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あなたも蒼い空を見上げられたら良いな(創作大賞用に改稿版)

    エッセイ部門に対応するため書き直しです。同タイトルの前編後編と中身は同じです。

     筆者である私の実話であるが、私が産まれる前
     母が兄を産んだ頃、既に父は不倫をしていた。その父の不倫相手の手紙を私が今も持っている。当然、内容は読んでいるけどほぼ忘れている。覚えていたくなかったのだろうか、でも探せば確実に私の手元にある。

 この事実を知ったのは、私が14歳くらいだったと思う。当然、なぜ兄が産まれたとき離婚しなかったのかと私は聞いた。答える母。「暴力がなかったからよ」と。
    
 すでに察しがつくと思うが、父は不倫を少なくとも2回している。私が9歳の頃だった。その前に、私は3歳の頃から父が母に暴力を振るっているのを知っていた。兄にも振るっていたかもしれない。父は子どもに隠す気もなかった。

 その影響なのか不明だが、私は男性は機嫌が悪いと女を殴るものだと勘違いしていた。どれだけ長いって、30歳くらいまでそう信じていた。43歳の私が独身なのは、父の遺伝子を次世代に残したくない理由があるが、男性が怖いという期間も長すぎた。
 私が9歳の頃の父の不倫だ。父は仕事が忙しいからカプセルホテルに泊まると嘘をつき、朝帰りを繰り返した。見破ったのは兄だった。

「親父、最近おかしくない?」

 不倫はバレる。相手は『みき』という女性。当時の私はそれしか知らない。そして激しくなる暴言と暴力、やせ細る母、母と私をかばい殴られる兄、奇妙に目力を強め、父に向かって金属バットを向ける母と怒鳴る父を見る無力な私。
 母は1年と持たずに私を連れて徳島の実家に帰った。兄は父とともに東京に残った。
「友達と一緒にいたいから行かない」その兄の本心は今でもわからない。父は今はもう死んでいるのに、怖くて聞けない。

 私という人間は変だ。これは推測だが、子どもの頃から躁うつ病(この記事ではあえてそう書く)の芽を持っていた。
 そして臆病者で無口だった。私以外の家族3人は話好きなタイプだ。話を聞いていたら良かったため、話す必要がなかったのかもしれない。運動神経が悪く鈍臭く怖がりだった。本ばかり読んでいた根暗だ。
 そんな時、引越してきた徳島はなんとものんきな場所であった。小学校では意外にのんびりしていた。家の中以外は楽だった。

     母と祖母はどちらも気が強い。
 凄まじい口喧嘩。毎日だったかもしれない。
 祖母は父のことが結婚前から大嫌いだった。「あんな男と結婚したから!」と母を詰るのは日常茶飯事だった。
 母はその度に、それを子ども(私)の前で言わないでくれと頼んだ。
 結婚まで否定されたらその結果産まれた私も全否定である。「それもいい」とぼんやり聞いていたのを覚えている。
     祖母は大変口うるさい人で、私も毎日のように口喧嘩をしていたからだ。
     今ならわかる。母も祖母も根は悪いどころかむしろ善人であり、私から見ると驚くほど忘れっぽく、あまりに考えなしに思ったことを言う人だ。
 1日経てば、昨日の自分の言葉なんてさっぱり忘れることが日常である。
 私は少し安堵もしていた。
     驚異的に忘れっぽい人は、精神を病みにくいのではないかという持論が私にはある。祖父母はもう亡くなったが、母は健在だ。
     私は母に病んでほしいと思ってはいない。精神疾患の辛さはどれだけ誰かを憎んでも、お前もそうなれとは言えない、それほどの地獄だ。父は診断こそないが精神疾患持ちだったろうと思う。

 しかし残念ながらその時まだ私は子どもであり、せっかく引っ越したのに家の中はそれなりに修羅場で居場所はなかった。
     私はなぜか音楽にハマった。朝早くから学校に向かい、校庭でトロンボーンの朝練をする小学校時代を過ごした。 
 引っ越す前には学校帰りの道でリコーダーを吹きながら帰っていた。変な子どもすぎる。こんなのと友達になるやつなんていやしない。そんな変な子どもがなぜ、母と祖母に疎まれなかったのか。
 幸か不幸か幼い頃少しばかり優等生だったのだ。
 小学校を卒業し中学校入学時(進学校ではなく普通の公立)、私の国語の偏差値は67、算数の偏差値は64あった。
 勉強はしていた。眼鏡のガリ勉である。そこから歩いた中学校は最も輝かしく青春し、最も胃を痛めた3年間だった。

