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マラッカ滞圚蚘 海峡ず旧垂街「甲板街」明朝建築ず荷蘭街で出䌚った掛け軞骚董店「鵬志堂」平和街海峡華人珠宝博物通

    01 マラッカ海峡ず旧垂街「甲板街」

    マラッカ海峡

    薄昏時に叀郜・マラッカの䞭心垂街地に入るず、四方から湧いおくる色鮮やかな赀・藍・緑の原色の民族衣装を着た人の矀れず、リキシャ自転車で匕く人力車の措氎に圧倒される。

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    ヒゞャブを矜織ったマレヌの女性、サリを着こなすむンドの女性、Tシャツを着、広東語や客家語を話す家族づれの人䞊みが絶え間なく䞭心郚の広堎に抌し寄せ、街䞭を奔り回るリキシャからは北京語や広東語のポップス音楜が倧音声で唞りだされる。

    喧噪から逃れるように、垂䞭心郚からマラッカ海峡の川沿い道路たで速足で歩いた。マラッカ垂䞭心郚は「タンキムセンブリッゞ」ずいう䞀本の橋によっお二分されおいる。巊岞にチャむナタりンなど東掋文化の拠点である旧文化街、右岞に教䌚や時蚈塔など西掋文化の名残が䞊ぶ䞖界遺産保存地区が広がる。この橋をひらりず枡るこずは、西掋文化ず東掋文化の間を超えるこずを意味しおいた。

    「タンキムセンブリッゞ」は「陳金声橋Tan Kim Seng Bridge)」を音に沿っお蚳したもので、「タンキムセン」は「陳金声Tan Kim Seng」ずいう人名だ。陳氏はシンガポヌル財務局秘曞などを歎任したマラッカの名士だった。1862幎に陳氏が建おた橋は1942幎に䞀床砎壊され、その埌数々の修埩を経お今に至る。橋ずいうものは平和のずきに人々が境界線を越えお亀互に連絡するために建築され、䞍和のずきには真っ先に砎壊される性質のものなのかもしれない。

    私は氎の圚る颚景が奜きなので、川沿いの船堎から出る小舟に乗っお、マラッカ川を䞋っおみた。察岞の川沿いに点圚するむンド料理店から挏れおくるカレヌの銙りず焌いたサテヌの銙りが倕涌みの颚に乗っお小舟たで挂い、それらの銙りず朮氎の銙りが混圚した匷烈な匂いが䞀気に錻ず口を襲った。

    船䞊からフランシスコザビ゚ル教䌚や小さな芳芧車が芋え隠れし、氎面に建物の圱がゆらゆらず投圱され、河を行き来する小舟ず盞たっお独特の颚情を醞し出しおいた。マラッカの盛時には独特の西掋ず東掋が融合した街䞊みの䞭、荷物を積んだ小舟が行き亀っおいたのかず、圓時の景芳を想像しながら河を䞋った。

    甲板街異郷から故郷ぞ続く道

    マラッカ川ず同じ色に晎れおいた空がにわかに曇りだし、皜線が霞んだず思ったら小雚がばら぀いおきた。傘はない。私が搭乗した舟は海峡を䞋る。岞蟺に料亭が䞊ぶ繁華街を぀き抜け、だんだんず岞郚に人家が増えおきた。 湿った景色の䞭で少しでも明るい色圩を探したくお、目も心も察岞を远った。雚氎が滎る倧茪の玅色の花、れんが色の家䞊み。濡れた空を芳芧車が呚り、くすんだ家䞊みが䜕床も浮き沈みした。庭の暹朚のオリヌブ色の深緑が目にやさしい。ベランダに癜髪の老人の埌姿を芋た。目を凝らすず、岞郚に点圚する人家のテラスからかすかな灯が挏れ、雚宿りしようず建物内ぞ向かっお退散する人々の埌姿が雚に滲んだ。

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    小雚が止たない䞭、小舟は「老街」ず呌ばれるマラッカの旧垂街ぞず続く枯口を通り過ぎた。いく぀かの灰色の老朜した建物に面する、もし知らなければ通り過ぎおしたうほどの䜕の際立った特城もない枯口だった。

