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「一万年前の100円ライター」―炎が紡いだ魂の絆―|その3(後編)【第36話〜エピローグ】

    その2(中編)はこちら
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    第三十六話:血の残像と、初秋の覚醒

    ​
     深夜。枕元に漂うただならぬ「人の気配」に、エンドウの意識は強制的に引き揚げられた。

    ​ 燃え尽きかけた蝋燭(ろうそく)の微かな残り火が、ゆらゆらと影を揺らしている。その薄明かりの中に、一人の人影が立っていた。

    ​「……ん? どうした、ミキ君。眠れないのか……?」

    ​ 重い瞼(まぶた)をこじ開け、焦点が合った瞬間、エンドウの背筋に氷水を流し込まれたような戦慄が走った。

    ​ そこにいたのは、昼間に絶望と虚無感に打ちひしがれていた「かつての部下」ではなかった。髪を振り乱し、瞳の奥にどす黒い濁流を湛(たた)えた、見たこともない「狂気」の化身だった。

    ​「冗談じゃない……。何であたしが、こんなとこにいなきゃいけないんだ!」

    ​ ミキの声は、喉の奥を掻き切るような濁った響きを帯びている。

    ​「お前か……。お前か、エンドウ! お前が私を、こんなところに閉じ込めたのか! ……殺してやる! 殺してやる!!!」

    ​ 彼女の右手には、この時代の鋭い石刃(ナイフ)が握られていた。そして、その刃先には、どろりと重い、鮮紅色の血がべったりと付着している。

    ​(なぜ……? その血はどこで……!)

    ​ 考える猶予はなかった。ミキの右腕が、容赦なく振り上げられた。

    ​「くそっ!」

    ​ エンドウは反射的に身を翻し、転がるように外へ向かって走り出した。殺される恐怖を、激しい怒りが凌駕(りょうが)していた。傷口が焼けるように熱かったが、もはや痛みなど感じない。

    ​(何が教育だ! 恩着せがましく彼女を救おうなどと考えた私が馬鹿だった! あの娘は、もう壊れているんだ! 救いようなどない!)

    ​ エンドウは一目散に、マサナの家を目指した。あの冷静なマサナなら、この狂乱を止めてくれるはずだ。助けを求めて家の中に飛び込んだ、その瞬間。

    ​ エンドウの視界は、真っ赤な地獄に染まった。

    ​「……っ!? なんだ、これは!」

    ​ そこにあったのは、折り重なるようにして絶命しているマサナとマイの姿だった。温かい家庭があったはずの床は血の海と化し、二人の体は無惨に切り刻まれていた。

    ​「うううぉぉー!」

    ​ 背後から、獣のような咆哮(ほうこう)が迫る。追いかけてきたミキが、今度は腰のあたりに低くナイフを構え、全身の体重を乗せて突進してきた。

    ​「や、やめろ! やめてくれぇー!!」

    ​ 叫びと同時に、腹部に鈍い、しかし確実な破壊の衝撃を感じた。

    ​「……っ痛……!!」

    ​ ――その瞬間、エンドウの視界に、初秋の淡い、柔らかな光が飛び込んできた。

    ​ 荒い呼吸とともに、エンドウは飛び起きた。心臓が肋骨(ろっこつ)を突き破らんばかりに脈打っている。全身は嫌な汗でぐっしょりと濡れ、手足が小刻みに震えていた。

    ​ 痛みを感じたのは、腹部の傷口だった。寝返りを打った際、ヨモギの膏薬(こうやく)を抑えていた麻の布が剥がれかかり、乾き始めた傷を強く引き連れたのだ。

    ​「夢……か……」

    ​ エンドウは、震える手で顔を覆った。悪夢の名残りが、まだ網膜に焼き付いて離れない。マサナとマイの遺体、そしてナイフを振りかざすミキ。

    ​ それは、彼が理性の奥底に押し殺していた「この先、取り返しのつかないことが起きるかもしれない」という最悪の予知夢のようでもあった。

    ​ 人生で、これほどまでに目覚めの悪い朝はなかった。

    ​ 窓の外では、秋の訪れを告げる小鳥たちが、何も知らずに清々しく鳴き交わしていた。


    第三十七話:朝の静寂(しじま)と、決死の独白

    ​ 人生最悪の目覚めだった。

    ​ 初秋 of 朝の清気の中でも、エンドウの体は季節外れの汗でぐっしょりと濡れ、動悸は一向に収まる気配がない。

    ​「イテテテ……っ!」

    ​ 身を起こそうとした拍子に、腹部の傷が鋭く痛んだ。剥がれかかった布が、夢と現実の境界を引き裂く。

    ​「あの夢は……何だったんだ。なぜ、あんな鮮明に……」

    ​ 夢をこれほどまでに克明に覚えている自分に、エンドウは愕然(がくぜん)とした。怖いのか。あの若く、身勝手なだけの娘――ミキが、自分にはそこまでの「怪物」に見えているのか。

    ​ どれほどそうして自問自答を続けていたのだろう。入り口から、軽やかな足音が聞こえてきた。

    ​「おはようございます、エンドウ様。昨夜はよくお休みになられましたか?」

    ​ マサナの妻、マイだった。逆光の中に立つ彼女の微笑みは、朝露のように清らかで、その声はまるで鈴を転がしたかのように爽やかに響いた。悪夢の残像に怯えていたエンドウにとって、その姿は救いそのものだった。安堵のあまり、危うく涙がこぼれそうになる。

    ​「ええ、おかげさまて……」

    ​「主人はね、エンドウ様に食べさせるんだって、朝から張り切って川へ行きましたよ」

    ​ マイの饒舌(じょうぜつ)な様子から、夫たちが無事に帰還した喜びがひしひしと伝わってくる。彼女はエンドウの返事を待たず、慣れた手つきで傷口の布を解いた。

    ​「さっき、ヨモギを摘んできたんです。うちの人、しょっちゅう怪我をするから……フフッ」

    ​ 屈託のない笑顔。献身的な手当て。エンドウは、自分を心の底から信頼し、慈しんでくれるこの女性に対し、嘘を吐き続けている自分を恥じた。マサナには伏せてくれと言ったが、マイは別だ。女性同士の視点があれば、ミキの歪みを正す助けになるかもしれない。

    ​「マイさん……ちょっと待ってください。実は……」

    ​ エンドウが決死の覚悟で切り出した、その時だった。

    ​ タッタッタ……と土を蹴る快活な足音とともに、大きな魚を下げたマサナが飛び込んできた。

    ​「よう、エンドウ! よく眠れたか? 見てくれ、このでっかいさ・か……ん?」

    ​ マサナの言葉が止まった。部屋に流れる、普段とは違う重苦しく切実な空気を、彼は野性の直感で察知したのだ。

    ​「エンドウ、マイ……何の話をしていた?」

    ​ エンドウは逃げ場を失い、しかしそれゆえに真っ直ぐにマサナを見据えた。

    ​「マサナ。昨日、私は自分の手で落とし前をつけると言ったな。……彼女を教え導くことで責任を果たすつもりだったんだ。だが、そんな考えは私の傲慢な奢りだったのではないか。……そう思うと、怖くて仕方がないんだ」

    ​ エンドウの告白を、マイは無言で、しかし慈愛に満ちた瞳で聞き入っていた。

    ​ マサナの脳裏には「掟」という言葉がよぎった。自分たちを豊かにしてくれた恩師が、今、自分たちに助けを求めている。その重みを噛み締める。

    ​ 沈黙を破ったのは、マイだった。

    ​「エンドウ様。どのようなことを隠そうとされているのかは存じません。ですが……少なくとも私だけは、エンドウ様を信じ抜くと決めて、今日までお世話をしてきました。何があろうとも、その心が変わることはありません。どうか、その気持ちをお汲み取りください」

    ​ それは、どのような「真実」よりも強固な、絶対的な信頼の誓いだった。

    ​ マサナは深く頷き、力強く笑った。

    ​「わかった、エンドウ。これから俺たちは、死ぬまで一心同体だ。……ここからは、俺が話そう。マイは俺の妻だからな」

    ​ マサナはマイの隣に腰を下ろし、今回の捜索の一部始終、そしてミキという女性が犯した過ちの全てを、静かに、しかし詳らかに話し始めた。


    第三十八話:賢者の失墜と、断絶の咆哮

    ​ マサナはスゥーッと深く、長く息を吸い込むと、厳かに語り始めた。その声は低く、しかし驚くほど明瞭に、この数日間の出来事をなぞっていく。マイは背筋を真っ直ぐに伸ばし、目を閉じたまま、一言半句も漏らさぬよう全神経を傾けて夫の話に聞き入っていた。

    ​ エンドウはその光景を、ただ圧倒されながら見守るしかなかった。マサナの語りには一切の無駄がなく、誇張も私情も挟まない。極限の状況下で、これほど的確に状況を把握し、理路整然と伝えられる能力。もし彼が令和の時代にいたとしても、瞬時に環境に適応し、組織のリーダーとして君臨したに違いない。

    ​(……それに引き換え、私はどうだ)

