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差別に抗う言葉 ――私を傷つけたのは、誰ですか。

    プロローグ あの日、駐車場で

     「お前は言葉だけ偉そうで、そういうところが嫌いなんだよ。」

     それなりに人通りも多い駐車場の端で、アイツは吐き捨てるように言った。電動車いすの上で、筋肉の全くない腕を偉そうに組むアイツ。睨み付けた先には、同じく電動車いすに乗った、ひとまわり以上、年下の私。これぞ、巷で言う「パワハラ」というものなんだろう。

     「お前をここまで暴君にさせたのは、誰なのだ?」
     今なら、そうアイツに聞いてやりたい。


    第1章 そんなに健常者になりたいの?

     今も、この社会では、他者から介助を受けないと生活できない重度障害者は、家族と同居するか、障害者だけが集められる入所施設で、常に他者の視線に晒されながら生活するのが当たり前とされている。そんな社会で、食事、トイレ、ベッドから車椅子への移乗など、日常のあらゆる場面で介助が必要なアイツは、今から30年以上前、大学に入学した夏に、ボランティアの介助者を集め、一人暮らしを始めた。その数年後には、障害のある仲間とともに「自立生活センターX」を設立。自分たちで雇った介助者を、地域で生活している重度障害者に派遣したり、介助者との関わり方や金銭管理など、障害者が一人暮らしをする上で必要なスキルを、他の障害者に伝えたりなど、20年以上、障害者支援に関わり続けている。どんなに重い障害があっても、介助者のサポートがあれば、入所施設ではなく、地域で暮らしていけることを、色んな人に身をもって伝え続けている。
     そんなアイツを私は尊敬していた。

     アイツに初めて会ったのは、私が大学院に通っていた頃のこと。
     生まれつき運動障害と言語障害がある私は、小中高と普通学校の普通学級で学んだ。我が子の将来を思うがゆえ、母は幼い私にこう言い聞かせ続けた。
     「あなたには障害があるのだから、勉強だけは誰よりもできないと、社会で生きていけないよ。」
     母の言葉を真に受けた私は、健常者に少しでも近づこうと、必死に勉強を続けた。

     大学進学後、公的介助制度を利用して一人暮らしをしていたが、これから障害者としてどう生きていくのか思い悩み、センターXを訪れた。当時の私は、1日数時間しか介助を受けておらず、食事をするときも、外出するときも、人の何倍もの時間とエネルギーを費やして、自分でやっていた。

     「なんで、そんなに健常者になりたいの?健常者って、そんなに幸せなのか。だって戦争ばっかりしてるじゃん。」
     初めて会った時、アイツにそう問い詰められた。アイツの蛇のような目は、それまで少しでも健常者に近づこうと、必死に努力してきた私を、一瞬で凍りつかせた。

     でも、同時に納得もできた。当時の私は、どんなに学歴を積み上げても、結局は「障害者」として扱われることに疲れ果て、「どんなに健常者と対等になろうとしても、結局、自分は健常者にはなれないのだ」という当たり前の事実に気づき始めていた。

     アイツに吸い込まれるように、私はセンターXの介助派遣を利用しつつ、センターXの活動に関わるようになった。今や全国に100ヶ所以上ある「自立生活センター」は、「障害者のことは障害者が一番分かっている」という信念のもと、障害者が中心になって運営し、地域で生活する障害者同士が支援し合う団体である。具体的には、地域で生活する障害者に介助派遣をする他、一人暮らしを希望する障害者からの相談に乗ったり、介助を受けながら一人暮らしをするための知識を提供したりしている。また、どんな障害があっても暮らしやすい地域にするために、様々なイベントを通して、地域の人たちに障害者の存在を知ってもらう活動もおこなっている。私もセンターXに関わるなかで、重度障害があっても、必要な支援があれば一人暮らしができることを、地域の人たちに向けて話したり、障害があってもなくても参加できる運動会を企画し、地域の子どもたちと交流したりなど、本当に様々なことをやった。

     「障害は、努力や学歴で補うべき欠陥ではなく、社会を変えていくための資源なんだな。」

     障害があっても暮らしやすい地域にするために、生き生きと活動する障害者を目の当たりにし、そう気づいていった。


    第2章 「好きな音楽は何ですか?」

     センターXに出入りするようになり、それまで学校の勉強ばかりしてきた私は、障害者のことをまるで分かっていなかったと痛感した。小学校から高校まで、普通学校に通い、自分と同じような障害者にほとんど会ったことがなかった私は、センターXに出会って、社会には自分より重い障害のある人がこんなにたくさんいることに驚いた。

