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Photo byfeu_mito

「希死念慮」はなくならず、ただ、うまく後景化させるのみ

     希死念慮について考えている。

     最近の私は、常々、死にたい、生きている意味がない、と言っているが、別に今日明日死んでやろうということではないし、最近突然そう思い始めたというわけでもなくて、単に「ちょっと素直になってみよう」というノリの一貫として、死にたい、生きている意味がない、と言っている。

     特に難しい話ではなくて、自分のことを知っているすべての人が一斉に死んだとしたら、誰も悲しまないし、後処理にも苦労しないであろうし、別に良いだろう、という発想である。

     私がまだ小学生であった2011年頃に、HUNTER×HUNTERのアルカ編が連載されていた。アルカの能力は、アルカにお願いを叶えてもらう代わりにアルカのおねだりに答えなければならず、難しいお願いをするとおねだりも高難度かつ残酷なものになるというものである。もしおねだりに失敗すると、失敗した人と親しい、たくさんの人間が命を落とす、といったようなものであった。

     このエピソード・設定を読んだときには既に、「自分のことを知っているすべての人と一緒に死ねるなら、それって悪くないんじゃないか」と思っていた記憶があるので、私にとって人間が生きることの価値に対する懐疑は非常にプリミティブな問いである。

     そのため、私は最近「終わった、死にたい」と口癖のように言っているかもしれないが、従前と比較して死にたさが増したということもないし、死にたさを何かしらの行動に移すということもしていない。

     私は、上記のように、素朴な問いとして「生きること」に対して疑念を抱いている状態のことを、「希死念慮」と呼んでいる。

     下記の投稿(文章)について、考えたい。文脈は排除して、上記の定義するところの希死念慮に囚われている人間の身の振り方について考えたい。

    論点は浮気、酒、暴力ではなく、破滅的な行動をしてしまう原因である希死念慮にあるのだと思う。

    不幸なことに、生に執着のない人間には放っておけなさや色気のようなものがあってモテ続けてしまい、このような出来事が連続する。

    未来に向けた思考や努力ができる状態にない人間と、事実の整理や建設的な話し合いをすることは難しい。

    少なくとも、時間や距離を置くことが必須であり、落ち着いた上で、生きていく意思のない人間とどこまで、どのようにかかわり続けるかを判断する必要がある。

    私も彼には大変な迷惑をかけられたが、今は遠くから、物事がより個別的にマシな形に収まることを願っている。

    X(@siratama_warabi)

    https://x.com/siratama_warabi/status/2047133630712135871?s=20

     希死念慮が前景化している状態の人間というのは、そもそも、自分が何をやりたいか、やるべきか、が理解できていないという仮説があった。目標があり目標に向けた努力を日々重ねている人間の暮らしや思考には、「死にたい、生きている意味ってない」という発想は割り込まないと思う。

     仮説を検証するため、安定した暮らしをしている友人に、何が楽しくて生きているか、何を目標にして生きているか、を聞いてみた。すると、「この穏やかな暮らしを維持すること」と答えが返ってきた。予想外である。日々の暮らしそのものが自分のやるべきことである、という考えは、私の中には全くなかった。

     希死念慮のない状態というのは、日々の暮らしそのものが自分の最も遂行すべきミッションであると心底理解することではないか、という新しい仮定をおいて、では、どうすればその状態になれるのか、を考えていく。

     ここで、私が考えた方法が2点ある。

     1点目は、自身の快感の追求である。何も暴飲暴食するとか、めちゃくちゃセックスしまくるというようなことではなく、寝具はタオルケットと毛布と布団の3種類を用意して使い分けるとか、照明を暖色にするとか、コーヒーと紅茶を選べるようにしておくとか、そういったことである。

     なんとなくこっちの方が快適、というものを常に取り揃える。そうして、日常の不快感を極限まで排除することによって、「まあ、こんなに気持ちいいし、死ななくてもいいかw」的な状態を作り出す、ということである。

     2点目は、心的エネルギーを使い切ることである。1点目と矛盾しているように思われるかもしれないが、一部の人間にとっては矛盾しない。一部の人間とは、心身が結構元気で希死念慮に苛まれている人間のことである。

    どうして僕は生まれたのか?
    命の使い道を持て余している
    無駄でしかない膨大な時間と
    怒りと絶望紛らすには
    真夜中 全力で走るしかなかった

    ラストアイドル『愛を知る』

     ラストアイドルの『愛を知る』という曲の歌詞に、上記のようなフレーズがある。時間を持て余すと余計なことを考えてしまうというのは手垢のついた表現である。表面的な鬱を紛らすには確かに適当に忙しい日々を送ればいいと思う。だが、私自身の体感からすると、どんなに忙しくても希死念慮に苛まれることは可能である。

     では、どうすればいいかというと、「命の使い道」を明らかにすることである。自分はこれをやっているときは幸せだ、と信じてエネルギーを注ぎ込める対象を見つけ、これに没頭する。

     私は不器用で物覚えが悪いタイプであるが、並外れた体力と根性で大体の人間よりは上達することができてきた。努力型だと自慢するつもりはないが、努力をする才能(健康な身体、メンタルが終わっていても気持ちを切り替えずとも行動ができる処理能力・集中力)に恵まれたと理解している。

     すなわち、忙しい日々を送る中でも心的エネルギーが常に宙に浮いており、その心的エネルギーが死にたさへ向かっていて、心が死にたさに向かいつつも仕事や勉強、社交に励むことができるので、周囲からみると奇妙な人間性が出来上がってしまっているということである。

     そのため、心的エネルギーを投下できるようなものを何か見つける必要がある。そしてそれは、できることであれば、自分ひとりで一生続けることができる何かであると良い。恋愛や子育ては愛を注ぐ対象を失うとすぐに使えなくなるし、スポーツは老いとともに楽しめなくなるし、選択肢はある程度は限られてくる。私は現在、その心的エネルギーを投下するべき対象は、研究かもしれないし創作かもしれないが、何かしらの文章を書くことであると考えている。

     よって、私が当面やるべきことは、なるべく快適な環境を整え、モノを読み、そして書くことである。日々の暮らしをパンパンに忙しくしたうえで。

     

     

     

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