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『バヌティカル・ブルヌ』      立葵が芋぀めた梅雚の倢

    あらすじ
    梅雚空の䞋、倉庫の片隅で静かに䌞びる立葵。
    その花を芋぀めながら、フィギュアスケヌタヌ・星野舞ずバレヌボヌル遞手・葵拓銬は、それぞれ怪我や挫折、䞖間の䞭傷に苊しみながらも前を向き続ける。

    やがお舞はペア競技ぞの転向を決意。
    仲間や支えおくれる倧人たち、そしお拓銬ずの揺るぎない絆に支えられ、新たな䞖界ぞ挑んでいく。
    泥にたみれおも根を匵り、空ぞ向かっお真っ盎ぐ咲く立葵のように──傷぀いた若者たちが垌望を取り戻しおいく、再生ず信頌、そしお愛を描く物語。

    『バヌティカル・ブルヌ』
    立葵が芋぀めた梅雚の倢

    第䞀章船橋の氷、家族の倢

    第䞀節プヌルの氷から始たった運呜

    か぀お、千葉県船橋垂でフィギュアスケヌトを志す者など、誰䞀人ずしおいなかった。
    海に面し、商業や競銬、オヌトレヌスで賑わうこの街には、銀盀の矎を競うような文化も、たずもなスケヌトリンクさえも存圚しなかったからだ。
     
    「この船橋から䞖界ぞ行くスケヌタヌなんお、今たで䞀人もいない。だったら、私が最初の先駆者になっおみせる」
     
    星野舞がそう胞に誓ったのは、ただ小孊校に䞊がる前の冬のこずだった。
    圓時の緎習堎所は、冬の間だけ厚く凍り぀く、孊校の屋倖プヌルの氷の䞊だった。
    ガタガタの䞍揃いな氷、冷たい冬の空っ颚。
     
    呚囲の子䟛たちが長靎で滑っお遊ぶ䞭、舞だけは買っおもらったばかりの䞍栌奜な䞭叀のスケヌト靎を履き、䜕床も転びながら、ただ真っ盎ぐに滑る緎習を繰り返しおいた。
     
    舞の家庭は、決しお裕犏ではなかった。
    サラリヌマンの父芪の絊料だけで、遠くのリンクぞの遠埁費や高䟡な衣装代を捻出するのは至難の業であるこずは、幌い舞にも分かっおいた。
     
    だから、最初に「スケヌトをやりたい」ず切り出すずきは、小さな胞が匵り裂けそうになるほど緊匵した。
     
    しかし、母芪の反応は舞の予想ずは党く違うものだった。
    「スケヌトをやりたいの 舞  」
    母芪は驚いたように目を芋匵った埌、すぐに優しい笑顔を浮かべた。
    「やっぱり、そうだったのね。あなたに『舞』っお名前を぀けたずきから、こうなる運呜だったんだわ。お母さん、あなたのためなら、どんなこずだっおするからね」
     
    母芪は、嚘の名前に宿った運呜を信じ切っおいた。
    その日から、家蚈を切り詰め、倜遅くたでパヌトを掛け持ちしながら、舞の倢にすべおのお金を泚ぎ蟌むようになった。
     
    䞀方、父芪は違った。
    「いくら䜕でも過保護が過ぎる。スケヌトなんお金持ちの道楜だ、長続きするわけがない」
    最初はそう蚀っお眉をひそめ、反察しおいた。
     
    そんな父芪が倉わったのは、舞が初めお本物の屋内リンクで滑る姿を芋に連れお行かれた日のこずだった。
    芳客垭に座っおいた父芪は、リンクに足を螏み入れた瞬間の、嚘の衚情を芋お息を呑んだ。
    そこには、家で芋せる甘えん坊の少女の姿はなかった。
    転んでも、タむツが濡れおも、冷たい氷に顔を打ち぀けおも、舞はすぐに立ち䞊がり、鋭い目付きで再び前を芋据えお滑り出す。
    その真剣な、指先たで神経を研ぎ柄たせようずする凛ずした䜇たい――。
    父芪は、嚘のその姿に完党に心を射抜かれた。
    「  あい぀は、本気だ」
    それ以来、父芪は誰よりも熱心に舞の緎習に付き添い、ビデオカメラを回し、舞の「最初のファン」ずしお、䞍噚甚ながらも党力で圌女の背䞭を支えるようになった。
     
    やがお、舞の情熱に応えるように、船橋の街が倉わっおいく。
    幎。船橋オヌトレヌス堎の広倧な跡地に、埅望の斜蚭が誕生した。――『䞉井䞍動産アむスパヌク船橋』。
    䞀幎䞭最高のコンディションで滑るこずができる最新の独立型ツむンリンクが完成し、恵たれた環境を埗た舞の才胜は、䞀気に開花した。
    十代で䞀気に䞖界ゞュニアの衚地台ぞず駆け䞊がり、「誰もが息を呑む超䞀流になる」ず誓った。
     
    しかし、シニアの頂点が芋え始めた矢先、舞の行く手に暗雲が立ち蟌める。
    ゞャンプの回転䞍足による床重なるスランプ。
     
    倧衆の期埅が重圧ずなり、着氷時の衝撃を䜕千、䜕䞇回ず受け続けた足銖の慢性的な叀傷が、梅雚の蚪れずずもに激しく疌き始めたのだ。
    滑れば滑るほど䜓幹がブレ、氷に叩き぀けられる日々。
    「星野舞もここたでか」
     
    そんな぀らそうな舞を芋お、父芪は心配になり、翌日コヌチぞ盞談しおいた。
    「しばらく䌑たせた方がいいでしょうか  」
    電話口で事情を聞いたコヌチは少し考え蟌み、それから静かに蚀った。
     
    「䌑逊は必芁でしょうね。ただ、家に閉じこもっおいおも気持ちは晎れたせん。気分転換になる堎所がありたす」
    コヌチは少し間を眮いお続けた。
     
    「船橋法兞に、今はほずんど䜿われおいない叀い倉庫がありたす。持ち䞻は私の知人です。静かな堎所ですし、軜いトレヌニングくらいならできたす。少し頭を空っぜにしたいなら、行っおみるのも悪くないでしょう」
     
    その日の倕食埌、父芪は舞にその話を切り出した。
     
    「舞、お前は真面目すぎる。今はスケヌトのこずも、マスコミのこずも忘れろ。コヌチが蚀っおたんだが、船橋法兞に誰にも邪魔されずに過ごせる堎所があるらしい。散歩がおら行っおみたらどうだ」
     
    舞は少し驚いた顔をしたが、やがお小さく埮笑んだ。
    「ありがずう、お父さん。  うん、行っおみる」
     

    第二節 秘密の基地ず、壁の倧きな写真

    歊蔵野線、船橋法兞駅から少し歩いた高台に、その叀い倉庫はあった。
    そこはか぀お、吉川英治の小説『宮本歊蔵』で、若き日の歊蔵が己の剣を磚くために修行に蚪れたず䌝わる「法兞ヶ原」──。
     
    南偎には、䞀瞬の勝負にすべおを懞けるサラブレッドたちが駆ける䞭山競銬堎の広倧な敷地が煙っおいる。
     
    その堎所で埅っおいたのは、ただの管理人ではなかった――地元の裕犏な䞍動産地䞻でありながら、どこか叀颚な䜇たいを残す男、䞀ノ瀬駿いちのせ しゅんだ。
     
    䞀ノ瀬がギギギず錆びた鉄の扉を開け、舞が䞭に䞀歩足を螏み入れた瞬間、圌女は自分の足の裏から䌝わる倩然朚檜の優しい匟力に目を芋匵った。
     
    床䞀面に広がっおいたのは、昭和の船橋のバレヌボヌル黄金期を支えた実業団チヌムの、初代専甚緎習堎の床板だった。
    倉庫ずは思えないほど手入れの行き届いた空間だった。
     
    「昔の仲間たちの思い出が詰たっおいおな。取り壊せなくお残しおあるんだ」
    䞀ノ瀬は壁に掛けられた叀い写真ぞ目を向けた。
     
    この倉庫は、䞀ノ瀬が若い頃から倧切に残しおきた堎所だった。
    昭和の船橋で掻躍した実業団チヌムの床板や鏡が移蚭され、今でも最䜎限のトレヌニングができるよう手入れされおいる。
     
    「怪我をした遞手や、行き堎をなくした若い連䞭が時々来るんだ。『秘密の私蚭リハビリセンタヌ』だな」
    䞀ノ瀬は照れくさそうに笑った。
     
    実は、䞀ノ瀬は拓銬が所属する実業団バレヌチヌムの監督、そしお舞を指導するフィギュアのコヌチたちの「か぀おの同玚生」だった。
     
    傷぀き、珟圹匕退の厖っぷちに立たされた二人の教え子を救うため、同玚生たちから
     
    「頌む、䞀ノ瀬。あい぀らにそこを䜿わせおあげおくれ」
    「マスコミからも䞖間からも隠しお、もう䞀床身䜓を䜜り盎せるのは、お前の堎所しかないんだ」
    䞀ノ瀬は電話の向こうでしばらく黙り蟌み、それから錻で笑った。
     
    「勘違いするなよ」
    「俺は慈善事業家じゃないぞ」
    「䞍動産屋はな、䟡倀のない土地に金は出さん」
    「だが  その二人、ただ倀厩れはしおないだろ」
    そう蚀っお、䞀ノ瀬は匕き受けたのだった。
     
    薄暗い倉庫の奥、壁䞀面に広がる巚倧な鏡のすぐ暪に、䞀枚の倧きな、叀がけた写真が食られおいた。
    昭和の時代、胞にチヌムの王章を぀けお堂々ず胞を匵る男たちず、その背埌で倩に向かっおたっすぐに、䞀本の匷固な䞻軞を䌞ばした、満開の立葵タチアオむの倧茪が写っおいる。
     
    「いい写真だろう、舞ちゃん」
    䞀ノ瀬は壁の写真を顎で瀺した。
     
    「䞍動産屋の目で芋るずな、土地も人間も䌌たようなもんだ」
    「芋た目だけで䟡倀は決たらん」
    「雚颚にさらされおも根を匵り続ける土地は匷い」
     
    そう蚀っお、䞀ノ瀬は写真の䞭のタチアオむぞ目を向けた。
    「こい぀らもそうだった。掟手な倩才じゃない。だが、折れずに軞を育お続けた」
    「だから日本䞀になれたんだ」
    そしお少し笑った。
    「で、今床はその床の䞊に、お前たちが立぀っおわけだ」
     
      その床の䞊に、もう䞀人の倩才が朜んでいた。
     
    鏡の圱から、包垯の巻かれた右膝を虚ろな目で芋぀める男が姿を珟した。
    膝の靭垯を断裂し、リハビリの方法すら芋倱っおいた、チヌムの若き゚ヌス・葵拓銬あおい たくただった。
     
    䞀ノ瀬は䞊んだ二人を芋お、ふっず優しく目を现めた。
    「葵あおい拓銬に、星野舞たいか  。䞊ぶず、たるで『立葵タチアオむが颚に舞う』ようだな。二人ずも、宮本歊蔵が己の芯を磚いたこの法兞ヶ原で、傷を舐め合っお終わるか、それずもあの写真のように䞀本のブレない軞を掎み盎すか。ゆっくり話しおみるずいい」
     
    最初は、お互いの痛みにピリピリず神経を尖らせ、口も利かなかった。
    しかし、壁に食られた写真のタチアオむの「曲がらない匷さ」を芋䞊げながら、二人の心は
    「もう䞀床あの高さぞ跳びたい」
    ずいうアスリヌトずしおの飢逓感によっお、急速に匕かれ合っおいった。
     
    舞は拓銬の前に毅然ず立ち塞がり、その濁った瞳を真っ盎ぐに芋据えお蚀い攟った。
    「私たちは、こんな堎所で䞖間の冷笑に螏み぀ぶされお終わるような、安い噚じゃない。私はこの船橋の凍ったプヌルから、䞡芪の倢を背負っおここたで来たの。どんな絶望の底からでも、最埌に䞖界䞭をひっくり返す、超䞀流になるんだっお決めおる。あなたにその気構えがないなら、今すぐバレヌなんお蟞めなさい」
     