 中学では迷うことなく吹奏楽部を選び、サックスを吹くことになった。
     部活は上下関係が大変厳しかった。しかし私はやはり他人に興味もなくぼんやりして、先輩方から怒られまくっていた。
     それより怖かったのは母だ。母は私に勉強だけして欲しがった。祖母も同様。
 その頃の母との約束は「試験で20位より下に落ちたら部活を辞めること」先ほど書いた通り、難易度は普通の公立中学校である。在校生は1学年350人くらいいた。結果から書けば私は約束を守り、中学卒業まで部活をやり遂げた。
 この性格のため、部活で友人はできなかったが、とにかく音楽が好きだった。楽器を鳴らし、全ての楽器の音が合う瞬間、それはたまらない恍惚の時間だった。上手い吹奏楽部でもなかったが、あの時の楽しさはもう2度と人生で味わえないと思っている。 

 ただし、この喜びは試験の結果の上に成り立っていた。
     試験で何位になるのかは周りの出来次第なので毎回わからない。私は、試験の結果発表が出るたび胃が痛くなり、吐きそうだった。20位を下回ったらどうしようか、私からこの喜びを奪われたら何の楽しみもない。その当時の私には強烈なストレスで、相談できる人間がいなかった。  

 中学を卒業して高校に入る時、母は私を裏切った。
 家から1番近いのはA高校だった。吹奏楽部はなかった。私は当然、吹奏楽を続けるつもりでB高校を志願した。
 B高校は通えない距離ではない。高校でももちろんサックスを吹くつもりである。中学の時の約束は守ったのだから、高校でも約束を守れば大丈夫だと思っていた。 
     けれど約束以前の問題だった。

「大事な大学受験のため、高校は勉強に専念しなさい」

     母の一言で打ちのめされた。中学で勉強と部活が両立できることは証明していたはずなのに。
しかし、私には致命的なものが欠けていた。 

 夢がない。

 音楽家で生計を立てる気はなかった。当時、将来の職業の希望が何ひとつなかった。
    「なりたいものがないなら勉強して手に職をつける。うちが貧乏なのはわかっているでしょう」
 その言葉に負けた。言い返すものを持っていなかった。そうやって入ったA高校だったが、案外悪くはなかった。しかし音楽のない私は、母からなぜか許されていた漫画とライトノベルにハマった。勉強はそれなりにしていた。 

 最初の方に少し書いたが、本の虫であり、読んでも内容はすぐ忘れるのだが、とにかく活字を追うのが好きだった。

 ここまで読んで頂いた方は思ったのではないか。 
 私は母の操り人形である。
    
 兄は父に盗られ、母子家庭となった母は、教育ママだ。
 高校で音楽を奪われた私は、ある程度は無気力に、この哀れな母のために生きようと思った。しかし簡単にいかなかった。
     高校の時分いつからか、耳が聞こえなくなり始めた。タイミングを誤魔化しているわけではなく、ショックが大きすぎて時期を覚えていない。
 突発性難聴でもなく、片耳だけでなく両耳聞こえづらくなり始めた。治る見込みはないと医者に言われた。
 その時思い出した。中学卒業直前、偶然受診した耳鼻科医からも「聴力おかしい?」と言われていたが、何もしなかったこと。
 当時、母と祖母には隠していた。
 音楽をやっていたせいで耳が悪くなったから、二度と楽器をやるなと言われるのは明白だった。だから、隠していた。知らないふりをしていた。
 あの時の浅慮は今でもずっと私を苦しめている。なんて馬鹿だったのかと思っている。けれどその時、永遠に音楽を奪われるとわかれば、私は自殺していたかもしれない。
 結局は今の高度難聴の道を歩きながら生きているのだから、わからない。大学は結局薬学部を選んだ。母から公務員か薬剤師になれ、と言われ、薬学部を選んだ。

