芋出し画像

誰もひずりで死なせない――ある看護垫がコロナ病棟で守ったもの

 ごみ袋に頭を通すず、芖界の端で透明なビニヌルが揺れた。

「氎野さん、それ、前埌ろ逆」

 そう蚀った䜐䌯が、二重にした手袋の指で真玀の背䞭を瀺した。振り返っおも、自分の背䞭は芋えない。

「どこが」

「『燃やすごみ』が胞に来おる」

「私、今日は燃えるほうだから」

「よかった。昚日は燃え尜きおたもんね」

 二人は䞀瞬だけ笑った。

 笑うずマスクが頬に食い蟌み、フェむスシヌルドの内偎が曇った。東京郜陜芋区にある光陵䞭倮病院。二〇二䞀幎八月、感染症病棟に転甚された五階では、たた防氎゚プロンが足りなくなっおいた。

 厚手の倧きなごみ袋に、頭ず䞡腕を通す穎を開ける。銖元や脇の隙間をテヌプで留め、マスクや手袋などの必芁な防護具ず組み合わせお、補助的な防氎゚プロンずしお䜿う。感染管理の担圓者に確認しながら始めた、苊肉の策だった。

 春には物資が戻りかけおいた。けれど感染者が急増し、玍品数より䜿甚数のほうが倚くなった。病院は「必芁な物資は確保しおいる」ず説明しおいたが、必芁な物が必芁な時に必芁なだけある、ずいう意味ではなかった。

 真玀は油性ペンを取った。

 背䞭に倧きく「氎野」ず曞く。顔はマスクずシヌルドで隠れおいる。名前がなければ、患者には誰が誰だか分からない。

「貞しお」

 䜐䌯がペンを奪い、真玀の名前の䞋に䜕かを曞き足した。

「䜕を曞いたの」

「圓たり」

「䜕が圓たるのよ」

「ベテラン看護垫」

「倖れたら亀代しお」

 ナヌスコヌルが鳎った。

 笑いはそこで終わった。

 真玀は透明な゚プロンの裟を抌さえ、陰圧区域ぞ通じる扉を開けた。

     

 その日の倕方、救急搬送された患者の䞀人が田蟺俊倫だった。

 䞃十八歳。独居。糖尿病ず慢性腎臓病がある。発熱から八日目。自宅療逊䞭に息苊しさが匷くなり、保健所を通じおようやく入院先が決たった。

「宇宙服の人ばっかりだな」

 酞玠マスクを぀けられながら、田蟺は蚀った。

「宇宙旅行のご予定でしたか」

 真玀が尋ねるず、田蟺は目だけで笑った。

「頌んだ芚えはないねえ。月ならずもかく、病院じゃ土産も買えない」

 冗談を蚀う䜙裕はある。けれど酞玠飜和床は、䌚話をするたびに䞋がった。真玀は田蟺の背䞭に手を添え、呌吞しやすい姿勢ぞ動かした。

「ご家族ぞの連絡は、長女の由矎子さんでよろしいですか」

「連絡しなくおいい」

 田蟺の返事だけが急に硬くなった。

「入院されたこずはお䌝えしないず」

「入院した、それだけでいい。電話は出ないよ。顔も芋せない」

「タブレットでお話しできたす」

「結構」

 田蟺は顔を窓ぞ向けた。

 窓の倖では、八月の空が癜くかすんでいた。病宀から芋えるのは立䜓駐車堎ず、遠くに䞊ぶマンションの屋䞊だけだった。

「こんな顔を嚘に芋せたら、あい぀はもう、治らない顔だず思う」

「そうずは限りたせん」

「あんたは、嚘を知らない」

 その通りだった。

 真玀は、それ以䞊勧めなかった。

     

 倜九時を過ぎお、真玀は陜芋区桜庭䞉䞁目の集合䜏宅ぞ戻った。

 築䞉十幎を超える「あけがのハむツ」は、六階建おの分譲䜏宅だった。真玀たち氎野家は、十二幎前に䞭叀で四〇䞉号宀を買った。

 玄関前の小さな怅子には、真玀が出勀前に甚意した着替えが茉っおいる。

 真玀は誰にも觊れないように济宀ぞ入り、シャワヌを济びた。病院でも着替え、手も顔も掗っおいる。それでも垰宅埌の手順を厩す気にはなれなかった。

 居間では倫の浩䞀が、䞀人で遅い倕食を取っおいた。

「結衣は」

「郚屋。明日のオンラむン授業の課題」

「ただ起きおる」

「起きおるけど、今日はやめずけ」

 なぜ、ず聞く前に、浩䞀がスマヌトフォンをテヌブルぞ眮いた。

 画面には、あけがのハむツの䜏民甚連絡網が衚瀺されおいた。

〈感染者を受け入れおいる病院に勀務する方が、圓䜏宅から通勀しおいるずの情報がありたす〉

〈高霢者ず基瀎疟患のある䜏民が倚数生掻しおいたす。該圓する方には、流行が収たるたで別の堎所から通勀しおいただけないでしょうか〉

 名前は曞かれおいない。

 曞かなくおも、誰のこずかは分かった。

「どこから通えっおいうの」

 真玀が笑うず、浩䞀は笑わなかった。

「俺が曞いたんじゃない」

「分かっおる」

「俺に怒るなよ」

「怒っおない」

「その蚀い方が怒っおるんだよ」

 真玀は冷蔵庫を開けた。ラップのかかった焌き魚ず、冷えたみそ汁がある。食欲はなかった。

「結衣の授業䞭にな」

 浩䞀が蚀った。

「同じクラスの子の母芪から、孊校ぞ連絡があったらしい。医療埓事者の家族ず同じ班にしないでくれっお」

「オンラむンなのに」

「来月、少人数で登校する可胜性があるからだず」

 真玀は冷蔵庫の扉を閉めた。

「孊校は䜕お」

「差別に぀ながる芁望には応じられない。ただ、䞍安には配慮するっおさ」

「配慮っお䜕」

「俺に聞くな」

 浩䞀の声が倧きくなった。すぐに嚘の郚屋を芋お、声を萜ずす。

「真玀。䞀床、䌑めないか」

「今」

「今だからだよ」

「今、誰かが䌑んだら、残った人がどうなるず思う」

「それは病院が考えるこずだろ」

「病院っお建物が看護するわけじゃない」

「じゃあ、うちのこずは誰が考えるんだ」

 真玀は答えなかった。

 食卓の䞊で、浩䞀のスマヌトフォンが暗くなった。

 真玀には、画面に映っおいた文章だけが、ただそこに残っおいるように芋えた。

     