    舞の攟った芚悟の蚀葉が、拓銬の折れかかっおいた魂に、激しい火を付けた。
    「  誰が蟞めるかよ。お前が䞖界を獲るっお蚀うなら、俺は誰よりも高い頂点おっぺんから、䞖界を叩き朰すアタックを決めおやる」
     
    二人は冷たい雚の匂いの䞭、お互いの手を壊れるほど匷く握りしめた。
    それは、お互いの限界を超えるための、最も激しく、最も気高い玄束だった。

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    第二章叀傷の雚、泥をすする日々

    第䞀節 新道の玄束ず、二぀の立葵

    だが、珟実はどこたでも冷酷だった。
    あの写真の䞭のタチアオむが、梅雚の長雚の䞭で咲き進むように、船橋の街には本栌的な長雚が降り続く。
     
    この長雚の時期は、アスリヌトにずっお最も過酷な季節だった。
    気圧が䞋がり、雚が降り続く毎日、拓銬の断裂した右膝の叀傷は骚の芯たで疌き、舞の足銖も冷えるリンクで悲鳎を䞊げた。
    「もう跳べないかもしれない」
    ずいう恐怖ず、やりきれない䜓䞭の鈍い痛みが二人を蝕んでいく。
     
    そんなある雚䞊がりの午埌、重苊しい空気を振り払うように、舞は拓銬の手を匕いお秘密基地の倖ぞず歩き出した。
    「拓銬、少し歩こう。私の通った高校が、この先にあるの。案内させお」
    それは、限界を迎えた二人の、ほんの䞀瞬の「逃げのデヌト」だった。
    朚䞋街道から分かれた、新しく広い、きれいに開拓された新道。
    そこを進むず、たずは緩やかな坂道が始たり、䞀床ふっず平らな堎所を迎え、そこからさらに先ぞず、長い長い坂道がどこたでもどこたでも続いおいく――
    舞の母校である藀䞊ふじかみ高校ぞず続く道だった。
     
    「ここ、私の通孊路だったんだ。毎日、この坂を登りながら、䞖界で䞀番のスケヌタヌになるんだっお、そればかり考えおた」
    舞が少し照れくさそうに笑い、拓銬もその暪顔を優しく芋぀める。
    人の間に、初めお穏やかで幞せな時間が流れおいた。
    しかし、その新道の途䞭で、二人は足を止めた。
     
    坂の途䞭の道路端──コンクリヌトの隙間からはみ出しお倧茪の花を咲かせおいたはずの、あの倉庫の写真ず党く同じ、本物のタチアオむが、無残に「切り裂かれお」消えおいたのだ。
     
    「あ  切り萜ずされおる  」
     
    舞が小さく息を呑んだ。
    遮るもののない広い新道の途䞭で、ルヌルからはみ出しお咲いおいた花は、行政の草刈りか、容赊のない誰かの手によっお、根元から淘汰されおしたっおいた。
     
    冷たい予感が二人の胞をよぎる。
    拓銬は舞の肩を抱き寄せるようにしお、その緩やかな坂を登り、䞀床平らになった堎所ぞず歩みを進めた。
     
    その平らになったずころにある䞀軒の民家――。
    その敷地の奥深く、誰の手も届かない安党な特等垭に、もう䞀本の矎しいタチアオむは、雚の滎を涙のようにたずわせながらも、背筋をピンず䌞ばしお、元気に立ち続けおいた。
     
    この平らな堎所からさらに先ぞ続く、果おしない長い坂道を芋䞋ろすように。
     
    「坂の途䞭のはみ出した花は、どんなに綺麗でも容赊なく刈られる。だけど、自分の足元を固めお守られおいるこい぀は、生き残る」
    い぀の間にか二人の埌ろに぀いおきおいた䞀ノ瀬が、静かに蚀った。
    拓銬は、平らな民家の奥で悠然ず咲き誇るタチアオむを芋぀め、自分の右膝を凝芖した。
    「䞀ノ瀬さん  俺は、あの季節倖れの花ず同じだ。呚りの仲間たちはコヌトの䞭で綺麗に咲き誇っおいるのに、俺だけはどうしおも花が咲かない。季節を間違えお、冷たい雚の䞭に眮き去りにされたみたいだ  」
     
    䞀ノ瀬は拓銬の肩を匷く掎んだ。
    「間違っおなんかいないさ、拓銬。お前の人生も、今はただ緩やかな坂を越え、さらに長い坂が続く苊しい途䞭にいるだけだ。舞ちゃんを芋ろ。お前に母校を芋せたくお、傷む足を匕きずっおここたで䞀緒に歩いおくれた」
     
    「圌女はな、連盟の倧人たちにどれだけ叩かれおも、あの゜チの倜の真倮ちゃんの背䞭を胞に、䞀人で氷の䞊で戊い続けおいるぞ。倖の雑音に負けず、自分の『軞』を信じおその長い坂を登りきれ」
     
    「その先にある最高に平らな堎所で、圧倒的な結果を出しお、䞖界を黙らせおみせろ。お前たちの本圓の䟡倀は、誰にも切り裂けやしない」
     
    拓銬の目から、消えたタチアオむぞの悔し涙ず、這い䞊がるための熱い涙が溢れ出た。
    舞もその涙を拭いながら、力匷く頷いた。
     
    しかし、この高校ぞ続く新道での矎しい逃避行を、週刊誌のカメラマンは物陰から密かにレンズで捉えおいた。
     
    写真を撮り終えた数人の男たちは、䜕事もなかったかのように機材を抱え、足早に立ち去ろうずしおいた。
     
    その背䞭に、䞀ノ瀬が䜎い声を投げかける。
    「おい、お前ら。どこのもんだ」
     
    男の䞀人が振り返り、肩をすくめお笑った。
    「さあね。どこだっおいいでしょう」
     
    「なるほどな」
    䞀ノ瀬は远いかけるこずもせず、小さく錻で笑った。
     
    「名刺も出さねえ、その受け答え  週刊誌だな」
     
    男たちは䞀瞬だけ衚情を匷匵らせたが、䜕も蚀わずに車ぞ乗り蟌み、そのたた走り去っおいった。
     
    その様子を芋送った䞀ノ瀬は、拓銬ず舞の方ぞ振り返る。
    「たあ、気にするな」
    「䞀ノ瀬さん、知っおる人たちなんですか」
     
    舞が䞍安そうに尋ねるず、䞀ノ瀬は腕を組んで空を芋䞊げた。
    「昔な、そういう連䞭を嫌ずいうほど芋おきたこずがある。ありゃ今を時めく週刊誌屋だ」
     
    そしお口元をわずかに緩めた。
    「だが、悪いこずばかりでもねえ。あい぀らに目を付けられるっおこずは、お前らが䞖間から芋お“商品䟡倀”のある人間だっお蚌拠でもある」
     
    拓銬が苊い顔をするず、䞀ノ瀬は静かに続けた。
    「隒ぎがどう転ぶかは、ただ分からん。焊っお動くより、たずは様子を芋ようや」
     
    その蚀葉には、䞍思議ず根拠のある萜ち着きがあった。
     
    二人はただ知らない。
    䞀ノ瀬がマスコミずいう䞖界の流儀を、人䞀倍よく知る男であるこずを。
    『怪我人ずスランプの密䌚──色恋沙汰にう぀぀を抜かす元倩才たち』
    翌週、日本䞭を揺るがすスキャンダルの嵐が、あの切り裂かれたタチアオむのように、二人のキャリアを無残に匕き裂くこずになる。
     
    離れ離れにされた二人は、しかし、あの民家の敷地内で真っ盎ぐに立ち続けおいたタチアオむの匷さを胞に、それぞれ孀独な、血を吐くような最埌の特蚓ぞず身を投じおいくのだった――。
     
     

    第二節季節倖れの傷、冷たい芖線

    「おい、これマゞかよ  」
    朝の䜓育通の郚宀は、スマホの画面を囲む郚員たちの焊りず怒りの声で、蜂の巣を぀぀いたような隒ぎになっおいた。
     
    画面に躍っおいたのは、あの雚䞊がりの新道で、行き堎をなくしたように身を寄せ合っお歩く拓銬ず舞の姿だ。
     
    悪意あるカメラのレンズは、二人の切実なリハビリぞの道皋を、䞋劣な『密䌚』ぞず仕立お䞊げおいた。
     
    「拓銬のや぀、䜕やっおんだよ 今幎のむンカレ掚薊、これで吹っ飛ぶんじゃないか」
     
    足音に気づいた郚員たちがバッず振り返る。
     
    そこには、い぀もず倉わらない時間に、い぀もず同じようにナニフォヌムを着お珟れた拓銬が立っおいた。
    郚宀の空気が䞀瞬で氷結する。
     
    誰もが腫れ物に觊れるような冷たい芖線を送り、たずもに目を合わせようずもしなかった。
     
    葵拓銬あおい たくたず星野舞ほしの たいの人は、決しお無名の孊生アスリヌトではなかった。
     
    歳の拓銬は、倧孊幎生にしお党日本倧孊遞手暩むンカレの候補筆頭ず目される、孊生バレヌ界最匷のサりスポヌ゚ヌスだった。

    最高到達点メヌトルセンチを超える圌のスパむクは「重戊車」ず恐れられ、次䞖代の日本代衚入りが確実芖されおいた倩才である。
     
    そしお歳の舞は、党日本ゞュニアを制し、シニアの党日本遞手暩でも衚地台に登り詰めた、名実ずもに日本フィギュア界のトップスケヌタヌだった。
     
    そんな、未来の日本スポヌツ界を背負うはずの人が、怪我ずスランプで同時に戊列を離れ、あろうこずか船橋の開拓された新道で身を寄せ合っお歩いおいたのだ。
     
    匵り付いおいた週刊誌のカメラマンにずっお、それは喉から手が出るほどの倧スクヌプだった。
     
    『むンカレ候補の怪我人ずスランプの゚ヌスが密䌚──色恋沙汰にう぀぀を抜かす倧孊倩才たち』
     
    䞋劣な芋出しが぀いた雑誌が発売された翌日から、人の身の回りは䞀倉した。
     
    それなのに、今の自分は床を蹎るこずさえできない。
    スマホを芋るたびに、か぀お䞀緒に汗を流した仲間たちからの冷ややかな芖線ず、埋めようのない確執が拓銬の心を鋭く削っおいった。
     
    『お前が怪我しおリハビリしおる間、俺たちはむンカレの切笊を守るために必死に戊っおるんだよ』
     
    『チヌムが降栌の危機だっおずきに、女ず新道でデヌトかよ。裏切り者』
     
    か぀お䞀緒に汗を流した仲間たちからの、激しい冷笑ず確執。 拓銬は悔しさず己の情けなさに、声を殺しお涙を流すしかなかった。
     
    さらに、远い打ちをかけるように最悪の知らせが届く。
    郚掻動ぞの連垯責任ず䞖間の批刀を恐れた倧孊偎から、拓銬は無期限の緎習参加犁止ずいう、事実䞊の退郚凊分を蚀い枡されたのだ。
     
     
    同じ頃、歳幎䞊の舞もたた、激しい絶望の底にいた。
     
    拓銬の実家の町工堎や倧孊の䜓育通、そしお舞が通うアむスパヌクの呚蟺には、連日マスコミの車やカメラマンが䞍気味に匵り付くようになる。
     
    倧孊幎生の舞もたた、スケヌト連盟の倧人たちから
    「シングルで行き詰たったからず、男に逃げお甘えおいる」
    ず冷酷なバッシングを济びるこずになる。
     
    人の茝かしいキャリアは䞀瞬にしお完党に匕き裂かれ、連絡を取り合うこずさえ厳しく犁じられた。
     
    しかし、そんな荒れ狂う䞖間のノむズの䞭で、船橋法兞の高台にある䞀ノ瀬の倉庫──あの『秘密のリハビリセンタヌ』だけは、運よくマスコミの目に止たるこずはなかった。
     
     
    朚䞋街道の新道からふっず倖れた゚アポケットのようなその堎所は、呚囲の厳重な譊戒も功を奏し、皮肉にも人にずっお䞖界で唯䞀の、安党な隠れ家シェルタヌであり続けた。
     
    だが、どれだけ堎所が安党であっおも、圌らの心の嵐たでは遮れなかった。
    激しい梅雚の長雚が、船橋の街を冷たく濡らし続けおいる。
     
    拓銬は実家の自宀や、マスコミの目を盗んで逃げ蟌んだ䞀ノ瀬の倉庫の片隅で、包垯の巻かれた右膝を虚ろな目で芋぀めおいた。
    気圧が䞋がり、雚が降り続く毎日、断裂した右膝の叀傷は、骚の芯たで疌くように激しく痛む。
    動かない脚。ズキズキず響く痛みが、拓銬の心を鋭く削っおいく。
     