    この枯口から、「甲板街別名打鉄街」、「打金街」、「芳音亭街」ず呌ばれる䞭華街の䞉぀の代衚的な道路ぞず抜けるこずができる。「甲板街」の名は船の甲板デッキに由来しおいる。その昔、マラッカを終の䜏凊ずするために遠くからはるばるずやっおきた初期の移䜏者達が、初めお陞に足を䞋ろした堎所が「甲板街」だったらしい。マラッカが栄えるに぀れお地元の鍛冶屋の店舗が道路脇に䞊ぶようになり、甲板街は「打鉄街」ずいう別名を授かったが、昔からの䜏民は今でも芪しみを蟌めおこの道を「甲板街」ず呌んでいる。

    甲板街、打金街、芳音亭街は、それぞれ「䞉倚廟」、「甘抜吉寧枅真寺」、「青雲亭」ず呌ばれる寺を有しおいる。䞭囜南郚、マレヌシア、むンドなど方々からマラッカの岞郚から降り立った䜏民たちが衣食䜏を満足させたすぐあず埌に着手したこずが、圌らの神ぞ祈りをささげるこずができる堎をこの街に建築するこずだった。圌らは故郷の信仰を忘れず、寺の線銙ず䟛え物が絶えるこずはなかったずいう。マラッカの移䜏者達は、䞀代、䞀代ず長い幎月を経お、異郷を故郷ぞず倉えおいったのかもしれない。そうであれば、圌らにずっおは、マラッカ川は異郷から故郷を繋ぐ圹割を果たした䞀筋の川でもあったのかもしれないヌ。

    雚が止たない䞭、圌らが蟿った道に思いを巡らせながら、マラッカ川を䞋った。しばらくするず小雚が止んだ。雲間から芋える倕焌けが金色の光になり、川面をキラキラず射お、銀色の雲ず波ずを薄桃色に染めおいる。たぶしくお、私はしばしの間心配事を忘れお颚景に芋入った。未だ䞀䞖玀以䞊前の通称で街路を呌びならわし、先祖の神を忘れないマラッカの䜏民達を思うず、目の前をせわしく、あるいは泰然ず道行く人々の姿に、ふず初期の開拓者達の面圱を芋いだせるような気がした。

    02 明朝建築ず荷蘭街で出䌚った掛け軞

    マラッカの明朝颚建築

    マラッカで街䞭を歩くずきには、頭を䞊げお、空を眺めおみるず、そこに思いがけず面癜いものを芋぀けるこずができるかもしれない。

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    マラッカの空は地䞊の建物の屋根が描く遠近法的に先现りする耇数の皜線によっお、味わい深く挔出されおいる。それら屋根は䞭囜・明朝時代の建築物の芏定に則っお建おられ、倚くの屋根の突出郚の䞭倮ず䞡端はゆるやかな半円の圢を呈し、秩序だおお青空を背景に点圚しおいる。そこではマレヌシアにいながらも、均衝ず秩序を求めた明朝時代の建築物を芋るこずができる。

    なお䞭囜の䌝統建築ではたおものの壁を「山壁」、円圢の突出郚を「棟梁」たたは「銬背」ず呌ぶ。棟梁銬背は円圢ばかりではなく、平圢、斧圢、火灯圢も芋受けられる。これら圢状は颚氎の“金朚氎火土”に由来し、それぞれ“金圢円、朚圢盎、氎圢曲、火圢鋭、土圢方”を衚しおいる緩やかな半円圢の“金”䞉぀の円匧を組み合わせた、さざ波立぀氎面の円圢の波王のような“氎”䞊が尖頭アヌチ圢で䞋が広がった圢の“火”䞊郚が平らな“土”盎埄の“朚”。

    これら建築物が私の興味をそそったのは、“金朚氎火土”の圢が「マラッカ」にあったからだった。明朝時代の建築物ずいうのを、私はずっず䞭華文化圏の産物であるず考え、たたそれらの倚くは䞭囜囜内でさえ近代化に䌎っお砎壊され、圓時の原型を今も留めおいるものは䞀郚のみであるから、䞭囜囜内や東アゞア諞囜はいざ知らず、遠い東南アゞアのマレヌシアのいち地方郜垂にも、明朝時代の建築の思考が根付いおいるずいう発芋は驚きだった。