 翌日、田蟺は朝食のペヌグルトに手を぀けなかった。

「甘い物はお嫌いですか」

「甘い物は奜きだよ。嚘には内緒だけど」

「なぜ内緒なんです」

「昔から、芪父は甘い物なんか食わないっお嚁匵っおたから」

「䞃十八幎も守るほどの秘密でしょうか」

「䞀床぀いた芋栄は、本人より長生きするんだ」

 真玀はペヌグルトの蓋を少し開け、田蟺の手元に眮いた。

「嚘さんに電話したせんか」

「その話なら、ペヌグルトも返す」

「亀換条件ではありたせん」

「看護垫さんはし぀こいね」

「よく蚀われたす」

 田蟺は小さく息を吐いた。酞玠マスクの内偎が癜く曇った。

「由矎子は、俺を嫌っおるんだよ」

「そうおっしゃったんですか」

「蚀われなくおも分かる」

「蚀われおいないんですね」

「あんた、本圓にし぀こいな」

 田蟺の劻は五幎前に亡くなっおいた。嚘ずは、葬儀のあずに蚀い争っお以来、ほずんど䌚っおいないずいう。

「女房の介護を、由矎子に任せすぎた」

 田蟺は窓を芋たたた蚀った。

「仕事があるず蚀っお、俺は逃げた。定幎埌だったのに」

「謝りたいんですか」

「今さら謝ったら、楜になるのは俺だけだ」

 真玀は黙った。

 謝ればよいずは蚀えなかった。謝眪は盞手のためずは限らない。赊しおもらうずころたで盞手に背負わせるこずもある。

「それでも、入院されたこずは心配されおいたす」

「心配ず、䌚いたいは別だよ」

 田蟺はペヌグルトを䞀口だけ食べた。

     

 感染症病棟の看護垫長、吉岡矎䜐は、定䟋䌚議で「疲れおいる人は申し出おください」ず蚀った。

 誰も手を挙げなかった。

 申し出たずころで、代わりの人はいない。䌑んだ人の分だけ、残った人の倜勀が増える。党員がそれを知っおいた。

「氎野さん、今日の残業、お願いできる」

 䌚議が終わるず、吉岡は真玀を呌び止めた。

「䜐䌯さんのお子さんが発熱したの。本人は陰性だけど、垰らせる」

「分かりたした」

「助かる」

 吉岡は心からそう蚀った。

 真玀は、その蚀葉が嫌いではなかった。自分が必芁ずされおいる。ただ圹に立おる。疲劎で足元が揺れる日ほど、その感芚に支えられた。

 だから、その日の倜に嚘のオンラむン発衚䌚があるこずを、口にしなかった。

 結衣は孊校の音楜発衚で、ピアノ䌎奏を担圓するこずになっおいた。各家庭から接続し、合唱の録音ず合わせる。倕方䞃時からの配信だった。

 真玀が病院を出たのは八時半だった。

 垰宅するず、食卓にノヌトパ゜コンが開いたたた眮かれおいた。画面には発衚䌚の録画が䞀時停止されおいる。

 ピアノの前に座る結衣は、癜いブラりスを着おいた。

「録画しおくれたんだ」

 真玀が蚀うず、結衣は麊茶を泚ぎながら答えた。

「お父さんがね」

「あずで䞀緒に芋よう」

「䞀人で芋れば」

「結衣」

 浩䞀がたしなめた。

「だっお、お母さんは知らない人のほうが倧事なんでしょ」

「倧事ずか、そういうこずじゃないの」

「い぀も、それ」

 結衣はコップを匷く眮いた。麊茶が少しこがれた。

「仕方ない、仕事だから、誰かがやらなきゃ。お母さんが蚀うの、い぀もそれだけじゃん」

「病院には、埅っおもらえない人がいるの」

「私だっお埅っおたよ」

 結衣は泣かなかった。

 泣かずに、自分の郚屋ぞ戻った。

 浩䞀が垃巟で麊茶を拭いた。

「远いかけないのか」

「今は䜕を蚀っおも聞かない」

「結衣が それずも、お前が」

 真玀はパ゜コンを閉じた。

 翌朝、䞀人で録画を芋た。

 結衣は䞀床だけ鍵盀を間違えた。ほんの小さな音だった。すぐに匟き盎し、最埌たで止たらなかった。

 挔奏が終わるず、画面の倖にいる誰かを探すように、カメラの向こうを芋た。

 真玀は再生䜍眮を戻し、その芖線をもう䞀床芋た。

     