     痰の吸引を日常的に介助者にやってもらう人、お金の計算を介助者と一緒におこなう人――。それぞれに必要なサポートを受けながら、私と同じ地域で、ごく普通のアパートで一人暮らしをしていた。自分の暮らす地域に、「重度障害者」と呼ばれる人たちがこんなにたくさん暮らしていることに、私はまったく気づいてなかった。

     特に衝撃だったのは、知的障害の当事者Oさんとの出会いだ。Oさんは、誰かに会うと、挨拶代わりに、必ず好きな音楽を聴いてくる。

     「川端舞さんは、どんな音楽が好きですか?」
     とOさんが聞き、
     「コブクロです」
     と私が答える。

     関わりが浅かった頃は、「そうですかー」と言って、Oさんはすぐに他の人のところに行ってしまったが、慣れてくると、「なんですか?もっと、はっきり話してください」と、言語障害のためにはっきり言葉を発音できない私に、注文をつけてくるようになった。
     私は私で、パソコンでお気に入りの刑事ドラマを繰り返し見ているOさんに、ちょっかいを出す。
     いつの間にか、Oさんとのやり取りが楽しくなった。

     恥ずかしながら、子どもの頃、普通学級にずっといた私は、特別支援学級にいる知的障害のある同級生たちのことを見下していた。その中の1人の生徒とは、学校行事で同じ班になったこともあるが、「あー、あー」としか言わないその同級生を「何も分かっていないのだ」と決めつけ、無視をした。

     今考えれば、その同級生は私に伝えたいことがあったのかもしれない。それを私が受け取れなかったのは、普段、彼と同じ教室にいることがほとんどなく、どうしたら彼とコミュニケーションが取れるのか、私が知らなかったからだ。いや、知ろうともしなかった。普段から関わる機会がなかったことが、彼と私のコミュニケーションを不可能にさせたのだ。

     障害者が地域の中で当たり前に生活し、他の人と関わりあうことで、少しずつ、どんな障害があっても暮らしやすい社会になる。センターXに関わるなかで、そう気づいていった。


    第3章 「あなたが悪かったんじゃない。学校側の問題だ。」

     自立生活センターと出会い、私のなかで大きく変わったことが、もうひとつある。いわゆる「障害の社会モデル」をきちんと自分に引き付けて考えられるようになったことだ。

     「『障害』は障害者個人のせいではなく、社会の在り方の問題です。例えば、車椅子に乗っている人が、段差のあるお店に入れないのは、その人が歩けないからではなく、お店に段差があるからです。このような考え方を『社会モデル』と言います。」
     ……そんなの、きれいごとじゃん。

     大学時代、社会福祉の授業で、「障害の社会モデル」を学んだが、その時は「社会モデル」が障害者としての自分に関係があるとは全く思えなかった。だって、そもそも自分に障害がなかったら、普通学校であんなに苦しい思いをしなくて済んだのではないか。

     そんな私の凝り固まった考えをほどいてくれたのは、センターXのイベントを通して知り合った障害当事者Eさんとの出会いだった。Eさんは、東京で自立生活センターを運営しながら、普通学校に通う障害児も支援していた。

     初めてEさんと会ったとき、
     「障害のある子とない子が同じ教室で育つインクルーシブ教育に私も興味はあるが、重度障害児が普通学校に通うことが本当によいことなのか分からない」
     と言う私に、Eさんは
     「今度、私の活動を見においで」
     と声をかけてくれた。

     その言葉を真に受け、翌月、Eさんに会いに行った私は、Eさんの活動に惹かれていった。Eさんと話すうちに、どんな障害があっても当たり前に暮らせる社会にするには、子どもの頃から、障害のある子とない子が同じ教室で育つことが大切なんだと気づいていった私は、いつの間にか、Eさんと一緒に、社会に向けてインクルーシブ教育を推進する活動にのめり込んでいった。

     その活動の中で、Eさんに言われたことが忘れられない。
     「子どもの頃、あなたがつらかったのは、あなたが普通学校に通ったからではなく、どんな障害がある子でも安心して通える環境を学校側が整えてなかったからなんだよ。あなたには堂々と普通学校に通う権利があったんだよ。」