    これら屋根の矎しさは屋根そのものずいうよりも、互いに競り合うように倩に向かっお䌞びおいく明朝建築の等質性ず、それらが䞡偎に䞊び繋がりあっお圢成する倧胆な枠組みに瞁取られお现い垯のように頭䞊に芋え隠れする青空が織り成す、重局的な矎の䞭にあるのかもしれない。

    たるで空は自然が織り成す倉幻自圚な䞀枚の絵、そしお屋根はその絵を瞁取るフレヌムのよう。぀いさっきたで明るく遠くに芋えた空が暮れなずんで屋根の淵いっぱいに広がり、淵の䞭で星星が凍お぀いた花火のように倜空に静かにきらめくず、私は思いがけぬ堎所に矎しいものを芋た気持ちで心が䞀杯になった。

    荷蘭街の掛け軞

    マラッカの荷蘭街Dutch Streetには、家々の門に䌝統的な䞭囜語の”察聯”韻を螏んだ詩の掛け軞が匵っおあり、詩歌ず瀌節を重んじる䞭囜䌝統文化の痕跡を垣間芋るこずができる。

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    家家の窓には“䞉倚・九劂”、“和気・至祥”門には“犏海・寿山”、“宗功・鳳舞”、“河図・掛曞”などの字を芋るこずができる。ここの“䞉倚”は、“倚犏、倚寿、倚子孫”の意味を持぀。掛け軞には字に加えお、八仙、仕女、蝙蝠、花草、曞物などの図が添えられおいる。 街党䜓が䞀冊の本のようになっおいる荷蘭街は、曞道や挢字が奜きな人にずっおは倩囜のような堎所だろう。これら掛け軞は、静的で物質的な建築物に、生呜の躍動感ず個性を䞎え、同時に華人の矎孊をも䜓珟しおいる。残念なこずに今日日倚くのマラッカ華人の子孫たちは英語教育を受けおすでに䞭囜語を読めなくなっおいるため、自分の家に掲げおある掛け軞の䞊の文字を読めない人も倚いらしいけれど。

    私はずある文房具店の門に、”平安䞀字倌千金”ずいう察聯の䞀郚を芋぀けた。”平安䞀字倌千金”は”平安は千枚の黄金の䟡倀がある”ずいう意味で、”平安”は静かな心の安らぎ、穏やかな生掻、健康であるこず、平和であるこずなどを意味しおいる。ずおも奜きな蚀葉なので、この掛け軞の写真を撮った。 たたその時はクリスマスに近かったので、写真を取りながら、クリスマス・むブを指す”平安倜”ずいう蚀葉を連想した。たた”平安果 ”ずいう、”平安倜 ”クリスマス・むブず、”苹果”リンゎずいう二぀の蚀葉を掛け合わせた、 クリスマス甚に食る圫刻や加工を斜したリンゎのお菓子も思い出した。さらに“平安”ずいう二文字から、旅立぀友人に送る蚀葉、”䞀路平安”も連想した。”䞀路平安”は”安党で良いお旅を祈りたす”ずいう意味。あらためお、”平安”ずいう二文字を䜿った蚀葉は良い蚀葉ばかりず思い、この掛け軞に出䌚えたこずを嬉しく思った。

    さらに平安䞀字倌千金の詩から、Max Ehrmannの英文の詩、”Desiderata”を連想した。”隒がしい人生のカオスのなかであなたの努力、あこがれ、そしお目暙が䜕であったずしおも、内面の調和を远い求めなさい。どんな倱望や苊劎、叶わなかった倢を経隓したずしおも、䞖界はすばらしい。喜びに溢れ、朗らかでいなさい。幞せでいるために、あなたの党おを぀ぎ蟌みなさい。” 穏やかにくらしたい、幞せになりたいずいう気持ちは、時ず土地が倉われど、叀今東西の人々に共通する思いなのだろうず、察聯の前でしみじみず思った。

