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Photo byピエール=オーギュスト・ルノワール / メトロポリタン美術館

Liquidity

    あらすじ

     コンサルティング会社で働く26歳の理華は、Bumbleで出会ったハイスペ中国人の航と、結婚や白金の新居、子どものいる未来を思い描く。だが、航の部屋で見知らぬ女性のお泊まりセットを発見する。航は「忘れられない元恋人のものだ」と説明し、理華に同棲と結婚を持ち掛けるが、理華は関係を見切り、会社前で航の頭から500ミリリットルの水をかけて別れを告げる。
     一週間後、理華は別の男性との暮らしを始める。失ったのは恋人なのか、それとも恋人と生きるはずだった自分の未来なのか。現代的なモチーフを通じて、恋愛における代替可能性を引き受ける重要性と向き合う女性を描く。

    一 水筒

     会社のトイレで、水筒に水を入れている。
     昼休みの終わりに近い時間で、洗面台の前には人がいない。個室の奥からトイレットペーパーを巻き取る音だけが、小気味良いリズムを刻む。スタバで買ったキラキラのピンクの水筒を蛇口のもとに差し出すと、水は勢いよく流れ出した。
     水道水、500ミリリットル。
     水筒の中に落ちていく水の音は、思っていたより重い。ステンレスの容器に水が落ちる音が反響する。空洞だったものが、少しずつ用途を持っていく。最初は軽くて持っていることさえ忘れそうだった筒が、いまは確かに手首を下に引いている。
     私は、こういう重さを知っている。
     リュックに入れたノートパソコン。出張に行くときの一泊分の着替え。恋人の家に置いている自分の荷物。新居に設置したいと想像していた家具。まだ産まれてもいない子どもの教育費。
     実体のないものほど、重さがある。
     水筒がいっぱいになる。私は水を止めて、蓋を閉めた。きゅっと音がした。何度か逆さまにして、漏れないことを確認する。もう2年以上使っている水筒はパッキンが少しゆるんでいて、少し水が漏れる。やっぱり少し漏れるなと確かめて、逆さまにするのをやめる。
     鏡の中にいる私は、思っていたより普通だった。
     少し太っている。頬に肉がある。白い肌に、ぱっちりした二重。目だけは昔から褒められる。男の子みたいでもあり、女の子みたいでもある。今日は社内業務の日なので、ラフな白のスウェットのセットアップだ。ヘアドネーションするために伸ばしている黒髪はもう30センチほど、腰のあたりまで伸びている。コンサルのハードワークで疲れているのに、健康そうに見える。こういう顔は、損をする。弱っていても、あまり弱って見えない。
     スマホを見る。
     彼からの返信は、3分前に来ていた。
    『いま下に着いた。どこ?』
    『今行く』
     そう送り、トイレを出る。
     廊下を歩く。ガラス張りの会議室の中では、知らない部署の人たちが、昼食をとりながら資料を見ていた。サラダのプラスチック容器、コンビニのコーヒー、紙のストロー。よく紙のストローなんかで飲み物が飲めるな、と思う。ディスプレイには、赤と青の棒グラフが映っている。世界は、だいたい数字になる。売上、工数、リスク、期待値、KPI、成約率、離職率、離婚率、平均初婚年齢、結婚適齢期。
     私は二十六歳だった。
     若いと言えば若いし、婚活市場ではもう若くないとも言われる年齢だった。仕事では、まだ若手だ。恋愛では、そろそろ賢くならなければいけない。出産のことを考えるなら、二十八歳までには結婚したい。三十歳までには一人目が欲しい。そういう数字を、私はどこかで馬鹿にしつつ、どこかで真剣に信じていた。
     エレベーターを降りる。
     一階のエントランスは、昼休みの人で混んでいた。社食から戻ってくる人、コンビニ袋を提げた人、スマホを見ながら歩く人。外に出ると、ビルの前の小さな広場に、四月の涼しい空気が吹き抜ける。
     彼は、広場の端に立っていた。
     白いシャツに、グレーのスラックス。黒いトートバッグ。少し猫背で、手には紙袋を持っている。激務と遺伝と睡眠不足による容姿のイマイチさという帰結を、彼はいつも知性で覆い隠していた。初めて会ったときは、疲れた風貌でさえ、色気として解釈できた。
     彼がこちらに気づく。
     小さく手を上げる。
     私は手を振り返さない。
    「荷物」
     近づいて、言う。自分の声が思っていたより低くて、少し驚いた。私は、自分で思っていたよりも怒っていて、この人のことをすっかり嫌いになっているようだった。
    「うん。これ」
     彼は紙袋を差し出した。白い紙袋。中には、私が彼の家に置いていたものが入っている。歯ブラシ。コンタクトの洗浄液。メイク落とし。下着。部屋着。ヘアミルク。泊まる頻度が増えると、荷物は少しずつ増える。自分の存在がその部屋に根を張っていくようで、私はそれが好きだった。
     受け取る。
     中身は見ない。
     彼は、少し困ったように笑った。
    「理華、元気?」
     元気に決まっている。元気じゃなかったら、昼休みにわざわざ呼び出して、荷物を返せなんて言わない。元気じゃなかったら、泣き喚いて家に押しかけたり、逆に私が彼の会社に出向いたりするだろう。元気だから、一週間前に彼の家で見つけた女のお泊まりセットのことを冷静に検討して、別れる決断をしている。
     頷くことも、嘘をつくことも、泣くことも、怒鳴ることもできるが、人間は選択肢があるときほど動けなくなる。どうでもいい人間とのコミュニケーションに体力を使うことすら煩わしくて、正直に応えるか、あるいは適当に煙に巻くしかできない。後者のことを、私は「省エネモード」と呼んでいる。
    「どう見える?」
     彼は少し首を傾げた。
    「元気に見えない。だから、聞いた」
     その言い方が、嫌だった。この人は、いつも正しい順番で言葉を並べる。自分が責められない形に整えてから、ゆっくり差し出してくる。自分からは情報を出さないように、調整する。知性がある人は、嘘をつくときも綺麗だ。嘘が綺麗だから、しばらく嘘に見えない。
    「少し、話そうか」
    「話すこととかないよ、今までどうもありがとう」
     広場には人がいる。会社の同期も上司も後輩もいるだろう。ビルに入る警備員もこちらを見ている。タイピングのしすぎで腱鞘炎になりかけの右手の中で、水筒がそわそわしている。水筒を左手に持ち替え、右手で蓋を開ける。彼の目が、水筒を見た。まだ意味がわかっていない顔だった。
     わかっていない顔。
     私は、その顔が好きだったことがある。日本語の比喩がわからなかったとき、コンビニのおにぎりの開け方を少し間違えたとき、私の冗談に三秒遅れて笑ったとき。そういう顔を見るたびに、私はこの人の人生に少しだけ参加しているような気がした。
     彼が一歩、近づこうとした。私は水筒を持ち上げた。そして、水筒を真っ逆さまにして、彼の頭から水をかけた。
     五百ミリリットルの水は、思っていたより早く落ちた。
     透明な線が、彼の頭頂部から地面に向かってできていく。水は、前髪を額に貼り付け、頬を伝い、シャツの襟に染み込んでいく。彼は一瞬、何が起きたのかわからない顔をした。それから目を閉じて、肩をすくめた。
     白いシャツの肩が濃い色に変わっている。グレーのスラックスには、点々と水滴が飛んでいる。前髪が額に張り付いて、いつも知性で覆い隠していた容姿の冴えなさが、急にむき出しになった。初めて、この人がただの、なんてことない人間に見えた。
     キラキラの経歴・スペックも、知性も、白金にある引渡し目前のタワマンも、もうすぐ管理職になる将来性も、全部水に濡れて輪郭を失っていた。そこにいるのは、昼下がりの丸の内で、元恋人に水をかけられたみっともないナードだった。
    「暴力はやめてよ!」
     彼が言った。思わず笑ってしまう。
    「乾くから暴力じゃない」
     なら、殴っても傷が残らなければ暴力ではないのか。自分でもめちゃくちゃな理屈だと思い、言い終わってすぐにまたおかしくなって、もっと笑ってしまう。
     水は乾く。シャツも乾く。髪も乾く。前髪も、そのうちいつものようにふわっとはしないまでも、少なくとも額からは剥がれる。こんなものはすぐに消える。私が失った未来に比べたら、あまりにも軽いだろう。
    「理華、こんなのよくない」
    「よくないのはそっちでしょ」
    「僕は説明した」
    「説明したら、何をしてもいいの?」
    「そういうことじゃない」
    「じゃあどういうこと?」
     彼は黙った。彼は、こういうとき黙る。自分に不利な言葉を出さない。反射で謝らない。感情をそのまま口にしない。沈黙することで、次に出す言葉の価値を高める。
     私はその沈黙を、大人の振る舞いだと思い尊敬していた。落ち着いている。賢い。感情的ではない。そういうふうに解釈していた。今は、ずるい処世術にしか見えない。
    「キープの女の子いたでしょ、それか私がキープか」
    「違う」
    「違わないよ」
    「理華は、極端」
    「極端でいいよ。省エネだから」
    「省エネ?」
    「もうあなたの事情を理解するために、カロリー使いたくない」
     彼は、眉を寄せた。意味が通じなかったのかもしれない。あるいは、通じたけれど返す言葉がなかったのかもしれない。どちらであろうと、もう関係のないことだ。
     広場には人がいた。こちらを見ている人も、見ていないふりをしている人もいた。会社の同期がいたかもしれない。後輩もいたかもしれない。上司もいたかもしれない。でも、もうどうでもよかった。私の会社の前で起きていることだから、恥をかくのは私の方かもしれない。それでも、私と一緒に仕事をしたことがある人の私に対する態度は変わらないこと、このくらいで信用を失わないことを確信しているから、何も怖くない。
     彼の輪郭を、少しだけ壊したかった。
    「結婚したいとか、一緒に住もうとか、子どもは2人か3人欲しいとか、そういう話をしたよね」
    「本気だった」
    「本気だったなら、なぜ女性の荷物が家にあるの」
    「あれは過去」
    「過去を捨てられない人間が、未来の話をする資格ってないよ」
     言ってから、少しだけ自分で驚いた。私は、怒りさえ論点にしてしまう。彼は濡れたまま呆然としていて、私は空になった水筒の蓋を閉めた。きゅっと音がした。昼下がりの太陽光をまだらに反射させるステンレスの表面に、水滴がぽつぽつと付いている。復讐の道具にしては、あまりにもかわいらしい。
    「GOOD BYE」
     彼は英語で言った。
     ビルに入る直前、スマホを取り出す。まだブロックしていないLINEを開く。指は摂りすぎのカフェインのせいで少し震えていて、長い爪も相まって、文字が打ちづらい。
    『硫酸じゃなかったことに感謝しなよ』
     送信するとすぐに、メッセージが届く。
    『ほんとうにすみませんでした』
     これ以降、連絡は来ないだろうと確信した。
     エントランスの自動ドアが開く。冷房の効いた空気が身体に触れる。エレベーターに乗る。誰もいない。鏡に映った私は、やっぱり普通だった。至って健康そうで、やはりかわいい。怒っている女というより、昼休みにコンビニへ行ってきた女みたいだった。

