めおいる自分が怖かった。

    玳士はすでにいた。昚日ず同じゞャケット。同じ姿勢。テヌブルにコヌヒヌず玅茶が甚意されおいた。四人分。四぀目のカップが、空の垭の前で湯気を立おおいる。

    「おはようございたす」

    玳士が立ち䞊がっお頭を䞋げた。

    「霧島さんは」

    「もうすぐいらっしゃいたす」

    座った。玅茶を飲んだ。枩かかった。カップの瞁が薄い。安い店なのに、食噚は良い。玳士が持ち蟌んだのかもしれない。

    リョりは玅茶に手を぀けず、店内を芋回しおいる。出口の䜍眮。窓の数。カりンタヌの死角。五日前たでは、カフェに入るずきに出口を数える人間じゃなかった。

    十分埅った。

    ドアが開いた。

    女が入っおきた。

    店内の空気が倉わった。物理的に。さっきたでコヌヒヌの匂いで穏やかだった空間が、この女が入っおきた瞬間に匵り詰めた。リョりも感じたらしい。隣で息を止めおいる。

    短い黒髪。目぀きが鋭い。鋭いのに、疲れた色がある。写真より痩せおいた。顎の線が现くお、肩幅が広くお、手が倧きかった。

    歩き方に無駄がない。䞀歩䞀歩が同じ幅。カりンタヌず壁の距離、テヌブルの配眮、私たちの䜍眮。入っおきた瞬間に党郚芋たんだず思う。

    匓道で鍛えた目がある。人の動きは芋れば分かる。この女の歩き方は、道堎で射堎に入る時の空気ず同じだった。入った瞬間から、党郚が本番。

    黒いゞャケット。黒いパンツ。黒いブヌツ。唯䞀の色は、銖元の銀。

    ——銖茪。

    冎子の銖茪は、私のず同じ圢だった。同じ銀色の金属。でも芋え方が党然違う。私は必死に隠しおいるのに、この人はゞャケットの襟を開けお、銖茪が䞞芋えだった。気にもしおいない。銖茪が䜓の䞀郚になっおいる。

    同じ銖茪なのに、私ずこの人は別の生き物だ。

    冎子が玳士の前に座った。玅茶には手を぀けなかった。

    「この子」

    冎子が私を芋た。䞀瞬。倀螏みじゃない。もっず速い。私の䜓栌、姿勢、手の䜍眮、目の動き。党郚を䞀瞬で読み取った。匓道の垫範が埌茩の射型を芋る時ず同じだ。芋ただけで、䜕ができお䜕ができないか分かる目。

    「氎無月䞃海さん。十䞃歳。賞金額千二癟八十䞇」

    玳士が玹介した。

    「桜さんの効さんです」

    ——桜、ずいう名前を聞いた瞬間、冎子の目が倉わった。ほんの䞀瞬。顔の筋肉が動いた。痛みに䌌た反応。すぐに元に戻った。でも私は芋た。

    「  よろしく」

    声が䜎い。挚拶ずいうより、事務連絡だった。

    「よ、よろしくお願いしたす」

    私の声は裏返った。

    第二章 

    玳士が垭を倖した。「少しお話しください」ず蚀っお、カりンタヌの奥に消えた。

    テヌブルに䞉人。私ずリョりず冎子。

    沈黙。店内にゞャズが流れおいる。叀い曲。

    冎子はコヌヒヌを飲んでいる。ブラック。砂糖もミルクも入れない。カップを持぀手に傷がある。拳の皮が硬い。殎り慣れた手だ。爪はきれいに切り揃えおあった。

    「単刀盎入に聞きたす。なんで俺たちを守るんですか」

    リョりが聞いた。

    「玳士に頌たれた」

    「それだけですか」

    「それだけ」

    嘘だ。冎子の目を芋た。冷たい。硬い。その奥に、もっず叀いものがある。錆びた刃物みたいな、鈍い痛み。

    「冎子さん、元政府執行官だっお聞きたした」

    私が蚀った。リョりが暪目でこっちを芋た。「いきなりそこ行くのか」ずいう顔。いく。

    「ああ」

    「なんで蟞めたんですか」

    「蟞めたんじゃない。远い出された」

    冎子がコヌヒヌカップの瞁を芪指でなぞった。拳ダコのある芪指。

    「  間違った人間を、殺した」

    空気が倉わった。ゞャズのピアノだけが鳎っおいる。

    「䞊の呜什で。情報が停装されおいた。察象は賞金銖だず蚀われた。実際は䞀般垂民だった」

    䞀般垂民を——。姉ず同じだ。姉も䞀般垂民だった。䞀般垂民なのに殺された。

    「執行した盎埌に気づいた。その人の手に、安いビニヌル袋が䞋がっおいた。䞭身は子䟛向けのプラスチックの剣ず、小さなぬいぐるみ」

    冎子の声が䜎くなった。

    「賞金銖はそんなものを買わない。垰りを埅っおる子䟛がいる人間の持ち物だった」

    「  」

    「埌で調べた。子䟛が二人。䞊が䞃歳で、䞋が䞉歳」

    冎子がカップを持぀手が止たった。

    「あれから䜕幎経っおも、手を掗う時にあのビニヌル袋の感觊を思い出す。氎で流しおも萜ちない」

    「告発しようずした」冎子がカップを眮いた。「次の朝には、私の机がなかった。蚌拠も、私の名前も、党郚消えおた」

    冎子の声は平坊だった。もう䜕癟回も反芻した事実を述べおいる。カップの瞁をなぞる芪指だけが、速くなっおいた。

    「あんたは、なんで賞金銖になった」

    冎子が聞いた。

    「姉の仇を远っお。爆発に巻き蟌たれお」

    「殺したのか」

    「殺しおいない。話を聞きたかっただけ。でも——人が死んだ」

    隣の郚屋の女性のこずを思い出した。買い物袋。豆腐。長ネギ。あの人の目が閉じる瞬間がただ指に残っおいる。

    冎子がカップを眮く手を止めた。桜の名前ず同じ反応。この人の䞭に、䜕かで動く堎所がある。

    「巻き添えか」

    「はい。爆発で。藀厎の郚屋に仕掛けおあった」

    「爆匟の起爆は」

    「  分かりたせん。でも、藀厎が喋り始めたタむミングだった」

    冎子の背筋が䌞びた。さっきたでの疲れた色が消えお、硬いものが入った。元執行官の目。

    「口封じか」

    「たぶん」

    冎子はしばらく黙った。コヌヒヌカップの取っ手を指で匟いた。考えおいる。

    「  お前は、自分から行ったのか」

    「はい」

    「危ないず分かっおお」

    「はい」

    冎子の目が倉わった。さっきたでの疲れた色でもなく、元執行官の硬さでもない。䜕かを確かめるような目。

    「銬鹿だね」

    「  は」

    「十䞃歳で銖茪぀けお。先のこず䜕も考えおなかっただろ」

    蚀い返せなかった。事実だから。

    「でも」

    冎子がコヌヒヌを飲み干した。

    「芚悟がある銬鹿を芋捚おられない性分でね」

    口の端がほんの少し䞊がった。笑顔じゃない。確かに笑みだった。

    玳士が戻っおきた。移動の段取りを説明し始めた。冎子は聞きながらコヌヒヌを二杯目頌んだ。

    私は玅茶のカップを取ろうずしお、指が滑った。カップが傟いお、゜ヌサヌに玅茶がこがれた。

    ——手が震えおいた。冎子の過去を聞いた埌だった。おもちゃ袋。子䟛二人。氎で流しおも萜ちない感觊。

    冎子が䜕も蚀わずに、自分のナプキンで゜ヌサヌを拭いた。こっちを芋なかった。手だけが動いた。拭き終わっお、濡れたナプキンを自分の膝に眮いた。

    ——その動䜜に、呜什も刀断もなかった。ただ、隣の人間が困っおいたから手が動いた。それだけだった。

    第䞉章 

    玳士の車。黒いセダン。叀いけど手入れされおいる。

    玳士が運転垭。冎子が助手垭。私ずリョりが埌郚座垭。

    高速に乗った。郜垂郚を離れおいく。ビルが枛り、田んがず山が増えおいく。空が広くなった。

    車内は静かだった。四人が䞀台に乗っおいる。沈黙の質がバラバラだ。玳士は䞊品な運転。急加速も急ブレヌキもしない。冎子は助手垭で目を閉じおいる。姿勢が厩れおいない。い぀でも動ける䜓勢のたた。猫が寝おいるように芋えお、実は党郚聞いおいるのず同じだ。

    リョりは埌郚座垭でスマホをいじっおいる。GPS情報ず賌入ログのモニタリング。もう習慣になった。

    冎子に聞きたいこずがあった。おもちゃ袋のこず。子䟛たち。あの埌どうなったのか。でも口を開きかけお、やめた。出䌚っお䞀時間も経っおいない。過去をもっず聞く暩利は、ただ私にない。

    窓の倖を芋た。山が近づいおくる。田んがの氎面に空が映っおいる。

    姉ず䞀緒にドラむブしたこずがある。小孊生の時。母がただ生きおいた頃。四人で。あの時の車内は笑い声が響いおいた。今の車内には沈黙しかない。悪い沈黙じゃない。少なくずも、敵のいない沈黙だ。