    03 骚董店 「鵬志堂」

    マラッカ河を離れ、骚董街Jonker Streetに入るず、衚通りの珟代的な欧米颚のバヌ・レストランや装食を重ねたホテルずは䌌おも䌌぀かない、むンド系や華人の個人経営店が所狭しず林立しおいる。

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    店先に積み䞊げた品物を売りたいのか、ただ積み䞊げおいるだけなのか、刀断に苊しむような骚董店が軒を぀らねおいるかず思えば、揮発性の぀よいニスの臭いがたちこめる䞭で、店長らしき老人が時代物の家具を磚いたり、塗り替えたりしおいる店のずなりには、金属補時蚈を修理する店があったり、うっかり芋過ごすような間口の狭い文房具屋があり、いったん䞭に入っおみるず奥がしれなくお、思わず時間を぀ぶしおしたう。そこは、衚通りのように「人にみせるため」に぀くった通りではないから、いったん地図をのみこめば、気取らない、どこか油断しおいるマラッカを、そっず肩越しに芗き蟌むずいった、そんな愉しみがある通りが続いおいる。

    䟋えば、Jalan Tun Tan Cheng Lock通りに面する「鵬志堂」Malaqa House。䞀日䞭歩き通した自分をねぎらう気持ちず、店先の真っ癜な壁ずマホガニヌ色に磚き䞊げられた看板に挂う品栌のようなものに惹かれ、入り口のドアを抌しおはいっお、私は目を瞠った。間口の狭さに比しお、䞭は広々ずしおいた。䞊を芋䞊げるず、倧きな倩窓が二぀あり、燊燊ず降り泚ぐ光の䞋に戞棚、掋服箪笥、陶磁噚、圫刻品、壁食り、貚幣、腕時蚈、怅子などの骚董品がずころ狭しずならんでいる。 店舗の建物は130幎前に建おられた、「䞉萜匏」ず呌ばれる、広間を䞉぀、倩井を二぀持぀こずが特城的な建築物で、マラッカを去った所有者から骚董店経営者が屋敷ず敷地を買い取り、床の煉瓊、壁の花厗岩、朚補の門ず窓など、いっさいの装食・改造を斜さず、原型をずどめたたた店にしたものらしい。2000幎には、マレヌシアの歎史的建築物・文化遺産保護団䜓「Badan Warisan Malaysia」から文化保護賞を受賞しおいる。

    倩窓の蚭蚈は、実利ず趣味を兌ねた昔の人の知恵だった。雚が降るずきに、雚氎が四方の屋根から倩窓を通しお家の敷地内に滑り萜ちるこずを、「四氎垰堂」ずいう。雚氎は東西南北、倩䞊倩䞋の“財”を意味し、「四氎垰堂」は倩の恵み雚が屋内に降り泚ぎ、犏ず財を家の䞭に䞀所に集めるこずを象城しおいた。たた、倩窓は採光ず颚通しの圹割を担っおおり、節電にも぀ながった。さらに、倩窓の䞋の自然の光が降り泚ぐ空間は日陀け、飲茶、䌑息、おしゃべりなどする堎ずしお機胜しおおり、家庭内の人々が集たり、寛ぐ堎所だったずいう。

    店内にいた骚董䞻ず立ち話をしたずころ、圌は幎の半分は䞭囜で過ごしおいるが、マラッカぞ旅行に来おすっかりこの街が持぀文化ず歎史の魅力に魅せられ、店舗を買い取り、マラッカの骚董品を集めたり、䞭囜の骚董品をマレヌシアぞ移入したりしお、仲間ず協力しお鵬志堂の品ぞろいを充実させ、この店を䜜り䞊げおきたらしい。

    日光がやさしく降り泚ぐ䞭、骚董䞻はオリ゚ントの䌝統を思わせる赀みがかったテヌブルの䞊で、数人の垞連らしき客ずトランプを打っおいた。店内で寄せおはかえす、小さな波のような垞連客たちのおしゃべりを聞き流しながら、私はその郷愁を蟌めた店の生い立ちに惹かれ、店内の骚董品を眺めおあるいた。その時、ふずずある考えが浮かんだ。数々の売り物が建物に圩りを添えおいるのだろうかそれずも建物が売り物を匕き立たせおいるのだろうか建物も売り物も、同様に「骚董品」であるので、刀断が難しいずころだろう。

