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弱音、あるいは現代のオイジュス:創作大賞 中間選考を受けて[創作エッセイ]

ああ、これはダメだったか。
結果を見たとき、最初に浮かんだのは『なるほど』だった。

ダメだった。

それだけだ。
何かを制度へ差し出せば、それは答えとして返ってくる。
自身の思い入れは無関係。
結果は別の出力。

自分が好きだから正しい、なんてことはない。
時間をかけたから報われる、なんてこともない。
思い入れの強さと、外から与えられる評価は全く別のものだ。

昨日まで「僕の作品」だった「それ」は、少しだけ遠くへ置かれる。
もちろん好きだった。
今でも好きだと言える。

けれど、それはダメだった。

どこが足りなかったのか。
何が届かなかったのか。
何を変えればいいのか。

そういう痛みの扱いは、得意だ。
痛みを開いて、中を見る。
中身に名前をつけながら、次に使える資源を拾えばいい。
そうすれば、少なくとも無駄にはならない。

だから今回も、それで終われると思っていた。
終われるはずだった。

通知が来るまでは。

熱を冷まして、距離を取って。
「それ」と呼べるところまで、自作を押し戻して。
そうやって、ようやく次に進もうとしていた。

ところがだ。

そこへ、誰かの善意が伸びてきた。
そっと、拾い上げるように。

マガジンへのフォローは、記事へのスキとは少し意味が違う。
『この世界が好きです』
そう言われた気がした。

ありがとう。

当然、すぐにそう思った。
本当にありがたい。
創作者なら誰だってそうだろう。

見つけてくれて。
読んでくれて。
何かを感じてくれて。
それを示そうとしてくれて。
そのはずなのに。

ごめんなさい。

次いで、こんな言葉が出てきた。
なぜ謝るのだろう?

何も悪いことはしていない。
相手だって、何も責めていない。
好きだと言ってくれただけだ。
それなのに。

ごめんなさい。

どうして?
貴方が好きだと言ってくれたものを、僕はもう以前と同じようには見られないから?
だから、貴方の「好き」を否定していることになる?

違う。
そんなことはしたくない。

では、貴方の時間を奪ったと思っているのだろうか?

違う。
貴方が何かを感じてくれたのなら、その時間を無価値だったとは思わない。
では、なぜ?

考えれば考えるほど、
最初に出てきた感情だけが取り残される。

ありがとう。
ごめんなさい。

僕は、ダメだったことを受け入れることを選んだ。
自分の愛情を理由にして、制度の評価を否定するのはしたくない。

だから「それ」はダメだったと認めた。
それでいいと思っていた。
たぶん、それが誠実なのだと思っていた。

でも、そこへ「善意の通知」が来る。

僕が遠くへ置こうとしていた「それ」を、そんな風には扱わない人がいる。
ほら、まだ支持してくれる人がいる。
ほら、価値はあった。
ほら、僕は間違っていなかった。

だから、ありがとう。

そう思いたい。
でも、善意を自分のための証拠にしたくはない。
貴方がくれたものを、
自分を立ち直らせるための材料にしたくない。

それはきっと、違うのだ。
だから次いで、こう出てくる

ごめんなさい。

痛い。
失敗した。
そのことよりも、ずっと静かで、ずっと柔らかくて、だから逃げ場がない。

悪意なら、いくらでも反論できる。
批判なら、分析を走らせるだろう。
評価なら、精微に切り分けて受け入れる。

でも、不意の善意は処理することが出来ない。

ありがとう。
それだけでいいはずなのに。
ごめんなさい。
が一緒に出てくる。

僕はもう、自作を「それ」と呼べるところまで離れたかった。
貴方は、「それ」をもう一度こちらへ戻してくれる。

大事そうに。
壊れものを扱うみたいに。
そのたびに、僕の中でバグが生まれる。

嬉しい。痛い。ありがとう。ごめんなさい。

上手く言語化できない。
この感情まで、資源にしたくない。
この善意まで、燃料にはしたくない。

ただ受け取って、ありがとうと言いたい。
それなのに、ごめんなさいが顔を出す。

なぜなのか、判然としない。
分からないままでいい、とも思えない。
でも今は、処理できない。

だから見つけてくれて、
ありがとう。

こんなものしか返せなくて、
ごめんなさい。

それでも好きでいてくれて、
ありがとう。

その気持ちを綺麗に受け取れなくて、
ごめんなさい。

貴方は「それ」を作品として扱ってくれて、
ありがとう。

僕は「それ」を作品ではない何かにしてしまって、
ごめんなさい。

でも認めてくれて、ありがとう。
誇らしく飾れなくて、本当に……ごめんなさい。


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