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【焔の記憶】第五章 ウラ=ガルダ

     灰岩の村の「網」であるミレからから「渡り」がつくまで、三日かかった。
     渡りとは、要するに、信用の受け渡しだ。ミレが次の「網」へ報せを送り、その「網」がまた次へ。三日かけて、「白い狼が来た」という符牒が、廃坑の奥の支部長まで届いた。カイナを匿う場所が決まった。

     案内された隠れ処は、打ち捨てられた鉄穴(かなあな)──昔、帝国が焔持ちを使って掘らせ、掘り尽くして捨てた鉱山だった。皮肉な話だ。帝国が焔で掘った穴が、いまは帝国に抗う者の巣になっている。坑道の壁には、いまも掘った者たちの爪跡のような鑿(のみ)の痕が残り、その一つ一つが、名も残らず掘らされて死んだ誰かの、最後の署名のように見えた。

     奥へ進むと、坑道は生きた場所に変わった。炊事の煙。武具を検める音。子どもの声まで混じっている。隠れ処というより、地の底の小さな村だった。二人と一頭は、その入口に立った。反帝国組織ウラ=ガルダ、東部辺境支部。

     支部長は、レンヴァという名の女だった。四十絡み、左の眉から頬へ古い火傷、腰に無骨な山刀。彼女はシャズを上から下まで眺め、次に入口で伏せるトーサを眺め、最後に報告書らしき紙を机に置いた。

    「峡谷の護送隊。徴収官一名戦闘不能、兵二十数名、死者ゼロ。……ゼロ?」
    「殺す理由のある相手が、一人しかいなかった」
    「その一人も生きてるが」
    「顎は当分、粥しか食えない」

     レンヴァは喉の奥で笑った。

    「殺しの多寡を聞いたのは、値踏みじゃないよ。うちの入隊審査でね、一番よく落ちる理由が『殺したくて仕方ない』なのさ。復讐は最初の三月はいい薪になる。けど三月過ぎると、薪が人間のほうを燃やし始める。……あんたは八年ものの恨みを抱えてるはずなのに、死者ゼロ。恨みの竈の扱いを、よほどいい師匠に習ったね」

     竈、という言葉に、シャズはわずかに目を上げた。この女も、誰かに同じことを教わった目をしていた。

    「白狼棍のシャズ。噂は東部の村々を先回りしてるよ。焔狩りに焼かれた村の連中が、あんたの話をするとき、ちょっとだけ背筋が伸びるんだ。……うちに入る気は」
    「ない」
    「即答か」
    「俺には探し物がある。組織の命令とは並べられない」

     黒き焔術士。叔父の庵。その二つを、シャズは言わなかった。レンヴァも聞かなかった。代わりに、地図を一枚、机の上で回して寄越した。

    「なら取引だ。カイナの身柄、うちで匿うには帝国の目が近すぎる。西の山向こうの本隊へ移す──その護衛に、あんたほどの適任はいない。報酬は情報だ。あんたの探し物、名前をくれれば、うちの網に掛かったものを流す」 「……庵を、探してる。イアンフジュという男が遺した」

     レンヴァの眉が、わずかに動いた。
    「イアンフジュ。……その名前、どこかで」
    「知ってるのか」
    「思い出したら流すよ。取引成立だ」

    「……あの」
     それまで壁際で黙っていたカイナが、口を開いた。
    「わたしからも、ひとつ、名前をいい?」
     レンヴァが眉を上げた。カイナは続けた。
    「トリャク、っていう子。歳は、わたしより下。二年前、東の選別所で焔を灯して、どこかへ回された。……あなたたちの網に、掛かってない?」
    レンヴァは机に肘をつき、値踏みするようにカイナを見た。
    「掛けられなくはない。ただし、ただじゃない。選別所から回された焔持ちの行方を洗うのは、うちでも一番きな臭い仕事の口でね。焦げてるところに、手を突っ込むことになる。……見返りに、あんたは何を出せる?」
    カイナが答えるより先に、シャズが言った。
    「その話は、後だ」
    自分でも、思ったより硬い声が出た。
    「カイナは、まず本隊へ移して、安全にする。捜し物は、それからでいい」  短い沈黙。カイナが、シャズを見た。怒りではない。もっと静かな、確かめるような目だった。
    「……わたしの捜し物だよ。後にするかどうかも、わたしが決めることじゃないの?」
    シャズは、答えを持っていなかった。守るために言ったのだ、と自分では分かっている。だが、口から出た言葉を、カイナの側から聞き返されると──それは、相手の手から何かを取り上げて「あなたのため」と言う大義名分で縛るだけの鎖のような気がした。あの徴収官と同じ。

