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恋審 3話「ダブルフォルト」

    ○登場人物
    石川ジュン(26)
      ゲームメーカーの営業。中肉中背で一見、優柔不断の優男。プレースタイルは常にベットのもたれつつ、隙あれば次の展開へと進めたがるアグレッシブベースライナー。

    村田サエ(25)
      ジュンの大学時代の後輩(同じゼミ)。卒業後数年ぶりに、ゼミの飲み会でジュンと再会。3回目のデートで家に誘われて、ついてくる。見た目は、ガードが硬そうでしっかりラインを引いてくる。プレースタイルは相手の出方を見て、最適の打ち返しで逃げるカウンターパンチャー。

    チェアアンパイア(名前なし)
     健全な家デートを進行管理するテニスの主審。テニスの試合同様、何かに腰掛けている。全く表情を変えない、冷徹な男

    実況:佐伯ゆうすけ(23)
      エスカレータ式の学校卒業。裕福な家庭に育ち、そこまで恋愛経験がない新米アナウンサー。テニスの試合らしく、絶叫するのではなく、落ち着いたトーンで喋る。

    解説:錦堀 ケイン(35)
      かつてウィンブルドンを制し「エア・ケイン」の愛称で世界中に知られるテニスプレイヤー。家デートの全てを知り尽くし、週刊誌を騒がせ続けてきた男。プレイスタイルはもちろんオールラウンダー、あらゆるアプローチで家デートにおいてクロージング失敗しない男。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    ○ジュンの家(玄関)
    都内の1Kの部屋。広くもないし、狭くもない。
    一応、今日のためにそれなりに片付けられてある。
    がちゃり、と鍵が開く音。

    ジュン「上がって。これ、スリッパ」

    サエ「おじゃましまーす。……わ、綺麗にしてますね」

    ジュン「自由にくつろいで。何かのむ?」

    サエ「あ、すみません。いただきます」
    サエ、部屋のローテーブル付近、床のクッションにちょこんと腰掛ける。
    すると、もう一人の男がどこからともなく部屋に入ってくる。チェアアンパイアだ。
    チェアアンパイアは、テニスの試合の主審よろしく、部屋のシングルベッドの上に当たり前のように腰掛ける。
    そして、全く表情を変えない冷徹な顔で、静かに一言。

    チェアアンパイア「ウォームアップ・イズ・オーバー(練習終了)」
    チェアアンパイア「ジュン・トゥ・サーブ、プレイ(ジュンのサーブで試合開始)」

    試合開始を告げるコールが響く。

    ○実況室
    スタジオのような空間。ヘッドセットをつけた佐伯と錦堀。

    佐伯「さあ、始まりました『全日本・宅飲みオープン』。緊張の一戦、まずはジュン・イシカワのサービスゲームからスタートします。解説には元世界ランク4位、家デートのグランドスラマーこと錦堀ケインさんをお迎えしています。錦堀さん、よろしくお願いします」

    錦堀「よろしくお願いします」

    佐伯「錦堀さん、ズバリこの試合のポイントはどのようにお考えでしょうか?」

    錦堀「ええ。ジュンとしては、3回目のデートでなんとか自宅に連れてくることには成功した。ですが、この状況はよく男が勘違いしやすく、我々の世界では『危険なスコア』と呼ばれているんです」

    佐伯「と、いうと?」

    錦堀「家に連れてきた時点で勝ち確定というのは、素人が陥りがちな最大の幻想です。ここからの試合の運び方をたった一歩ミスってしまうだけで、ゲームを一気にひっくりされて、ただ始発を待つだけの『フレンドシップ・マッチ(虚しい雑談)』に強制移行させられる場合があります。ここまで展開通りだからこそ、最も慎重になるべきですね。
    つまり、家デートはウィンブルドンのセンターコートで試合をするくらい、丁寧かつ大胆に挑むべきなんです」