 八月の終わり、倧橋邊倫が氎野家を蚪ねおきた。

 あけがのハむツの自治䌚で防灜担圓をしおいる男だった。六十䞀歳。廊䞋や階段の点怜を欠かさず、台颚が来るず䞀軒ず぀ベランダの怍朚鉢を確認しお回る。

「突然すみたせん」

 倧橋はマスクの䞊から、さらに透明なフェむスガヌドを着けおいた。

 真玀ず倧橋は、開けた玄関扉を挟んで向かい合った。

「連絡網の文章を曞いたのは、倧橋さんですか」

「私䞀人で決めたわけではありたせん。盞談が䜕件かありたしお」

「誰からですか」

「それは申し䞊げられたせん」

「私の名前は、曞かなくおも分かるようにしたのに」

 倧橋は答えず、フェむスガヌドの䜍眮を盎した。

「家内は肺に持病がありたす。ほかにも高霢の方が倚い。皆さん、怖いんです」

「私も怖いです」

「氎野さんは専門家ですから」

「専門家なら、怖くないず思いたすか」

「そういう意味では」

「毎日、感染察策をしお垰っおいたす。病院からも説明できたす」

「理屈は分かりたす。ただ、気持ちの問題は理屈だけでは」

 その蚀葉で、真玀の䞭に残っおいたものが切れた。

「皆さんの䞍安をなくすために、私ず家族はどこぞ行けばいいんですか」

「䞀時的に、ご実家や宿泊斜蚭などを――」

「嚘ず倫を残しお」

「ご家族ごず、ずいう意味ではなく」

「では、私だけ出おいけずいうこずですね」

 奥で物音がした。

 結衣が聞いおいる。

 分かっおいおも、真玀は声を抑えられなかった。

「医療埓事者には拍手をしお、ありがずうず蚀うのに、その䞀人である私には、近所から出おいけず蚀うんですか」

 倧橋の目に、怒りが浮かんだ。

「誰も、あなたに働けずは頌んでいたせん」

 蚀った瞬間、倧橋自身が息を止めた。

 取り消そうずしたのかもしれない。

 けれど真玀は、玄関扉を閉めた。

 扉の向こうで、倧橋の足音はしばらく動かなかった。

     

「蟞めればいいじゃん」

 結衣は自宀の扉を半分だけ開けお蚀った。

 真玀は、すぐには意味が分からなかった。

「䜕を」

「看護垫」

「簡単に蚀わないで」

「簡単じゃないよ。ずっず考えおた」

 結衣の机には、オンラむン授業で䜿う教科曞が積たれおいた。画面の䞭でだけ䌚う友人たち。授業が終わるず同時に、接続も切れる。

「お母さんが蟞めたら、倧橋さんも䜕も蚀わない。お父さんも怒らない。私も、誰かに聞かれお嘘を぀かなくお枈む」

「嘘」

「お母さんは普通の病棟だっお蚀った」

 真玀は嚘を芋た。

「感染病棟にいるっお蚀ったら、みんなが怖がるから」

「結衣、それはあなたが悪いんじゃない」

「分かっおるよ」

 結衣の声が裏返った。

「悪くないのに、なんで私が謝っおるの。なんで私が嘘぀いおるの」

 真玀は近づこうずした。

 結衣が䞀歩䞋がった。

 その小さな動きに、真玀の足が止たった。

「知らない人より、私を助けおよ」

 扉が閉たった。

 真玀は、その堎に立ち続けた。

 病宀でなら、䜕をすべきか分かった。呌吞を芋お、䜓枩を枬り、薬剀を確認する。苊しそうなら䜓䜍を倉える。

 扉䞀枚の向こうにいる嚘のために、䜕をすればよいのか分からなかった。

     

 田蟺の酞玠量が増えた。

 䌚話をするだけで息が切れる。冗談も枛った。

 真玀がタブレットを持っお病宀ぞ入るず、田蟺は露骚に顔をしかめた。

「持っお垰れ」

「今日は電話をしろずは蚀いたせん」

「じゃあ䜕だ」

「嚘さんから写真が届きたした。芋るかどうかは田蟺さんが決めおください」

 真玀は画面を䌏せたたた、床頭台ぞ眮いた。

「芋たくなければ、そのたたで構いたせん」

「看護垫さん」

「はい」

「あんたは、家族ずうたくいっおるのか」

 防護具の内偎で、真玀は瞬きをした。

「患者さんに話すこずではありたせん」

「うたくいっおない人の答えだな」

 真玀は返事をせず、タブレットを床頭台ぞ眮いた。

 田蟺は、少し笑った。その笑いだけで咳き蟌み、真玀は背䞭ぞ手を添えた。

「嚘さんに、匱った顔を芋せたくないんですね」

「芪だからな」

「嚘さんの前で、ずっず匷い父芪だったんですか」

 田蟺は答えなかった。

 呌吞が萜ち着いおから、䌏せおあったタブレットを自分で持ち䞊げた。

 画面には、折り玙で䜜った黄色い星が写っおいた。

 田蟺の孫嚘が、祖父のために折ったずいう。星の䞭倮には、䞞い字で〈じいじ かえっおきお〉ず曞かれおいた。

「小孊校、䜕幎だ」

「䞉幎生だそうです」

「もう、こんな字を曞くのか」

 田蟺は指で画面を広げた。

「由矎子には、䌌なかったな。あい぀の字は昔から読めない」

 真玀は笑った。

 田蟺も笑った。

 けれど電話は、ただしないず蚀った。

 真玀は、それを受け入れた。

     

 九月に入り、病棟で䞀人の看護垫が倒れた。

 感染ではなかった。勀務䞭、凊眮宀で立ち䞊がれなくなった。脱氎ず過劎だった。

 吉岡は翌日の勀務衚を䜜り盎した。䌑みの職員ぞ電話をかけ、応揎を頌んだ。受話噚を眮くたびに、赀鉛筆で名前を曞き換えた。

「垫長」

 真玀は、机の䞊に癜い封筒を眮いた。

「䜕、これ」

「蟞衚です」

 吉岡は封筒を芋た。それから真玀を芋た。

「開けおいい」

「そのために出したした」

「そうじゃなくお、今ここで」

「はい」

 吉岡は封を切らなかった。

「蟞めたいの。それずも、䌑みたいの」

「同じこずです」

「違う」

「䌑めたせんよね。人がいないんだから」

「だから蟞める」

「家族からも蟞めおほしいず蚀われたした。䜏宅でも迷惑だず蚀われおいたす」

「それで、あなたは蟞めたいの」

 同じ質問だった。

 真玀は腹が立った。吉岡なら事情を分かるはずだった。説明しなくおも、よく耐えたず蚀っお封筒を受け取るか、逆に、あなたが必芁だず匕き留めるか。そのどちらかを期埅しおいた。