    ​ エンドウの胸を、鋭い自責の念が突き刺す。目の前の現実にオロオロと慌てふためき、悪夢にうなされるだけの自分。未来の知識を少し投下すれば、原始人など容易に驚かせ、導けると思い上がっていた自分。「先入観は本質を見誤る」という令和の常識を、誰よりも理解していたはずの自分が、誰よりも誤解していたのだ。この時代の人間を、そしてマサナという男を、底知れぬほど見くびっていたのだ。

    ​(馬鹿だ。私はとんでもない馬鹿だった……)

    ​ マサナの話が終わっても、マイは眉ひとつ動かさず、深い沈黙を保っていた。

    ​ その、張り詰めた静寂を切り裂いたのは、隣室から響いた無神経な物音だった。

    ​ 麻の布を雑に跳ね除け、目を擦りながらミキが姿を現した。

    ​「さっきからゴチャゴチャとうるさいんだけど……もう、目が覚めちゃったじゃない。エンドウさんは寝ながら来たからいいけど、あたしなんか、ずっと歩いてたんだからっ!」

    ​ 日本語を理解できないはずのマサナとマイだったが、その鋭い洞察力が、彼女の放つ言葉の「毒」と「怠惰」を瞬時に見抜いた。その瞬間、マイがカッと目を見開いた。彼女は無言のままスッと立ち上がると、一瞥(いちべつ)もくれることなく部屋を飛び出していった。

    ​「ま、マイッ! ちょっと待て!」

    ​ 動揺したマサナが、慌ててその後を追って出ていく。

    ​「……最悪だ」

    ​ 一人残されたエンドウは、天を仰いだ。やはりこの娘はモンスターなのか。マイなら女同士で心を溶かしてくれるかもしれないという甘い期待が、この時代の過酷な自然の中で生き抜いてきた女性の誇りを、どれほど深く傷つけたことか。利便性に甘やかされた価値観と、命のやり取りの中で培われた価値観。その埋めようのない溝に、エンドウは絶望した。

    ​「ねぇ、エンドウさん。お腹空いたし、顔洗いたいんだけど……」

    ​ 事態を全く理解していないミキの身勝手な言葉が、エンドウの中で張り詰めていた何かを、ぷつりと切った。

    ​「うるさい!!! 黙ってろ!!!」

    ​ エンドウは、腹の底から湧き上がる怒りを爆発させた。ありったけの感情を、理性のフィルターを通さず、一人の若者にぶつけた。かつて村人から敬われ、思慮深い「賢者」として振舞っていた面影はどこにもない。そこには、自分の無力さと、救いようのない現実への怒りに我を忘れた、一人の無様な老人がいるだけだった。

    ​「なによ! フンッ!」

    ​ ミキは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、逃げるように隣室へと消えていった。静まり返った部屋の中で、エンドウは白髪混じりの頭を、狂ったように掻きむしり続けた。


    第三十九話:聖なる産湯と、一万年前の母

    ​ エンドウは、もはや抜け殻だった。ミキへの教育、ジャイの村との約束、マサナ夫妻への申し訳なさ。積み上げてきた思考はすべて濁流に呑まれ、あとには真っ白な灰のような脱力感だけが残っていた。

    ​ その静寂を破ったのは、入り口から響く二人の足音と、石器が触れ合う「カチャカチャ」という乾いた音だった。

    ​ 現れたのは、マイとマサナだった。マイは部屋に入るなり、混乱の極致にあるエンドウの顔を一度だけ見見据え、手にした食器を丁寧に床に置いた。そして、無言で深く、重みのある頷きを見せた。

    ​ エンドウには、その頷きが絶望への引導なのか、あるいは別の何かなのか、解りかねていた。

    ​ だが、マイの行動に迷いはなかった。彼女は躊躇(ちゅうちょ)なく隣室へ踏み込むと、戸惑うミキの左腕を万力のような力で掴み取った。

    ​「なによ! 何するのよ! 痛いんだけど!」

    ​ 悲鳴を上げるミキを、マイは一言も発することなく、そのまま引きずるようにして外へ連れ出した。日頃から重い土器を運び、男顔負けの労働をこなすマイの握力は、甘やかされて育ったミキの抵抗など歯牙(しが)にもかけない。腕を振りほどこうと暴れるたび、関節に鋭い痛みが走り、ミキはすぐに自分の無力さを悟って抵抗を止めた。

    ​ マイが向かったのは、エンドウがこの村に授けた、竹管から水が溢れ続ける給水場だった。その傍らには、ろ過された清水がたっぷりと満たされた大きな土器の瓶(かめ)が鎮座していた。

    ​ マイはおもむろにミキの髪を掴むと、問答無用でその頭部を瓶の中に沈め、押し込んだ。

    ​「プッ、プハッ! ゴボ、ゴボッ……!」

    ​ 水中で喘(あえ)ぐミキ。そのあまりに苛烈(かれつ)な様子に、後を追ってきたマサナとエンドウが色をなして叫んだ。

    ​「ま、マイ! 何を……!?」

    ​「マイさん、ダメだ! やめてくれ!」

    ​ 二人の脳裏には、改心の見込みがないモンスターを処刑しようとするマイの姿が浮かんでいた。だが、心配する二人を余所に、マイの口角がわずかに上がった。彼女は水の中に手を突っ込み、ミキの顔を、まるで泥だらけの芋でも洗うかのような手つきでゴシゴシと力強く洗い上げたのだ。

    ​ やがてマイが手を離すと、ミキは地面に崩れ落ち、肩で激しく息をついた。マイは濡れた手を自らの衣で拭き取ると、立ち尽くす二人に真っ直ぐ向き直った。

    ​「エンドウ様。私はマサナの話を聞き、この女がしたことや、エンドウ様が抱いている恐怖に、私なりの思いを馳せてみました」

    ​ 彼女の瞳には、先ほどの狂気のような激しさはなく、深い静寂が宿っていた。

    ​「そして、気づいたのです。この女は、祟り神でも怪物でもありません。もしそうなるのだとしたら、私たちがそうしてしまったことになります。……この女は『赤ん坊』です。生まれたばかりの赤ん坊と同じなのです」

    ​「赤ん坊……?」エンドウが呆然と繰り返す。

    ​「そうです。赤ん坊は喋ることもできず、私たちの言葉を理解しません。腹が減れば泣き、眠くなれば寝る。自分のためだけに生きている。……どうですか、この女と同じだと思いませんか?」

    ​ マイはミキを見下ろし、慈しむような、しかし厳格な響きを込めて続けた。

    ​「だから、私はこの女を赤ん坊として接することにしました。言葉も、しきたりも、一から教えればいい。幸か不幸か、私たちには今は子がおりません。エンドウ様がこの世界で命を全うされるなら、私たちはこの女を『娘』として育て、普通の村人にします。それが、私たちの恩人であるエンドウ様への何よりの恩返しです」

    ​ マイは夫であるマサナを振り返り、悪戯っぽく、いつもの屈託のない笑顔を見せた。

    ​「マサナ、黙っていてごめんなさい。しつけるには、生まれたばかりの無垢な状態が一番だと思ったの。この女に先入観を与えたくなかった。顔を洗ったのも、赤ちゃんにはしてあげるでしょ? なんならお尻だって拭いてあげるわよ」

    ​ その笑顔を見た瞬間、エンドウの心にこびりついていた悪夢の冷気が、朝日を浴びた霜のように、しゅん、と音を立てて消えていくのを感じた。


    第四十話:聖域の朝食と、交わらぬ言葉

    ​ エンドウは、全身を雷に打たれたような衝撃に貫かれ、その場に釘付けになっていた。

    ​「な、なんという……」

    ​ マサナといい、マイといい、彼らは一体どれほど巨大な人間としての器を持っているのか。先入観や既成概念が何の役にも立たないことを、たった今学んだばかりではなかったか。

    ​ エンドウは、かつての部下であるミキを「分別ある成人」という枠組みでしか捉えていなかった。ハラスメントという概念が染み付いた組織人として、他者のテリトリーに踏み込むことを「ご法度」としてきた。その、一見理性的でスマートな節度が、ここでは致命的な足枷(あしかせ)となっていたのだ。

    ​ 常に「生」か「死」かの境界線上で生きる者たち。その過酷な環境こそが、彼らの研ぎ澄まされた洞察力の源泉なのだ。

    ​(私がいた恵まれた環境は、彼らのような人々が積み上げてきた知恵の果てにあるものに過ぎない。私の知恵など、最初から必要なかったのだ……)

    ​ エンドウは、自らの存在意義を根本から否定し、徹底的に自分を追い込んでいた。そんな彼を尻目に、マイは「しつけ」という重労働を終えた後のような、晴れやかな声を上げた。

    ​「さあ、朝ごはんの時間ですよ。帰りましょう」

    ​ 明るい声とは裏腹に、マイがミキへ視線を向けると、そこには容赦のない「教育者」の鋭さが宿っていた。

    ​「ヒイッ!」

    ​ また何かをされる――。本能的な恐怖に突き動かされ、ミキは短く悲鳴を上げた。マイが顎をクイッと家の方向へ動かす。座り込んだまま動こうとしないミキ。痺(しび)れを切らしたマイが再びその腕へ手を伸ばそうとした瞬間、ミキは弾かれたように跳ね起きた。万力のような握力の記憶が、彼女の身体に「従順」を強制していた。

    ​「皆さん、行きますよ」

    ​ ミキは、縋(すが)るような視線をエンドウへ送る。助けてほしい、抗議してほしい。その無言の訴えに対し、エンドウは「ついて行きなさい」と、絞り出すような声を返すのが精一杯だった。

    ​(えっ……? このおじさんも、この人たちに脅されているの?)