    佐伯「怒られますよ? さあ、ジュン・イシカワのファーストサーブです」

    ○ジュンの部屋
    ジュン、冷蔵庫から缶の酎ハイを2つ持って戻ってくる。
    そして、しれっとサエの隣、かなり距離の近い場所に腰を下ろす。

    ジュン「はい、これ」

    サエ「ありがとうございます。……なんか、意外です」

    ジュン「ん? 何が?」

    サエ「先輩が、ちゃんと社会人して、一人暮らしの部屋もちゃんと片付けてるんだなって。大学の時はもっと、こう……ねえ?」

    ジュン「なんだよそれ。俺社会人、4年目だよ?」
    ちょっと微笑み合う二人。いい雰囲気。

    サエが手元の缶酎ハイに指をかけ、開けようとする。

    サエ「じゃあ、開けますね」

    「プシュッ!!」
    小気味いい音と同時に、缶の口から泡立った酎ハイが勢いよく飛び散る。
    それはサエの薄手のニットの胸元と袖口に、容赦なくかかった。

    サエ「あ、冷たっ! すみません! やっちゃった……!」

    ジュン「ぜんぜん、大丈夫、大丈夫! 待って、今拭くから!」

    ジュン、素早い動きで近くにあった新品のタオルを掴み、サエの服をトントンと優しく拭いてあげる。距離がさらに縮まる。
    チェアアンパイア、無表情に右手を挙げる。
    チェアアンパイア「15ー0(フィフティーン・ラブ)」

    ○実況席
    錦堀「いやあ、いきなり強烈なサービスエースを決めてきましたね、ジュン・イシカワ。素晴らしい立ち上がりです。実に自然な、タオルを介したファースト・ボディタッチまで持っていきましたよ」

    佐伯「え、錦堀さん、でもこれって今のは偶然の流れでは?」

    錦堀「(フッと鼻で笑って)佐伯アナ、あなたはまだ若い。冷蔵庫に数時間前から保管されていた缶酎ハイが、これほど都合のいいタイミングで、ピンポイントに弾けると思いますか? 熟練のプレイヤーはね、あらかじめ缶を冷蔵庫に入れる前、あるいは取り出す瞬間に、指の腹で微かに振動を与えておくものなんですよ。よく見てください。ジュン・イシカワの酎ハイは、全く弾けてないでしょう?」

    佐伯「ええっ? わざとですか? 恐ろしい男だ、ジュン・イシカワ!」

    錦堀「ええ。彼は最初からダラダラと長いラリー(世間話)をする気はないみたいですね。一気にネットに出て、ボレーで仕留める気です」

    ○ジュンの部屋
    サエ、最初は拭かれるがままになっていたが、徐々に冷静さを取り戻す。
    ジュンの手元をそっと押さえる。

    サエ「あ、先輩、もう大丈夫ですよぉ。……なんか、恥ずかしいです(笑)」

    ジュン「え? でもまだちょっと濡れてるじゃん。ほら、ここも。大学時代もサエって、こういうおっちょこちょいなところあったよね」

    ジュン、さらに拭こうと手を伸ばすが、サエは一歩も引かない笑顔で、しっかりとタオルの端を掴み取る。

    サエ「またそうやって子供扱いする。……ちょ、そこは自分で拭きますってば。はい、タオル貸してください」

    サエ、ジュンの手からタオルを半ば強引に奪い取る。

    ジュン「あ……ごめん」
    チェアアンパイア、無表情にコール。
    チェアアンパイア「15ー15(フィフティーン・オール)」

    ○実況席
    錦堀「うん。ちょっと、ここぞとばかりに触りすぎましたね。オーバーミスの典型です」

    佐伯「流石に同じコースへのサービス連発は、サエ選手に完全に読まれましたね。見事なリターン・エースです」

    錦堀「基本、ジュン・イシカワは攻めの姿勢を崩したくないはず。ただ、サエさんはカウンターパンチャーですからね。相手の欲望のベクトルの逆を突くのが非常に上手い。ここからのラリーの応酬の展開になりますね」

    ○ジュンの部屋
    服を拭き終えたサエ。気を取り直したように、自分の酎ハイを一口飲む。

    サエ「うん、美味しい。……でも、先輩の部屋って本当に物が少ないんですね。テレビと、テーブルと、ベッド。……あ、あの棚にあるのって、ゲームですか?」
    ジュン、自分の得意分野に話が及び、少し身を乗り出す。

    ジュン「あ、そうそう! うちの会社の新作のサンプル。まだ一般発売前のやつんだよね。よかったら、一緒にやらない?」

    サエ「え、やりたいです! 私、ゲームそこまで詳しくないですけど、先輩が教えてくれるなら」

    ジュン「よし、じゃあ起動するわ。あ、テレビの画面、ここからだとちょっと見にくいからさ。こっち座りなよ」

    ジュン、自分がいつも座っているシングルベッドの縁をポンポンと叩く。
    「ベッドに並んで座る」という、明確なステージ移行(ネットアプローチ)の構え。
    サエ、テレビ画面とベッドを交互に見る。
    すると、その場で綺麗に正座をし直すと、ローテーブルの下に自分の足をカチッと格納した。