     初めて、子ども時代の自分を肯定してもらえた気がした。本当の意味で、「社会モデル」を理解できた瞬間だった。

     その数年後、Eさんは障害の進行により天国に旅立った。


    第4章 「はっきり分からなくても、大丈夫だよ」

     社会モデルの考え方が、骨の髄にまで染み込んだころ、障害者運動に自分の居場所を見つけられたと同時に、疑問も沸いてきた。

     ――障害者運動のなかに、障害のある性的マイノリティ、いわゆるLGBTQの居場所はあるのだろうか。

     私は高校時代、同性であるはずの「女性」にドキドキする自分に気づいたが、気のせいだと思い、誰にも言わなかった。一生、誰にも言わないでいようと思っていた。
     そんな私の気持ちを揺るがしたのは、Eさんが亡くなって、しばらく経った頃、偶然訪れた、高校時代の同級生との再会だった。
     その友人は、高校時代までは女子として生活していたが、大学進学後、トランス男性であることを公表していた。高校卒業後10年たち、彼のことはSNSを通して知るだけだったが、ひょんなことから、彼と連絡をとった。

     友人と再会してすぐ、私は彼に謝った。
     「高校時代、傷つけてしまっていたら、ごめんね。」
     それだけが気がかりだった。だが、友人から返ってきたのは、予想外の答えだった。
    「僕こそ、高校時代、かわばっちの障害に対して、全く偏見を持ってなかったと言ったら、自信がない。」
     高校時代、彼から傷つけられた記憶は皆無だった。

     その後、私たちは連絡を取るようになり、お互い、高校時代に何を考え、今までどう生きてきたかを語り合った。

     友人と再会して、しばらく経ったある日、私は恐る恐る、今まで誰にも話せなかったことを打ち明けた。
     「実は私、女性にドキドキすることがあるんだけど、それが恋愛感情なのか、そもそも自分には恋愛感情というものがあるのかどうか、分からないんだよね。」

     ――「そんな中途半端なヤツと、LGBTQ当事者を一緒にしないでほしい。」
     重度障害のある私のことを、「普通の友達」として見てくれる彼になら、そう言われても仕方がないと思った。
     「そうだよね。私の勘違いだよね。」
     そう返して、この話は終わりにしようと思っていた。

     しかし私の心配をよそに、友人はあっさりこう言った。
     「“クエスチョニング”というセクシュアリティもあるんだし、自分がLGBTQかどうか、はっきり分からなくても大丈夫だよ。それよりも、これから社会をどう変えていきたいか考えるほうが大切なんじゃない?」

     ……そうか。そうなんだ。
     自分の性が分からない――。そんな得体の知れない私という存在に、友人は「クエスチョニング」という名前を教えてくれた。
     セクシュアリティの定義は人によって幅があるものだと思うが、私は、「クエスチョニング」とは、「性的指向や性自認が、はっきりしない/はっきりさせたくない人」のことだと思っている。

    「はっきり分かる」ことを良しとする社会の中で、「クエスチョニング」というラベルは私を安心させた。

     自分のセクシュアリティがはっきり分からなくてもよい。そんな自分のまま、LGBTQ当事者にとっても暮らしやすい社会をつくってもよい。
     ――そう思うと、「クエスチョニング」というセクシュアリティが愛おしく思えた。


    第5章 障害者とLGBTQの狭間で

     私のセクシュアリティをそのまま受け入れてくれた友人に、私の大切なコミュニティである自立生活センターのことを紹介したいと思った。障害者運動とLGBTQ運動が繋がれば、社会を変える力がもっと大きくなって、障害のあるLGBTQとしても生きやすくなるのではと淡い期待もした。

     でも、改めてセンターXの中を見渡すと、そこは他の社会と同じように、いや、他の社会よりも根強く、「人間は、生まれながらに、異性愛の『男性』と『女性』しかいない」という考え方が根付いていて、トランスの友人を安心して誘える場所だとは、とても思えなかった。

     障害者運動では、「同性介助」が徹底されている。この社会では、長年、障害者の性は軽んじられてきた。今でも、排泄や入浴の介助を、望まない異性の介護職員から受けることを強いる風潮は、特に入所施設の中では根強い。望まない異性介助を防止するため、障害者運動の中で当事者が勝ち取ってきたのが「同性介助の原則」だ。