    店内から倖に出るず、私はあっけらかんずした倖の通り道を目ず肌で確認した。過ぎ去った時間の歎史の痕跡が残された店内にいたので、あたかも時空を遡っおいるような感芚があった。店の䞡偎の家々の小さな扉から、旅行者らしいよそおいの人たちが䞉々五々出入りしおいるこずが、ただ21䞖玀のマレヌシアの芳光地にいるこずを思い出させた。衚通りからほんの数分間の堎所にこのような豊かな空間が隠されおいるず考えるず、愉しい気持ちになった。私は店内の悠然ずした時間の流れをあたたに玍め、それらを倧きな安党ピンのようにしっかりず䜓に留めるず、店を離れお衚通りの賑わいを探した。

    04 平和街

    骚董街Jonker Street、荷蘭街Dutch Street、平和街Harmony Streetの䞉぀の通り道は、マラッカの䌝統文化保護地域ずしお倧きな䟡倀を持぀ず同時に、い぀蚪れおも愉しい芳光地区を圢成しおいる。䞭でも特城的な平和街Harmony Streetは、5分で歩き終える長さであるにもかかわらず、通りの頭に建぀芳音廟仏教から始たり、倩埌宮道教、印床廟ヒンドゥヌ教、枅真寺むスラム教ず、終わりに建぀基督教教堂キリスト教たで、各皮信仰の祈りの堎がお互いに衝突せず同じ通りに共存・共生しおいるのには驚かされる。

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    マラッカでさたざたな文化の共生が可胜になっおいる芁因の䞀぀は、ここに䜏む人々が、人皮や民族を問わず、誰もがこの土地では倖来者であり、お互いにずっおの「通り客」であるず認識しおいるこずだずいう。

    マレヌ半島ずむンドネシアのスマトラ島を隔おるマラッカ海峡は、むンド掋ず倪平掋を結ぶ䞻芁な航路であり、䜕千幎にもわたっお東西の宗教や文化の亀流を促す導管ずなっおきた。マラッカは東南アゞアにおける重芁な商業枯であり、仕事を求めお移䜏者が流入した。たずえ先祖がここで数癟幎暮らしおきたずしおも、元を蟿れば先祖の発祥地はここではない。自民族もか぀おは倖来者だったずいう自芚、そしお人皮・蚀語・文化の雑倚な混合が、䞖界的にも皀有なほどの他者を受け入れる寛容さを、この地に根付かせおきた。

    初期の移䜏者達は、その勀勉さず開拓者粟神を持っお異囜に新倩地を切り開いたが、苊しいこずが倚い移䜏埌の生掻の䞭で最も圌らになぐさめを䞎えたものの䞀぀は、信仰だったらしい。各民族がそれぞれの慰藉を求めお建おた建築物が、寺院やモスクなどの祈りの堎であっお、圌らがお互いの心の慰めの堎に干枉せずに共存しおきた堎所が「平和街」だったのだろう。

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    その日、私は早い時間にホテルを出お通りを䞋り、芳音廟を目指しお平和街ぞ出た。 道の前方に芳音廟が早朝の匵り詰めた空気のなかにその党貌を芋せ始め、通りを枡っお道の䞭腹にあるむンド寺院にさしかかった瞬間、ちらっず暪目で流し芋た寺院の入り口に、私は䞍思議な光景を芋た。

    䞀人のノェヌルを被ったむスラム教埒の老婆が、むンド寺院の前で手を合わせおいた。 芋おいるず、圌女は寺院に入るでもなく、手を合わせた埌にそのたた寺院を通り過ぎる。 次に圌女は仏教の䌚通の前を通り過ぎたが、そこでも䌚通を通り過ぎるずきに入り口に向かっお手を合わせ、䞭に入る人々に向かっお笑顔で䌚釈した。 そしお数分歩いお枅真寺ずいうモスクにたどり着き、䞭に入るかず思いきや、そばにある基督教教堂の入り口を向いお手を合わせた。 そしお、モスクの入り口で靎を脱ぎ、ようやくモスクの䞭ぞ入っおいった。これを芋たずき、私は突劂、その呚囲の寺院や行きかう人々を忘れおしたうほどに心を揺さぶられた。

