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「届かない距離の、その先に」

    あらすじ

    不動幸一、三〇歳。単独山行を趣味とする彼は、大雨の山小屋で出会った湯ヶ島蛍とのことが忘れられないでいた。その後、思いがけず病院で再会を果たすものの、どこか影を抱えた蛍との距離は再び離れてしまう。そんな二人を再び結びつけたのは、全盲の山ガール・望月明光だった。三人はそれぞれの思いを胸に、約束の地・三つ玉連山をめざして歩き始める。山でしか見えないものがあり、耳を澄ませて初めて聞こえるものがある。登山というフィールドを舞台に、人を信じること、支え合うこと、そして一歩を踏み出す勇気を優しい筆致で描く恋愛ヒューマンドラマ。

    登場人物

    不動幸一(ふどうこういち)(30):
          主人公。登山が趣味のサラリーマン。単独行主義
    湯ヶ島蛍(ゆがしまほたる)(27):
          医療機器取扱技師。過去の事故に責任と悔いがある。
    望月明光(もちづきあかり)(20):
          全盲。登山が趣味の明るい女子大生。

    第一章『出会い』

    山の空気は気持ちいい。
    「うーーん」
    不動幸一は山小屋の庭で大きく伸びをした。
    目の前には今回のターゲット、三つ玉連山の山々が見える。その名の通り三つのピークからなる縦走路で、第一のピークを越えた先の山小屋に着いたところである。
    世俗を離れて自然に身を任せるこの瞬間、幸一の身体にはなんとも言えない充足感が満ちてくる。
    歩き疲れていてもテントを張ってしまえば、あとは夕食までゆっくりするだけだ。
    山小屋のテラスのテーブルに陣取った幸一は、コーヒーの準備をしながらラジオのボリュームを少し上げた。もうすぐ天気予報の時間だ。
    お湯が沸くと砂糖を多めに入れたインスタントコーヒーの完成だ。
    「ぷはー」
    満足そうにひと息をつく。この甘さが一日の自分への褒美だ。
    そして、ラジオから流れている情報を天気図に書き記していく。
    「うーん、この前線、やな感じだなあ」
    どうにか書き終えた天気図を眺めながら、ふと人の気配を感じて登山道を見ていると、ひょっこりと小柄な女性が現れた。
    女性は幸一の近くに荷を下ろして軽く息を整えていた。しばらくぼんやりと夕焼けを見つめていた女性が、幸一の天気図の方をのぞき込んできた。日本列島をなでるように前線が記されている。
    「こんにちは、明日の天気ですよね。どうでしょうか」
    「お疲れ様でした。素人予報ですけど、あまりよくなさそうです。雨も風も出そう。縦走ですか」
    「ええ、そのつもりです」
    少しの間を開けて彼女がつぶやいた。
    「…当たったら…困りますね」
     女性はよっこらしょ、といった感じで荷物を背負い直して、小屋の方を向いた。荷物が大きく見えるのは女性が小柄のせいだろう。よく見ると二泊三日以上の縦走には小さく見えてくる。むしろ妙に軽く見えた。
    「小屋でもしっかりした予報を見たほうがいいですよ」
    「はい、ありがとう」
    そこで会話が途切れ、女性は小さく会釈すると小屋へと消えていった。
    ひとりテントに戻り横になった幸一だが、女性のことが気になってしばらく寝付けなかった。

    翌朝はテントをたたく雨音で目が覚めた。予想通りの雨だ。いまはまだ弱いが風もある。
    「ああ。今日は無理か…」
    残念そうに独り言をこぼし、もっと詳しい情報を得るために小屋へと向かった。小屋では早起きの主人が、白板に貼った天気図の横に独自の予報を書いているところだった。
    「おはようございます。今日は一日中降りそうですか」
    「あぁ、おはよう。一日中ってことはないだろうけど、午前中は特にひどそうだよ。それに風もでてきそうだね」
    「そっか…今日は停滞するしかないかなあ…」
    幸一と小屋の主人がそんな会話をしていても、横では出発を強行する登山者たちがちらほら出てくる。
    「出発するのかい…気をつけなよ」
    主人の声に「はい」と短く答えるものや、会釈だけ返すもの、あるいは無言で立ち去るものと様々である。そんな登山者に交じって、小柄な女性が支度をしているのが目に入った。真っ赤な雨具を全身着込んでいるが、間違いなく昨日言葉を交わした女性だった。
    「え、出発するんですか」
    「あ、はい、おはようございます。あなたは?」
    「あ、おはよう。いや、ぼくはここにとどまってテントでのんびりします。それで天気が回復したら下山ですね」
    「そうですか…では」
     女性は軽く会釈すると立ち上がった。そこには一切の迷いがなかった。
    「え、どうしても行くんですか。もう少し様子見たほうがいいんじゃ…それより、また来れば…」
    「いえ、行かなくちゃいけないです」
    彼女は自分自身に言い聞かせるようにして小屋の扉を開けた。
    「あっ、…気をつけて」
    幸一が身体を引くと、彼女は一瞬だけ彼の方を見た。
    ほんの一瞬、何か言いかけたように見えたが
    「…」
    結局、何も言わずに雨の中に消えていった。
    「いるんだよ、ああいう子たちが。何もないといいんだけどね」
    「ええ、そうですね…」
    少し小言めいた響きの主人の声に生返事だけ返し、幸一はしばらく彼女の消えた扉を見つめていた。

    彼女を見送ってテントに戻った幸一は、することもなくゴロゴロ過ごしていた。ときどき見上げる空は暗い雲に覆われて遠くでは稲光も光っている。じっとしていると彼女のことばかり気になってしまう。幸一は正直言って自分の心を持て余していた。
    「大丈夫かな…?」
    小屋の主人が予想した通り、午後になってようやく天気が持ち直してきたのを機に、幸一は急ぎ支度をして下山していった。
    「よかった…あの子も…」
    そう思って安心したはずなのに、なぜかその後もしばらく、彼女のことが頭から離れなかった。
    しかし、そんなことも日々の忙しさの中でいつの間にか忘れてしまっていた。

    第二章『再会』

    数か月後、幸一を思わぬ災厄が襲った。海外出張のあと、片耳がほとんど聞こえなくなったのだ。病名は突発性難聴。気づいたときには、もう遅かったらしく三週間の入院を告げられた。
    主な治療は毎日一度の高圧酸素治療だ。カプセル型の治療器に入れられ、蓋が閉じられると外の音が遠ざかる。加圧されているそうだが実感はない。ただ、逃げ場がない感じだけが残っている。
    担当技師が一人付き添い、リラックス出来るよう好みの音楽やラジオを聞かせてもらえるし会話も出来る。ただしリラックスの妨げになるためか、ほとんどしゃべりかけてはこない。
    担当技師は日替わり。そんな無機質な治療を繰り返していたある日、テキパキと準備している小柄な担当技師の横顔に見覚えがあった。彼女の方は覚えていないのだろうか?
    「はい、不動幸一さんですね。横になって下さい。血圧計を取り付けますね。もう何度もやっているからわかりますよね。治療中、何か聴きますか。いつもはFMラジオですね。きょうもそうされますか」
    「ええ、いいですけど。あの…」
    言葉に詰まっている幸一の様子に女性が手を止め、顔を上げる。
    「はい…?」
    「…あの…雨の山小屋で…」
    「あっ…」
    「看護師さんだったんですね。よかった。計画通り行ってこられたんですね」
    「ええ…」
    間が開き沈黙が部屋に降りる。
    少しして彼女が小さく頭を振り、仕事の顔で告げる。
    「病院勤めですけど看護師ではなくて、医療機器の専門技師です。ごめんなさい。次の方の予定もあるので治療に入りましょう」
    事務的な口調に気圧されてそこで会話は途絶えた。静かな治療室の中、いつもより空気が重く感じられる。FMラジオの音がやけに遠くなり、いつもは気にもとめなかった機械音が,やたらと耳についた。

    日曜日は治療もない。幸一はベッドで食事をとる以外、暇で時間を持て余していた。 なんとなくあの女性のことを考えていると、病室のドアが遠慮気味にノックされた。
    「失礼します」
    入室してきたのは他ならぬその女性だった。登山ウェアとも白衣とも違う薄ピンクのワンピースのせいか幼く見える。
    「突然すみません。ナースに病室を聞いて。今、少しいいですか」
    「は、はい。どうしたんですか」
    「この前のこと、言えてなかったので」
    少し言い淀む。
    彼女が続けた。
    「無視しましたよね。あのとき」
    「…まあ」
    「大変でした。あとあと…ふっ」
    ため息とも笑いともつかない小さな息を漏らしたあと、
    「だから、言っておこうと思って」
    「あ、はい…」
    「言うこと聞かずにごめんなさい。ええーと、それだけ伝えたくて。…長く話すのもよくないですよね。じゃ、これで…」
    彼女が出て行こうとするのを慌てて幸一が呼び止めた。
    「…あ、あの…」
    彼女が振り返る。
    「その話、もう少しだけ…」
    「え、でも…」
    「大丈夫ですから」
    幸一は自分の耳を指さして微笑む、と同時に、同室の患者を気にして声を落とす。
    「休憩室に行きませんか」
    「はい…」
    休憩室の端の席。勝手知ったる女性が先に立って席についた。
    「…ここならいいかな…」
    「はい、これ。ミルクが入ってるけどいいですか?」
    自動販売機で買ってきたコーヒーを手渡す幸一。
    「あっ、すみません」
    一口飲む。
    「ふふっ、山の上でも飲んでましたよね。コーヒーお好きなんですね」
    緊張が解けてきたのか、彼女の口調が少し和らいでいた。
    「はい、でも不思議ですよね。こんなインスタントだって、山の上ならおいしさ百倍なんですよね。ぼくは、山ではこれを一日の終わりにしてるんです」
    「終わり?」
    「はい、今日も生きてたなって」
    「じゃあ、あのときも…」
    「そう、でもこんなことになって次はいつ登れるのやら」
    「そうか、待ち遠しいですね。でも焦らない方がいいです」
    「はい、もう腹決めてます」
    「この病気、そういうものなので」
    「あなたにそう言われると安心しますね」
    「いえ…」
    するとハッとした様子で彼女が言った。
    「あの…名前まだでしたよね。湯ヶ島です。蛍」
    「ぼくの方は…もう知ってますよね。不動幸一です」