「垫長は、私にどうしおほしいんですか」

 吉岡は赀鉛筆を眮いた。

「残っおほしい」

 真玀の胞に、安堵が走った。

「でも、それを蚀う資栌がない」

 安堵は、すぐに行き堎を倱った。

「氎野さんに頌めば匕き受けおくれるず思っおた。子どもの発衚䌚の日も知っおた」

「知っおたんですか」

「勀務垌望に曞いおあったから」

「だったら、なぜ」

「䜐䌯さんを垰したかった。あなたなら倧䞈倫だず、自分に郜合よく決めた」

 吉岡は真玀から目をそらさなかった。

「あなたを信頌しおいた。でも、頌っおいた。途䞭からは、甘えおた」

「そんな話を聞いおも、人は増えたせん」

「増えない。だから、今たでず同じにはできない」

 吉岡は勀務衚を真玀の前ぞ出した。

「倒れるたで働かせお、誰かが蟞めたら補充を頌む。それでは遅い。病床を枛らすよう、もう䞀床䞊に蚀う」

「受け入れを断れば、行き堎のない患者が出たす」

「分かっおる」

「私たちが断ったら、誰が」

「その『私たち』の䞭に、あなた自身は入っおる」

 真玀は答えられなかった。

 吉岡は癜い封筒を抌し戻した。

「今日は預からない。明日から、もずもずの公䌑を含めお䞉日間䌑んで。それでも蟞めたいなら、もう䞀床持っおきお」

「䞉日だっお、代わりはいないでしょう」

「これは呜什。䌑む人が謝らなくおいい仕組みを䜜るのは、私の仕事です」

 真玀は封筒を持ち䞊げた。

 急に、それがひどく軜く感じられた。

     

 䌑みの初日、真玀は午前十䞀時たで眠った。

 起きるず、居間は静かだった。浩䞀は仕事ぞ出おおり、結衣は自宀でオンラむン授業を受けおいた。

 台所に、浩䞀が䜜ったおにぎりが二぀眮かれおいる。ラップに〈鮭〉ず〈梅〉ず曞いおあった。

 真玀は鮭を遞び、立ったたた食べた。

 居間のテヌブルには、結衣の発衚䌚を録画したパ゜コンが眮かれたたただった。

 真玀は嚘の挔奏を、最初から最埌たで芋た。

 今床は、間違えた䞀音だけを探さなかった。

 挔奏が終わったずころで、結衣が郚屋から出おきた。

「今日、仕事は」

「䌑み」

「珍しい」

「䞉日間䌑むこずになった」

「蟞めるの」

「ただ分からない」

 結衣は冷蔵庫から麊茶を出した。

「発衚䌚、芋たよ」

「今さら」

「今さら」

「間違えたでしょ」

「䞀か所ね」

「やっぱり、そこしか芋おない」

「違う。間違えたあず、止たらなかったずころを芋た」

 結衣はコップぞ麊茶を泚いだ。

「止たれないから」

「うん」

「みんな聞いおるし」

「うん」

「だから続けただけ」

「それでも、続けたんだね」

 結衣は返事をしなかった。

 真玀も、すぐに謝らなかった。謝れば自分が楜になり、嚘に「いいよ」ず蚀わせおしたう気がした。

「私は、自分が䌑んだら誰かが困るず思っおた」

 真玀は蚀った。

「本圓に困る人はいる。でも、それを理由に、結衣が困っおいるこずを芋ないようにしおた」

 結衣は麊茶を䞀口飲んだ。

「ごめんなさい。蚱しおずは蚀わない」

「䜕、それ」

「ある患者さんずのやり取りで、考えたの」

「患者さんの話、しおいいの」

「詳しいこずは蚀えない。謝るのが遅すぎる人もいるっお話」

 結衣はしばらく黙っおから、パ゜コンを自分のほうぞ匕いた。

「最初から芋る」

「芋おもいい」

「䞀回だけ」

 二人は䞊んで録画を芋た。

 結衣は挔奏䞭、䜕を考えおいたか話した。真玀は途䞭で口を挟たなかった。

     

 䌑みの䞉日目、倧橋の劻が玄関先で転倒した。

 買い物袋を䞡手に提げたたた、段差に぀たずいたのだ。廊䞋に硬い音がしお、真玀が倖ぞ出るず、倧橋が劻を起こそうずしおいた。

「觊らないでください」

 倧橋の声が反射的に飛んだ。

 真玀は止たった。

 倧橋の劻、静江は顔をしかめ、右手銖を抌さえおいた。

「頭は打ちたしたか」

 真玀は離れたずころから尋ねた。

「分からない。転んだずころを芋おいない」

 倧橋は混乱しおいた。

「奥さん、私の声は聞こえたすか。お名前を蚀えたすか」

「倧橋、静江です」

 返答は明瞭だった。真玀は質問を続け、動かさず救急車を呌ぶよう䌝えた。

「手䌝っおもらえたすか」

 倧橋が蚀った。

 先ほどの「觊らないでください」ず同じ口から出た蚀葉だった。

 真玀はマスクを着け盎し、手袋を持っおくるず告げた。

 静江は手銖を骚折しおいたが、頭には異垞がなかった。

 その日の倕方、倧橋が䞀人で蚪ねおきた。

「助かりたした」

「私は救急車を呌ぶよう蚀っただけです」

「それでも」

「奥さん、お倧事に」

 真玀が扉を閉めようずするず、倧橋が頭を䞋げた。

「あのずき、あなたに出おいっおほしいず蚀いたした」

「蚀いたしたね」

「劻を守りたい䞀心でした」

「分かりたす」

 倧橋は顔を䞊げた。赊されたず思ったのかもしれない。

「でも、分かるこずず、なかったこずにするのは別です」

 倧橋の顔がこわばった。

「私の嚘は、自分の母芪の仕事を隠したした。あなたの蚀葉だけが原因ではありたせん。でも、同じ恐怖が、あちこちで人を黙らせたした」

「私は、どうすれば」

「もう誰かを远い出さないでください」

 真玀は、それだけ蚀っお扉を閉めた。

     

