
竜宮からの呼び声
【あらすじ】
探偵の追川省吾は、大学生の謎の転落死を追う中で、異様な「浦島伝説」と黒蛇洞との関係に気が付いた。 調査の果てに辿り着いたのは、洞穴の水に潜む恐怖の真実だった。その水を飲むと未知の寄生体が脳を支配し、死者の幻影を見せて水死へと誘うのだ。かつて恋人を亡くした悔恨を抱える省吾の前に、死者を蘇らせる「救済」を説く狂気の男・神代が立ちはだかる。 怪異の正体が寄生体による支配だと知った省吾は、亡き人への未練を断ち切り、まやかしの再会を拒絶して自らの足で歩むことを決意する。人間の絶望と未練に付け入る怪異を描いた、戦慄の伝奇ホラー。
第一章 渚にて
夕暮れの春の海、波打ち際でそれを初めて見たのは、中学に入ったばかりの頃だった。白銀の帯に青い水晶を散らし、深紅の背鰭を持つ長蛇のような魚が妖しく身をくねらせていた。まるで、避けて通れない運命の予兆のように出現したが、やがて赤い紐の冠を付けた頭を暗い海の沖の方に向けると、何事もなかったかのように静かに深い海の奥に姿を消した。
それは、追川省吾が生涯でただ一度だけ見た深海魚の『竜宮の使い』の姿だった。この魚は深い海の底で暮らしているが、地震などの天災の前兆として浅瀬に出現するという噂から、終末を告げる魚と呼ばれるようになった。彼が夕暮れの海辺で見た不気味な美しい巨大魚の印象では、その名前の方がよりふさわしいような気がした。しかし、それよりも、もっと計り知れないのは、そういった異形の者を生み出す広大な海という存在だろう。
海の深度は、人の心の深さとも似ている。人の心の奥底にも異形の者が棲んでいて、いつそれが現れるかは誰にも分からない。
*
大学の卒業を控えたある日、中学の同級生から届いた突然の報せが、追川省吾の心を凍りつかせた。美月の訃報だった。あの公園で別れてから一年が経っていた。 彼女の遺体が見つかったのは、二人の故郷の海辺だった。夜の波打ち際で倒れてそのまま息を引き取ったらしい。死因は急性アルコール中毒だったと。
――いや、美月は自殺したのだと省吾には分かっていた。
あの時、彼女が「もう一度会いたい」と言ったときの震えていた声と、省吾が冷たく拒んだときの受話器の向こうの静寂がまざまざと脳裏によみがえった。自分の矮小な自尊心を盾にして冷たく彼女を突き放した結末がこれだったのだ。携帯を握る指先の感覚が失われて、血の気が引いていった。心に開いた黒い穴から溢れ出した冷たい水が、彼の全身を包み込み虚無の闇の底へと引きずり込んでいった。
どうしてあの時、彼女を受け入れられなかったのか。悔恨に引き裂かれそうになりながら、省吾の記憶は、すべての歯車が狂い出したあの大学時代へと巻き戻っていく。
*
高校を卒業すると、省吾は都内の大学に進学した。K大学の海洋学部だった。海辺の町で育ったので、海には親しみがあったのは当然だが、特に海の仕事に就きたかったのではなかった。町内には小さな漁港があったが、多くの漁民の生活は貧しくて、彼にとっては、海の仕事は憧れるような職業ではなかった。父親は町役場に勤めていて、裕福とまではいかなかったが、高校の頃までは比較的落ち着いた家庭生活だった。
大学進学を控えたある秋、平穏だった家が積み木のように崩れ落ちた。父親の不倫――それも狭い町役場の中での、既婚者同士の醜聞だった。連日、家の中での両親の怒号の応酬と、周囲の冷ややかな視線。それに耐えかねたように父親が出奔し行方不明になった。省吾は受験勉強どころではなかった。
なんとか大学に合格できたのは、生き物への興味だけで、滑り止めに願書を出していた、K大学の海洋学部だけだった。父親がいなくなったので事実上、母子家庭になってしまった。大学で奨学金をもらって、学費の方はなんとか支払いの目途はついたが、卒業するためには生活費とアパート代は自分で稼ぐ必要があった。 バイトと授業の単位を取ることに忙殺される毎日で、省吾にとって唯一の楽しみは、一緒に上京して、看護専門学校を卒業して、看護師として働いている中学時代の同級生の松影美月と時々会うことだけだった。
美月は省吾と同じ中学の出身だったが、小学校と高校は別だった。彼女の家は、彼女を大学へ進学させる余裕はなかった。それでも、卒業後の病院勤務と引き換えに返済が免除される奨学金を頼りに、美月は看護専門学校へ進み、資格を手に入れた。二十歳を過ぎたばかりの彼女の目には東京の夜景はただ煌びやかに映っていたはずだ。そこに自らの暗澹とした未来が潜んでいるなど、疑いもしなかっただろう。
中学を卒業して以来、会うことがなかった美月と再会したのは、二人がお盆休みで帰省していたときだった。偶然立ち寄った実家近くの雑貨屋で、店を手伝っていた彼女と目が合った。 美月は少し驚いたような顔をしたが、すぐに「省吾なの、少し、いい?」と言って、省吾を海辺に連れ出した。
穏やかな波が打ち寄せる砂浜で、二人は並んで水平線を眺めながらお互いにこれまでどうしていたかを話した。ショートヘアの小顔に、白いTシャツとジーンズ。真夏の光を浴て笑っている美月は、省吾の記憶にある、痩せてがりがりだった少女とはまるで別人のような大人の女性だった。その時の彼女の姿は、夏の光よりも眩しかったが、どこか透き通った薄いガラスのような危うさも秘めていた。そのときの彼女を、省吾は何年たっても残酷なスティグマのように忘れられないでいた。
東京に戻ってからも、二人は度々会って遊びに出かけるようになった。映画館の暗闇や遊園地の喧騒の中に美月といるだけで、省吾は輝く未来への入り口に立っているような錯覚をしていた。しかし、砂浜に描いた絵のように、幸福な日々は、あっという間に時という荒波に消し去られてしまった。
久しぶりに二人で映画を見に行った帰りの夜の公園でのことだった。省吾は美月に将来のことについて話をした。省吾が愛していることを美月はもう分かっているはずだった。けれど彼女は思いもよらないことを告白した。
以前から付き合っていて、結婚まで考えた医者の男がいたというのだ。しかし、相手の親の猛反対で破談になり、美月は妊娠していたが、中絶したと言った。省吾から見ると、美月はいいように騙されて、捨てられたのだと感じた。けれども美月はその男のことを悪く言うことはなかった。まだ男に未練があったのか、自分を惨めに思いたくなかっただけのことなのか、今となっては分からない。
省吾は、彼女の告白を聞いて、失望と悔しさと怒りがないまぜになって沸き上がってくるのを抑えることができなかった。
今、思えば、なぜ美月がそんな告白をしたのかという意味を省吾は理解することができなかったのだ。ありのままの美月を受け止める度量も勇気もなかった。自分自身の将来がどうなるかも、まだ見通せていない省吾には、彼女の傷の重さを受け止める余裕も力もなかった。その時、省吾はただ意味もなく泣き喚き散らしたあげく彼女と別れた。彼女とはもう会うことはないと思った。
それから何度か美月から省吾に、「会って、もう一度話をしたい」という連絡がきたが、省吾が美月に会いに行くことはなかった。会いたいという願望と、会っても仕方がないという無気力な心が交錯し、身動きが取れなかった。そうして拒絶を続けたまま、あの一年後の最悪な報せへと繋がってしまったのだ。