     レンヴァが、二人を交互に見て、面白がるでもなく、静かに言った。
    「……そこは、二人で決めな」

     少し気まずくなった空気が流れたとき、隠れ処の奥から、断続的な爆発音と怒号が聞こえた。シャズが目を向けると、レンヴァは額を押さえた。

    「ドッド! 客がいるときは爆発を控えろと──」
    「違うんスよ支部長ォ! 今のは爆発じゃなくて急速な燃焼で──うわっ、でっか!? 狼!? 白い!? 姐さんこれ乗れるんスか!? 空とか飛びます!?」

     煤だらけの若い男が転がり出てきて、トーサの周りを回り始めた。トーサは石像のように無を貫いた。この狼の「無」は、好意の裏返しではない、本物の無である。

     後に分かることだが、ドッドは支部の「何でも屋」だった。半分は天才で、半分は災害だった。廃坑の換気を三倍にした送風機と、廃坑の一角を三日燃やした「改良かまど」は、同じ月の発明である。彼の作業場の壁には、レンヴァの筆跡で「爆発は屋外」「屋外でも事前申告」「申告しても駄目なものは駄目」と三段階の張り紙がしてあった。

    「飛ばない」とシャズは言った。
    「じゃあ火は吹きます!?」
    「吹かない」
    「進化の余地アリっスね!」
    「進化はしない」

     カイナが、また笑っていた。
     シャズは気づいていた。この娘は、笑うたびに少しずつ、檻の中の呼吸を忘れていく。だからこの発明家の馬鹿話も、悪くない、と思った。

     本隊への出立は五日後と決まった。

     二日目の朝、シャズが廃坑の外の空き地で日課の型を振っていると、いつの間にか見物人が並んでいた。支部の若い衆だ。歳はシャズと同じか、少し上。手には棒、鍬の柄、使い古した槍の折れたやつ。代表格らしい猪首の青年が、意を決したように進み出た。

    「あんた、峡谷で、誰も殺さなかったって本当か」
    「いつもじゃない」
    「……教えてくれ。その、殺さないで止めるやつ」

     シャズは棍を止め、青年たちの顔を順に見た。復讐の顔がいくつかあった。当然だ。ここに集まる者は、みな何かを焼かれてここにいる。だが、それだけではない顔も混じっていた。

    「なんで殺さない技がいい。楽なのは、殺すほうだ」
    「……俺の兄貴は」
    猪首の青年が、棒を握り直した。
    「徴発で連れてかれて、帝国軍の歩兵にされた。今もどこかの隊にいる。……戦場で会っちまったとき、俺は、兄貴を殺したくない」

     沈黙が落ちた。誰も笑わなかった。似た事情が、それぞれの手の中にあるのだった。

    「──いいだろう」
    シャズは棍を構え直した。
    「なら最初に憶えることは一つだ。殺さない技は、殺す技より強くなきゃ成立しない。中途半端な情けは、相手も自分も殺す。……かかってこい。五人まとめてでいい」

     三十秒後、空き地には五人分のうめき声が転がっていた。骨は一本も折れていない。ただ全員、自分がどう転がされたのか分かっていなかった。

    「今のが『崩し』だ。人間は、重心を失えば力が出ない。力が出なければ、殺す必要がなくなる。……立て。百回転がれば、体が憶える」

     稽古は、日課になった。日を追うごとに、見物人は増えていった。やがて、レンヴァまで腕組みで見に来るようになった。

     稽古のあとは、決まって飯だった。
     汗をかいた若い衆と、地の底の食卓を囲む。汁と、麦を炒った粥。誰かが必ず、その日の稽古で一番みっともなく転んだ奴の真似をして、笑いが起きる。真似される側も笑う。転ぶことが恥でない場所を、彼らは自分たちで作っていた。恥でないから、何度でも転べる。何度でも転べるから、伸びる。シャズは、この食卓の笑いが、実は稽古そのものより効いていることを、黙って見ていた。