    二 Bumble

     彼とは、Bumbleで出会った。友人に勧められて始めたアプリだった。外国人が多いらしいよ、と言われた。外国人が好きというわけではないが、女性からのみメッセージを送ることができるという仕様に惹かれた。
     趣味はサウナと旅行。休日はカフェ巡り。仕事はITかコンサルか商社。写真はどこかのビーチかBBQ、カフェの屋外テラス、美術館、カッパドキアの気球、もっと酷いとレアのステーキ肉。年収欄は空欄か、少し盛っていそうな数字。自己紹介には「美味しいものを食べるのが好きです」と書いてある。美味しくないものを食べるのが好きな人間がいるのか、と毎回思った。そんな、月並みなプロフィールを眺めるのに辟易していた。
     どの人も悪い人ではなさそうだ。でも、悪い人ではなさそう、だけでは恋愛にならない。結婚したかった。かなり、したかった。子どもも欲しかった。早く安定したかったし、でも退屈な人間とは暮らしたくなかった。わがままだと思う。思うけれど、自分の人生なのだから、わがままになるしかない。「また、サウナか……」と思いながら、ひたすら自分に「いいね」をした男性のプロフィールをチェックしていく。
     彼のプロフィールは、端的だった。まず、名前が「Hang in Kagurazaka」だった。そんな名前の人、初めてみた。正直なところ、容姿はまったく好みではなかったが、目を引いた。名前に地名を入れることで、話題、あるいは初回デートの場所を決定する流れを作っているのだろう。その極端な効率化思考に、興味を惹かれた。プロフィール文は、「一緒に人生を過ごす仲間を見つけたい」と1文のみ。