    幸一と蛍の間にあった壁が少しずつ溶けて会話も増えてきた。
    何よりも治療中は、誰の目も気にせずにカプセルの内と外で会話が出来る。蛍が担当してくれる日が待ち遠しかった。担当は数日に一度しかなかったが、それ以外の日も蛍は仕事終わりに顔を出してくれた。いつもの端の席でインスタントコーヒーを飲んで、疲れを癒やしながらの会話である。最初は病気のことで蛍が励ましたり、入院生活での時間の過ごし方であったり、他愛もない会話が続いていた。
    そして、ようやく幸一は山の話をすることにした。
    「…」
    会話の切れ目、幸一は小さく息を吸って静かに語り始めた。
    「ところで湯ヶ島さん、最近はどこか登りました?」
    蛍の眉がピクリと動く。
    「…」
    少しの間があいて蛍がぽつりとこぼす。
    「いえ、なかなか休みが取れなくて…」
    「そうなんだ.大変なお仕事ですもんね」
    「ええ、まあ…。あの日、特別に休みをもらったのでその分の埋め合わせもあって」
    「それなのに、残念な天気でしたよね。山の天気は仕方ないけど」
    「ただ、私にとってあの日は、毎年行かなくちゃいけない日だったんです」
     蛍は申し訳なさそうに幸一の方を見てすぐに顔を伏せた。
    彼女の顔から緊張が感じられ、幸一は何も返せなかった。
    「それで無理しちゃって…」
    「あの三つ玉連山にですか」
    「はい…だって…」
    うつむいたまま言い淀む蛍。幸一はもう何も聞けなくなり、空気を変えようとした。
    「いい縦走路ですよね。あ、ぼくは途中で下山したからまだ全部知らないんですよ。でもテントに泊まってのんびりするのも好きですよ。でも病院に泊まるのはもういいかな」
    蛍の顔に小さく笑みが戻ったのを見て続ける。
    「湯ヶ島さん、他にも好きな山あります?」
    「うーん、そうですねえ」
    幸一がそれ以上追求してこないことにほっとした様子だった。 小さく吐息をこぼして蛍が続けた。
    「私はいつも近場の日帰りです。時間に追われて、沈む太陽と競争してばっかり」
    「それじゃまるで訓練かレースみたいですね」
    「ほんと、そんな感じです。不動さんは経験豊富みたいですね」
    そういわれて幸一も一瞬言葉に詰まった。
    「んー、ぼくは回数多いけど、一人でしか行けないから…」
    「あら、ご一緒される方はいらっしゃらないですか?」
    「ええ、まあ…」
    少し沈黙が起きる。幸一がその気まずさを打ち消すように少しふざけ気味に言った。
    「とにかく早くこの牢獄から出ていきたいですよ」
    「そんな、牢獄だなんて」
    蛍も笑顔で応じ、会話がまた他愛もない方向に向かっていった。

    三週間の入院生活を経て幸一は退院の日を迎えた。幸一が病室を片付けていると仕事着の蛍が訪ねてきた。
    「不動さん、退院ですってね。おめでとうございます」
    「あ、湯ヶ島さん。来てくれたんですか。ありがとうございます」
    「私、お祝いも持ってこられなかったけど、一目だけお会いしたかったから」
    「気にしないで。ぼくも会えてうれしいです」
    「ぼくはまだしばらく山にも行けそうにないけど、またどこかで」
    「ええ、私もあまり行けてないけど。でも…また」
    「…」
    その後、話が途切れ、気まずさをごまかすように蛍が告げる。
    「では、仕事抜けてきているので、これで…お大事に」
    「あ、はい。わざわざありがとうございました」
    急いで立ち去る蛍の後ろ姿。幸一は目に焼き付けるようにずっと見つめ、もう一度呼び止めようとしたが、できなかった。

     

    第三章『明光』

     退院した幸一は、三週間の休みのあおりを受けて仕事に忙殺され、蛍のことも忘れていた。 最初は心配してくれていた上司や同僚も、すぐにそんなことはお構いなしに仕事を言いつけてくる。 その日も会社に遅くまで残っていた幸一は独り言をこぼす。
    「まったく、なんだよ。…戻った途端これかよ」
    そして椅子の背に身体を預け大きく伸びをした。
    「あー、やってられない。そろそろ山の空気でも吸いたいな。低山なら大丈夫だろ」
     そして次の休みの日、幸一は小さなザックを背負って近場の低山に登ることにした。 ここは地元では「ミニ富士」と呼ばれている小さな山だ。小さくても富士と称されるだけあってひたすら登りの続く独立峰。なまった身体を温めるにはちょうどいい、と選んだ山だった。 何度も休憩しながら山頂に辿り着くと手頃の岩に腰掛けてため息をついた。
    「ふぅ…やっぱりこたえたな」
    幸一は山頂での決まり事、コーヒーを入れる支度を始めた。 お湯を沸かしていると、下の方から賑やかな声が聞こえてきた。
    「もうすぐ、山頂だよ。頑張って。あと三分ってとこ」
    「ほんと?ダメだよ、正確に言わなきゃ」
    「あ、足下に岩です。気をつけて」
    「え、どっちの足?」
    「はい、右。右です。そうそれ」
    「うん、ありがとう。でも、今、振り返ってるでしょ。危ないよ、それ」
    「は、はい,あ、もう着きますよ」
    「ごめんなさい、前、通ります」
    幸一の前を通る一団は、不思議な感じだった。二人一組で、後ろの人が前のザックから垂らしたロープをつかんでいるのだ。どうやら後ろは目の見えない人のようだった。それに気づいて幸一は慌てて邪魔にならないように荷物を脇にずらした。その中に一人、二〇歳前後と思われる若い女性が、中学生くらいの女の子の後ろでロープをつかんで歩いてくる。と言うことは目が見えない人なのだろうか、と幸一が考えていると、通り過ぎようとした彼女が幸一に声をかけてきた。
    「こんにちは。うるさくしてごめんなさい。コーヒー、いい匂いですね」
    「あ、はい。こっちこそ邪魔じゃないですか」
    「ううん、全然。思ったより若い声ですね。でもちょっと疲れてるみたい」
    と、いきなり前方のリーダーらしき人物に声をかけている。
    「ねえ、佐藤さん。私、この人と少しお話ししたい。いいでしょ。コーヒーの匂い、気になるから」
    「いいけど、迷惑かけないでよ。私たちすぐそこにいるから。長話しないで、いいね」
    「はーい。あ、淳ちゃんも行ってていいよ」
    彼女をリードしていた中学生くらいの子に声をかけてロープから手を離した。
     淳ちゃんと呼ばれた女の子はほっとしたような顔つきで離れていった。
    「ここ、座ってもいいですか」
    幸一のとなりに座り込んでにっこり微笑む女性、明光との出会いだった。