    ​ 状況が全く見えていないミキは、自分勝手な想像力で、エンドウまでもが自分と同じ「被害者」であるという壮大な勘違いを抱き始めていた。

    ​ 四人は、エンドウの家へと戻ってきた。マイが床に置かれた土器を指し示す。

    ​「朝、マサナが獲ってきた魚です。もう冷めてしまいましたけど、召し上がってください。私たちも朝食の時間なので、失礼しますね」

    ​ マイは家の出口へ向かったが、マサナは不安げに足を止めていた。「この二人だけにして大丈夫か」という懸念がその表情に滲(にじ)んでいた。だが、マイは迷うことなく夫の腕を取り、彼を外へと促した。

    ​ 夫婦の足音が遠のくのを見届けた途端、ミキが爆発した。

    ​「はぁ?……なんなの? あの人たち! エンドウさん、見てよ、この腕!」

    ​ 突き出された左腕は赤く、マイの手の形に腫れ上がっていた。

    ​「あんなのパワハラよ! あんな暴力、信じられない!」

    ​ エンドウは思わず、乾いた笑いを漏らした。

    ​「フッ、パワハラか……」

    ​「エンドウさん! なんとかしてよ! 言葉がわかるんでしょ?」

    ​ 今のエンドウには、ミキに何かを言い返したり、諭したりする気持ちは一片もなかった。ただ、目の前の現実に身を任せることしかできない。

    ​「……せっかくだ、いいから食べなさい」

    ​「食べろって、これだけ!? 果物とか、お肉はないの? ねぇ、ねぇってば! こんな魚だけじゃ死んじゃう! もういい、死んでやるんだから!」


    第四十一話:再生の土壌と、母の強さ

    ​「こんな俺でも、腹は減るのか……。食べなければ、死ぬな……」

    ​ エンドウは自嘲気味に呟(つぶや)いた。「死んでやる!」と喚(わめ)いていたミキの声を思い出した。だが、これまでの人生で、本当に死ぬ覚悟のある者が「死ぬ」と騒ぎ立てる場面にお目にかかったことはない。ミキへの心配は、今の彼には微塵(みじん)もなかった。

    ​ エンドウは一人、マイが焼いてくれた魚を淡々と口に運んだ。食べ終えると、彼は無意識のうちにいつもの「作業」を始めていた。この時代において「ゴミ」という概念は存在しない。狩猟や漁で得られた獲物は、皮から骨に至るまで、すべてが神から授かった尊い資源だった。魚の身や内臓は血肉となり、骨は布を縫う針や釣り針へと姿を変える。利用できない鱗(うろこ)やヒレは、特定の場所に集められ、土中の昆虫や微生物の糧となり、やがて作物を育てる豊かな肥料として循環していく。

    ​ エンドウが数ヶ月かけて村に定着させた、いわば「縄文式リサイクルステーション」。そこへ残飯を運び込んだエンドウの目に、先客であるマイの姿が映った。

    ​「マイさん、さっきは……本当にありがとう。私の我儘(わがまま)で、あなたにとんでもない重荷を背負わせてしまったのではないかと、そればかりが心配で……」

    ​ うつむき加減に話しかけるエンドウに、マイは作業の手を止め、茶目っ気たっぷりに首を傾げた。

    ​「エンドウ様? 私をあまり見くびらないでいただけます? これでも村長の妻、意外と強いのですよ。いくらエンドウ様の頼みとはいえ、できないことはできないとハッキリ申し上げます。……それに、あの子のことは私が自分で決めたことですし」

    ​ マイは立ち上がると、エンドウを真っ直ぐに見据えた。

    ​「私の強さ……まだ、ご存じないのですか?」

    ​「い、いや……それはもう、じゅうぶんに……」

    ​「あ! 今、エンドウ様ったら、私のことを男勝りな女だ、なんて思いましたね!」

    ​「い、いや……ハハハ……」

    ​ 乾いた喉から、数ヶ月ぶり、あるいは数年ぶりかと思うほど清々しい笑い声が漏れた。いつもこの屈託のない笑顔に救われ、活力を分けてもらっている。同時に、その眩(まぶ)しさに己の至らなさを突きつけられることもあるが、今はただ、その温かさが心地よかった。

    ​ ふと、マイがエンドウの手元にある魚の骨を覗き込んだ。

    ​「エンドウ様……今持ってこられた魚の残り、一人分ではありませんか?」

    ​ 彼女の鋭い指摘に、エンドウは言葉を詰まらせた。

    ​「あの女……ええと、名前は何でしたっけ?」

    ​「ミキです」

    ​「メキ?」

    ​「……ミキです」

    ​「ミチ?」

    ​「ミ・キ」

    ​「メチ?」

    ​「ミ・キ」

    ​「ミキ?」

    ​「そうそう、そうです。上手になりましたね」

    ​ 縄文人にとって、現代日本語の発音は酷く困難なもののようだ。だが、その滑稽(こっけい)なやり取りが、エンドウの心をさらに解きほぐしていった。

    ​「エンドウ様、行きましょう」

    ​「ま、待ってください!」

    ​ 覚悟を決めた足取りでエンドウの家へと引き返すマイ。杖を突き、痛む脇腹を庇(かば)いながら、エンドウは必死にその後を追った。「赤ん坊」のしつけが、再び始まろうとしていた。


    第四十二話:断絶の火花と、一万年前の鉄拳

    ​ マイの足取りは、まるで獲物を追う狩人のように無駄がなく、力強かった。深い傷を負い、杖を頼りによろめくエンドウが、その背中に追いつけるはずもなかった。距離にしてわずか数十メートル。だが、その差は残酷なほどに開き、マイの姿は一瞬で家の闇へと吸い込まれていった。

    ​「ミキーッ! ミキーッ!」

    ​ 覚えたばかりの名を、マイは叫んだ。それは出会いを祝う呼び声ではなく、迷える獣を呼びつける峻烈(しゅんれつ)な咆哮(ほうこう)だった。

    ​「ハァッ……ハァッ……!」

    ​ 肩で息をし、傷口の焼けるような痛みに顔を歪めながら、エンドウがようやく家の入り口に辿り着いたとき、その光景は網膜に焼き付いた。薄暗い部屋の真ん中、マイがミキの鼻先に、全く手付かずのままの魚を突きつけていた。マサナが獲り、マイが心を込めて焼いた、神聖な朝食の主役だ。

    ​「いらないわよ、そんな物!」

    ​ ミキの金切り声が、静かな部屋に不協和音を響かせる。

    ​「大体、醤油も塩もかかってないじゃない! 味もない、冷めきった魚なんて食べられないわよ! 不潔だし、あり得ない!」

    ​ マイにとって、ミキの紡ぐ言葉は意味を持たない雑音でしかない。だが、目の前の「赤ん坊」が贅沢を並べ、神の恵みである食料を侮辱していることは、その表情と声の響きから痛いほどに伝わっていた。

    ​「んっ! んっ!」

    ​ マイはさらに、強引に魚を押し付けた。調理から時間が経ち、脂の酸化した重苦しい生臭さが、ミキの鼻腔(びくう)を突く。

    ​「んもーっ! 臭いーっ! やめてよ!」

    ​ 激昂したミキは、目の前の魚を思い切り払いのけた。

    ​「べシャッ」

    ​ 無慈悲な音を立てて、黄金色に焼かれた魚の身が土壁に叩きつけられた。バラバラと床の土にまみれて落ちていく。

    ​ その「べシャッ」という音が消えぬ間に、もう一つの、より硬く、より鋭い破裂音が部屋を震わせた。

    ​「バシッ――!!!」

    ​ その瞬間、ミキの身体は魚が飛んだ方向とは真逆の壁へと、文字通り「吹っ飛んだ」。

    ​ マイが、渾身の力でミキの頬を張り飛ばしたのだ。縄文の過酷な日常で練り上げられたその腕は、今や「しつけ」の域を超え、生命を軽んじた者への断罪の鎚(つち)と化していた。飽食の時代に育ったミキの脆弱(ぜいじゃく)な骨格にとって、それは抗いようのない暴力の極致だった。

    ​ ミキは人生で初めて、正真正銘の「衝撃」を食らった。まるで映画の一場面のように、首が一回転するのではないかという勢いで頭が振られ、脳が揺れる。堪らず吹き飛んだ彼女の身体は、力なく床に横たわった。意識が断絶し、失神したミキの唇の端からは、鮮紅色の血がうっすらと滲(にじ)み、土間に滴(したた)り落ちた。

    ​ エンドウは、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。現代社会の「暴力」という言葉では片付けられない、生命そのものの否定に対する「教育」という名の制裁。