     写真は1枚、浴衣の写真のみ。顔立ちは整っているわけではなかった。鼻は少し大きく、目は細く、髪も多くはない。いわゆる中国のTHEナードという感じ。清潔感はある。姿勢は少し悪い。そんな、派手な自己演出をしない雰囲気だった。私は、そういう人に弱い。
     自分を大きく見せようとしない人。あるいは、大きく見せる必要がないくらい、本当に何かを持っていそうな人。右にスワイプした。
     「初めまして、ぜひお話させてください!」と、当たり障りのないメッセージを送る。彼の返答は、「神楽坂でカフェに行こう」、と至極シンプルだ。トントン拍子に予定を決めて、会うことにした。そんなわけで、初デートは神楽坂のカフェだった。
     日曜日の朝、九時半。休日の朝に初対面の男と会うのは、少し健康的すぎる気がした。夜に会うより安全で、昼に会うより真面目だった。神楽坂は坂が多い。店に向かう途中、小さなフレンチの看板や、古い料亭の黒い塀が見えた。東京には、生活していない人間にだけ綺麗に見える街がある。神楽坂はそのひとつだと思う。神楽坂の神楽坂らしい部分は実はごく一部で、石畳の通りや飯田橋とを結ぶ商店街以外は、かなり普通の住宅街だ。
     彼は先に着いて、窓際の席でホットコーヒーを飲んでいた。涼しげな白いシャツを着ていて、やはり飾らない感じだ。肌は少し荒れていて、目の下に薄いクマがあった。
     彼は、中国の地方都市で育ったこと、大学院から日本に来たこと、今は外資系投資銀行でクオンツとして働いていることを教えてくれた。日本語も英語も使えると言った。中国語はもちろん母語だ。
     私は、語学ができる人に弱い。語学というより、自分の世界を複数持っている人に弱い。日本語だけで暮らしていると、世界が一つしかない気がする。仕事も、恋愛も、家族も、将来も、全部同じ言語の中に閉じ込められている。彼はそこから少し外れているように見えた。欲をいえば、ピアノかなにか楽器ができたり、なにかの創作活動をしていたり、クリエイティブな人が好きだが、この際そういう贅沢は言っていられない。

     疲れたナード。金融機関で夜遅くまで働き、数学を使い、市場を分析し、莫大な金額を動かし、相応の報酬を得ている男性。そういうパッケージとして見ると、容姿の弱ささえ色気になった。
    「理華さん?」
    「はい。航さん?」
    「うん。航でいいよ。日本語、大丈夫」
     彼の日本語は、本当に大丈夫だった。イントネーションは少し平らだったけれど、語彙は自然だった。カフェで注文するときも、メニューを指差さずに話していた。私はカフェラテを頼んだ。
    「朝、強いんだね」
    「強くない。でも、初対面は朝の方がいいと思った」
    「どうして?」
    「夜だと、目的が曖昧になるから」
     私は少し笑った。
    「朝なら明確?」
    「少なくとも、飲みすぎたから、みたいな言い訳はできない」
     彼は真顔でそう言った。冗談なのか本気なのか、最初はわからなかった。三秒くらい後に、彼の口元が少しだけ緩んだ。あ、冗談なんだと思った。
     私たちは日本の金融の話をした。初デートで話す内容として正しいのかどうかはわからない。ただ、私たちにはそれが自然だった。
     彼は、日本のインフレは歴史的にみても異常な状態にあると言った。賃金がついてこなければ、物価だけが上がっても、人間はただ貧しくなるだけだという。私も、大部分に同意した。
     流動性リスク。信用リスク。中央銀行。資本主義の限界。少子化。都心の不動産価格の高騰。結婚市場。話題は、何度も大きくなって、そして小さくなった。コーヒーの表面に、小さな泡が浮いていた。カップの縁に口紅が少しつく。私はそれを親指で拭う。
    「理華は、頭がいいね」
     彼が言った。
     その言い方は、雑ではなかった。
     男性が女性に「頭がいい」と言うとき、そこにはしばしば値踏みがあると考えている。かわいいのに頭もいいね。女なのに話が通じるね。俺の話についてくることができるんだね。そういった、ある種の見下しが混じっていることがある。
     でも、彼の言い方には、それがなかった。ただ単にそう判断した、という感じだった。
    「そうかな」
    「うん。あと、負けず嫌い」
    「まだ一回しか会ってないのに?わかるの?」
    「話し方でわかる。反論するとき、目が少し大きくなる」
     私はわざと、目を細めてゆっくりと笑った。
     彼は笑った。
     居心地が悪く、そわそわする。見られていると思った。外見ではなく、話し方でもなく、もっと奥の、普段は自分で隠しているつもりのところを眼差された気がした。
     店を出たあと、少し街中を歩き回って、駅の近くで別れる前に、彼は言った。
    「僕は、理華のことを理解できると思う」
     普通なら、気持ち悪い台詞だと思う。
     初対面でそんなことを言われたら、警戒するのが正しい。理解できるなんて簡単に言う人間は、たいてい理解する気がない。自分が見たい形に相手を当てはめるだけだ。
     でも、そのときの私は、そうは思わなかった。彼が、あまりにも静かに言ったからかもしれない。自信満々ではなく、むしろ少しだけ痛そうに言ったからかもしれない。
    「僕も、子どもの頃、あまり普通じゃなかった。両親はずっと忙しくて、祖父母に育てられた。中国は競争が激しい。大学に入るために、みんな命を燃やす。負けたら終わりみたいな感じがある。だから、向上心がある人を見ると、少しわかる。頑張ってないと、存在していい感じがしないでしょう」
     私は何も言えなかった。頑張っていないと、存在していい感じがしない。彼はたぶん、少年漫画か何かで日本語を覚えたのだろうか、ときどき少し、情熱的すぎたり、大袈裟すぎたりする言い回しを使う。
     私は、コンサルティングファームで働いていた。毎日、大量のインプットを整理しては資料を作り、会議に出て顧客に説明し、会議を進行し、論点を整理し、誰かの意思決定を支援していた。支援という言葉は便利だ。実際には、誰かが責任を取らずに済むように、きれいな表や絵を作っているだけの日もある。
     けれど、それでも私は仕事が好きだった。仕事を通じて、自分がどこか立派な人間になっているような気がした。予定説というのを結構信じているから。ちゃんとした生活をして、ちゃんとした相手と結婚して、ちゃんとした未来に進みたい。そういう人間であれば、仕事を全力で頑張るはずだって思っているから。
    「また会いたい」彼が言った。
    「うん、私も」
     私は答えた。この人は危ないかもしれない、と少しだけ思った。初対面の相手に「あなたのことを理解できる」と言える人間は、普通に考えれば信用できない。相手の人生をほとんど知らないのに、少し似た生育環境や負けず嫌いな性格を見つけただけで、わかったような顔をしている。「理解できる」と言われることが、人間にとって普遍的な喜びであると確信している。そういう、思考の短絡さも垣間見える。
     でも、それ以上に、この人なら私のことを退屈させないかもしれないと思った。すべてを理解してもらう必要はない。すべてを理解できると錯覚させてもらえるなら、それでも良いのかもしれない。恋愛の入口としては、それで十分だった。
     帰りの電車で、彼からメッセージが届いた。
    『今日はありがとう。とても楽しかった』
     外国語を母語とする人の日本語は、ときどき、少し丁寧すぎる。
    『こちらこそ、ありがとう。また会おうね』
     私も、同じくらい丁寧に返した。メッセージの横に既読がつく。すぐに、次のメッセージが届く。
    『来週の日曜日は空いてる?』
     私は、スマホのカレンダーを開いた。すぐに予定を確認しているあたり、私はやっぱりまた彼に会いたいんだ、と確かめる。
    『午後なら空いている』
    『じゃあ、美術館に行こう』
     日程、時間、場所が、すぐに決まる。彼のプロフィールに、神楽坂と名前を入れていたことを思い出した。やはり、効率的で合理的なことが好きな人なのだと思った。
     仕事が早く、返事が早く、会う約束を曖昧にしない人。そういう人は、自分の人生を自分で管理しているように見える。その管理対象の中に、私も含めてもらえたことが、少し嬉しかった。