     猪首の青年は、ガレンという名だった。徴発された兄の代わりに畑と母を背負い、それも焼かれてここに流れ着いた、支部の若手のまとめ役。呑み込みは遅いが、一度呑み込んだものを絶対に忘れない型の男で、シャズはこの型の男が伸びることを、経験で知っていた。

     廃坑の支部の一日は、鐘の代わりの、ドッドの発明で始まった。  朝、坑道の奥から「ボンッ」と気の抜けた爆発音がすると、それが起床の合図だった。「今日のは何を作ってたんだ」と誰かが訊き、「換気扇の改良ッス!」とドッドが答え、「昨日もそう言ってたろ」と誰かが返す。この掛け合いも、日課の一部だった。

     昼は各々の持ち場で乾いた麦餅を齧り、夕餉にまた炊事場へ集まる。工作員たちは交代で見張りに立ち、「網」との受け渡しに出、帰ってくると、稽古場でシャズに棍を習った。──廃坑の中は、外の季節を忘れさせる。だが、忘れさせないための工夫が、いくつもあった。炊事場の入口には、外の花が一輪、いつも活けてある。誰が始めたのでもなく、外に出た者が、一輪持って帰る決まりになっていた。「花の種類で、季節が分かる。牢屋みたいな暮らしでも、外がまだ回ってるって、思い出せるだろ」とガレンが言った。

     この暮らしの手触りが、シャズには珍しかった。
     流浪の八年、シャズの暮らしに「集団の日課」はなかった。叔父とトーサと、その日の危険だけを数えて生きてきた。ここには、危険を分け合う仲間がいて、当番があり、掛け合いがあり、一輪の花があった。悪くない、と思う一方で、シャズはどこかで身構えてもいた。集団の温かさは、失うときの痛みも、集団の大きさになる。それを、八年前の夜に、一度、味わっている。

     滞在も半ばのある夜、レンヴァはシャズを酒庫代わりの坑道に呼び、木箱を椅子に、薄い酒を注いだ。

    「訊いておきたくてね。あんた、ウラ=ガルダをどう見てる。……正直でいいよ」
    「……点だ」
    シャズは正直に言った。
    「勇敢な点が、大陸に散らばってる。だが点だ。帝国は面で来る。徴税で、街道で、学校で、焔の登録簿で。点がいくら焔狩りの隊を潰しても、面は痛まない」
    「手厳しいね。その通りだよ」
    レンヴァは苦笑して、酒を舐めた。
    「あたしらが潰した護送隊の数より、帝国が今年新しく引いた街道の里数のほうが多い。……けどね、シャズ。あたしは点でいいと思ってる」
    「なぜ」
    「点はね、目印になるんだ。真っ暗な面の上の、点。焼かれた村の生き残りが、絶望しきる一歩手前で思い出す──そういえば、どこかに、まだ抗ってる連中がいたっけな、って。その『そういえば』が、人を一晩生き延びさせる。一晩生き延びた人間が、次の点になる。……あたしらは勝つための組織じゃないよ。忘れさせないための組織さ。勝つのは、たぶん、あたしらの葬式より後だ」

    「……あんたの、その顔の傷」
    シャズは、珍しく自分から訊いた。
    「焔章持ちか」
    「よく分かるね」
    レンヴァは、左の眉から頬へ走る傷を、指でなぞった。
    「二十年前、あたしの村が焼かれた。焼いたのは焔章持ち。あたしはその焔から、妹を庇って、この顔になった。……庇いきれなかったがね」
    「……すまない」
    「謝るな。もう昔だ。──ただ、あの夜、あたしは学んだのさ。焔には、焔でしか勝てないと思ってた。違った。あたしの妹を最後まで憶えてるのは、焔じゃない。あたしだ。あたしが憶えてる限り、あの子を焼いた焔は、勝ってない。……だから、あたしはウラ=ガルダを、そういう組織にしたい。焔で勝つ組織じゃなく、憶えて負けない組織に」

     忘れさせないための、組織。
     シャズは、酒の面に映る灯りを見ていた。老婆の最期の願いと、カイナの祖母と、この傷の支部長の戦略が、全部、同じ一つの方角を向いていた。この大陸で「憶えていること」は、慰めではない。武器なのだ。帝国が七十年かけて磨いてきた「忘れさせる」という武器に対する、たった一つの、対の武器。