    サエ「あ、大丈夫です! 私、ここからでも全然見えますし、床の方が落ち着くんで。クッション、もう一個借りてもいいですか?」
    ガッチリと床に根を張り、絶対にベッドには上がらない姿勢を示すサエ。
    チェアアンパイア「15ー30(フィフティーン・サーティ)」

    ○実況席
    佐伯「サエ、完璧なディフェンス! ジュンの『ベッドへの誘い』という強烈なネットプレーを、ロブショットで完璧にシャットアウトしました。」

    錦堀「いやあ、素晴らしいですねサエさん。フットワークが良い。コートの奥深くにしっかり腰を下ろしました。ジュンとしては、ゲームを口実にネット際(ベッド)までサエさんを引きずり込みたかったわけですが、アプローチショットの球威が足りませんでしたね。下心が完全にネットに引っかかってます」

    佐伯「下心がネットに? しかし錦堀さん、ジュンとしてはここで引くわけにはいきませんよね? なんと言っても彼のプレースタイルはアグレッシブ・ベースライナーです」

    錦堀「ええ。ですが、ここで焦って強引なスマッシュを打ちにいくと、サエさんの強力なパッシングショット(拒絶)を喰らって、ゲーム自体を失う危険性があります。ここは一度、ラリーを落ち着かせる大人の余裕を見せたいところです」

    ○ジュンの部屋
    ジュン、ベッドに誘うのを断られ、一瞬だけ表情を強張らせるが、営業スマイルで取り繕う。

    ジュン「あ、そう? 床の方が落ち着くか。じゃあクッションこれ使って」
    ジュン、自分の背後にあった大きめのクッションをサエに渡す。

    サエ「ありがとうございます。……あ、これ、すっごいフカフカ」

    サエ、クッションを抱きしめるようにして座る。ガードがさらに強固になる。
    ジュンはコントローラーをサエに手渡し、自分はベッドの縁に腰掛けたまま、斜め上からサエを見下ろす形になる。

    ジュン「じゃあ、この格闘ゲームやろっか。操作は簡単だから。攻撃ボタンを連打すればコンボ繋がるからさ」

    サエ「はーい。あ、始まった。えい、えい!」
    画面の中のキャラクターが激しく戦い始める。
    ジュンはサエの画面を覗き込むようにして、少しずつ上体を下に傾けていく。

    ジュン「あ、上手い上手い。あ、そこ、ガードガード!」

    サエ「えっ、どっちですか!? むりむり、負けちゃう!」

    ジュン「ほら、ここを押すの」

    ジュン、サエの背後から包み込むような体勢になり、サエの手元にあるコントローラーに自分の手を重ねようとする。
    いわゆる「後ろから手取り足取り教える」という、古典的かつ強力なセットプレー。
    サエ、ジュンの手が触れる寸前、ゲーム内のキャラクターがKOされた瞬間に合わせて、立ち上がらんばかりの勢いで両手を上に突き上げた。

    サエ「あーーー 負けたあーー」
    ジュンの手は、空を切る。

    ジュン「あ、あれ……?」
    焦るジュン、ここで何をトチ狂ったか、無理やりサエの肩を掴み、背後のシングルベッドへと力任せに押し倒す。

    ジュン「サ、サエ……!」
    サエ、完全にホールドされ、ベッドに背中がついた瞬間、真顔で人差し指をスッと天高く突き上げた。

    サエ「チャレンジ(ビデオチェック)」
    ピピッ、と電子音が鳴り響く。
    部屋の照明が突然暗くなり、壁のテレビ画面に「ホークアイ(弾道ひとつをCGで再現するシステム)」の映像が映し出される。

    (パチパチパチパチパチ……)
    静まり返った部屋に、スタジアムで観客がビデオチェックの行方を見守りながら叩く、あの独特な拍手の音が鳴り響く。
    画面上、押し倒されたサエの背中と、ベッドのシーツの境界線が超高精度CGでズームアップされる。
    サエの背中は、シーツの「イン(接触)」のラインに触れる直前、ジュンが抱きつかせたフカフカのクッションによって、ミリ単位で浮いていた。

    画面に大きく『OUT(アウト)』の文字が表示される。
    サエ、押し倒された状態のまま、満面の笑みで首を傾げる。

    サエ「先輩、今の絶対ハンデ足りないですよぉ! 私が初心者だって知ってて、わざと難しいコンボさせましたね? もう、いじわるだなあ」

    チェアアンパイア「15ー40(フィフティーン・フォーティ)」

    ○実況席
    佐伯「うーん。 ジュン、決死のタッチプレーからの強硬手段! しかしサエ選手、ここでまさかのチャレンジシステムを行使! わずかに、わずかにベッドのラインを割っていました! アウトです!」