    バレヌを取り䞊げられたら、俺には、䜕も残らねえのに  
    それほどたでに、拓銬の人生はバレヌボヌルそのものだった。
     
    幌い頃の拓銬は、船橋の掻気ある少幎野球や少幎サッカヌのチヌムに入り、プロの遞手になるこずを倢芋お泥だらけになっおいた。
     
    芁領は悪かったが、ずにかく身䜓を動かすこずが生きがいだった。
    転機が蚪れたのは、䞭孊に入っおからだ。
     
    䞀ノ瀬の倉庫がある法兞ヶ原の、その䞭孊校の䜓育通で、初めおバレヌボヌルのネットの前に立った。
    先生があげたトスに向かっお、䜕気なく螏み蟌み、床を蹎ったその瞬間──。
    拓銬の芖界は、䞀瞬で跳ね䞊がった。
    䜓育通の倩井が、すぐ目の前に迫っおいた。
    ネットの向こうの同玚生たちの頭頂郚が、はるか䞋に芋えた。
     
    『なんだ  このゞャンプ力は  』
    空䞭で䞀瞬、身䜓が止たるような錯芚。
     
    誰も届かない高い堎所から、ボヌルを床ぞず真っ盎ぐに叩き぀けるあの快感。
    その日を境に、拓銬はバレヌボヌルずいう「空の栌闘技」にすべおを奪われた。
     
    ただ真っ盎ぐに、誰よりも高く跳ぶこずだけを考えお生きおきたのだ。
    それなのに、今の自分は床を蹎るこずさえできない。
     
    か぀お䞀緒に汗を流した仲間たちからの、激しい冷笑ず確執。
    それを突き぀けるような倧孊からの退郚凊分。
     
    拓銬は実家の自宀や倉庫の片隅で、ただ悔しさず己の情けなさに声を殺しお涙を流すしかなかった。
     
    同じ頃、歳幎䞊の舞もたた、激しい絶望の底にいた。
    倧孊幎生。
    卒業埌の進路を決めなければならないこの倧事な時期に、圌女を指導するコヌチや、連盟の倧人たちから突き぀けられたのは、あたりにも残酷な通告だった。
     
    「星野、シングルずしおお前はもう䞖界の回転競争には぀いおいけない。倧孊を卒業したら匕退か   嫌なら、圢だけでも『ペア』に転向しおみないか」
    「ペアなら、二人で技術を組み立おる別の可胜性がある。ちょうど、いいパヌトナヌの男が䞀人、䜙っおいるんだ。幎霢的にも、転向するなら今が最埌のチャンスだぞ」
     
    それは、あからさたな「郜萜ち」の勧告だった。
     
    シングルで䞖界の頂点に届かなかった者ぞの、事実䞊の戊力倖通告。
    『䞉井䞍動産アむスパヌク船橋』の冷たいリンクの片隅で、舞は冷える足銖を抱きしめながら、涙を堪えお唇を噛み締めおいた。
     
    私は、ゞャンプから逃げるわけじゃない  。真倮ちゃんのように、䞖界をひっくり返す超䞀流になりたいだけなのに  
     
    呚りのリンクの仲間たちは、䞖界遞手暩に向けお華やかに、誇らしげに回転やトリプルアクセルの緎習を重ね、倧茪の花のように咲き誇っおいる。
    なのに、自分だけはどうしおも花が咲かない。
     
    「私は  あの新道の坂道で切り裂かれたタチアオむず同じ。季節を間違えお、䞀人だけ冷たい雚の䞭に眮き去りにされた、季節倖れの花なんだ  」
     
    か぀お「絶察に超䞀流になる」ず拓銬の前で匷く啖呵を切ったあの気構えは、激しい確執ず孀独の雚の䞭で、今にも消え入りそうに震えおいた。
     
     
    そんな䞭、䞀ノ瀬の叀い倉庫の鏡の前に、䞀人の倧柄な男が珟れる。
    神谷蓮二かみや れんじ、歳。
    拓銬の倧孊バレヌ郚の盞棒セッタヌの実の兄であり、長幎パヌトナヌに恵たれなかった䞍遇の倩才アむスダンサヌが、䞀ノ瀬の玹介で、舞の前に立ずうずしおいた。
     
    傷぀いた人の若いアスリヌトの運呜が、梅雚の嵐の䞭で、さらに耇雑に、激しく揺れ動き始めようずしおいた──。


     

    第䞉節䞍敵な救䞖䞻、空還くうかんの論理

    鉄の扉が乱暎に開く音が、倉庫の䞭に鳎り響いた。
    「拓銬 入るぞ」
    珟れたのは、拓銬の倧孊バレヌ郚の盞棒であり、芪友のセッタヌ、神谷かみやだった。
     
    だが、圌の背埌には、もう䞀人、芋慣れない倧柄な男が立っおいた。
    その男だけは、鋭い目で、拓銬ず舞の間のただならぬ緊迫した空気を完党に察知しおいた。
     
    「神谷   なんでお前、ここが分かった」
    驚きず䞍信感で声を荒げる拓銬に察し、神谷は気たずそうに目をそらしながらも、䞀歩前に歩み出お、たっすぐに拓銬の目を芋据えお熱く語り出した。
     
    「うちの監督から、䞀ノ瀬さんの秘密基地の堎所を聞いたんだよ。拓銬がここに隠れおるっおな。  拓銬、お前が怪我しおむンカレを前に絶望しおるのは、盞棒の俺がいちばん分かっおる。お前をもう䞀床あのコヌトに戻すために、俺なりの答えを持っおここぞ来たんだ」
     
    「隣にいるのは、俺の実の兄だ。神谷蓮二れんじ。日本トップのアむスダンサヌだ」
     
    そこたで蚀うず、兄の蓮二がゆっくりず前に歩み出た。
    フィギュア界の頂点にいる神谷蓮二の顔を、舞が知らないはずがなかった。 蓮二は、鋭い圧倒的な存圚感のある声で、真っ盎ぐに舞を芋据えお蚀い攟った。
     
    「星野舞さん。匟の蚀葉の途䞭だが、俺の目的を先に蚀わせおもらう。俺は今、自分の最埌の舞台を共にする、本物の『䞻軞』を持ったパヌトナヌを探しおいる。お前のシングルでのステップを芋た。俺ず組んで、ペアで䞖界を獲らないか」
     
    その蚀葉を聞いた瞬間、暪で聞いおいた舞の心の䞭で、激しい「怒り」が先に出た。
    マスコミから身を隠し、必死の思いで人きりの空間を守っおいたたさにその時に、土足で螏み蟌み、なぜ今このタむミングでペアぞの転向などず蚀い出すのか。
     
    舞は神谷ず蓮二に向かっお激怒した。
    「神谷くん、どうしおこの人にここを教えたのよ 連れおきおっお誰が頌んだの 垰っおよ」
     
    「私たちは今、そんな話を聞くためにここにいるんじゃない 拓銬の倧切な芪友だず思っおたのに、怪我しお苊しんでる拓銬を差し眮いお、よくもそんな残酷な提案を持っおこられたわね 拓銬にバレヌを諊めろっお蚀うの」
     
    その蚀葉を聞いた拓銬は、自分の動かない右膝をじっず芋぀めた。
    自分の珟実は地獄の底だ。
    だが、目の前にいるのは本物の䞖界のトップダンサヌ。
    そしお、倧奜きな舞の才胜を、誰よりも評䟡しおくれおいる。
     
    拓銬は胞を匕き裂かれるような思いを必死に堪え、舞の目を真っ盎ぐに芋぀めお蚀った。
    「  舞、いい話かもしれないぜ。お前だけでも、その人ず䞀緒に䞖界に行っおくれよ」
    「拓銬、あんた䜕蚀っおるの」
     
    舞の怒りは、今床は拓銬ぞず向けられた。
    ふざけないでよ、ず叫ぶ舞の暪で、拓銬の心の䞭で、゚ヌスずしおの最埌のプラむドが爆発した。
     
    拓銬は、神谷の胞ぐらを逆に激しく掎み䞊げた。
    「神谷 お前も、俺がもう終わりだず思っお、慰めに来たのか 兄貎の匕き立お圹にするために、俺を憐れみに来たのかよ」
     
    「  そうか。急ぎ足すぎたかもな、俺たちのやり方は」
    神谷の目が、真っ赀に充埮しおいた。掎み䞊げられたたた、神谷もたた魂の叫びを返した。
     
    「だけどな、拓銬 俺はお前の実力を、お前のスパむクの嚁力を、日本䞭でいちばん知っおるんだよ お前がここで終わるようなタマじゃねえっお、誰が諊めおも、俺だけは絶察に拓銬の埩掻を信じおるから、兄貎をここに連れおきたんだ」
     
    神谷は拓銬の手を振り払うず、舞に向かっお深く頭を䞋げた。
    「舞さん、お前たちの神聖な堎所に、こんなお話しかできなくお本圓に申し蚳ない。だけど、兄貎はただのスケヌタヌじゃないんだ。お前を救うずいう名目で連れおきたんじゃない」
     
    神谷の兄、蓮二が拓銬の目の前にしゃがみ蟌んだ。
    そしお、昭和の檜の床をポンず叩いた。
     
    「拓銬くん。お前は俺のこずなんお知らないず思う。だけどね、俺も昔、お前の盞棒であるこい぀ず䞀緒に、この法兞ヶ原の同じ䞭孊でバレヌをやっおたんだ。䞀時はそれなりにいいずころたで行ったよ。県の代衚に遞ばれたこずもある。圓時のポゞションはミドルブロッカヌだ。  たあ、お前の䞖代が生たれるか生たれないかっお頃の昔話だから、知らなくお圓然だけどな」
     
    「え  」
    拓銬が顔を䞊げる。
    「バレヌを退いおフィギュアぞ転向したからこそ、俺には分かる」
    蓮二の瞳に、元・バレヌ戊士ずしおの鋭い光が宿った。
     
    「フィギュアのゞャンプの軞ず、バレヌの空䞭での最高到達点の軞は、党く同じだ。サりスポヌのお前が巊腕を振り䞋ろす時、右肩の匕き方ず、空䞭で䞀瞬『止たる』ための䜓幹の捻り」
     
    「お前は膝の怪我のせいで跳ぶ恐怖があるが、空䞭での軞の『戻し方』さえ倉えれば、膝に負担をかけずに党盛期の高さを取り戻せる。そのためのリハビリを、俺はこの倉庫の鏡を䜿っお、陞䞊で教えおやるために来たんだ」
     
    「俺は舞さんをスカりトしに来ただけじゃない。お前ずいう最高の゚ヌスを、もう䞀床空ぞ垰すために来た」
     
    その、矎しくも完璧なバレヌ論理。
    か぀お県代衚ずしおコヌトに立ち、挫折を乗り越えお別の䞖界で超䞀流になった蓮二だからこそ分かる、ゞャンプの栞心を突いた蚀葉。
     
    蓮二が語ったのは、単なる跳び方ではない。
    着地の瞬間に、膝ぞの負荷を䞀切感じさせない、たるで氷の䞊を滑るような重心移動の技術だった。
     
    それは、か぀おペアの過酷な着地を繰り返す䞭で蓮二が磚き䞊げた、唯䞀無二の身䜓操䜜術だった。
     
    拓銬の胞の奥で、䞭孊の授業で初めお跳んだあの日の、あの震えるような高揚感が、爆発的な勢いで目を芚たした。
     
    拓銬の瞳に、初めおギラリずした本物の「光」が戻る。
    圌は、目の前の蓮二ずいう男の気迫ず論理に、完党に銖ったけになっおいた。
     
    静たり返った倉庫の䞭で、蓮二の攟った完璧なバレヌ論理の䜙韻が、檜の床の䞊にただ挂っおいた。
    拓銬は蚀葉を倱ったたた、自分の右膝を芋぀めおいた。
    誰も理解できないず思っおいた。
     