それからしばらくの間、省吾は抜け殻のようになって無気力な暮らしを続けた。いくら彼女のことを忘れようとしても忘れられないのだ。なぜあの時、もう一度会って彼女の話をもっとよく聞いてやれなかったのだろう。彼女が死んでしまった今となっては、どうやっても取り返しのつかないことだった。鬱々として日々を過ごし、就職していた会社を辞めて、再就職しても長続きせず、職を転々とした。そうやってその日暮らしのような生活を続けていた。
第二章 事故調査
ある日、大学時代に親しかった先輩から「もしもよかったら仕事を手伝ってくれないか」と声を掛けられた。その仕事というのは、その先輩が所長をしている探偵事務所の手伝いだった。その時に先輩から言われた言葉が「この仕事は誰かが人生を再出発させることを助けることができる」ということだった。
どういうつもりで先輩がそういう言い方をしたのかはその時は分からなかったが、省吾自身が求めていたのがまさに自分自身の人生の再出発だった。美月のことを思い出して胸が痛むことがあったとしても、省吾自身の人生を前に進めるために、探偵事務所の調査員として事務所の先輩の手伝いをすることにした。
省吾が勤める探偵事務所は、個人の依頼が大半を占め、企業からの依頼は稀だった。担当する案件のほとんどは浮気調査と人探しだ。当初、省吾は他人の不貞を暴く仕事に乗り気ではなかったが、それが離婚裁判での決定的な資料となり、泥沼から救われる人間もいた。
離婚が成立した後、ある依頼人が「これで人生をやり直すことができました」と涙ながらに感謝を口にしたとき、省吾はかつて所長が言ってた「この仕事は誰かが人生を再出発させる助けになる」という言葉の真意を、ようやく理解し始めていた。
だが、今回舞い込んだ依頼は、これまでの案件とは少し毛色が違っていた。依頼者は、ベージュの高級スーツに大粒の真珠を身に着けた、品格と威厳を感じさせる白髪の女性だった。所長が「不動産業界の女帝」と呼んで一目置いている本多和子だった。所長の指示により、省吾が直接話を聞くことになった。
「どういったご依頼か、詳しく伺えますか?」 省吾が単刀直入に切り出すと、和子は静かに語り始めた。
「孫の、小坂文彦のことなのです。文彦は聡明な子で、T大学の文学部で学んでいました。私を慕ってくれていて、大学を卒業したら私の元で不動産ビジネスを学ばせ、将来は事業の後継者に、と考えていました。本人も意欲的で、私も彼の卒業を心待ちにしていたのですが……」
そこで言葉を切り、和子はハンカチで目頭を押さえた。
「その文彦さんに、何があったのでしょうか」
「一カ月ほど前のことです。突然、亡くなりました。休日に『ちょっと海を見に出かけてくる』と言って家を出たきり、帰ってこなかったのです」
「行方不明になった、ということですか?」
「いいえ。電車で一時間ほどの場所にある海浜公園の展望台から、転落したのです。あそこは海を望む人気のスポットですが、展望台には高い柵があります。それなのに目撃者の証言では、文彦は何かに取り憑かれたように柵を乗り越え、そのまま真っ逆さまに……」
和子は重いため息をつき、視線を落とした。
「それは……心中お察しいたします。ですが、その件について何か不審な点があるのでしょうか」
「警察からは自殺の可能性も否定できないと言われたようです。ですが、娘――文彦の母親は、あの子に自殺する理由なんてない、あり得ないと申しましてね」
和子は顔を上げ、射抜くような鋭い視線を省吾に向けた。
「卒業を控えた時期ですから、将来への不安など、表に出さない悩みがあった可能性も否定できませんが……。何か思い当たる節は?」と省吾は聞いた。
「文彦には高校時代から親しくしていた恋人がいましたが、三年ほど前、彼が大学に入って間もなく病気で亡くなりました。若年性の特殊な癌だったそうです。当時はかなり落ち込んでいましたが、それもかなり以前の話です。その後は快活な文彦に戻り、元気に暮らしているとばかり思っていました。それが今回の件に関係しているのかどうか……」
それを聞き、省吾の胸にチクリとした痛みが走った。亡くなった美月のことが頭をよぎる。大切な人間がこの世から消えたときの空虚さは、自分も嫌というほど知っている。だが、それだけで三年の月日を経て自ら命を絶つだろうか。
「母親の話では、四年生になって研究室に配属された頃から、文彦は人が変わったようになったそうです。口調こそ明るいものの、次第に痩せ細り、目だけが異様にぎらぎらするようになったと。それに夜中、誰かと会話するように『……そこで待っていてくれ。あそこは……』と、うわ言のように繰り返していたのを、何度も聞いたそうです」
和子は一息つくと、切実な声で続けた。「娘は、大学でのトラブルか何かが原因で、事故に巻き込まれたのではないかと疑って泣きついてきたのです。あの子にとって文彦はたった一人の息子ですから、死が納得できない気持ちは痛いほど分かります。私も、文彦がなぜ死んだのか、その本当の原因を知りたいのです」
「警察の捜査状況はどうなっているのですか?」
「刑事さんが娘のところへ聞き取りに来たようですが、結局、明確な原因は特定できず『原因不詳』として処理されましたようです。ですから、こちらの事務所に再調査をお願いしたいのです。費用と時間はいくらかかっても構いません。納得のいく答えを、あの子の死の理由を、明らかにしていただきたいのです」
和子は冷めたお茶を一口飲み、祈るような目で省吾を見つめた。
「……分かりました。警察が調べて判明しなかった以上、どこまで踏み込めるかはお約束できませんが、全力を尽くしてみます」
省吾がそう答えると、老婦人はようやく微かな笑みを浮かべた。彼女は外で待機していた秘書に付き添われ、静かに事務所を後にした。
第三章 異説・浦島伝説
大学の文学部、口承文学研究室に在籍していた文彦の卒業研究の指導教員は神代達也という講師だった。まずは、神代について省吾は調べてみることにした。
事前に大学関係者から集めた神代の評判は、決して悪くなかった。神代の専門分野は口承文学で、前任の沖浦進次郎教授が亡くなった後、その研究を引き継いで浦島太郎伝説をライフワークにしているという。以前に妻子を同時に交通事故で亡くしてからは、研究室に配属される学生たちを我が子のように熱心に、寄り添うように指導していたそうだ。今回の文彦の転落死に対しても、神代はひどく心を痛めていたらしい。警察が一度、彼の元へ聞き込みに訪れたようだが、大学での明確なトラブルの跡は見つからなかったようだ。
しかし、省吾の探偵事務所での経験からすると、人間には表と裏があり、表面的に見える人柄と、実際にその人が行っていることには、大きなギャップがあることもよく承知をしていた。神代についてもよく調べてみないと本当の姿は見えてこないと考えていた。
省吾は神代に連絡し、大学で会う約束を取り付けた。省吾がK大学の口承文学研究室を訪ねたのは、ちょうど夕暮れ時だった。
「どうぞ、そちらのソファーへ」
迎え入れてくれた神代達也は、事前に聞いていた通り、いかにも温厚そうな男だった。しかし、研究室のドアを開けて中に入ると、単なる古書の黴臭さだけではなく、微かに淀んだ泥水のような生臭い匂いが漂っているように感じた。表情には出さないものの、探偵としての経験が、省吾に微かな違和感とそれに対する警戒感を生じさせていた。
挨拶を交わして腰を下ろすと、夕刻の窓から差し込む橙色の光が、神代のずんぐりとしたシルエットを逆光の中に浮かび上がらせていた。それはまるで、薄暗いお堂に安置された木彫りの座像のようだった。