    錦堀「(深くため息をついて)やってしまいましたね、ジュン。今のバックハンド・ストローク……というか、ただの暴挙は完全に読まれていました。サエさんはね、ゲームの勝敗なんてどうでもいいんですよ。ジュンの手元が動いた瞬間、液晶画面の反射でその軌道を完全に予測していた。だからこそ、KOの瞬間にあらかじめクッションを背中に挟み、合法的にジュンの接触可能エリアから離脱したんです。実に見事なチェックバック。会場の拍手も納得の判定です」

    佐伯「なんと、 画面の反射でそこまで読んでいたと? これでスコアは15-40。サエの『ブレイクポイント(主導権奪取の危機)』です。ジュン、いきなり自身のサービスゲームを落とす大ピンチを迎えました!」

    錦堀「ここでゲームを落とすと、この後の宅飲みは完全にサエさんのペースになります。つまり、健全な『ただの後輩の悩み相談室』に変貌し、ジュンは一晩中、彼女の愚痴を聞くだけの壁になるでしょう。頑張りどころです、ジュン・イシカワ」

    ○ジュンの部屋
    ジュン、気まずそうにサエから離れ、完全に空振った手を頭の後ろに持っていき、髪をかく。冷や汗が流れる。
    (やばい、全然中に入り込めない……。サエのガード、大学の時より硬くなってないか?)
    サエは平然と起き上がり、コントローラーをテーブルに置き、酎ハイを上品に喉に流し込んでいる。その姿には微塵の隙もない。

    ジュン「あ、ごめんごめん(笑)。じゃあ、次はサエが勝てるように設定変えるよ」

    サエ「うーん、ゲームもいいんですけど、せっかく久しぶりに先輩とゆっくり話せるんだから、色々お話ししたいです」

    ジュン「お、おぅ。そうだね。何話そっか」

    サエ「先輩、今、付き合ってる人とかいないんですか? ゼミのグループLINEでも、先輩が今何してるのかみんな気にしてて」

    サエからの、直球の質問。
    ジュンはこれを「チャンスボール」と捉えた。恋愛トークへの移行は、アタッカーにとって最大の好機である。

    ジュン「俺? 俺は全然いないよ。ここ1年くらい、仕事が忙しくてさ。営業だし、帰るのも遅いから出会いもなくて。……サエは? サエこそ、モテるでしょ。彼氏とかいないの?」
    相手の陣地にボールを強く打ち返す。
    サエ、グラスを回しながら、少し寂しそうな、それでいてどこか含みのある溜息をつく。

    サエ「私ですか? 私も、今はいないですよ。……なんか、社会人になると、学生の時みたいに『ただ好きだから』って理由だけで付き合うの、難しくなりません?」

    ジュン「あー、わかる。将来のこととか、色々考えちゃうもんな」

    サエ「そうなんですよ。あ、そういえば! ゼミの、あのガチガチの真面目だった木村先輩、覚えてます?」

    ジュン「え? ああ、木村? 覚えてるけど、あいつがどうしたの?」

    サエ「木村先輩、先月結婚したんですよ。しかも、お相手は社内恋愛で、付き合って半年でスピード婚。なんか、ちゃんとお互いの将来のビジョンが一致したから結婚を決めた、みたいなお堅いメッセージが回ってきて」

    ジュン「へ、へえ……あの木村がね。早いなあ」
    サエ、ここで上目遣いで、まっすぐにジュンの目を見つめる。

    サエ「先輩は、どうなんですか? 結婚願望とか。あと、もし次に誰かと付き合うとしたら、やっぱりそういう『将来の約束』みたいなものが前提になるんですか?」
    ジュンの脳内に、強烈なボールを叩くラケットの音が鳴り響く。

    「結婚願望」「将来の約束」「前提」。26歳、独身、1Kに住む男にとって、それはウィンブルドンの重い芝のように足元を狂わせる、超重量級のボールだった。
    優柔不断なジュンの本領が、ここで裏目に出る。

    ジュン「え? あ、いや……まあ、結婚願望がないわけじゃないけど。低年収だし。でも、ほら、まずは付き合ってみて、お互いの価値観が合うかどうかが先っていうか……ね? いきなり結婚前提って言われると、ちょっと重いっていうか、男としては身構えちゃう部分もあるじゃん?」