    明光がちょこんと隣に座る。幸一が声をかける。
    「あ、もう少し右。椅子にちょうどいい木の根がありますよ」
    「これですね。ありがとう。すみません、突然お邪魔して。えーっと、おじさん、じゃないですよね。お兄さんでいいのかな」
    「ぜんぜん、気にしないで」
    「私たち、うるさくないですか。でも話してないとすぐ状況がわからなくなるの」
    少し離れたところで休憩している明光のグループから、賑やかな声が聞こえてくる。その中に明光を心配するような、冷やかすような声があったようだ。幸一には聞き取れなかったが、明光が敏感に反応した。
    「ちょっと~、何言ってんの。この人なら大丈夫。心配しないで。っていうかこっちをチラチラ見てるんじゃないの!」
    「あ、皆さんに心配かけるようなら、ぼくがそっちに行こうか。全員分のコーヒーはないんだけど」
    「いいって、言わしておけば。みんな口は悪いけどいい人ばかりだから、気にしてないよ。冷やかしてるだけ」
    「でもよく聞こえたね。ぼくには全然わからなかった」
    「それは…」
    少しの間のあと真顔になって明光が続けた。
    「わかってるでしょ。私は見えてないの。だから耳に頼るしかなくて…自然に敏感になっちゃったの。ほら、お湯沸いてるよ」
    「あっ…」
    幸一が目を離していた隙に、コッヘル内ではお湯がぐつぐつと音を立てていた。幸一が慌ててコーヒーを入れて明光に差し出した。
    「どうぞ、口に合えばいいけど」
    「わあ、いい匂い。お兄さん、悪いけど手渡しして」
    「あ…」
    幸一は一瞬言葉を失った。そんな幸一がおかしいのか、明光はニコニコ笑っている。
    「お兄さん、面白いね。私の思った通り。私たちのこと、変に気を遣わなくて相手してくれる人だった」
    「いや、ごめん」
    「違うよ。その方が気楽で楽しいの。お兄さんはいつも一人なの?」
    「うん、そう。ちょっと訳があって。それにしばらく山に来られなかったから、今日はリハビリなんだ」
    「そうか。山慣れしてる感じだと思って聞いてたけど、訳ありなんだ」
    それから他愛もない会話を続けていると、グループの方から声が聞こえた。
    「明光、そろそろ出発するよ~」
    「はーい、今そっち行くから待ってて。いいよ、誰も来なくて」
    そして幸一の方を見て軽く頭を下げてきた。
    「お兄さん、お願いがあるんですけど。私をみんなのところに連れて行ってほしいの。いや、私に肘をつかませてくれれば大丈夫ですから」
    「うん、それはもちろん」
    二人は立ち上がると、明光が幸一の肘につかまって一緒に歩いて行く。
    「左に大きな根があります。右によけて」
    「今度は大きな岩。またいだ方が楽かも」
    「痛っ!上に枝が出てるから頭に気をつけて」
    幸一の必死さが伝わると、明光はクスクス笑っている。 短い距離のはずなのにグループのところについた時には幸一は大きく息をついていた。山頂を通る風がやけに気持ちいい。 明光もまた風に身を委ねている様子だ。
    「いい風ね。ねえお兄さん。ここから何が見えるのか教えて」
    幸一は明光の身体の向きを変えて、
    「この方向に富士山が見えるよ。まだ上の方は雪が残っていてすごく綺麗だ」
    そして明光の向きを少しずつ変えながら見える山名を教えていく。 三六〇度説明し終えると、明光が嬉しそうに話した。
    「お兄さん、すごいよ。目に浮かんだわ。今日はいい登山だった」
    少し、時間を空けて、
    「ねえ、お兄さん。みんなに紹介するわ。お名前、聞かせて」
    「不動幸一、です」
    「幸一さん、あの、よかったら一緒に下山してくれませんか」
    「えっ」
    「私、幸一さんにサポートしてほしい。淳ちゃんは背が低いから、少しかがまなくちゃいけないの。幸一さんならちょうどいいんだけど」
    「でも、ぼく、サポートなんてわからないし」
    「いいの。私の前を歩いてくれれば、つかんだザックからわかるから。それにさっきのサポートとっても上手だったし」
    最後の方は周りに聞こえないように小声で話した。 幸一は、迷った。だが明光の懇願する姿を見ているととても断れなくなっていた。何をどう伝えたらいいのかわからないが、ふたりの後ろについてくれたベテラン会員が的確に説明してくれたので、幸一は前を向いて下りの歩きに集中し、どうにか下山を果たした。
    「幸一さん、ありがとう。すごくよかった。また一緒に山登りしませんか。私たち、低山ばかりだから、幸一さんのリハビリ登山にもちょうどいいんじゃないかしら。それに、私のサポートをしてほしいんです。今、ちょうどいい人がいなくて…高齢者と子供たちばかりで。お願いしてるから文句は言えないんだけど、ちょっと歩きにくいんですよ。前にひとりいたんだけど、来てくれなくなっちゃって探してたんです」
    幸一はもう迷わなかった。
    「わかりました。次の計画が決まったら教えて下さい」
     それから、幸一は何度か明光と一緒に登った。最初はサポートするだけで精一杯だったが、だんだんペースがつかめてくるといろいろ話が出来るようになっていた。
    「幸一さん、上手になったよね。すごく歩きやすいよ」
    「そうかい」
    「ねえ、リハビリっていってたけど何かあったの。骨折とか?」
    「いや、耳なんだ。急に聞こえなくなって三週間も入院してたんだ」
    「ええっ、全然わからなかった」
    「ああ、もう完治したからね。でも身体がすっかりなまってて、それでリハビリ」
    「そっか、じゃあ前はいろんな山に登ってたんでしょ」
    「まあ、それしか趣味ないし」
    「ねえ、幸一さん…三つ玉連山っていったことある?」
    「…」
    言葉に詰まる幸一。言葉を絞り出す。
    「…行ったことは、ある」
    少しの間
    「途中で引き返したんだ…」
    幸一の歯切れの悪さに怪訝な顔をして明光が続けた。
    「私を連れて行ってくれない?グループ登山ではなくて個別登山で…」
    「え、でもあそこは…」
    幸一が言い淀んだ理由を明光は察していた。
    「わかってる。泊まりになるよね。私なら大丈夫だよ。ねぇ、いいでしょ~、佐藤さん」 明光は矛先を急にグループリーダーに向け許可を求めている。
    「うーん、そうだなあ。幸一さんなら心配ないけど、やっぱりもうひとり、前後でサポートする形でないとなあ」
    そうなのだ。幸一としてもいつも後方のサポートの声に助けられていた。
    「それなら、誰かサポートしてもらえる人は…」
    幸一がグループ全体に声をかけようとすると、明光が彼の腕をつかみ制した。
    「待って、幸一さん。私、三つ玉連山にはグループ以外の人と行きたいの。迷惑かけたくないし…、邪魔されたくないから…」
     結局、その場での許可は下りなかった。それでも明光は粘って、グループ外でいいので、もうひとりサポートをつけたサンドイッチ型なら許可するというところまでこぎつけたのだった。
    「明光ちゃん、だいぶ頑張ってたけど、誰か当てあるのかい?ぼくの山仲間を当たってもいいけど、最近は会ってないしなあ」
    「うん、あの人…」
    言いかけたがすぐに話題を変えた。
    「ねえ、幸一さんはどうしていつもひとりで行くの?」
    「うん、団体登山でいやなことがあってね。」
    「えっ?じゃあ、私たちのサポート登山もいやだったの?」
    「ううん。大丈夫。ぼくが言ったのは、大学の山岳部のこと…」
     幸一が頭をかきながら続けた
    「ザック、全部並べられてさ」
    「えっ…?」
    「誰のか分からなくして、重さを均等にするって」
    明光は黙ったまま聞いている。
    「公平だろ、って顔してたけど」
    幸一は少し笑う。
    「ぼく、そのとき一番軽くしてたんだよ」
    また少し間。
    「なのに、いちばん重くなった」
    「…」
    「それで、やめた」
    幸一はしばらく黙っていたがふと気がついたように聞いた
    「明光ちゃん、そう言えば誰か心当たりがありそうだったけど?」
    「うん…」
    今度は明光の声に歯切れ悪さが乗っている。
    「幸一さんの前にいたの。私のサポートナンバーワンが…」
    「へえ、じゃあその人に頼めそう?」
    明光の顔に影が差している。
    「うーん、無理かも。だって…」
    明光の言葉が続くのを黙って待っていると、意を決して明光の口が開いた。
    「その人とは、やっぱり偶然山で出会ってすぐ意気投合したの。それからは毎週のように一緒に行ったわ。もちろん最初はグループ登山のゲストだけど、すぐに二人きりでも許してもらえた。彼女のサポートぶりには佐藤さんたちも舌を巻いてたみたい」
    「すごい人だね。短期間で、だろ」
    「うん、それから回を重ねていよいよ泊まりで出かけようってなって…、それが三つ玉連山なの。私の目標の山」
    「そうなんだ、でも、まだ行けてないんじゃなかった?」
    「うん、彼女の仕事が忙しくて…、でもやっと、泊りで行けるって決まって…」
    明光の言葉が止まり、間が開く
    「その二週間前かな」
    明光が言葉を探す。
    「…私、転んだの」
    幸一は何も言わない
    「木の根だったのかな、そのまま滑落して…」
    明光の左手が右肩をさすっている。
    「ここ、折れちゃった」
    「えっ…」
    「彼女、何も言わなかった」
    間。
    「私も、何も言わなかった。ただ二人で泣いてた」
    「泣いてたけど、彼女の応急手当てがよくて…早く治ったんだよね」
    「…」
    幸一は小さく息を吐いて言葉を続けた。
    「その人とは、今は?」
    「わかんない。連絡途切れちゃったから」
    明光の声にかすかな棘が混じる。
    「勝手に事故の責任感じていなくなったのよ」
    「でも明光ちゃんはまたその人と登りたいんじゃないの。だから、思いだしたんだろ」
    「うん…」
    言い淀む明光。
    「でもさ…嫌がって消えた人にこっちから頼むなんて出来なくない?」
    「そうかな。その事故っていつのこと?」
    「二年前の七月だけど…」
    「それ、もう時効だよ。思い切って連絡してみたら」
    「うん…でも嫌なんじゃないかな」
    少しふたりの間に沈黙が流れる
    「ん?二年前の七月…ぼくが三つ玉をあきらめたのと同じだ…あの時は大雨だったんだよ。行けなくてよかったのかもね」
    幸一がわざと軽く言ったが、明光は乗ってこず、厳しい顔で続けた。
    「知ってるよ。雨だったって、聞いたもん。彼女、ひとりで三つ玉連山縦走してきて…もう失敗しないように下見してきたよ、なんて言うから、私、頭にきて「誰のせいで怪我したと思ってるの!」って言っちゃった。サポートの人に絶対言ってはいけない言葉よね。そしたら彼女泣いて謝って、私の前から消えたの」
    幸一の心臓がはねた。
    「明光ちゃん…待った。その人の名前って?」
    「え…蛍さんだけど」
    「…えっ?」
    「湯ヶ島蛍さん」
    「そんな…」
    幸一は大きく息をついた。
    「あの山小屋の子が…」
    「何よ、何言ってるの?」
    明光の声にも上の空だった幸一が、ようやく答えた
    「病院で、会ったんだ」
    「えっ?」
    「ほら、耳で入院したって言ったろ。その時の…」
    少しの間
    「担当が、彼女…蛍さんだった」
    「うそでしょ?」
    幸一は考え込んだ。不意に訪れた沈黙に明光が耐えかねたように口を開いた。
    「幸一さん、どうしたの?」
    「明光ちゃん、彼女に連絡していい?一緒に山に行ってほしいって」
    「だから、彼女はもう…」
    幸一は明光の言葉にかぶせてはっきりと言った。
    「違うよ」
    間。
    「…終わってないと思う」
    「何で、そんなこと…言えるの」
    「ぼくも、彼女と会ったんだ。…雨の三つ玉で…」
    「えっ、じゃあ…」
    「うん、ふたりの約束の日。蛍さんがひとりで登った日」
    「病院だけじゃないの?そんな、偶然…」
    「偶然…そういうことか」
    「明光ちゃん、ぼくが彼女を連れてくる。そしたら一緒に登るだろ」
    考え込む明光。幸一が続けてぼそっと言う。
    「ぼくも…もう一度会いたいし…」
    間
    「…ちゃんと、話…したい」
    明光が顔を上げた。
    「うん。わかった。でも、三つ玉連山に行くのは七月二四日だからね」
    「知ってる。蛍さんも毎年休暇を取ってる日だ…」
    明光が真顔になって幸一の方を向いている。
    「…ねえ、もしかして幸一さん、蛍さんのこと…」
    「えっ、…何??」
    焦る幸一の口ぶりから明光は何かを察したようだ。少しだけ寂しそうに微笑んで続けた。
    「なんでもない、幸一さん、…耳ってもういいの??」
    急に話題が変わって戸惑う幸一。
    「ああ、もう完治したよ。なんで?」
    「ふふふ、私たちは目の代わりに耳がめちゃくちゃ敏感なの。何でもわかっちゃうんだから。じゃあ、蛍さんのことお願いします」
    「わかった…待ってて」
    幸一は少し首をひねりながら、蛍にどうやって連絡しようか、と作戦を考え出していた。