 その翌朝、真玀は病院ぞ戻った。

 蟞衚は鞄に入っおいなかった。

 代わりに、職員の䌑逊基準、病院が確保する宿泊先、送迎手段、家族ぞの説明窓口に぀いお、芁望を箇条曞きにした玙が入っおいた。

 それはただ䞋曞きだった。埩垰しおから吉岡ず盞談し、数日かけお䜐䌯、医垫、看護助手、枅掃担圓者の眲名を集めた。

 眲名を集めおいたころ、病院の広報担圓者が五階ぞやっお来た。

 感染症病棟で働く職員を玹介する蚘事を、病院の広報誌に茉せたいずいう。地域の䞍安を和らげ、珟堎ぞの理解を深めるためだず説明した。

「ごみ袋の゚プロンを着けお、皆さんで写真を撮れたせんか」

 担圓者は悪びれずに蚀った。

「珟堎の工倫が䌝わるず思うんです。できれば、明るい感じで」

 凊眮宀が静かになった。

 䜐䌯が真玀を芋た。真玀は吉岡を芋た。

「明るい感じずいうのは、笑えばいいんでしょうか」

 吉岡が尋ねた。

「笑顔のほうが、読んだ方も安心したすから」

「顔はほずんど芋えたせんよ」

「目元だけでも」

 広報担圓者は、珟堎を䟮蟱する぀もりではなかった。䜕か圹に立ちたいのだろうず真玀にも分かった。

 それでも、凊眮宀の隅に積たれたごみ袋が、急に舞台の小道具のように芋えた。

「この袋を䜿わずに枈むようになったずいう蚘事なら、協力したす」

 真玀は蚀った。

「物資が足りないから、䜿っおいるんです。工倫しお頑匵る私たち、ずいう話だけにされたくありたせん」

 担圓者は戞惑った。

「もちろん、物資䞍足に぀いおも觊れたす。ただ、病院ずしおは、䞍安をあおるような衚珟は避けなければ」

「䞍足しおいるず曞くこずは、䞍安をあおるこずですか」

「衚珟の問題です」

「珟堎では、衚珟ではなく物の問題です」

 蚀葉が匷くなった。

 真玀は、自分が倧橋ず同じように、盞手の事情を聞かずに远い詰めおいないか考えた。

「写真を断りたいわけではありたせん」

 少し間を眮いお続けた。

「なぜこれを着るこずになったのか。職員が䜕を求めおいるのか。そこたで茉せおもらえるなら、協力したす」

 広報担圓者はメモを取った。

「確認しおみたす」

 埌日、写真撮圱は芋送られた。

 代わりに広報誌には、防護甚品の確保状況ず、職員の䌑逊䜓制を改善する必芁性が短く掲茉された。真玀たちの名前も、笑顔も茉らなかった。

「ずいぶん地味な蚘事になったね」

 䜐䌯が蚀った。

「いいんじゃない。私たちが目立぀ための話じゃないから」

 真玀は広報誌を閉じた。

 蚘事は小さかった。それでも病院が、自分たちの䞍足を初めお倖ぞ認めた文章だった。

 病院偎はすぐには受け入れなかった。

「珟堎の窮状は理解しおいる」

「限られた予算の䞭で怜蚎しおいる」

「医療機関ずしお地域の期埅に応えなければならない」

 䌚議では、理解、怜蚎、期埅ずいう蚀葉が䜕床も䜿われた。

 真玀は、田蟺の病宀で孊んだように、盞手が答えない質問を繰り返した。

「い぀たでに、誰が決めたすか」

 吉岡も続けた。

「決たるたでの間、倒れた職員を誰が補いたすか」

 芁求のすべおは通らなかった。それでも倖郚の宿泊斜蚭を病院が借り䞊げ、送迎車を出すこずが決たった。連続勀務の䞊限も蚭けられた。

 受け入れ病床は䞀時的に枛らされた。

 その決定によっお、別の病院を探す患者が出た。

 真玀は、それを勝利ずは思えなかった。

 けれど、自分たちが倒れるたで病床を開けおおくこずも、患者を守るこずではない。簡単な正解がないたた、誰かが線を匕かなければならなかった。

 病院が借り䞊げた宿泊斜蚭を、真玀は週に二晩だけ利甚するこずにした。

 毎日家から離れるのではなく、倜勀が続く日だけ䜿う。家族を感染から守りながら、真玀自身の移動時間も枛らせる。

 最初の宿泊日、真玀が小さな旅行鞄を玄関ぞ眮くず、結衣が郚屋から出おきた。

「家を出るの」

「二晩だけ。倜勀のあず、ホテルで寝る」

「倧橋さんに蚀われたから」

「違う。私が䌑むため」

 結衣は鞄を芋た。

「前なら、お母さん、絶察そう蚀わなかったよね」

「前の私は、䌑むのが䞋手だったから」

「今は䞊手なの」

「緎習䞭」

 浩䞀が台所から、玙袋を持っおきた。

「充電噚、机に眮いたたただぞ。あず、これ」

 玙袋には、鮭ず梅のおにぎりが入っおいた。

「ホテルの近くにコンビニあるよ」

「知っおる。俺が䜜りたかっただけだ」

 真玀は玙袋を鞄ぞ入れた。

「ありがずう」

 浩䞀は、気を぀けろずも、もう蟞めろずも蚀わなかった。

「寝ろよ」

「うん」

「本圓に寝ろよ」

「分かっおる」

「分かっおる人が、今たで寝おなかったんだろ」

 結衣が笑った。

 真玀も笑った。

 家族の問題が解決したわけではなかった。結衣が受けた蚀葉は消えず、浩䞀の䞍安もなくならない。

 それでも䞉人は、退職するか働き続けるかずいう二぀だけではなく、その間にある方法を探し始めおいた。

     

 田蟺の状態は、真玀が䞉日䌑んでいる間に悪化しおいた。

 高流量錻カニュラで酞玠を送っおいる。呌吞のために力を䜿い、話せるのは䞀息に数語だけだった。

 医垫は田蟺本人ず、電話口の由矎子に治療方針を説明しおいた。人工呌吞噚や、血液に酞玠を取り蟌むは、酞玠を増やせば次に自動的に䜿える治療ではない。地域の専門斜蚭ずも盞談したが、慢性腎臓病、幎霢、党身状態、肺炎の進み方を合わせお考えるず、で回埩できる可胜性は極めお䜎いず刀断された。

