
17. Chapter Seventeen:Prayer―― 同じ祈りになれなかった しゅかの物語
「The Colors」は、感情や関係、記憶を“色”として捉え、言葉で描いていく連載作品です。看護師であるわたしが出会ったひとりの男性との関係を軸に、愛着や依存、境界の揺らぎを描いていきます。惹かれ合いながらも、同じ出来事を経験しても決して同じにはなれない。
優しさと支配、安心と不安が混ざり合う中で、関係は少しずつ歪んでいきます。
さらに友人の精神科医との対話を通して、その関係を構造的に見つめ直していきます。恋愛という形を通して、「わたしとは何か」を見つめていく物語です。
前回まではこちらから👇
🩶【1】歪な境界線のあと
あの夜のあとも、
わたしたちの関係は続いていた。
何かが終わったわけではなかった。
むしろ、
わたしたちはいつも通りに会って、
同じ部屋で過ごして、
同じベッドで眠った。
あの夜、
わたしたちは今まで以上に愛し合った。
彼は、
愛されている証明を感じたい人だったのかもしれない。
そしてわたしも、
彼に選ばれている証明がほしかったのかもしれない。
彼は、行動では尽くしてくれる人だった。
料理を作ってくれた。
お弁当も作ってくれた。
洗濯も、掃除も、
当たり前みたいにしてくれた。
わたしの部屋に来て、
冷蔵庫を開けて、
足りないものを見て、
何も言わずにごはんを作ってくれる。
そういう日常の中に、
彼の愛情は確かにあった。
何もしてくれなかったわけじゃない。
むしろ、
たくさんしてくれた。
でも、
それでも触れられない場所があった。
温かいごはんでも、
片づいた部屋でも、
埋まらない場所。
そこだけが、
ずっと冷たいまま残っていた。
――Chapter Thirteenで触れた、
わたしたちが親になったかもしれない、あの瞬間。
あれは、十二月のことだった。
冬のはじまりの冷たい空気の中で、
わたしの身体に起きたこと。
そして、
わたしの中から消えていったもの。
時間が経てば、
自然に薄まると思っていた。
でも、
薄まらなかった。
身体は日常に戻っても、
心のどこかだけが、
あの十二月のまま止まっていた。
🫧【2】二月後半の光
二月の後半になって、
光だけが少し柔らかくなっていた。
でも空気はまだ冷たくて、
部屋の隅には冬の色が残っていた。
彼はいつも通りだった。
ごはんを作って、
わたしに食べさせて、
「ちゃんと食えよ」と言う。
その声は優しかった。
優しかったのに、
胸の奥が苦しくなることがあった。
たぶん、
わたしがほしかったものは、
それだけではなかったからだ。
ある夜、
わたしは言った。
「ねえ」
彼はテレビのほうを見たまま、
「ん?」と返した。
「神社、行かない?」
彼が、少しだけ眉を寄せた。
「神社?」
「うん」
「なんで?」
その声は、責めているわけではなかった。
本当に、
意味がわからないという声だった。
わたしは少し黙った。
言葉にすると、
また崩れそうだった。
でも、言わないと、
ずっと終われない気がした。
「あのときのこと」
彼の表情が、少し止まった。
「ああ……」
その「ああ」が、軽かった。
わたしの中ではまだ重たいまま残っているものが、
彼の中ではもう、
処理済みの棚に置かれているように見えた。
「お参りしたい」
「え?」
「ちゃんと、手を合わせたい」
彼は困ったように笑った。
「いや、七週でしょ」
その瞬間、
胸の奥が少し冷えた。
「七週だから、なに?」
「まだ子どもっていう感じじゃないし」
彼は言葉を選んでいるようで、
でも選びきれていなかった。
「人間っていうより、まだ……」
そこで一度止まった。
「そういうの、必要ないんじゃない?」
必要ない。
その言葉だけが、
部屋の中で妙にはっきり残った。
🩸【3】同じ知識、違う痛み
七週。
その意味は、
わたしにもわかっていた。
わたしも、彼も、看護師だった。
妊娠週数。
身体への負担。
処置後の出血。
感染。
制度上の線引き。
そういうことを、
知らなかったわけじゃない。
彼が何を言っているのかも、
頭ではわかっていた。
でも、
わかっていることと、何も感じないことは同じじゃなかった。
彼は言った。
