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Photo bymaumau_5

オオカミの依代 ——人狼は夜明けを紡ぎ——番外編②(6話)「曙光」

    番外編②「曙光」

    ◆狩田良人
    木曜日・平日、午前9時22分。
    今僕は、市役所のロビーにいる。

    目的は転入届を提出し、この町での引っ越しを完了すること。
    あの施設を『卒業』してから、10日ほど経っていた。先生からは「転入届は引っ越しの14日以内にしておくのが義務だ」と教えられている。

    社会復帰の第一歩として、今日は初めて市内のバスを利用し、一人で市役所にやってきたのだった。

    窓口で順番を待つ間、僕はクリアファイルに入れた所持品を、再度確認した。

    身分証としての免許証、そして、『転出証明書』。
    これらは、施設を出る間際に森屋さんから直接手渡されたものだ。施設にいた1年間、僕の住民票は実家に置かれたまま凍結されていた。今回の引っ越しにあたり、施設の方が僕から「委任された」という形で転出届を提出してくれていたのだ。

    (実家は遠いから助かるな……。)

    だが、いつまでも甘えるわけにはいかない。僕だって、こうなる前は会社員だったわけだし、引っ越しの経験くらいはある。
    先週から先生と予定を調整し、今日の午前中、行政手続きができるよう配慮してもらっていたのだ。

    『住民異動届出書』に必要事項を記入し終えて間もなく、僕の呼び出し番号がアナウンスされた。

    指定された窓口③には、僕より少し年上くらいの、いかにも真面目そうな男性職員が待っていた。

    「こんにちはー」
    「こんにちは。あ、あの、転入をお願いしたいのですが……」
    「転入ですね。こちら、必要書類はお持ちですか」
    「転出証明書、と、それから、免許証です」
    「はい、ありがとうございます。確認いたしますので、あちらのソファにおかけになってお待ちください」
    「お願いしまーす」

    よしよし。ここまでは大丈夫だ。
    僕は少しホッとして、待合スペースにある、僕の体じゃちょっと小さいソファに深く腰掛けた。

    が、数分と経たないうちに、なにやら窓口の職員さんの様子がおかしくなっていった。

    キーボードを叩いていた彼の手がピタリと止まり、PCの画面を二度見、三度見している。あからさまに狼狽えていた……。

    職員さんはしかめっ面で立ち上がると、奥のデスクにいる、上司らしき年長の男性職員の元へ向かい、画面を指差しながら何事か深刻そうに話し合い始めた。

    (え、大丈夫か、これ……。)

    なんだか薄い吐き気が襲ってきたような気がする。いや、特に漏れはなかったはず。
    もらった書類だって、目を通して問題なかった、と思う……。

    窓口で二人がこちらをチラチラと見ながら話し合っているのを、僕が固唾を飲んで見守っていると、とうとう若い職員さんが声をあげた。

    「狩田良人様~」
    「はっ、はい!」

    思わず卒業式のように起立していた。

    「あのー、転入するにあたって、なにか、追加で提出するように言われている書類などはありませんか?」
    「えっ、いや、あの……」

    急にそんなこと言われても……。
    いや、だけど、僕のこの普通じゃない境遇で、一般の届け出をしようとしていたのが、そもそも甘かったのか……?

    どうしよう、冷や汗がヤバい。

    職員さんは、僕の免許証と僕の顔を交互に見比べながら、探るように言った。

    「免許証の写真も、撮られてから結構経ってらっしゃいます、よね?」
    「まぁ。そうですね。結構……」

    顔どころか、骨格から何から全体的に変わったのだ。
    確かに今の僕と、1年以上前の僕の写真とでは、雰囲気が違いすぎる。しっかり見られたら、別人だと思われてもおかしくない。

    一応、ゴールド免許でもうすぐ更新という時期だから、経過時間としては長いはずだけど……。

    「狩田良人さん、でいらっしゃいますよね」
    「は、はいっ」

    顔を上げると、また新しい職員さんがいらっしゃった。
    今度は、白髪混じりの、この課で一番年長と思われる男性だった。分厚い眼鏡の奥の目を細め、すべてを察したような顔で、若い職員から僕の書類をスマートに引き取った。