    自分がこの街で尋ねおいたものが、䞍意に向こうからやっおきお、目の前にあった。東アゞアで芋るこずはできない、倚文化共生の䜓珟が、そこにはあった。 今日日、囜倖ぞ出る人々は倚いけれど、異文化に興味があったり奜きだったりずいうわけでもなくただ必芁に迫られたので海倖ぞ出お、そこに暮らしながらも異文化を尊重する意識を持ちえおいない人々が䞀定数存圚しおいる。そのような人は、異文化圏に進出し珟地の人々ず接するずきも、「良い珟地人、悪い珟地人」ず、自分の意に沿う行動をずる珟地の人を良い、沿わない珟地の人を悪いず、䞊から目線で道埳䞊の優越を぀ける。たた珟地の人々の振舞に察しお眉をひそめ、距離を取る䞀方で、圌らを劎働力ずしお䞊手く利甚しお自分の組織や囜の利益に繋げようずする。そこには異文化の人々を理解・尊重しようずいう意識などなく、むしろ圌らをどう利甚できるかずいう功利性が垣間芋える。

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    「ダむバヌシティ」ずいう名の䞋に実斜される掻動は、自分にずっお郜合が良い異文化圏の人々は耒め称える䞀方で、自分にずっお郜合が悪い異文化圏の人々は貶し排陀しようずしたり、ダむバヌシティずいう倧儀の䞋に自分自身を益する掻動を正圓化する、そのようなケヌスも䞀定数芋受けられる。 だからこそ、私はこの老婊人が、無心に手を合わせる行為に心を動かされた。圌女の動䜜がずおも静かで、あたりにも自然だったから。

    利害が発生しないずころで、圌女は他者の宗教を、自分ずは異なるが等しく尊重されるべきものずしお扱っおいた。手を合わせるずいう動䜜は、宗教的信念の有無ではなく、「共にあるこずを拒たない」姿勢を瀺しおいた。異文化を独立した䟡倀あるものずしお認め、自分の文化ず察等に尊重する心 ── 圌女を通しおそれをマラッカで芋たず思った。その姿勢は、声高な理念やスロヌガンではなく、日々のふるたいに沁み぀き、滲み出る行為ずしお自然にあらわれおいた。

    雚が降っおきたので、私は通りから芳音廟の䞭ぞ急いで入った。䞀時間埌に芳音廟を出た時には、雚はほずんどやんでおり、ぜっず明るみのもどった歩道に䞋りたずきはじめお、私は圌女の姿をたた思い出した。そしお今日ここで、心が動いた ── このこずを私は忘れないだろうず思った。 圌女の姿を私が芋たのはたった数分のこずに違いなかったのだけれど、いたでも目を぀ぶるずその小さな姿ず、赀・青・黄色に塗られた色鮮やかな寺院が、ただ明け方の薄暗さが残る空を背に、薄癜い光を济びお聳え立぀様子が心に浮かぶ。明け方のマラッカの空を芆う薄玫の靄の色ず䞀緒に。

    05 海峡華人珠宝博物通

    海峡華人珠宝博物通には、“県犏”ずいう蚀葉が䌌合う。15䞖玀初頭、マラッカは倖囜語が飛び亀う囜際亀易郜垂だった。玄600幎前、䞭囜明代の歊将・鄭和がマラッカぞ航海し、圓初マラッカ海峡に建囜されたばかりのマラッカ王囜をむンド掋枡航のための根拠地ずしお重芖し、マラッカ囜王ず関係を築いた。マラッカ王囜は鄭和艊隊の保護䞋で成長し、䞭囜艊隊の来航が途絶えた埌も䞭囜の商人の行き来が絶えず、東西貿易の䞭継枯ずしお繁栄した。そのような商人たちの子孫であるマラッカに䜏む華人達の宝食品を展瀺しおいる堎所が海峡華人珠宝博物通である。銖食り、腕茪、指茪、靎、陶磁噚など、むンド、スリランカ、䞭囜などの職人が粟補した宝食品や手芞品が、数癟件展瀺されおいる。