    ​「こ、これが……マイの『しつけ』なのか……?」

    ​ エンドウの震える声に応える者はなかった。マイは、土にまみれた魚の身を、まるで神への供物でも拾うかのような真剣な眼差しで見つめ、静かに手を伸ばした。


    第四十三話:浄化の祈りと、赤ん坊の拘束

     マイは、失神して泥土に横たわるミキには、もはや視線ひとつ向けなかった。

    ​ 彼女が真っ先に向かったのは、壁際に散らばった魚の残骸のもとだった。土にまみれた神からの贈り物を、ひとつひとつ、壊れ物を扱うような手つきで丁寧に拾い集める。それを石器の皿の上に、まるで初めからそうであったかのように美しく並べ直した。

    ​ マイは、エンドウが現代から持ち込んだ遺物を収めている木箱の台を、即席の祭壇に見立てて皿を供えた。そして、静かに膝をつき、祈りを始めた。唇を微かに動かし、太古から伝わる精霊への謝罪と感謝を捧げるその横顔には、不可侵の神聖さが宿っていた。

    ​ エンドウはその気高さに打たれ、導かれるように彼女の傍らに跪(ひざまず)いた。

    ​ ひとしきり祈りを終えると、マイは憑き物が落ちたような、いつもの朗らかな笑顔に戻って立ち上がった。

    ​「エンドウ様。すみません、ちょっとだけ……力が入っちゃいました」

    ​ エンドウは言葉を失った。あの凄まじい一撃は、感情に任せた爆発ではなかったというのか。神の恵みを踏みにじられるという、この時代において最大級の侮辱を受けてなお、彼女は冷静な「教育者」としての制御を失っていなかった。底知れないマイの懐の深さに、エンドウは驚愕を通り越し、畏怖の念さえ覚えた。

    ​ だが、不思議なことに、今後の「しつけ」への不安よりも、胸のすくような爽快感がエンドウの心を支配していた。

    ​ マイは無造作にミキの足元へ歩み寄った。

    ​「いつまで寝ているの! 起きなさい! ほらっ!」

    ​ マイがミキの腕を掴もうと手を伸ばした瞬間。

    ​「ヒー――――ッ!!」

    ​ ミキは、弾かれたバネのように飛び起きた。

    ​「な、なにがあったの……? 目の前に、火花が散って……」

    ​ 頬を張られた経験など一度もない令和の娘は、自分の身に起きた物理現象を理解できずにいた。

    ​「イタタタッ……」

    ​ 抗議しようと口を動かした拍子に、裂けた口内から血が溢れた。鉄の味が広がり、彼女は初めて事態を認識した。

    ​「殴ったの……? この女が、あたしを殴ったの!? 許せない……!」

    ​ ミキは逆上し、震える拳を握りしめてマイへと一歩踏み出した。やられたらやり返す。それが彼女の知る、唯一の対等な関係の示し方だった。

    ​ だが、マイがふと向けた視線の鋭さに、ミキの身体は凍りついた。それは人間を睨む目ではなく、獲物の急所を見定める肉食獣のそれだった。自分の一挙手一投足が、次の瞬間にはさらなる壊滅的な衝撃となって返ってくることを、細胞の一つ一つが理解させられる。

    ​ ミキはそこまで愚かではなかった。朝からの圧倒的な力の差、そして先ほどの衝撃。野生の猛獣を前にした小動物のように、本能が「逆らうな」と警鐘を鳴らしていた。彼女は人の殴り方すらわからず、向かっていく勇気もなかった。

    ​ 矛先は、必然的に唯一の同胞であるエンドウへ向いた。

    ​「エンドウさん! こいつのこと、やっつけてよ! もう耐えられない! ……ねえ、聞いてるの!? 何とかしてよ!!」

    ​ ミキは涙目でエンドウに縋(すが)りつこうとした。だが、エンドウは一歩も動かず、ただ冷徹な眼差しで彼女を見つめ返した。その瞳には、かつての部下への慈しみも、現代人同士の連帯感も微塵もなかった。ただ、自業自得の結末を見届ける部外者のような、氷のように冷ややかな沈黙があるだけだった。

    ​ 自分を見捨てたのだと悟った瞬間、ミキの顔が屈辱で歪んだ。

    ​「……なんだよ、このクソジジイ! 役に立たねーな!!」

    ​ 目から血が出るほどの怒りと、極限の興奮。剥き出しになったミキの育ちの悪さが、呪詛となってエンドウに浴びせられる。しかし、エンドウは微動だにしなかった。

    ​ マイが再び動き出した。聞き取れぬ言葉で、何かを厳しく命じる。

    ​「何言ってるか分かんねーんだよ! コノヤロー!!」

    ​ 悪態をつきながらも、ミキは腰を引いて後退りした。

    ​「く、来るな! 来るなーッ!!」

    ​ 逃げ場のない狭い住居の中、ミキはあっけなく角に追い詰められ、その細い手首を掴み取られた。

    ​「……っ!」

    ​ 逃れられぬ万力の力。ミキは絶望とともに観念した。

    ​ マイはいつの間にか用意していた麻紐(あさひも)を取り出すと、手慣れた手つきでミキの両手を縛り上げた。それは自由を奪うためだけではなく、ミキが暴れて「神からの贈り物」である家財を壊さぬようにするための、マイなりの配慮でもあった。

    ​「さあ、行きますよ」

    ​ マイは縛り上げた紐の端を掴むと、再びミキを外へと引きずり出した。向かう先は、先ほどの川だ。

    ​ 初秋の風が、ミキの腫れ上がった頬に容赦なく吹き付けた。


    第四十四話:落日の洗礼と、鏡の川面​

      エンドウは事の成り行きを見届けるため、疼(うず)く脇腹を庇(かば)いながら、二人の後を追った。

    ​ 太陽はすでに西の稜線にかかり、初秋の長い影を大地に引きずっている。この時刻、村人たちは一日の労働を終え、家々で夕食の支度を始めているはずだった。

    ​ エンドウは、前を行く二人の背中を見つめながら、ある戦慄(せんりつ)を覚えていた。

    ​(……マイさんは、これも計算しているのか?)

    ​ 村を挙げて捜索し、丁重に迎えるべきはずの「客人」。その女の両手を縛り、罪人のように引き連れて歩く姿を、あえて村人の目に触れにくいこの時間帯を選んで行っているとしたら。朝の騒動も、まだ村人が動き出す前の静寂の中だった。

    ​ もし、この一連の行動が村の秩序とミキの尊厳、そしてエンドウの立場までを考慮した「計算」の上のものだとしたら。

    ​(令和のコンピューターさえ及ばない、生命としての演算能力……)

    ​ エンドウは、初秋の風とは別の冷たさが背筋を走るのを感じた。

    ​ 川岸に到着した三人の前に、夕陽を照り返す川面が鈍く光っている。

    ​ 立ち止まり、水面を見つめていたミキの背後で、マイが一歩下がった。刹那、マイの鋭い踏み込みとともに、両掌(りょうしょう)がミキの背を突き飛ばした。

    ​ 不意を突かれたミキは、もんどり打って川の中へと突っ伏した。

    ​「キャーッ! 冷たーッ!!」

    ​ 冬にはまだ遠いとはいえ、山の水は容赦なく体温を奪う。水深は腰より浅いが、全身を濡らすには十分すぎる量だった。ミキはパニックに陥り、必死で岸へ這い上がろうとする。

    ​「ミキーッ!」

    ​ マイの鋭い制止の声が飛んだ。その場に留まれという、問答無用な手振りの命令。そしてマイは、ミキの足元を指差すジェスチャーを加えた。

    ​ ガチガチと歯の根を鳴らしながらミキが視線を落とすと、そこには夕方の柔らかな陽光を鱗に反射させ、キラキラと輝く魚たちの群れがあった。ゆったりと、しかし力強く泳ぐその姿は、見る者が異なれば神聖な儀式のようにも映っただろう。

    ​ ミキにそこまでの感興を抱く余裕はなかったが、それでも気づいた。その群れの中に、先ほど自分が台無しにし、壁に叩きつけたのと同じ命が、確かに息づいていることを。

    ​ マイは、ミキがその光景を網膜に焼き付けるのを待って、ようやく岸へ上がるよう手招きした。

    ​ 水から上がってきたミキは、震えが止まらず、唇を紫に変えていた。濡れた身体を優しく拭うバスタオルも、凍えた肌を温めるドライヤーもここにはない。あるのは、マイが無造作に放り投げた、麻を粗く編んだ布きれ一枚だった。

    ​ それでも、今のミキにとっては、それが唯一の救いの綱だった。ミキは獣のようにその布に包まり、震え続けた。

    ​「さあ、戻りましょう」

    ​ マイはエンドウに向き直り、何事もなかったかのような静かな声で告げると、迷いのない足取りで踵(きびす)を返した。

    ​ 背後では、濡れ鼠になったミキが、ただ茫然と、夕闇に沈みゆく川面を見つめていた。


    第四十五話:残り火の慈愛と、結ばれた絆

     三人が家に戻ると、闇の端(は)に揺らめく橙(だいだい)色の光が彼らを迎えた。

    ​ 部屋の中にはマサナがいた。近頃めっきり冷え込んできた夕刻の空気を案じ、負傷したエンドウの身体を温めるために、焚(た)き火を絶やさず守ってくれていたのだ。

    ​ 土間にしつらえた炉からは、爆ぜる木の音とともに、柔らかく、包み込むような熱が溢れていた。冷え切った家屋がほんのりと温まったその空間は、まさに極楽のようだった。エンドウはこの無言の気遣いに、胸が熱くなるのを感じた。