「俺はさ、そっちより、お前の身体に何かあったらってほうが怖かったんだよ」
その声には、
確かに心配があった。
嘘ではなかった。
「出血とか、感染とか」
「何かあったらどうすんのって」
「そっちのほうが、俺は嫌だった」
彼は、
わたしの身体を見ていた。
わたしは、
わたしの中から消えたものを見ていた。
彼にとって怖かったのは、
わたしに何かが起きることだった。
わたしにとって怖かったのは、
あったかもしれないものが、何もなかったことにされることだった。
同じ看護師で、
同じ知識を持っていて、
同じ出来事の前にいたはずなのに。
見ている場所だけが、
どうしても違っていた。
「身体は……大丈夫だったじゃん」
わたしは小さく言った。
「そういうことじゃなくて」
「じゃあ、なに?」
彼は本当にわからない顔をしていた。
その顔を見て、
ああ、この人には見えていないのだと思った。
わたしが何を見ているのか。
何に手を合わせたいのか。
何を終わらせられずにいるのか。
「……なかったことにしたくないだけ」
やっと、
それだけ言った。
彼は黙った。
「別に、子どもだったって言いたいわけじゃない」
「名前をつけなきゃいけないとか、そういうことでもない」
「でも、わたしの中に一回あったかもしれないものを、何もなかったみたいにしたくない」
彼は少し目を伏せた。
「でもさ」
その「でも」で、
また少し傷つくことがわかった。
「七週だよ」
また、数字だった。
七週。
彼にとっては、週数だった。
わたしにとっては、
身体の中に一度だけできた、
言葉にできない場所だった。
⛩️【4】それでも神社へ行った
それからしばらく、
わたしはうまく笑えなかったのだと思う。
泣き続けていたわけじゃない。
責め続けていたわけでもない。
ただ、
どこかを置いてきたみたいに、
静かに沈んでいた。
ごはんを食べても、
返事をしても、
色だけが抜けたみたいに、
部屋の中に座っていた。
彼は、
そういうわたしを見ていた。
そして、ある日言った。
「……そんなに気になるなら、行くか」
たぶん、
彼にとっては譲歩だった。
わたしを悲しませたくなかったのだと思う。
これ以上、沈んだ顔を見たくなかったのだと思う。
でも、
それは一緒に悲しむということではなかった。
🩶【5】冬の終わりの白
その日の空は、
白っぽい灰色だった。
冬の終わりの光は、
少しだけ柔らかいのに、
まだ冷たかった。
神社の鳥居は、くすんだ赤で、
そこだけが妙に現実みたいに立っていた。
砂利を踏む音がした。
じゃり、じゃり、と、
わたしの足音と彼の足音が、
少しずれて聞こえた。
隣にいるのに、
歩く速度も、呼吸も、合っていなかった。
「寒いね」
わたしが言った。
「まあ、二月だし」
彼が答えた。
会話はそこで止まった。
わたしは、
何を言えばいいのかわからなかった。
彼も、
たぶん何を言えばいいのかわからなかった。
でも、
その“わからなさ”の種類が違っていた。
わたしは、
言葉にすると壊れそうで黙っていた。
彼は、
そこまで重く受け取る理由がわからなくて黙っていた。
🫧【6】目線が合わない
手水舎の水は、
冷たい透明だった。
指先に触れた瞬間、
身体の奥まで冷えていく気がした。
彼は少し離れたところで、
ぼんやりと周りを見ていた。
目が合わなかった。
わたしは彼を見たけれど、
彼は境内の木や、石畳や、
どこか別の場所を見ていた。
責めるような顔ではなかった。
不機嫌でもなかった。
ただ、
そこに何を見ればいいのか、
わからない人の顔だった。
「どこで手合わせるの?」
彼が聞いた。
その言葉が、
少しだけ胸に刺さった。
場所の話じゃなかった。
どこで、ではなくて。
何に、だった。
でも、
わたしはそれを言えなかった。
「こっち」
そう言って、
本殿のほうへ歩いた。
🔔【7】同じ形、違う祈り
鈴の音が、
乾いた空気に鳴った。
二礼。
二拍手。
その音だけが、
やけにはっきり聞こえた。
隣で、
彼も同じように手を合わせていた。
同じ形をしていた。
でも、同じ祈りではなかった。
わたしは、
心の中で言葉を探していた。
ごめんね、なのか。
ありがとう、なのか。
さよなら、なのか。
どれも違う気がした。