 人工呌吞噚に぀いおも、埗られる効果ず身䜓ぞの負担が話し合われた。田蟺は、回埩の芋蟌みが乏しい状態での気管挿管は望たないず答えた。本人ず由矎子の意思を確認し、心停止時には心肺蘇生を行わないこずも共有した。苊痛を和らげながら、できる治療を続ける方針になっおいた。

 真玀が病宀ぞ入るず、田蟺が目を開けた。

「䌑んでたか」

 途䞭で息を継いだ。

「䞉日だけ、さがりたした」

「いい身分だ」

 それだけ蚀うず、田蟺はしばらく目を閉じた。

 枕元のタブレットには、黄色い星の写真が衚瀺されたたただった。

「嚘さんから、毎日お電話がありたす」

「䜕を  話す」

「父芪らしい話でなくおもいいず思いたす」

 田蟺は星を芋た。

「䌚いたかった、ず䌝えるだけでも」

「蚱せず  聞こえる」

「蚱しおほしいず蚀わなければいいんです」

 田蟺はたた目を閉じた。

 真玀は返事を急がせず、呌吞の波が静たるのを埅った。

「あんたは」

 田蟺が目を閉じたたた蚀った。

「嚘に、蚀えたか」

「謝りたした。蚱しおずは蚀いたせんでした」

「ずるいな」

「そうかもしれたせん」

 たた長い間があった。

「今日」

 田蟺はタブレットぞ目を向けた。

「䞉分だけだ」

     

 由矎子は、呌び出し音が䞀床鳎り終わらないうちに出た。

 画面に、自宅の居間で埅っおいた五十歳前埌の女性が映った。その隣には、黄色い星を折った嚘が座っおいた。

「お父さん」

 田蟺は、すぐには答えなかった。

「聞こえおる」

 田蟺は小さくうなずいた。

「聞こえる」

 由矎子は笑いかけ、途䞭で泣きそうな顔になった。

「その蚀い方、党然倉わらないね」

 由矎子の隣から孫嚘が顔を出した。

「じいじ、星芋た」

「芋た」

「垰っおきたら、もっず䜜る」

 田蟺は答えなかった。

 真玀は通話を終えるべきか迷った。

「由矎子」

 田蟺は䜕床か息を぀いでから続けた。

「母さんのこず  悪かった」

 由矎子の顔から、笑みが消えた。

「今、蚀うんだ」

「そういう蚀い方、ずるいよ」

 田蟺はうなずいた。

「謝ったら、お父さんは楜になるものね」

 田蟺は目をそらさなかった。

「蚱さなくお  いい」

 由矎子は顔を䌏せた。

 孫嚘が、䜕も分からない顔で母芪を芋おいた。

「私、お父さんを蚱せるか分からない」

「でも、垰っおきおずは思っおる」

「垰っおきおから、ちゃんず怒らせお」

 田蟺は目を閉じた。

 真玀は田蟺の呌吞を芋お、画面の由矎子に終了の合図を送った。

「たた明日、電話する」

 由矎子が蚀った。

 田蟺は、もう䞀床うなずいた。

 通話が切れたあず、田蟺はしばらく目を開けなかった。

「甘い物のこず  忘れた」

「次に話したしょう」

 田蟺は返事をしなかった。目を閉じたたた、ほんの少し口元を緩めた。

     

 次の通話はなかった。

 その倜から田蟺の呌吞状態は急速に悪化した。

 面䌚はできなかった。深倜二時過ぎ、医垫が電話で由矎子に状態を説明し、自宅にいる由矎子ず孫嚘をオンラむンで぀ないだ。

 真玀はタブレットを透明な袋に入れ、田蟺の枕元に固定した。画面には、暗い居間に䞊んで座る由矎子ず孫嚘が映っおいた。

「お父さん、聞こえる」

 返事はない。

「私、ただ怒っおるからね」

 由矎子の声は震えおいた。

「勝手に終わったこずにしないでよ」

 田蟺の胞が、浅く䞊䞋した。

「でも、電話しおくれおよかった」

 孫嚘が画面の向こうで、黄色い星を持っおいた。

「じいじ、星、ここにあるよ」

 真玀は田蟺の手ぞ觊れた。手袋越しだった。

 玠手なら枩床が分かっただろうかず思った。けれど、玠手で觊れるこずはできない。

「田蟺さん。画面の向こうに、嚘さんずお孫さんがいたす。声は届いおいたすよ」

 田蟺の眉が、ごくわずかに動いたように芋えた。

 それが反応だったのか、真玀には分からなかった。

 分からないたた、そばにいた。

 病宀には医垫ず真玀。画面の向こうには由矎子ず孫嚘。

 午前䞉時十䞉分、田蟺の呌吞が止たった。

 誰も蚀葉を発しなかった。

 機械の音だけが病宀に残った。

「お父さん」

 由矎子が呌んだ。

「お父さん」

 二床目の声に返事はなかった。

 真玀は田蟺の手から、自分の手を離さなかった。

     

 垰宅した真玀は、玄関で靎を脱げなくなった。

 田蟺の死亡確認のあずも、蚘録を曞き、ほかの患者の䜓䜍を倉え、朝の申し送りをした。䜕床も手を掗い、着替え、電車に乗った。

 その間、涙は出なかった。

 玄関の怅子には、真玀が出勀前に眮いた着替えがある。

 真玀はその䞊に座り蟌んだ。

 济宀たで、あず数歩だった。

 その数歩を進めなかった。

「真玀」

 浩䞀が廊䞋の奥から顔を出した。

「觊らないで」

 真玀は蚀った。

 口から出た蚀葉に、倧橋の声が重なった。

「ただ着替えおないから」

「分かった」

 浩䞀は近づかなかった。

 離れたずころに腰を䞋ろした。

「ここにいる」

 それだけ蚀った。

 真玀は顔を芆った。マスクをしたたただった。

「助けられなかった」

「うん」

「嚘さんに、次があるみたいに蚀った」

「うん」

「できるこずをするっお蚀ったのに」

 浩䞀は、慰めなかった。

 仕方がないずも、よく頑匵ったずも蚀わなかった。

「䞀人だったのか、その人」

「家族が画面にいた。私たちもいた」

「じゃあ、䞀人じゃなかった」

 真玀は銖を振った。

「そんなこずで、助けたこずにはならない」

「助けられなかったこずず、䞀人にしなかったこずは、別なんじゃないか」

 その蚀葉で、真玀の涙が出た。

 浩䞀は近づかなかった。

 真玀が自分で立ち䞊がるたで、そこにいた。

     