    歯切れの悪い、典型的な「逃げのストローク」。
    サエ、その言葉を聞いた瞬間、満足そうに小さく頷いた。

    サエ「あ、やっぱり先輩もそうなんですね。男の人って、付き合う前にそういう将来の話されると、ちょっと引いちゃいますよね。よかった、私の感覚、間違ってなかったんだ。……やっぱ、そうなんですね」
    サエ、すっきりと微笑み、酎ハイをパチンとテーブルに置く。
    チェアアンパイア、無表情に、しかし冷酷に声を響かせる。

    チェアアンパイア「ゲーム、サエ。ワン・ゼロ(ゲームカウント1-0、サエのリード)」

    ○実況席
    佐伯「ああーーーっと!! ジュン・イシカワ、痛恨のブレイクを許しました! 第1ゲームは村田サエが奪取! 錦堀さん、今のは何が起きたんでしょうか!?」

    錦堀「(頭を抱えて)絵に描いたようなカウンターを喰らいましたね。サエさんの『結婚観トーク』。これはね、一見すると重い球に見えますが、実はただのスライスなんです」

    佐伯「スライス、ですか?」

    錦堀「ええ。サエさんは本気でジュンに結婚を迫っているわけではない。あえて重いテーマを投げることで、ジュンの『本気度』と『責任感』をテストしたんです。そこでジュンが『いや、付き合う前にそれは重い』と言い訳を並べて逃げた。サエさんはそれを利用して、『じゃあ、私たちも今はそういうお堅い関係じゃない(=今夜ベッドに行くような関係でもない)、ただの健全な先輩後輩のトーンですね』という大義名分(ライン)を確定させるのがねらい。
    ジュンは自分の保身のために打ったショットで、自らの首を絞めました」

    佐伯「なるほど! 『安心しました』というサエのセリフは、『これで今夜は襲われずに済むから安心した』という意味のカウンターショットだったわけですね。」

    錦堀「その通り。これで完全にサエさんのサービスゲーム(主導権)に移ります。ジュン、ここから巻き返さないと、本当にただの『良い先輩』で試合が終わりますよ」

    ○ジュンの部屋
    第2ゲーム。サエのサービスゲームが始まる。
    部屋の空気が、どこか「健全な同窓会」のそれに固定されつつある。

    サエ「そういえば先輩、大学の時にみんなで行った、あの伊豆のサークル合宿の時の話なんですけど……」
    サエ、昔の思い出話をテンポよく繰り出す。完璧なプレースメントのサーブ。

    ジュン「あー、あの時な! 木村が酔っ払って海に入ろうとしたやつだろ?」

    サエ「そうそう! それで先輩が止める役だったのに、結局一緒になって入っちゃって、スマホ水没させて(笑)」

    ジュン「あったわー! あん時はマジで焦った。次の日、ショップに駆け込んでさ」

    サエ「本当に面白かったなあ。あの頃の先輩、すっごく頼りがいがあって、みんなのヒーローでしたよ?」
    絶妙なタイミングで繰り出される、サエの「褒めちぎりリターン」。

    ジュン「へへ、そうかな。まあ、一応サークルの幹部だったしね」
    ジュンは完全にサエのペースに巻き込まれる。

    チェアアンパイア「15ー0(フィフティーン・ラブ)」
    チェアアンパイア「30ー0(サーティ・ラブ)」
    チェアアンパイア「40ー0(フォーティ・ラブ)」

    ○実況席
    佐伯「サエ、怒涛のラブゲームの勢いです! 完全に試合を支配しています。錦堀さん、ジュンが完全に防戦一方、というか、ただ気持ちよくなっているだけに見えますが」

    錦堀「典型的な『おだてボレー』に引っかかっていますね、ジュンは。サエさんはね、過去の栄光を引っ張り出すことで、ジュンの『プライド』を満たしつつ、現在の『下心』を麻痺させているんです。『あなたはあの頃、私の素敵な先輩だった。だから今夜も、その素敵な先輩のままでいてくれますよね?』という、無言のプレッシャー(超低空スライス)です。これを打たれると、男は『いや、俺は今、お前を女として見てるし、下心満載だよ』とは言いにくくなる。プライドが邪魔をするんです」