    ​ しかし、その温もりを誰よりも切望し、貪(むさぼ)ったのはミキだった。

    ​「……あ、あったかい……っ!」

    ​ 火の光を見た瞬間、彼女はエンドウたちをかき分けるようにして炉端へと駆け寄った。麻の布に包まり、ガチガチと歯の根を鳴らしながら、縋(すが)るように炎に手をかざす。その姿は、文明の傲慢(ごうまん)さを脱ぎ捨てた、ただの凍えた小動物そのものだった。

    ​ エンドウは、炉の傍らに立つ夫婦に向き直った。

    ​「マイさん、マサナ……今日は本当に、ありがとう。心から感謝します」

    ​ エンドウの深々とした一礼に、マサナは照れくさそうに鼻の頭を掻いた。

    ​「エンドウ、堅苦しいことは言いっこなしだ。俺たち三人は、死ぬまで一心同体だと言ったろう。これくらい、当たり前のことだ」

    ​ その隣で、マイがいつものように悪戯(いたずら)っぽく、しかしどこか誇らしげに微笑んだ。

    ​「エンドウ様。あなたの国のことは分かりません。ですが、これが私たちの村の『子供へのしつけ』なんです。……私たちには子がおりませんから、一度やってみたかったんですよ。へへへッ」

    ​ 彼女は戯(おど)けて見せたが、その言葉の裏には、ミキの傲慢さを折り、生存の基本を叩き込むための血の通った計算があった。エンドウは改めて、この女性の持つ母性と理性の深さに圧倒された。

    ​「マイさん……。私は、あなたとマサナ以上に信頼できる者を他に知りません。これからも、どうかよろしくお願いします」

    ​「こちらこそ。それでは、夕食の時間ですので、これで失礼しますね」

    ​ マイはそう言うと、夫の腕を引いて出口へと向かった。

    ​ 二人の影が夜の闇に溶け込んでいくのを、エンドウはいつまでも、深く頭を下げたまま見送っていた。

    ​ 一万年前の過酷な大地で、自分を「家族」として迎え入れてくれた二人の背中は、どんな現代の知識よりも大きく、そして温かかった。


    第四十六話:母性の深淵(しんえん)と、微かな火

     土間で燃え盛る炎は、外の暗闇を撥ね退(の)けるように力強く爆ぜている。その熱を吸い込むようにして丸まっているミキは、今はまるで震える子猫のようだった。この激しい炎は、彼女の氷のように閉ざされた心までも溶かしてくれるのだろうか。

    ​ マイという女性は、多くを決して語らない。しかし、その一挙手一投足は、常に静かな愛情に満ち溢れている。それは今、この厄介な異邦の娘に対しても例外ではなかった。

    ​ エンドウの脳裏には、かつてこの家で共に過ごした、あの日々の光景が浮かんでいた。

    ​ 成人して山へと旅立った義子、カイ。彼は血の繋がりこそなかったが、マサナを実の父のように仰ぎ、そして何より母であるマイを心から敬愛していた。あの三人の間に流れていた空気は、血縁を超えた「真の家族」そのものだった。

    ​ マイがそんな息子をどれほど慈しんでいたか、エンドウは痛いほどに知っている。それなのに、彼女はあえて「私たちには子供がいない」と口にしたのだ。

    ​ カイを育て上げた自負も、その思い出さえも一度脇に置き、目の前の「赤ん坊」……ミキと向き合うために。過去の経験をなぞるのではなく、この娘のためにまっさらな「母」になろうというのか。

    ​ その、凄まじいまでの覚悟に、エンドウはただ圧倒されるしかなかった。マイにとっての「しつけ」とは、単なる教育ではなく、己の魂を削って対象を包み込む「命の再構築」なのだ。

    ​ そんな想いに耽(ふけ)っていたとき、入り口の影が揺れた。

    ​「エンドウ様、今夜は干し肉と汁物を作ってきました。これで少しは温まると思いますよ」

    ​ マイの声が部屋に響く。彼女の優しい目は、一瞬だけ、炉端にうずくまるミキをチラリと捉えた。

    ​ マイの声を聞いた途端、ミキの身体が目に見えて怯(ひる)んだ。先ほどまでの傲慢さは影を潜め、本能的な恐怖が彼女を支配している。だが、差し出された干し肉を視界に入れた瞬間、ミキはそれまでの葛藤をかなぐり捨てて食らいついた。

    ​ よほど空腹だったのだろう。現代の礼儀も、衛生への懸念も、猛烈な飢えの前では無力だった。

    ​「マイさん、いつもありがとう。私のこの傷が治ったら、食料は自分で調達します。いつまでも甘えてはいられない」

    ​ エンドウがそう告げると、マイは困ったように、しかし慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

    ​「水臭いことは言いっこなしの約束ですよ。どうせこれからは、毎日ここに来るのですから……ね」

    ​ そう言い残すと、彼女は夜の闇の中へと静かに戻っていった。

    ​「毎日ここに来る」……その言葉の響きに、エンドウはこれから始まる「更生」の、逃れようのない徹底ぶりを予感せずにはいられなかった。


    第四十七話:解けぬ氷と、川面の残像

     マイが去った後の部屋には、重厚な静寂が戻ってきた。

    ​ ただ、炉の中で薪が爆ぜる音だけが、生き物の鼓動のように規則正しく響いている。高く立ち上がる炎が、土壁に踊るような影を投げかけ、部屋の隅々まで橙色の光で満たしていた。

    ​ 火の熱を間近で受け、何より干し肉を腹に流し込んだことで、ミキの顔にはようやく生気が戻りつつあった。外部からの熱と、内側から燃え上がる代謝のエネルギー。青白かった頬にはうっすらと赤みが差し、死にかけていた生命力が無理やり呼び戻されていく。

    ​ だが、彼女の瞳に宿る冷ややかな光までは、この炎でも溶かし切ることはできなかった。

    ​ ミキは空になった石器の皿を乱暴に床へ押しやると、忌々しげに吐き捨てた。

    ​「……あいつ、何様のつもりだよ。毎日来るなんて。あたしをペットか何かだと思ってんのかよ」

    ​ その言葉は刺々(とげとげ)しかったが、声には先ほどまでの激昂した勢いがない。強がりを並べる口元がわずかに震えているのを、エンドウは見逃さなかった。彼女の脳裏には、先ほど川に突き落とされた瞬間の情景が、消えない残像として焼き付いているのだ。

    ​ 背中に感じたマイの手の、容赦のない硬さと力強さ。

    ​ 視界が反転し、冷気が全身を貫いた瞬間の恐怖。

    ​ そして、水面を滑る魚たちの、あの不気味なほどに清浄な輝き……。

    ​ ミキは縛られた手首を隠すように身体を丸めた。自分を突き放したあの川の冷たさを思い出すたび、腹を満たしたはずの体温が逃げていくような錯覚に陥り、再び小さく身震いした。

    ​「……あたしを、あんな冷たい水の中にぶち込みやがって。絶対、許さねー。あんな女、大っ嫌いだ……」

    ​ 剥(む)き出しになった言葉の礫(つぶて)が、静かな部屋に空虚に響く。彼女を覆う頑なな拒絶は、温かな食事と焚き火をもってしても、まだ粉砕するには至らなかった。

    ​ エンドウは視線を火から動かさず、震える拳を膝の上で握りしめた。

    ​ 喉の奥が熱い。これまでの人生で一度も口にしたことのないような卑俗な言葉が、胸の内で泥のように渦巻いていた。

    ​ だが、今のミキに、かつての課長としての丁寧な言葉など届きはしない。エンドウは意を決し、自らの品性を削り取るようにして、無理やり声を絞り出した。

    ​「おい……いい加減にしろよ。この……っ、アマ」

    ​ その言葉はひどくぎこちなく、どこか不自然に震えていた。ミキが弾かれたようにエンドウを見た。驚きで言葉を失っている彼女に、エンドウはさらに、慣れない罵倒を自分に強いて言葉を重ねる。

    ​「いつまで……被害者面してんだよ。あぁ? 自分がなんであんな仕打ちを受けたか、本気でわかってねえのか。……お前がさっき壁に叩きつけたのはな、ただの魚じゃねえんだ。この時代じゃ、それが『命』そのものなんだよ! それをドブに捨てるような真似しやがって……っ。マイさんにとってはな、神様から預かった宝物を踏みにじられたのと同じなんだよ」

    ​「……だって、あんな生臭いもの……」

    ​「うるせえ! 黙って聞け!」

    ​ エンドウは自分の怒号に、自分自身が驚いていた。心臓が早鐘を打っている。

    ​「お前、今朝水場の瓶に頭を突っ込まれたとき、何も感じなかったのかよ。……ジャイの村で、ゴミの浮いた溜め水の上澄みを啜(すす)らされてた時と、何が違うか考えもしなかったのか? あの透き通った水の冷たさが、この村の豊かさそのものなんだよ。お前が川に突き落とされたのもな、汚れきったお前のその根性を、一度川に流して、魚という命をその目で見ろっていう……彼女なりの『教育』なんだよ」