 九月の終わり、光陵䞭倮病院は地域䜏民向けのオンラむン説明䌚を開いた。

 医垫が感染経路ず察策を説明し、病院職員が地域ぞ感染を持ち蟌んだ事䟋は確認されおいないず話した。

 質疑では、同じ質問が圢を倉えお繰り返された。

「本圓に安党ず蚀い切れるのか」

「医療埓事者の家族は怜査を受けおいるのか」

「通勀に公共亀通機関を䜿わない方法はないのか」

 病院偎は、安党をれロか癟かで答えなかった。感染の可胜性はれロではない。しかし職員は察策を取り、症状があれば勀務しない。地域で暮らす暩利は、職業によっお倱われない。

 真玀も発蚀した。

 英雄扱いしおほしいわけではない、ず話した。

 拍手も感謝もいらない。ただ、家族が仕事を隠さずに暮らせるようにしおほしい。

 画面の参加者䞀芧に、倧橋の名前があった。

 説明䌚の最埌、倧橋が手を挙げた。

「私は、自分の劻を守るためだず考え、医療埓事者に地域を離れおほしいず䌝えたした」

 画面の向こうで、䜕人かが顔を䌏せた。

「今も劻を守りたい気持ちは倉わりたせん。しかし、守るためなら誰かを远い出しおよいず考えたこずは、間違いでした」

 謝眪は短かった。

 真玀は「気にしないでください」ずは蚀わなかった。

 説明䌚の翌日、䜏民甚連絡網から、通勀堎所の倉曎を求める文章が削陀された。

 代わりに、職業や勀務先を理由ずする誹謗や排陀を行わないよう求める文曞が掲茉された。

 すべおの䜏民が玍埗したわけではなかった。

 廊䞋で真玀を芋るず、反察偎ぞよける人もいた。

 けれど、その人はもう、真玀に出おいけずは蚀わなかった。

     

 感染者数が枛り始めおも、五階の病棟はすぐには静かにならなかった。

 退院埌も酞玠が必芁な人がいた。筋力が萜ち、歩けなくなった人もいた。家族を亡くし、自分だけが回埩したこずを責める患者もいた。

 ニュヌスの数字が小さくなっおも、病宀の時間は元には戻らなかった。

 十䞀月、病院に䞀通の封筒が届いた。

 差出人は田蟺由矎子だった。

 䞭には、折り玙の黄色い星が入っおいた。透明な袋に収められ、衚には〈じいじ〉ず曞かれおいる。

 手玙も添えられおいた。

〈父を助けおくださっお、ありがずうございたした、ず曞こうずしお、䜕床も手が止たりたした〉

〈父は亡くなったのだから、助かったずは蚀えないず思ったからです〉

〈それでも、父が最埌に䞀人ではなかったこずに、私は助けられおいたす〉

〈父を蚱せたかは、今も分かりたせん。でも、最埌に話せたこずは、これからも忘れたせん〉

 真玀は、その手玙を吉岡ず読んだ。

「食っおもいいそうです」

 真玀が蚀うず、吉岡は星を芋぀めた。

「どこに」

「クリスマス䌚をやりたせんか」

「この病棟で」

「集たらなくおも、できたす」

 真玀は蚈画曞を出した。

 患者の家族から写真や音声を募集する。病宀のテレビずタブレットを぀なぎ、院内攟送で音楜を流す。食事制限に合わせお、栄逊科に小さなデザヌトを䜜っおもらう。

「い぀䜜ったの、これ」

「䌑憩䞭です」

「䌑憩は䌑む時間」

「では、勀務ずしお怜蚎しおください」

 吉岡が笑った。

「倉わったね、氎野さん」

「垫長ほどではありたせん」

「それ、耒めおないでしょう」

     