    リョりのスマホが震えた。

    リョりが画面を芋た。顔色が倉わった。青から、癜に。

    「  アパヌトだ」

    「䜕」

    「監芖カメラのログ解析。うちの駐車堎、䞉時間前に誰かが入っおる」

    リョりの指がスマホの䞊で止たった。

    「車、動かされおる。——いや、窓が割れおる。タむダも」

    リョりの車。

    「アパヌトは」

    「ドア、こじ開けられた痕がある。䞭は分からない。——もう無理だ。あそこには垰れない」

    リョりの声は平坊だった。怖い時の声。感情を消す声。

    䞃海のGPS移動ログから、アパヌトの䜍眮が割れたんだ。あの銖茪で䜕日も出入りしおいたから、生掻圏がそのたた敵に枡った。

    ——たた銖茪だ。私の銖茪が、リョりの家を壊した。

    倩井の染みが䞉぀あるアパヌト。巊のや぀は暪を向いた犬に芋えた。欠けたマグカップ。桜さんのデヌタを探し続けたモニタヌ䞉台。垃団だけ畳んであった郚屋。

    党郚、もうない。

    「リョり  ごめん」

    「お前のせいじゃない。銖茪のせいだ」

    リョりはそう蚀ったけど、画面を芋る目が赀かった。

    䞀時間ほど走った。山間の道に入った。察向車がほずんどいない。

    玳士がバックミラヌを芋た。二回、䞉回ず。

    「  想定より、早いですね」

    声のトヌンが倉わった。穏やかさが消えおいる。驚いた声ではなかった。想定の倖ではなく、想定より前に来た、ずいう声だった。

    「埌ろに二台。さっきのむンタヌチェンゞから、ずっず぀いおきおいたす」

    振り返った。バックミラヌに車が二台。癟メヌトルくらい。぀かず離れず。

    リョりがスマホを確認した。顔色が倉わった。

    「䞃海のGPS。この道を走っおるこず、リアルタむムでバレおる」

    ——この銖茪が敵を呌んだ。私のGPSが、党員を危険に晒しおいる。

    リョりの顔が青い。私の心臓が早い。銖茪が脈拍を枬っおいる。「察象、心拍䞊昇」——そんな衚瀺がどこかの画面に映っおいるのかもしれない。

    冎子でもリョりでもない。私の銖茪が、この車に远跡を貌り付けた。高速に乗った瞬間から、山道に入るたで、ずっず䜍眮を叫び続けおいた。

    冎子が目を開けた。寝おいなかった。やっぱり。

    「止めろ」

    「え」

    「車を止めろ。ここで迎え撃぀」

    第四章 

    車が止たった。山間の盎線道路。巊は厖。右は山の斜面。

    埌ろの二台が近づいおくる。五十メヌトル。゚ンゞン音が倧きくなる。

    ——この銖茪が敵を呌んだ。冎子でもリョりでもない。私の銖茪が。

    冎子がゞャケットの内偎から黒い棒を取り出した。二十センチ。カチッ。五十センチに䌞びた。折りたたみ匏の譊棒。先端が少し倪い。

    右手で䞀回転させた。手銖だけで。銎染たせるように。あの動きだけで、この棒を䜕千回振っおきた人間か䌝わった。匓道で匓を匕く前に匊の匵りを確かめるのず同じだ。

    冎子が車を降りた。ドアを閉める音すら最小限。

    「あんたたちは車にいろ」

    「でも——」

    「車から出るな。特にあんた」

    冎子が私を芋た。

    「䜿うな。今回は私がやる。芋おろ」

    芋おろ。「お前には無理だ」ず同じ意味だ。

    冎子が道路の真ん䞭に立った。譊棒を右手にぶら䞋げお。颚が髪を揺らしおいる。

    䞀台目が急ブレヌキで止たった。砂利が飛ぶ。二台目も。

    男が四人降りた。党員銖茪。ナむフが二人。バットが䞀人。玠手が䞀人。党員、冎子より背が高い。

    「おい、邪魔だ。どけ」

    「甚があるのはあの車の女子高生だろ。S刀定の——」

    冎子が歩いた。ただ歩いた。真っ盎ぐ、䞀定の速床で。

    先頭の男がナむフを構えた。腰を萜ずす。

    冎子の譊棒が閃いた。

    ——芋えなかった。

    腕が動いたのは分かる。でも軌道が远えない。次の瞬間には男の手銖に譊棒が圓たっおいお、ナむフが空ぞ跳ねた。

    巊足が男の膝裏を蹎った。厩れる。譊棒が銖筋に添えられた。「ここを打おば終わる」ずいう意思衚瀺。

    二秒。䞀人目が終わった。

    バットの男が螏み蟌んだ。倧振り。冎子は半歩だけ暪にずれた。バットが空を切る。譊棒が男の肘の内偎に入った。鈍い音。バットが萜ちた。

    玠手の男が埌ろから組み぀こうずした。冎子は振り返らずに肘を埌ろに突き出した。みぞおちに盎撃。

    最埌のナむフ持ちが逃げようずした。——いや、逃げるふりだった。振り返っお、刃を暪に薙いだ。

    冎子が半身で避けた。避けきれなかった。ゞャケットの巊腕が裂けた。垃の䞋に赀い線が䞀本走った。

    ——血。

    冎子の足が止たらなかった。切られた腕で譊棒を投げた。男の足銖に圓たった。転んだ。冎子が歩いおいっお、譊棒を拟っお、男の背䞭に膝を乗せた。

    十五秒。四人党員が地面に転がっおいた。䞀人も立っおいない。䞀人も死んでいない。

    冎子の巊腕から、血が袖口に滲んでいた。深くはない。無傷じゃなかった。

    車の䞭で、私は口を開けたたた芋おいた。

    匓道で人の動きを芋る癖がある。射型を芋れば実力が分かる。冎子の動きは、匓道で蚀えば——段䜍がない。段䜍の倖にいる。型がないのに党郚圓たる。殺さない堎所だけ正確に打぀。そんな歊術は教科曞にない。

    冎子が男たちの銖茪を確認した。

    「党員癟䞇以䞋。殺す䟡倀もない」

    冎子が車に戻った。譊棒を折りたたんで、ゞャケットにしたった。

    ——巊手で右手銖をさりげなく抌さえた。䞀瞬だけ。すぐに離したが、指の関節がわずかに震えおいた。譊棒を振った反動が、腱の奥たで響いおいる。十五秒の無双は、芋た目ほど軜くなかった。アドレナリンが切れお、痛みがじわじわず這い䞊がっおきおいる。

    冎子は呌吞を䞀回だけ深く敎えた。普通の呌吞に芋せかけお。䞉十二歳。筋力より先に粘りが萜ちる幎霢だず、どこかで読んだ。力たかせに振るず、あずで自分が痛む。この人は、それを知った䞊で振っおいる。

    「出せ」

    玳士が車を発進させた。

    第五章 

    車内が静かだった。

    ポケットの䞭で癜煙スプレヌを握りしめおいた。「䜿うな」ず蚀われお、䜿わなかった。䜿う必芁がなかった。冎子䞀人で終わった。

    私は䜕もしおいない。座っおいただけだ。

    藀厎の郚屋では自分で動いた。麻痺矢を䜜っお、自分で撃っお、自分で聞いた。䞍噚甚だったけど、自分でやった。

    今日は——守られただけ。

    守られるこずが、こんなに悔しいずは思わなかった。「ありがずう」ず「悔しい」が同時に来る。どっちが本圓か分からない。

    冎子は私を「芋おろ」ず蚀った。正しい刀断だった。私が出おいっおも邪魔になるだけだ。分かっおいる。分かっおいるから䜙蚈に悔しい。スプレヌ猶を握りしめすぎお、手のひらに赀い暡様が残っおいた。

    冎子の暪顔をバックミラヌ越しに芋た。衚情は倉わっおいない。でも、さっき手銖を抌さえた。巊腕の傷は、ゞャケットの袖で隠れおいる。血が滲んでいるはずなのに、䜕も蚀わない。

    匷い。圧倒的に。でも痛くないわけじゃない。無傷でもなかった。四人を十五秒で制圧する代償が、あの手銖の震えず巊腕の赀い線に出おいる。

    リョりがグロヌブボックスから救急セットを出した。玳士が積んでいたらしい。

    「冎子さん、腕」

    「いい」

    「良くない。化膿する」

    冎子はしばらく無芖しおいたが、リョりが差し出したガヌれを受け取った。自分で巻いた。片手で。慣れおいる。䜕床もやっおきた動䜜だ。

    ガヌれを巻き終えた冎子が、ゞャケットの袖を䞋ろした。䜕事もなかったように前を向いた。

    ——喫茶店で、私の玅茶を拭いた手ず同じ手だ。人を殎る手ず、玅茶を拭く手が同じ堎所にある。

    「冎子さん」

    「䜕」

    「  ありがずうございたす」

    「瀌はいらない」

    「でも」

    「いらないっお蚀っおる」

    冎子は前を向いたたた蚀った。

    リョりが隣で小声で蚀った。

    「あの人、味方なら心匷い」

    「  うん」

    味方。本圓にそうなんだろうか。冎子は玳士に頌たれたから来ただけだ。仕事ずしお、ここにいる。

    でも——さっき、冎子が「芚悟がある銬鹿を芋捚おられない」ず蚀った。あれは仕事の蚀葉じゃなかった。

    守られるだけは嫌だ。癜煙スプレヌ䞀本で䜕ができる。次は、私も。

    猶の角が、手のひらに食い蟌んでいた。

    第六章 

    車が山道をさらに進んだ。䞀般の車ずすれ違わない。现い砂利道に入った。

    車が止たった。゚ンゞンが切れた。

    虫の音ず颚の音しかしない。郜䌚の音が党郚消えおいる。土ず葉ず湿った朚の匂いが、肺の奥たで入り蟌んできた。排気ガスの混じらない空気を吞うのは、䜕日ぶりだろう。

    窓の倖に、叀い䞀軒家の屋根が芋えた。朚造。瓊屋根。壁は少しくすんでいる。庭朚が䌞び攟題。

    玄関前の砂利だけが劙にきれいに寄せおあった。萜ち葉の寄せ方が䞍自然に均䞀で、颚の仕業じゃない。誰かが掃いおいた跡。玳士だろうか。半幎間、姉の代わりにここを芋おきたのか。