    三 五回目

     三回会ったくらいでは、人のことは信用できない。私は、そう思っていた。
     恋愛アプリで出会った人間を、三回で信用できるわけがない。初回で相性を確認して、二回目で好意を示し、三回目で交際を始める。そういう流れが、最近の恋愛市場では一般的とされている。
     恋愛に慎重というより、自分の判断を誤ることが嫌だった。交際したあとで「そんな人だと思わなかった」というのは、「自分には人を見る目がなかった」と認めることに近い。だから、航とは五回会った。
     二回目は、上野の美術館に行った。近代美術の企画展だった。私は美術に詳しいわけではないが、わからないものを見ることは好きだった。よくわからない絵の前で、よくわからないまま立ち止まる。他人が解釈した文章を読む。自分なりに意味を見つける。恋愛も、それに似ている。
     航は、一枚の抽象画の前で長く立ち止まった。
    「これ、好き?」
     私は聞く。
    「好きというより、気になる」
    「どうして?」
    「一見、ランダムに見えるけど、たぶん規則があるから」
    「絵も数式みたいに見るんだね」
    「理華は、どう見るの?」
    「綺麗か、家に飾りたいか」
    「それだけ?」
    「それだけでも良いでしょう」
     航は、少し考えてから、笑った。
    「理華は、実用的だね」
    「航に言われたくない」
     私は、少しだけ不満そうに言った。
     その頃にはもう、彼の冗談が冗談だと、3秒より早くわかるようになっていた。
     三回目は、丸の内でランチをした。
     お互いの会社が近かった。平日の十二時すぎ、地下道を歩く人たちは、みんな同じような速度で移動していた。黒や紺のスーツ、社員証、パソコンの入ったリュック。昼食をとりに行く人と、昼食を終えて戻る人が、二方向に流れている。
     私たちは、ビルの地下にあるイタリアンに入った。彼は、昼休みなのに、急いで食べなかった。
    「金融の人は、みんな五分くらいで食事を終えると思ってた」
    「どういう偏見?」
    「忙しいから、食事を摂取として処理していそう」
    「理華の方が、処理していそう」
    「私は、食事を楽しみます」
    「確かに、すごく美味しそうに食べるね」
     彼は笑った。普通のカップルか、あるいは父と娘に近いような、私のことを愛しく思っていることが伝わる言葉に、思わず嬉しくなってしまう。
     航は、私が知的であることを求めているようで、それだけを求めているわけではなかった。私が少し抜けていたり、意地を張ったりすることを、面白がっているように見えた。
     私は、優秀だと思われたかった。でも、優秀なだけの人間だと思われたくはなかった。その矛盾を、彼はうまく扱ってくれている。
     四回目は、代々木の和食居酒屋でビールと日本酒を飲んだ。彼は少し酔っていて、私はまったく酔わなかった。酔うと、彼はよく話す。普段からよく話すが、酔うと、話題に熱がこもる。仕事のこと。学生時代のこと。家族のこと。これまで交際した人のこと。結婚したいこと。子どもが欲しいこと。私は、否定せずに聞いていた。
    「理華は、結婚をしたい?」
    「したいし、適切な時期にしたい」
    「適切な時期って?」
    「二十七歳か八歳くらい」
    「どうして?」
    「三十歳までに、子どもが欲しいから」
    「計画的だね」
    「航は?」
    「欲しいよ」
    「何人?」
    「二人か、三人」
    「三人は多いね」
    「にぎやかな家庭がいい」
     私は、グラスの縁についた水滴を指でなぞった。
    「ちゃんと育てられる?」
    「お金は大丈夫だと思う」
    「お金だけじゃなくて」
    「僕は、自分の子どもには、寂しい思いをさせたくない」
     彼はそう言って少し目を伏せて、私は、その横顔を見た。
     両親ではなく、祖父母に育てられたという話を思い出す。私は、彼の過去を詳しく知らない。でも、知らない部分があることで、彼の言葉が深く見えた。人は、相手が語らない部分に、自分に都合の良い物語を置く。私は、航の寂しさを、私なら埋められると思い始めていた。
     店を出ると、夜の空気が冷たかった。航は、私の歩く速度に合わせていた。彼はサッと手をとって、私の手の暖かさをみとめ、笑った。
    「家に着いたら、連絡して」
    「わかりました」
    「電車で寝ないでね」
    「子どもじゃないから、大丈夫」
    「理華は、たまに子どもみたい」
    「航の前では、そう見えるだけじゃない?」
     私がそう言うと、彼は一瞬、黙った。それから、少し照れたように笑った。
     五回目は、原宿のカフェだった。
     週末の原宿は、若い人でいっぱいだ。小さな犬を抱いた女性。古着のジャケットを着た男性。外国人観光客。道路に落ちたタピオカの蓋。歩道の端に座り込んでスマホを見る高校生。童顔で化粧の薄い私は、この街にいると、高校生くらいに見えるかもしれない。
     航が選んだ店は、表通りから少し離れたところにあった。半地下の店内は仄暗く、椅子は硬く、テーブルは小さい。隣の席との距離は近いものの目線が交差しないようになっていて、居心地が良い。
     2人とも、『琥珀の女王』を注文する。甘く冷たいコーヒーに、ブランデーと生クリームを浮かべたものだ。偶然同じメニューを指差して、少しおかしくなる。
    「理華、僕たち、付き合おう」彼は、あまりにも普通に言った。
    「うん、お願いします」私も同じ調子で返す。
    「僕は、結婚したいと思ってる」
    「いつか、ということ?」
    「そんなに遠くない。僕は二十八歳。仕事も安定してる。もうすぐ管理職になると思う。日本にずっといるかは、まだわからないけど、少なくとも数年は東京にいる。理華も、結婚したいでしょう」
    「したい」
     隣のテーブルの女性が、少しだけこちらを見た気がした。
    「僕は、ちゃんとした家庭が欲しい」
     ちゃんとした家庭。彼の言う「ちゃんと」は、私の「ちゃんと」と、少し似ている気がした。そういえば、私の両親は自由な仕事をしていて、いつも私服で適当な時間に働いていたから、毎日スーツを着て、同じ場所に向かって同じ時間に出かける人に、憧れていたっけ。そういった、実態のない「普通らしきもの」への憧れ、欲望ということだろう。
    「僕と、付き合う?」
     彼が、もう一度聞いた。私は笑った。
    「そんなに面接みたいに聞くもの?」
    「面接ではない。でも、意思決定は必要」
    「恋愛も、意思決定なんだ」
    「そうだよ。感情だけだと、続かない」
     その言葉を、そのときの私は誠実だと思った。感情だけでは続かない。だから、意思決定が必要。そこまでは正しい。でも、意思決定をするということは、別の選択肢を捨てるということでもある。失敗したり裏切られたりするかもしれないけど、全ベットするという覚悟によって、関係値も感情も、より強いものになる。
    「いいよ、付き合おう」私は言った。
    「付き合おう」
     航も繰り返して、少し笑った。嬉しそうだった。控えめで、静かで、それでも、確かに嬉しそうだった。その顔を見て、ようやく安心した。彼も、私に選ばれたかったのだと思えた。
     竹下通りの喧騒から少し離れた道を歩く。冬の始まりで、空気は乾いていた。彼の手の温かさだけが、少し過剰だった。
    「理華」
    「なに?」
    「僕は、君を大切にする」
     私は頷いた。信じるには、早すぎる。でも、信じると決めるには、ちょうど良いタイミングだった。