    第四章『三人』

    数日後、幸一の姿は耳鼻科にあった。
    「先生、ありがとうございます。ではもう三つ玉連山の縦走もOKですね」
    「はい、いいですよ。問題ありません。でも気圧の急変には気をつけて。天気が悪かったら無理しないで下さいよ」
     医師のお墨付きをもらって安心した幸一だが、もちろん病院に来た目的は違う。診察を終えると、院内のコンビニの前のいすに座って行き交う人に目を光らせた。やがて、白衣に身を包んだ小柄な女性が現れた。
     幸一は一つ大きく息を吐いて彼女に近づいた。
    「こんにちは、湯ヶ島さん。覚えてますか?」
    「…はっ?…」
    突然、声をかけられてビクッと肩をふるわせて振り向いた蛍の目が丸くなっている。
    「えっ?不動さん??どうしてここに…」
    「耳鼻科の診察のついでです」
    少し間を開けて、
    「…もしかしたらと思って」
    蛍の方はまだ驚きから覚めていない。
    「ま、まだ、悪いんですか?」
    「あっ、違います。その逆。完治です」
    「よかった…」
    「湯ヶ島さん、実はいろいろあって、お話がしたいです。少しお時間もらえませんか?」
    「ええ、まあ。仕事終わってからで良ければ。話ってなんですか」
    「うん、ちょっとこみ入ってるんで、ゆっくり話したいです。いいですよ。仕事終わる頃に、またここにいますから」
    「は、はい…」
    蛍は不安と好奇心が混じった顔を残して仕事に戻っていった。
    幸一は一つ息をついて頭の整理を始めた。

    夕方になり、幸一は再び約束の場所に戻った。
    やがて私服に着替えた蛍が姿を現した。仕事中の白衣とも、山小屋であった時の山スタイルとも違うフェミニンの姿にドキッとする。
    「お持たせしました。あの…話って…」
    「お疲れ様です。ここではなんだから喫茶店でも行きませんか」
    「あ、はい…」
    幸一は先に立って病院を出た先にある喫茶店に蛍を誘った。 広く明るい店内に蛍は少しほっとした様子だった。
    「それで…」
    ふたりの前にコーヒーが運ばれてくると早速蛍が話をうながしてくる。
    「湯ヶ島さん」
    間。
    「今日はお願いがあって来ました」
    幸一は唇を湿らせるようにコーヒーを一口飲んで続ける。
    「一緒に登りませんか。まだ山、行ってるんでしょ」
    「えっ?、どうして…私と…だって不動さん、前にひとりでしか登らないって」
    「うん、でも、最近、山友達が出来たんです」
    「はあ…」
    「湯ヶ島さん、明光さんってわかりますよね」
    「明光さん?」
    「はい、望月明光さん。盲目の山ガール」
    「えっ…?」
    蛍が絶句して幸一を見つめている。 幸一が静かに言葉を続ける。
    「最近できたぼくの山友達です」
    少し間を開けて続ける
    「驚きました。湯ヶ島さんも知り合いだって聞いて…」
    「…」
    「それで、一緒に来てほしいんです」
    「…誰と?」
    「明光さんと。三人で登りたいって思って」
    「いや、私は…。私たちのこと聞いたなら…事故のことも…」
    「…はい。彼女から聞きました」
    「だったら、わかるでしょ。彼女、もう私とは登りたくないから…」
    「そんなことない。彼女はあなたと登りたいです。今でも」
    「うそ…」
    「それに…あの時とは違います」
    蛍の目を見てはっきりと告げた。
    「今度は、ひとりにしません」
    蛍の目が揺れている。
    「すみません。少し考えさせて…」
    「もちろん。気持ちが決まったら教えて下さい」
    幸一は蛍とアドレス交換してその日は別れることになった。
    「…考えます」
    少しの間の後、蛍ははっきりと言った。
    「ちゃんと…」