    「……取引に、追加を頼みたい」
    気づけば、言っていた。
    「稽古の続きだ。俺が発った後も、あの連中が続けられるように、型を紙に起こしていく。読み書きのできる奴に、清書させてくれ」
    「──おや」
    レンヴァは、目を細めた。
    「点が、線になる話だ。乗った」

     その間、カイナは炊事場にいた。
     最初は皿洗いだけのつもりだったらしいが、数日のうちに炊事場の主導権を握っていた。廃坑の飯は「煮た何か」と呼ばれる灰色の汁物が伝統だったが、カイナは香草の使い方を知っていた。霧の村の保存食の知恵は、隠れ処の兵糧と相性がよかった。

     カイナの炊事改革は、段階を踏んだ。
     はじめの日、彼女は伝統の「煮た何か」を一口食べ、犯人を特定した。全部の材料を、最初から全部、一緒に煮ている。次の日には、投入の順番を変えただけで、灰色の汁に味の層が生まれた。三日目、廃坑の奥の湿った横穴が茸の群生地であることを若い衆から聞き出し、汁は茶色くなった。四日目には「煮た何か」は「カイナ汁」と改名され、五日目、炊事当番の強面が彼女に弟子入りした。
    「姐さん、俺、故郷の母ちゃんの汁の味、説明するんで……再現って、できますか」
    「できるよ。一緒にやろう。味はね、説明できた時点で、半分帰ってきてるの」

     そして、歌った。
     炊事の合間に、鼻歌のような小さな声で。命令されてでもなく、試験されてでもなく、打たれる心配もなく。灰色の汁物が湯気を立てる横で歌われるその歌は、収容所で「兵器の試験」をされた歌と同じ旋律のはずなのに、まるで別の生き物だった。

     配膳の列に並ぶ強面の男たちが、その歌の間だけ、妙に行儀がよくなった。ある古参の工作員は汁を受け取りながら急に涙ぐみ、「……ちがう、目に煙が」と誰も訊いていない弁明をした。ドッドは五日間で三回、歌に聞き惚れて半田ごてで指を焼いた。

    「姐さんの歌、ヤバいっスよ」
    と、ドッドは焼けた指を振りながら真顔で言った。
    「俺、死んだ婆ちゃんの味噌汁の味、思い出しました。……なんでか分かんないけど、俺、婆ちゃんに『ありがとう』って言ってなかったなあって」
    「言えばいいよ、今から」
    カイナは笑った。
    「聞こえてるよ、きっと。二度目の死に方さえしなければ、人はずっといるんだから」
    「二度目の死に方?」
    「憶えててもらえなくなること」

     ドッドは、しばらく黙って汁を見ていた。それから、
    「俺、婆ちゃんの味噌汁再現器つくるッス」
    と、誰にも頼まれていない開発目標を立てた。方向性はともかく、それはたぶん、正しい供養の一種だった。

     ある日の午後、レンヴァはシャズに「見学」を持ちかけた。
    「うちの若いのが、今夜、届け物をする。峠向こうの村まで、薬と、手紙と、人ひとり。──あんた、後ろから見ててくれないか。手は出さなくていい。目だけ貸してくれ」

     届け物の「人ひとり」は、検分の順番が村に回ってくる前に、家を捨てて逃げてきた石工の男だった。峠向こうの「網」へ渡し、そこから先は<ウラ=ガルダ>が繋ぐ。運び役はガレンと、もう一人の若い工作員。シャズとトーサは、二百歩後ろの闇を歩いた。

     峠道を使わず、猟師道を使う。灯りは点けない。二人の運び役は前後に分かれ、間に職人の男を挟んで、決まった間隔を保つ。分岐のたび、先頭のガレンが小石を三つ、決まった形に積む──後続への「異常なし」の印だ。異常があれば二つ。撤退なら一つ。喋らない。煙草も吸わない。ただ歩く。半刻歩いて、四半刻聞き耳を立て、また半刻歩く。

     峠の上りで、職人の男の足が止まった。疲れではない。振り返った男の顔は、泣きそうだった。
    「……あんたら、なんでここまでしてくれる。俺は銭も持ってない。組織に入る度胸もない。ただの、逃げてる石工だ」
     ガレンは、少し考えて、自分の言葉で答えた。
    「……自分ができなかった暮らしを、誰かがしてくれているだけでも、俺らは嬉しいんだ。普通に暮らすってこと、誰かが誰かに必要とされるってこと、それだけで、充分戦っているんだ」

