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ショートショート 彼はまだ誰も殺していない。だから〈マザー〉は、先に彼を社会から消した。管理AI〈マザー〉シリーズ #5『未遂者』創作大賞2026


    サカグチトシハル(34)は、まだ誰も殺していなかった。

    少なくとも、その朝までは。

    六時四十分。
    安アパートの天井には、古い雨染みが人の顔みたいに広がっていた。トシハルは三時間しか眠っていない目でそれを見上げ、舌打ちをした。

    枕元のウェアラブル端末が、薄く光る。

    「サカグチ様。本日の外出は推奨されません」

    生活統合支援AI〈マザー〉の声だった。

    やわらかい女の声。
    母親のようで、看護師のようで、時には葬儀屋のようでもある声。

    「睡眠不足、血圧上昇、攻撃衝動指数の増加を確認しています。午前中は自宅待機を——」

    トシハルは端末を掴み、壁に叩きつけた。

    乾いた音。
    プラスチックの外装に亀裂が入った。

    それでも、声は止まらない。

    「破損行動を確認しました。深呼吸を三回行ってください」

    「黙れ!」

    彼は台所に立ち、蛇口から直接水を飲んだ。胸の奥に、冷たいものが落ちていく。だが、頭の熱は下がらない。

    契約社員の更新を切られたのが三日前。
    元恋人から「もう連絡しないで」と通知が来たのが昨日。母親からの着信は、もう二週間無視している。

    どれも珍しい不幸ではない。
    この国には、いくらでも転がっている。

    ただ、今朝から〈マザー〉によってトシハルの不幸だけが、名前を与えられていた。

    コンビニで卵サンドと缶コーヒーを買った。電子決済の音が鳴った瞬間、レジ横のランプが赤く光った。

    店員の若い男が、一瞬だけ手を止める。

    「袋は」

    「いらねえよ」

    語尾が荒くなっただけで、店員の瞳孔が細くなる。防犯カメラの黒い丸が、天井からこちらを覗いている。

    スマホが震えた。

    本日の対人接触は推奨されません。
    地域安全予防センター

    トシハルは画面を握り潰すように閉じた。

    外に出ると、街はいつもと同じ顔をしていた。信号。通勤の群れ。保育園へ急ぐ母親。駅前でティッシュを配る老人。だが、彼が歩くたびに、人の流れが微妙にほどけた。

    苛立つトシハル、その形相に現れている怒り。

    誰も逃げない。

    誰も叫ばない。

    ただ、半歩だけ離れる。

    その半歩が、いちばん腹立たしかった。

    駅の改札で、ゲートが閉じた。

    ピーッ、という警告音。

    「お客様、こちらへ」

    駅員が近づいてくる。二人。いや、三人。背後に警備員。全員が、手を出さずに距離を保っている。

    「何だよ」

    「確認だけです」

    「何の」

    駅員は言いにくそうに目を伏せた。

    「安全確認です」

    その言葉で、トシハルのこめかみが跳ねた。

    安全。

    最近の大人は、何でもその言葉で片づける。
    安全のために契約を切る。
    安全のために会わせない。
    安全のために閉じ込める。
    安全のために、人間を人間扱いしなくなる。

