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【小説】あのころなんの話を 〈第12話/最終回〉

     私たちは契約更新をしなかった。彼氏——もう元彼——に「結婚しようよ」と切り出したところ、苦渋の表情をして「そういうふうには考えられない」と断られたからだ。
     私と元彼との間の二年間でもいろいろあったと思う。いや、そんなに無かったのか。彼が私との結婚に踏み切れなかった本当の理由は今でもわからない。諦めさせる決定的な何かを私がしでかしてしまったのかもしれないし、決定打となる行動を私ができなかったからかもしれない。そもそも元彼が結婚を望まない人だったのか。よくわからない。
     いずれにせよプロポーズは失敗し、私たちは別々の道を歩む運びとなった。折しもポートフォリオも増えてきて、フリーランスとして独立を決めて退職した矢先だったから、新しい物件探しには苦労した。正社員と比べて、後ろ盾がないフリーランスに世間の風は冷たい。結局、良くも悪くも自由の身となった私は、高円寺で独居老人や生活保護の人が暮らすような隙間風が吹く築四十年過ぎ家賃五万円のアパートに入居した。二階建ての二階だったのがせめてもの幸いだ。女性の一人暮らしで一階はさすがに躊躇する。
     もう辛い思い出になってしまった下北沢近辺には住みたくないが、音楽の鳴る場所には居たい。そう考えていた私にとって、高円寺が行く先としてはちょうどよかった。
     実際のところ、私の求婚に彼が応じると思っていたのは否定できない。押しに弱い彼が押されて、雰囲気で呑まれて受けるだろうと楽観視していたところもある。でも、流されずに無理だと告げた彼の決断は正しかった。きっと誰かと一緒になるのには、単純に共同生活ができることのほかに、勢いのほかに何か強い結びつきのようなものが必要なのだ。
     私たちはそれを作れなかった。それだけだ。
     高円寺に移り住んでから三ヶ月が経って、シェアハウスで過ごしていた百六十センチ四十五キログラムの、どちらかというと痩せ型だった体重だったころに比べてさらに七キログラムも落ち、二十歳からの自己最低記録の三十八キログラムまで低下した。別に食欲がなかった訳じゃないが、食べても味を感じないのだ。今さらコロナに感染したのか、と疑ってもみたが、発熱も頭の中の混乱も生じていない。医者にかかることもなく営業活動をせっせと行い、制作仕事に励んでいたら、ある日いきなり部屋の中で倒れた。
     かろうじてスマホを操作できたから助かった。救急車を呼んで点滴を打ち、七日間の入院食を摂取してある程度の回復をして退院した。入院費用はそれなりにかかったが背に腹は変えられず貯金を崩した。お金がなくなっていくのは怖い、と改めて痛感する。
     心療内科でも診察を受けた結果、軽い摂食障害にかかっている旨を伝えられた。
    「こういうのは時薬(ときぐすり)といってね、時間が解決してくれるから。柔らかいものでいいから、薬だと思ってきちんと三食とるように」
     と診察の際に医師に言われたので、とりあえず朝はプロテインを摂るようにして、昼食、夕食も軽めだがきちんと食べるようにした。それでもなかなか体重は戻らない。
     痩せていく体重計の表示、減っていく銀行残高とにらめっこしながらへこんでいると、スマホが震えた。なおちゃんからだ。
    〈いま高円寺で飲んでいるんだけど、葵も来ない? たしかいま高円寺住みだよね?〉
     お酒を飲む。お酒を飲むなら肴がいる。肴は脂質やカロリーが高めのものが多い。天の助けだ。〈すぐ行く! どこ?〉と聞いた場所は、前にライブの打ち上げでも行った中華料理屋だった。また中華料理屋か、と私は思う。シェアアトリエの話題が出たのも下北沢の中華料理屋で飲んでいた時だ。中華料理は野菜もあるし肉や魚類などタンパク質も摂取できる。栄養価について過敏になっていた私が考えたのはまずそんな実利的な面だった。
     それに、なおちゃんという大きな存在に会えるのは嬉しい。最後に会ったのは下北沢の元彼との部屋にみんなが遊びに来た時だから、もう一年ぐらい経つのか。——あのころを思い出して、また暗い気持ちになった。
     身支度を整えて部屋を出てその駅前近くの中華料理屋に入り見回すと、なおちゃんが居た。金髪のくるくる天然パーマはよく目立つ。それに鏡花も、比嘉と敦も一緒だ。長い自宅での仕事で表情が作れるか心配しながらだったが、不器用でもいいからと精一杯の笑顔を作ってその卓に向かう。
     最初に気付いたのは比嘉で、口をぽかんと開けていた。「葵」と発した敦が真顔になった。
    「え、来た?」と振り向いたなおちゃんと目が合う。彼女の顔はみるみるうちに曇り、悲しげに立ち上がって、私の両肩を掴んだ。
    「大丈夫ぅ? ちゃんとご飯たべてるー?」
     彼女に問われて、どうでもいい雑学が思い出される。それは中国語における挨拶の意味が『ご飯食べた?』だということだ。

     How are you?