 真剣に考えて薬学を選んだ人に大変申し訳なく思っているが、父は公務員であった。
 今まで思いを書いてきていなかったが、私から兄を離し母を不幸にさせた父を、私は死ぬほど恨んでいた。
 父を殺して一緒に死ぬのもいいな、と300回くらいは考えたことがある。結局は「早死にしろ」とこの先何十年と恨むに留まった。兄と母を犯罪者の家族にしたくなかったのでやめていた。
     その父と同じ公務員になるなんて、考えるだにおぞましかった。
 薬剤師は消去法だ。大学は徳島の薬学部である。ストレートで合格し、給付型の奨学金もゲットした。何しろ家に金がなかったので、浪人も許してもらえなかった。

 大学に入り燃え尽きた。勉強は手を抜き、苦手な理系の勉強に何度も半泣きになった。幸運にも友人はできたが、あまり楽しくはなかった。バイトは禁止され、門限は21時だった。それでも門限は珍しく祖父が遅すぎると反対していた。
 自由がなかった。
 産まれてこの方、自由はなかった。やがて、死にたいとうっすら思うようになる。
 耳は少しずつ聞こえなくなる。
 精神に異常をきたし、動けなくなり、うつ病と判断された。合わない抗うつ剤を飲んで倒れた。
 母は、布団から出ることができずご飯も食べられないと泣く私に「大学に行って試験を受けてくれ」と言った。 

 無理な話だった。私は留年した。不幸中の幸いだったのが、1学年下の子たちでも友人ができたこと、薬理学の講義をもう1度受けることができたことだ。
     大学3年生になったとき、ついに耳に限界を感じて補聴器をつけた。母はショックだと泣いた。私は必死で補聴器に慣れ、薬剤師国家試験にストレートで合格し、ドラッグストアに入社した。

     ドラッグストアの話の前に兄の話を少し書きたい。
 兄は幼い私にとって神さまのような存在だった。鈍臭い私に優しく、人形遊びなんかもよくしてくれた。私が中学生くらいまで、徳島に時々きていたが、大学受験が思うようにいかず、やがて介護で、次第に会えなくなった。
 兄について、覚えていることと、聞けたことだけ書く。

 母と私が徳島に出ていき、東京に残ったのは父と兄と愛人さん。兄は父と愛人が風呂でいちゃついているのを中学2年生の時分に見せられたり、愛人の手料理も出されたりしていた。料理はもちろん食べなかったらしいが。
 そんな頭のイかれた人間と暮らしている孫を心配して、父方祖父母は徳島から東京に移住した。
 しばらくはマシな暮らしだったらしい。しかし、祖父、祖母と調子を崩して兄が介護をするヤングケアラーになった。父が何をしていたかは知らない。仕事をしていたと思うが、父に自分の父母の面倒を見る常識はない。
    
 ドラッグストアの話に戻る。ここで私は初めての躁を経験する。
 当時は躁とわからなかった。徳島市の更に田舎へ、実家を出て初めてのひとり暮らし、初めての社会人生活である。
 だから、周囲の人間は誰も今までの私を知らなかった。
 それに浮かれているのだと思っていた。待ち焦がれていた自由がついに手に入ったのだ。 

 しかも私はうつが治ったと思い込み、治療をしていなかった。だが、躁のテンションで男の副店長と折り合いが悪くデパスを飲んでいた。
 躁×デパス。今考えれば最悪の組み合わせだ。でもそれに気づいていなかった。

 それだけ薬の勉強も自分の病気のことも無関心になった。小学生から大学生までの勉強漬けで、私は勉強嫌いになっていた。
     その時の師匠の薬剤師おじさまも多少病んでいて、コンスタンを飲んでいた。その人もなかなかの変人で意気投合して楽しかった。ちなみにまだ登録販売者がいない時代である。