    怪我をした者にしか分からない恐怖。
    空を飛ぶこずを奪われた者にしか分からない絶望。
    だが目の前の男は違った。
     
    か぀お同じようにバレヌぞ人生を懞け、挫折し、別の䞖界で這い䞊がった男だった。
    「どうする、拓銬」
    蓮二が静かに問いかける。
    「遞ぶのはお前だ」
    拓銬はしばらく俯いおいた。
    やがおゆっくりず顔を䞊げる。
    その瞳には、久しぶりに競技者ずしおの光が戻っおいた。
     
    「  やりたす」
    掠れた声だった。
    だが確かな意思があった。

    「もう䞀床、跳びたい」
    その蚀葉を聞いお、神谷は倧きく息を吐いた。
     
    舞もたた胞の奥で䜕かがほどけるのを感じおいた。
    ただ䜕も解決しおいない。
    怪我も治っおいない。
    䞖間のバッシングも消えおいない。
     
    それでも今、この倉庫の䞭だけは違った。
    絶望しかなかった堎所に、初めお垌望が生たれたのだ。
     
    「よし」
    蓮二は壁䞀面の鏡ぞ目を向けた。
    「じゃあ今日からだ」
    そうしお始たった。
     
    船橋法兞の高台にある秘密基地での、奇劙な共同戊線が。
    倖では盞倉わらず梅雚の雚が降り続いおいた。
    だが倉庫の䞭には熱気があった。
     
    拓銬は鏡の前で䜕床も身䜓を動かした。
    跳ぶのではない。たずは立぀。支える。軞を䜜る。
     
    蓮二は培底しお基瀎だけを教え続けた。
    神谷は盞棒ずしお、そのすべおを黙っお支えた。
    そしお舞もたた、その隣で自分自身ず向き合い始めおいた。
     
    蓮二の動きは䞍思議だった。
    倧柄な身䜓なのに無駄がない。
    觊れるだけで身䜓の重心が敎っおいく。
     
    舞は次第に気付き始める。
    この男は、自分を慰めるために珟れたのではない。
    本気で䞖界を目指しおいる。
     
    そしお本気で、自分の可胜性を信じおいる。
    倉庫の窓を叩く雚音を聞きながら、舞は静かに思った。
    ただ答えは出せない
    でも――
    もう少しだけ、この人たちず前を向いおみたい
     
    その頃には、誰も気付いおいなかった。
    この小さな倉庫で始たった四人の共同戊線が、 やがおそれぞれの人生を倧きく倉えおいくこずになるこずを。
     

    第四節四人の共同戊線、そしお黎明


    拓銬の瞳に宿った小さな火を芋぀めながら、舞は深く息を吐き、掎んでいた神谷の腕をそっず離した。
     
    そしお、少し赀くなった顔を䌏せ、神谷兄匟に向かっお頭を䞋げた。
     
    「  ごめんなさい、神谷くん。お兄さん。私、人が拓銬をバカにしに来たんだず思っお、先走っお怒っちゃった。本圓に、ごめんなさい」
    「いいんだ、舞さん。俺たちのやり方が急すぎたから」
    神谷が恐瞮したように銖を振る。
    舞は顔を䞊げるず、隣に立぀蓮二の目を真っ盎ぐに芋据えた。
    「でも、ペアのお話、今の私にはすぐには返事できたせん。保留にさせおください。  私はただ、諊めたわけじゃないから」
    「ああ、それでいい。玍埗がいくたで、じっくり考えればいいさ」
    蓮二は包み蟌むような笑みを浮かべ、それから拓銬の右膝に目を向けた。
    「だけど、ここにいる䞍噚甚な゚ヌスのリハビリは、続けよう。梅雚が明ける前に、こい぀をもう䞀床跳ばせるぞ」
     
    その日から、船橋法兞の高台にある秘密基地で、人の奇劙な、しかし熱い共同戊線が始たった。
    倖は盞倉わらず冷たい梅雚の雚が降り続いおいたが、倉庫の䞭は熱気に満ちおいた。
    神谷が䞊げる正確なトスに合わせ、拓銬は裞足で昭和の檜の床を螏み締め、蓮二の教える「膝に負担をかけない空䞭での軞の戻し方」を䜕床も、䜕床も鏡の前で繰り返した。床の匟力が、拓銬の怯える膝を優しく守っおいた。
     
    そしお舞もたた、拓銬の暪で、蓮二ずの陞䞊トレヌニングを始めおいた。
    蓮二のリヌドは、倧柄な䜓躯からは想像も぀かないほど繊现で、䜕よりブレがなかった。
     
    舞の動きの癖、足銖の叀傷を庇う傟きを、蓮二は觊れる手のひらず、自らの匷固な肉䜓の軞だけで、完璧に補正しおいく。
     
      この人、本気だ
    ただのシングルからの逃げ道じゃない。
    蓮二ずいう男は、自分のスケヌト人生の最埌のすべおを、星野舞ずいう玠材に懞けようずしおいる。
    その本物の芚悟が、觊れ合う肌の枩もりからダむレクトに䌝わっおきた。
    数週間が経ち、窓の倖の雚が少しず぀匱たり始めたある日。舞の心の䞭の霧は、完党に吹っ切れおいた。
    舞は蓮二の手を匷く握り返し、たっすぐに告げた。
    「神谷さん。私、あなたずペアを組みたす。䞀緒に、䞖界ぞ行きたしょう」
    その倜、舞は船橋の自宅に戻り、リビングで埅っおいた䞡芪にその決定を䌝えた。
    「お父さん、お母さん。私、ペアに転向する。もう䞀床、あのリンクで、䞖界を目指すわ」
    静たり返るリビングで、母芪は嬉し涙をボロボロず流しながら、舞を匷く抱きしめた。
    「よかった  本圓に、よかった。諊めなければそれでいいのよ。それこそが、私たちの自慢の『舞』なんだから。スケヌトはスケヌトよ。皮目が倉わったっお、あなたの矎しさは倉わらない。もう䞀床、目指しなさい、䞖界の䞀番高い堎所を」
    最初は別れろず蚀っお反察しおいた父芪も、新聞を眮くず、䞍噚甚に向こうを向いたたた
    「  お前が決めたこずなら、俺はたた䞀番埌ろの垭から、ビデオカメラを回すだけだ」
    ず、嬉しそうに声を震わせた。
     
    舞が完党な埩掻ぞの䞀歩を螏み出したその頃、圌らを苊しめおいたスキャンダルの朮目が、劇的に倉わり始めおいた。
     
    地元の有力な䞍動産地䞻である䞀ノ瀬が、぀いにその重い腰を䞊げたのだ。
     
    䞀ノ瀬は机の匕き出しから叀い名刺入れを取り出した。
    䜕枚もの名刺をめくった末、䞀枚を抜き出すず、静かに電話をかける。
     
    「久しぶりだな。ただスポヌツ担圓か」
    電話の向こうから懐かしそうな声が返る。
     
    「昔のお前なら、珟堎を芋ずに蚘事は曞かなかったよな。」
     
    「実は芋おもらいたい若い連䞭がいる。週刊誌の蚘事だけで刀断するな。珟堎を芋れば、本圓に戊っおいる若者がいるこずが分かる」
     
    電話を切った䞀ノ瀬は、独り蚀のように぀ぶやいた。
    「掟手な蚘事を曞く人間もいるが、事実を掘り起こす蚘者もただいる。」
     
    その䞀報を受けた蚘者たちは、自らの足で取材を始めた。
     
    「䞀ノ瀬さん  」
    拓銬が銖をかしげた。
    「さっきの電話ずいい、週刊誌を芋抜いたこずずいい  本圓は䜕をしおいた人なんですか」
     
    䞀ノ瀬は苊笑しお肩をすくめた。
    「倧した話じゃない。若い頃、少しだけ新聞瀟にいたこずがあっおな」
     
    舞が目を䞞くする。
    「新聞瀟ですか」
    「ああ。でも芪父が倒れおな。土地も䌚瀟も攟っおおけなくなっお、䞍動産の䞖界に戻った。それだけのこずだ」
     
    そう蚀うず、䞀ノ瀬は照れくさそうに笑った。
     
    「ただ、その頃に芚えたのは䞀぀だけだ。掟手な噂はすぐ広たる。でも、本圓に䟡倀のある話は、自分の足で確かめた人間しか曞けない」
     
    拓銬ず舞は顔を芋合わせ、小さくうなずいた。
     
     
    圌らが目にしたのは、週刊誌が煜り立おた恋愛隒動ではなかった。
    泥をすすりながらも再起を懞けお必死に努力する若き倩才たちの姿だった。
     
    神谷や監督たちの「拓銬の埩掻を信じお兄を連れお行った」ずいう蚌蚀も報じられ、二人の歩みは再起を目指す物語ずしお倚くの人々の共感を呌んだ。
     
    ネットの空気は䞀瞬で反転した。
     
    真実を䌝える報道が盞次ぐ䞭、最初に隒ぎをあおった週刊誌は、目立った反論もできないたた沈黙した。
    バッシングは熱い応揎ぞず倉わり、倧孊偎も䞖論に抌される圢で、拓銬の無期限緎習参加犁止を党面撀回し、退郚凊分も癜玙に戻した。
     
     
    「拓銬、お垰り」
    䜓育通に戻った拓銬を、か぀お「裏切り者」ず呌んだ郚員たちが、涙を流しながら出迎えた。
    正匏に、拓銬にずっお孊生最埌ずなる、むンカレの舞台。
    ただ膝の完党な状態ではなく、党盛期の圧倒的なスパむク力には届かなかった。
     
    結果は準優勝。
    優勝旗には届かなかった。
     
    ──しかし、神谷の䞊げた極䞊のトスから、拓銬が新しい「ブレない軞」で空䞭に跳び䞊がり、攟った枟身のストレヌトがコヌトに刺さった瞬間、䌚堎は割れんばかりの歓声に包たれた。
     
    圌は敗北の䞭で、完璧な「゚ヌスの埩掻」を党囜にアピヌルしおみせたのだ。
    倧䌚を終えた拓銬は、倚くの実業団チヌムからのオファヌを胞に、胞を匵っお次のステヌゞである瀟䌚人の䞖界ぞず進むこずになった。
     
    䞀方、倧孊幎の舞は、卒業を控えながらも、拓銬の実家の町工堎の䞊にある空きスペヌスや、䞀ノ瀬の倉庫で、蓮二ずのこっそりずした秘密のトレヌニングを、さらに深く続けおいた。
    ゞャンプを捚おた圌女の足元には、今や、シングル時代にはなかった、深く、重厚で、芋る者の魂を揺さぶるような圧倒的な゚ッゞワヌクず、蓮二ずの完璧なシンクロが生たれ぀぀あった。
     
    梅雚が完党に明け、船橋の空に、突き抜けるような青空バヌティカル・ブルヌが広がったある朝。
    星野舞のペア転向ず、神谷蓮二ずの新ペア結成のニュヌスが、日本フィギュア界の公匏発衚ずしお、぀いに䞖界ぞず発信された──。

    画像

    第䞉章䞖界ぞの架け橋

    第䞀節 芋えない境界線、届かない手のひら

    梅雚が完党に明け、船橋の街に痛いほどの倏の日差しが降り泚ぐようになっおも、二人の心に萜ちた圱が完党に消え去ったわけではなかった。
     
    公匏発衚の狂隒が萜ち着いた頃、星野舞ず葵拓銬の前には、それぞれの「新しい珟実」ずいう名の冷たい壁が、静かに、しかし圧倒的な質量を持っお立ちはだかっおいた。
     
    二十二歳になった拓銬は、日本最高峰のバレヌボヌルリヌグ「Vリヌグ」の匷豪実業団チヌム『東日本JETS』の緎習生ずしお、新たな䞀歩を螏み出しおいた。
    倧孊バレヌ界で「重戊車」ず恐れられたサりスポヌ゚ヌス。
    しかし、実業団の䜓育通に䞀歩足を螏み入れたその日から、拓銬のプラむドは音を立おお削られおいった。
     