わたしたちが親になったかもしれない、
あの一瞬。
それは子どもだったのか。
まだ子どもではなかったのか。
そんなことは、
わたしにもわかっていた。
でも、
わかっていることと、
手を合わせたいと思うことは、
矛盾しなかった。
手を合わせている間、
わたしは彼の横顔を見た。
彼の目は閉じていた。
でも、
深く沈んでいるようには見えなかった。
祈っているというより、
わたしに付き合ってくれている顔だった。
それが、悲しかった。
「もういい?」
彼が小さく言った。
責める声ではなかった。
ただ、
終わりを確認する声だった。
わたしは頷いた。
「うん」
本当は、
何も終わっていなかった。
でも、そこで
「まだ終わってない」と言えば、
また七週という数字に戻ってしまう気がした。
七週だから。
まだ人間じゃないから。
名前はいらないから。
お参りなんて必要ないから。
その言葉たちは、
彼にとっては整理だった。
わたしにとっては、
小さな白い骨みたいに、
胸の奥に残った。
🍚【8】尽くしてくれる人
神社を出るとき、
鳥居の赤が、さっきより遠く見えた。
彼は隣にいた。
いつものように、
車の鍵を出して、
寒そうに肩をすくめて、
「何か食って帰る?」
と言った。
それも、
彼の優しさだった。
食べさせること。
連れて帰ること。
部屋を暖かくすること。
ごはんを作ること。
彼は、
そういう形でわたしを大切にしてくれる人だった。
料理も作ってくれた。
お弁当も作ってくれた。
洗濯も、掃除も、
当たり前みたいにしてくれた。
何もしてくれなかったわけじゃない。
むしろ、
行動ではたくさん尽くしてくれた。
でも、
わたしがほしかったのは、
温かいごはんだけではなかった。
片づいた部屋だけでも、
神社まで一緒に来てくれることだけでもなかった。
🖤【9】ほしかったもの
「よくわからないけど、行こうか」
それでよかった。
「七週でも、お前には大事だったんだ」
そう言ってほしかった。
「俺には同じようにはわからないけど、一緒に手を合わせるよ」
それだけで、
たぶんよかった。
彼は、
わたしの身体を見ていた。
わたしは、
わたしの中に残った空洞を見ていた。
同じ神社にいて、
同じ鳥居をくぐって、
同じ鈴の音を聞いて、
同じように手を合わせた。
それなのに、
わたしたちの祈りは、
最後まで同じ色にならなかった。
彼の心配は、
現実の赤だった。
血や痛みや、
身体に起きるかもしれないこと。
わたしの悲しみは、
名前のない薄い青だった。
そこにあったかもしれないもの。
でも、誰にも見えなかったもの。
赤と青は、
重なっても紫にはならなかった。
ただ、隣同士で、
別々に冷えていた。
その日、
わたしは思った。
この人は、
わたしを大切にしてくれる。
でも、
わたしの痛みと同じ場所には、立てない人なのかもしれない。
💙【10】それでも止まらないスキ
それでも。
彼がふと、
わたしを見る。
何もわかっていないみたいな顔で。
少し困ったように、
少し不器用に、
でもまっすぐに。
その目がわたしに向いた瞬間、
胸の奥が勝手にほどけていく。
さっきまで冷えていた場所に、
また彼の色が流れ込んでくる。
悔しいくらい、
好きだった。
わかってもらえないのに。
同じ祈りになれなかったのに。
いちばん触れてほしい場所には、
届かなかったのに。
それでも、
この人の隣にいたかった。
離れたくなかった。
もっと見てほしかった。
もっと触れてほしかった。
もっと、わたしだけを選んでほしかった。
たった一度、彼に見つめられるだけで、スキが止まらなくなる。
さっきまでの痛みごと、
抱きしめたくなってしまう。
それくらい、
彼へのスキは止まらなかった。
だから苦しかった。
同じ場所には立てない。
でも、
同じ部屋には帰りたい。
同じ祈りにはなれない。
でも、
同じベッドで眠りたい。
わたしの中で、
薄い青の悲しみと、
彼に向かう濃い群青の引力が、
静かに重なっていく。
混ざらないはずの色が、
それでも彼の目に見つめられるたび、
またひとつに戻ろうとしてしまう。
あの人は、
わたしの痛みを持てない人だった。
それでもわたしは、
あの人の中に入りたくて仕方なかった。