     しかし、「同性介助の原則」を徹底するために、障害者運動の中では、障害者も介助者も、「男性」か「女性」かにはっきり分けられる。
     実際、介助者の採用面接のために、トランス女性がセンターXの事務所に来てくれた時、「あの人、よく見ると、喉仏があったよね」と、障害者スタッフが話しているのを聞き、虫唾が走った。
     また、人間を生まれながらに「男性」と「女性」に分ける考え方は、介助場面を越えて、運動全体に浸透し、センターXが主催する交流イベントに参加してくれた人まで、不必要に性別で分けてしまっていた。

     ここにトランスの友人を安心して連れてくるには、まずセンターX内の男女二元論を少しでも緩めなければ――。この頃には、オンライン上でもLGBTQの知人が増えていき、「今まで私は、女性を好きになるかもしれない自分に悩んできたけれど、よく考えれば、性自認も『クエスチョニング』と名乗ったほうが、しっくりくるかも……」と思い始めた私は、障害者である自分と、LGBTQである自分が引き裂かれる感覚に陥っていた。


    第5章 開けてしまった「パンドラの箱」

     センターX内の男女二元論をどうにか緩めようと、私は、自分と同じ障害があり、トランスジェンダーとしても情報発信をしている友人に、センターXで講演をしてもらった。障害のあるLGBTQの存在を知ることで、どうすれば自立生活センターがLGBTQにとっても安心できる場所になるのか、真剣に考えてもらえるのではと期待した。

     しかし、それが、私がセンターXから居場所を失う「パンドラの箱」になってしまった。

     その講演会の時、ちょうど、自宅からオンラインで聞いていた職員の背後で、子どもが2人、仲良く遊んでいた。休憩中、その様子を画面越しに見て、アイツは言ったのだ。

    「君たち、付き合っているの?」

    「そういうことを言わないようにしようと、教わったばかりでは?」
     と、他の職員がたしなめると、アイツはさらに言った。

    「こんなことも言ってはいけないのか。」
     その瞬間、周りの職員から笑いが起こってしまった。

    「当事者が話したばかりなのに、ふざけるな。」
     その場で怒鳴りたかったが、講演の途中だったのもあり、必死に押さえた。

     講演終了後、「あの発言は、当事者に失礼である」と指摘し、アイツに謝らせたが、私は恐怖を覚えた。
     ――私のセクシュアリティも揶揄の対象になるのだろうか。

     それ以来、アイツを見ると、身体が震えてくるようになった。

     それでも数ヶ月は、身体を引きずりながら通っていたのだが、いよいよセンターXに行くのが怖くなった。
     直接のきっかけは、センターXが自分たちの活動を紹介するために、近くの大学の学園祭に参加したこと。その頃、私はその大学内にあったLGBTQ関連サークルにも少し関わりを持っていた。だから、学園祭をきっかけに、LGBTQ当事者の学生がセンターXの活動に関心を持つ可能性もあるかもしれない。その過程で、また当事者を傷つける発言が出てしまったら……。自分の大切な場所で、誰かが傷つくのはもう見たくなかった。
     結局、私は学園祭の1週間前に、「しばらく休ませてほしい」と申し出て、いわばセンターXの活動をボイコットしたのだ。


    第6章 幻のカミングアウト

      悶々と過ごすこと、1ヶ月。「このままじゃ、何も変わらない」と思い、アイツに手紙を書いた。センターの仕事を投げ出してしまったことを謝り、「でも、センター内にあるLGBTQに対する差別は改善してほしい」と伝え、「一度、直接お話ししたい」と結んだ。

      久しぶりに直接会ったアイツに、再度、ボイコットした件を謝った後、切り出した。
     「LGBTQに対する差別について、もう少し考えてもらえないでしょうか。実は、私は……」
     カミングアウトするつもりだった。私がセンターXに居続けるためには、そうするしかないと思った。

     しかし、アイツは私の言葉を遮り、こう言った。
     「そんな話は聞きたくない。」
     そして、こう続けた。
     「障害者が段差のある店にいきなり行って、『スロープをつけてほしい』と言っても、相手にされない。常連になるまで店に通いつめてから、『スロープをつけてほしい』と言うから、店側も聞いてくれるんだよ。自分のことを分かってほしければ、ちゃんと自分の仕事をこなして、周りに認められてから言え。」