    数日後に、蛍からメールが届いた。
    「不動さん、お返事します。もう一度会ってください」
    そして、先日と同じ喫茶店で幸一と蛍は向かいあっていた。
    蛍は珍しく落ち着かない様子で、何度もスプーンでかき混ぜている。
    しかし、広い店内には数人の客が離れて座っているだけで話を聞かれることもない。
    「ふぅ…」
    ひとつ大きく息をつくと、意を決したように蛍が顔をあげた。
    「幸一さん…私…考えました。いろいろ…」
    仕事場で見せるはきはきした姿とは違い、蛍の声が小さくなっていく。
    「でも、まだ自信が持てないんです。私、ほんとに行ってもいいのか?」
    「…」
    「…湯ヶ島さん、答えるのはぼくじゃないです…」
    幸一はいきなり席を立った。
    「会ってほしい人がいます」
    そういうと、喫茶店の一番奥の席に向かっていって、一人の女性に声をかけている。
    すると、女性は立ち上がって幸一の肘をつかみ、ゆっくりとした足取りでこっちにやってきた。反対の手には白杖。それはほかでもない、明光その人だった。
    幸一のサポートを受けて彼女は蛍の正面の席に座った。
    言葉を失って息をのむ蛍。
    「…どうして」
    初めて見るような取り乱した様子で幸一を見つめている。
    「ごめんなさい。言ってなくて…でも今日は明光ちゃんにも一緒に…」
    幸一の説明の途中で明光が手を挙げて遮った。
    「お久しぶりです。蛍さん。ううん蛍ちゃん」
    「あ、明光さん…えぇっと…」
    「いいよ、前みたいに明光、って呼んでくれて。私も蛍ちゃんって言うから…」
    「明光…」
    「幸一さんも席に着いた? 私のカップもあるのよね」
    マスターが、明光の席からカップを運んできて渡してくれた。明光が二人の方に交互に顔を向ける。
    「最初に乾杯しましょ。話はそれから」
    明光の音頭で幸一と蛍はそれぞれのカップを軽く合わせた。チンッと小さな音が聞こえると、明光は嬉しそうに一口すすって言葉を続けた。
    「蛍ちゃん…」
    「あ、はい…」
    「また…山に行こう。ううん、一緒に登って…」
    「明光…でも…」
    「…湯ヶ島さん、さっき言ったこと、もう一回明光ちゃんに…」
    言葉を詰まらせる蛍の背中を押すように、幸一が言いかけると明光が笑った。
    「クスッ…幸一さん。いいから黙ってて。それに何よ、湯ヶ島さんって…」
    「えっ…」
    「私と話す時は蛍さんって言ってるじゃないの」
    「そ、それは…」
    「世話が焼けるんだから…。それに蛍ちゃんも、何をぐずぐず言ってるの?」
    幸一と蛍がタジタジになっていると、明光は急にマスターを呼んだ。
    「マスター、トーストとサラダ、お願いします!」
    展開について行けない幸一と蛍。そしてふたりの様子を音で聞いている明光。エアポケットのような時間が過ぎるとマスターが料理を運んできた。トーストの香ばしい匂いが漂う。
    「いいから、そこに置いて下さい」
    マスターが引き下がると、手探りでフォークとナイフをつかみ取った。
    しかし、トーストとサラダの皿がわからないようだ。幸一が声をかけようとするより早く正面から蛍の声が飛ぶ。
    「明光、トーストは明光の右側よ」「サラダは左」
    蛍の声に誘導されて明光の手が皿の淵を触って確かめている。
    「中身は?」
    「えーっと、お皿の真ん中にトーストよ。対角線に切られた三角形で二つおいてあるの。それと皿の中、一〇時の位置にマーガリンがあるわ」
    「これか。ねえ、ふたあけといてくれる?」
    「うん、開けた。元の位置においとくよ」
    「こっちがサラダね。深皿みたいだね」
    「そう。深めの丸皿でドレッシングもかかってるからそのまま食べられるわよ」
    「わかったわ」
    幸一はあっけにとられた。蛍の完璧な説明とそれを聞き取って理解する明光。二人の相性の良さと熟練のコンビ力を見せつけられるようだ。
    明光は満足そうにナイフとフォークを置いて蛍の方を向いた。
    「蛍ちゃん、全然衰えてないじゃん。自信なんていらない。そのままの蛍ちゃんでいいから…一緒に行こうよ」
    「あ…明光…あなた、わざと…」
    「私、蛍ちゃんのこと好きだよ。だからきついこともつい言っちゃうんだ。きっとこれからも…」
    「ううん、いいの…ありがとう。…わかった、行くよ」
    「よし!じゃ、ふたりでちょっと話してて。私おなかペコペコ」
    明光は黙ってサラダを食べ始めた。

    蛍は少し肩の荷を下ろしたような柔和な表情に戻り幸一に向き直った。
    「不動さん…」
    「あ、はい。…」
    心底ほっとした様子で幸一が話を続ける。
    「よかった。これで…一緒に…」
    「ええ、…よろしくお願いします」
    「えーと、何から決めましょうか。まずはどこに行くか、ですよね」
    「はい…私、近場の山はかなり歩いてるので、どこでも…」
    「うーん。そうだなあ。最初に三人で行く山は負担のないところで日帰りですよね」
    「…不動さん、決めてください」
    「でも、やっぱり湯ヶ島さんの好きな山のほうが…」
    「ガチャ!」いきなりフォークを皿に強く置く音が響いた。
    「どうしたの、明光!」「明光ちゃん!?」
    声をそろえる二人に明光のイライラした声が答える。
    「もう、なんなの! やめてよ!」
    「な、なにを…」
    「ずっとそうやってるわけ? そんな歩き方、イヤだ」
    「…」「…」
    「だから、何なのよ、その不動さん、湯ヶ島さんって!」
    「あ、いや、それは…」
    「よそよそしいのよ。幸一さん、私としゃべるときみたいに蛍さんって呼んでよ。蛍ちゃんもよ」
    幸一と一緒になぜか蛍も顔が真っ赤になっている。
    「いいわね、わかった? はい、続けて!」
    「えーっと…あ、蛍さん…」
    「…は、はい。幸一さん…」
    明光はコクリとうなずいて再びフォークを手に取った。
    「大丈夫、私、見てないから…」

    第五章『練習』

    幸一、蛍、そして明光の三人の姿は登山道にあった。
    三人で三つ玉連山をめざすと決めてから、数日後のことである。
    そこは標高こそ低いが、いくつも峠越えが続く上り下りを繰り返すコースで、練習にはうってつけと選んだ山だった。 幸一を先頭に登り始めて三〇分、最初の休憩を取った。
    「はあ、はあ。歩き始めは息が上がるね.ふたりとも平気?」
    幸一の問いかけに軽く息を弾ませて蛍が答える。
    「ええ、まあ。明光は?」「ぜんぜん平気…」 明光が口ごもる。何か考えていたが、ぼそっと話し出した。
    「ねえ、私,連れて行ってもらうんじゃ、やだ。一緒に行きたいの」
    「…どういうこと?…」
    「ふたりとも遠慮してるし、責任感じてるし…もっと普通にしてほしい」
    「…」
    「そりゃあ、私は連れて行ってもらわないと山には行けない。わかってるけど…それじゃ嫌なの。蛍ちゃん、昔は違ってたでしょ」
    下を向いて言葉を詰まらせた明光の姿を見て、蛍の方を見ると、蛍も困ったような顔でこちらを見ていた。
    「…黙らないでよ。何も聞こえなくなると、私、寂しいし、怖い…」
    ハッとした様子で蛍が言葉を返す。
    「ごめん、明光。私…まだ調子出ないみたいで…」
    「明光ちゃん、わかった。もうお客様扱いはしないよ」
    続けた幸一の言葉を聞いて明光の顔に笑みが戻る。
    「うん、ごめんね。言いたいこと言って。でもふたりには遠慮しないって決めたから。ねえ幸一さん、ここから先頭を蛍ちゃんに変わってもらえる?私、蛍ちゃんと歩きたい」
    「あ、ああ…蛍さん。いいよね」
    幸一はザックにつけていたリード用のロープを外して蛍に手渡した。 蛍は一瞬手を止め、すぐにしっかりと受け取った。
    「はい…」
    蛍を先頭に明光、ふたりの姿を後方から見つめながら幸一が続いた。
    「明光、えーっと左に、倒木…」「右の岩、大きいから一歩大きく」「左、がけだから右寄りにね」
    幸一の目から見ると蛍の指示は的確だった。しかし明光にとってはまだ不満があるようだ。次の休憩で明光の批評が始まった。
    「蛍ちゃん、説明しすぎだよ。ロープから伝わることいっぱいあるんだから。忘れちゃった?」
    蛍がすまなそうに頭を掻いている。
    「え、そう?前と同じつもりだったんだけど…」
    「ま、いいよ。徐々に思い出すだろうから。それより幸一さんさあ」
    突然矛先が回ってきて慌てる。
    「な、なに?」
    「後ろから黙ってついてきてるだけなの。なんかさあ、楽しい話とか出来ないの。息も絶え絶えで声が出せない訳じゃないでしょ。修行じゃないんだから、つまんないよ」
    「いや、蛍さんの指示が完璧だから補足することもなくて…」
    言い訳すると明光があきれたように続けた。
    「だから、そんなこと言ってないよ。何でもいいから雑談してって言ってるの。でもずっとじゃないよ。風の音とか葉の音とか聞いていたいときもあるんだから。うまくタイミングを計ってよ。見てたらわかるでしょ」
    幸一が困って言い返す。
    「それ、すごく難しいんだけど…」
    「もう、なんでそう真面目なのよ。はい、先頭交代!蛍ちゃん、見本見せてあげて」
    すっかり明光のペースになっている。幸一は言われるまま蛍と先頭を変わって歩き出すと、数歩進んだところで背中に感じていた明光の加重が消えた。続く蛍の「明光!」と言う短い悲鳴。慌てて振り返ると明光がつまずいて膝をついていた。 転ぶときはとっさにロープを手放すのだと聞いていたことを思い出す。
    「大丈夫か?ごめん、浮き石の説明が漏れてた…」
    明光はすぐに立ち上がり何事もないように手を振る。
    「大丈夫だよ。ふたりとも大げさだよ。でも…」
    言い淀む明光。幸一は明光の脚を診ながら言葉を促す。
    「何でも言ってくれよ。言いたいことは遠慮しないんだろ。何がまずかったかな」
    「違うよ。幸一さん、何もまずくなんかないよ。でも私も気づかなかったんだけど、幸一さんと蛍ちゃんの身長が違うからさ、歩幅が違ってるんだよね。だから、あまり頻繁に入れ替わらない方がいいかなって思ったんだ」
    ハッと顔を見合わせる幸一と蛍。確かに並んでみると蛍の頭は幸一の肩までしかなかった。
    「本番までにこうやっていろいろ見つけて行けばなんてことないよね。さ、続けよう」
    明光の明るい声に励まされるように、三人は再び歩き出した。

    その後も何度か三人で山に入った。
    明光に怒られ、蛍に笑われ、幸一が言い返し、気がつけば三人で歩くことが当たり前になっていた。
    そして登りは蛍、下りは幸一がリードすると言う役割も決まった。三人の歩幅もそろっていき、徐々に荷物を増やす、など準備を続けていった。 やがて約束の日にち、七月二四日、三つ玉連山に行く日がやってきた。