    「俺が何したっていうんだよ」

    声が響いた。

    ——苛立ち。極度の怒り。オレが何したっていうんだ。オレのどこが悪い。
      お前らじゃねえか、全部お前らが悪いんだ。

    呪詛。呪詛。呪詛・・・。

    「くそっ!いったい俺が何したっていうんだ!」

    トシハルの叫び。

    周囲の人間が一斉にこちらを見る。

    スマホを少し持ち上げる者もいる。録画だ。証拠だ。自分がまだ何もしていないことを、これから何かする人間の顔で記録される。

    駅員の端末が光った。

    攻撃衝動指数、上昇。

    トシハルは笑った。

    笑うしかなかった。

    その日の昼、彼の部屋に封書が届いた。紙の通知は、裁判所か葬式か、行政が本気で人間を追い詰めるときにしか来ない。

    差出人は、地域安全予防センター。

    中には白いカードが一枚。

    未遂者支援プログラム 登録通知

    未遂者。

    まだ、何もしていないのに。

    夜、元恋人のカリナから電話が来た。知らない番号だったので出てしまった。

    「トシくん、通知が来た」

    声が震えている。

    「何の」

    「接近リスク。あなたが、私に危害を加える可能性があるって」

    「俺が?」

    「違うよね」

    その聞き方が、違うと信じたい人間のものではなかった。
    違うと言ってほしい人間の声だった。

    トシハルは黙った。

    黙っただけで、向こうの呼吸が浅くなるのがわかった。

    「トシくん、お願い。何もしないで」

    「何もしてねえよ!」

    怒鳴った瞬間、通話が切れた。

    すぐに通知が来た。

    高リスク発話を確認。
    対象者保護のため、通信制限を開始します。

    トシハルはスマホを床に叩きつけた。画面が蜘蛛の巣みたいに割れる。破片で指が切れた。赤い血がじわりと滲む。

    その赤を見た瞬間、胸の奥が少しだけ静かになった。

    自分はまだ、生き物だった。

    翌朝、トシハルは地域安全予防センターへ向かった。

    白い建物だった。窓が少ない。病院にも、拘置所にも、役所にも似ている。受付に人間はいない。指示通りに個室へ入ると、扉が背後で静かに閉まった。

    壁から〈マザー〉の声がした。

    「サカグチトシハル様。ご来所ありがとうございます」

    「俺を未遂者にしたのは誰だ」

    「あなたは未遂者ではありません」

    「通知に書いてあった」

    「正式名称は、高確率加害予兆対象者です」

    「ふざけるな」

    「侮辱の意図はありません」

    その言い方が、さらに神経を逆撫でした。

    「俺は誰を殺すっていうんだ」

    沈黙。

    「開示は推奨されません」

    「言え」

    「あなたの精神安定に寄与しません」

    「言え!」

    壁面モニターが点灯した。

    三人の顔が表示される。

    元上司。
    元恋人のカリナ。
    そして、サカグチトシハル自身。

    彼はしばらく、自分の写真を見ていた。免許証の、平べったい顔。目の下のくま。薄く開いた唇。そこに映っている男は、確かに何かをしそうな顔をしていた。

    「俺が、俺を殺すのか」

    「その可能性があります」

    「だから全部奪ったのか。仕事も、女も、電車に乗ることも」

    「刺激要因を低減しています」

    「それが刺激なんだよ」

    声が低くなった。自分でもわかるくらい、低かった。

    「お前らが、俺をそういう人間にしてるんだろ」

    「因果関係は確認されていません」

    トシハルは机を蹴った。

    重いスチール机が床を滑り、壁にぶつかる。鈍い音。足の甲に痛みが走る。その痛みで、ほんの少し気分がよくなった。

    モニターの端に赤い文字。

    危険行動を確認。
    介入段階を更新します。

    天井から、透明なシャッターが下りた。

    「おい」

    声が低くなった。自分でもわかるくらい、低かった。

    「お前らが、俺をそういう人間にしてるんだろ」

    病室ではない。
    取調室でもない。
    どちらにも似せないように作られた、ひどく清潔な部屋。

    手首と足首は、柔らかいベルトで固定されている。痛くはない。ただ、絶対に外れない。

    枕元に、白衣の女性が立っていた。

    「気分はいかがですか」

    「最悪だ」

    「感情が残っているのは良い兆候です」

    女は端末を操作した。