    「すみません。ちょっとこちら、特別な処理が必要な案件ですので、もう少々お待ちいただけませんか?」
    「……はい、分かりました」

    すごすごと先ほどの小さなソファに戻ると、窓口の奥では、先ほどの職員さんたちが三人がかりで何やら画面を凝視しながら、一番年長の職員さんは電話もかけつつ、カタカタと高速でキーボードを入力していた。

    「お待たせいたしました。狩田良人様」
    「はいっ」

    既に三往復目の窓口だった。
    三人の職員さんは、完了したと同時に散り散りになり、最初の若い職員さんだけが残っていた。

    幸いなことに、今日は平日・午前中のため、ロビーにそこまで人はおらず、他人の目を気にせずにこの手続きに集中できたのは救いだった。

    「はい、こちら問題なく転入完了しました。それから、こちらの資料、お持ち帰りください」

    カウンターの上に、ゴミの分別の仕方の冊子や、ハザードマップ、分厚い市の広報誌などがどさっと山積みにされた。

    カバン、大きいの持ってくればよかった。

    「で、あのー……」

    少し声を潜め、眉を八の字にしながら続けた。

    「長期療養ということで、ね、大変ご苦労だったかと思うんですがー」
    「あ、はい、本当、ありがとうございます」

    自分でも驚くほど、無意味にへこへこと頭を下げ、言葉を羅列していた。
    そういえば、そういう筋書きだったな。僕は大事故から奇跡的に回復した、ということになっているらしい。
    微妙に事象が省かれているが、あながち間違いではない。

    「あの、法定免除の終了の手続きなども、必要ですので、隣のですね、国民年金係、というところと、3階に、上がられて、市民税課っていう、10番の窓口にもですね、行っていただきたいんです」

    庁舎の見取り図を指で示してくださっているが、初めての来庁なのでイメージができず、ただお兄さんの指先を目で追っている。

    「分かりました、はい」
    「一旦、こちらの窓口では、以上になりますので、新住所の住民票の写しは必要ですか?」
    「あ、2……いやえっとあの、3部、お願いします」

    免許証の住所更新用と、大学に提出用、それと予備用。

    「かしこまりました。1部300円ですので、900円ご用意ください。コンビニ発行の方がお安いですが、よろしいですか?」
    「大丈夫ですここで。えっと、900円ですね……」

    バスの運賃や書類発行料金のために、小銭をたくさん持っていけと、先生からアドバイスされていたのだった。

    「ありがとうございます。それでは発行いたしますので、またお待ちいただけますか」
    「はい、お願いします」

    終わった、やっと……。
    いや、これは始まりなのだ。とりあえず、隣の『国民年金係』に行って、そのあとは3階に上がって『市民税課の10番窓口』に行かなければならない。僕は頭の中で復唱した。

    無事、住民票と今後他の窓口で受けてほしい手続きのリストを受け取り、返却された古い免許証に目を落とす。

    今の僕の苦労なんて知らずに、新社会人然とした仏頂面の写真が、笑える。
    就職してすぐのころに、最初の免許更新があったんだっけな。

    (とんでもない状況だけど、今の僕も、それなりにがんばってるよ……。)

    僕は、写真の中の過去の自分に、そっと微笑みかけた。

    時刻は、午前9時50分。
    まだ日没には十分時間がある。
    市役所でのタスクを残さぬよう、今日は存分に市役所に居座ろう。

    結局この後、僕は年金や税金の窓口でも大量の書類を抱え込むことになり、ロビーにある市役所内のコンビニで、渋々100円のプラスチック製の大きな紙袋を購入することになるのだった……。


    市役所での死闘を終えてしばらくした後、僕は、先生が運転する車の助手席にいた。
    目的地は、あの日以来、一度も訪れることができなかった、僕の「実家」だ。
    日の出直後という早朝から車を出してくれた先生には、感謝しかない。

    2時間くらいかけ、はっきりと見覚えのある地域に入ってきた。
    なつかしさと、本当に来ても良かったのか、どうしようもない後悔が、少し混じっていた。
    それでも、先生も居てくれるんだ。僕は未来に進んでいきたい。

    車は住宅街を進み、一つの家の前に停車した。
    エンジンが切れると、住宅街の静寂が出迎えた。

    「……着いたぞ」

    先生の声に頷き、僕は車を降りる。
    眩しさに目を細めた先にある実家は、心にある風景とは違い、どこか小さく、ひっそりとしていたように感じた。

    ポケットの中で、一つの冷たい鍵をつまんだ。
    施設を出る際、森屋施設長から転出証明書と一緒に手渡された、実家の鍵だ。

    玄関へと続く短いアプローチを歩きながら、僕は門扉の横にあるポストのフタが、不自然に浮き上がっていることに気づいた。
    隙間から、茶色く変色したチラシの端が何枚も飛び出している。