    第六章『パーティ』

    それぞれの思いを秘めた三人は駅前に集合した。
    駅前広場で待っていると、蛍と、彼女の腕に捕まった明光がそろって改札を抜けてきた。息ぴったりの二人の姿は姉妹にしか見えない。それもそのはずで、二人はおそろいの登山ルックで現れたのだ。それも今流行りの山ガール姿。Tシャツにミニスカート。スカートの下からはタイツの足が覗いている。
    「おはよう、いい天気でよかったね。それにしても…びっくりしたよ」
    蛍は少し恥ずかしそうにうつむいている。
    「幸一さん、あんまり見ないで。これ、明光のたっての希望なんだけど…ちょっとね…」 「おはよう、幸一さん。驚いたでしょ。ほんとは幸一さんもお揃いにしたかったけど、無理でしょ。だから、はい、これ」
    蛍の声にかぶせるように明光の明るい声が響き、そちらに目をやると真っ赤なバンダナを渡してきた。明光の頭にも同じバンダナが巻かれている。
    「今日からこれをつけててね。三人組ってわかるようにね」
    明光はいつになくニコニコしている。楽しくて仕方ない様子だ。
    「え、じゃあ、蛍さんも?」「はい」
    小さく返事してポケットから赤いバンダナを出してみせた。 明光が、聞き咎めて割って入った。
    「あーっ!蛍ちゃん、まだつけてなかったでしょ。ダメだよ。今日からは私に従って。山の中では二人に従うけど、それ以外は私がリーダーなんだから」
    蛍は渋々と言った様子でバンダナを頭にまいた。
    「明光は、見えないから恥ずかしくなんかなくていいわよね」
    蛍の言葉に幸一はびっくりした。明光に向かって「見えない」なんてタブーではないのか。それほど二人の仲が回復している証だろう。
    「何が恥ずかしいのよ、まったく。ねえ、幸一さん。蛍ちゃんのこと、どう見えてるの?」
    「え?どうって…そりゃあ、かわいいよ」
    恥ずかしげに言い淀む幸一の様子に「ふふふ。」と笑っている明光。蛍は隣で頬を赤くしてますます小さくなっている。
    「やめてよ、明光。幸一さんも。早く行きましょ」
    すると先に行こうとする蛍の腕をつかんで明光が引き留めた。
    「待って、蛍ちゃん。わかったから。それよりも確かめたいことがあるの。幸一さんのザックを持ってみたい」
    今度は幸一が戸惑う番だったが、言われるがまま明光の手を取って自分のザックに触らせた。
    「気をつけて」
    持ち上げようとした明光だったが簡単には持ち上げられないようだ。足を踏ん張り、力を込めてどうにか担ぐことが出来た。しかし、数歩歩いたところで根を上げた。
    「幸一さん、何がこんなに入ってるの?ねえ、蛍ちゃんも持ってみてよ。ほんとにこれ同じ山に行く人の荷物なの?」
    蛍も幸一のザックを持ち上げて驚いている。
    「ほんとだ。幸一さん、これって…」
    幸一は蛍の手から自分のザックを取り上げて微笑む。
    「大丈夫だよ。個人的なものばかりだから」
    個人的、を強調した幸一の言葉に明光が反応した。
    「うそよ。これ共通の食料とかテントとかでしょ。今回は幸一さんの希望で、山小屋じゃなくてテントにするって聞いてるよ。私、テント泊って初めてだから楽しみにしてるんだ。でも割り当ての荷物がないから不思議だったんだ。こら、幸一!ひとりでカッコつけてるんじゃないわよ。みんなで共通装備を分けましょ。」
    「いや、大丈夫だって、これくらい」
    「幸一さん、前に言ってたよね。荷物割りが不公平なのが嫌で単独行屋さんになったんだって。だったら、逆も一緒だよ。全部持ってもらったって嬉しくないよ。ね、蛍ちゃん。そうでしょ」
    「そうね」
    蛍も同意を示している。
    「それに、粋がって幸一さんに疲れられたら迷惑なのはこっちなの。ふたりには私のサポートという重荷も背負わせるんだから…」
    すまなさそうな、そして少し悲しそうな明光の姿を見て幸一は自分の間違いに気がついた。ザックを広げて荷物を解いていく。テント一式の他、鍋や食料、水、そして緊急医薬品、さらには長めのロープまで出るわ出るわ。蛍の息をのむ気配に明光がせがんで触っていく。
    「もう、何よこれ。幸一さん、引っ越しでもするの?早く分配してよ。蛍ちゃん、幸一さんがまた無理しないかちゃんと見張っててよ。まだザックに余裕あるわよね」
    「うん、大丈夫。幸一さん、私ももっと持てるわ。遠慮なく分配して」
    ふたりの勢いに押されて、幸一は荷物を均等に分配していった。明光には一つ一つの荷物を手に取らせて確認させ、それぞれのザックを梱包し直した。幸一が自分の荷物を持ち上げて頭をかいている
    「ちょっと時間かかっちゃったな。そろそろ行こうか。うわ、俺ずいぶん軽くなっちゃった。ふたりとも重くない?」
    明光がおどけて答える。
    「バカ、重いに決まってるじゃない。でも嬉しい重さなの。これが三人分の重さなんだって感じられるから。一緒に頑張ってる気がするの。ね、蛍ちゃん」
    「うん、私もこんな重いザックは初めてかも。でも明光と一緒で嬉しい重さだわ」
    ふたりの笑顔を見て幸一は緊張が緩むのを感じた。いつの間にか、ひとり気を張っていたようだ。
    三人は入山口に到着すると、軽い準備運動のあと、蛍を先頭にサポート用のザイルを掴んだ明光が続き、後方を幸一がフォローする形で登山道に踏み入って行った。三人の頭には赤いバンダナが誇らしげに巻かれていた。

    「はあ…、はあ…」
    登山道に入って最初の三〇分は息が切れる。まだ身体が慣れていない。いつだってどんな山だってそうだ。前を歩く二人からも軽口は聞こえない。蛍の足下の説明と明光の返事。あとは三人の荒い息づかいが続く。ちょうど三〇分歩いたところで幸一が声をかけた。
    「おーい、五分休憩~」
    立ち止まる蛍と明光。
    「なに、はあ、幸一さん、もうバテたの?」
    明光は強がっているが、息が上がっているのは隠しきれない。額には汗がにじんでいる。幸一は気づかないフリをして続けた。
    「明光ちゃん、ここは息を整えるのと水分補給だけで、すぐ出るよ。暑かったらウェアの調整もね。あ、でもがぶ飲みはするなよ」
    蛍の方を見る。「蛍さんもね」
    「はーい。でも、幸一さん、いつも以上に頼もしいじゃない。ね、蛍ちゃん」
    「う、うん.そうね…そうだ、明光。ペース、平気?」
    「大丈夫だって。好調だよ」
    明光は息も整い軽口が増えてきた。
    「おい、そうやって過信してるとしっぺ返しが来るぞ」
    「何よ、幸一さん。頼もしいのはいいけど、小うるさいのは嫌だからね」
    明光の言葉に苦笑して幸一は告げた。
    「時間だ。行くぞ!」
    おのおのが重い荷物を背負い直して登り始めた。 時間の経過とともに前を行く二人の息づかいが穏やかになってきた。足取りも軽くなってきたのが明白だった。徐々に世間話も出来るようになってきた。明光にとって沈黙が一番苦手と言うことは、これまでの練習でよくわかっていた。
    「明光ちゃん、テントは初めてなんだろ。楽しみかい」
    「うん、とっても。ちゃんとお家でシュラフで寝る練習もしてきたよ」
    「そっか。蛍さんもだよね。でもいいのかなあ、俺も同じテントで。二人がいいって言うからテント一張りしか持ってきてないんだよな」
    「いいわよ。まさか、幸一さん、いびきひどくないわよね。うるさくしたら承知しないわよ。それに、私、寝たら起きないからって変なこと考えないでよ」
    「ば、ばか!」「あ…明光…」
    幸一と蛍の声が重なると、明光は面白そうに笑っていた。