省吾は話をきりだした。「実は、亡くなられた小坂文彦さんのご親族からのご依頼で、彼の死因について調査をしております。小坂さんは卒業研究で神代先生の研究室に所属していたということですが、当時の彼の様子を聞かせていただいてもよいでしょうか?」
「警察の方からは、小坂さんの件は、事故と自殺の両方の可能性があり特定できなかったと聞いています。何か特別ご不審な点でもあるのでしょうか?」神代は省吾に対して訝し気に聞き返した。
「小坂さんのご遺族の方々、中でもお母様が、小坂さんな亡くなられた件について死因不詳とされていることについて納得されていないようです。本当は別に原因があるのではないかと考えておられるようです。それで神代先生から見て小坂さんの大学生活の様子について、何かお気づきの点があれば、伺いたいと思っています」
「警察の方にもお話しましたが、小坂さんはまじめで、成績も優秀な学生さんでした。小坂さんは卒業研究のため私の研究室に来ていましたが、私も四六時中彼を見ていた訳ではないのですが、私が見ている範囲では、彼が亡くなる前に何かトラブルに巻き込まれたとか、そういった様子はなかったように思います」神代は淡々と答えた。
省吾は続けて聞いた。「神代先生の研究室では、浦島太郎伝説を長く研究されていたように聞いていますが、小坂さんも卒業研究は浦島伝説をテーマにしていたのでしょうか?」
神代は少し思案するようだったが、説明を始めた。「私が担当している口承文学研究室では各地に残っている様々な伝説がどのような歴史的経緯を辿って成立したのかを中心に研究を行っています。前任の沖浦教授時代からこの研究室では浦島太郎伝説、特に地方にあるユニークな浦島伝説の成り立ちを主要なテーマにして取り組んできました。小坂さんも地方に残っている浦島太郎伝説を卒論のテーマにしたいと言っていました」
「浦島伝説といえば、良く知られている唱歌の浦島太郎の話では、若者が助けた亀に連れられて、竜宮城に行きます。そこで数日、乙姫の歓待を受けるが、故郷が恋しくなって戻ってみると数百年がたっていて、玉手箱を開けると、おじいさんになってしまった、という話ですね。地方によって浦島の話は違うのですか?」
「実は、浦島太郎伝説というは、日本各地に残っています。有名な所では、例えば京都府の丹後半島には浦島神社があります。また香川県の荘内半島には浦島太郎伝説に関係する地名が点在しています。浦島太郎伝説との関連がある土地は少なくとも数十か所あると言われています」
「なるほど、各地に浦島太郎伝説のゆかりの場所があるということは分かりましたが、小坂さんが卒業研究のテーマにしようとしたのはどの地方の浦島太郎伝説なのでしょうか?」
「小坂さんが卒業研究のテーマに取り上げようとしていたのは、北関東のI県の立石町の周辺にのみ見られる独特な伝説です。実はこの伝説を最初に採集したのは、口承文学講座の前任者の沖浦進次郎教授です。残念ながら、研究成果をまとめる前に亡くなってしまいましたが。小坂さんは、自分も立石町の浦島伝説を卒業研究のテーマにしたいということでした」
「それはどんな伝説なのか教えていただけますか?」
「立石町の近隣に残っている浦島伝説の面白いところは、浦島太郎が玉手箱を開けて老人になってしまった後の話になっていることです。老人になった浦島太郎は、竜宮城に乙姫を置き去りにしたことを後悔します。そこで町で信仰されていた黒蛇様にもう一度竜宮城の乙姫のところ戻りたいと祈願します。黒蛇は、その願いを聞き入れて、老いた浦島太郎を竜宮城に連れて行きます。竜宮城に浦島太郎が戻ってくると乙姫は再会できたことを喜び、二人は再び結ばれて竜宮城で幸せに暮らしたという伝説です」
「随分と浦島太郎に都合のいい話になっているような気がしますが…」と、省吾は神代に言った。
「確かにそうですね。けれども浦島太郎が竜宮を去った後、再び戻って乙姫と再会できた、という結末の伝承は、他にも幾つかあるのですよ。人々の願望もそこには含まれているのでしょうね。都合のよい話かもしれませんが、人間というのは、元々自分の都合のいいことを望むものではないですか」
神代の表情は逆光の影に沈んでいたが、口元が歪んで、生成(なまなり)の面のような笑みを浮かべた。
省吾は去り際に、神代の机の隣の台に顕微鏡が置いてあることに気付いた。それで「文学研究でも顕微鏡を使うことがあるのですか?」と聞いた。顕微鏡台の近くの棚には液体の入った容器が沢山並べられていて、汚れた顕微鏡台の上にはプレパラートが乱雑に投げ出されたように置かれていた。最初に研究室に入ったときに感じた泥水のような異臭の原因は、何か水生生物の標本でも調べているせいなのかと思った。
「口承文学研究では伝説と史実の検証が必要になることがあります。例えば、古文書の紙の状態を調べたり、遺物についた花粉を調べたりすることもあります。そんな時には顕微鏡を使うことがよくあります。今はAIも発達していますし、インターネットの活用なども必要です。現代の口承文学の研究は机の上で本を読んでいるだけでは済まないのですよ」神代は笑いながらそう言った。
研究室の窓の外は、日が没して夕闇が迫ってきていた。これ以上、小坂の詳しい話を神代から聞き出すことは難しそうなので、面談はこれぐらいで切り上げることにした。省吾は、帰りがてら、他の学生に小坂の大学での様子を聞いてみようと考えていた。
第四話 証言
卒論のために神代の研究室に配属になった学生は三名だったが、その中の一人から省吾が話を聞けるように小坂の母親が段取りを付けてくれた。小坂の母親によると紹介してもらった松本礼二という学生は小坂とは親友だったようだ。T大の最寄り駅の近くの古い喫茶店で落ち合って省吾は松本に話を聞くことにした。この喫茶店は人通りの多い表通りから外れた場所にあって、客も少なくボックス席になっているので、話をしやすいと、松本の方から指定してきた。秋の午後の穏やかな日差しが店内に差し込んでいた。松本は、スポーツマンタイプのがっしりした体格で、落ち着いた様子で先に店で待っていてくれた。
省吾は、他に客がいなかったので、直ぐに松本を見つけることができた。自己紹介をして、コーヒーを注文し、少しだけ雑談めいたやりとりを松本としてから小坂のことを聞いた。
「まず、小坂さんが亡くなった件について、何が原因だったのか思い当たることはありますか?」
松本は、省吾のいろいろな質問に素直に答えてくれた。特に隠し立てをするようなそぶりはなかった。
「小坂君が突然亡くなったことには、僕も驚いています。自殺したのではないかという見方もあるようですが、それは絶対にないと思います」
「どうして自殺ではないと思うのですか?」
「それは、亡くなる前の小坂は、以前よりもずっと陽気で元気だったからですよ。僕は小坂とは一回生の時からの付き合いでした。大学に入って間もない頃の彼は明るくて気さくな男でした。けれども、彼の高校時代からのガールフレンドが病気で亡くなったのです。それが、ショックだったようで、一時期とても落ち込んでいました。半分鬱のような状態が一年以上続いたような気がします。けれども徐々に回復してきて、四回生になって口承文学講座に配属された頃には、卒業研究にも熱心に取り組んでいました」
「そんなに卒研に熱心だったのですか?」