    四 牛島

     交際して一か月ほど経った頃、私たちは済州島に行った。二人とも仕事の予定が合う週末が、そこしかなかった。交際を始めたばかりの相手と、海外旅行に行く。普通に考えれば、少し慎重になった方が良い。
     でも、私はむしろ、早く長い時間を一緒に過ごしてみたかった。二時間の食事を五回するより、二泊三日の旅行を一度する方が、人間性がわかる。疲れたとき、予定が狂ったとき、荷物を持っているとき、空腹のとき。その人がどう振る舞うかを見ることができる。私は、旅行を交際の適性検査のように考えていたし、航もそのつもりなんだと理解した。
     翌日、牛島に行った。
     小さな島だった。フェリーに乗って渡る。海は明るく、風が強かった。航の髪が、額に貼り付かない程度に乱れている。私は、その様子を見て、少し笑った。
    「なに?」
    「髪、風に弱いね」
    「理華、ひどい」
    「かわいいよ」
    「それは、褒めてる?」
    「褒めてる」
     航は、不満そうな顔をした。でも、少し嬉しそうでもあった。
     島では、自転車を借りた。電動の自転車で小さな異国の島の外周を回るのは、なんて贅沢だろうと思った。日本人と中国人が韓国でデートをしているのも、なんだか奇妙で面白い。海の綺麗さも空の青さも日本とさして変わらなくて、国籍も国境も、大した問題ではないのだと思わされる。
     海沿いのカフェで休憩した。2人ともみかんジュースを頼んだ。済州は、みかんが有名らしい。ジュースは濃く、少し酸っぱかった。グラスの外側に水滴がついて、テーブルに、小さな輪を作った。
    「こういう日々が、続けば良いね」
     伝えようとした瞬間に陳腐になるものほど、本当の感情に近いのかもしれない。航は、海を見ていた。
    「うん。穏やかな日々」
    「航、穏やかな生活とか、できるの?」
    「できるよ」
    「本当に?」
    「仕事は忙しい。でも、生活は穏やかにしたい。家庭は、マーケットじゃないから」
     その言葉を、私は覚えている。
     家庭は、マーケットではない。
     航は、深い意味で言ったわけではないのかもしれない。ただ、海を見ながら、恋人に向かって、好ましいことを言っただけかもしれない。でも、私は、その言葉を大切にしまった。こういった言葉を取り集めて、自分の中に相手の「人柄」を構築して、人は他人を信用していく。
     夜、ホテルの窓から海を見た。暗くて、ほとんど何も見えない。ただ、遠くに灯りがいくつかあった。航はシャワーを浴びていた。浴室から、水の音が聞こえる。私はベッドの上で、友人に、済州の写真を送った。
    『いいな』
    『楽しそう』
    『彼氏、優しそう』
     優しそう。友人の反応が好意的であることを確かめて、安心する。私は、他人から見ても、優しそうに見える恋人を選べていることが嬉しかった。自分の恋愛が、外から見ても間違っていないことを、確認したかった。
     シャワーの音が止まり、航が浴室から出てくる。髪が濡れていて、額が少し広く見える。私は、その姿を見ても、愛おしいと思えた。それが、幸福だった。