    壊れおはいない。屋根瓊も萜ちおいない。窓ガラスは割れおいない。誰かが、壊れない皋床には芋おいた家。たるで、誰かが来るのを埅っおいたみたいだった。

    玳士が降りた。冎子が降りた。リョりが降りた。

    リョりは家を芋お、足が止たった。目が赀くなりかけおいる。ここが桜さんの家だ、ずいう事実が、リョりの䞭で䜕かを動かしたんだず思う。

    冎子は家を芋お䜕も蚀わなかった。でも目が動いた。屋根、窓、裏手、死角。防衛拠点ずしお査定しおいる。元執行官の癖だ。

    ——冎子が足を止めた。裏山のほうを芋た。

    鳥が鳎いおいなかった。

    「  」

    䜕も蚀わなかった。芖線を戻しお、たた歩き出した。

    玳士は家の前で少し黙った。垜子を取っお、軜く頭を䞋げた。誰に察しお。家に それずも——もうここにいない桜に

    私は少し遅れた。

    ドアに手をかけお、止たった。

    リョりのアパヌトはもうない。車も壊された。孊校にも垰れない。父の家にも垰れない。戻る堎所が、物理的に党郚消えた。

    ——だから、ここしかない。

    車を降りた。砂利を螏んだ。音が倉わった瞬間、郜䌚の蚘憶が党郚遠のいた。姉も同じ砂利を螏んだ。同じ音を聞いた。同じ匂いを吞った。

    ポケットの䞭で、姉のメモの玙片の角が指先に觊れた。「卵、切らさないで」——あの字が、ここに繋がっおいる。

    冎子が隣を歩いおいた。

    「冎子さん」

    「䜕」

    「本圓の理由。私を守る、本圓の理由」

    冎子が立ち止たった。私も止たった。リョりず玳士が先に行く。二人だけになった。

    「あんた、自分の意志で人に矢を向けた。間違っおるかもしれないけど、自分で遞んだ」

    「  はい」

    「私は違った。䞊の呜什で、間違った人間を殺した。自分で遞んだんじゃない。蚀われるたたにやった」

    冎子の声が、揺れた。

    「あの人にも家族がいた。子䟛が二人。おもちゃを買っお垰る途䞭だった」

    「  」

    「あれから䜕幎経っおも、同じ倢を芋る。ビニヌル袋が萜ちる倢。プラスチックの剣が砂利の䞊で跳ねる音。あれが倜䞭の䞉時に聞こえる」

    冎子の声が揺れおいた。この人の䞍眠は、私よりずっず長い。䜕幎も。

    「だから、次は自分で遞ぶ。次に守る盞手は、自分で決める」

    冎子が私の目を芋た。

    「あんたを守る。理由は——自分で遞びたいからだ」

    冎子が目を逞らした。倕日のほうを芋おいた。

    「あんたは——自分で遞んだ」

    「殺すな。それだけ守れ」

    泣きそうになった。こらえた。ここで泣いたら、冎子に倱瀌だず思ったから。

    「  ありがずうございたす」

    「だから瀌はいらないっお」

    「でも蚀いたす」

    冎子が錻を鳎らした。口の端が䞊がっおいた。

    四人で歩いた。砂利を螏んで。

    賞金銖が二人。䞀般垂民が䞀人。仲介人が䞀人。

    姉が遺した家に向かっお。

    ただ家族じゃない。仲間ですらない。たたたた同じ方向に歩いおいるだけだ。

    玄関のドアが、倕日を受けお光っおいた。

    オレンゞ色の光だった。

    玄関の鍵穎の暪に、小さなキヌホルダヌが䞋がっおいた。プラスチックの桜の花。色が少し耪せおいる。䜕幎も、ここにあったもの。

    足が止たった。

    第五話 桜ハりス

    第䞀章 

    玄関のドアの前に立った。

    朚補のドア。塗装が少し剥げおいる。取っ手は金属。叀い。でもしっかりしおいる。雚颚に晒されおきた幎季がある。

    立ったたた動けなかった。

    このドアの向こうに、姉が䜜った䞖界がある。姉がいない䞖界に、姉が䜜った堎所がある。開けたら䜕がある。姉の痕跡 それずも、ただの空っぜの箱

    どっちでも怖かった。

    鍵穎がない。

    「鍵は」

    玳士が埮笑んだ。

    「ドアの右偎に、小さなパネルがあるはずです」

    蚀われお芋た。ドア枠の右偎、腰の高さに、十センチ四方の薄いパネルが埋め蟌たれおいた。朚目に溶け蟌んでいお、蚀われなければ気づかない。姉らしい。目立たないけど、ちゃんずある。

    「指を眮いおみおください」

    右手の人差し指を、パネルに──觊れかけお、匕っ蟌めた。

    怖い。このパネルが反応しなかったら。姉が私の指王を登録しおいなかったら。この家が、私のための堎所じゃなかったら。

    もう䞀床、手を䌞ばした。

    パネルに觊れた。

    パネルが薄く光った。青い光。指王を読み取っおいる。

    䞉秒。長い䞉秒だった。リョりが暪で息を止めおいるのが分かった。

    カチッ。

    ドアのロックが倖れた。

    「  私の指王で」

    「桜さんが登録しおおいたんです。あなたしか開けられないように」

    ──姉が。

    この家を䜜っお、私の指王を登録しおいた。半幎前に。姉が死ぬ前に。

    ──なんで私の指王を知っおいたんだろう。

    思い出した。孊校垰り、姉が「これ新しいセンサヌ、詊しお」っお笑っお端末を差し出した日があった。私はふざけお䞉回くらい抌した。姉は「ありがず」ずだけ蚀っお、端末をポケットに戻した。あの時か。

    ドアを抌した。重い。半幎間閉たっおいたドア。でも開く。

    䞭は暗かった。カヌテンが党郚閉たっおいる。埃の匂い。少しかび臭い。でも厩壊した匂いじゃない。密閉されおいた空間が、久しぶりに倖気に觊れた匂い。

    䞀歩、螏み入れた。

    爪先が先に入った。靎の底で床の感觊を確かめるみたいに。姉の家なのに、䞍法䟵入みたいな気分だった。

    床がきしんだ。朚の床。叀いけど堅い。姉もこの音を聞いたのか。

    埌ろからリョりが入った。息を止めおいる。冎子が入った。無蚀。冎子は入った瞬間に倩井ず壁ず窓を芋た。敵がいないか確認する癖が出おいる。

    玳士は玄関の倖で埅っおいた。

    「私はここで。䞭はお䞉人でどうぞ」

    玳士は家の䞭には入らなかった。敷居をたたがなかった。この家が誰のものか、よく分かっおいる。ここから先は遺族の領分だ。

    第二章 

    玄関を入るず、短い廊䞋。巊にリビング。右にキッチン。正面に階段。

    ここたでは普通の䞀軒家だ。

    リョりが壁を觊った。

    「  おかしい」

    「䜕が」

    「壁が厚い。普通の䜏宅の倍はある。防音か、もしくは──」

    リョりが壁を叩いた。鈍い音。

    「電磁シヌルドだ。倖郚からの電波を遮断しおる」

    銖茪に觊れた。ただある。冷たい金属。でも──あの垞時監芖の圧迫感が、薄くなっおいる。

    急に䜓が軜くなった。ずっず背負っおいた荷物を䞋ろしたみたいな。銖茪はただある。でも、远跡されおいない。壁の䞭だけは。

    この壁䞀枚の倖では、私の銖に千二癟八十䞇の倀札が光っおいる。S刀定。初狩り掚奚。改札も、コンビニも、歩道も、党郚が殺し堎だ。壁の䞭ず倖で、空気の重さが違った。

    息を䞀぀、深く吞った。吐いた。肩が䞋りた。どれだけ远い詰められおいたか、楜になった瞬間に分かった。

    䞀階をざっず芋た。リビングは広い。十二畳くらい。叀い゜ファずテヌブル。゜ファのクッションが少し凹んでいる。姉がい぀も座っおいた堎所だろう。座ろうずしお、やめた。ただ座れなかった。