「夏休み前に、浦島伝説のある立石町で調べてみたいことがあるので、一緒に行かないかと誘われたので、行きましたよ。立石町はI県にあるのですが、都内からは近くに行くまでに特急で二時間ぐらいかかります。町の近くの特急停車駅から、後はローカル線とバスを乗り継いで行きました。まあメシは奢ってくれると言う約束でしたし、あの周辺は風光明媚なことでも知られているので、美味しい海鮮料理でも食べられたらいいかと思って行きました」松本は屈託のない笑顔で話し続けた。
「小坂が行きたいと言っていたのは、回向寺というお寺の裏にある黒蛇洞という場所です。回向寺の裏手に回ると、奥の方に洞穴があって、それが黒蛇洞でした。入口には柵があって立ち入り禁止になっていたのですが、古くて破れている箇所があったので、そこを通って小坂は中に入っていきました。僕は『見つかったら怒られるからもしれないから止めた方がいい』と言ったのですが、小坂は『松本は中に入らなくていいから外で待っていてくれ』と言ったので、入口の外で待っていました」
「そこで何かが起こったのですか?」と省吾は訊ねた。
「いいえ、小坂は十分ほどで直ぐに戻ってきました。『何か中にあったのか』と僕が聞くと、『予想どおり、奥の方に朽ち果てた神棚のようなものがあったよ。それから水が溜まっている所もあった』と満足そうに言っていました。その後は海岸の方に行って、海鮮料理の店があったので入りました。約束通り奢ってもらいました。それから少し漁港のあたりを散策してそれから帰りました」
「それだけですか、何かその他には気づいたことはありましたか?」
「その後、夏休み期間だったので、その間は小坂には会っていません。次に会ったのは、九月に入って大学の授業が再開したときでした。その時には、小坂は以前よりも、陽気になっているように見えました。『何か夏休みにいい事でもあったのか?』と聞きましたが、『何でもないよ』とはぐらかされました。 ただ、小坂は元々、少し太り気味の体形だったのですが、あの夏を境に、かなり痩せていました。運動した後のように大量の汗をかいていて――そのためか異常なほど水を飲んでいました。喫茶店でも、僕が話し終える前にセルフサービスの水をお代わりしに行くんです。喉を鳴らして飲むというより、喉そのものが意思を持っているかのように、ゴボッ、ゴボッという音を立てて水を吸い込んでいくんです。飲み終わった後、彼の首筋の多分黒く透けて見えてた静脈だと思いますが、まるで蛇みたいにうねって動いているように見えて……。あんなことってあるんですかね、正直言ってあれは少し不気味だったです」
「そうすると、元気だったけれど、少し不自然な感じがしたということでしょうか、他にはどうですか、些細なことでもいいので」
「小坂と卒業後の就職の話をしていても時折、別の方を向いて、心ここにあらずみたいな感じになることがあって、何を見ているのかと聞いてみると、『ガラスに当たった光が綺麗だから見ていた』そう言ってたこともありました。『最近光の反射が一層綺麗に感じる』とも言っていましたが、もともと芸術家肌のようなところがあったので、こっちは就職の内定の心配をしているのに、呑気なことを言っているなと思ってました。」
松本の話では、夏休み明けの小坂は元気だったけれど何か少し違和感を感じたということのようだ。松本は省吾との別れ際に「小坂君が亡くなった海浜公園は、『昔のガールフレンドとよくデートに行った場所だ』と言っていました。そこから見える海は『夕日が差し込むと光が反射して海の中に光の道ができたように輝いて見える』のだそうです。だから、小坂君は昔の思い出を辿って、展望台に上ったのかもしれません」
松本からの聞き取りはそれで終わったが、省吾は、小坂の件の調査にのめりこんでいっていることを自覚していた。なぜなら、まるっきり他人ごととは思えない感じがしていたからだ。小坂のガールフレンドの件と美月のことが何か重なりあって共鳴しているような感覚があった。それに小坂の調査を始めてから悪夢を時々見るようになった。例えば、黒い泥沼に足をとられて沈んでいき泥が自分の口に入り込んで、もがき苦しむ恐怖で夜中に、はっと目覚めることがあった。それでも、小坂の件は徹底的に調べた方がいいと思たので、省吾は立石町に行って黒蛇洞を訪ねてみようと計画していた。
第五章 黒蛇洞
黒蛇洞を管理しているのは、その傍にある回向寺のようなので、住職に電話して、会って話を聞くことを申し入れた。午後は、葬式が入ることがあるので、午前中に来て欲しいということだったので、省吾は朝早く、特急で立石町の近くまで行き、レンタカーを借りて、回向寺に向かった。磯浜で所々に急な海食崖が切り立っている海岸線に沿って車を走らせた。灰色の雲の下の、晩秋の寒々とした荒れた海には白波が立ち、轟音とともに大波が岸の岩に当たって飛沫を上げていた。
回向寺は海岸とは反対の山側にある。立石町は海岸段丘になっていて、海岸と山並みの間の狭い場所に人家が散在しているが、回向寺は山の麓のそれほど遠くない場所にあった。川沿いの雑木林に囲まれた坂道を車で行くと、風が吹くたびに紅葉した枯葉がバラバラと一斉に落ちて車のフロントガラスを叩いた。
回向寺の前の空き地に車を止めて石段を少し歩いて登ると、本堂が見えてきた。かなり古びてはいるが、手入れが行き届いた簡素な本堂があった。住職の住んでいる庫裏は本堂に接していて、玄関のチャイムを鳴らすと、住職が出てきた。作務衣を着た小柄な老人だった。方丈に通されてソファーに座って対面すると、小坂の親族から依頼されて、省吾は小坂の生前の行動について調べていることを住職に説明した。
小坂が亡くなったことを話すると「そういうことがあったのですか」とそう言って手を合わせた。
「小坂さんは、こちらの回向寺を訪ねた時、黒蛇洞に入って、何かを調べていたようなのですが、そのことはご存じでしたでしょうか?」
住職は驚いたような表情で「黒蛇洞は立ち入り禁止と表示して、柵もしてあるので、学生さんが中に入ったということは知りませんでした」
「どうして、洞穴は立ち入り禁止にしているのですか」
「これは回向寺の建立の経緯とも関係しています。この地に伝わる浦島太郎伝説のことはご存じでしょうか?」
「はい、神代先生からこの地方特有の浦島太郎伝説の内容は教えてもらいました。玉手箱を開けて年老いてしまった浦島太郎がこの地に流れ着いたが、黒蛇様にお願いして、再び竜宮城に戻ることができて乙姫と幸せに暮らしたという伝説ですね」
「そうです。実は、この伝説の背景に何があったかを、最初に調査されたのが沖浦教授でした。沖浦先生は、立石の浦島太郎伝説に出て来る黒蛇は、日本各地に伝わる他の浦島伝説とは違う特異なものだという観点から、黒蛇について詳しく調べようとされていました。彼は寺に残されていた古文書の文献調査の他に黒蛇洞の中の実地調査も行いました。その実地調査には私も立ち合いました。沖浦先生の門下生だった神代先生も一緒に洞穴に入って調査しました。沖浦先生によると黒蛇洞は玄武岩の海蝕洞穴で土地の隆起によって今は海岸段丘の上の方に位置するようになったのだろうという見立てでした。浸食により黒蛇洞には水が流れ込んでいて、水溜まりのようなものが、数か所ありました」
「どうして黒蛇洞は封鎖される形になったのでしょうか?」
「黒蛇洞は回向寺が建立されて以来、封印して立ち入り禁止にするようになったと、前住職からそう聞いています。詳しい経緯は、沖浦先生が寺に残されていた古文書を解読されて、黒蛇洞が封印された理由を明らかにして下さいました」
「どういう事だったのですか?」