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    華麗な展瀺品を前にしお、私は金ず銀の光景に圧倒されながらも、それら品々をじっくりず芳芧した。マラッカの華人たちが倧切にしおきた、雚の䞭に灯る街灯のような、南郚の䌝統を思わせる赀みがかった装食品のきらめき。透明であったり䞍透明であったりする、モザむクのかけらのような色ずりどりのガラス现工。満開の桜や鳥の絵が内郚にはめ蟌たれた、粟巧そのものの雪色の真珠母。江西省や広東省ぞ特補品ずしお発泚し茞入した、倧理石を断ち切ったような陶磁噚。瞁起がいいずされる「牡䞹」「鳳凰」などの柄が、桃色・青色・薄緑色などマラッカ特有の淡いパステル色で圩られた食噚。茶噚で有名な南郚の景埳鎮垂で、マラッカ専甚に焌いおもらっおいたこずもあるらしい。そこは倖界ずは違った歎史の速床が、通内の䞭を流れおいるような雰囲気を醞し出しおいた。数々の遺品から、玔粋な粟気が立ち昇っおいた。

    博物通内の宝食品に象城されたマラッカの華人達の財産は、圌らの先祖ず、圓時の政府に支えられた金融資本ず海運業によっお築かれたものだった。マラッカの近代化ず郜垂の芳光化が進み、倚くの華人がマラッカを去っおクアランプヌルやシンガポヌルぞ移っおいったあいだ、この宝食品を䜿っおいたひずたちは、いったいどこでどんな暮らしをしおいたのだろう。展瀺品の䞊に、圓時この家に䜏んでいた華人の女性達の写真が食られおいた。黒癜写真の䞭できらびやかに着食り、おだやかに埮笑む圌女たちの䞊にも、やはり郜垂の倉容の時間は流れたに違いなかった。 写真に写っおいる女性の子孫だず名乗る男が通内にいたので、圌に写真の女性たちが蟿った道に぀いお尋ねおみた。写真の女性圌の祖母がマラッカの屋敷で育った最埌の代の人で、母の代からマレヌシアの他郜垂やシンガポヌルに枡り移った。アメリカ人ず結婚した兄匟もおり、孫の代はマレヌ語ず䞭囜語を話せない子どももいるずいう。写真の女性は老埌に嚘䞀家ず共にシンガポヌルぞ移䜏し、マラッカで䌝統文化を守りながら家族みんなが同じ屋根の䞋に䜏んだのは、圌女の代が最埌だったらしい。䜏む人がいなくなったマラッカの家は、博物通ずなった。

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    アラゞンのランプから立ち䞊る煙のように、思い出が郚屋䞭に充満しおいた。過ぎ去った時代の面圱の品々にかこたれお芋た、埮笑みをたたえた女性の写真には、マラッカに特城的な淡いパステル色の小鳥が描かれた銀色の銖食りが、小さな宝石のように茝いおいた。その無類に優しいパステル色を芋぀めおいるず、ふずひず぀の思いが私の頭に浮かんだ。私はここに展瀺されおいるひずたちに぀いお、本圓のこずは、䜕も知らない —。

    圌女たちは、血の぀ながりや絆ずいったものを、初めから移䜏先で䞎えられおはいなかった。私はふるさずを遠い堎所に眮いおきた圌女たちの眮かれた状況や、それに䌎う心理のさたざたな綟を思った。圌女たちの日々の暮らしには、人ずしおの哀歓ずいうものがあっただろう。矎しい色圩に満たされた日々もあれば、思いがけない障害をうけお、色が沈み、かげりを持ち、闇に芆われる日々もあっただろう。パステル色だけの人生ではなかっただろう。ここに展瀺されおいる品々は、圌女たちの人生ずいう完党な劇のごく䞀幕に過ぎない。冒頭も、結末も、ここでは䞊挔されおいない。しかしこの䞍完党さず断片性こそが、 圌女たちの人生にあったかもしれない悲しみや満たされなさ、埌悔の重荷から、この堎の圌女たちを解攟しおいるのである。ここには圌女たちの人生の䞭の、きれいな郚分、心華やぐ郚分が食られおいる。歳月ずいうものはふしぎなもので、受けた傷のいかに深くずも、哀しみ、苊しみは、この空間ではい぀の間にか浄化されおいる。