 どれくらい精力的に動き回ったかと言えば、夜21時頃に仕事が終わり、汽車に乗って徳島駅まで行く。その後近くのカラオケボックスまで歩いて、1人でカラオケオンステージをしていた。
 そのまま閉店になる朝の4時ごろまで歌いまくって、店から出る。始発が動く頃になるまで徘徊した。
 まさに平和な田舎である。私がブサイクだったのも功を奏した。男の被害になど合わなそうな人間だった。今考えれば、都会でこんなことをしていたら危なかったかもしれない。
 当時仲良くしてくれたパートさん3人と午前2時くらいまで、ファミレスのラストオーダーギリギリまで副店長の悪口で盛り上がったことも何度もあった。
 夜に寝なくても大丈夫、妙な創作意欲がある(ドラッグストアでは値段のポップを作ったり、空箱で飾り付けをしたりしなければいけなかった)でも家事はやらないという、妙な生活であった。

 副店長のいい加減な態度に腹が立ち、口喧嘩をして胸ぐらを掴まれ、睨まれたこともある。       
     その時は全く恐怖もなく、殴れるものなら殴ってみろ、の精神であった。躁の無敵感は本当に恐ろしい。
 警察のお世話になるようなことがなかったのはよかったと今は思う。

 休日の昼間など変な時間に寝て、仕事は昼の10:30から次の日の深夜1時までなど平気でやっていた。耳が聞こえづらい不便をのぞけば自分だけが楽しい。
     しかし、難聴での接客のキツさと、あまりに薬のことが学べないのが不満で、1年半で辞めた。副店長が店長に昇格し、余計に仕事を押し付けられたのも原因であった。

     次に向かったのは、高松の調剤薬局である。
    叔母さんの知り合いに口利きをしてもらい、すんなり入社した。
     いわゆる門前薬局で、前に建つのは総合病院だ。近くに小さなクリニックもあったため、面の側面もあった。
 仕事ではよく怒られた。患者さんに。 

 調剤薬局あるあるである。
 体が悪いけれど口は元気と言ったら大変失礼だが、早く薬出せのコール合戦であった。
この頃は後発医薬品の出始めであった。何度そのことを説明したか覚えていないくらい説明した。変更しても、20円しか安くならないとか、計算もしていた。もう2度と説明をしたくない。

 徹夜はなくなったが、この時期は今で言う推し活にハマることとなった。
 耳は聞こえづらいけれど、とにかく好きなアーティストのライブに行きまくっていた。周囲から追っかけと認識されるくらいに散財していた。洋服も買いまくっていた。まだここに躁が残っていた。
 ただ、人間関係は比較的穏やかで、仕事もそこそこ順調だった。私はだんだん無口になっていたが、まだ上司などと話はしていた。
     しかし躁の代償を払わず生きていくことはない。ここから、転落が、うつが、始まる。

 デパスは飲み続けていて効かなくなり、レキソタンを愛飲するようになった。そこまでは良かった。謎のめまいと咳が出るようになった。めまいは注射しか効かず、一時期毎日注射をして仕事をしていたが、呼吸器内科を受診しても咳は止まらなかった。

 やがて、『やる気が出ない』という症状に見舞われた。仕事も家事も何もしたくない、布団から出たくない。でもライブには行っていたので、新型うつなのかと思っていた。 
     大学生の頃にうつの診断を受けているため、ためらいなく精神科を受診したが、合う薬が全くなかった。
 2人分の両手を足してもまだ足りないくらい薬を試してもだめだ。相手の医者も私が薬剤師だからか、面倒だっただろう。薬にこだわりすぎて、ASD疑い診断までもらってしまった。
 そんなことはどうでも良く、とにかく、めまいと咳とあまりの無気力感をどうにかしたかった。
 ひたすらドクターショッピングをした。一向に良くならず、やがて仕事をドタキャンすることが増えた。正社員からパートにならないかと打診された。
     自分で言うのもなんだが少しは信頼されていた。そこからの不信感、迷惑者扱い。
 潮時だと思い、辞めることにした。5年くらいは働いた。
     完全にうつだ。正常な判断はできなくなっていた。冷静にアドバイスをくれる人は誰もいなかった。

 今の私なら、ここで土下座してでも実家で休ませてくれと言う。罵声を浴びせられても、それが1番迷惑もかからないし、楽な道でもあった。
 母も祖母も精神疾患に理解があるはずがない。実家に帰ってのんびりできると露ほども思わなかった。毎日小言を食らうのはわかりきっていた。
     それが嫌で私は逃げた。完全に間違った選択だった。