    佐伯「なんという老獪なラリープレー。25歳にして、サエ選手はすでに熟練のクレーコートプレイヤーのようです」

    ○ジュンの部屋
    サエ、さらに畳みかける。

    サエ「あ、もうこんな時間。そろそろ終電の時間かな……。楽しい時間はあっという間ですね」
    サエ、スマホの画面をチラつかせる。これはテニスでいう「チル・アウト(試合終了の催促)」。
    ジュン、ハッと我に返る。
    (やばい。このままじゃ、本当に思い出話を語り合っただけで帰られてしまう。それだけは阻止しないと……!)
    アグレッシブ・ベースライナーの意地が、ジュンの背中を押す。
    ジュンは、残っていた酎ハイを一気に飲み干し、少し強めの口調でラリーを遮った。

    ジュン「あ、終電? 大丈夫だよ、最悪、タクシー代出すし。……それにさ、サエ。俺、今日はただ思い出話をするためにサエを部屋に呼んだわけじゃないよ?」
    空気が、一瞬で変わる。
    ジュンの放った、起死回生の「強烈なダウン・ザ・ライン(直球の勝負玉)」。
    サエ、スマホを見る手を止め、ゆっくりとジュンを見る。その目は笑っていない。

    サエ「……え? じゃあ、どういう意味ですか?」
    チェアアンパイア、固唾を飲んで二人を見つめる。
    ○実況席

    佐伯「来ました。 ジュン・イシカワ、ここでまさかのハードヒット、 直球の勝負に出ました! 『ただ思い出話をするために呼んだわけじゃない』 錦堀さん、これは!?」

    錦堀「うーん、勝負に出ましたね。しかし、これは非常にリスクの高い『ギャンブル・ショット』です。入ればエース(一発逆転)、外れれば完全なアウト(即・試合終了)。サエさんがどう受けるか……」

    ○ジュンの部屋
    ジュン、腹を括ったようにベッドから降り、床にいるサエと同じ目線になるようにしゃがみ込む。

    ジュン「言葉の通りだよ。サエがゼミの飲み会に来るって聞いて、俺、本当に嬉しかったんだ。大学の時から、サエのこと可愛いな、特別だな、って思ってた。だから今日、うちに来てくれたのも、その……サエも,
    俺と同じ気持ちだからなのかな、って」
    ジュンの、魂のフォアハンド。
    サエ、ジュンの目をじっと見つめる。数秒の沈滅。部屋の中には、時計の針の音だけが響く。
    やがて、サエはふっと視線を落とし、悲しそうな、困ったような表情を作った。

    サエ「……先輩。私、先輩のそういうストレートなところ、すごく尊敬してました。でも……『部屋についてきたから、同じ気持ちだろ』って思われちゃうのは、ちょっとショックです」

    ジュン「えっ」

    サエ「私は、純粋に久しぶりに大好きな先輩と、誰にも邪魔されずにゆっくりお仕事の話とか、昔の話がしたくて……。私がついてきたのが悪かったなら、ごめんなさい。でも、そんな風に思われてたなんて……」
    サエの目元が、かすかに潤む。
    完璧なカウンター。ジュンの放った強烈な打球を、そのままジュンのコートの最も
    痛い場所に、10倍の威力で打ち返した。
    チェアアンパイア、立ち上がり、厳かに宣告する。
    チェアアンパイア「ゲーム、サエ。ツー・ゼロ(ゲームカウント2-0)」

    ○実況席
    佐伯「  サエの『被害者エモーション・カウンター』がジュンの脳天を直撃しました。 ゲームカウント2-0、サエが完全に王手をかけました。」
    錦堀「(頭を抱えてのけぞる)あちゃー……。最悪のミスです。完全にサエさんの術中にハマりましたね。ジュンは『部屋に来た=男の誘いを受け入れた』という、前時代の古い戦術(サーブ&ボレー)に頼りすぎました。サエさんはそれを『純粋な後輩としての信頼』という、最強の盾で弾き返した。これでジュンは『下心で後輩を騙し討ちしようとした最低の先輩』という泥沼のポジションに叩き落とされたわけです」

    佐伯「ジュン、顔面蒼白です! 錦堀さん、ここからの挽回は可能ですか!?」

    錦堀「非常に厳しい。今のショットで、ジュンのメンタル(自信)は完全に崩壊しました。次のジュンのサービスゲーム、彼がまともなサーブを打てるとは思えません。……下手をすると、出ますよ」

    佐伯「出る、とは?」
    錦堀「我々テニスプレイヤーが最も恐れる、自滅の象徴。……『ダブルフォルト』です」

    ○ジュンの部屋
    第3ゲーム。ジュンのサービスゲームだが、ジュンの心は完全にバキバキに折れていた。
    (どうする……? 完全に嫌われたか? 俺、最低なこと言ったか? 謝るべきか、それとももっと押すべきなのか……?)
    サエは、涙を拭うような仕草をしながらも、チラリと壁の時計を見る。終電まではあと30分。