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    圌女たちがはるばるず故郷の職人ぞ発泚したり、遠い堎所から品物を海運しおたで、マラッカにいながらこれら装食品を求めた理由は、なんなのだろう。遠い異囜たでずもに来た銀食噚。懐かしい人の遺品ずなった指食り。「さようなら」ずいったあずの、最埌の吐息のような莈り物。それら品々は、遠い堎所にいる倧切な人を思い出させおくれたのかもしれない。異囜で眠れない倜、思い惑う日々に、支えずなっおくれたのかもしれない。くじけそうになる心に力を䞎え、寄り添っおくれたのかもしれない。そのような圹割を果たしたからこそ、それらの品々は代々倧切にされおきたのかもしれない。

    私はマラッカの初期の移䜏者の女性達が宝食品にかけた思いず、その子孫たちの今を思いながら、ガラス现工を芗き蟌んだ。ガラスはさながら凞面鏡のように、呚囲の圢を映しずっおいた。ガラスずいう物質に、脆さずずもに、倉幻自圚なしたたかさが盛り蟌たれおおり、そこに自分の姿が映り蟌むのが芋えた。そこに映っおいるのは確かに自分自身だず分かっおいるのに、寝宀の鏡に映るい぀も芋慣れおいる自分の姿ずは、䞍思議にたるで違っお芋えた。寝宀の鏡は自分の黒髪、䞊向きの小さな錻、そしお䞞い頬がよく芋えたのに、目の前のガラスの衚面には凹凞があり、そこに光があたっお、ずきには像ががやけ、しかし次の瞬間にはっきりずし、頭の圢や圢だけでなく、色たでも倉わっおいるのが分かった。あたりの色に染たっおいくガラス现工に、運呜に導かれるたたに遠い地ぞ向いた、圌女たちの流動的な生のすがたが重なった。光は別離し、屈折し、内なる光ず倖界の光が盞呌応しお、さたざたな色合いを宿す。人間は様々な事象に出䌚い、移り倉わる歳月を自分の䞭に抱き蟌んでいき、それを映し出す。

    移䜏ずいう芁玠を取り払っおしたえば、今、目の前に展瀺されおいるこれら装食品の持ち䞻らの人生は、芁玄しおしたえば、ごく平凡な女性の䞀生だった。生たれお、結婚しお子をもうけ、やがお子どもたちも独立し、倫に先立たれ、老いお死ぬ。い぀でもどこでも繰り返されおきた、いわば兞型的な女性の生涯であるが、それでも圌女たちは、浪が貝殻を残しおゆくように、生きたしるしを眮いおいった。もしこれらの品々が博物通の片隅だけでなく、家々のたんすにただ息づいおおり、数癟幎前に特補した祖母の名残の品を、身のどこかに食った女性たちがいるずしたら、圌女たちはそれら品々を身にたずっお祖母たちを思い、日々の暮らしの䞭で、ふず心華やいだりするのかもしれない。

    あたりの色を抱え蟌んで、自分は透き通っおしたったようなガラス现工。それら品々が語るこず、語らないこずに觊れ、それらがそっず手をさしのべおくれた時、宝石にたさるものを食っおいるず思いだす。もし遠いいのちをひき぀いだ子どもたちに、い぀しか苊難が蚪れお、絶望のふかいずころで心を砕いお過ごす日々が蚪れたなら、その子たちの装いの䞭に、これら品々のいたわりずやさしさが織りたぜられおいるこずを祈りたい。


     
     
    公認䌚蚈士・䜜家幎倪宰治賞最終候補筑摩曞房より䜜品収録ワシントンDC圚䜏これたでアメリカ、カナダ、北京、シンガポヌル、日本で生掻日䞭英トラむリンガル珟代文孊や䞖界文孊に関心あり旅行奜き

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