     夜明け前、届け物は無事に済んだ。帰り道、ガレンがシャズの隣に並んで、ぼそりと訊いた。
    「……どうだった。俺あら、あんたの目から見て」
    「気配を聞くことが、うまい。棍より、よほど」
    「よせやい」
    ガレンは照れて、それから真顔になった。
    「けどな、これが月に十度ある。十度のうち九度は、今夜みたいに何も起きない。何も起きないために、全部やってる。……戦より、こっちが本業なんだ、うちは」

     忘れさせないための組織、とレンヴァは言った。その意味を、シャズはこの夜、言葉ではなく足の裏で覚えた。

     滞在の終わりが近いある朝、カイナは水汲みに起き、そして、見た。

     薄明の空き地で、シャズが独り、型を振っていた。
     稽古の時間の、誰かに教えるための棍ではなかった。それは、もっと静かで、もっと──祈りに近いものだった。棍は風を切らない。風を、撫でていた。突きは突きの形をして、突く前に止まり、払いは払いの弧を描いて、何も払わずに流れる。一つ一つの動きの終わりが、次の動きの始まりに、継ぎ目なく注ぎ込まれていく。

     息の音さえ、聞こえない。
     朝靄が動きの後を追い、ゆっくりと渦を巻いた。傍らではトーサが伏せ、金色の目だけで主の軌跡を追っている。少年と、狼と、靄と、明けていく空。カイナは水桶を提げたまま、長いこと、動けなかった。

     型が終わり、シャズが棍を納めて、ようやく気づいた。

    「……いつから」
    「え、えっと、途中から。ごめん、勝手に。……ねえ、いまの、なんていう型?」
    「名前はない。叔父の型だ。毎朝やれ、とだけ言われてる。……何のための型かは、教わる前に、死なれた」
    「そっか。……宿題」
    「ああ。宿題だ」

     名前のない型。何のためか分からない型。それでも八年、一日も欠かさず振ってきた型。カイナは思った──名前がなくても、これは消えない。毎朝この人が振るかぎり、イアンフジュという人が、シャズの傍らに、毎朝立っている。

    「綺麗だった」
    と、カイナは言った。それ以上うまい言葉が見つからなかった。シャズは少し眩しそうな顔をして、「水、持つ」とだけ言い、桶を取り上げて歩き出した。耳が、朝焼けの色をしていた。

     その日の昼、炊事場の裏で、カイナは一人の少年を見つけた。
     リッケという名の、支部で一番年下の焔持ちだった。十二。膝を抱えて座り、掌の上に、焔を出していた──蝋燭ほどの、小さな小さな、橙色の灯を。

    「わ、綺麗」
    「……綺麗なだけだよ」
    少年は、灯を握り潰すように消した。
    「敵も焼けない。錠も溶かせない。夜にちょっと明るくて、ちょっとあったかいだけ。支部のみんなは言わないけどさ、知ってるんだ。『灯りにもならん焔』って、陰で言われてるの。焔章持ちの貴族は山だって焼くのに、なんで僕のは、こんな」

     カイナは隣に座り、少年の掌を、両手でそっと開かせた。

    「もう一回、見せて」

     灯が、おずおずと戻ってくる。カイナはそれに手をかざした。冬の陽だまりの温度が、掌に触れた。

    「……ねえ、リッケ。この焔が灯ったとき、あなた、何を願ってた?」 「…………妹が」
    少年の声が、細くなった。
    「妹が、熱を出して。真冬で、薪が切れてて、火打ち石が湿ってて。手ぇ擦っても擦っても、あの子の足が冷たくて。……あったかくしてやりたい、って。それだけ。そしたら、灯った。……妹はそれでも、朝に」

     カイナは、何も言わずに、少年の掌ごと灯を包んだ。

     通りかかったシャズが、足を止めたのはそのときだった。シャズは少年の前に屈み、灯を──失礼なほどまじまじと──眺めてから、言った。

    「リッケ。夜襲のとき、負傷者を運ぶ係は誰だ」
    「え……えっと、決まってない、けど」
    「なら、おまえだ。冬山で、火が焚けない夜、凍えていく怪我人の隣で、音も煙も出さずに朝まで温め続けられる焔──この支部に、おまえのほかに誰が持ってる」
    「……ぼ、僕の、これが……?」
    「山を焼く焔は、隠れ処では一晩も使えない。おまえのは、一晩中使える。焔の値打ちは火力じゃない。誰の、どの夜に、要るかだ」