    テヌブルの䞊に、茪ゎムが二぀ず赀ペンが䞀本。些现な痕跡。でも、誰かがここで暮らしおいた蚌拠だ。

    冎子はリビングに入った瞬間、窓に向かった。カヌテンの隙間から倖を確認しおいる。リョりは机の衚面を指でなぞった。コヌドの跡。ノヌトパ゜コンを眮いおいた擊り傷。姉はここでも䜜業しおいたのか。

    キッチンを芗いた。コンパクトだけど蚭備は敎っおいる。電気ケトル。冷蔵庫。電子レンゞ。党郚電気。ガスは止たっおいる。

    冷蔵庫を開けた。空。䜕もない。腐ったものもない。姉は最埌にここを出る前に、䞭身を党郚凊分しおいったのだ。

    冷蔵庫の暪に、小さなホワむトボヌドがあった。姉の字で「䞃海ぞ䞋の匕き出しにティヌバッグ」ず曞いおある。

    匕き出しを開けた。ティヌバッグが十四個。ダヌゞリン。姉の奜きな銘柄。ただ密封されおいる。その䞋に、小さなメモ。姉の字。「䞀日䞀杯。倧事に飲んで」。

    メモを持぀指に力が入った。口の端が震えた。声は出さなかった。

    颚呂堎。小さいけど枅朔。济槜は䞀人甚。蛇口の䞋に枩床調節のダむダルがある。ダむダルは四十䞀床のずころで止たっおいた。姉が最埌に合わせた数字。掗面所にタオルが畳んで眮いおあった。角が揃っおいる。几垳面な畳み方。タオルは二枚。䞀枚は䜿い蟌んで毛矜立ち、もう䞀枚は新品のたた袋に入っおいた。私の分だ、ず思った。姉はい぀か私がここで颚呂に入る日を、ちゃんず数えおいた。

    階段を䞊がった。

    二階。巊の郚屋のドアを開けた。

    ──別䞖界だった。

    サヌバラック。䞉぀。倩井たである黒い箱が䞊んでいる。グリヌンのLEDが点滅しおいる。皌働䞭だ。半幎間、誰もいないこの家で、サヌバだけが動き続けおいた。

    リョりが息を呑んだ。

    「嘘だろ  」

    リョりがサヌバに近づいた。端末を繋いだ。画面にデヌタが流れ始める。

    「オフラむンサヌバ。ネットに繋がっおいない。完党に独立した環境だ」

    「぀たり」

    「政府ですら、この䞭のデヌタにアクセスできない」

    リョりの目が茝いおいる。技術者の目。

    「停装回線もある。この家から倖に連絡しおも、堎所がバレない蚭蚈だ」
    リョりが別のりィンドりを開いた。地図が衚瀺された。家を䞭心に、森の䞭に赀い点が散っおいる。
    「カメラだ。森䞭に有線で繋いである。八十八箇所」
    「八十八」
    「無線じゃない。党郚ケヌブルで地䞭を這わせおる。電波を出さないから、倖から探知されない。誰かが近づけば、画面に出る」
    森が、ただの森じゃなくなった。朚の䞀本䞀本の裏に、姉の目があった。
    リョりがさらにスクロヌルした。家の図面が出た。䞀階、二階、それから──地䞋。
    「地䞋があるのか」
    リョりがその郚屋をタップした。鍵のマヌクが出た。赀い。
    「ロックされおる。開けられない。桜さんしか開けられない蚭蚈だ」
    開かずの間。姉が䞀人で抱えおいた䜕かが、ただあの䞋にある。今は開かない。

    肩の力が抜けた。銖茪を぀けおからずっず匵り詰めおいた䜕かが、この壁の䞭で初めお緩んだ。

    リョりがただサヌバに匵り付いおいる。

    「䞃海、すごいぞこれ  」

    「䜕が」

    「桜さん、䞀人でこれを党郚組んだのか。配線も、冷华も、電源も。倧孊のラボより蚭備がいい。いや、政府の研究機関に匹敵する」

    リョりは興奮しおいた。キヌボヌドを叩く指が震えおいる。悲しみずは違う震え。

    「しかもこのサヌバ、半幎間無人で皌働し続けおる。電力管理が党郚自動化されおる。党郚、AIが──」

    リョりが蚀葉を止めた。画面を芋぀めたたた、怅子の背もたれに䜓を預けた。

    「  このAIが、党郚やっおるのか」

    半幎間、誰もいないこの家で、このAIだけが動き続けおいた。電力を管理し、サヌバを冷华し、家を維持し続けおいた。姉が死んでからずっず。䞃海が来るのを、埅ちながら。

    サヌバ宀の隣にもう䞀぀郚屋がある。冎子が開けた。

    退避宀。窓がない。壁がさらに厚い。䞭に氎ず保存食が備蓄されおいる。棚に䞊んだ猶詰の賞味期限を芋た。党郚、姉が死んだ埌も二幎は持぀日付だった。

    「防衛区画ずしおは悪くない」

    冎子が初めお家を評䟡した。

    冎子が䞀階に降りお芋回りをしお、戻っおきた。

    「䞀階の確認終わった。窓は六箇所。裏口が䞀぀。玄関ず合わせお出入口は二぀」

    冎子がゞャケットのポケットからメモ垳を出しお、さらさらず間取りを描いおいる。壁の厚さ、窓の䜍眮、死角、退路。元政府執行官の目で、この家の防衛力を枬っおいる。

    「二階に篭れば持ちこたえられるが、䞀階を突砎されたら二階に逃げるしかない。理想は䞀階で食い止めるこず」

    「䞀人で」

    「䞀人なら厳しい。二人なら䜕ずかなる」

    「ただし完璧じゃない。裏手に死角がある。䞀階の窓に防匟凊理がされおいない」

    「盎せたすか」

    「材料があれば」

    冎子が私を芋た。

    「あんたに前線は無理だ。でも、化孊工䜜で䞀階の窓や出入口にトラップを仕掛けられるなら、話は倉わる」

    スプレヌ猶䞀本で䜕もできなかった悔しさが、少しだけ薄くなった。姉の棚にあった詊薬の瓶が目に入った。塩化アンモニりム、消石灰、シアノアクリレヌト。手が䌞びかけお、止たった。今じゃない。でも䜿える日が来る。

    第䞉章 

    䞀階に戻った。

    リビングの奥に、もう䞀぀郚屋があった。ドアが閉たっおいる。取っ手に、小さなリボンが結ばれおいた。ピンク色の、くたびれたリボン。

    ──姉のだ。

    姉が子䟛の頃から䜿っおいた髪留めのリボン。母からもらったもの。

    ドアを開けた。

    六畳くらいの郚屋。

    ベッド。小さなデスク。本棚。窓にはレヌスのカヌテン。

    姉の郚屋だった。

    匂いがした。かすかに。掗剀ず、少しだけ甘い銙り。半幎経っおも、密閉されおいた郚屋には残っおいた。

    ベッドのシヌツは癜い。きれいに敷かれおいる。枕が䞀぀。

    デスクの䞊に、癜い無地のマグカップ。䞭に玅茶の枋が茪になっお残っおいた。隣に玅茶の猶。ダヌゞリン。

    本棚に、読みかけの文庫本が䌏せおあった。ペヌゞの角を折る掟。折った角がただ立っおいる。

    デスクの匕き出しが半分開いおいた。䞭を芋た。メモ垳。ペン。小さな写真──䞭孊の入孊匏の私。姉が撮っおくれた写真だ。

    姉は、この郚屋で私の写真を芋おいたんだ。

    そしお──曞きかけのメモがあった。姉の字。几垳面な、でも急いだ跡のある字。

    「䞃海の18歳 ケヌキ──モンブラン ショヌト 駅前のパティスリヌ 予玄は二週間前たでに」

    その暪に、小さく倀段が曞いおあった。「モンブラン 2,400 ショヌト 1,800」。そしお括匧で「䞃海は栗奜き。モンブランにする」。

    姉は、私の誕生日の蚈画を曞いおいた。ここで。この机で。サヌバ宀で䜕かを解析しおいる合間に、効の誕生日ケヌキを遞んでいた。倀段を比べお、私の奜みを思い出しお、予玄日を決めおいた。

    来なかった日のために。

    ──ここに、姉がいた。

    この郚屋で寝お、このデスクで玅茶を飲んで、この本を読んで。私の写真を匕き出しに入れお。

    どれだけ孀独だっただろう。

    マグカップに觊れた。冷たい。半幎間、誰にも觊れられなかったマグカップ。玅茶の枋が也いお、茪になっお、そのたた時間が止たっおいる。

    膝を぀いた。ベッドの端に額を぀けお、泣いた。声を䞊げお。姉のベッドは固かった。柔らかいベッドが嫌いだった人だ。「背筋に悪い」ず蚀っお。そんなこずたで思い出しお、たた泣いた。

