【光の門】 #023 エピローグ
最初に感じたのは、草の匂いだった。
湿った洞窟の空気でも、古い石のにおいでも、酒場の煙と油の混じった匂いでもない。
乾いた風。
丈の低い草。
土。
遠くに水がある気配。
オレは目を開けた。
空があった。
やけに広い空だった。
薄い青色に、白い雲が細く流れている。どこかで鳥が鳴いていた。地面には草が広がっていて、ところどころ赤茶けた岩が突き出している。
遠くには山があった。
見覚えがあるような山並みだった。
けれど、知っている山ではない。
村の裏山に似ているようで、まったく似ていない。洞窟の外に出たなら、まずあの祠の近くの森があるはずだった。雨上がりの湿った木々と、ぬかるんだ道と、遠くに村の煙が見えるはずだった。
だが、ここには森がなかった。
村もなかった。
煙もない。
太陽だけが妙にまぶしく、草原の先で知らない川が光っていた。
「……どこだよ、ここは」
オレがつぶやくと、すぐ横でヨイノカが跳ね起きた。
「ちょっと待ちなよ!」
その声は、今まで聞いた中でもかなり本気で怒っていた。
「ここはどこなのさ! 洞窟の外じゃないじゃないか! あたしの店は? 村は? 酒樽は? 仕込み中の薬草は? 戸締まりだってちゃんとしてないんだよ!」
「閉めてきたって言ってたろ」
「そういう問題じゃないんだよ!」
ヨイノカは頭を抱えた。
「ああもう、なんてことだい。あたしは一日だけ店を閉めるつもりだったんさ。それがどうして、見たこともない草原に放り出されなきゃならないんだよ」
《魔術の道を通った以上、同じ場所に戻れる保証はない》
ハクゲンの声がした。
今度はちゃんと杖だった。
オレのすぐそばの草の上に転がっている。
《むしろ、五体満足で現実に戻れただけでも僥倖じゃ》
「五体満足だろうが何だろうが、店に戻れなきゃ意味ないさね!」
「じゃあ戻る道を探せばいいだろ」
「軽く言うんじゃないんだよ!」
ヨイノカはオレをにらんだ。
「あんたはいいさ。どうせ普段からどこだかわからない穴蔵に入ったり、知らない町に行ったり、妙な遺跡で死にかけたりしてるんだろうけどね。あたしには店があるんさ。生活があるんだよ。常連はいないけど、たまには客だって来るんだよ!」
「常連はいないのか」
「そこに反応するんじゃないのさ!」
オレは立ち上がった。
身体は重かったが、動く。
服は濡れていない。
洞窟で水に浸かったはずなのに、妙に乾いていた。剣もある。荷物もある。ハクゲンも、残念ながらある。
ユナは少し離れたところに座っていた。
長い黒髪が草の上に広がっている。
青い瞳は、空の色を映していた。
だが、その奥にもう一つ、薄い空色の光がある。
ユナであり、妹であり、イズナミであるもの。
ユナは自分の手を開いたり閉じたりしていた。
「どうだ」
オレが聞くと、ユナは顔を上げた。
「からだ、ある」
「そりゃ見ればわかる」
「でも、ちょっと変」
「痛いのか?」
「ううん」
ユナは首を横に振った。
「たくさんいる感じ」
「たくさん?」
「ユナと、イズナミと、妹」
少し考えてから、
「でも、ひとり」
と言った。
「そうか」
「うん」
「歩けるか」
ユナは立ち上がろうとして、少しよろめいた。
オレは手を伸ばしかけたが、その前にユナは自分で踏みとどまった。
「歩ける」
「無理するなよ」
「ナギトみたい」
「何が」
「無理するなって言うところ」
「オレは無理なんかしない」
ヨイノカが大きく鼻を鳴らした。
「どの口が言うのさ」
「この口だ」
「本当に腹が立つね」
ユナはへへっと笑った。
その笑い方は、やっぱりユナだった。
けれどその笑い声の奥に、妹の気配があった。
オレはそれを聞いて、妙に落ち着かなくなり、空の方を見た。
遠くの山の上に、金色のものがちらりと見えた気がした。
葉か。
光か。
鳥か。
目を凝らすと、もう何も見えない。
だが、胸の奥で何かが引かれた。
カリンの声を思い出す。
喰輪。
あの神獣は、オレに英雄探索を与えた。
"樹"を探せ。
そう言った。
ただの木ではない。
ユナが見たという、大きな"樹"。
金色の葉を茂らせ、黒い服の少年がブランコに乗っていたという"樹"。
オレが死にかけたとき、ガラス越しの向こうにあったような気がする"樹"。
そしておそらく、魔術の道のどこかに根を張るもの。
その"樹"を探せということは、たぶん、そこへ行って枝を一本折ってくるとか、実を盗んで売り払うとか、そういう話ではない。
生きるということはいかなることか。
その答えを探せということだ。
死にたくないと叫んだオレ。
花になってなお海を見たいと言った妹。
石像から生きたユナ。
喰い、喰われ、殺し、助けられ、名を得て、名を分けたオレたち。
それらが全部、答えの途中なのだろう。
「ナギトはさ」
ヨイノカがまだ不機嫌な顔で言った。
「あんた、これからどうするつもりなのさ」
「決まってる」
「決まってるってさ、まさかこのまま適当に歩くつもりじゃないだろうね」
「まず水場を探す。あっちに川が見える。水があれば道もある。道があれば村か町に出る。町に出れば金か情報が手に入る」
「妙に現実的だね」