     私は、言葉を失った。

     トドメは、泣きながら帰る私を駐車場まで追いかけてきて、放った言葉。
     「お前は言葉だけ偉そうで、そういうところが嫌いなんだよ。お前が一人暮らしできているのは、誰のおかげだと思っているんだ。」

     ボディーブローを受けたように、息ができなかった。涙が止まらず、家にたどり着くまで、嗚咽をこらえるのに必死だった。家に帰り、車椅子から降りた瞬間、部屋に私の慟哭が響き渡った。

     もうセンターXには居られないと悟った私は、1年後、住み慣れた街から引っ越した。


    第7章 私とアイツの泥仕合

     「健常者に分かってもらわないと、障害者は生きていけない。」
     アイツの言い分も分かるけど、分かりたくない。だって、私たち車椅子ユーザーは基本的に段差のある店には入れない。店側は「たくさんのお客さんに来てほしい」と言うくせに、その「お客さん」の中に、私やアイツは入っていない。車椅子ユーザーは、店員のご機嫌をとらないと、「お客さん」にはなれないのだろうか。気に食わない障害者は排除していいのか。そんなの、間違っている。

     でも、たぶん、アイツはそうやって社会と闘ってきたのだ。重度障害者は入所施設で生活することが当然とされている社会のなかで、毎日24時間、介助を受けながら地域で生きていくためには――バリアだらけの社会のなかで、車椅子ユーザーも社会の一員であると認めてもらうためには――、どんなに嫌でも、健常者に気に入られるように振る舞わざるを得なかったのだろう。

     そういう私だって、自立生活センターに出会うまでは、健常者の顔色ばかり見ていた。普通学校に通っていた頃、「なんで、お前のような障害児がこの学校にいるんだ」とでも言いたげな、教員や他の保護者からの冷たい視線に耐えるためには、「自分は誰よりも優秀である」と証明し続けるしかなかった。その結果、能力主義に魂ごと支配され、知的障害のある同級生を見下した。そんな私は、LGBTQとしての私の言葉を聞こうとしなかったアイツだけを責めてよいのだろうか。

     確かに、アイツは私を傷つけた。それは紛れもない事実だ。でも、本当の意味で、私を窒息寸前まで追い込み、もがきながら築いてきた生きる場所さえ奪ったのは、誰なんだろう。私たちは誰と闘っていたのだろう。


    エピローグ 私を本当に傷つけたのは……

     ――血を吐くような私の闘いをお読みいただいたが、いかがだっただろうか。画面の向こうにいるあなたにとっては、私の闘いも、スマホやパソコンを閉じれば消えるのかもしれない。障害者もLGBTQも、自分とは全く関係のない存在に映っているのかもしれない。

     でも、数字上は、11人に1人は障害者で、10人に1人はLGBTQなのだ。あなたの周りにも、障害者やLGBTQは確実に存在している。なのに、あなたはなぜ、障害者もLGBTQも自分とは関係ないと思えるのだろう。

     あなたの通う職場やお店に段差があるから、車椅子ユーザーがあなたに近づけないのかもしれない。あなたの乗る電車に、「公の場では静かにしないといけない」という無言の圧力が漂っているから、知的障害者が気軽に電車に乗れないのかもしれない。異性愛前提の会話が日常的にされているから、同性パートナーがいることを打ち明けられない同僚がいるかもしれない。
     それでも、障害者もLGBTQも、確実に、あなたと同じ社会に暮らしている。障害者やLGBTQが、あなたの周りにいないのは、その人たちを排除している環境にあなたがいるからだ。それは、あなたには関係ないことなのだろうか。

     私を直接傷つけたアイツを、私は許さない。でも、一番許せないのは、私の存在を消そうとするこの社会だ。そして、私もあなたも、そんな社会の一端を担っている。

     誰かの存在を無視しようとする社会に抗うべく、私は自分の経験をさらけ出した。差別だらけの社会を変えるため、あなたは何をやりますか?



     
     
    任意団体「カラフル・ライツ・ぐんま」代表。どんな障害があっても、どんなセクシュアリティでも、暮らしやすい群馬をつくるため、まずは障害のあるLGBTQ+について情報発信をし、ゆくゆくは、どんなセクシュアリティでも、安心して、必要な介助を受けたり、介助者として働ける仕組みを作りたい。

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