     更に口利きで次は高知にある精神科病院に勤めることになった。
 その前に、私が1番書きたくないことを書く。今までこの話を書いたことや他人に言ったことは1度もない。ひとり墓場まで持っていくつもりだったが、もういい。
     その時私は31歳だったと思う。個人的に30歳で処女は嫌だと思っていた。どうでもいいけど、しょじょってきちんと打っているのにしつこくジョジョしか出てこないのは私が少年ジャンプが好きだからですか。
    
 話を戻す。しかし、男性が苦手な私に彼氏ができるはずがない。
 まずは街コンに行った。しかし耳が聞こえ辛いため、会話が弾まず面白くなかった。そもそも好きな人を作りたいわけではない。
     処女を捨てたい。
 あと、私は生身の他人にあまり興味を示さないタイプだ。身近にいる人の出身地、兄弟の有無、趣味、好きなものなどを知りたいという気持ちがどうも薄い。
 さて、処女をどうしたものか。
 そんなある日、たまたまデリバリーホストの記事をネットで見た。
 しばらく悩んだ。
 私は何かにハマると抜け出しにくいタイプだ。
 しかもホスト。胡散臭い。
     それでも私は東京にいるデリバリーホスト、以下デリホスのM君と会った。私の推しの芸能人に似ているとホームページに書いてあったが、M君は全然似ていなかった。
 そんなものだろうと思いながらキスをし一線を超えた。どうでもいいが私は当然マグロである。
     初めての素肌は情が湧いた。彼を、好きになってしまったようだ。
 知らない感覚に心は踊りつつ、体はなんだ、こんなものかと冷めていた。
     お金もないし相手は東京にいる。
 高知から東京まで飛行機で会いに行き、ホストに奢るのに必要なのは大金だ。狂っている。
 幸い、働けない私は金の問題と心身不調のため、彼と会ったのは3回、私が彼を想っていたのは1年程度である。更にもうひとつ幸いだったのが、彼が性病を持っていなかったことだ。

 ネットでは彼がエイズを持っているかもしれないと囁かれていたから。
 何も考えずに飛び込んだ私は阿呆の極みである。そんな彼も今はどうでも良いし、連絡も取れない。

 30歳を過ぎて本当に愚かな遊びをした。
 20代までに1度は本気で人を好きになり、想いを告げる経験は必要だと思う。
 成功しても失敗しても、それはその人を成長させるような気がした。
 男を金で買って、相手が自分を金だと思っている関係なんて経験すべきではない。

思わずジョジョ……ではなくホストの話が長くなった。
実は高知の精神科病院で働いていた頃の記憶はほとんどない。仕事に行くことができなくなったからだ。

 うつは悪化の一途を辿り(正式な病名は双極症なのだから当たり前だが)私は数少なく飲むことができた抗うつ剤でふらふらになった。記憶がちょこちょこ飛ぶ。他の薬はお腹が痛くなるほどの食欲亢進が辛かった。頓服の液剤を飲み、外から家まで帰る道で崩れ落ちて公園のベンチから動けなくなった時もあった。

 これは全て私の経験だ。この薬が危険なんだとは思わないでほしい。ただ私に合わなかっただけだ。
 精神科病院の入院も約1ヶ月経験した。病院食が不味くてお菓子を買い漁った。
 たまに夜中、入院している部屋から出て意味不明の涙を流していた。
     さすがの私も、ひとりで生きていけるとは思えなくなった。
 高知の家に帰っても、好んで食事にカンパンを食べていた。あの氷砂糖の硬さを覚えている。風呂にも入れなかった。
 体がもう少し回復してから、私は母に実家に戻らせてくれと頼んだ。
     高知の病院に大迷惑をかけたこと、無駄なお金をひとり暮らしに使ったことをいまだに後悔している。