     つまりは感受性が強く表現力が高いなおちゃんですらも、そんな月並みな事しか言えないほど私は痩せ細ってしまっていたのだ。
    「食べよう! そんで、今日は無理しない程度に飲もう! すいませーん!」
     鏡花が中国人の店員を呼んで、聞き取れないぐらいの速さで注文をまくしたてた。おそらくこれから、大量の料理が運ばれてくる。食べきれなかったら、あとは男性陣に任せよう。とりあえずビールが飲みたかった。私の乾いた体を潤す、苦くて炭酸がきいたビールを。
    「オーケー、まずはビールね! すぐお持ちしますよ!」
     店員がジョッキにビールを注ぎ、卓まで運んでくる。鏡花が「改めまして」と前置きして乾杯の音頭を取る。ジョッキに口をつけると、たちまち身体中にビールが染み渡ってきた。ぐいぐい飲んで、気付けば全部飲み干してしまった。
    「……もう一杯たのもっか。すいませーん!」敦が手を挙げる。
    「一気飲みは体に悪いから、今度はゆっくり、ね」
     なおちゃんが宥めてくれたが、私はつとめて冷静だ。白黒だった世界が少しずつ総天然色に色づきはじめた。単純に急性アルコール中毒的に酔っ払ったのかもしれない。でも、なんだか気分がよかった。久しぶりに生きている心地がした。
     それから、空芯菜の炒め物や青椒肉絲、酢豚や豚足、鶏の唐揚げなんかが運ばれてきて、私たちの卓はジョッキと料理で占め尽くされた。大量の煙草の吸い殻入り灰皿を落とさないように細心の注意を払いながら、今度は一口一口を噛み締めるように食べ、そして飲んだ。
    「葵も溜まっていたもんがあったんだねえ」
     と鏡花がうんうんと頷く。私は饒舌になっていた。申し訳ないが、元彼についての愚痴をあることないこと話してしまっていた。もちろん私はみんなの話も聞いた。比嘉は職場で出世したらしい。敦は今度彼女と入籍するらしく、両親の顔合わせをしたそうだ。「おめでとー!」と卓が盛り上がったあと、実は鏡花となおちゃんにも、ここ最近新しい彼氏ができたのが発覚した。
    「なにー、もう言ってよー」
     と言いつつ、あ、いま独り身の私に彼氏ができたのは酷だと思ったのか、と気付き、「あ、あああああ、ごめんー」と反省する。二人ともその逡巡を察したのか苦笑いで返された。空気を読んだのか、敦が割って入ってくる。
    「でさ。今度新しいアルバム出すんだけどレコ発で沖縄いくんだ。よかったらこのメンツで沖縄いかない?」
    「えっ本当に? 行く行く」
     即答してしまった。視界に入った比嘉が不敵な笑みをする。相変わらず食えない野郎だ。頼りにしているけど。
    「あーおかしい。なんだか代田橋のアトリエのころに戻ったみたいだわ」
    「あのころなんの話をしていたんだか全然思い出せないけどね」
    「ね。飲んで遊んでばかりいた気がする」
    「でも、楽しかったね」
    「うん、楽しかった」
     楽しかった。それだけは確かだ。バルコニーで三人そろって煙草を吸ってから、今もその感想は変わらない。
     出された料理はどれも美味しく食べた。美味しいと思えたのは本当に久しぶりだった。


     沖縄でのライブの付き添いと遊びを兼ねた旅行が終わってから、さらに一年が経過した。私はフリーランスでやっていく困難さを思い知り、また改めて自分の造形技術を生かせる職場に転職した。食欲も少しずつ回復し、徐々に適正体重に近づいてきた。勤務して三ヶ月が経ち、ようやく新しい職場の雰囲気にも慣れた。単純に働く、気の合わない人間と関係を構築する、というのは難しい問題だが、とにかくそれも含めた上での仕事だ。ずっと制作畑にいたけれど、フリーランスで仕事を受注する困難さも知り、営業の人への理解も深まった。これからもやれるだけのことはやっていきたい。

     なおちゃんと鏡花とも二ヶ月に一度は遊ぶ仲だ。敦には今度子どもが生まれるらしく、仕事にバンドに忙しそうだ。比嘉も地方に行く仕事が増えて忙しそうで最近は飲めていない。でも、いずれ機会があればまた会えると決まっていた。

     みんなそれぞれがんばっている。

     寂しくなった時はいつでもみんなと会える気がする。たぶんそんな繋がりは、あのシェアアトリエで過ごしたモラトリアムみたいな時間がそう思わせてくれるのだ。そう考えると、代田橋に向けて足を向けて寝られない。

     ある晩、そろそろ寝ようとベッドに入った時にInstagramをぼんやりとスクロールして眺めていると、鏡花の投稿を見つけた。その瞬間、たちまち睡魔は姿を消し、目が冴えてしまった。
     どこかの高級ホテルのレストランだろうか、二人の男女が薔薇の花束を持って身を寄せ合っている。男性は鏡花に以前紹介された彼氏がスーツ姿で、女性は淡い緑色のドレスを着てカメラに向けて微笑んでいる。もちろん鏡花だ。キャプションにはただ簡潔に、

    『I am engaged!』

     と書かれていた。
     私は何かを考える間もなくコメントした。

    『最高!』

     と。それ以上の言葉は余計になる。ぽろぽろ、ぽろぽろ、涙がこぼれてきた。
     おめでとう鏡花。おめでとう。おめでとう。おめでとう。
     いつかはきっと私含めてみんな勝手に幸せになるのだ。

    〈了〉

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    働きながら文筆業・編集制作。小説の読み書きと猫が好き。小説『覗き見るもの』第55回新潮新人賞最終候補。THE ROYAL NINE MINUTES、Mrs.queezeなどでドラム・パーカッション担当。 NAYUTA、少年憧憬社代表。お仕事のご相談はDMください。

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