
私はまだ、あの歌を上手く歌えない
父を“パパ”と呼んだ記憶は、一度もない。
小さい頃から、私は両親を
「お父さん、お母さん」
そう呼んでいた。
パパ、ママ
と小さい子が舌足らずで言ったり、
中学生になって皆の前ではババアと呼ぶような男の子が、家の中ではママと呼んでいたり。
そんな呼び方を一切経験せずに、私は大人になった。
厳しい家だったの?
みたいに聞かれることもあるけど、私の答えはNOだ。
確かに礼儀と食事の作法には厳しかったけど、それ以外はほとんど自由だった。
そして父は、私に甘すぎるくらい甘かった。
いつも可愛い可愛いと言い続けてくれた。
「しょうこが1番可愛い」
それを思いっきり信じて、私はぬくぬく育った。
白目でも可愛いと言われた時は、
お父さん視力大丈夫なのかな?とこっそり思っていたけれど。
小学校4年生くらいの時、歩き疲れて父におんぶをせがんだ。
あと数メートルで家につくのに、だ。
大抵の親なら、あと少しなんだから歩きなさいと言うだろう。
そして、そのあとに続く言葉は
「もう4年生でしょ」
「赤ちゃんじゃないんだから」
ではないだろうか?
でも、父は違った。
ニコニコしながら、
「よーし!」
そう言って、おんぶをしてくれた。
本当は頑張れば歩けたし、ただ父を困らせたかっただけの私の本音は、父の背中が全部吸い込んでくれた。
同じマンションに住む人が、私が父におんぶされているのを見て
「しょうちゃん、赤ちゃんみたいだね」
そう言われた時のあの恥ずかしい気持ちは、なんて説明したらいいんだろうか。
父は笑いながら
「僕がおんぶさせてくれって言って無理やりしたんですよ」
そうやってかばってくれた。
私が33歳の時、父が亡くなった。
発見された時、父は母とお揃いのスニーカーを履いていた。
そう、路上で、だ。
実家に帰る時に、父が発見された道を通る。
父が亡くなったその場所は、コンクリートが赤く染まっていた。
それが父の血液だと知っているのは、私と母の2人だけだ。
何年も経って、やっとあの血液が消えた。
あの道を通るたびに浮かぶ、私のどうしようもない気持ちはずっと消えないまま。
携帯も財布も何も持たずに発見された父は、病院に運ばれた。
看護師をしているから。
救急の分野にいるから。
父が運ばれた時、どんな言葉がとびかって、どんな処置をしていてもらったか想像がつく。
警察の人から後日病院に清算に行ってくださいと渡された書類の一式。
手のひらサイズの真っ白な診察券を、私は二度と見たくない。
診察券に、父の名前はいなかった。
そこには
「イヌ」
そう書かれていた。
なぜイヌと書かれていたのかなんて分からない。
一生知りたくない。
イヌと書かれていたことを、私以外誰も知らない。
母には絶対に見せないと決めた。
お父さんの名前が最期の最期に奪われたあの悲しさを、いつか強さに変えられる日はくるのだろうか。
対面した父は、もう二度と
「しょうこ」
と呼んでくれなかった。
父は、亡くなっているのに足からの出血が止まらなかった。
看護師になってから、数え切れないほど人の死に立ち会ってきた。
それでも、父以上に悲惨な死を私は知らない。
死亡診断書に書かれていた死因の文字を、数年経った今でも私は信じていない。
普段何度も見て、患者さんのご家族に書き方を説明している死亡届。
あんなに説明しているのに、自分で書いたのは初めてだった。
こんなの書きたくない。
お父さんお父さんお父さん。
ねえ、どうして。
そう思いながら、死亡届に書いた字は泣いていた。
小さい頃、学校の授業についていけない私に父は言った。
「しょうこは他の子と違って、ゆっくりなの。覚えるのもゆっくり。だから人の3倍やらないと他の子と同じまでにはいけないよ」
素直が取り柄だった私は、
「わかった!」
と言って、本当にクラスメイトの3倍以上やりつづけた。
3倍やれば同じになれるなら、5倍やればちょっとは追い越せたりするのかな?