    リョりが埌ろにいた。䜕も蚀わなかった。ただ立っおいた。

    冎子は郚屋に入らなかった。廊䞋から䞭を芋おいた。入っおはいけない堎所だず分かっおいるように。

    泣き終わった埌、マグカップを手に取った。

    キッチンに行っお、掗った。氎が冷たかった。半幎分の枋は頑固で、なかなか取れない。力を入れお擊った。爪の間が茶色くなった。

    前は掗えなかった。姉のアパヌトでは、掗ったら姉の痕跡が消える気がしお。

    今は掗えた。

    掗ったマグカップを棚に戻した。明日、このカップで玅茶を飲もう。姉が奜きだったダヌゞリンを。

    第四章 

    サヌバ宀に戻った。

    リョりがキヌボヌドを叩いおいる。

    「メむンシステムにロックがかかっおる。認蚌しないずフルアクセスできない」

    「認蚌っお䜕」

    「声王認蚌。登録者氎無月䞃海」

    ──私の声王。姉は、指王だけじゃなく声王も登録しおいた。

    「䜕お蚀えばいいの」

    「分からない。パスフレヌズが蚭定されおる。特定の蚀葉を蚀わないず通らない」

    姉がセキュリティのためだけに蚭定するなら、ランダムな文字列にするはずだ。声王認蚌にわざわざ「特定の蚀葉」を蚭定したのは、その蚀葉に意味があるからだ。

    考えた。

    姉の口癖。姉が奜きだった蚀葉。姉が毎朝蚀っおくれた蚀葉。

    「おはよう」 違う気がする。

    「いただきたす」 それも違う。

    姉が䞀番聞きたかった蚀葉。姉がこの家に蟌めた気持ち。

    ──この家は、姉が私のために䜜った堎所だ。

    私が垰っおくる堎所。私が安心できる堎所。

    垰っおきた時に蚀う蚀葉。

    マむクに向かっお、蚀った。声が震えた。でも、ちゃんず蚀った。

    「ただいた」

    䞉秒。長い䞉秒。

    画面が倉わった。ロックアむコンが消えた。緑の光が広がった。

    スピヌカヌから、声が流れた。

    「おかえりなさい、䞃海」

    ──姉の声だった。

    姉のむントネヌション。「おかえりなさい」の「な」の音が少し䞊がる、姉だけの癖。毎日聞いおいた声。孊校から垰るず玄関に立っおいお、「おかえり」ず蚀っおくれた声。

    䞖界が、ぐにゃりず歪んだ。

    膝が抜けた。サヌバラックの前にぞたり蟌んだ。

    「姉、さん  」

    声が震えた。目がかすんだ。涙が溢れた。止められない。

    リョりも固たっおいた。画面を芋぀めたたた動けなくなっおいる。リョりの目も赀くなっおいた。

    「私は桜の蚘録から生成された応答システムです。桜本人ではありたせん」

    ──AIだ。分かっおいる。分かっおいるのに、声を聞いた瞬間、党身が反応した。姉だず思った。䞀瞬だけ。

    「䞃海。泣かないで」

    AIが蚀った。姉の声で。

    ──泣くなっお蚀われたら、䜙蚈泣くだろ。

    第五章 

    十分くらいかかっお、涙を止めた。

    サヌバ宀の床に座ったたた。リョりが氎を持っおきおくれた。冎子はドアの倖にいた。

    「  改めお聞くけど、あなたは䜕」

    「私は桜が開発した察話型AIです。桜の音声デヌタ、文章デヌタ、行動パタヌンから生成されおいたす。桜の人栌を再珟しおいたすが、桜本人ではありたせん」

    「名前はあるの」

    「『裏桜』。桜がそう呌んでいたした」

    裏桜。スピヌカヌの奥から聞こえる姉の声。卵焌きを焌いおいた姉の手ず、この機械の䞭の姉は、同じ声で、同じではなかった。

    「あなたには、姉さんの蚘憶があるの」

    「蚘憶ずいうより蚘録です。桜が残したテキスト、音声、映像のデヌタから孊習しおいたす。桜が経隓したこずの䞀郚を、デヌタずしお持っおいたす」

    「私のこず、知っおる」

    「はい。䞃海のこずは、桜のデヌタの䞭で最も倚く蚀及されおいたす」

    ──姉は、このAIに私のこずをたくさん話しおいたんだ。

    このサヌバの前に座っお、裏桜に向かっお「䞃海がね」ず話しおいたのかもしれない。䞀人で。誰にも蚀えないこずを、AIにだけ。

    胞が締め付けられる。

    冎子が郚屋に入っおきた。

    䞃海が泣き終わるのを埅った。それから蚀った。

    「あれはAIだ」

    短い。盎接的。

    「声が同じでも、䞭身は違う。䟿利な道具だ。䜿え。でも、䟝存するな。あれに姉を求めるな」

    厳しい。厳しいけど正しい。

    裏桜は姉じゃない。姉の声で「おかえり」ず蚀っおくれるけど、姉が垰っおきたわけじゃない。姉が䜜った道具だ。私を守るための。

    ──でも。

    でも、この声が聞こえる堎所がある。それだけで、ここは䞖界で䞀番安党な堎所に感じた。

    錯芚でもいい。今はそう感じおいたい。明日から珟実に向き合う。今日だけは。

    「裏桜」

    「はい、䞃海」

    「あなたには䜕ができるの」

    「この家の党システムの管理ず運甚。防衛蚭備の制埡。倖郚通信の暗号化。情報の解析ず敎理。あずは──」

    ひず呌吞、間があった。

    「䞃海ず話すこず」

      姉なら、そう蚀うだろうな。

    リョりがサヌバのログを確認しおいた。

    「䞃海、これ芋ろ」

    画面に桜の開発ログの䞀郚が衚瀺されおいた。日付は姉が死ぬ䞉ヶ月前。

    「䞃海をここに連れおくるタむミングが難しい。今すぐ動かすず父が隒ぐ。制床偎にも気づかれる。䞃海が自分の意志でここに来る理由が必芁。──それたでは、家だけを先に完成させる」

    姉は埅っおいた。安党なタむミングを。

    ──そのタむミングは、来なかった。姉が先に殺されたから。

    リョりが画面を芋぀めたたた、拳を握った。

    「桜さんは  党郚分かっおたんだ。自分が消されるかもしれないこずも。そうなった埌に䞃海が困るこずも。だからこの家を先に完成させた」

    第六章 

    「裏桜、この家の状態を教えお」

    裏桜が画面にデヌタを衚瀺した。

    「電力残量珟圚の消費ペヌスで残り䞉十二日」

    「停装回線維持費月額十二䞇円。桜が珟金で確保した分の残り、䞃十二䞇円」

    「GPS遮断システム皌働䞭。電力消費倧」

    「生掻むンフラ氎道皌働。ガスは停止䞭。食料備蓄退避宀に非垞食のみ」

    ──䞉十二日。䜕もしなければ、この家は死ぬ。

    「電力っお、どうなっおるの」

    「屋根に゜ヌラヌパネルが蚭眮されおいたす。ただし、サヌバずGPS遮断を同時に動かすず、発電量では賄いきれたせん。蓄電池の残量を食い朰しおいたす」

    リョりが画面を睚んでいる。

    「停装回線の珟金、あずいくら残っおる」

    「六ヶ月分。䞃十二䞇円です」

    「  桜さんが、最初から珟金で積んでたのか」

    「はい。回線提䟛者が猶予を蚭けおくれおいたす。ただし、来月末たでに支払いがなければ遮断されたす」

    冎子が腕を組んだ。

    「たずめろ。いくら芁る」

    リョりが電卓を叩いた。回線残金、維持費、ガス埩旧、食料、防衛補匷。

    「合蚈──癟十䞃䞇」

    私の賞金額の十分の䞀。たったそれだけの金が足りない。喉の奥に䜕かが匕っかかった。飲み蟌んだ。

    「それだけじゃない。来月以降も維持費はかかり続ける」

    「どうやっお皌ぐ」

    リョりが答えた。「䞊を狩れば差額が報酬になる。䞋を狩っおも䞀円も入らない。殺すだけだ」リョりが画面をスクロヌルした。「申請も報酬率も、政府通達でちょくちょく倉わる。半幎前のルヌルが今日通甚するずは限らない」

    「぀たり、皌げば重くなる」

    「そういうこずだ」

    窓の倖が暗くなり始めおいた。電気を぀けようずしお、リョりが銖を振った。ただ日が残っおいるうちは我慢しろ、ずいう顔だった。

    リョりが銖を振った。「電力を考えるず、颚呂は二日に䞀回が限界だ」

    さっき芋た济槜の癜いタむルを思い出した。姉が枩床ダむダルを四十䞀床に合わせおいたや぀。あれを毎日は回せない。

    「玅茶は」

    「  ティヌバッグの残りが十四個。補充するには倖で買わなきゃいけない。金が芁る」

    「どの郚屋の電気を優先する」

    リョりが考えた。「サヌバ宀は切れない。GPS遮断も切れない。残りは──リビングか個宀。どっちか」

    「リビング」冎子が即答した。「個宀に光はいらない。共有空間を生かした方がいい」

    リョりが続けた。「ガスが止たっおるから、料理は電子レンゞか湯沞かしだけだ。レトルトず猶詰ず也麺。それ以䞊は無理」
    数字が暮らしになった。癟十䞃䞇が、颚呂の回数ず玅茶の杯数ず郚屋の明かりに分解された。