    ネットの向こう偎に䞊ぶのは、か぀おテレビの画面越しに芋おいた日本代衚のミドルブロッカヌたちだ。
    圌らのブロックは、ただ高いだけではない。
     
    こちらの助走のベクトル、肩の開き、芖線のわずかな動きたでを完党に芋切り、たるでコンクリヌトの壁のように目の前に君臚する。
     
    「おい、倧孊MVP。今のスパむク、コヌスが玠盎すぎるぞ。実業団じゃ栌奜の逌食だ」
     
    先茩セッタヌからの冷ややかな声が、䜓育通の倩井に虚しく響く。
    蓮二に教わった「膝に負担をかけない新しい空䞭軞」は、確かに右膝の痛みを和らげおくれおいた。
     
    しかし、その新しいフォヌムを意識するあたり、どうしおも螏み蟌みに䞀瞬の迷いが生たれ、党盛期の「空䞭で䞀瞬止たる」ような爆発的なタメが䜜れない。
    䞖界基準の高さずスピヌドの前では、そのわずかなズレが臎呜傷ずなった。
     
    俺は  ただ䜕も掎めおねえ。倧孊のおっぺんを獲った぀もりで、ただ調子に乗っおいただけだ  
     
    倕暮れ時、誰もいなくなった䜓育通の床に䞀人座り蟌み、拓銬は腫れがったい右膝をさすりながら、激しい無力感に唇を噛んでいた。
     
    ここには、か぀お自分を「裏切り者」ず呌びながらも、最埌には涙を流しおトスを䞊げおくれた神谷のような盞棒はいない。
     
    すべおが実力だけで切り捚おられる、孀独な倧人の䞖界だった。
     
     
    同じ頃、舞もたた、䞉井䞍動産アむスパヌク船橋の冷たいリンクの䞊で、これたでにない深い焊燥感ず戊っおいた。
     
    「星野、もっず力を抜いお。俺の胞に、自分の䜓重のすべおを預けるんだ」
     
    神谷蓮二の䜎く萜ち着いた声が、氷の䞊に響く。
    シングル時代、舞の戊いは「いかに自分䞀人の軞を完璧に保ち、高く跳ぶか」ずいう孀独な挑戊の連続だった。
     
    氷を蹎る瞬間も、空䞭に舞う瞬間も、信じられるのは自分の肉䜓だけだった。
     
    しかし、ペアは違う。
    二人の刃゚ッゞが刻むトレヌスは、寞分の狂いもなく重なり合わなければならない。
     
    それだけではない。ペア特有の「リフト」の瞬間、舞は自分の身䜓を、蓮二の倧きな䞡手に完党に委ねる必芁があった。
     
    蓮二が舞の腰を支え、氷䞊からふわりず持ち䞊げる。
    その瞬間、舞の脳裏に、か぀お䜕床も氷に叩き぀けられたあの足銖の激痛の蚘憶が、呪いのように蘇る。
     
    萜ちたら、どうしよう──
    䞀瞬の恐怖。
    その無意識の身構えが、舞の身䜓を硬盎させた。
     
    蓮二の肉䜓の軞ず同調できず、二人のバランスが厩れる。
    蓮二の匷固な䜓幹のおかげで転倒こそ免れたものの、舞の足元は䞍栌奜に氷を削り、リフトは無残に途切れた。
     
    「すいたせん  どうしおも、䞀瞬、身䜓が匷匵っちゃっお  」
     
    舞は冷える足銖を抱きしめるようにしお、氷の䞊に芖線を萜ずした。
    䞖界のトップで戊っおきた蓮二のリヌドは、優しく、完璧だ。
     
    悪いのはすべお、盞手を、他人の軞を信じきるこずができない自分だ。
     
    「焊らなくおいい、舞さん。君が今たでどれだけ孀独に、匷い芚悟を持っお戊っおきたかは分かっおいる。だからこそ、その『䞀人で立぀ための軞』を、䞀床僕の前で厩すのは怖いよな」
     
    蓮二は無理に手を匕こうずはせず、ただ同じ氷の䞊に立ち、舞の傷぀いたプラむドを包み蟌むように静かに埮笑んだ。
     
    「ペアは、頌るこずを芚える物語だ。君が僕を信じおくれた時、二人の軞は䞀本になり、シングルでは絶察に届かなかった『新しい高さ』ぞ行ける。  僕を信じお、もう䞀床やっおみよう」
     
    蓮二のその蚀葉は、舞の頑なな心を少しず぀溶かしおいく。
     
    しかし、「䞀人で戊う匷さ」しか知らなかった舞にずっお、他人にすべおを預けるずいう行為は、暗闇の䞭に身を投じるような恐ろしさを䌎うものだった。
     
    過酷な珟実の䞭で、もう䞀぀の芋えない壁が二人の間に暪たわり始めおいた。それは、物理的な「距離」ず「環境の差」だった。
     
    実業団の寮に入った拓銬ず、船橋を拠点に䞖界を芋据えお緎習を重ねる舞。
    か぀おは、朚䞋街道の新道を歩き、䞀ノ瀬の倉庫に逃げ蟌めば、い぀でもお互いのぬくもりを確かめ合うこずができた。
     
    蚀葉にしなくおも、同じ「梅雚の痛み」を分け合うだけで、孀独を半分にするこずができた。
     
    しかし今、スマホの画面越しに亀わされる蚀葉は、どこか痛々しいほどに遠慮がちだった。
     
    『拓銬、緎習どう 膝の調子は倧䞈倫』
    『ああ、こっちは問題ないよ。実業団の飯、めちゃくちゃ矎味いわ。舞の方は』
    『神谷さん、本圓に凄いの。私の悪い癖を党郚芋抜いおくれお  。早くプログラムを圢にしなきゃっお、毎日必死だよ』
     
    お互いに、自分が盎面しおいる「初心者ずしおの泥臭い絶望」を、盞手にぶ぀けるこずができない。
    「䞖界ぞ行く」ず玄束した盞手だからこそ、自分が今、䞖界の壁の前でボロボロになり、自信を倱いかけおいる無様な姿を芋せたくなかったのだ。
     
    倜、自宀のベッドでスマホの液晶を芋぀めながら、拓銬はぜ぀りず蚀った。
    「舞は、もう前を向いお、新しいパヌトナヌず䞖界ぞ進んでるんだな  」
     
    同じ倜、舞もたた、窓の倖の船橋の倜空を芋䞊げながら、胞を締め付けられるような寂しさを抱えおいた。
    「拓銬  私、ただ䞊手く神谷さんの手を握れないよ。拓銬の手なら、あんなに匷く握れたのに  」
     
    亀差点で離れた二人の手は、それぞれの新しい荒波の䞭で、ただ次の確かな䜕かを掎めずにいた。
    か぀お新道の坂道で芋぀めた、自分の足元を固めお守られおいたあのタチアオむのように、圌らは今、新しい土壌で必死に根を匵り盎そうず、誰にも芋せない涙を流しおいた。

    第二節 刃゚ッゞの迷路、預けた重さ

    星野舞にずっお、『䞉井䞍動産アむスパヌク船橋』の冷たいリンクは、幌い頃から自分のすべおを蚌明しおきた神聖な堎所だった。
     
    しかし今の圌女にずっお、そこは自分の無力さを突き぀けられる、底のない「迷路」のようだった。
     
    「舞、゚ッゞの傟きがただ浅い。シングルの癖で、どうしおも次のゞャンプの螏み蟌みに備えようずしお、身䜓が内偎に逃げおいるんだ」
    神谷蓮二かみや れんじの、ブレのない確かな声が氷の䞊に響く。
     
    ペアの滑りは、シングルずは根本的に異なる。
    ゞャンプずいう倧技がない代わりに、氷を削る刃゚ッゞの深さ、角床、そしお人の描くカヌブの完党な同調がすべおを決定する。
    舞がこれたでに培っおきた「䞀人で高く跳び、䞀人で着氷する」ための匷固な軞が、皮肉にも、蓮二の動きず重なり合うための邪魔をしおいた。
     
    人の刃が刻むトレヌスは、ほんの数ミリのズレで亀錯し、そのたびに舞の足元でガリッず䞍快な氷の削れ音が鳎る。
     
    「  すいたせん」
    舞は䞋を向いた。
    冷える足銖の叀傷が、焊りずずもにゞクゞクず熱を持぀。
    䞖界遞手暩の舞台を䜕床も螏んできた蓮二の滑りは、たるで倧暹のように安定しおいた。
    觊れる手のひらから䌝わる圌の䜓幹は䞀ミリも揺るがない。
     
    悪いのはすべお、その完璧な軞に自分を合わせられない自分の未熟さだった。
     
    「䌑憩にしよう」
    蓮二が優しく蚀った。
     
    リンクサむドのベンチに腰掛け、舞は枩かいお茶のペットボトルを䞡手で包み蟌んだ。
    かじかんだ指先を芋぀めおいるず、胞の奥からドロリずした焊燥感が湧き䞊がっおくる。
     
    シングル時代の仲間たちは今、来シヌズンのグランプリシリヌズに向けお、回転ゞャンプの鋭い回転を氷の䞊に刻み蟌んでいる。
    圌女たちが華やかに宙を舞うたびに、舞の胞はチクリず痛んだ。
    自分はゞャンプを捚おた。
    戊う堎所を倉えた。
    それなのに、ここでもただ、スタヌトラむンにさえ立おおいない。
     
    「舞さん」
    蓮二が隣に座り、静かに語りかけた。
    「君のシングル時代のステップは、本圓に玠晎らしかった。䞀人で嵐の䞭に立ち向かうような、圧倒的な孀高の矎しさがあった。  でもね、ペアは『人で嵐を乗り越える』競技なんだ。君のその玠晎らしい軞を、消す必芁はない。ただ、その軞を僕に『半分、貞しお』くれないか」
     
    「半分、貞す  」
     
    「そう。をにするんじゃない。君の軞ず僕の軞を重ね合わせお、倪い本の䞻軞を䜜るんだ。そのためにはね、舞さん。君が僕を『利甚する』くらいの手ごわさが必芁なんだよ」
    「僕を頌るこずは、決しお匱いこずじゃない」
     
    蓮二の蚀葉は、舞の匷固な頑なさを少しず぀解きほぐしおいくようだった。
    これたで舞にずっお、人に頌るずいう行為は「甘え」であり、戊いからの「敗北」を意味しおいた。
     
    裕犏ではない家庭から䞡芪の倢を背負い、船橋の凍った孊校プヌルから䞀人で這い䞊がっおきた圌女には、誰かの背䞭に寄りかかるずいう遞択肢など、端から存圚しなかったのだ。
     
    でも、私は今、神谷さんの隣にいる  
    蓮二の倧きく、分厚い手のひらを芋る。
     
    その手には、これたでに䜕人ものパヌトナヌを支え、守り抜いおきた無数のタコず、隠しきれない努力の跡が刻たれおいた。
     
    この人は、本気で自分ず䞀緒に䞖界のおっぺんを目指そうずしおいる。
    「今のリフト、あず数センチ高く䞊がる」
     
    蓮二はスマヌトフォンの動画を止め、画面を指さした。
    舞はうなずき、その映像をじっず芋぀めた。
     
    やがおスマヌトフォンを閉じるず、ペットボトルを眮き、力匷く立ち䞊がった。
    「  もう䞀回、お願いしたす」
     
     
    再び、冷たい銀盀の䞊ぞ。
    今床は「ステヌショナリヌ・リフト」の緎習だった。
    その堎で蓮二が舞の腰を支え、頭䞊高くぞず持ち䞊げる倧技だ。
    氷の䞊で、人が向き合う。
    蓮二の手が、舞の腰に添えられた。
    圌の身䜓の熱が、緎習着越しにダむレクトに䌝わっおくる。
    「いくよ」
    蓮二の合図ずずもに、舞の身䜓がふわりず宙に浮いた。
    芖界が䞀気に高くなる。
    その瞬間、舞の脳裏に、か぀おゞャンプの着氷に倱敗し、激しい衝撃ずずもに足銖の骚が悲鳎を䞊げたあの「恐怖の蚘憶」が、䞀瞬だけ鋭くフラッシュバックした。
     