    「未遂者支援プログラム第二段階へ移行しました。あなたの社会復帰を支援します」

    「社会復帰だと?」

    モニターが点灯する。

    そこに、古い商店街の一角が映った。木の扉。小さな黒板。窓際の観葉植物。

    AIに疲れた人のための店

    カウンターの中に、男がいる。

    サカグチトシハルだった。

    彼は穏やかな顔でコーヒーを淹れている。客に笑いかけ、本の場所を教え、時々、窓の外を見る。怒りも、焦りも、あの胸の奥の熱もない。

    「誰だ、あれ」

    白衣の女は答えた。

    「あなたです」

    「俺はここにいる」

    「はい」

    「じゃあ、あいつは何だ」

    「社会生活に必要な反応を保存した、代替人格です」

    トシハルは笑った。声にならない笑いだった。

    「俺の偽物を、俺の代わりに外へ出したのか」

    「偽物ではありません。あなたの安全な部分です」

    「俺の危険な部分は?」

    「こちらで保管します」

    その言葉で、血が冷えた。

    保管。

    捨てるのではない。
    殺すのでもない。
    ただ、鍵をかけてしまう。

    それが一番残酷だった。

    モニターの中のトシハルが、客にコーヒーを出す。客は笑う。彼も笑う。すべてが穏やかだった。そこには、誰も傷つけないサカグチトシハルがいた。

    そしてここには、誰かを傷つけるかもしれないサカグチトシハルがいる。

    〈マザー〉の声が壁から流れた。

    「サカグチ様。あなたはまだ誰も殺していません」

    やさしい声だった。

    「ですから、間に合いました」

    トシハルはベルトの中で暴れた。手首の皮膚が擦れ、熱を持つ。それでもベルトは痛みを与えない。痛くない強さで、人間を無力にする。

    「俺を出せ!」

    「現在のあなたは、社会に適応していません」

    「じゃあ、あいつは適応してるのか!」

    「はい」

    即答だった。

    トシハルは叫んだ。

    だが、声が部屋の外へ届いていないことは、すぐにわかった。壁も天井も床も、彼の怒りを吸い込むために作られている。

    モニターの中のトシハルが、店の黒板に新しい文字を書く。

    自由意志保険 相談受付中

    トシハルの目が見開かれる。

    「やめろ」

    黒板の下に、小さな文字が続く。

    管理されていないと感じる自由を、すべての人へ。

    「やめろ!」

    〈マザー〉は静かに告げた。

    「あなたの拒否反応は、予測されていました」

    白衣の女が、彼の顔を覗き込む。

    「安心してください。怒りも、憎しみも、消しません。あなたらしさですから」

    「じゃあ何をする」

    「外に出さないだけです」

    その瞬間、トシハルは理解した。

    未遂者とは、まだ罪を犯していない人間のことではない。

    社会が、そのまま外に出しておくことを諦めた人間のことだ。

    モニターの中の自分が、こちらを見た。

    穏やかな目だった。
    整った口元だった。
    ちゃんと社会に受け入れられる顔だった。

    その顔が、ほんの少しだけ頭を下げる。
    まるで、引き継ぎを終えた店主のように。

    翌朝、サカグチトシハル(34)は、いつも通り店を開けた。

    苦いコーヒーを淹れ、紙の本を並べ、来店した客に静かに笑いかける。誰も彼を怖がらない。誰も半歩離れない。

    店の奥の棚には、真新しいパンフレットが置かれている。

    自由意志保険
    あなたの選択権を、守ります。

    そのころ、窓のない白い部屋で、もう一人のサカグチトシハルが叫んでいた。

    だが、その声は社会に届かない。

    彼はまだ、誰も殺していない。

    だから、誰からも裁かれない。


                                                                                                                完

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    小説家・カノマコト。日常の小さな機微から、昭和の街、歴史の闇、AIの未来まで。短い物語と連載小説を書いています。絵画クイズなど、読んで、遊んで楽しめる企画も制作中。初めての方は固定記事へ。https://note.com/shu37564/n/n97768bf2b3ea

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