「旅ってのはそういうもんだろ」
「そういう話じゃないのさ。元の村に戻る方法を探すって話をしてるんだよ」
「探すさ」
「本当かい?」
「ついでにな」
「ついでじゃないのさ!」
ヨイノカが叫んだ。
「うちの店はついでじゃないのさ!」
「オレにはついでだ」
「このヒトでなしめ!」
「ヒトではある」
《ニンゲンではないがの》
「じいさんも混ぜ返すんじゃないのさ!」
ヨイノカはしばらく怒鳴っていたが、やがて疲れたように肩を落とした。
「ああもう……ここがどこかもわからないんじゃ、文句を言っても仕方ないね」
「やっとわかったか」
「わかっただけで納得はしてないんだよ」
「納得なんてしなくても歩ける」
「名言みたいに言うんじゃないのさ」
オレは草原の先を見た。
川の向こうには、さらに丘が続いている。
その向こうは見えない。
知らない土地。
知らない空。
けれど、こういうのは慣れている。
遺跡に潜れば、地図にない道に出ることなどいくらでもある。洞窟の奥が古代の神殿につながっていたり、墓の底から別の山の中腹へ抜けたり、入った場所と出る場所が違うことなど珍しくもない。
問題は、ここがどれくらい遠いかだ。
一日の距離か。
一ヶ月の距離か。
海の向こうか。
それとも、もっと別のどこかなのか。
まあ、どこでもいい。
生きているなら歩ける。
歩けるなら、どこかには着く。
どこかに着けば、飯も酒も寝床も、たぶん何とかなる。
ならなければ奪う。
いや、ヨイノカとハクゲンがうるさそうだから、できるだけ奪わない方向で考える。
「ナギト」
ユナが袖を引いた。
「なんだ」
「"樹"、探す?」
「ああ」
「海も?」
「ついでにな」
「ついで?」
「"樹"を探してるうちに、海くらいどこかで見つかるだろ」
ユナは少し考えてから、うなずいた。
「じゃあ、行く」
「歩けるんだな」
「うん」
それからユナは、自分の胸に手を当てた。
「ユナも、妹も、イズナミも、行く」
「そうか」
「ナギトも行く?」
「行くに決まってるだろ」
「どうして?」
その問いに、オレは少し黙った。
どうして。
金が欲しいから。
死にたくないから。
カリンに押しつけられたから。
元の場所に戻る道を探すため。
ユナを安定させる方法を探すため。
海を見せる約束をしたから。
どれも間違いではない。
だが、それだけではない気がした。
「……生きてるからだろ」
オレは言った。
口にしてから、何だそれは、と思った。
だがユナは真面目に聞いていた。
「生きてるから、行く?」
「たぶんな」
「たぶん」
「今はそれで十分だろ」
ユナは少し笑った。
「うん」
《よい答えじゃ》
ハクゲンが言った。
「まだ答えじゃねえよ」
《だからこそよいのじゃ。英雄探索の始まりに、完成した答えなど不要じゃからな》
「また賢者ぶったこと言いやがって」
《実際、わしは賢いからの》
「売るぞ」
《英雄探索には導き手が必要じゃと思わぬか?》
「安ければ買い手はいるだろうな」
《そこは売らぬと言うところじゃろう!》
オレたちのやり取りに、ヨイノカは呆れたように笑いだした。
「まったく、なんなんさね。こんな知らない土地に放り出されて、あたしの店はどうなるかわからなくて、女神像は女の子になって、その女の子はあんたの妹と一つになって、今度は"樹"を探す旅だって?」
「そうらしいな」
「普通なら頭がおかしくなるよ」
「おまえはまだ大丈夫そうだな」
「全然、大丈夫じゃないさね!」
そう言いながらも、ヨイノカは荷物を確かめ、腰の袋を締め直していた。
文句を言いながらも、歩く準備はしている。
そういうところは信用できる。
「で、どっちへ行くのさ?」
ヨイノカが聞いた。
オレは川の方を指した。
「あっちだ」
「根拠は何さ?」
「水がある」
「それだけ?」
「それだけで十分だ」
《川は道となる。古来、人は水に沿って生きるからの》
「じいさんの言う通りだ」
「珍しく意見が合ったね」
「不吉だな」
ユナがまた笑った。
空は高かった。
風は知らない匂いがした。
遠くで、見たこともない鳥が鳴いている。
ここがどこなのかはわからない。
元の村へ戻れるのかもわからない。
"樹"がどこにあるのかもわからない。
生きるということが何なのかなど、もっとわからない。
だが、わからないから探すのだろう。
カリンはそう言いたかったのかもしれない。
黒い服の少年が何者なのかは知らない。
神なのか、英雄を道へ送り出す何かなのか、あるいはただ問いを投げるだけの厄介者なのか。
それも今はわからない。
ただ、オレは一度、あの問いに答えた。
死にたくない。
そう叫んだ。
なら、その続きくらいは見届けるべきなのだろう。
オレは歩き出した。
ユナが隣に並ぶ。
ヨイノカが文句を言いながら後ろをついてくる。
ハクゲンは杖の中で、やれやれと偉そうにため息をついた。
見知らぬ草原を、川へ向かって進む。
――そのようにしてオレの"樹"を探す旅、後に世界の趨勢を決することになる英雄探索『"樹"の探索』が始まったのだった。
そしてたぶん、それは、オレにとって、
――生きるということは、いかなることか
それを探す旅でもあるのだ。
― 了 ―