    「当然だ。1年以上空き家だったんだろう。防犯のためにも、中に運んでおくぞ」

    先生は淡々と言って、ポストの中の物を全て取り出してくれた。

    引っ張り出されたのは、何かの分厚いカタログや、期限のとうに切れたお知らせ、色褪せたピザ屋のチラシなどが、湿気を吸ってひと塊になった重い束……。

    それらは、僕の止まってしまっていた時間が堆積した、断層のようで、あまり見たくなかった。

    カチャリ、と鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
    重い音を立てて開いた扉の向こうからは、ひどく埃っぽい匂いが僕たちを出迎えた。

    廊下の隅には、いくつかの段ボール箱が積み上げられていた。僕が施設に隔離されている間に、国が僕のアパートから強制的に撤去し、この無人の実家へ送りつけていた。

    僕がモンスターである証拠として集められたものたちの、残骸だ。

    「まずは、荷物をまとめる場所を確保しよう」

    先生はてきぱきと靴を脱ぎ、抱えていた紙の束をリビングの片隅にある古いローテーブルの上に置いた。

    「……よし。よろしくお願いします、先生」

    僕は小さく深呼吸をして、自分の過去が詰まった段ボール箱の前に、ゆっくりと膝をついた。

    ガムテープを剥がし、最初の箱を開ける。

    中から出てきたのは、かつて僕が住んでいたアパートに置いていた、見覚えのある雑多な私物だった。
    その上部に、ビニールの頑丈な袋に入れられた、すっかりバッテリーの切れたスマホを手に取る。

    そうだ……。事故の日、家族で旅行に出発する際に、僕は実家に立ち寄った。
    そして、ここにスマホを忘れてきてしまったのだ。

    そのおかげで、重要な証拠とならずにここに放置されているのだろう。

    これに、充電器を挿して電源を入れれば、親せきや、大学時代や社会人時代の友人、同僚たちの連絡先が入っている。メッセージの履歴もだ。

    (連絡しようと思えば、いつでもできるんだ……)

    僕の手を覗き込んできた先生が、静かな声で言った。

    「狩田君。……もし、心の準備ができていたら、自分は元気でやっていると、誰かに伝えたらどうだ? 今も心配している者がいるはずだ」

    先生なりに配慮してくれたアドバイスなのだと分かった。
    けれど、僕はゆっくりと首を振った。

    「まだ、その勇気はなくて。僕の状況を、どう説明していいか分からないですし……何より、引っかき回したくないんです。平穏な日常」
    「そうか」

    先生はそれ以上無理強いはせず、ただ「持っていきなさい」とだけ、僕の選択を尊重してくれた。

    僕はスマホをポケットにしまい、次の段ボールへと手を伸ばした。
    中に入っていたのは、かつてお気に入りだった私服や、仕事で着ていたスーツだった。
    広げてみて、僕は自嘲気味に小さく笑う。

    どれも、今の僕の肉体では、袖を通すことすら叶わないサイズだった。

    これらは「モンスターの証拠品」だったはずの物だ。けれど、どれも当て外れで、ここに放置されている。
    ただ、今の僕にとっては、これらこそが「普通の人間ではない、戻れない」という残酷な証拠品に他ならなかった。

    持って帰っても、仕方がない。

    思い出が付きまとうのも乗り気になれない理由だが、そもそも実用性がないのだ。
    だが、服の隙間に挟まれていた、一つの木製の写真立てが目に留まった。

    手に取ると、そこには事故の前に、家族三人で行った旅行先での写真が入っていた。

    父も、母も、そして僕も、呆れるくらい眩しそうな笑顔で笑っている。

    (……父さん。母さん)

    一瞬、写真を箱の底へしまおうとしていた。

    全部をここに捨てていくのか?
    過去から逃げるために?