    サエ「……すみません、私の方こそ、期待させるようなことしちゃって。……もう、帰った方がいいですよね」

    サエ、荷物をまとめようとする。
    ジュンは焦る。ここで帰されたら、本当に全てが終わる。

    ジュン「ま、待って! サエ、ごめん! 俺が完全に勘違いしてた! 変なこと言って本当に申し訳ない! 帰らないでくれ!」
    サエ、手を止める。

    サエ「……じゃあ、もう変なこと、しませんか?」

    ジュン「しない! 絶対にしない! 誓う! だから、もう少しだけ……あと1杯だけ飲
    んでいってよ!」
    チェアアンパイア「0ー15(ラブ・フィフティーン)」

    ○実況席
    佐伯「ジュン、懇願のサーブ! しかしこれはサエに完全にコントロールされています!」

    錦堀「完全に主導権を握られていますね。今の『帰らないでくれ』は、テニスでいう『置きにいったサーブ』です。威力ゼロ、ただコートに入れるだけの弱気な球。サエさんからすれば、いつでも叩けるイージーボールです」

    ○ジュンの部屋
    ジュン、なんとかサエを引き止めるために、必死で新しい話題(サーブ)を探す。

    ジュン「あ、そうだ! サエ、最近、映画とか何観てる? ほら、Netflixで話題のあの恋愛映画、観た?」

    サエ「あ、あれですか? 観ましたよ。でも、私はあんまり感情移入できなかったかな」

    ジュン「え、そうなの? なんで?」

    サエ「だって、主人公の男の人が、優優不断すぎるんですもん。自分の気持ちをちゃんと言わないで、周りの女の子を傷つけてばかりで。私、ああいう『はっきりしない男の人』って、一番苦手なんですよね……」

    サエ、冷ややかな視線を一瞬だけジュンに向ける。
    それは、ジュンの「優柔不断の優男」という本質を抉る、鋭いナイフのような言葉だった。

    ジュン「……あ、あはは。そうだね。はっきりしない男は、ダメだよな……」
    自身のプレースタイル(優柔不断)を全否定され、ジュンのライフは残りわずか。
    チェアアンパイア「0ー30(ラブ・サーティ)」

    ○実況席

    佐伯「サエの『キャラクター全否定ストローク』が炸裂! ジュンの足元が完全に止まりました!」

    錦堀「うわあ、キツいところを突いてきますね。サエさんはジュンの『優柔不断さ』を見抜いている。だからこそ、『はっきりしない男は嫌い』という基準を提示することで、ジュンに『じゃあ、お前は今ここで、どういう立場で私を引き止めているんだ』という踏み絵を迫っているんです。攻めることも引くこともできない、最悪のプレッシャーですね」

    ○ジュンの部屋
    ジュン、追い詰められ、頭の中が真っ白になる。
    (はっきりしなきゃダメだ。でも、さっき『変なことはしない』って誓ったばかりだ。ここでまた『好きだ』とか『付き合ってほしい』とか言ったら、それこそ嘘つきになるんじゃないか? でも、何か言わなきゃ、このまま終わる……!)
    極限状態の中、ジュンの口から飛び出したのは、最悪の「言い訳」だった。

    ジュン「……いや、でもさ、男だっていろいろ考えてるんだよ。傷つきたくないし、サエとの関係を壊したくないからこそ、慎重になるっていうかさ。ほら、大学の時から俺たち、良い先輩後輩だったじゃん? だから、その、ステップを踏むっていうか……」

    サエ、哀れみの混じった目でジュンを見る。

    サエ「先輩。それって、ただの自己保身ですよね?」
    ジュン、息が止まる。
    チェアアンパイア「0ー40(ラブ・フォーティ)」

    ○実況席
    佐伯「決まったーーー!!! サエの痛烈なダウン・ザ・ライン! ジュン、一歩も動けず! マッチポイント(サエの勝利まであと1点)です!」

    錦堀「(静かに目を閉じて)終わりましたね。ジュン、完全に思考停止しています。今のは、言い訳という名の、最も打ってはいけない『ロブ(高く上がっただけの緩い球)』でした。サエさんからすれば、全盛期の私の『エア・ケイン』ばりのスマッシュを叩き込むだけの、あまりにもイージーな展開です。さあ、ジュン・イシカワ、次が泣いても笑っても最後のサーブになります」