    五 水でできている

     クリスマスの夜、私は熱を出した。本当なら、航と食事に行く予定だった。予約していた店は、代官山のフレンチで、航が選んでくれた。
     私は、黒いワンピースを着るつもりだった。髪も巻くつもりだった。パールのピアスをつけて、少しだけ、大人らしくするつもりだった。がっかりした気持ちで、航にメッセージを送る。
    『ごめん、熱が出た。今日は行けない』
     返信は、すぐに来た。
    『大丈夫?病院行った?』
    『たぶん風邪。今日は寝る』
    『プレゼントだけ渡したい。駅まで行く』
     私の実家の最寄り駅まで、彼の家から電車で四十分ほどかかる。寒い夜だった。私は、寝癖のついた髪を軽く整えて、マスクをして、ダウンを羽織った。恋人が実家の近くまで来る。それだけで、交際が、個人的な遊びから、家族に接続する何かへ変わった気がした。
     駅前で航は待っていた。黒いコートに、マフラー。手に、小さな紙袋を持っている。吐く息が白かった。私は、マスク越しに、ごめん、と言った。
    「謝らないで。仕方ないことだから。大丈夫?」
     航は、紙袋を差し出した。
     中には、パールのイヤカフが入っていた。小さくて、上品で、私の好みに近かった。値段は、たぶん、一万円前後だと思った。私は、その場で、かわいい、と言った。本当にかわいくて、嬉しくて、本心でそう言いながら、頭の中では勝手にそろばんが弾かれる。航の年収を考えたときに、安すぎる気がしたのだ。年収3000万円〜4000万円ほどということは、ボーナスも均等に割ったとして、月の手取りが200万円ほど。あまりにも安いと、瞬時に計算してしまう。
     プレゼントは、金額ではない。頑張って選んでくれたこと、実家の最寄り駅まで届けに来てくれたこと、私と時間を過ごしてくれていること。すべてが真実なのに、なぜか釈然としない思いがする。私が、欲深いだけなのか。そう思って恥ずかしくなり、全力の努力で、せせこましい思考を頭から排除する。
    「ありがとう」私は言った。
    「似合うと思う」そう言って笑う彼は、自信たっぷりだった。

     年が明けて、私たちは、同棲の話をするようになった。五月には一緒に住もう、と航が言った。航は、白金にマンションを買っていた。タワーマンション。引き渡しは、もうすぐだった。私は最初、冗談だと思った。でも、彼は、物件の資料を見せてくれた。
     間取り。価格。住宅ローン。管理費。駅からの距離。将来の資産価値。リビングの窓は大きく、都心の夜景が見えるらしい。寝室は二つあった。一つは、将来、子ども部屋にできると説明された。
    「白金、住みたい?」
    「住みたいかどうかで言えば、住みたい」
    「理華は、正直」
    「白金のタワーマンションでしょう。住みたくない人の方が、少ないと思う」
    「一緒に暮らそう」
     航は、自然に言った。私は、少し黙った。嬉しかった。嬉しさは、いつも、少し遅れて怖さを連れてくる。まだ何も手に入れていないのに、もう、失いたくなくなった。今勤めている会社に内定をもらった時も、「実は間違いだったって言われるんじゃないか」と根拠のない不安に苛まれたし、入社してからしばらくも「どうせすぐにクビになるんじゃないか」と思っていた。自分に自信がないわけじゃない。どうしても、幸せや確かな成功が自分の人生に現れてくると、違和感を覚えるのだった。
    「本気?」
    「本気じゃなかったら、言わない」
    「そうだよね」
     彼の部屋でその話をした夜、私は、お風呂上がりにメディキュットを履いていた。水色の着圧ソックスを、太ももまで引き上げる。脚が、むくみやすい。仕事中、長い時間座っているせいだと思う。夕方になると、足首が重くなる。むくみ、水、涙、血、汗。
    「それ、何をしているの?」
     航が、ベッドの上から聞いた。
    「足のむくみを取るんだよ」
    「むくみ?」
    「水分が溜まるの。脚が重くなるから、圧をかけて、流す」
    「へえ。中国の有名な古典に、『紅楼夢』というのがある」
    「知ってる。読んだことはないけど」
    「そこに、女性は水でできている、という言葉がある」
     私は、手を止めた。
    「なに、それ」
    「正確な引用は、少し違うかもしれない。でも、女性は水でできていて、男性は泥でできている、というような話。主人公が、そう言う」
    「急に、どうしたの」
    「理華は、水っぽい」
    「褒めてる?」
    「褒めてる。柔らかい。形を変えられる。でも、強い」
     私は笑った。こういう会話に、私は弱かった。知性がユーモアと、生活と思いがけず接続する瞬間。
    「私、水でできてるんだ」
    「たぶん」
    「じゃあ、航は泥?」
    「かもしれない」
     航はそう言って、少し笑った。私は、その夜、航のことを、本当に好きだと思った。この人となら、退屈しない。だいたいの天井が見えてしまった自分の人生、日本の昨今の過ごし難い気温、社会不安、少子化、インフレ、レイオフ……。そういうものから距離をとって、頭の中だけでも自由な存在になれたような気になれる。