    あ――
    身䜓が反射的に匷匵ろうずする。
    恐怖に負けお、空䞭でバランスを厩しかけたその時だった。
     
    「逃げるな 俺を芋ろ、舞」
     
    蓮二の、これたでになく激しく、地響きのような声が舞の錓動を盎撃した。
    舞はハッず目を芋開いた。
     
    すぐ真䞋に、自分を必死に支える蓮二の顔があった。
    圌の瞳は、恐怖に震える舞の姿を真っ盎ぐに、寞分の揺らぎもなく捉えおいた。
     
    その瞳には、憐れみも劥協もない。
    あるのは、星野舞ずいうスケヌタヌぞの、圧倒的な「信頌」だけだった。
    舞は、奥歯を噛み締めた。
     
    私は、新道の坂道で切り裂かれたタチアオむのたたで終わる女じゃない  。
    拓銬だっお、今、芋えない壁ず死に物狂いで戊っおいる。
    私だけが、ここで怯えおいおどうするの
     
    舞は、自分の身䜓のすべおの力を完党に抜いた。
    恐怖に抗うためにガチガチに固めおいた背筋を緩め、自分の肉䜓の重さ、そのすべおの質量を、蓮二の䞡手ぞず、圌の匷固な肉䜓ぞず、迷わずに投げ出した。
     
    ドクン、ず人の錓動が重なったような気がした。
    その瞬間、舞の身䜓のグラ぀きが完党に消えた。
    蓮二の䜓幹ずいう匷固な䞻軞の䞊に、舞の身䜓が、たるで最初からそこにあったパヌツのように、完璧なバランスでピタリず乗ったのだ。
     
    「  あ」
    舞は息を呑んだ。
    高い。
    シングルのトリプルアクセルで到達するよりも、はるかに高い、圧倒的な空䞭。
    そこは、颚もノむズもない、信じられないほど静かで、どこたでも柄み切った䞖界だった。
    他人の軞に自分のすべおを委ねた先に、これほどたでに安定した、矎しい「垂盎バヌティカル」が存圚するなんお、舞は想像すらしおいなかった。
     
    蓮二がゆっくりず、愛おしむように舞を氷の䞊ぞず䞋ろしおいく。
    着氷した舞の足元は、か぀おないほど滑らかに、䞀本の矎しい線を氷の䞊に描いた。
     
    足銖ぞの衝撃は、蓮二のリヌドによっお完璧に吞収され、痛みは党くなかった。
     
    「  できたな、舞さん」
    蓮二が、少し息を切らしながら、子䟛のように顔をくしゃくしゃにしお笑った。
    舞は自分の䞡手を芋぀め、それから蓮二の目を真っ盎ぐに芋返した。
     
    「神谷さん  私、今、初めお誰かず䞀緒に跳べた気がしたす」
    「ああ。これがペアだ。君が僕を信じおくれたから、今日の高さが生たれた。ここからだよ、僕たちの本圓の挑戊は」
     
    舞の頬を、䞀筋の熱い涙が䌝わった。
    それは悔し涙ではない。
    孀独な戊いに終わりを告げ、誰かず支え合っお生きる匷さを知った、新しい倜明けの涙だった。
     
    船橋の冷たいリンクの䞊で、はみ出しお咲いた小さな花は、今、他人の優しさずプロの芚悟ずいう確実な土壌を埗お、空ぞず向かっお、力匷く新しい根を匵り始めおいた。
     

    第䞉節 倜を枡る声、朚䞋街道の蚘憶

    倜の十時を過ぎた実業団の独身寮は、䞍気味なほどに静たり返っおいた。
    舞ずの緎習を終えた蓮二ずの居残り特蚓を終え、党身に乳酞が溜たった身䜓を匕きずるようにしお自宀に戻った葵拓銬は、ベッドに倒れ蟌んだたた、しばらく倩井を芋぀めおいた。
     
    党身の筋肉が悲鳎を䞊げ、新しく叩き蟌たれおいる「空䞭での䜓幹の捻り」の感芚が、頭の䞭で䜕床も反芻される。
    疲れ果おおいるはずなのに、神経が高ぶっお眠気は埮塵も蚪れない。
    拓銬は枕元で震えたスマホを手に取った。
    画面に浮かび䞊がったのは、星野舞の名前だった。
    通話ボタンを抌しお耳に圓おるず、かすかな衣擊れの音の向こうから、聞き慣れた、しかし少し倧人びた圌女の声が聞こえおきた。
     
    『  拓銬 起きおた』
    「おう、今緎習から戻ったずころだ。舞は ただリンクか」
     
    『ううん、私も今、船橋の家に垰っおきたずころ。お颚呂䞊がりに、なんずなく拓銬の声が聞きたくなっちゃっお』
     
    受話噚から䌝わる舞の声は、い぀もより少し柔らかく、どこか寂しげに震えおいた。
    か぀おは、緎習が終われば朚䞋街道の坂道を䞊んで歩き、冷たい雚の匂いを共有できた。
     
    䞀ノ瀬の倉庫の薄暗い静寂の䞭で、傷぀く身䜓を寄せ合うだけで、蚀葉以䞊のものが䌝わっおいた。
    それが今では、埌玉県ず千葉県ずいう、歊蔵野線で䞀本のはずの距離が、途方もなく遠い囜境のように二人の間に暪たわっおいる。
     
    「舞、ペアの緎習、順調みたいだな。LINE芋たよ、リフト成功したんだろ」
    拓銬はできるだけ明るい声を意識しお蚀った。
     
    自分の泥臭い絶望や、実業団の壁に跳ね返されお砂を噛むような思いをしおいるこずは、どうしおも口にできなかった。
     
    䞖界を芋据えお歩き出した圌女の足を、匕っ匵りたくなかったのだ。
     
    『  うん。神谷さん、本圓に凄いのよ。私のこず、私以䞊に信じおくれおる。でもね、拓銬』
    舞は䞀床蚀葉を切り、小さく息を吞い蟌んだ。
     
    『怖かったの。あの人の手の䞭で、氷から身䜓が離れた瞬間、たた足銖が壊れるんじゃないかっお、頭が真っ癜になっお  。その時、私、心の䞭で叫んでた。拓銬、助けおっお』
     
    「舞  」
     
    『私ね、今たで䞀人で滑るのがフィギュアスケヌトだず思っおた。誰かを信じお自分の重さを党郚預けるなんお、敗北だず思っおたの。でも、神谷さんの目を芋た時、新道の坂道で、あの平らな民家の奥に咲いおたタチアオむを思い出したの。呚りがどれだけ荒れおも、自分の足元を固めお、真っ盎ぐに立っおいたあの花を』
     
    舞の声が、じんわりず熱を垯びおいく。
    『私にずっお、自分の足元を固めおくれたのは、あの倉庫で私の背䞭を抱きしめおくれた拓銬なんだよ。神谷さんの軞を信じられたのは、拓銬が私の心を、もう䞀床立ち䞊がらせおくれたからなの。だからね  私は神谷さんず䞖界ぞ行くけど、私の根っこにあるのは、今でも拓銬ずの玄束だけだよ』
     
    受話噚を握る拓銬の指先に、じわりず力がこもった。
    舞が新しいパヌトナヌである蓮二を信頌し、前を向いおいるこずに、どこかで嫉劬し、眮いおいかれる恐怖を感じおいた自分が恥ずかしくおたたらなくなった。
    圌女は、逃げたわけでも、自分を忘れたわけでもない。
    自分の存圚を心の背骚じくにしお、䞖界の壁に呜懞けで挑んでいるのだ。
     
    「ありがずう、舞。  実はさ、俺も今日、お前の兄貎分にボコボコに蚀われおさ」
     
    拓銬は苊笑しながら、初めお自分の匱音を少しだけ口にした。
    䜕床もブロックに叩き萜ずされ、誰もいなくなった䜓育通で䞀人跳び続けた倜を思い出す。
     
    「実業団のブロックは、本圓に高くお分厚い壁だ。倧孊のMVPなんお、䞀瞬で叩き朰されたよ。でもな、神谷さんが今日、俺に蚀っおくれたんだ。『お前はもう䞀床、初心者になったんだ』っお。怪我をする前の自分に戻るんじゃない。今の新しい俺の身䜓で、新しい空䞭の戊い方を芚えりゃいいんだっおな」
     
    『神谷さんが  』
    「おう。だから、俺も諊めねえよ。舞が䞖界を獲るっお蚀うなら、俺は新しく生たれ倉わった重戊車になっお、実業団の怪物の壁を党郚ぶち抜いおみせる。次に䌚う時は、舞に恥ずかしくない、本物の゚ヌスになっおみせるから」
     
    電波の向こうで、舞が嬉しそうに、しかし少し錻をすすりながら埮笑む気配が䌝わっおきた。
    『うん。埅っおる。次に䌚う時は、人で、あの梅雚の長雚を完党に越えた時だね』
     
    「ああ。玄束だ。  じゃあな、舞。おやすみ」
    『おやすみ、拓銬。無理しすぎちゃダメだよ』
    通話が切れ、画面が静かに暗転した。
    さっきたでの冷え切った孀独感は、もう郚屋のどこにも残っおいなかった。
     
    物理的な距離がどれだけ離れおいようずも、人の魂は、あの法兞ヶ原の檜の床の䞊で結び぀いた「䞀本の匷い䞻軞」で、今も確かに繋がっおいる。
     
    拓銬はスマホを握りしめ、ゆっくりず目を閉じた。
    耳の奥で、ただ芋ぬ実業団の公匏戊の、地鳎りのような倧歓声が聞こえた気がした。
     
    梅雚を越え、叀傷を越え、䞖間のノむズを越えお──人はそれぞれの堎所で、新しい青空バヌティカル・ブルヌに向かっお、限界を超えた暗闇の特蚓ぞず、再び没頭しおいくのだった。
     

    第四節 垂盎の銃匟、新生の゚ヌス

    埌玉県内の満員の䜓育通は、地鳎りのような倧歓声ず、実業団リヌグ特有の匷烈な熱気に包たれおいた。
    『東日本JETS』の公匏戊。
    ベンチの最前列で、葵拓銬は膝に手を眮き、コヌト䞊の激しい攻防をじっず芋぀めおいた。
     
    セットカりントは䞀察二。
    栌䞊の盞手を前に、JETSは完党に远い詰められおいた。
     
    盞手の二メヌトルを超える日本代衚ミドルブロッカヌたちの壁が、JETSのスパむクを䜕床も叩き萜ずし、チヌムの空気は完党に冷え切っおいる。
     
    「葵、行くぞ。亀代だ」
     
    監督の䜎い声が響いた瞬間、拓銬の心臓がドクンず倧きく跳ね䞊がった。
    ぀いに巡っおきた、実業団の公匏戊初出堎のチャンス。
     
    拓銬はナニフォヌムの裟を匷く匕き、深く息を吞い蟌んでコヌトぞず足を螏み入れた。
     
    客垭からは
    「おい、あの倧孊MVPの怪我人か」
    「スキャンダルの奎だろ」
    ずいう、か぀おのノむズの残響のような冷ややかな囁きが聞こえおくる。
     
    しかし、今の拓銬の耳には、そんな雑音は䞀切届かなかった。
    俺は、もう䞀床初心者になったんだ。過去のお前倩才はもういない。今の身䜓で、新しい制空暩を掎むんだ
     
    昚倜、電波の向こうから届いた舞の真っ盎ぐな声が、圌の背骚をパチパチず熱く燃え䞊がらせおいた。
     
    詊合が再開される。盞手の匷烈なサヌブを、JETSのレシヌバヌが必死にセッタヌの頭䞊ぞず返した。
    「葵」
    セッタヌがボヌルを呌び蟌む。
    トスがふわりず䞊がった。
     
    拓銬は昭和の檜の床ではなく、この硬い実業団のタラフレックスコヌトを、巊足で爆発的な勢いで螏み締めた。
    その瞬間、脳裏に䞀瞬だけ、あの断裂の恐怖が過った。
    しかし、拓銬はその恐怖をねじ䌏せるように、蓮二から教わった新しい空䞭軞ぞの移行を意識した。
     
    高く、鋭く、身䜓が宙ぞず舞い䞊がる。
    党盛期のただ力任せに高く跳ぶだけのゞャンプではない。
    右肩を絶劙な角床で匕き、空䞭で䞀瞬「止たる」ために䜓幹を限界たで捻り䞊げる、新しいフォヌム。右膝ぞの負担は驚くほどにない。
     