    ​ エンドウは初めてミキを正面から睨みつけた。その眼差しには、怒りと同じだけの悲しみと、焦燥が混じっている。

    ​「周りを見てみろ。この夜の明るさが当たり前だと思ってんのか。お前がいた村の部屋はどうだった。外に立てられた松明(たいまつ)も、この部屋を照らしてる蝋燭(ろうそく)もな……俺がこぼしたほんの少しのヒントを元に、村の連中が知恵を絞って作り上げたもんなんだよ。マサナも、マイさんも、村の連中も……みんな必死なんだ。生きるために、お前という『新しい命』を迎え入れるために、ここまで必死に環境を整えてるんだよ。ジャイの村の……お前にとっての地獄のような村とは違うんだ。お前は……その違いすら気づかねえのかよ」

    ​ 慣れない乱暴な口調を使うたび、エンドウの胸は痛んだ。だが、そうでもしなければ、この崖っぷちに立つ娘の手を掴(つか)めないという、悲痛なまでの願いが彼を突き動かしていた。

    ​「昔の部下だった頃のお前は、もう少しマシだと思ってた……。だが、今ここにいるのは、ただの甘ったれた餓鬼だ。いいか、ここは令和じゃねえんだ! コンプラも、お前を守ってくれる法律もねえ。生きるか死ぬか、それだけなんだよ。マイさんのしつけはな……お前を殺さないための、最後の、情けなんだよ……!」

    ​ エンドウの声が最後、微かに裏返った。ミキの鼻先に指を突きつけるその手は、隠しようもなく震えている。

    ​「分かってんのか。お前はもう、戻れねえんだ。この時代で、死ぬまで生きていくしかねえんだ。いつまでお姫様気取りでいるつもりだ? ……次にその口からくだらねえ悪態が出てきたら、俺が……俺がこの手で、お前をその火の中に、叩き込んでやるからな!」

    ​ エンドウを一気に言い切ると、激しい呼吸とともにガクリと肩を落とした。

    ​ 言葉の礫を投げつけた自分自身の心も、血を流していた。

    ​ ミキは、エンドウの豹変した……しかし、どこか必死で、不器用なほどに自分に届こうとする叫びに圧倒され、ただ激しく息を切らせていた。火と蝋燭の明かりに照らされたエンドウの顔は、どの村人よりも厳しく、そして、痛々しいほどに真剣だった。


    第四十八話:熱病の淵と、母性の灯火

     エンドウの怒声が止んだ後、部屋には耳が痛くなるほどの静寂が降りた。

    ​ ミキはただ、炎を見つめたまま固まっていた。エンドウが無理やり絞り出した言葉の礫(つぶて)は、彼女の心の奥底にまで突き刺さっていた。

    ​ もともと、ミキの人生には「他人のために必死になる」という概念が存在しなかった。彼女の育った環境では、誰もが自分のために他者を踏み台にし、愛や献身などという言葉は、安っぽいドラマの中だけの話だったのだ。人の思いがこれほどまでに重く、鋭く、命を懸けたものであることを、彼女は教えられたことも、経験したこともなかった。

    ​ エンドウが自分に届こうとして、慣れない汚い言葉まで駆使したその「執念」の意味。ミキの脳内はその理解不能な感情の重さに耐えきれず、ショート寸前の熱を発していた。

    ​ 長い、長い沈黙が流れた。

    ​ 全ての思いをぶつけきったエンドウは、激しい疲労感に襲われていた。言いようのない虚脱感が全身を包み込み、気づけば瞼(まぶた)が耐えがたいほどに重くなっている。彼は杖にもたれかかるようにして、ついには深い眠りへと落ちていった。

    ​ 一人取り残されたミキは、エンドウの規則正しい寝息を聞きながら、床に置かれた皿に手を伸ばした。汁物はすでに冷たく、脂が白く固まり始めている。だが彼女は、それを一心不乱に口に運び始めた。

    ​ 空腹が満たされるにつれ、ミキの身体にも抗いがたい睡魔が忍び寄る。しかし、意識が闇に沈むその直前、彼女の背筋を正体不明の、不気味な悪寒が通り抜けた。

    ​「……寒い」

    ​ その呟(つぶや)きを最後に、ミキは泥のような眠りに沈んだ。

    ​ 真夜中、エンドウは奇妙な唸(うな)り声で目を覚ました。

    ​ 焚き火はすでに消え、部屋の中はエンドウが教えたあの蝋燭(ろうそく)の、細く震える明かりだけが揺れている。壁に映る影が不気味に蠢(うごめ)く中、エンドウは暗闇の中に音の主を探した。

    ​「ミキ……?」

    ​ 唸り声はミキの口から漏れていた。彼女は土間に横たわったまま、激しく身体を震わせ、苦悶の表情を浮かべている。エンドウが這うようにして近づき、彼女の額に手を当てると、思わず手を引っ込めるほどの熱量を感じた。

    ​「ひどい熱だ……」

    ​ 解熱薬など存在しないこの時代。現代の知識を持ってしても、今すぐ彼女を救う術が思い浮かばない。エンドウは必死に解熱の知恵を絞り出そうとしたが、夜の闇の中ではどうすることもできなかった。彼は辛うじて手元にあった水で布を濡らし、ミキの額を冷やし続けることしかできない。朝が来ることだけを祈りながら、エンドウは再び、看病の疲れに意識を失った。

    ​ 翌朝、夜明けとともにマイが訪れた。両手には、湯気を立てる朝食の器を抱えている。

    ​「エンドウ様、朝食を持ってまいりましたよ」

    ​ マイの声は明るかったが、部屋からの返事はない。エンドウは床に突っ伏したまま眠り込んでおり、ミキもまた起きてくる気配がなかった。

    ​(まだ甘えているのかい、この子は)

    ​ マイは内心で苦笑し、ミキを叩き起こそうと歩み寄った。

    ​「いつまで寝ているんだい。さあ、起きな!」

    ​ マイがミキの肩を強く揺すった。しかし、返ってきたのは反抗の声ではなく、熱に浮かされたか細い呻(うめ)きだった。ミキの顔は真っ赤に火照り、髪は脂汗で張り付いている。

    ​ マイの顔から、一瞬で笑顔が消えた。

    ​「これは……」

    ​ マイは咄嗟(とっさ)に理解した。昨日の川での「洗礼」だ。冷たい水に長く浸らせ、夜の寒さに晒したことが、この異邦の娘のひ弱な肉体を壊してしまったのだ。

    ​「エンドウ様! 起きてください、エンドウ様!」

    ​ マイに揺り動かされ、エンドウが朦朧(もうろう)と目を覚ます。

    ​「マイさん……ああ、ミキが……」

    ​「原因は私です。私のしつけが過ぎました。エンドウ様、あなたの知恵を貸してください。この熱を、どうすれば……!」

    ​ マイの声には、昨日の厳しさは微塵もなかった。そこにあるのは、我が子が急病に倒れた時のような、切実な狼狽と深い悔恨だった。

    ​ エンドウは意識を振り絞り、薬草の知識をマイに伝えた。マイはそれを一字一句漏らさぬように聞くと、外に控えていたマサナに向かって、必死の形相で訴えかけた。

    ​「マサナ、お願いです! 薬草を……エンドウ様が仰る草を、今すぐ山から探してきてはいただけませんか。この子が、この子が死んでしまいます…

     マサナはマイの悲痛な叫びを真正面から受け止めると、無言で力強く頷き、風のように走り去った。

    ​ マイはミキの傍らに膝をついた。彼女は震える手でミキの汗を拭い、自らの体温で温めるようにして、その細い身体を抱き寄せた。

    ​「死なせやしない。あんたを、こんなところで死なせやしないよ……」

    ​ ここから、マイの献身的な、そして自分を責めるかのような壮絶な看病が始まった。マサナが山から持ち帰ったのは、ヨモギやシソの葉、および特定の樹皮だった。

    ​「化学物質としての解熱剤など、この時代には存在しない。あるのは、自然が蓄えた解毒の力だけだ……」

    ​ エンドウは記憶を絞り出し、マイに煎じ方を教えた。ヨモギは血を清め、シソは気を巡らせ、樹皮の苦味成分が熱を下げる助けとなる。それらを煎じ、発汗を促す。それが一万年前の「最先端の医療」だった。

    ​ マイは寝る間も惜しんで、薬草を煎じ、滋養のつく食材を調理し続けた。魚を解し、野草の根とともに煮込んだ粥(かゆ)を、赤子に含ませるようにミキの口へ運んでいった。

    ​ ミキは、終わりのない闇の中を走っていた。

    ​ 背後からは、得体の知れない黒い影が迫っている。それは現代社会で彼女を追い詰めた孤独であり、誰からも必要とされないという恐怖の塊だった。絶体絶命の淵に立たされたその時。