    六 CANMAKE

     違和感はいつも、割と明確なものだ。生活の中に現れる明らかな異変を、自分が受け入れるまでの時間に「違和感」と呼ぶだけであって、違和感が生じた時点で手遅れのことが多い。これは仕事でも、生活でもそうだ。焦げくさいかも、と思った時にはだいたい火は燃え広がっている。
     彼の部屋に泊まった、日曜日の朝だった。航は、近くのコンビニへ行っていた。私は、洗面台で顔を洗おうとして、鏡の横の棚を開けると、そこに、見慣れないポーチがあった。
     ピンク色のポーチ。
     私は、一度、棚を閉めた。閉めてから、もう一度開けた。こういうとき、人は、なぜ同じ動作を繰り返すのだろう。見間違いであってほしいからだと思う。
      ポーチの中には、化粧品が入っていた。CANMAKEのアイシャドウ。CANMAKEのチーク。CANMAKEのリップ。ドラッグストアで買うことができる、安物ばかりだ。私は、その安さが、かえって引っかかった。高級ブランドの化粧品なら、まだ、理解できるような気がした。年上の女性。元恋人。美しい過去。自分とは別の場所にいる、完成された女性。そういう物語を、勝手につくることができる。
     庶民的なメーカーの製品であることから、そこにいる女性の輪郭が、急に、生々しくなる。大学生、新卒、化粧を覚えたばかりの女性、外国人。
     洗面台の下には、パジャマがあった。薄い水色のパジャマ、生理用品、クレンジングシート、ヘアゴム、歯ブラシ、女性のお泊まりセット、一式。だいたいのことを理解して、何人かの男友達の顔を思い浮かべる。次に付き合うなら、誰にしよう。
     そういえば、航の部屋は、生活感が薄かった。必要なものだけが、整然と置かれている。白いシーツ。黒いデスク。大きなモニター。数冊の専門書。プロテイン。電気ケトル。一人暮らしの部屋というより、仮住まいのような部屋だった。
     頭の中で、反射的に状況を整理する。私の荷物も、彼女の荷物も見えない場所に置いていることから、どちらが本命とか、より大切とかそういうことはなくて、単に二重交際をしているんだろう。
     私も、彼の部屋に、少しずつ荷物を置いていた。歯ブラシ、コンタクトの洗浄液、メイク落とし、下着、部屋着、ヘアミルク。その量が増えることを、関係が深まった証拠だと思っていた。疑り深くて心配性の癖に、すぐに人のことを信用してしまう、気持ちが高まると舞い上がってしまう、自分の素直すぎる性質が少し嫌になる。
     玄関のドアが開いて、航がコンビニの袋を持って戻ってきた。コーヒーと、ヨーグルトと、私が好きなカットフルーツ。彼は、私の顔を見て、すぐに、何かあったと気づいたらしい。
    「どうしたの?」
    「これ、なに?」
     私は、ポーチを持ち上げた。
    「前の恋人のもの」
    「前の恋人?」
    「うん」
    「いつの?」
    「少し前」
    「少し前って、いつ?」
    「去年」
    「どうして、残っているの?」
     航は、コンビニの袋を、テーブルにそっと置いた。
    「忘れていった」
    「忘れていったなら、捨てれば良いでしょう」
    「勝手に捨てるのは、良くないと思った」
    「連絡して、返せば?」
    「もう、連絡してない」
    「だったら、捨てたら良いでしょ」
     航は、黙った。
     なんかもういいや、と投げやりな気持ちになってくる。今度は外国人と付き合うのはやめようかな、となんとなく思う。国際結婚をすると、戸籍の備考欄に「誰々と婚姻関係あり」と記載されるだけで、名字は変わらないらしかった。名字を変えるって面白そうだと実は憧れていたので、今度は少なくとも、国籍が日本の人にしよう、と思う。
    「捨てられない」
     航が言った。
    「どうして?」
    「思い出だから」
     不意に短い息が私の口から漏れて、笑ったような格好になった。
    「思い出?」
    「忘れられない人だった」
     浮気かどうかは、その時点では、まだわからなかった。最近のものかもしれない。ずっと前のものかもしれない。本当に、以前の恋人の忘れ物なのかもしれない。でも、忘れられない人のものを、これから同棲しようとしている女性の前で、保存している。その事実だけで、十分だった。
    「僕は、理華と一緒にいたい」
    「でも、その人の荷物は、捨てられない」
    「思い出と、今は違う」
     説明があると人は納得したくなる。こんなに説明してもらったんだから、納得してあげたいと思ってしまう。私は、これまで何度も、そうしてきた。返信が遅いこと。週末の予定を、急に変えること。スマホを、伏せて置くこと。飲みに行く相手を、曖昧にすること。
     彼は外国人だから。激務で忙しいから。中国と日本では、家族観や、恋愛観が違うから。幼少期の環境が、特殊だったから。違和感にひとまず理由を与えると、向き合わなくてよくなる。勝手に背景を想像して納得してあげれば、楽しく穏やかな空気を壊さずにいられる。私って自分本位なようで、意外と結構気遣いの人なんだな、と気づく。
    「一緒に住もう」
     航が言った。
    「なに、それ」
    「理華が不安なら、一緒に住もう。そうしたら、もう、こういうことはない」
    「こういうことって、なに?」
    「誤解」
    「誤解?」
     私は、航を見た。
     彼は、本気で言っているようにも見えた。少なくとも、本気に見える顔をつくることは、上手だった。
    「理華のことを、大切に思ってる。結婚も考えてる。だから、一緒に住もう」
      帰り道、電車の窓に、自分の顔が映っていた。白い肌。ぱっちりした目。少し丸い頬。健康的で、かわいい。私は、自分の顔が嫌いではない。むしろ、かなり好きだった。中性的で、柔らかくて、それでも、弱そうには見えない。こんなにかわいいんだから大丈夫、と、上司が聞いたら呆れて物も言えなくなりそうな無茶苦茶なロジックで、思考を手放した。

    七 損切り

     航のボーナスが、全額カットになった話を聞いたのは、その少し前だった。彼は、会社で、コモディティ関連のインデックス運用に関わっていた。金や、エネルギーなどの商品価格を組み合わせたものだと説明された。私は、詳細まではわからない。金融の話は好きだったけれど、航が仕事で使う数式までは、理解できなかった。
     航は、ときどき、白い紙に式を書いて、説明してくれた。私は、それを見ることが好きだった。理解しているというより、理解しようとしている自分が、好きだった。
    「日本オフィスで、過去最大の損失が出た」
     ある夜、航は、そう言った。いつもの落ち着いた声だった。
    「大丈夫なの?」
    「大丈夫ではない。でも、解雇にはならないと思う。ただ、ボーナスがすべてカットになる」
    「へえ」
    「家、買えないかもしれない」
     航が言った。
    「もう、買ったんじゃないの?」
    「ローンの審査と、支払いがある。条件が変わるかもしれない」
    「このアパートも3LDKだし、ここに住めばいいよ」 
    「理華、がっかりした?」
    「してないよ」
    「嘘」
    「少しはね」
     航は笑った。
    「正直で良い」
    「でも、航が無事なら、それで良いよ」
    「無事ではない。評価は、かなり悪くなる」
    「でも、解雇ではないんでしょ」
    「たぶん」
    「だったら、また、頑張れば良いよ」
     航はまっすぐ私を見た。
    「理華は、強いね。やっぱり、適応力がある」


     女性の荷物を見つけてから、一週間、航とは連絡を取らないことにした。時間を置いたら考えが変わると思ったし、たまに理由もなく涙が出ることもあった。ただ、三日目くらいで、なんだか中途半端な状態でいることに居心地の悪さを感じ始めた。ちょうど、次の年度の大きな案件を獲得することができた。思い返せば、少しハイになっていたかもしれないが、私は航のことがどうでも良くなっていた。
     それよりも、私の荷物が航の部屋に残っていることが気持ち悪くなった。あの部屋に、別の女性が来るかもしれない。その女性が、私の歯ブラシや、ヘアミルクや、下着を見つけるかもしれない。自分の暮らしぶりを誰かに垣間見られて、想像されること、もしくはその人が激情型だったら、うっかり荷物を捨てられてしまうことが怖いと思った。荷物を返してもらおう。
     私は、昼休みに、航を呼び出した。
    『荷物を返して。会社の近くまで来て』
    『今日?』
    『今日』
    『わかった。少し話そう』
     話すことなんてない。