     休日の登山道は多くの登山者で賑わっていて、下りてくる人とすれ違うこともしばしばだ。その反応は様々だ。ほとんどの場合はすぐに道を開けてくれた。こちらの登山形態に気づく場合もあれば、単に登り優先の登山道ローカルルールで自然に開けてくれる人も多い。ただ中には疲れ果てて周りが見えていない人もいる。そんなときには蛍が機転を利かせて、すれ違うだいぶ前から挨拶の声を上げ、相手に気づかせてくれた。
    一時間も歩いた頃には、三人の息はぴったりと合っていた。快調に歩を進めた三人は、予定時間のずいぶん前に今日の目的地である山小屋に到着した。
    「二人ともそこで休んでて。おれ、テント場の受付に行ってくるから」
    「幸一さん…ありがとう。でも一緒に小屋まで行っていい。蛍ちゃん、連れてって…」
    「え、いいけど…どうして?」
    蛍が幸一に目配せしている。
    「明光、行こっ。ごめん、幸一さん先に行くよ。私、トイレに行きたいから」
    わざとのように声を強めると、明光の手を引いて山小屋に入っていく蛍の後ろ姿を見て、幸一は独り言をこぼしていた。
    「何だよ。様子を見てたつもりなのに、全然気がつかなかったな。もっと気を遣わなきゃな」小さくため息をついて山小屋に手続きに向かった。
    対応してくれたのは、前に来たときー蛍と初めて会ったときーと同じ主人だった。
    「ずいぶん早いね。まだテント場はガラガラだから好きなところに張っていいよ。それより、あんたのお連れさんって、さっきトイレに行った女性達だろ。若い子の方、白杖使ってるんだな。もし小屋の方がよければ今日はそんなに客も多くないからこっちに泊まってもらってもいいよ。割安にしとくから」
    「あ、ありがとうございます。でも今日は…」
    言い淀んでいる幸一に横に人影が近づいた。明光だ。蛍の腕を離していつの間にか幸一の腕を掴んでいる。
    「おじさん、ありがとう。でもいいの。私が頼んだんだから。私、どうしてもテントに泊まりたいの。この三人で…」
    山小屋の主人は明光の決意のこもった声を聞いてそれ以上は勧めなかった。
    「そうかい、わかった。テント泊も楽しいぞ。でももし何かあったらいつでも言ってきてくれよ」
    人なつこそうな笑顔で手続きをしてくれた主人と別れた三人はテント場に向かった。初めてのテント。興奮して手伝いたいと主張する明光に手を貸しながら、幸一と蛍はテントを設置していった。テントマットを敷いても快適とは言えないテントの床も今の明光には何も気にならない様子だ。できあがったテントに入って横になっている。
    「まだ、食事には早いからそのまま休んでていいぞ。コーヒー入れるけど。二人とも飲むだろ」
    「うん、よろしく」
    横になってくつろぐ明光と対照的に蛍は幸一の方にやってくる。
    「幸一さん、手伝おうか?」
    「いいよ、蛍さんも休んでな。ほれ、俺にとっては一日の山行の締めだからさ」
    「そっか…ふふ…今日も生きていてよかった?」
    「えー、覚えてんの?」
    「そりゃそうよ。だって…」
    いつの間にかずいぶん砕けた様子で話しているふたりに、テントの中からクスリと笑う声が聞こえた。

    そうして一日目の夜は更けていった。 寝る前に翌日の行動予定を確認する。二日目は山頂直下の小屋までの縦走。かつて幸一が断念し、蛍が雨の中突っ込んでいったコースだ。三人はそれぞれの思いにふけりながらいつしか眠りに落ちていた。

    翌朝、幸一はバラバラというテントをたたく雨音で目を覚ました。 隣を見るとふたりはまだ眠っていた。
    「結構降ってそうだな」
    雨音が気になり、テントから顔を覗かせると、まだ日の出前の時間でもわかるほど、厚い雲に覆われた空から降ってくる大きな雨粒が顔をたたいてきた。
    「予報は悪くなかったんだけどなあ」
    頭を引っ込めてタオルで拭いてから、ふたりを起こさないように、そっとテントを抜けて小屋に向かった。 ちょうど朝食の準備を始めた主人が最新の天気図と今後の予報を貼りだしているところだった。
    「おはようございます。どうですか」
    「おっ、おはよう。早いね」
    「雨がうるさくて…昨日の予報じゃよかったのに」
    「うん、前線が予想よりも発達してるみたいだね」
    「このあと、どうです?」
    「午後はあがりそう。少し出発遅らせればいいと思うよ」
    「そうですか。じゃあそうします」
    幸一は少し安心したテントに戻っていった。 テントではヘッドランプと思われる小さな明りが動いていた。 ゆっくりとテントの中に入る。
    「ふたりとも起きた?」
    見ると蛍はすでに身支度を調えつつあった。一方の明光はまだシュラフに潜ったままだ。身じろぎするところを見ると目は覚めているみたいだ。
    「ええ、準備中よ。ほら明光も起きてよ」
    「幸一さん?おはよう。ねえ外、雨なんでしょ。テントってうるさいんだね」
    「うん、結構降ってる」
    「やだなあ、やっぱり行くんだよね」
    蛍が言葉を被せる。
    「当たり前でしょ。雷じゃなきゃ行くに決まってる」
    「…うん…」
    さえない返事を返してようやく明光がシュラフから這い出てきた。
    「蛍ちゃん、トイレ連れてって…」
    「もう…わかった。幸一さんも早く用意しててよ」

    言い残して明光を連れて小屋に消えていった。幸一は少し考えていたが、出発の準備ではなくお湯を沸かし始めた。しばらくしてふたりが戻ってくる。テントに充満したコーヒーの香りに明光の顔が明るくなった。
    「なに?幸一さん。いい匂い」
    一方の蛍の方は顔が険しくなる。
    「幸一さん、そんな…のんびりしてる場合じゃないでしょ…」
    いつもよりも強く主張して来る蛍。
    「蛍さん…。焦んなくていいから飲んで。身体冷えてるでしょ」
    「蛍ちゃん、温まるよ。んー、おいしい」
    明光はすっかりリラックスしている。
    「幸一さん…でも」
    「雨だね…」
    「…まさか…引き返すの?」 蛍の声に小さな棘を感じた。
    「違うよ。小屋で予報見なかった?この雨はあと少しで上がる予報なんだ。それから出発しても余裕だよ」
    蛍の眉間にしわが寄る。
    「でも…予報が当たらなかったら…」
    「焦るなって。そんなのいつもの蛍さんらしくないだろ」
    「…」
    口の中でぶつぶつと何かを繰り返している蛍。その様子に明光がたまりかねて口を挟んだ。
    「蛍ちゃん。ほんと、らしくないよ。それに最初に言ったわよね。山の中は幸一さんがリーダーだって。従おうよ」
    蛍がしぶしぶと言った様子で座り込む。それを感じた明光が場の空気を和らげるようにカップを前に突き出した。
    「リーダー、おかわり!」

    一時間もするとテントをたたく雨音が小さくなってくるのがわかった。外を見るとだいぶ明るくなった空には、もう薄い雲しか残っていない。もう一度小屋で天気図を確認した幸一が戻ってきて告げた。
    「一時間後に出発だ。下山なんかしないよ。予定のコースを行くからね」
    「よかった…」
    蛍はほっとしたように幸一の方を見た。
    三人がそれぞれ荷物の準備を進める中、蛍がぽつりと話し出した。
    「幸一さん、ありがとう。私だけならきっと雨の中に突っ込んでずぶ濡れで歩いてた」
    「お礼なんていいよ。それより足下ぬかるんでるから注意な」
    「私、どうしても計画通りに進めたい性分なの。もったいない、せっかく来たのにって考えちゃう。それは危ないことってわかってるのに。幸一さんが冷静に判断してくれたからよかった」
    「違う、ぼくは、ひとりだと逆にすぐ日和っちゃうんだよ。でも今日はグループだから、なんとかして登りたいと思ったんだ。だから…」
    ずっと黙っていた明光が声を上げた。
    「ふたりとも、私のため、私を連れて行くからって無理しないでよ」
    「おい、明光ちゃん。連れて行くなんて甘えるなよ。明光ちゃんはお客さんじゃない。パーティの一員なんだからな」
    蛍がハッとした顔を幸一に向けていた。
    「パーティ…」
    ぽつりとこぼして笑顔になった。
    空には薄明かりが戻っていた。雨上がりの道を三人はいつもの隊列を組んで歩き出した。