「古文書にはこの地方では水難事故死が多いことが記載されていたそうです。水難に遭った人たちは漁師だけでなく、漁とは関係のない女性や老人が海や川で亡くなることもありました。その水難に遭った人たちの多くは黒蛇様の熱心な信者だったことが分かりました。黒蛇様というのは黒蛇洞の中に棲むと言われている神様で、この地方で独特の信仰対象とされていたものです。黒蛇様は不可能を可能にする強力な呪力を持つとされていました。黒蛇様に祈願するには黒蛇洞の中に入って特別な儀式をしますが、その詳しい儀式の内容はわかりません」
「黒蛇信仰というのは今もあるのですか?」
「今はもうありません。黒蛇信仰が死をもたらすという噂が広がり、この地方の領主によって、黒蛇信仰は厳しく禁じられました。それにも関わらず密かに黒蛇洞に参拝し、水難で死亡する者が続いたそうです。その対策として、黒蛇洞の前に回向寺を建立し、亡くなった方々を弔うとともに、回向寺に黒蛇洞を監視させる役割を担わせたようです。黒蛇洞を回向寺の監督下に置いたわけです。さらに黒蛇洞の前には魔を払う不動明王の祠を作り、洞穴の入口を柵で塞いで黒蛇の信者が近づかないようにしました。黒蛇信仰というのは既に絶えていますが、黒蛇洞は禁足地として今でも人が入らないように私の方で気を付けてはいます」
「今のお話だと黒蛇洞は死を招く呪われた洞穴ということだと思いますが、この地方の伝説の浦島が黒蛇に祈願し、願いが成就して竜宮城で乙姫と幸せに暮らした、という伝説と矛盾しませんか?」
「そうなのです。それで沖浦先生はその矛盾の理由を探ろうとしていました。沖浦先生には何らかのお考えがあったようで、それを自分で確認したいとおっしゃっていたのですが、残念ながら事故で亡くなってしまいました」
「沖浦さんが亡くなったのは、水難事故だったのですか?」
「いいえ、違いますよ。交通事故だったと聞いています。それに、黒蛇洞に入ったからといって人が死ぬことはありません。実際に私も沖浦先生の黒蛇洞の調査に立ち合いましたが、今でもこの通り生きていますからね。大分耄碌はしましたが」住職は少し自嘲気味にそう言った。
けれども、住職は少し真顔になると「そうは言っても、黒蛇洞の謎に興味を持った沖浦教授も小坂さんも亡くなったことには何か意味があるのかもしれません。お二人とも水難事故ではなかったようなので、偶然が重なっただけだとは思いますが・・・・」
「今回お話いただいたようなことは、神代先生はご存じなのでしょうか?」
「もちろん神代先生は沖浦先生と一緒に浦島太郎伝説の研究をされていたので、今お話した内容は全てご存じです。しかし、沖浦先生と神代先生からは、黒蛇洞と浦島太郎伝説の関係がはっきりするまで、変な噂が広まると困るから、この地方の浦島伝説の背景がはっきりするまで、あまり黒蛇信仰の話は他言しないで欲しいと言われていました。しかし、その沖浦先生や小坂さんが亡くなられていることが気になります。もしも、亡くなられた人たちの原因が分るのであれば、と思い。調査をされているという追川さんに、私が知っていることをお伝えしておこうと思ったのです」
話が終わると、住職は省吾を黒蛇洞に案内してくれた。住職の話した通り、回向寺の裏に不動明王の祠があり、さらにその奥の岩山に黒く穿たれた黒蛇洞があった。住職に許可してもらったので、入口を塞いでいた柵をどかして、中に入ってみた。人の背丈の倍ほどの高さの洞穴で、横幅はそれよりも少し狭かった。話に聞いたとおり、黒い岩でできたトンネルのような形の洞穴だった。それほど長い洞穴ではなく奥行は二十メートルぐらいだろうか。洞穴内は、奥に進むほど水に濡れていて、岩は滑らかで冷たかった。入口の周辺は苔で覆われている所もあったが、奥の方を照らすと懐中電灯に照らされて見えるのは水に濡れて剝き出しになった黒い岩肌と足元近くの大きな水溜まりだけだった。水が天井の岩の割れ目からぽたぽたとゆっくり一定間隔で滴り落ちて水溜まりを作っているようだった。
何か少し黴くさいような生臭いような匂いがした。どこかで嗅いだことが有る匂いのような気がしたが、神代の研究室の匂いに似ているような気がした。洞穴の窪みに溜まった水は外にはあふれ出していないので、下の岩盤の割れ目からどこかに流れ去って行っているものと思われた。洞穴の一番奥には、何十年も前に水に濡れて腐り果てた大量の古い衣服のような物、ふやけたしめ縄のような塊などが朽ちて壊れた台座のような物の上に重ねて置かれていた。
省吾は寺を後にした後、次にどうしたらよいかを考えていた。神代はあの面談の時、黒蛇の伝承については語ったが、この洞穴が『死を招く呪われた禁足地』であるという不気味な歴史については、一言も触れなかった。あえて伏せたのだろうか……もしも神代が何か隠したいことがあるのであれば、神代に再面談を申し入れても、あまり情報が得られないかもしれない。
小坂の死因に立石町の浦島太郎伝説が何らかの関係があるのなら、それの鍵を持っているのは、沖浦教授だろう。しかし彼は既に亡くなっている。しかも研究が未完成だったこともあり、詳しい研究内容は公表していないようだ。もしも、彼の日記やメモのようなものがあれば何らかの手掛かりが得られるかもしれない。そういった資料をどうやって手にいれたらよいか省吾は思案していた。
第六章 沖浦教授の記録
省吾が沖浦教授の研究資料を手に入れるために頼ったのは、調査を依頼してきた本多和子だった。本多が経営している不動産会社は、都内に幾つもの貸しビルを持つ業界の大物で、政財界だけでなく、大学の学長や経営者たちとも人脈の太いパイプを持っていた。本多が、どういう手の回し方をしたのか、省吾は知らないが、沖浦の親族が保管していた彼の私的な研究関係の遺品の資料を入手してくれた。沖浦は妻を早くに亡くして、子供もいないので、沖浦の遺品は実家の兄の方で保管してあったらしい。段ボールで二箱分あったが、期限付きで貸し出しをしてもらった。資料には沖浦のノートや日記、ビデオテープなどの記録媒体も含まれていた。
アパートの部屋に籠って、省吾は資料を片端から調べた。沖浦のノートやメモには、彼の学者としての執念と野心が並々ならぬ筆致で書き殴られていた。その遺品の中にあった資料から、肝心な部分を抽出してそれらを繋ぎ合わせると、省吾の背筋に冷たいものが走った。そこには信じられないような沖浦の行為が記録されていた。
現在、童謡で広く知られている浦島伝説は、日本書紀、丹後国風土記、御伽草子、明治時代の日本昔噺といったように、時代とともに様々な変遷を経て成立したものであり、単一の伝承というよりは、類似した複数の伝説の集合体と呼べるものらしい。その統合の過程で、各地のユニークなバリエーションはその時代に合うように取捨選択されて、現在の形に一本化されていったようだ。
しかし、沖浦の学者としての野心は、浦島伝説を単なる空想の産物と片付けるのではなく、歴史的事実と結びつけて実証することにあった。そのために彼が目を付けたのが、まさに立石町にのみ語り継がれている独特な浦島伝説だった。年老いた浦島太郎を再び竜宮城へ連れていく『黒蛇』の存在。そして、それが棲むという実在の洞穴。沖浦が回向寺の古文書を解読したところ、かつてこの地には、何らかの儀式によって『常世(竜宮や極楽、すなわち理想郷)』に至ることができると謳う、独自の黒蛇信仰が存在していたことが記されていた。その理想郷では、亡くなった者も蘇り、生者とともに暮らせる世界なのだという。