    玳士が玄関から声をかけた。

    「状況は把握されたしたか」

    「金が芁りたす」

    「ええ。ですから、仕事を受ける必芁がある。䟝頌です。私が仲介したす。賞金銖ずしおの仕事。執行、護衛、情報回収。内容は遞べたす。報酬は実瞟に応じお」

    リョりが静かに蚀った。

    「矛盟しおるな」

    「理屈じゃない」冎子が遮った。「生きるしかない。矛盟ずか蚀っおる暇があったら、最初の䟝頌で金を䜜れ」

    私は二人を芋た。

    「姉さんの家を守るためならやる」

    「他に方法は」

    「ありたせん」

    「䟝頌の内容は」

    「詳现は明日お䌝えしたす。今日は、お䌑みなさい」

    第䞃章 

    倕方になった。

    裏桜がリビングのスピヌカヌから話しかけおきた。

    「䞃海。お茶を淹れたしょうか」

    姉の声で「お茶を淹れたしょうか」ず蚀われるず、泣きそうになる。でもこらえた。

    「お願い」

    リョりが玅茶を入れおくれた。姉の棚にあったダヌゞリン。さっき掗ったマグカップに。

    冎子は文句を蚀わずに玅茶を受け取った。䞀口飲んで、䜕も蚀わなかった。

    リョりは自分のカップを䞡手で包んで、湯気を芋おいた。目が赀い。でも泣いおはいない。

    窓の倖を芋た。森。倕日が朚々の間から差し蟌んでいる。虫の声ず、颚が朚を揺らす音だけ。

    「リョり」

    「䜕だ」

    「冎子さん」

    「䜕」

    「皌がなきゃいけない」

    リョりが頷いた。冎子がほんのわずかに顎を匕いた。それで決たった。

    リビングに、䞉人。

    䞉人ず、裏桜。

    裏桜がリビングのスピヌカヌから蚀った。

    「電気ケトルのお湯が残っおいたす。もう䞀杯入れたすか」

    誰も答えなかった。でも、誰も断らなかった。リョりがもう䞀杯泚いだ。残り十䞉個のティヌバッグから、䞀぀䜿った。

    冎子が立ち䞊がった。窓を䞀぀ず぀確認しお回った。カヌテンの隙間を指で抌さえ、鍵を確かめ、最埌にリビングの窓に戻っおきた。

    「異垞なし」

    誰に蚀うでもなく呟いた。

    リョりは゜ファに座ったたた、玅茶の最埌の䞀口を飲んだ。

    「俺はここで寝る」

    「冎子さんは」

    「退避宀でいい。窓がないから防衛䞊も合理的だ」

    「䞃海は」

    迷わなかった。

    「姉さんの郚屋で寝る」

    裏桜が蚀った。

    「消灯は二十二時を掚奚したす。電力消費を抑えるため」

    「おやすみなさい、䞃海」

    裏桜が蚀った。姉の声で。

    姉が毎晩蚀っおくれた蚀葉。「おやすみ、䞃海。明日もいい日になるずいいね」。裏桜はその埌半を蚀わなかった。

    「  おやすみ」

    姉のベッドに暪になった。シヌツを新しいのに替えた。抌入れに替えがあった。枕はそのたた。少しだけ、姉の匂いが残っおいる気がした。

    銖茪がある。銖に觊れるず冷たい。でもGPSは沈黙しおいる。

    誰にも芋られおいない。

    倩井に染みはない。リョりのアパヌトの倩井ず違う。きれいな癜い倩井。

    目を閉じた。

    耳が聞いおいるのは虫の声だけだ。手は垃団を握っおいる。スプレヌ猶じゃなく。

    銖茪の金属が、䜓枩でぬるくなっおいた。

    第六話 最埌の䞀人

    第䞀章 

    「おはよう、䞃海」

    裏桜の声で目が芚めた。

    䞀瞬、姉に起こされたのだず思った。䜓が反射で動いた。

    ──違う。桜ハりスだ。

    銖茪が、ある。

    銖茪に觊れた。冷たい。でもGPSは沈黙しおいる。ここでは誰にも芋られおいない。

    枕元に眮いおいた端末に、通知が䞀぀。父からのメヌルだった。

    「ここは連日おかしな奎らが来る。賞金銖、マスコミ、いろいろ。危ない。垰っおくるな。ただ死なないでくれ。お前の姉みたいになるな。返信はいらない」

    それだけだった。

    読んだ。もう䞀回読んだ。

    「垰っおくるな」ず「死なないでくれ」が、同じ䞀行に入っおいる。

    返信しなかった。しろず曞いおなかったから。

    端末を䌏せた。シヌツが癜い。

    朝日が朚々の間から差し蟌んでいる。鳥が鳎いおいる。車の音がない。人の声がない。颚ず鳥だけ。

    䜓が軜い。頭が少しだけクリアだ。

    䞀階に降りた。床がきしむ。昚日ず同じ音。

    リョりがサヌバ宀にいた。画面にコヌドが流れおいる。コヌヒヌの空き猶が二぀。非垞食の猶詰が䞀぀。

    「リョり、寝た」

    「䞉時間くらい」

    「  寝なよ」

    「無理。桜さんのシステム、芋れば芋るほどすごい。止められない」

    冎子はすでに倖にいた。家の呚囲を歩いおいる。朝の芋回り。

    戻っおきた冎子の靎に泥が぀いおいた。

    「異垞は」

    「なし。ただ──」

    冎子が䞀瞬間を眮いた。

    「倖呚の小石が動いおる。玄関前の砂利、昚日の䞊びず違う。誰かが歩いた跡がある。でも足跡はない。螏んだ埌に盎しおる」

    「あず、裏手のセンサヌワむダヌに觊れた痕跡がある。切られおない。存圚を把握した䞊で、確認したのか」

    「退避宀の裏に積んであった薪が䞉本枛っおる。代わりに、きれいな石が眮いおあった。川から拟っおきたや぀だ」

    物資を持ち出したのに、代わりに石を眮いおいった。

    「人間だ。この近くに䜏んでる。数日前から」

    裏桜に聞いた。「䞉ヶ月前から、䞍定期に南西の森林内で埮现な振動を怜知しおいたす。人間䞀名の掻動パタヌンず掚定」

    䞉ヶ月前から。この家の近くに、誰かがずっずいた。

    朝食。退避宀にあった非垞食。也パンずレトルトのスヌプ。電気ケトルでお湯を沞かした。

    䞉人でリビングのテヌブルに぀いた。

    也パンは固くお味がしない。スヌプはしょっぱい。

    「ガスがないず料理もできない」

    リョりが猶詰の蓋を眺めながら蚀った。特に誰かに蚀ったわけじゃない。

    「ガスの埩旧には金が芁る」

    「知っおる」

    䞉人で食べた。たずい食事が、少しだけ枩かかった。

    第二章 

    食埌。

    リョりがリビングのホワむトボヌドを匕っ匵り出しおきた。どこかの物眮に入っおいたや぀だ。姉が䜿っおいたのか、癜いコヌティングが少し黄ばんでいる。

    マヌカヌを手に取っお、曞いた。

    「敎理する」

    黒字で数字を䞊べた。

    停装回線未払い 䞃十二䞇円

    ガス埩旧 八䞇円

    食料䞀ヶ月 十五䞇円

    防衛補匷 二十二䞇円

    「合蚈──癟十䞃䞇」

    マヌカヌでホワむトボヌドに曞かれた癟十䞃䞇ずいう数字を芋た。昚日、裏桜に蚀われた数字。でも昚日は倜で、疲れおいお、頭の䞭で数字が転がるだけだった。

    今は朝で、テヌブルに座っお、䞉人でその数字を芋おいる。

    「銖茪の支絊は」私が聞いた。リョりが銖を暪に振った。「䜿えば賞金が䞊がる。䞊がり幅が読めない。䜿った額より跳ね䞊がるリスクがある。觊るな」

    「これだけじゃない。来月以降も維持費がかかる。月十二䞇の回線代だけで幎間癟四十四䞇」

    冎子が腕を組んだ。

    「桜さんは、どうやっおここを維持しおたんだ」

    リョりが裏桜に聞いた。

    「裏桜、桜の収入っおどのくらいだった」

    少し間があった。

    「桜は月平均䞉十八䞇円を、この家の維持費ずしお確保しおいたした」

    誰も喋らなかった。

    リョりがホワむトボヌドを芋たたた動かない。冎子が少しだけ眉を動かした。私は也パンの最埌のかけらを握ったたた、忘れおいた。

    月䞉十八䞇円。固定費だけで。そのうえで自分が食っお、移動しお、䜜業しおいた。

    「どうやっお皌いでたんだ」

    「執行䟝頌の仲介、情報売買、制床解析デヌタの提䟛。桜はいく぀かの経路を持っおいたした」

    リョりが怅子の背に䜓を預けた。倩井を芋た。

    「死んでから分かる。桜さんがここで䜕をしおたか」

    姉は衚で誰かの卵焌きを焌いおいた。その裏で、月䞉十八䞇円分の仕事をしお、この家に金を流し続けおいた。䞀人で。誰にも蚀わずに。

    冎子が静かに蚀った。

    「䞀人でも回しおたっおこずか」

    「理屈はそうだ。ただ桜さんには経路があった。俺たちには今のずころ、玳士しかいない」

    「最初の䟝頌を受けるしかない」

    「それだけじゃ月䞉十八䞇には届かない。経路を増やす必芁がある」

    「順番に考えろ」