     私は実家に戻った。
 高知にいた時には、ひたすら1人家でネットを見ていたため、私は他人との話し方をほぼ忘れていた。

 徳島に戻った私は、障害者職業訓練という、ハローワークにあるところに通うことになった。
     半日ずつ週4程度、簡単な講義を受け他人と話し合う機会を持った。ドタキャンして休むこともまだあったが、少しずつ心身を戻していった。
 薬剤師をやるのに嫌気がさしていて、工場のパートや某地銀の事務の面接に行ったが落ちた。
「何故薬剤師の資格があるのにうちの仕事を?」という疑問にうまく答えられなかったため、当然であった。
     ここでも失礼なことに、薬剤師しかできることはないんだなと思い、今の精神科病院に入職することができた。
     人間関係は最初良好だったが、病気はやっと治療のスタートというくらいのところだった。そして、私は高知にいた頃からリボ払いの借金があった。買い物依存で辛さを紛らわせていた。
 母に相談すれば般若のような顔で怒られるのはわかっていたので黙っていた。

 そのうち訪れたコロナ禍の閉塞感というか窮屈さが、私を更なる借金に走らせる。
 パートの給料はたかがしれていて、返せるあてもないのに、私はとことん馬鹿であった。
     母にばれた。肩代わりしてもらい、借りた分はようやく1年くらい前に返し終わった。

     週5の8時間労働に耐えられるはずはなく、週4にしてもドタキャンで休む事もままあった。その度に母に怒鳴られ叱られ、コロナ禍と借金が重なった時期、私は41歳で自殺未遂をした。
 40歳で死にたかったから少し遅れたけれど、良いと思った。
     やり方としては家でオーバードーズを選んだ。飛び込みは中途半端な後遺症が怖い。昔買った首吊り用の縄があったが、私の住む部屋に手頃なひっかけ場所がなかった。縄はまだ手元に置いてある。どういうわけか捨てられない。

 何の薬を飲んだかなどは自殺幇助にあたるので書かないが、1日半は少なくとも眠りっぱなしだった。辛いと言われる胃洗浄もしたと思うが、記憶にない。
 幸いと言えばいいのか、後遺症も残らずあっさり退院した。その時初めて私は母に昔からの希死念慮を打ち明けた。母は何も知らなかった。

 私がオーバードーズした日に、また喧嘩をしていたため、万が一私が死んでいたら死因は親子喧嘩になるところであった。

 よく覚えていないが、母曰くこのケースは家に警察が来るらしい。警察が来るのが嫌だから、自殺するなら家ではしないでくれと言われた。もう2度と自殺なんてするなと言わないのが母らしい。
     1ヶ月の休職を経て、私は職場に戻った。
 なんとも驚くべきことに、薬剤室長は私がしたことを知りなお解雇させなかった。
 私がしたことは、薬剤室長と総務部長と理事長のみが知っている。勘が良い人は気づいているだろうが。
     そして今、43歳になる。今年、44歳か。
 私が今これを書いた理由を記したい。

     偉そうだが、できれば、今病気やいじめ、理由はわからないけれど、苦しんでいる人に読んでもらいたかった。
 考え知らずの愚かな私にも、家族がいて、友人がいて、仕事もある。
 何度かどん底だな、という気がしたけれど、なんだかんだでどうにかなっている。
あとは、父が3年前に死んだのも非常に大きい。ようやく心が解けてきた気がしている。

 私は若い頃からそこまで頑張らなくていいと思っている。苦労はどうせ嫌でもする。むしろ向こうからやってくる。
大谷翔平選手のようになりたければ話は別だが、若い頃はたくさん遊んで馬鹿な失敗をし甘く苦い恋愛をした方がいい。
 その方が大人になってからの大失敗はきっと少ない。
 私は子どもの時の失敗が少なすぎた。20歳を超えて、愚かすぎた。

 人生は意外とやり直せる。死ぬのは簡単でもないので、やり直さざるを得ない。43歳の私でも定年退職を65歳としたらまだ20年以上仕事をする。これ以上の大病や大怪我をしなければ生きていかなければいけない。

     下を見ればキリがなく悪いモノに吸い込まれてしまいそうな気がする。
 だからそんな時こそ上を、辛い時は空を見てほしい。できれば快晴の青い空がいい。
ものすごく広くて一瞬だけでも癒されるかもしれないから。

     
     

    蒼衣

     
     
    精神疾患と難聴の闘病をしつつ、日々ズッコケながらパート薬剤師をしています。薬学部4年制時代のいにしえの時代ですが、まだまだ未熟。 記事はのほほんと書いているのが多いと思いますが、エッセイや小説はダークなのが多いですかもしれません。

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