    予報通り午後からは回復した晴天の中を順調に登り切った三人は、無事予定の山小屋に到着した。出発の遅れを取り戻そうといつもより速く歩いた三人は、テントを立て終わると疲れた身体を休めようとごろりと横になった。
    「明光ちゃん、少し飛ばしたから辛かったろ。よくがんばったな」
    「なによ、これくらい平気だよ。でもちょっとくらい休んでいいでしょ。蛍ちゃんは?」
    「うん、平気。明光が速いから追いつかれそうで焦っちゃったけどね」
    幸一は横たわる二人をそのままにしてテントを出て行った。 明日、いよいよめざす山頂がもう目の前にある。遠くから見ていたよりも存在感がある。最後の登りもきつそうに見える。説明した方がいいのかな。少し迷った幸一がテントをのぞき込むと二人は隣り合って抱き合うようにして眠ってしまっていた。 そっとテントを閉めて、寝かせてあげることにした。
    夕食も終え、明日に備えて休もうかという時間になると、仮眠を取って逆にすっかり元気を取り戻した蛍と明光だった。蛍は少しすまなそうにしている。
    「幸一さん、ごめんね。休めなかったでしょ」
    「平気平気、横にならなくても十分休めたよ。それより明日は山頂だよ。天気も良さそうだし、明光ちゃん、いよいよだね。どう今の気持ち?」
    「うーん…」
    いつもの朗らかさが影を潜めている。幸一は少し気になった。
    「明光ちゃんが登山するきっかけで、目標の山だろ。緊張してるのかい」
    「明光、どうしたの?」
    いつもと違う明光の様子に蛍も心配そうに見つめている。
    「うん、二人には話さなきゃね。…私の目標の山、三つ玉連山…ここはね…私のお父さんが亡くなった山なの…」
    「えっ…」「うそ…」幸一と蛍の声が被る。
    「うそじゃないよ。私が生まれる一週間前らしいんだけど、私が産まれる前、最後の登山だって言って登った山。でも遭難してそのまま…」
    「そんな…」
    「知らせを聞いたお母さんは早産になってね。小さく生まれた私は、そのまま視力を失ったの」
    幸一も蛍も言葉が出ない。 しばらく間をおいて幸一がようやく絞り出した。
    「それなのに、三つ玉連山に登りたいのって…」
    「変かな。私にとってはお父さんのリベンジなんだけど…」
    「お母さんは、なんて?」
    「認めてくれるわけないよ。登山することにも反対。でも会の佐藤さんからも必死に頼み込んでもらって『いいパートナーが出来れば』ってしぶしぶ認めさせたの。それが蛍ちゃん」 蛍が顔を上げる。
    「でもその蛍ちゃんと行った山で事故って骨折。これが決定的だった。だから今日も反対のままだよ。でも無視してきちゃった。反抗期ってヤツだね、ふふ」
    力なく笑う明光に蛍がすまなそうに応じる。
    「…そうだったんだ…」
    「うん、でももう大丈夫だよ。前よりもっと信頼してるくらい。蛍ちゃんがまた一緒に登ってくれていることがほんとは嬉しいみたい。だけど三つ玉連山に登るのだけはどうしてもいやだって言って…」
    また、三人に沈黙がおりる。次の瞬間、幸一が言葉を継いだ。
    「それでも登りたいんだな」
    「はい、お父さんが山頂で聞いた音を聞きたいから…」
    「わかった。あした絶対一緒に登ろうな」
    幸一の言葉に明光が小さく笑った。
    「もう…幸一さん、熱くならないでよ。山では『絶対』は禁句って教えてくれたじゃない」
    明光の顔にはすっかり笑みが戻っている。 蛍はこっそり鼻をすすっている。
    「蛍ちゃんも…泣くのは山頂に着いてからだからね」
    「わ…わたし…泣いてないわよ。グスッ」
    「ハハハ」
    いつの間にか緊張していた三人はほっと息をつき小さく笑い合った。

    第七章『山頂』

    翌朝、テントから出てきた三人の頬を朝の冷たい風が撫でていった。空は快晴。今日の登頂は万全の体制で臨めそうだ。登頂後、また戻ってくるので不要な荷物はテントに残置して、アタック用の小さなザックに必要最低限の荷物だけ入れた三人は、山頂への道を登り始めた。

    カラカラ、と乾いた音がした。最後の登りは足下に石も多く、いわゆるガレ場で歩きにくい。幸一は明光の足下に注意の目を向けながら後ろをついて行く。しばらくして最後の難関、鎖のついた岩登りがやってきた。普通ならつかんだ鎖を頼りに登るところだが、明光のことを考えて幸一は万全を期した。
    「蛍さん、先頭交代だ。明光ちゃん、練習した通り用意して」
    「はい」
    明光の声がいつもとは違い真剣な響きを帯びている。明光は手探りでハーネスを付け、幸一とロープで繋がった。
    「いいか、ぼくが先に登る。そしていいって言うから、そしたら登ってきて。鎖をつかんで足下を探りながらゆっくりでいい。しっかりロープでフォローしてるから心配しないで。蛍さん、後ろから明光の足下をよく見てあげて」
    「はい」「はい」 ふたりの声が重なった。
    幸一は慎重にルートを見ながら難所を登り切り、下の二人に声をかけた。
    「いいぞ!おいで!!」
    明光に繋がったロープからも彼女の緊張が伝わってくる。幸一はロープをピンと張って、登ってくる彼女を迎えた。そして鎖が途絶え、宙をつかんだ明光の手をしっかりと受け止めた。
    「よし、到着!よくやったぞ」
    「はあ、はあ、登れた…私…」
    息を弾ませている明光のあとに続いて蛍も無事到着した。
    「二人ともお疲れさま。身なりを整えたらいよいよ山頂だ。ここからはまた蛍さん、お願いね」
    「はい、よし、明光!次のピッチで山頂だからね」
    「うん!」
    先ほどまでの緊張からも解放され二人に笑顔が戻っている。 そして三人は山頂への最後の道を上り始めた。
    一〇分後、山頂を目の前にして蛍の足が止まった。 怪訝そうな明光
    「蛍ちゃん、どうしたの?ひょっとして、もう山頂?」
    幸一が追いついたところで蛍が口を開いた。
    「ううん、山頂まであと五メートルってところかな。ここからなら一人でも行けるよ。明光に山頂一番乗りさせたいから。ひとりで行って」
    「そうだね。明光ちゃん、どうぞ」
    幸一の同意を聞いて、明光の顔が明るく弾ける。
    「うん、ふたりともありがとう!」
    明光は蛍のザックに繋がったロープから手を離して、白杖を頼りに一歩一歩慎重に歩を進めていった。そしてついに山名標に手が届いた。
    「おめでとう、明光ちゃん。そこが頂上だよ」「おめでとう、明光」
    幸一に続いて蛍の声も嬉しそうに弾む。
    「ほんとに、ここが山頂…私、来られたのね。ありがとう。ふたりのおかげ」
    「違う、明光ちゃんが自分の足できたんだから…」
    「そうよ、私たちは一緒に来た仲間ってだけだから」
    三人の笑顔が交差する。
    「明光ちゃん、ここから何が見えてるか説明しようか?」
    幸一が明光の隣に立って手を取るが、彼女は同意しなかった。
    「ううん、今日はいい。それよりしばらくは風を感じていたい。…だから、すこしだけ…聞かせて…お父さんの聞いた音…」
    幸一と蛍は黙って頷いた。そして明光を真ん中に両側から手をつなぎ、黙って風に吹かれていた。明光の頬に一筋の涙が流れているのが見えたが何も言わなかった。しばらくそうしていると明光の手が急にぎゅっと握られた。そして、両側から引っ張り幸一と蛍の手を取らせた。
    「えっ!」「明光、何してるの!」
    突然のことにあたふたするふたりに向けて明光はにっこり微笑んで一歩下がった。
    「ふたりともほんとにありがとう。あとはふたりでお話しして。私はちょっと向こうにいるね」
    唖然として明光を見送る。彼女が安全な場所に腰を下ろしたのを見てほっとすると同時に、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。蛍も同じだったようでつないだ手を離そうとしたが、幸一は覚悟を決めて蛍の手をもう一度握りしめた。驚いて見上げる蛍に向けて幸一ははっきりと言った。
    「蛍さん、これからも一緒に登って…」
    さらに驚いたように蛍は幸一を見た。そして小さく頷いた。
    「…はい…」
    少しの間、ためらう仕草を見せた蛍だったが、握る手にはしっかり力を込められていた。 聞こえないフリをしている明光だか、ニコニコと幸せそうな笑顔を見ると、聞こえているのは明白だった。
    「明光、おいで」
    蛍の言葉に導かれて明光が再び山頂に戻って来ると、もう一度、三人で手をつないだ。そして山頂の風に身を委ねて風を聞いていた。その風の音は、三人とも違うものに聞こえていたのかもしれない。

    終章 

    今日もいい天気だ。
    もともと短時間の行動予定なのでいつものインスタントコーヒーではなく、ドリップ式で飲ませてやろう、と決めていた。用意してきた豆をミルで挽いてペーパーにセットする。その間に沸かしたお湯を、少しずつ注いで抽出していると、蛍が近寄ってきた。
    「うん、いい香りね。ねえ、手伝わなくていいの?」
    「いいよ。これだけは自分でやりたいんだ。出来たら呼ぶから明光ちゃんの相手をしててよ」
    「…わかった…ありがとう」
    蛍が立ち上がって振り向くとそこに明光が立っていた。
    「いいよ、私の相手なんてさ。二人で仲良くしててよ。私ふたりが仲良くしてるの聞いてるのが楽しくってさ」
    「あ…明光…、この子はまたからかって…」
    「フフ、今、蛍ちゃん膨れてるでしょ。全く可愛いんだから。幸一さん、幸せだね」
    今度は幸一が慌てる番だ。
    「おい、明光ちゃん!」
    明光の楽しげな笑い声。それにつられて幸一と蛍も笑い出した。三人の笑い声が木々にこだましている。やがて笑い声が止むと、山を渡る風の音だけが静かに残った。
    三人はそれぞれのペースで幸一の淹れたコーヒーをすすっている。
    その三人の頭には、あの日からトレードマークとなった赤いバンダナが木漏れ日に照らされて輝いていた。

    完

    #創作大賞2026 #恋愛小説部門

     
     
    福岡在住。62歳。 若い頃は登山にはまり、生涯最高標高は5500m。 最近はすっかりインドア派で、読書や韓流ドラマを楽しんだり、 定年で仕事を終え、新たなチャレンジを見つける日々です。 ・図書館司書資格取得・県点訳奉仕員認定済 ・韓国語会話受講中・朗読講習受講中 など

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