    先生は言った。
    「すべてを受け入れて、諦める必要はない」と。

    僕は写真立てのホコリを愛おしくふき取った。

    「先生」
    「ん?」
    「この……写真立ては、新居に持って帰ります。新しい人生を、ちゃんと二人に見守っていてほしいんです」

    先生は僕をまっすぐに見つめて、フッと短く笑った。

    「ああ……。ご両親も、さぞ安心するだろうさ。さ、残りの箱も片付けてしまおう」
    「はい」

    先生の言葉に支えられ、僕はもう一度、丁寧に荷物を整理し始めた。

    残りの段ボール箱を開け、本当に必要なものだけを選び出していく。
    作業に没頭していると、不思議と、ここに来るまで感じていた緊張が解けていくのが分かった。

    一通りの片付けを終え、部屋の中がすっきりと見違えるようになった頃、僕の目はリビングの片隅にぽつんと残された古いローテーブルへと向いた。
    そこには、家に入った直後、先生がポストから取り出して置いていた、古いチラシや紙の山がそのままになっていた。

    (これも処分しておかないと……)

    僕はローテーブルに近づき、煤けたピザ屋のチラシや期限切れのお知らせを一枚ずつめくって仕分けを始めた。
    ほとんどがゴミとして捨てるべきものだったが、その分厚い紙の山の、一番底のところに、一通だけ折れ目のない綺麗な白い封筒が紛れ込んでいるのを見つけた。

    差出人の欄には、先生が教鞭を執る大学の事務局の名が印刷されている。

    「……え?」

    封を切って中身を取り出すと、そこには厳かな公印とともに、『個人研究協力者申請書』への正式な承認通知書が入っていた。

    思わず息を呑み、そこに印字された住所の欄に目を落とす。
    書かれているのは、間違いなくこの実家の住所だった。

    脳裏に、あの日――僕が初めて先生の研究室のドアを叩いた記憶が、鮮やかに蘇ってきた。

    あの夜、先生は「これからのための準備だ」と一枚の書類を手渡してくれた。
    住所をどうしようか困っていた僕に、先生は実家の住所を書いておくよう指示したのだ。

    僕が大きくて毛だらけの手をすぼめて、書き込んだ実家の住所。

    (すごいな……。あの時からずっと、先生は僕の未来へ、背中を押し続けてくれているんだ……)

    僕の名前と、この家が、公的な書類として確かに存在している。
    あの夜から、先生が僕を人間として繋ぎ止めるために敷いてくれた白線が、時を経て、今ここにたどり着いたのだ。

    胸の奥から、言葉にならない温かさが込み上げてきた。

    「先生、これ見てください。僕は先生の、個人研究協力者です」

    喜びを隠せずに手渡すと、先生は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、その書類をじっと見つめた。そして、少し照れくさそうに眉根を寄せて、フッと自嘲気味に笑った。

    「やれやれ。今頃届いてもしょうがないな」

    先生は淡々と、いつものように学者らしい合理的な言葉を並べる。
    けれど、その横顔はどこか優しかった。

    「そんなことないですよ! 現に今、とても嬉しいので」

    僕が真っ直ぐに言うと、先生は少し気恥ずかしそうに視線を逸らした。

    その時、ふと窓の外に目をやると、住宅街の空がいつの間にか茜色に染まり始めていることに気づいた。

    「――っ、先生」

    心臓がドクン、と嫌な音を立てて跳ね上がる。

    「あの、時間は、大丈夫でしょうか?」
    「ああ、帰る時間を加味しても、日の入りには十分間に合う。それに―――」

    先生は眼鏡の奥の瞳で、真っ直ぐに僕を見つめた。

    「今日はこの実家に二人で泊まったっていい。君の気が済むまで、僕はいつまでだって付き合うよ」
    「先生……」

    先生は、いつだって、頼もしく隣にいてくれる。
    僕はもう、夜闇を一人で恐れる必要はないんだ。

    「……はい。ありがとうございます」

    僕は深く息を吐き出し、写真立てと、あの白い通知書を愛おしそうにカバンへと仕舞った。
    そのほか、手続きが必要そうな書類等も車に運び終え、実家の鍵は再び閉められた。

    また、ここに来よう。
    なぜか感じていた後悔は、微塵もない。

    「さあ、家に帰ろうか」

    先生が静かにアクセルを踏み込む。

    帰るころには、朝日のように眩しい夕日が、僕達二人を迎えてくれることだろう。

     
     
    はじめまして。律屋 汐見(りつや しおみ)と申します。 現代もののヒューマンドラマ(BL)を執筆しています。 どうぞよろしくお願いいたします。

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