    八 GOOD BYE

     航に水をかけた三分後には、私は、自分の席に戻っていた。白い紙袋を、足元に置く。スタバのピンクの水筒は空になり、リュックの横にちょこんと立っている。蓋の隙間から、少しだけ水が漏れ、床に小さな染みができていた。上司から、チャットが来ていた。
    『15時の資料、修正版を見せてもらえますか?』
     私は、ノートパソコンを開いた。
    『はい、あと10分で送ります』
     夕方、トイレの鏡を見ると、私は、まだ普通の顔をしていた。少し疲れている。目が、いつもより大きい。口紅が落ちている。白いスウェットの袖口に、薄く、水の跡がついていた。航に水をかけたとき、跳ね返ったのかもしれない。
     会社を出て、紙袋の中身を出した。歯ブラシ。コンタクトレンズの洗浄液。メイク落とし。下着。部屋着。ヘアミルク。ひとつ、私のではない靴下が紛れ込んでいたので、長い爪の先でちょんと掴んで、コンビニのゴミ箱に捨てた。
     夜、友人から、メッセージが来た。
    『どうだった?荷物、回収できた?』
    『できた』
    『話した?』
    『水をかけた』
     既読がつき、しばらく、返信がなかった。
    『え?』
     私は、少し笑った。
    『頭から、500ミリリットル』
    『それは、かなりだね』
     私は、ベッドに倒れ込んだ。スマホを握ったまま、天井を見る。部屋の照明が、少しまぶしい。髪が、シーツの上に広がっている。ヘアドネーションのために伸ばしている、長い黒髪。誰かのためになる髪。人のためにやってるわけじゃない。髪を伸ばすか切るか選択するのが面倒だから、ちょうど良い理由を見つけて乗っかっているだけだ。でも、誰かのためになるものが好きというのもまた、実は本心かもしれない。
     航と結婚する未来も、そうだった。忙しい夫を支える私。ブロックしたので、航からの連絡は、もう来ない。

    九 新しい家

     一週間後、私は、別の人と暮らし始めた。以前から知っていた男性だった。友人を通じて、何度か食事をしたことがある。航と別れたことを話すと、家に来れば、と言われた。
    「一人でいると、つらいでしょう」
    「つらくないよ」
    「じゃあ、普通に遊びに来ればいい」
     私は、断らなかった。一泊するつもりで、着替えを持っていって、翌朝、そこから会社に行った。夜になると、また同じ家に帰った。三日目に、コンタクトレンズの洗浄液を置いた。四日目に、仕事用の服を何着か運んだ。一週間後には、洗面台の端に私の化粧水と乳液が並んでいた。シャンプーとリンスも買ったし、私が料理を作るために、砂糖や塩胡椒、みりん、酒、などの調味料も買い込んだ。ヘアアイロンは、最初の週末に彼が買ってくれた。
     同棲は、契約ではなく、荷物から始まる。
     航の家から回収したヘアミルクも、そこに置いた。まだ半分以上残っている。捨てる理由はない。新しい彼は、当然それがどこから来たものか聞かなかったし、私も説明しなかった。
     朝、彼はコーヒーを淹れる。スタバやタリーズで買ってきた豆を、フレンチプレスで淹れる。私はハンドドリップしかしたことがないので、興味深くその背中を見守る。
     航より、少し肩幅がある。髪も黒く、量が多くてしっかりして、かっこいい。
    「今日、出社?」
     まだ寝ぼけている私に、彼が声をかける。
    「午後から」
    「お昼、食べる?」
    「食べる」
    「何がいい?」
    「なんでもいいよ」
    「なんでもいい、が一番困る」
     普通の会話だった。普通すぎて、安心する。こうやって少しずつ時間を重ねていくことで、凡庸だけどかけがえのない関係が紡がれている。真昼間の丸の内で人に水をかけた日のことも、思い出すたびに少しずつ現実味を失っていた。
     白金のタワーマンションで暮らすこと。五月に引っ越すこと。二人分の家具を選ぶこと。休日にスーパーへ行くこと。中国にいる家族に会うこと。子どもの名前を考えること。予定されていた出来事が、起きないこと。手に入れたはずの未来が失われたことを、いまいち受け入れきれずにいた。
     夜、新しい彼とスーパーに行った。卵。豆腐。長ネギ。ヨーグルト。鶏肉。二リットルのミネラルウォーター。
    「水、二本も買うの?」
    「たくさん飲むから」
    「重くない?」
    「持ってくれるでしょう」
    「もちろん」
     彼は、二本とも買い物かごに入れた。
     家に帰り、冷蔵庫のドアポケットに水を入れる。二本のペットボトルは、最初からそこに置かれる予定だったように、きれいに収まった。人間は、思っているよりずっと早く、新しい暮らしに馴染む。

    十 Liquidity

     代替不可能な人間はいないが、代替不可能性を理由に他人を愛することほど不誠実なこともない。代替不可能性というのは、あまりにも具体的すぎる。その要素がなければその人は要らない、その人でなくていい、その要素があれば誰でもいい、ということになってしまうためである。
    ……誰でもいいはずなのに、なぜかこの人がいいんだよね。
     そういった関係こそ、尊くて、目指すべきものではないかと思い始めている。代替可能だけどあなたを愛する、というのは、選択と覚悟の帰結であるから。
     朝、声をかける。コーヒーを淹れる。食事の内容を相談する。食事をする。体調を気遣う。買い物に行って、荷物を分け合って持つ。一緒にお風呂に入る。同じ布団に入る。将来の話をする。
     航がいた場所に、別の人がいる。違和感なんてマットレスの硬さくらいのもので、数日で慣れてしまった自分に驚いた。冷たいのではなくて、そうしなければ、生きていけないだけだ。
     新しい彼が、ベッドの横に置いてあるメディキュットを指差す。
    「これ、なに?」
    「足のむくみを取るもの」
    「効くの?」
    「わからない。でも、履くと安心する」
    「じゃあ、効いてるんだね」

     人は、相手を完全に知ってから賭けるわけではない。知らないところがあるまま、賭ける。知らないところを、これから知っていくという前提で、目の前にいる人に、自分の時間を差し出す。その賭けのことを、恋愛と信じている。
     目の前の人は私のことをまだ全然知らなくて、そのことが不安でたまらない。前の恋人に伝えた設定を、引き継ぐことができたら楽なのに、と考えて、可笑しくなって笑ってしまう。

      冷蔵庫から、水を取り出す。キャップを開けて、飲む。喉を通り、身体の中に落ちていく。身体に入れば、それがどこで買われた水なのか、誰の家で飲んだ水なのか、区別はつかない。女性は、水でできている。器が変われば、形を変える。流れ着いた場所に、少しずつ馴染む。弱さも強さも兼ね備えている。
     彼が、私の分のコーヒーを差し出す。
    「熱いよ」
    「大丈夫。飲めるよ」
     一口飲んで、熱いことより味が薄いことが気になった。私は、もう一口飲んだ。

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