
エッシャーの目 17.目と目(最終回)
「そろそろ捕まってくれないと困るんだよ、お嬢さん」
搬器内に降りて来た羽村はそう言うと、ポケットから銀色の手錠を取り出した。
「おまえのせいで部下が何人死んだと思ってるんだ」
羽村の足元には警官の千切れた腕がある。未来はデイパックからノートを取り出す。
「拘置所に戻れ。今なら終身刑ぐらいにしておいてやる」
「も、もう遅いわ。私はエッシャーの目を完成させた」
羽村の目つきが鋭くなる。
「小津昌也の小説を、おまえがか?」
「結末とはじまりを書いた。私と成瀬創が出会って、世界が新しく創られるのよ」
未来はノートを開いて羽村に見せた。
羽村は動じない。
「そうか、好都合だ。それはこの世界の成り立ちだ」
「どういうことよ」
「おまえは出口ではなく入口を書いたんだ。それはこれから起きることじゃない。すでに起きたことだ。また世界は一巡して、スタート地点に戻される。〈渦〉に飲まれてな」
「……ここは、〈渦〉の外よ」
「ああそうだ。外界から遮断された箱の中だからな。だが、いずれ扉は開く。そこには、お前にとって都合の悪い現実がすでに作られていて、お前が来るのを口を開けて待っているんだ」
「嘘よ」
ハの字の眉毛の片方が反り上がる。
「私と成瀬創が再会して世界が再生されることをあんたは嫌がっている。だから捕まえにきた。ずっと牢屋に閉じ込めておくつもりでしょう」
未来はノートの絵の目が書かれたページを縦に破いた。瞳が真ん中で二つに分かれ、見つめ合っている一対の目のように見える。
「なにをする!」
「これはただの絵で、ただのノート。予言書でもなんでもない」
未来はノートをその場に捨てた。
「これが答えね、だまし絵の中から脱出するには、そこが絵だと気付かなければならない」
羽村は大きく目を見開いた。
未来はポケットからナイフを取り出す。
「ここでなら、あんたを殺せる。〈渦〉があんたを守ることがないなら」
羽村はにやりと笑う。
「やってみろ」
未来を見下ろす羽村に隙はなかった。未来はナイフを握る手が震えているのを感じながら、最後の抵抗を試みる瞬間を待った。
そのとき、銃声が響いた。
直後、羽村の顔が苦痛に歪んだ。ハの字の眉毛が反りあがっていく。彼は血が噴き出る首を抑えて苦しみもだえた。足をもつらせながら、割れたガラス壁にぶつかる。搬器が揺れ、ハの字の眉を八の字にして、散らばっていた警官の死体や箱を乗せた台車もろとも漆黒の淵に叫びながら落ちていった。
その闇の向こうに、かすかな、一筋の光を放つ別のエレベーターの軌道が見えた。並走するエレベーターには、銃を持った誰かが乗っていた。顔を確認する間もなく、その搬器は見る見る上昇していき、すぐに見えなくなった。
未来を乗せたエレベーターは速度を緩めることなく降下しつづけた。ごおんごおんという音と振動と、視界を支配する真っ黒な闇がただ続いた。
さっきのは誰だろう。わからない。前に階段室で会った迷彩服の男かもしれないし、恭二や、あるいは入れ違いで上層へ向かっている成瀬創かもしれない。いずれにせよ、顔が見えなかったことがこの事態を救っているような気がした。
未来は冷たいガラス壁に背中を預けたまま、うとうとと、覚醒と睡眠の狭間を彷徨った。時間の感覚がなかった。数時間の気もするし、数日間の気もする。
エレベーターの電光表示は間もなく1階を示そうとしている。
羽村は出口ではなく入口を書いたと言った。〈渦〉が未来を生かしていた理由は、入口を書かせて同じことを繰り返させるためなのかもしれない。だが、羽村が死んだ今、それは前とはすこし違う入口であり、出口でもあるはずだ。
その先の世界でも、羽村の代わりになる者がいるかもしれない。〈渦〉によってまた同じような出来事が繰り返されるかもしれない。だが、そこは次の次元に進化した世界だ。きっと。そうであることを信じたい。
未来は覚悟を決める。この先に待っているのが、地球であれ、実験施設であれ、産道の先の分娩室であれ、いつもの朝の目覚めであれ、それらありうるものすべてが真実だ。そこでは、誰かが誰かの妹だったり、生徒だったり、恋人だったりするのかもしれない。月や空や夜景やグレートバリアリーフや夏の厳しさや冬の寒さのある世界で、私たちは当たり前の日常を過ごしているのかもしれない。
エレベーターが停まる。
ゆっくりと、扉が開く。瞼の隙間から二つの白い輝きが見える。これまでになく眩い光が近づいてくる。それは月か太陽か。それとも――。