日記のページをめくるうちに、省吾は息を呑んだ。沖浦の目的は、単なる歴史の証明ではなかった。近隣の地方に残る古い風土記の類まで調べ上げた沖浦は、黒蛇信仰の秘儀が「黒蛇洞の神泉の水を飲むことで、あの世の者を呼び戻すこと」であることを見つけていた。そうして蘇った者は『戻り人』と呼ばれていた、という記述も発見していた。
その時、教授の手は歓喜と興奮で震えたに違いない。黒蛇に死者を呼び戻す力があるのなら、浦島太郎が失われた乙姫を呼び戻して再会できたという伝説ができたことも頷ける。そして何より、この儀式を実践すれば、若い頃に流産で母子ともに亡くした最愛の妻・理子を、あの世から呼び戻せるかもしれないと沖浦は考えたようだ。妻子を死なせてしまったという慙愧の念は、彼がどれだけ学者として成功しても消えることはなかったのだ。
さらに、直近の日記には衝撃的な事実が残されていた。ただ、死ぬ前にもう一度だけ妻に会いたい――その一心で、彼は狂気とも言える人体実験に踏み切った。ステージ四の末期肺癌で余命宣告を受けた老教授に、もう自身の死への恐怖はなかったからだ。
ノートの記述によれば、沖浦は黒蛇洞の泉の水を汲み、研究室の冷蔵庫に保管していた。その一部を弟子の神代に渡し、有害な水銀や鉛などの重金属、あるいは脳炎を引き起こすような微生物が含まれていないか、成分分析を行わせたようだ。神代からの「危険なものは含まれていない」という報告を受け、「それならば、試すだけだ」と、沖浦は採取した水を大量に煽った。
省吾は、遺品の中にあったボイスレコーダーの音声ファイルは黒蛇洞の水を飲んでからしばらくしてからの記録のようだったが、それを再生した。スピーカーから流れてきたのは、沖浦のひどく震える声だった。
『信じられないことだが……理子が、理子が本当に戻ってきた……』
さらに添付されていた短いビデオファイルを開くと、そこには驚くべき映像が映し出されていた。沖浦の結婚写真に写る若き日の妻と、生き写しの女性の姿がそこにいたが、少し奇妙な点があった。整った顔立ちの若い女は水を浴びたように濡れそぼった髪が、真珠のような白い肌に絡みついていた。着衣も水に濡れたように肌に張り付いて艶めかしい姿態を晒していた。
クローズアップさた顔の目は一度も瞬きすることがなかったが、目の中に小さな黒い線虫のようなものがとぐろを巻いているのが一瞬見えた気がした。突然その女はむせたようになって、俯いて何か黒いものを吐き出したようだったが、そこでふいにビデオは途切れていた。
最後の音声ファイルに遺された老教授の声は、『………向こうから妻が呼ぶので、そちらに行こうと思う……』だったが、どこかうっとりと夢見るような声だった。
これらの記録をどう捉えたらよいのだろうか。執念に取りつかれた男の闇の奥から響いて来るような声に、省吾は激しく混乱していた。死の間際に見せた沖浦の狂気、あるようないは未知の成分による脳が生み出した妄想なのか。それとも、老研究者が観察したことは「事実」だったのか。突然、省吾に別の考えが浮かんだ。小坂も黒蛇洞の水を飲んで似たような体験をしたのではないか。
自分も黒蛇洞の水を飲めば美月を再生することができるのだろうか。そしてまた美月を自分の腕に抱きしめることができるのではないか。悍ましい考えだが、抗い難い欲望への誘惑だった。
ふと我に返ると、もう一つの疑問が浮かんだ。黒蛇洞の水を分析したという神代は、一体このことをどこまで知っているのだろうか――。
第七章 竜宮への招待
省吾は沖浦の遺品を調べ、彼が信じられない行為をしていたことを知った。共同研究をしていた神代も、その事実の全貌を既に知っていたはずだ。また小坂が立石町の浦島伝説に興味を持って現地へ行き、黒蛇洞の水を飲んで、そのために死んだのだろうということにも神代は気づいていたはずだ。それなのにどうして、ずっと知らぬふりをしていたのだ。様々な疑問が沸き上がってきた。
省吾はまず、沖浦に何が起こっていたのかを理解するために、大学時代の友人である前田真理子を訪ねることにした。真理子は省吾と同じ大学、同じ海洋生物研究室の同期生だった。勉学では落ちこぼれの省吾に比べ、真理子は絵に描いたように頭脳明晰で成績優秀。そのまま大学院に進んで学位を取得し、教員に採用されるという学者コースを歩んでいた。美人で頭が良いのに偉ぶることはなく、学生時代にはデータ解析やコンピューターの使い方を省吾に教えてくれたり、同期の仲間と遊びに行ったこともある気の合う仲間の一人だった。沖浦のことはあまり他人に聞かれたくない話だったため、大学の閑散としたロビーで二人きりで話をすることにした。
省吾は、小坂という学生の死因を調査していること、それが亡くなった沖浦教授の浦島太郎伝説の研究と関係していること、そして伝説に出てくる黒蛇洞の水の正体を調べるために沖浦が洞穴の水を飲み、異常な体験を記録していたことを、経緯を含めて全て真理子に伝えた。
真理子は腕組みをしながら興味深そうに聞いていたが、一つの仮説だという前提で話を始めた。
「沖浦教授が自分で洞穴の水を飲んだ後に起きた変化は、その水に含まれている何らかの成分の影響によるものだと考えるのが妥当だと思うわ。一つ考えられるのは、寄生虫よ」
そう言われた瞬間、省吾は海洋生物学科の自習で、鯖を解剖したときのことを思い出して胸がわるくなった。開いた鯖の内臓には、ハンコを押した輪のような形でたくさん寄生していた。ピンセットで取り出すと、その白い紐状のアニサキスはくねくねと動いていた。アニサキスは食中毒の原因となる寄生虫で、アニサキスが寄生した魚やイカの生食をすると、人の胃壁に突き刺さって潜り込んで、強烈な腹痛を起こす。その実習から暫くの間はアニサキスの姿が頭から離れなくて、省吾は刺身を食べることができなかった。そう回想しなががら、省吾はハッと気づいた。そういえば、沖浦教授のビデオファイルに映っていた女の白目にも黒く細長い虫のようなものが写っていなかったか――。
真理子に「どうかしたの?」と言われて、我に返ると「いや何でもない、ところで脳に影響を与えるような寄生虫が人間でもいるのか?」と省吾は質問した。
「ええ。猫の寄生虫として知られているトキソプラズマは、人間の脳に入り込んで行動を変化させたり精神疾患を悪化させたりすることが知られているわ。それに、沖浦教授の精神症状や、古文書に書かれているという『水に惹かれるような異常行動』は、寄生虫のハリガネムシが昆虫に引き起こす脳の支配にとてもよく似ている気がするの」
「ハリガネムシというと、秋になってカマキリの屍骸お尻から出てくるあの気持ちの悪い細長い虫のことか?」
「そう。ハリガネムシの卵状のシストをカマキリが体内に取り込むと、成長したハリガネムシはカマキリの脳を操作して、次の宿主である魚にカマキリが食べられるようにするために、水面の光の反射に向かって飛び込むように誘導するの。黒蛇洞の水を飲んだ人間が、吸い寄せられるように水難に遭うということと、酷く似ているわ。カマキリの場合は単なる『光への走性』という本能のバグが起こっているに過ぎないわ。でも、人間の脳は、神経のバグをそのまま受け入れられないから、理由を後付けしようとする。光に惹かれて歩いてしまう肉体の異常を、脳内では『愛する人が光の国(竜宮)から呼んでいる』のでそれが導くままに進んでいるという幻覚になっている可能性が考えられるわ」
「なるほど。そうかもしれない……。でも、沖浦教授は水に飛び込んだんじゃなく、道路で車にはねられて亡くなったんだ。それも説明がつくのかな?」