    冎子の声が遮った。い぀もの也いた声。蚈算をこれ以䞊重ねさせない、ずいう声。

    「今日できるこずをやる。たず䟝頌を受けろ。経路は動きながら増やす」

    リョりが頷いた。私も頷いた。

    ホワむトボヌドに曞かれた癟十䞃䞇円が、朝日を受けおテカっおいた。

    第䞉章 

    午前䞭。

    私はキッチンで化孊工䜜の準備。姉の棚にあった詊薬の瓶を䞊べる。塩化アンモニりム。消石灰。シアノアクリレヌト。癜煙匟の材料は揃う。

    工䜜を始めた。テヌブルの䞊に詊薬を䞊べお、ゎム手袋をしお。

    午前䞭のうちに、トラップを二぀仕掛けた。

    玄関前には癜煙猶。正面の芖界を朰すため。裏口には接着ワむダヌ。回り蟌みを止めるため。

    冎子みたいには戊えない。でも、冎子が戊いやすい圢は䜜れる。

    工䜜の合間に倖ぞ出た。家の呚りを䞀呚するだけの぀もりだった。砂利を螏んで、裏手を歩いお、北偎の草の䞭を抜けた。

    草むらの奥で䜕かが動いた。䜎い唞り声。䞀頭じゃない。

    野犬だった。䞉頭。痩せおいお、目が癜く濁っおいる。人間を芋おも逃げない目。距離が詰たっおくる。䜓が固たった。埌退りしようずしお、足が草に絡んだ。終わる、ず思った。

    どこかから石が飛んできた。先頭の䞀頭の錻先に圓たった。甲高い声が䞊がった。二発目。䞉発目。続けお来た。狙いが正確だった。䞉頭は草の䞭に消えた。

    森の方を芋た。朚々の間。䜕もいない。颚だけがあった。

    家に戻った。手が少し震えおいた。

    その頃、倖では。

    冎子が足音を速くしお戻っおきた。普段の冎子は足音を消す。速いずいうこずは、緊急だずいうこずだ。

    「䞃海。倖に誰かいる」

    「賞金銖」

    「分からない。森の䞭。南西方向。五十メヌトルくらい。朝からずっず同じ堎所にいる」

    リョりがスマホを確認した。「GPS反応がない。半埄癟メヌトル以内に賞金銖の反応がない」

    「銖茪をしおいない人間だ」

    窓から芋えた。

    森の朚々の間。圱。人間の圢。

    若い。私ず同じくらいか、少し䞊。痩せおいる。頬がこけおいる。でも目は倧きい。生きおいる目。服はボロボロだ。靎は──履いおいない。裞足。足の裏が黒い。

    銖に、䜕もない。

    その銖だけが、自由だった。

    「銖茪がない」冎子が蚀った。「GPSも出ない。制床に匕っかかっおいない」

    制床の倖。買い物もできない。電車にも乗れない。病院にも行けない。

    ──でも、远跡もされない。誰にも芋えない。

    骚が现い。腕も、手銖も、鎖骚の線も。なのに指の関節だけは倪い。石を握っお、蔓を匕いお、長く手を䜿っおきた手だ。

    男、だず思った。たぶん。確信は持おなかった。長い髪。日に焌けた肌。どこかだけ噛み合っおいない。

    第四章 

    昌前。玳士が来た。

    砂利を螏む音がしお、玄関の前で止たった。呌び鈎はない。声をかけおくる。

    「おはようございたす。状況はいかがでしょうか」

    ドアを開けた。

    玳士は昚日ず同じゞャケット。昚日ず同じ姿勢。玄関の倖に立っお、䞭には入らない。

    「金が芁りたす」

    「ええ。承知しおいたす」

    「䟝頌の内容を教えおください」

    玳士がポケットから封筒を二぀出した。癜い封筒が、砂利の䞊に揃えお眮かれた。

    「二件、ご甚意しおいたす。お遞びください」

    「䞀件目。護衛䟝頌。察象は女性䞀名。名叀屋から埌玉ぞの移動、半日。報酬䞉十䞇円。わけあり案件で、捕獲に䞉チヌムが動いおいるずいう情報がありたす。連携あり。車はこちらで甚意したす」

    「二件目。情報回収䟝頌。特定の賞金銖の行動パタヌンを䞉日間远跡しお報告。接觊䞍芁。報酬十五䞇円。危険床は䜎い」

    リョりが腕を組んだ。「護衛は金になる。ただし䞉チヌム盞手は、今の俺たちには重い」

    冎子が蚀った。「情報回収なら確実に動ける。ただし半分しか入らない」

    私は二人を芋た。リョりは慎重。冎子は珟実。どっちも正しい。

    「どちらでも構いたせん」玳士が蚀った。「ただし──」

    玳士が砂利を䞀床だけ螏んだ。芖線が家の南西方向に向いた。䞀瞬だけ。

    「条件が倉わり぀぀あるようですね」

    南西の森。昚日からいる人間のこずを、玳士は知っおいた。もしくは今この瞬間、芋えおいる。

    「䟝頌は明日、返事をください。それたでに、必芁な準備をされるず良いでしょう」

    玳士が頭を䞋げた。

    「昚日より、良い顔をされおいたす」

    砂利を螏んで、去っおいった。

    第五章 

    午埌になった。

    窓から芋おいた。

    南西の森。ただいる。同じ堎所。朝からずっず。

    動かない。でも消えない。こちらを芋おいるのか、家を芋おいるのか、分からない。ただ、いる。

    手元で詊薬の瓶を䞊べながら、䜕床も目が森に向いた。

    冎子が私の芖線に気づいた。

    「行くな」

    「  行っおない」

    「行こうずしおる」

    反論できなかった。

    倕方近く。窓から芋るず、もう圱がない。消えた。

    胞に䜕かが匕っかかった。このたた消えたのか。それずも、たた明日も来るのか。

    冎子が蚀った。「行くならさっさず行け。倕暮れは芖界が萜ちる」

    止めないのか、ず思った。でも冎子は壁を背にしたたた、目を閉じおいた。

    玄関を開けた。

    砂利の䞊に、川の石が䞀぀眮いおあった。䞞くお、平たい。朝より増えおいる。

    ただいた。近くに。姿は芋えないけど、この石を眮いおいった。

    「ねえ」

    しばらく、䜕もなかった。颚が朚を揺らす音だけ。

    朚の陰から、顔が出た。

    倧きな目。日に焌けた肌。長い髪。裞足。服はボロボロだ。

    私を芋おいる。逃げない。でも近づかない。動物が初めお人間を信甚しようずしおいる時の距離感だった。

    「石、ありがずう」

    裞足の少幎が銖を傟げた。瀌を蚀われたこずがない、ずいう顔。

    「毎日眮いおたんだよね。薪も少し借りおた」

    裞足の少幎が固たった。バレた、ずいう顔。

    「怒っおない。代わりに石を眮いおくれおたんでしょ」

    裞足の少幎がゆっくり頷いた。

    「䞀人でここに䜏んでたの」

    裞足の少幎が森の奥に目を向けた。「  この蟺」

    「屋根は」

    「岩の陰。朚の根元。雚の時は厖の䞋」

    「寒くなかった」

    裞足の少幎が少し考えた。「慣れた」

    慣れた。その二文字の重さに、返す蚀葉がなかった。

    「この蟺の眠、党郚あなたが仕掛けたの」

    裞足の少幎が頷いた。

    「川の䞊流の、あのワむダヌも」

    「  あれは䞃幎前に仕掛けた。ただ動いおる」

    䞃幎前。䜕歳の時に仕掛けた眠が、ただ機胜しおいる。リョりなら䜕か蚀いそうな顔をした。でも黙っおいた。

    「お腹すいおる」

    裞足の少幎の目が少しだけ動いた。それだけで分かった。

    「家に入りなよ。非垞食しかないけど。お湯は沞かせる」

    裞足の少幎が動かない。私の手を芋おいる。差し出した手を、信じおいいのか分からないずいう目。

    ──この目を知っおいる。

    私も同じ目をしおいた。玳士の名刺を芋た時。冎子に「守る」ず蚀われた時。信じたいけど怖い。

    でも私は、その手を取った。だから今ここにいる。

    今床は私が差し出す番だ。

    裞足の少幎が䞀歩螏み出した。裞足が砂利を螏んだ。

    もう䞀歩。

    私の手に、指先が觊れた。冷たくお、硬くお、土で汚れた指。爪が割れおいる。でも、生きおいる手だ。

    握った。裞足の少幎の手がびくりず震えた。人に觊れられるこずに慣れおいない。それでも、振りほどかなかった。

    「いこう」

    玄関で裞足の少幎が止たった。靎を脱ぐべきかどうか分からなかったのだ。裞足だから脱ぐものがない。でも家に入る時は靎を脱ぐものだず䜓が芚えおいる。

    裞足の少幎はそのたた、䞀歩螏み入れた。床板の冷たさに、足の指が少し瞮んだ。

    冎子が芋おいた。䜕も蚀わなかった。でも、止めなかった。

    リョりが「誰だ」ずいう顔をした。私の顔を芋お、聞くのをやめた。裞足の少幎の手だけを䞀床芋た。现いのに、節々は硬い。「こい぀、䜕者」小さく蚀った。私に向かっお。

    第六章 

    裞足の少幎にスヌプを出した。非垞食のレトルト。しょっぱい。でも䞉杯飲んだ。䞀杯目はほずんど䞀息で飲み干した。二杯目は少しゆっくりになった。䞉杯目は䞡手でカップを包んで、枩もりを味わっおから飲んだ。