    ​ 温かな、大きな手が彼女の背中を支えた。

    ​ その手は泥だらけの彼女を優しく抱き上げ、凍てつく雨から遮るように包み込んだ。

    ​ 夢の中の「救い」と、現実でミキの身体をさすり続けるマイの手の温もりが、境界線を失って混ざり合っていく。ミキの心の氷は、エンドウの激しい言葉という「衝撃」で亀裂が入り、今、マイの献身という「体温」によって、静かに溶け始めていた。

    ​ 二晩が過ぎた夜明け、ミキの瞼が微かに震えた。

    ​「……あ……」

    ​ 焦点の定まらない瞳が、目の前でやつれた顔をして微笑むマイを捉える。

    ​「気がついたね。……よかった。本当によかった……」

    ​ 傍らでエンドウとマサナも、深い安堵(あんど)の溜息を漏らした。

    ​ ミキはわずかに身を起こしたが、マイが発する言葉の意味は、今の彼女にはまだ分からない。だが、マイの潤んだ瞳と、震える声の響きだけで、それが自分への深い慈しみであることは痛いほどに伝わってきた。

    ​ マイはミキの手を握りしめ、静かに、しかし一言一言を噛み締めるように語り始めた。

    ​「……ミキ。マイさんはね、こう言っているんだ」

    ​ エンドウが傍らで、静かに通訳を始めた。

    ​「あんたを川に沈めたのは、この土地の『生』を身体に刻んでほしかったからだよ。でも、私は焦りすぎた。……かつて私には、カイという血の繋がらない息子がいた。あの子を育てる時も、私は必死だった。いつか独り立ちするあの子が、どこへ行っても生きていけるように、時には鬼になって突き放した。でもね、あの子が家を去る時、私に言ってくれたんだ。『母さんの厳しさが、僕の命を守ってくれた』って」

    ​ エンドウの通訳を通じ、マイの視線がミキの魂に深く入り込む。

    ​「マイさんはこう言っている。あんたを、ただの異邦人として見ていない。あの子と同じように、この地で誇り高く生きる一人の『人間』に育て上げたいんだ。……あんたを、もう一度産み落とすつもりで向き合う。だから、ついておいで、と」

    ​ マイの告白を、ミキは絶句して聞いていた。

    ​ 自分のことを「ゴミ」のように扱っていたジャイの村の連中とも、ビジネスの道具としてしか見ていなかった現代の知人とも違う。この一万年前の女性は、言葉の通じない自分を「我が子」として認め、その未来にまで責任を持とうとしている。

    ​「……あたし……あたしなんて、ずっと、一人でいいって思ってた……。どうせ、誰も、あたしのことなんて……」

    ​ 堪えきれない嗚咽(おえつ)が、ミキの喉から溢れ出した。

    ​ それは赤ん坊が初めて上げる産声のようだった。ミキはマイの胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣き続けた。これまでの人生で溜め込んできた毒が、全て涙となって流れ落ちていくようだった。

    ​ わだかまりが、朝霧が晴れるように寛解(かんかい)していく。

    ​ エンドウは、その光景を眩しそうに見つめていた。

    ​「よし、ミキ。身体が治ったら、まずは『言葉』からだ。私が間に入るから、ゆっくり覚えていこう」

    ​ エンドウが優しく告げた。

    ​ こうして、一万年前の大地で、一人の女性を真の「人間」へと作り変える、真の意味での「しつけ」が幕を開けた。


    第四十九話:遠雷の報せと、文明の萌芽

    ​ マイによるミキの「しつけ」が始まってから、十日ほどの月日が流れた。

    ​ 言葉の壁は依然として高かったが、ミキの態度は見違えるほどに軟化していた。その変化を支えていたのは、マイが誇らしげに見せる「エンドウから授かった魔法のような知恵」の数々だった。

    ​「いいかいミキ。これはね、エンドウ様に教わった『蝋燭(ろうそく)』さ」

    ​ マイが獣脂を固めて作った芯に火を灯すと、土間は焚き火とは違う、静かで安定した光に包まれた。マイはさらに、エンドウの助言で作り直した、底の平らな土器を指差す。「これなら火にかけても倒れない。エンドウ様は『効率がいい』って仰ってたよ」

    ​ 食材を保存するために煙で燻(いぶ)す「燻製」の棚、水の腐敗を防ぐための煮沸の習慣。ミキは、エンドウの通訳を介してその説明を聞くたび、驚きに目を見開いた。自分が「野蛮人」だと思っていたこの村の人々が、現代人の知恵を貪欲に吸収し、生活を進化させようとしている姿に、彼女の偏見は少しずつ削り取られていったのだ。

    ​ 一方のエンドウは、来たるべき厳しい冬に備え、新たな「恩返し」に取り組んでいた。

    ​「薪だけでは、この寒さには耐えられない。火持ちが良く、煙の少ない『炭』が必要だ」

    ​ 彼は脇腹の傷による痛みに足を引きずりながらも、炭焼きに適した木材を集めるため、度々山へと足を運んでいた。かつてビジネスマンとして効率を追い求めた彼が、今は一族の生存のために泥にまみれて枝を拾い、山を往復している。

    ​ その山歩きの最中、エンドウの脳裏には、ある疑問が絶えず渦巻いていた。

    ​(あの日、我々をここへ送り込んだあの装置は、完全に失われたのだろうか)

    ​ 炭材を探すふりをしながら、彼は密かに自分の足跡を辿り、記憶の中の「座標」と照らし合わせる調査を始めた。

    ​ そんなある日の昼下がり、村の入り口に一人の見知らぬ男が現れた。あの地獄のようなジャイの村からの伝令だった。

    ​ 男は土下座せんばかりの勢いで平伏した。ミキという「災厄」が去ったことで、ジャイの許嫁(いいなずけ)も一命を取り留めたが、大地震の影響で川の水が枯れ始めているという。

    ​「どうか、あの村を救う知恵を貸してください……!」

    ​ エンドウは伝令から地形を細かく聞き出すと、土砂を取り除く「掘り割り」の構造を、身振り手振りで授けた。

    ​「いいか、必ず結果を知らせに来い。それまではマサナには……この村の者には、このことは伏せておけ」

    ​ 責任感の強いマサナが知れば、無理をしてでも村の男たちを連れて駆けつけてしまう。ミキが起こした騒動の後で、この村の住民を再び危険に晒(さら)すことなどできない。ジャイの許嫁は一命を取り留めたのだ。村に知恵を授けに行くのは、平穏が戻ってからでも遅くはないはずだ。

    ​ 伝令を見送った後、エンドウは再び山へ向かった。炭材を集める手を止め、方位磁石さえ狂う磁場の乱れを頼りに斜面を這い上がると、崖崩れの隙間に不自然に青く光る亀裂を発見した。その奥に、この時代に来てから目にすることのなかった金属の断片が見える。

    ​「タイムマシン……」

    ​ その瞬間、エンドウの脳内に、あの「契約」の声が流れ込んできた。

    ​『適合者一名ニ限リ、帰還ヲ許可ス――』

    ​ エンドウは息を呑んだ。帰還……? 一人だけ、令和へ戻れるのか?。しかし、適合者とは誰のことだ……。

    ​ この時代に馴染み、マイが教える「炭の並べ方」を不器用ながらに手伝い始めたミキの姿が脳裏をよぎる。この過酷だが温かい大地で生きることが彼女の幸せなのか、それとも、法と秩序のある世界へ帰すべきなのか。

    ​ エンドウは崩れた岩を見つめ、独り、震える拳を握りしめていた。いずれにしても単独での作業は不可能だ。この事実を、マサナに打ち明けるべき時が来ていた。


    第五十話:残された道と、親心

     山々の緑が少しずつ黄や赤に混じり始め、朝晩の風に肌を刺すような冷たさが混じるようになった。エンドウの脳内にある暦が正しければ、おそらく十月に入った頃だろう。

    ​ ミキの「しつけ」が始まってから一ヶ月余り。彼女がマイの指導の下、この地の言葉や生活の術を学び、かつての傲慢さを捨てて村の一員として馴染み始めた頃、エンドウは炭焼きのための準備を口実に、頻繁に山の奥へと足を運んでいた。

    ​ それは、越冬のための備えであると同時に、あの日以来沈黙を続けている「装置」の調査でもあった。

    ​ エンドウは杖を突き、かつて自分が投げ出された場所を執念深く探り続けた。そしてある日、ついに切り立った岩盤の隙間に、周囲の岩石とは明らかに異なる、鈍く冷たい光を放つ金属の肌を露呈させた。

    ​(やはり、ここにあったか……)

    ​ そこには光もなく、ただ異質な物質が静かに横たわっているだけだった。しかし、その金属に触れた瞬間、エンドウの脳内にあの不可解な「契約」の声が再び流れ込んできた。人間には到底理解しえないテクノロジーで作られたそれは、修理など受け付けない。ただ、装置が「再起動の条件」として提示したのは、適合者一名のみの帰還であった。

    ​ エンドウはこの事実を、自分一人で抱えきれなくなっていた。ある夕暮れ時、彼は炭材を運ぶマサナを呼び止め、その場所へと案内した。

    ​「マサナ、これを見てくれ。……あの日、我々をここへ運んできたものだ」

    ​ マサナは絶句した。土と岩に埋もれた無機質な金属の塊を見つめる彼の傍らで、エンドウはこれまで隠してきたことを話し始めた。ジャイの村からの伝令が度々訪れていたこと。彼らに川を再生させる知恵を授け、その対価として責任感の強いマサナには伏せておくよう口止めしていたこと。そして、この装置が突きつけてきた残酷な条件を。