     少年は、掌の灯と、シャズの顔を、何度も見比べた。それから、灯が──ほんの少しだけ、確かに、大きくなった。願いが、認められた分だけ。

     五日目──発つ前の最後の午後、ガレンが、仕上げの立ち合いを願い出た。
    「一本でいい。本気の、あんたの一本を受けたい。受けてみないと、俺らがこれから何年かけて何処へ向かうのか、距離が分からねえ」
     いい望み方だった。シャズは頷き、木棍を構えた。
     立ち合いは、三十を数える間だけ続いた。ガレンは教わった崩しを二度仕掛け、二度とも見事に空を切らされ、三十の声と同時に、足払い一つで空を見ていた。
     なぜ、これほど差がつくのか。見ていた若い衆の誰も、シャズが特別に速いとも、力が強いとも思わなかった。事実、そうではない。速さも膂力(りょりょく)も、猪首のガレンのほうが上だ。

     差は、別のところにあった。刃を持つ者は、相手の急所をひとつ、断てばいい。だが刃を持たぬシャズは、相手の急所をひとつ残らず把握し、そのすべてを、断たずに制さねばならない。殺すより、殺さぬほうが、ずっと難しい。その難しい技を、シャズは八年、達人だった叔父イアンフジュに仕込まれ、来る日も来る日も、生き死にの境で研いできた。──殺す技を磨いた者と、殺さぬ技を磨いた者。同じ歳月をかけても、後者のほうが、見なければならないものが、何倍もあった。強さとは、たいてい、そういう地味な差の、途方もない堆積だった。

     倒れたガレンは、笑っていた。
    「──とんでもねえ遠さだ」
    大の字のまま、青年は言った。
    「けど、見えた。道の先にあんたが立ってるなら、道はあるってことだ。……行くよ、俺らは。何年かかっても」

     周りの若い衆が、冷やかし半分、本気半分の歓声を上げた。シャズは手を差し出してガレンを引き起こしながら、胸の奥の、慣れない場所が温かくなるのを感じていた。教えたものが根を張る手応え。イアンフジュは、毎日これを味わっていたのだろうか。それとも、これに毎日、身を切られていたのだろうか──手放す日が来ると、知っていて。
     
     夜、シャズは坑道の入口で夜気に当たっていた。カイナが隣に来て、並んで、灯りの漏れる隠れ処を見た。稽古の若い衆が誰かの失敗話で笑っている。ドッドの作業場から不穏な異音がして、レンヴァの怒鳴り声が続く。

    「……いいところだね、ここ」
    「ああ」
    「明日出るの、ちょっとだけ、寂しい」

     寝床へ戻る途中、坑道の角で、リッケが待っていた。少年は、もじもじと掌を差し出した。灯が、点っていた。前より、ふた回り大きい。

    「あ、あの。餞別、とかは、僕、何も持ってなくて。……だから、その、これを覚えといてほしくて。この灯、あんたが認めてくれてから、大きくなったんです。焔って、認められると育つんだ。だから──だから、旅の先で、寒い夜があったら、思い出してください。東の廃坑に、あんたたちのおかげで大きくなった灯が一個ある、って。そしたらちょっとは、あったかい……といいな、って」

     シャズは、屈んで、その灯に掌をかざした。冬のはじまりの温度が、確かに、前より深くなっていた。

    「……ああ。冷える夜は、必ず思い出す。──リッケ。おまえの焔は、三里先まで届く笛より、遠くまで届くぞ」

     少年は、意味を測りかねて首を傾げ、それから、灯より明るい顔で笑った。

     似合わないほど柔らかい数日だった、とシャズは思った。
     そして知っていた。似合わないものは、長く続かない。それを、知りすぎるほど知っていた。

     
     
    会社に行けなくなったサラリーマン(39) ▶︎昔書いたファンタジー小説を更新 ▶︎ 心療内科に行ってきた話 ▶︎ 自分と向き合うnote更新中

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