「ハリガネムシに感染したカマキリは、アスファルトに反射した光を水面だと誤認して、道路に飛び出して轢かれて死んでいる例がいくつも報告されているわ。現代では、水面の代わりにアスファルトの道路がその役割を果たしているということは十分ありうる話よ。そう考えると、小坂さんの展望台からの転落死も、海面の光の反射に脳を狂わされたのだと説明が可能だわ」
「なるほど……。じゃあ、沖浦教授が亡くなった妻を見たというのは、ただの狂った脳の見せた幻覚なのか?ビデオに映っていた女は何だったのだろう?」
「仮にその未知の寄生体を『黒蛇』と呼ぶけれど、黒蛇が体内に入ることによって精神に重大な変容を与えるのだと思う。だから幻覚の可能性が高いわ。でも、あくまでも推測で本当のことはまだ分からない。ビデオの件は全くわからないわ。写っていたのは、本当に亡くなった奥さんなのかしら。でもね、省吾、これだけは気を付けた方がいい」
真理子はそう言って、省吾の顔を真剣に見つめながら言った。「仮に黒蛇が、光輝く天国や竜宮城のような幻想を人に見せたり、亡くなった人を呼び戻したりしたように見せかけたとしても、それは決して宿主である人間のために見せているのではないわ。黒蛇は自分の生存や繁殖のために人間を操っているだけ。……それに、神代という男にも気を付けた方がいい。彼は黒蛇の特性を、もっと早くから知っている可能性がある。何か、別の目的で動いているかもしれないわ」
省吾は最初に神代の研究室を訪れた時のことを思い出した。顕微鏡やプレパラートがあり水のような液体の入った容器も沢山あった。それに研究室に充満していた匂い、あれは黒蛇を培養・研究していた匂いではなかったのか――。
それに、と言って真理子は続けた。「最近、一部の学生の間で流行している『竜宮に関する都市伝説』があるの。何でも『竜宮への招待』という裏サイトがあって、そこでは亡くなった人に会えるということを宣伝しているらしいわ。なぜ亡き人に会いたいのか理由を添えて申し込むと、その方法を教えてくれる。けれど、それを申し込んだ自殺志願者たちが、かなりの数で行方不明になっているという噂よ。省吾の話を聞いて、それを思い出したわ」
真理子の顔は真剣そのものだった。 「わかった。真理子の説明でかなり頭の整理がついたよ。ありがとう」 省吾が立ち上がると、真理子は心配そうな表情で「気をつけてね」と声をかけた。
真理子と別れた後、省吾は急いでアパートへ戻り、ノートパソコンを開いた。彼女が口にした「竜宮への招待」という言葉に嫌な予感がした。 真理子から教えてもらった学生が使っている大学の裏サイトのURLから検索エンジンの駆使してようやく辿り着いたそのサイトは、拍子抜けするほど簡素な作りだった。漆黒の背景に、古びた明朝体の白い文字だけが浮かんでいた。
―― 『竜宮への招待』。
掲示板の形式をとったその場所には、目を背けたくなるような絶望と未練の言葉が、無数に書き連ねられていた。
「事故で亡くした息子に、あの日言えなかった『いってらっしゃい』を伝えたい」、「優しかったおばあちゃんにもう一度会って話を聞いてもらいたい」、「謝りたい。私が殺したも同然なんです。もう一度だけ、娘の顔が見たい」
それは、誰にも言えない後悔を抱えた者たちが、この世の地獄で縋り付く最後の蜘蛛の糸のようだった。書き込みの末尾には、管理者のものと思われる一文が添えられていた。
『あなたの思いは、どれぐらい強いですか。全てを捨てても、愛しい人にもう一度会いたいという覚悟のある方にのみ、亡き人をよみがえらせ竜宮へ至る扉を開く黒蛇様の神秘の鍵を授けます』
省吾はマウスを握る指が震えるのを止められなかった。このサイトを運営しているのは神代に違いなかった。それに掲示板に書かれている悔恨と悲嘆の言葉は、かつての、そして今の自分自身の心の叫びそのものだった。
神代は一体何のつもりでこんなことをしているのだ。甘言を弄して絶望した人たちを自殺への道に追い込むつもりなのか。パソコンを閉じると省吾は意を決し、神代に会い、小坂の事件とこのサイトの真相をはっきりさせようと決意した。
第八章 対決
省吾は神代に電話して面談を申し入れた。神代は省吾に見せたいものがあると言って、海岸近くの古いレストランを指定してきた。
省吾が車を走らせて現地に辿り着くと、神代はすでに海の見える窓を背にしてテーブル席に座っていた。繁忙期ではないせいか、広いレストラン内の客席はまばらに埋まっているだけだった。
省吾が神代の対面に座り、「お待たせしてすみません」と言うと、「私もあなたにお会いしたいと思っていましたので、ちょうどよかったです」と神代は笑いながら応えた。
「さっそくですが、神代先生。あなたは小坂さんが亡くなることを、事前に知っていたのではないですか?」
「どうしてそう思うのですか」と神代は探るような目つきで言った。
「私は、亡くなられた沖浦教授の遺品の中に残されていた研究資料を見ました。沖浦教授は黒蛇洞の泉の水を自ら飲み、亡くなった奥さんが蘇ったという幻覚を見ていた。そして、脳を支配されて道路に飛び出し、車に轢かれて亡くなった。あなたは、水の中に人間に感染して脳を操作する、寄生虫の卵のようなものが含まれていることに気づいていたはずだ。小坂さんにもその水を飲むように仕向けた」
「沖浦先生も小坂さんもご自分で黒蛇洞の泉の水を飲むことを選択されたのです。私が強要したことはない。そのことは、あなたも理解しているでしょう」
「……それだけじゃない」省吾はテーブルに両手をつき、神代を睨みつけた。
「インターネットの裏サイト『竜宮への招待』。亡くなった人に会えるという言葉で自殺志願者を集め、大量の行方不明者を出しているあのサイトを運営しているのは……あなたですね? 黒蛇洞の水を使って、多くの人を自殺に追い込んでいるんだ!」
神代は否定しなかった。それどころか、省吾を憐れむように酷く悲しそうな目で見つめた。
「自殺に追いこむなんてことはするわけがないですよ、追川さん。あなたは勘違いしているのです。私は彼らを『救って』あげているのですよ」
「救う……? 何を言っているんだ!」
「今の世の中をよく見てください。順風満帆で自分の思い通りに生きている人間なんてどこにいるのですか。もうどこにも逃げ場がなくなった人間はどうすると思いますか。毎日、ニュースを見ていたらわかるでしょう。詐欺、強盗、人殺し、犯罪に多くの絶望した人々が反社会的な行動に向かっています」
神代は静かに、しかし熱を帯びた声で語りかける。「未練と後悔の泥水をすすりながら、死んだように生きる毎日に絶望している人々が多くいるのです。私はね、そんな絶望の淵にいる哀れな人々に、あの『水』を分けてあげているだけなのです。最後に愛する人が待つ、あの光輝く美しい竜宮への幸福な旅立ちを助けてあげているだけなのです。だから、あのサイトを運営しているのは、私なりの慈善活動で、救済のためなんですよ」
神代の瞳には、一切の悪意も、やましさもなかった。本気で「自分は善行をしている」と信じ込んでいるのだ。その歪んだ純粋さが、省吾の肌を粟立たせた。
「沖浦先生が亡くなる前、私は先生から青白い顔をした奥さんのビデオを見せられました。皮膚の下で虫が蠢いているように見えた。私はぞっとしたが、同時に、現世の苦しみから解放された先生の恍惚とした表情を見て、理解したのです。小坂君も同じだ。彼は押し付けられた将来に絶望し、死んだ恋人に会いたがっていた。だから私は、あの水の存在を教えた。彼は幸せそうに笑って旅立って行ったと思いますよ」