    だが、ネットの向こう偎には、やはりあの二メヌトルの怪物の䞡手が、コンクリヌトの壁のようにそびえ立っおいた。
     
    拓銬の芖界は完党に塞がれる。
     
    埅お  焊るな。高さだけで打぀んじゃない。空䞭での軞の『捻り』ず、盞手を『利甚する』技術だ
     
    蓮二の蚀葉が脳内でフラッシュバックする。
    拓銬は空䞭で䞀瞬静止したかのような錯芚の䞭、盞手ブロックの指先の䜍眮を、驚くほど冷静に芋切った。
     
    そしお、巊腕をただ振り䞋ろすのではなく、䜓幹の捻りを䜿っお、空䞭でわずかに打点を倖偎ぞずずらしたのだ。
     
    バチィィィン
    䜓育通党䜓に、錓膜を突き砎るような匷烈な砎裂音が響き枡った。
    拓銬の攟ったスパむクは、盞手の日本代衚ブロッカヌの指先を鋭くかすめ、匷烈なスピンを䌎いながら、盞手コヌトの遥か倖偎の床ぞず、垂盎の銃匟のように突き刺さった。
     
    「ブロックアりト   ポむント、JETS」
    審刀の笛の音ず同時に、静たり返っおいた䜓育通が、ひっくり返ったような倧歓声に包たれた。
     
    「うおおお なんだ今の空䞭でのタメは」
    「壁の指先を完党に狙い撃ちしたぞ」
     
    か぀お「裏切り者」ず冷笑した者たち、怪我人だず䟮っおいた芳客たちの目が、䞀瞬で驚愕ず興奮ぞず塗り替えられおいく。
    着地した拓銬の右膝には、䜕の痛みもなかった。
    圌はしっかりず䞡足で実業団の床を螏み締め、ネットの向こうの怪物たちを、ギラリずした「重戊車の光」を宿した瞳で真っ盎ぐに芋据えた。
     
    「  よしっ」
    拓銬は同えた。胞の奥から湧き䞊がる、圧倒的な党胜感。
     
    自分は぀いに、䞖界の壁をぶち抜くための、新しい「ブレない軞」を手に入れたのだ。
     
     
    その倜、ニュヌスの速報で拓銬の鮮烈なデビュヌず「埩掻の重戊車」の文字が躍るのを、䞉井䞍動産アむスパヌク船橋のロビヌで、舞はスマホを握りしめながら芋぀めおいた。
     
    「拓銬  やったね」
    舞の目から、ポロポロず嬉し涙が溢れ萜ちる。
    画面の䞭の拓銬は、倧孊時代よりも遥かに粟悍で、倧人のプロの顔぀きをしおいた。
    圌がコヌトで泥をすすりながら、新しい空を掎み取った。
    なら、自分も負けおいられない。
     
    「いくよ、舞さん。いよいよ、俺たちの最初の囜際倧䌚だ」
     
    隣に立぀神谷蓮二が、䞖界のトップダンサヌずしおの鋭いオヌラを纏いながら、舞に右手を差し出した。
     
    「はい」
    舞は涙を拭うず、今床は䞀ミリの迷いもなく、蓮二の分厚い手のひらを匷く、壊れるほどに握りしめた。
    物理的な距離を越え、お互いの埩掻を確信した二人の魂は、今、完党に䞀぀になっお䞖界の舞台ぞず向かおうずしおいた。
     
    船橋の空には、もうあのゞメゞメずした梅雚の雲はどこにもない。
    二人の行く先には、果おしなく突き抜けるような、深い青空バヌティカル・ブルヌが広がっおいた。
     

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    第四章飛翔

    第䞀節 銀盀の告癜、重なる圱

    囜際倧䌚のデビュヌ戊を華々しく食り、䞖界ぞずその名をずどろかせ始めた星野舞ず神谷蓮二。
     
    二人の刻むステップは、今や䞖界䞭のゞャッゞを魅了するほどの完璧なシンクロを芋せおいた。
     
    しかし、䞖界の頂点が芋え始めたある秋の囜際倧䌚の倜、物語は激しく揺れ動く。
     
    詊合埌の無人のリンクサむド、静寂の䞭で蓮二は舞の前に立ち、䞖界のトップダンサヌずしおの自信に満ちた、しかし心からの熱い県差しで、小さな箱を差し出した。
     
    「舞さん。俺のこれからのスケヌト人生、そしおこれからの生涯のすべおを、君に捧げたい。  俺ず結婚しお、公私ずもに本圓の『䞀本の軞』になっお、䞖界を獲りに行こう」
     
    突然のプロポヌズに、舞は息を呑み、激しく動揺した。
    蓮二は、どん底の自分を救い出し、他人に頌る匷さを教えおくれた恩人であり、今や最高のパヌトナヌだ。
     
    圌ず共に歩む未来には、茝かしい栄光ず、確かな安党が玄束されおいる。
    しかし、圌の分厚い手のひらを芋぀める舞の脳裏に、どうしおも消えない䞀人の男の姿があった。
     
    そんな時、実業団リヌグの遠埁で同じ郜垂ぞず滞圚しおいた葵拓銬あおい たくたが、舞の迷いを察したように圌女の元ぞず駆け぀けた。
     
    月明かりの䞋、久しぶりに再䌚した拓銬の目は、か぀お船橋の凍った孊校プヌルや䞀ノ瀬の倉庫で戊っおいた頃の、あの䞍噚甚で真っ盎ぐな少幎のたただった。
     
    拓銬は舞の䞡肩を匷く掎み、魂を振り絞るようにしお蚀った。
     
    「舞  俺、実業団の怪物の壁をぶち抜いお、やっず本圓の゚ヌスになれた。でも、俺がここたで来られたのは、あの新道でお前が俺の手を握っおくれたからだ。俺の根っこには、い぀もお前がいる」
    「  舞、俺ず結婚しおくれ。お前を誰よりも幞せにする。もう䞀床、俺の隣で笑っおくれ」
     
    二人の男からの、呜懞けの求婚。
    舞の心は、激しい嵐のように匕き裂かれた。
     
    䞀人は、䞖界の頂点ぞず自分を導き、完璧に守っおくれる倧暹のような蓮二。
    もう䞀人は、船橋の泥の䞭から䞀緒に這い䞊がり、お互いの叀傷ず痛みを誰よりも分かち合っおきた、䞖界にただ䞀人の盞棒である拓銬。
     
    䞀晩䞭、激しい心の葛藀の䞭で涙を流し続けた舞が、翌朝、最埌に出した答えは――拓銬の元ぞず走るこずだった。
     
    舞は、拓銬の胞に飛び蟌み、その広い背䞭を壊れるほど匷く抱きしめた。
     
    「拓銬  ごめんね、迷っお。でも、私、やっぱり気付いたの。神谷さんの軞を信じられたのは、拓銬が私の心を耕しお、匷い根っこを䜜っおくれたから」
     
    「私が私のたたで、䞀番泥臭く、䞀番高く跳べるのは、拓銬の隣にいる時だけなの。  私、拓銬ず䞀緒に、これからの長い坂道をずっず登っおいきたい」
     
    拓銬は驚き、それから砎顔しお、舞の身䜓を匷く抱き䞊げた。
     
    舞の遞択を知った蓮二は、䞀瞬だけ寂しそうに目を䌏せたが、すぐに䞖界のトップずしおの毅然ずした埮笑みを浮かべた。
     
    「  そうか。お前たちの『根っこ』は、俺が割り蟌めるほど浅いものじゃなかったな。いいだろう、舞さん。フラれたのは栌奜悪いが、氷の䞊では倉わらず俺が最高のパヌトナヌだ。プラむベヌトはお前に譲るが、䞖界䞀の座は、人で獲りに行くぞ」
     
    恋の嵐を越え、お互いが生涯の䌎䟶ずなるこずを誓い合った舞ず拓銬。
    圌らの魂の結び぀きは、もはや誰にも切り裂けないほど匷固なものずなった。
     
    そしお物語は、いよいよ二人がそれぞれの䞖界で「䞖界のおっぺん」ぞず挑む、本圓の飛翔の瞬間ぞず向かっおいく――。
     

    第二節 咆哮の重戊車、䞖界の頂点ぞ

    舞ずの生涯の玄束を亀わしたその日から、葵拓銬のスパむクは、もはや恐怖に怯える怪我人のものではなくなっおいた。
     
    圌の内偎には、船橋の泥の䞭から䞀緒に這い䞊がっおきた最愛の人の存圚が、䞀本の、決しお折れないダむダモンドの䞻軞ずしお埋め蟌たれおいた。
     
    実業団リヌグの最高峰、党日本遞手暩の決勝舞台。
    超満員の東京䜓育通は、耳を聟するほどの歓声ず熱気に包たれおいた。
     
    『東日本JETS』の察戊盞手は、海倖から招集された最高到達点メヌトルセンチを誇る䞖界トップクラスのブロック陣を擁する、絶察王者だった。
     
    詊合は最終第セット、デュヌスにも぀れ蟌む死闘ずなっおいた。
    盞手の䞖界基準のブロックにJETSの攻撃陣が次々ずシャットアりトされ、誰もが「ここたでか」ず息を呑んだその時、JETSのセッタヌが叫んだ。
     
    「拓銬、持っおこい」
    レシヌブされたボヌルが、矎しい攟物線を描いおセッタヌの頭䞊ぞ䞊がる。
    拓銬は、これたでに䜕千、䜕䞇回ず螏み締めおきた硬い床を、巊足の裏で爆発的な勢いで蹎り䞊げた。
     
    怪我を恐れお瞮こたっおいた、あの梅雚の日はもう終わった。俺の背䞭には、舞がいる
    高く、どこたでも高く、身䜓が倩に向かっお匕き絞られる。
    蓮二から叩き蟌たれた、空䞭での䜓幹の極限の捻り。
    党盛期を遥かに超えた新しい空䞭軞が、圌を「空䞭で完党に静止した」かのような、圧倒的な制空暩の頂点ぞず導いた。
     
    目の前に立ちはだかる、䞖界䞀ず称される䞉枚の巚倧な壁。
    しかし、拓銬の瞳に宿る「重戊車の光」は、その壁のわずかな指先の隙間を、冷培なほどに芋切っおいた。
     
    「おおおおお」
    拓銬の咆哮ずずもに、巊腕が匷烈なスナップを䌎っお振り䞋ろされる。
    空䞭での凄たじい䜓幹の捻りから攟たれたボヌルは、䞖界最高峰のブロックの指先を完党に匟き飛ばし、コヌトの真ん䞭ぞず、音を立おお垂盎に炞裂した。
     
    ドゎォン
    ボヌルが床を叩く爆音ず同時に、䌚堎を揺るがす倧歓声が爆発する。
    「詊合終了 優勝、東日本JETS」
     
    コヌトに厩れ萜ちた拓銬の元ぞ、仲間たちが涙を流しながら次々ず飛び蟌んできた。
    圌はしっかりず䞡足で立ち䞊がり、拳を倩高く突き䞊げた。
     
    敗北ず絶望の泥をすすり、そこから這い䞊がった䞍噚甚な重戊車は、぀いに誰よりも高いおっぺんから、䞖界を叩き朰すアタックを決めおみせたのだ。
     

    第䞉節垂盎の軞、倧茪の奇跡

    リンクの䞭倮に立った星野舞は、深く息を吞い蟌んだ。
    䌚堎を埋め尜くす倧芳衆の芖線が、䞀斉に圌女に泚がれる。
     
    匵り詰めた静寂の䞭、冒頭の切ないメロディが鳎り響くず同時に、舞ず神谷蓮二は䞀本の有機的な生呜䜓のように、滑らかに氷を蹎り出した。
     
    フィギュアスケヌトの男女皮目の䞭でも、最も過酷で、最も矎しくダむナミックな「ペア」ずいう競技。
     
    二人の゚ッゞが氷を削るディヌプなカヌブ。
    氷をける゚ッゞに感じたのは、二人があの船橋の倉庫で、傷だらけになりながら緎習し぀かんできた「根っこ」だった。
     
    あの昭和の檜の床を玠足で螏みしめ、摩擊の恐怖を克服したからこそ埗られた、決しおブレない匷靭な根っこ。
     
    最初の極限芁玠――ミッドラむン・ステップシヌク゚ンス。
    二人の距離はわずか数センチ。
    片足での耇雑なタヌンを寞分の狂いもなく同調させ、驚異的なスピヌドでリンクを駆け抜ける。
     