そう思った私は、いつのまにかクラスで教わる側から教える側に変わっていた。
オセロが大好きだった私は、いつも父の帰りを待っていた。
父が帰ってきた瞬間、
「オセロやろ!」
と言って、私は黒で、お父さんは白だよ!と色まで決めていた。
勝負事にだけは、父は手を抜いてくれなかった。
負けた私は泣き出して
「お父さんのバカ!大人のくせに!」
と言い続けた。
父はずっと
「しょうこは負けず嫌いだなぁ。可愛いなぁ」
とニコニコしながら笑っていた。
22歳でアルコールアレルギーになった私は、それまでお酒で酔ったことは無かった。
「酒が強い女」という扱いは、昔からよくされてきた。
なんなら今でも飲める人と勘違いされる。
お酒が飲めた頃は、いろんな場所に連れて行ってもらった。
その当時知り合った男の子たちともよく飲んだ。
面白がって潰しにかかろうとする人に何度出会っても、あっちが先に潰れていた。
誰かの前で、酔ったことなんてなかった。
たった1人、父を除けば。
家で父と一緒に、いつもお酒を飲んだ。
ビールの泡をどっちがグラスに上手につげるか対決をして、母が呆れていた。
3人家族にしては大きなテーブルに、家中のコップを並べてビールを注いだ。
ワイングラスにも、マグカップにも。
私が使っていた歯磨き用のキティちゃんの赤いコップを洗面所から持ってきた父は、母に怒られていた。
周りからは絶望的にお酒が強いと言われてきた私は、いつも父より先に酔っ払った。
「もう無理だ、飲めない」
そう言ってフラフラになりながらなんとかベッドまで辿り着いた。
たまに間違えて父の部屋で寝ていたので、父はリビングの椅子に座って過ごしていた。
朝起きて、パンパンに浮腫んだ顔をしながら
「私の部屋で寝ればよかったじゃん」
と言っても、
「娘の部屋で寝るのはプライバシーの侵害になるだろ」
とよく分からない返事が返ってきた。
そのあと台所で、父と一緒にひたすら昨晩飲んだコップ達を洗い続けた。
いつも一緒にお決まりの歌を歌っていた。
父の酔っ払った姿は一度も見たことがなかった。
アルコールアレルギーになってからは、私のグラスはお茶に変わった。
間違えて父の部屋で寝ることは、もう無くなった。
とある音楽番組が深夜にやっていた。
看護学生の時に、リビングで見ていると
「もう寝ろよ」
父が言いに来ながら、そのまま一緒に見るのが恒例だった。
男性と女性のMCがトークをしながら、ラストに曲が紹介される。
メジャーなアーティストはほとんど登場せず、これからデビューする歌手やインディーズバンドが多かった。
とある日に、深夜の音楽番組を見ながら、父が言った。
「お父さん、この曲好きだな」
次の日の朝、その曲をリビングで口ずさんでいた。
何度も何度も父はそのバンドの曲を聞いて歌っていた。
いつのまにか私もその歌を歌えるようになった。
そのバンド名を友達は、誰1人知らなかった。
時々父が口ずさむ歌は、ほとんどそのバンドの曲だった。
YouTubeで検索すると、その曲がヒットする。
お店や商店街で流れてきたことは、残念ながら一度もない。
高校2年生の時、進路用紙が配られた。
特になりたいものは無かったけれど、大学4年間目的もなく通ったら私はすぐに辞めちゃいそうだな。
どんな職業がいいかな。
全国どこでも働けて、食いっぱぐれがなくて、技術が身につけられる。
あ、看護師にしよ。
夢も希望もない現実的な理由だけで、看護師と書いた。
進学っていくらくらいするんだろ。お父さんに話そ。
進路希望に看護師と書いたので、看護学校に進学したい話を父にした。
可愛い可愛いと言うくせに、人生の話になると急に父親の顔をした。
父が出した条件は、たったひとつ。
「選んだ道を、絶対に誰かのせいにするな」
だった。
看護師になってはじめてお給料をもらった日も、ボーナスが出た日も。
父は絶対にご馳走させてくれなかった。
「娘にお金払わせるなんて父親の威厳がなくなるだろ」
普段私に激甘なくせに、唯一譲ってくれなかった。
一人暮らしをするようになってからも、父と2人でご飯を食べに行った。
仕事を辞めたかった時、
「しょうこの人生なんだから好きにしな」
そうやって不器用な返事が返ってきた。
今日は私がご馳走するよ、
と言っても先にお会計が終わっていた。
なんだよ、一回くらいご馳走させてくれてもいいじゃないか!お父さんの意地っ張り!
と心の中では思っていたけど、いつもそんな父に甘えていた。
父のお財布には、私が小さい頃の写真が入っていた。
たまに生意気なことを言うと、お財布から私の写真を出して
「ほら、しょうこ。この時の可愛いしょうこを思い出して」
そんな風に言って私を笑わせた。
生意気な態度を貫けなかったのは、絶対に父のせいだ。
父が好きだと言ったあの曲を、
口ずさんでいたあの曲を、私は今でもときどき歌う。
歌詞もメロディも覚えている。
でも、どうしても上手く歌えないところがある。
声が震える。
息が詰まる。
あの日の父の声が、途中で重なる。
「お父さん、この曲好きだな」
あの日、一緒にテレビを見ていた父が隣にいる。
父をパパと呼んだことは、一度もない。
でも、あの歌を歌う時だけ、
私は父に甘やかされていた小さい頃の私に戻れる。
おんぶしてほしくて、
オセロで負けて泣き喚いて、
可愛いと言われて、
本気で信じていた私に戻る。
父はもう、私の名前を呼ばない。
それでも私は時々、
あの歌を最後まで歌おうとする。
やっぱり今も、うまく歌えないまま。
たぶん、これからもずっと。