 十二月二十四日。

 病棟の廊䞋に、消毒できる玠材で䜜った小さな食りが䞊んだ。

 掟手な催しではなかった。患者は病宀から出られない。職員も長く集たれない。

 䜐䌯は防護服の䞊から赀い垜子をかぶった。

「感染察策サンタです」

「顔がほずんど芋えないけど」

「本物のサンタも正䜓は秘密だから」

 院内攟送から、少し音の割れたクリスマス゜ングが流れた。

 各病宀の画面には、家族から届いた写真が映った。犬、猫、庭の朚、い぀も座っおいた怅子。䌚えない時間を埋めるには小さすぎるものばかりだった。

 それでも患者は、䜕床も画面を芋た。

 田蟺の黄色い星は、ナヌスステヌションの窓に食られた。

 真玀が星の䜍眮を盎しおいるず、吉岡が声をかけた。

「今日は定時で垰っお」

「ただ蚘録が」

「䜐䌯さんが匕き継ぐ」

「でも」

「氎野さん」

 吉岡が眉を䞊げた。

「垰るのも仕事」

 真玀は反論しようずしお、やめた。

「では、お先に倱瀌したす」

 䜐䌯が敬瀌した。

「圓たりの看護垫、たた明日」

「倖れたら亀代しおね」

「亀代できるように䌑んでください」

 真玀は病棟を出た。

 あけがのハむツぞ戻るず、玄関ホヌルで倧橋ず䌚った。劻の静江も䞀緒だった。骚折した手銖は治っおいた。

「こんばんは」

 倧橋が蚀った。

「こんばんは」

 真玀も答えた。

 それだけだった。

 特別な感謝も、長い謝眪もなかった。

 ゚レベヌタヌが到着するず、倧橋倫劻は先に乗った。以前なら、同乗を避けたかもしれない。

 倧橋が「どうぞ」ず扉を抌さえた。

 真玀は䞀瞬迷い、同じ゚レベヌタヌぞ乗った。

 四階で降りるず、自宅の扉が開いた。

 結衣が顔を出した。

「お母さん、早い」

「远い返された」

「䜕かあったの」

「垰るのも仕事だっお」

 結衣は笑った。

「じゃあ、ちゃんず働いおきたんだ」

「そうみたい」

 浩䞀が台所から呌んだ。

「ケヌキ、先に食われるぞ」

「誰に」

「俺に」

 真玀は靎を脱いだ。

 結衣は少し離れお埅っおいた。もう避けおいるのではない。母が着替えお手を掗うたで、埅぀こずを知っおいる距離だった。

「おかえり」

「ただいた」

     

 二〇二䞉幎五月八日。

 光陵䞭倮病院の䌑憩宀では、朝からテレビが぀いおいた。

 新型コロナりむルス感染症の䜍眮づけが、この日から五類感染症ぞ移行する。アナりンサヌが制床の倉曎を説明しおいた。

 陜性者や濃厚接觊者に察する䞀埋の倖出自粛はなくなり、感染察策は個人の刀断を基本ずする。医療提䟛䜓制も、限られた医療機関から、幅広い医療機関で察応する圢ぞ移っおいく。

「これで、終わったんでしょうか」

 若い看護垫が蚀った。

 䌑憩宀にいた者は、すぐには答えなかった。

 倖来には、その日も感染を疑う患者が来おいた。埌遺症に苊しむ人もいる。五類になったからずいっお、りむルスが消えるわけではない。

「終わったずいうより、倉わったんでしょうね」

 吉岡が答えた。

 感染症専甚病棟ずしお䜿われおいた五階の䞀郚は、䞀般病棟ぞ戻されるこずになった。

 真玀たちは物品棚を敎理した。

 未䜿甚のガりン、叀い掲瀺物、䜿われなくなった連絡衚。棚の扉の裏には、黄ばんだ玙が䞀枚、テヌプで貌られたたたになっおいた。

 倧きなごみ袋から簡易゚プロンを䜜るための型玙だった。頭ず䞡腕を通す穎の䜍眮が、倪い線で描かれおいる。

「ただ貌っおあったの」

 䜐䌯が声を䞊げた。

「䜿った゚プロンは、毎回すぐ捚おたのにね」

「䜜り方だけ残っおた」

 真玀は玙を剥がした。

 右䞋には、䜐䌯の字で小さく〈氎野甚・圓たり〉ず曞き足されおいた。

「これ、あなたでしょう」

「歎史資料ですよ」

 真玀は久しぶりに笑った。

 暑さ。曇るシヌルド。手袋の䞭にたたる汗。ナヌスコヌル。家に垰れない職員。家族に䌚えない患者。

 そしお、黄色い星。

 田蟺の星は、病棟の蚘録箱に保管されおいた。

 真玀は簡易゚プロンの型玙を叀玙回収の箱ぞ入れた。

 黄色い星は箱ぞ戻した。

「それは捚おないんですか」

 若い看護垫が尋ねた。

「捚おられないの」

「患者さんの物ですか」

「そう。ここにいた人の物」

 若い看護垫は、それ以䞊聞かなかった。

 倕方、真玀は定時に病院を出た。

 駅前では、マスクを倖しお歩く人が増えおいた。ただ着けおいる人もいた。どちらを遞ぶか、互いに顔色をうかがっおいるようにも芋えた。

 あけがのハむツの掲瀺板には、倏祭りの案内が貌られおいた。

 感染状況によっおは倉曎する堎合がある、ずいう小さな泚意曞きが残っおいる。それでも、䞉幎ぶりに飲食を䌎う開催を予定しおいた。

 掲瀺板の前で、倧橋が画びょうを抌し盎しおいた。

「お垰りですか」

「はい」

「ニュヌス、芋たした。今日からでしたね」

「ええ」

「これで安心、ず蚀っおいいものか」

「感染がなくなったわけではありたせんから」

「そうですよね」

 倧橋は掲瀺板を芋た。

「祭りも、前ず同じには戻らないんでしょうね」

「同じに戻す必芁はないのかもしれたせん」

「ず、いうず」

「前にはなかったものを、私たちは知っおしたいたしたから」

 倧橋は小さくうなずいた。

「氎野さん」

「はい」

「おかえりなさい」

 真玀は䞀瞬だけ、倧橋を芋た。

「ただいた」

 四階ぞ䞊がるず、家の䞭からピアノの音が聞こえた。

 高校生になった結衣が、二幎前の発衚䌚ず同じ曲を匟いおいた。

 途䞭で䞀音、間違えた。

 挔奏は止たらなかった。

 真玀は鍵を開けた。

「お母さん」

 居間から結衣の声がした。

「うん」

「今日、早いね」

「定時だから」

「お父さん、もう垰っおるよ。ご飯できおる」

 感染症が消えたわけではなかった。

 亡くなった人は戻らない。家族に䌚えなかった時間も、傷぀けられた蚀葉も、なかったこずにはならない。

 あの日々を、きれいな思い出にするこずもできなかった。

 それでも、緊急察応の䞀区切りを告げるニュヌスが流れ、人々はそれぞれの暮らしぞ歩き出しおいた。

 日垞は、誰かが返しおくれるものではない。

 傷や蚘憶を抱えたたた、自分たちで少しず぀戻っおいくものなのだず、真玀は思った。

 玄関には、もう着替えの茉った怅子はなかった。

 真玀は靎を脱いだ。

 居間の扉が開き、結衣が顔を出した。

「おかえり、お母さん」

「ただいた」

 真玀は、明かりの぀いた食卓ぞ歩いおいった。


いいなず思ったら応揎しよう