    ○ジュンの部屋
    時計の針は、無情にも終電の15分前を指している。
    サエは静かに立ち上がり、バッグを肩にかけた。

    サエ「先輩。私、やっぱり帰りますね。今日は楽しかったです。ありがとうございました」
    サエがドアに向かって歩き出す。
    ジュン、脳内で何かがプチリと切れる音がした。
    焦燥感、絶望感、実のところ、捨て鉢な感情が混ざり合い、最後のサーブ(言葉)を放つ。

    ジュン「待って! サエ! ……俺、本当はサエのことが……その、顔が、すごくタイプなんだ!」
    サエ、ピタリと足を止める。
    ゆっくりと振り返る。その表情は、もはや氷を通り越して無だった。

    サエ「……は? 顔がタイプ?」
    ジュン、自分で言った言葉の最悪さに、その瞬間になって気づく。
    (違う、そうじゃない! 『中身も好きだけど、最初に惹かれたのは顔で……』って続けようとしたのに、焦って一番最悪なワードだけが先に出た……!)
    パニックになったジュンは、さらに最悪のセカンドサーブを重ねてしまう。

    ジュン「あ、違う! 違うんだ! 顔だけじゃなくて! ほら、サエって、男ウケするっていうか、おっぱいも大きいし、そういう、男なら誰でも惹かれるような魅力があるっていうか……!」
    静寂。
    部屋の中の空気が、絶対零度まで急降下する。
    サエ、軽蔑の眼差しをジュンに一瞥だけ向けると、冷たく言い放った。

    サエ「最低」
    サエ、踵を返し、玄関へと向かう。
    バタン、と激しくドアが閉まる音が部屋に響き渡った。
    ベッドの上にいたチェアアンパイアが、ゆっくりと立ち上がり、右手を真っ直ぐに
    挙げてコールする。

    チェアアンパイア「フォールト(ファーストサーブ失敗)」
    チェアアンパイア「ダブルフォルト(セカンドサーブも失敗)」
    チェアアンパイア、ジュンを冷たく見下ろす。
    チェアアンパイア「ゲーム、セット、アンド、マッチ。ウォン・バイ・サエ。スリー・ゼロ(試合終了。勝者、村田サエ)」

    ○実況室
    佐伯「誰もが見たくなかった、最悪の幕切れ! ジュン・イシカワ、最後の最後で致命的な『ダブルフォルト』!! ファーストサーブで『顔がタイプ』、セカンドサーブで『おっぱいが大きい』という、言語道断、一発レッドカード級のセクハラサーブを連発し、自滅しましたーーー!!」

    錦堀「(深く重いため息をつき、ヘッドセットを外しながら)いやあ……歴史に残る大汚試合(だいおじあい)でしたね。まさか令和のこの時代に、あそこまでストレートな『ダブルフォルト』を拝めるとは思いませんでした」

    佐伯「錦堀さん、勝因と敗因を総括していただけますか?」

    錦堀「敗因は明白です。ジュンは自分のプレースタイルである『アグレッシブさ』の意味を完全に履き違えていた。彼がやっていたのはアグレッシブではなく、ただの『計画性のない猪突猛進』です。対するサエさんは、一歩も動かずに、ジュンの自滅を待つだけで勝ててしまった。終始、コートの主導権はサエさんのラインコントロールの中にありましたね。……まあ、家デートにおいて、焦りは最大の敵であるという、良い教訓になったのではないでしょうか」

    佐伯「なるほど……。大変深いお言葉です。勝者である村田サエ選手は、今頃悠々と終電に揺られ、充実した気持ちでベッドに入る頃でしょう。一方、敗者となった
    石川ジュン選手は……」

    ○ジュンの部屋
    静まり返った1Kの部屋。
    ジュン、床に大の字になって倒れ込んでいる。
    手元には、まだ半分以上残った、炭酸の抜けた酎ハイ。
    テレビ画面では、ゲームのタイトル画面が虚しく明滅している。
    ベッドの上から、チェアアンパイアが静かに降りてくる。
    チェアアンパイア、そのままスーッと壁の中に消えていくように退場する。

    ジュン「……終わった…………」
    ジュンの呟きだけが、片付けられた部屋に虚しく響き渡り、フェードアウト。
    (幕)

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    創作大賞25:エンタメ原作部門 受賞。好きな作家は筒井康隆さん。独白するように、そして衝動的に文章を書きます。

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