「それはあなたの勝手な思い込みだ!」
「……本当にそうですか、追川さん。私もあなたのことを調べさせてもらいました。あなたは、恋人の松影美月さんを自分の手で突き放し、死に追いやった。その後悔の中で、抜け殻のように生きてきたのではないですか。あなたこそ、よみがえった彼女と再会して一緒になることを切望していた人間ではないですか」
「……黙れ!」
誰にも言えなかった心の傷を正確に言い当てられ、省吾は声を震わせた。
「美月は、あんたには関係ないことだ!」
「関係ありますとも。亡くなった恋人や優しかった家族にもう一度会って、話したい、あの頃に戻って、一緒に過ごしたいという願いは誰にでもあります。黒蛇でそれができるのであれば、それをやって何が悪いのでしょうか」神代の口元が歪んで笑っているように見えた。
「あんたのやっているのは、人に幻覚を見せているだけじゃないか」
「まだ分っていないようですね。あれはただの幻覚ではないのですよ。あの水の中には、顕微鏡でしか見えない微小な黒蛇の卵のようなものがいることを私は突き止めました。それが人間の体内で成長し、この世の理を越えた力で、実体を持つ『戻り人』を紡ぎ出すのです。追川さん、これからそれをお見せしますよ。私は数週間前に黒蛇洞の水を飲んでいます。もうこれ以上他人のための慈善活動には疲れたのです」そういって、神代は横を向いて窓の外に目をやった。
「レストランの外で私の妻と子が待ってくれているんです」
そしてもう一度、省吾の方を向いて「これまでの記録やデータをすべてこのバッグに入れてあなたに差し上げます。これをどう使うかは、あなたの自由です」
そう言って、ずっしりと重い茶色い手提げバッグをテーブルの上に置くと、「この窓の外を見ていてください」と言い残し、神代は席を立った。
省吾はバッグを見つめたまま身動きできなかった。その時、ふと、神代自身もかつて交通事故で妻子を亡くしていたことを思い出した。
省吾が窓の外へ目をやると、レストランから海食崖に続くなだらかな松林の道が見えた。海の上の雲と穏やかな海の両方が夕日に照らされ、荘厳な光の宮殿のような光景を作り上げていた。その道を、親子連れが歩いて下っていくのが見えた。父親、母親、そして子供の三人のようだった。真ん中の男が一瞬だけ振り返り、窓越しに省吾と目が合った。カーキ色の上下を着た神代だった。母親と子供の顔は逆光の影になって見えなかったが、三人はしっかりと手を繋いでいた。
しかし神代と手を繋いでいる妻と子の黒い影は、一瞬、ぐにゃりと人外の形に歪み、その手は地面に届くほど長く伸びているように見えた。省吾は一瞬、息をのんだ。だが、瞬きをした次には何事もなかったかのように普通の姿に戻っていた。神代は、その異形の妻子を慈しんでいるかのように微笑んでいた。その後、神代は再び振り返ることなく、向こうに光り輝く海が続いている松林の影の中へと消えていった。
省吾は、夕暮れの残照が消えるまで、窓の外を茫然と見つめていた。
第九章 エピローグ
あのレストランを去った後の神代の行方は今でも分からない。警察の話では、レストランの従業員が「三人の人影」が海食崖の方へ歩いていくのを目撃していたそうだが、足取りはそこで途絶えていた。崖下を捜索しても、水死体はついに発見されなかった。
神代から託された茶色のバッグを抱えて、省吾は故郷の町へ戻った。穏やかな波が打ち寄せる砂浜に立ち、黙って茫洋とした灰色の海を眺めていると、耳の奥で、神代の声が何度も木霊のように繰り返されていた。
――『愛していた亡き人にもう一度会いたいという願望は誰にでもある。もしそれができるのであれば、そうして悪いことがあるのでしょうか』
それを、悪と決めつけることはできないかもしれない。現に自分だって、美月を失ったときは、彼女にまた会えるならどんなことをしてもいいと思っていたのだから。
だが、今は真理子の言葉が省吾を繋ぎとめる。「あの『戻り人』は、絶望した人間を誘い出すための黒蛇の罠に過ぎない。奴が宿主の脳を操るのは、ただ自身の生存と繁殖のためだ」
神代は、黒蛇は救済だと言ったが、絶望に沈んでいる人にはそう見えるのかもしれない。けれどもそれは本当の救済なのだろうか。もし自分が黒蛇洞の水を飲み、黄泉の国から美月を呼び戻すことができたとしても、美月はいずれまた死ぬことになる。結局、美月に二度の残酷な死を与えることになるのではないか。
暮れなずむ海を前に、美月との思い出について、省吾は静かに思いを馳せた。もしあの時、彼女を受け入れて一緒になっていたらどうなっていたのだろうかと。その後の二人の人生が夢想するような幸せだったか、より不幸を招くことになったのかは誰にも分からない。けれども、二人で一緒に見たあの眩しい夏の輝きと美月の面影だけは、今も色あせることなく省吾の中に残っている。
人との出会いと別れは、二度と繰り返されることがないからこそ、それはかけがえがないものとして、決して癒されることのない悔恨の痛みとともに、永遠に胸に刻まれているのだ。省吾は、その当たり前の事実にようやく気が付いた。
潮風に吹かれていると、中学の頃、この海辺で見た『竜宮の使い』の不気味で美しい姿が脳裏に蘇った。あれは、深い海の底に棲んでいるからこそ価値がある。無理に人の目に触れる渚に引き上げるべきではないのだ。だから、海辺に現れたあれは世界の終焉を告げる『終末の魚』と人々に恐れられるのだろう。あの深海魚と同じように、死者の魂も黄泉の深淵から無理やり引き戻すべきではないのだ。死者には死者が静かに安らぐべき国があり、生者には生者が苦しみつつなお生きるべき世界がある。
省吾は波打ち際に打ち寄せられた乾いた流木を集め、火を付けた。赤々と燃え上がる炎の中に、神代から託された資料やデータを次々と投げ入れていく。最後にバッグの底に残っていたのは、油性ペンで『黒蛇洞の神水』と書かれたペットボトルだった。取り出して、キャップを外すと、あの黒蛇洞の中で嗅いだのと同じ匂いがした。「これを飲めば、美月にまた会えるのではなか、という考えがまた頭をよぎる。この近くで美月と二人で並んで座って、美月が海を見ながら笑っていた横顔が再び脳裏に蘇って、胸が締め付けられて苦しくなる。「いっそ、この水を飲んで甘美な夢を見ながら死ぬのも悪くないかもしれない」と思ってしまう。
ここに至ってもまだ、美月を復活させられるかもしれないという未練を断ち切れていないでいる自分がいた。そういう己に省吾は苦笑いするしかなかった。この心の弱さが、美月を救えたかもしれない機会を永遠に失わせたのだろう。しかしその弱さも美月への思いも消えることのない悔恨も全て含めて、それが自分なのだ。また絶望する時がやって来るとしても、黒蛇のような、まやかしに頼るのではなく、ありのままの自分を抱えて生きて行けばよいのだ。
省吾はボトルの中身を全て、焚火の上にぶちまけた。一瞬、激しい音を立てて水が跳ねて、黒い糸のような幻影が砂地に溶け込むように消えていくのが見えた気がした。焚き火の火勢は一時、弱まったが、空のボトルを投げ入れると、プラスチックが爆ぜる音とともに再び激しく燃え上がった。夕暮れの空に火の粉が吸い上げられていく。燃え盛る焚き火が全ての狂気と未練を浄化してくれるかのようだった。省吾は、赤く輝く燠(おき)が、やがて灰になって燃え尽きるまで、黙って見守っていた。
(完)