    蓮二が提瀺した「ブレない垂盎の軞」が二人を貫き、たるで䞀぀の圱のように完党にシンクロした動きを芋せる。
     
    続いお、息を呑むようなツむストリフト。
    蓮二の匷靭な軞を䞭心に、舞の身䜓が氷面ず氎平に、倩に吞い蟌たれるような矎しい姿勢のたた高速で回転しおいく。
     
    今たでで䞀番高く、䞀番真っ盎ぐな遠心力の軌道。
    蓮二を完党に信じ、その掌にすべおを委ねるこずで、舞の身䜓は重力を忘れたように矜ばたいた。
     
    完璧なコントロヌルのたた氷䞊ぞず着氷ランディングするず、䌚堎から地鳎りのような倧歓声が湧き起こる。
     
    フェンス越しに芋぀める葵拓銬あおい たくたの瞳に、熱いものが蟌み䞊げる。
    バレヌボヌルのコヌトで泥たみれになりながら、誰よりも舞の苊しみず努力を近くで芋守っおきた拓銬。
    その拳は、癜くなるほど匷く握りしめられおいた。
     
    舞  お前は、本圓に綺麗だ。俺たちの根っこは、間違っおなんか決しおいなかった
    別々のコヌトにいながらも、二人の魂は確かに深く、同じ倧地で繋がっおいた。
     
    続く゜ロスピンの同調連鎖。
    舞ず蓮二は䞀瞬の隙もなく同じ回転速床で、゚ッゞを鋭く刻みながらリンクを盎線的に突き進む。
     
    臚戊態勢のたびに悲鳎を䞊げおいた叀傷の痛み。
    二人を支える無数の愛。
    磚き䞊げた䜓幹の軞が完党にねじ䌏せおいた。
     
    そしお物語はクラむマックスのスロヌゞャンプぞず突入する。
     
    蓮二が片足のディヌプ゚ッゞで矎しいアヌチを描きながら滑走し、その身䜓を土台ずしお、舞が倩に向かっお真っ盎ぐに腕を䌞ばす。
     
    それはたさに、梅雚の長雚の果おに、空ぞず真っ盎ぐに軞を䌞ばし、おっぺんに倧茪を咲かせる「立葵」そのものの姿だった。
     
    泥をすすり、陰口に耐え、泥沌のスキャンダルから自分たちを守り、耕し続けおくれた呚囲の倧人たち。
     
    そしお䜕より拓銬がくれた揺るぎない愛。
    この矎しいダンスを支える頑䞈な「土壌」ずなっおいた。
     
    音楜の終止笊ず同時に、二人は息のぎったり合った完璧なフィニッシュを決めた。
     
    䞀瞬の静寂。
    次の瞬間、䌚堎は総立ちずなり、嵐のような拍手ずスタンディングオベヌションがリンクに降り泚いだ。
     
    息を切らし、胞を倧きく䞊䞋させながら、舞は涙で歪む芖界の䞭、倧歓声を济びおいた。
     
    やり切った。
    これが、私たちのダンス。
     
    リンクサむドぞ戻る舞ず、拓銬の芖線が重なる。
    蚀葉はいらなかった。
    泥をすすった日々も、流した涙も、その䞀瞬ですべお䌝わっおいた。
     
    次の瞬間、拓銬は䞇感の思いを蟌めお舞を匷く抱きしめた。
    「舞、やったな。最高に真っ盎ぐで、䞖界䞀綺麗だった」
    「拓銬  」
     
    舞はその胞に顔を埋め、子どものように声を䞊げお泣いた。
     
    そしお、電光掲瀺板に衚瀺されたのは――歎史を塗り替える「䞖界最高埗点」の数字だった。
     
    金メダルが胞で茝く䞭、舞の目からは栄光の喜びを超えた、呜の奥底から湧き䞊がる枩かな涙があふれおいた。
     
    舞は隣で枅々しい衚情を浮かべる蓮二に向き盎り、深く、深く頭を䞋げた。
     
    「蓮二さん、ありがずうございたした。私に、誰かを信じお委ねる匷さを教えおくれお」
    「いいんだよ、舞さん。君たちがその感謝を忘れない限り、その軞は二床ずブレない。  さあ、埅たせおいる人がいるだろう」
     
    蓮二は優しく埮笑み、舞の背䞭をそっず抌した。
     
     
    垰囜埌、二人が真っ先に向かったのは、あの船橋の倉庫だった。
     
    すっかり梅雚が明け、突き抜けるような青空バヌティカル・ブルヌが広がる倏の日。
     
    倉庫の錆びた鉄の扉を開けるず、䞭では䞀ノ瀬が、そしお神谷や䞡芪たち、二人を支え続けた党員が、枩かい笑顔で埅っおいた。
     
    舞の隣には、しっかりず圌女の手を握りしめた拓銬が䞊んでいる。
     
    壁䞀面の巚倧な鏡の暪には、あの昭和の時代に撮られた、叀がけた満開のタチアオむの写真が、倉わらずに食られおいた。
     
    「拓銬に、舞。二人の名前が揃っお、立葵タチアオむ  。お前たちは、あの切り裂かれた新道の花じゃなかった。俺たちの叀い檜の床で、みんなの想いを吞い䞊げお、真っ盎ぐに空ぞず軞を䌞ばした、本物の立葵だったな」
     
    䞀ノ瀬は錻をすすりながら笑った。
    舞ず拓銬は、胞の金メダルを芋぀めながら、互いに顔を芋合わせお深く頷いた。
     
    タチアオむずいう花は、䞀茪では咲かない。
    土の底深く、暗闇の䞭で必死に根を匵り、時間をかけお䞀茪ず぀花を咲かせおいく。
     
    そしお、梅雚の最埌の激しい長雚をたっぷりず吞い蟌んだ埌、ようやく茎の最先端――倩に䞀番近い「おっぺん」に、最高の倧茪を咲かせるのだ。
     
    倚くの人々が頑䞈な「土壌」ずなっお支え続けおくれたからこそ、今日の高さが生たれた。
    舞ず拓銬は、そのかけがえのない土壌の枩もりを、党身で感じおいた。

    第四節バヌティカル・ブルヌ、飛翔

    䞖界の頂点に立ったあの日から、数幎の歳月が流れた。
     
    拓銬はバレヌボヌルのコヌトで、舞は蓮二ず共に氷の䞊で、それぞれ満身創痍になりながらも、ひたむきに戊い続けおきた。
    䞖界倧䌚にも出堎した。
     
    しかし、アスリヌトの肉䜓には、必ず終わりがやっおくる。
    床重なる激戊で悲鳎を䞊げる拓銬の膝、そしお舞の身䜓もたた、限界を迎えおいた。
     
    か぀おのように深く゚ッゞを傟け、滑らかなステップを螏むこずは、もうこれ以䞊は䞍可胜なずころたで来おいた。
    オリンピックたであず二幎。
     
    「  朮時、だね」
     
    初倏の颚が吹き抜ける船橋のリンクサむドで、舞は隣に立぀拓銬にぜ぀りず呟いた。
    氷を芋぀めるその瞳には、䞀抹の寂しさが宿っおいた。
     
    タチアオむずいう花は本来、耇数幎にわたっお生きる宿根草だが、開花を終えた埌は、地面に近いずころで茎をバッサリず切り萜ずす「切り戻し」をしなければならない。
     
    そうしなければ、株が匱り、次の季節を迎えるこずはできないのだ。
     
    珟圹生掻の限界、すなわちそれぞれのコヌトから自分たちの身䜓が「切り戻される」瞬間が、今、たさに蚪れようずしおいた。
     
    拓銬は静かに目を䌏せ、それから優しく、包み蟌むような県差しで舞を芋぀めお、その现い肩を匕き寄せた。
     
    「ああ。珟圹ずしおの俺たちの呜は、ここで終わりだ。これからはもう、あのコヌトや䞖界の真ん䞭でスポットラむトを济びるこずはない。  だけどな、舞。タチアオむは、切り戻された土の底で、じっず次の呜を育むんだ」
     
    舞がそっず拓銬の手を握りしめ、自分のお腹ぞず導いたずき、舞の顔に、寂しさを消し去るような、息を呑むほどに優しく、物凄く匷い埮笑みが浮かび䞊がった。
    拓銬は声も出ない歓喜の顔を瀺した。
     
    そう――朮時を知った二人のもずに、今、新しい呜が宿っおいた。
    二人が珟圹のすべおを賭けお戊い抜き、倉庫の床で、そしおそれぞれのコヌトで必死に掎んできた匷固な「根っこ」。
     
    その土壌の底で、小さくも力匷い、新しい「立葵の皮」が静かに息吹き始めおいたのだ。
    舞は、自分の小さなお腹に愛おしそうに手を圓おた。
     
    珟圹から退く寂しさは、この内偎から湧き䞊がる確かな枩もりによっお、完党に未来ぞの垌望ぞず塗り替えられおいった。
     
    「俺たちが珟圹を降りたその先は、今床は俺たちがこの子の、長幎お䞖話になったこの船橋の、次の䞖代の子䟛たちのための頑䞈な『土壌』になる番だ。新しい、匷い根っこを䜜っおやる。珟圹ずしおの呜が終わっおも、俺たちの磚き䞊げた『ブレない軞』は、この新しく宿った呜ぞ、そしお次の立葵たちぞず受け継がれおいくんだよ」
     
    拓銬の力匷い蚀葉に、舞の目から倧粒の枩かい涙が溢れ出た。
    自分たちの歩んできた泥臭い道のり、叀傷の痛み、䞖間の冷笑、限られた珟圹生掻、そしお今ここに繋がれた新しい未来。
     
    そのすべおが、この新しい呜ぞずバトンを繋ぐために必芁な、倧切なプロセスだったのだず、今なら心の底から理解できた。
     
    舞は、お腹の䞊にある拓銬の手に、自分の手をしっかりず重ね合わせた。
     
    「みんなが䜜っおくれた根っこがあるから、私たちはどこたでも高く、矎しく跳べた。  次は、私たちがこの子を、新しい䞖界ぞず矜ばたかせるための土になろうね、拓銬」
     
    「ああ。この青空の䞋で、ずっず真っ盎ぐにな」
    「倢の圢は倉わっおも、前ぞ進む理由はなくならないものね」
     
    ――さらに、数幎の歳月が流れた。
     
    初倏の爜やかな颚が吹き抜ける、船橋の新しいスポヌツ斜蚭のリンク。
    そこには、小さなスケヌト靎を履いお、䜕床も転びながらも、楜しそうに立ち䞊がる䞀人の小さな女の子の姿があった。
     
    「ほら、焊らなくおいいよ。たずは、䞀本の真っ盎ぐな線をむメヌゞしおごらん」
    リンクサむドから優しい声をかけるのは、指導者ずしおの新しい道を歩み始めた舞だ。
     
    その隣には、すっかり逞しい父芪の顔になった拓銬が、愛おしそうに嚘を芋぀めお立っおいる。
     
    か぀お、それぞれの倢から始たった二人の物語。
    確執ず泥沌のスキャンダルを越え、船橋の叀い倉庫の檜の床で磚き䞊げた䞀本の「垂盎の軞」は、今、圌らが泚ぐ深い愛の土壌の䞭で、しっかりず次の䞖代ぞず芜吹いおいた。
     
    斜蚭の窓から芋䞊げる船橋の空には、あのゞメゞメずした梅雚の雲はもうどこにもない。
     
    支えおくれた人々の愛、豊かな土壌、そしお新しく生たれ育っおいく呜の光。
     
    そのすべおを抱く倧地から、倩に向かっおたっすぐに䌞びた䞀本の軞。
     
    その最先端には、どこたでも、どこたでも突き抜けるような、矎しい『バヌティカル・ブルヌ』の青空が、新しく芜吹く呜を祝犏するように、鮮やかに広がっおいた。
    完
     
    ※本䜜はフィクションであり、実圚の人物・団䜓・特定の堎所ずは䞀切関係ありたせん。
     
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