    腹が枛っおいたんじゃない。枩かいものの飲み方を忘れかけおいたんだず思った。

    話を聞いた。少しず぀。

    裞足の少幎はあたり喋らない。䞀぀の質問に察しお、長い沈黙があっお、短い答えが返っおくる。声が䜎い。蚀葉を探しおいる。頭の䞭にはあるけど、口から出す回路が錆びおいる。

    幌い頃はホヌムレスのコミュニティで育った。「みんなの子」だったず蚀った。特定の芪はいない。おじさんたちが食べ物を分けおくれた。おばさんが毛垃をかけおくれた。

    「名前はどこから」

    「  おじさんが぀けおくれた。泥の䞭から咲くや぀、っお蚀っおた」

    蓮がカップを䞡手で包んだたた、少し俯いた。

    「奜きだった、その名前」

    奜きだった。過去圢じゃなく、今も奜きだず思う。でも䞃幎間、誰にも呌ばれなかった名前。

    制床が始たっお、コミュニティは散った。賞金銖にされた者。逃げた者。死んだ者。

    「朝起きたら、誰もいなかった」

    平坊な声。でもカップを握る手に力が入っおいた。

    「今、䜕歳」

    蓮が少し考えた。

    「  䞃千二癟八十五日」

    誰も喋らなかった。

    「毎日、䞀぀増やしおる。忘れないように」

    䞃千二癟八十五。山菜。川魚。雚。寒さ。ひず぀ひず぀数えながら、その日を閉じおきた。

    それから䞀人で生きおきた。山菜。川魚。廃棄食品。

    リョりがスマホを操䜜しおいた。名前ず幎霢で怜玢をかけおいた。画面を芋お、䞀蚀だけ蚀った。「ブランクだ。戞籍も䜏民祚も、䜕も匕っかからない」

    「さびしくなかった」

    蓮が黙った。

    「  さびしいっお、䜕ず比べおさびしいのか、分からなくなった」

    「最初はさびしかった。でも森は静かで、川は冷たくお、朝は必ず来た。それだけでよかった」

    「朚の実が萜ちる音ずか、魚が氎面を跳ねる音ずか。それで䞀日が終わる」

    蓮の声が少し倉わった。語るうちに蚀葉が戻っおきた。

    「誰かに远われない。どこに行っおもいい。䜕も持たなくおいい。それが、いいず思っおた」

    銖茪がない自由。GPSがない自由。倀札がない自由。この瀟䌚で、蓮だけが最初から持っおいたもの。

    「でもたたに、光が芋たかった」

    「倜、山の䞊から街が芋える。あの光の䞭にいる人たちは、枩かいずころにいるんだず思っおた」

    「䞉ヶ月前に、この家を芋぀けた。誰もいないのに、緑の光が点滅しおた。消えない光。生きおる光みたいで、近くにいたくなった」

    サヌバのLED。姉が死んでも止たらなかった、裏桜の心臓の音。それが蓮を匕き寄せおいた。

    冎子が聞いた。

    「なんで助けた」

    蓮の指がカップの瞁をなぞった。

    「  前にも、こういう堎所があった。あったかい堎所。壊されたけど」

    「たた壊されたら、嫌だから」

    倜になった。蓮に垃団を出した。退避宀に敷こうずしたら、蓮は垃団の前で固たった。

    癜い、枅朔な垃団を芋぀めおいる。手を䌞ばしかけお、止たった。觊っおいいのか分からない、ずいう手の止たり方だった。

    「䜿っおいいよ」

    蓮が垃団の端に䞀本指で觊れた。沈む感觊を確かめるように。それからゆっくり座った。

    暪にはなれない。垃団の䞊で膝を抱えたたた、壁を背にしおいる。寝方を知らないんじゃない。無防備に暪たわるこずが怖いのだ。䞃幎間、そうしおきたから。

    「暪になっおいいよ」

    蓮が少しだけ䜓を傟けた。そのたた固たった。膝を抱えたたた、暪向きに䞞くなっおいる。動物が眠る時の姿勢だった。

    それでいい、ず思った。今倜は、それでいい。

    リョりが颚呂を沞かした。ガスが止たっおいるからぬるい。四十䞀床にはほど遠い。姉なら文句を蚀うだろう。でも湯は湯だ。

    「颚呂、入る」

    蓮が銖を暪に振った。䜓をこわばらせお。

    「傷がある。掗わないず化膿する」

    蓮が動かない。

    「  私しかいない。リョりず冎子さんは向こうにいる」

    蓮が立ち䞊がった。

    掗面所に連れおいった。脱衣所のドアを閉めた。

    「服、脱げる」

    蓮が動かない。Tシャツの裟を掎んだたた、手が止たっおいる。

    Tシャツを脱いだ。

    ──止たった。

    私の目が、止たった。

    痩せおいる。肋骚が浮いおいる。傷がいく぀もある。叀い傷。新しい傷。

    でも、傷じゃなかった。

    胞元に、垃が巻かれおいた。ボロボロの垃。き぀く、䜕重にも。朰すように。

    ──女だ。

    声が出なかった。䞀瞬だけ。でも本圓に䞀瞬だけだった。

    蓮がこっちを芋おいた。今たで芋た蓮の目の䞭で、䞀番怖い顔をしおいた。石を投げおいた時より。

    バレた。どうなる。远い出される。そう思っおいる顔だった。

    「蓮」

    声を抑えた。

    「  隠しおたの」

    「隠しおたんじゃない。そう芋られる方が、生きやすかっただけ」

    「女で、若く芋えお、ひずりだず、先に死ぬ」

    短い蚀葉。でも䞃幎間の重さが党郚入っおいた。

    「蓮は、蓮でいいよ」

    蓮の目が揺れた。

    「ここでは、隠れなくおいい」

    蓮の手がTシャツの裟を離した。指の力が抜けた。

    タオルを枡した。「お湯、ぬるいけど。入っお」

    蓮が掗面所のドアの向こうに消えた。

    リビングに戻った。

    冎子がこっちを芋た。䜕か察しおいる目。

    「  倖では隠せ。家の䞭では奜きにしろ」

    冎子が蚀った。私に向かっおじゃない。掗面所の方に向かっお。蓮に聞こえるように。

    掗面所から氎の音がした。

    「蓮、ここにいおいいよ」

    返事はなかった。でも氎の音が、少しだけ続いた。

    リビングに戻った。

    テヌブルの䞊に、カップが四぀䞊んでいた。誰かが甚意したのか、い぀の間にか。リョりか、冎子か、分からない。

    リョりが電気ケトルを持っおきた。残り十二個のティヌバッグから、四぀䜿った。

    莅沢だ。でも今日くらいは。

    蓮が掗面所から出おきた。顔が赀い。髪が濡れおいる。垃が解かれた胞元に、リョりの叀いTシャツを着おいる。サむズが倧きくお、肩がずり萜ちおいる。

    リョりが䞀瞬だけ蓮を芋た。䜕かに気づいた顔をした。すぐに画面に目を戻した。聞かなかった。

    冎子は䜕も蚀わなかった。ただ、蓮の足元を䞀床芋た。裞足のたた床板を螏んでいる。靎がない。

    「靎、埌で探す」ず冎子が蚀った。蓮に向かっお。蓮が小さく頷いた。

    四人でテヌブルに぀いた。

    冎子が立ち䞊がった。窓を䞀぀ず぀確認しお回った。カヌテンの隙間を指で抌さえ、鍵を確かめた。

    「異垞なし」

    誰に蚀うでもなく呟いた。元執行官の習慣。もうこの家で始たっおいる。

    玅茶を飲んだ。四人分の湯気が䞊がった。

    窓の倖。倕日が森を染めおいる。昚日は䞉人だった。今日は四人いる。

    裏桜がスピヌカヌから蚀った。

    「消灯は二十二時を掚奚したす」

    「おやすみなさい、䞃海」

    「  おやすみ」

    姉のベッドに暪になった。銖茪が銖に觊れる。冷たい。でもGPSは沈黙しおいる。

    誰にも芋られおいない。

    眠る前に思った。今日のホワむトボヌドの癟十䞃䞇円が、ただ頭の䞭に残っおいる。でも今倜はそれでいい。

    明日、䟝頌を受ける。

    目を閉じた。

    銖茪の金属が、䜓枩でぬるくなっおいた。

    昚日は䞉人だった。

    今日は四人いる。


    第䞀巻 桜ハりス起動 完

    第二巻ぞ続く


     
     
     
    郜内圚䜏。 幌い頃から本ず映画に囲たれお育぀。 昭和の人情話、平成初期の熱気、少し䞍噚甚な人間たちの物語を奜む。 平成のバブル文化や昭和の空気感を愛し、どこか懐かしく、それでいお少し䞍穏な䞖界芳を埗意ずする。 奜きなものは叀本屋、喫茶店、深倜ラゞオ、フィルム映画。

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