    ​「……戻れるのは、一人だけなのか」

    ​ マサナの問いに、エンドウは重く頷いた。

    ​「そのはずだ。誰が作ったかもわからんこの機械は、そう言っている。岩盤を取り除けば起動するはずだ。しかし、戻るには条件があるようだ」

    ​「条件とは……?」

    ​「分からん……。『適合者』としか言わない。誰が適合者なのかも、今は……」

    ​「だが、あんたとミキがこの装置でこの時代に来たことは間違いない」

    ​ 二人の間に、冷え込み始めた山の空気が流れる。マサナは、最近では不器用ながらもマイの仕事を手伝い、笑顔を見せるようになったミキの姿を思い浮かべた。

    ​「エンドウ。あんたはどうしたい」

    ​「たとえ私が適合者であっても、私はこの時代に残るよ。……ミキは今、この大地で懸命に生きようとしている。だが、もし彼女に『未来』を選ばせてやれる可能性があるのなら、私はミキが適合者であることに賭けたいんだ」

    ​「だから俺は泥にまみれてでも、この岩をどかしたい……か」

    ​ マサナは深く頷いた。彼もまた、共に過ごすうちにミキを本当の娘のように慈しみ始めていた。

    ​「わかった。マイにも話そう。あの女なら、俺たち以上にミキを帰したがるはずだ。あいつの『母性』は、抱きしめることだけじゃない。送り出してやることでもあるからな」

    ​ その夜、囲炉裏の火を囲みながら、二人はマイに全てを打ち明けた。

    ​ マイは二人の話を聞き終わると、燃える火を見つめて長く沈黙した。やがて静かに、しかし決然とした口調で言った。

    ​「やりましょう。あの子には、あの子がいるべき場所がある。……でも、ミキには絶対に内緒だよ。あの子がそれを知ったら、きっと自分から『残る』と言い出してしまうからね」

    ​ 翌日から、エンドウとマサナは村の有力者数名にだけ事情を話し、極秘の岩盤撤去作業が始まった。

    ​「冬に備えての、大規模な防風壁の構築だ」という嘘の名目のもと、村人たちはエンドウの物理学的な指揮に従い、巨岩を動かすためのテコやコロを作り、それを運び込んだ。

    ​ この頃のミキは、すっかり村にも馴染み、マイと一緒に家で秋の収穫物の保存を手伝っていた。その間、男たちが山で血の滲むような作業を続けていることをマイは知っている。すべては、自分たちの寂しさを押し殺し、一人の娘の「未来」を繋ぐためだということを。

    ​ 岩盤が少しずつ、その重厚な腰を上げ始めていた。


    第五十一話:天の咆哮と、絆の集結

     「防風壁を作る」という名目のもと、山の斜面では連日、男たちの荒い息遣いと石が擦れ合う鈍い音が響いていた。エンドウの指揮は精密だった。巨大な丸太を並べた「コロ」の上に岩を乗せ、テコの原理を最大限に利用して、一万年前の腕力だけでは不可能な重みを少しずつ動かしていく。

    ​ だが、この一ヶ月で誰よりもエンドウの背中を見てきたミキは、その「不自然さ」に気づいていた。炭材を集めるにしては、エンドウが山へ向かう時の眼差しはあまりに鋭く、そしてどこか悲痛な決意を秘めていたからだ。

    ​ ある日の午後、エンドウが再び村の有力者たちを伴って山へ向かうのを見て、ミキは直感した。

    ​(エンドウさんも、マサナさんも……あたしに何か隠してる)

    ​ 彼女はマイに「少し摘み草をしてくる」と嘘をつき、物陰に身を潜めながら、一行の跡を追った。

    ​ 一方、マイはミキを送り出した後、手元の籠を置いた。彼女は気づいていたのだ。ミキがエンドウたちを追って行ったことはもとより、マサナが昨夜、眠りにつく前に見せた寂しげな横顔。エンドウが今朝の出発前に自分に投げかけた、申し訳なさそうな視線。そして、エンドウが以前こぼした「いつかこの娘は帰るべき場所へ帰る」という言葉の意味を。

    ​ マイは、彼らが向かっている「聖域」で、いよいよ「その時」を迎えることを確信していた。

    ​(あの子が去る時が来たのなら……私は、あの子に持たせてやるものがある)

    ​ マイは、これまでに作り溜めた最良の干し肉と、エンドウに教わった方法で精製した薬草、そして唯一、自分自身の宝物にしていた、青く光る「石の首飾り」を荷に詰めた。それらを背負うと、意を決して山へと踏み出した。

    ​ 現場では、想像を絶する作業が続いていた。

    ​「せーの、引けぇ!」

    ​ マサナの怒号が響く。数十人の村人たちが太い蔦(つた)の綱を肩にかけ、血管を浮き上がらせて巨岩に挑んでいた。泥にまみれ、膝を震わせながらも、彼らはエンドウがもたらした知恵と恩義に報いるため、ただひたすらに岩を動かしていた。

    ​ その光景を、少し離れた岩陰から見ていたミキは息を呑んだ。

    ​ そこにあるのは防風壁などではない。掘り起こされているのは、あの日、自分をこの世界へ引きずり込んだ忌まわしい鉄の塊だった。

    ​(あれは……タイムマシン!? まさか……!)

    ​ 何よりも先に胸を締め付けたのは、言いようのない寂寥(せきりょう)感だった。自分を「娘」と呼んでくれたマサナ。厳しくも温かく抱きしめてくれたマイ。彼らが、自分を帰すために死に物狂いで働いていることを直感した。

    ​ その時だった。

    ​ 空気が一変した。鳥たちが一斉に羽ばたき、地を這う虫たちが狂ったように動き出す。

     次の瞬間、大地が底から突き上げられた。再度の激震に耐えきれず、斜面が咆哮(ほうこう)を上げて崩落を始めた。

    ​「ミキ!?」

    ​ 後方を追ってきたマイが、崩れる土砂の先に、岩陰からふらふらと近寄ってきたミキの姿を捉えた。

    ​「来ちゃいけない!」

    ​ マサナが手を伸ばすが、巨大な岩板が唸りを上げて滑り落ち、ミキの姿を飲み込んでいく。

    ​「ミキ――ッ!」

    ​ 土煙が収まった時、そこには無慈悲な岩の山があった。ミキは、タイムマシンのある空洞の入り口付近で、崩れ落ちた巨岩によって閉じ込められてしまったのだ。

    ​「どかせ! どかすんだ!」

    ​ マサナが狂ったように岩に取り付く。ミキの後を追ってきたマイもまた、爪を剥がさんばかりの勢いで岩の隙間に指をかけ、泣き叫びながら石を退けようとする。エンドウは必死に冷静さを保とうと、テコを差し込む隙間を探したが、新たに重なった岩はあまりに巨大だった。

    ​「丸太をあそこに!」「ダメだ、角度がつかない!」「反対から掘れないか!?」

    ​ 怒号と悲鳴が飛び交うが、何を試しても岩は一分(いちぶ)も動かない。

    ​「……あ、ああ……」

    ​ エンドウは、泥にまみれた膝を地面に突いた。自分の知恵も、マサナの力も、村人の献身も、大自然の暴力の前ではあまりに無力だった。ミキの声も聞こえない。このままでは彼女は酸欠か、次の余震で押し潰される。

    ​(またか……また私は村人を危険な目に遭わせ、おまけにミキまで失うのか……)

    ​ 神は何と残酷なことをするのか。これも自分の独りよがりが招いた結果ではないのか。

     万策尽きる、とはこのことだった。エンドウが血の滲む拳を地面に叩きつけ、誰もが絶望の淵に沈んだ、その時だった。

    ​ 山道の向こうから、大勢の足音が聞こえてきた。

    ​「……エンドウ! マサナ!」

    ​ 先頭に立っていたのは、あの巨漢、ジャイだった。

    ​「今の地震で山が崩れる大きな音がしたが、大丈夫か?!」

    ​ 彼の後ろには、数十人の屈強な男たちが、泥にまみれながらも目に強い光を宿して連なっている。

    ​「川に……水が戻ったぞ! あんたの教えた通りに掘り割ったんだ! 水を、命を……取り戻したんだ!」

    ​ ジャイの声が震えていた。

    ​「村の連中全員で礼に来たんだ。……なんだ、その面は。誰か埋まってるのか?」

    ​ エンドウは震える声で叫んだ。

    ​「ジャイ! 力を貸してくれ! あの岩の下に、娘がいるんだ! 我々の力だけでは、どうしても動かないんだ!」

    ​ ジャイはニヤリと笑うと、背後の男たちを鼓舞するように腕を振り上げた。

    ​「聞いたか野郎ども! 命の恩人の頼みだ! 腹いっぱい水を飲んだ身体の使い道が、ようやく見つかったぞ!」


    ​第五十二話:遥かなる空と、自然の悪戯

    ​「せーの、引けぇぇッ!!」

    ​ ジャイの咆哮(ほうこう)が山に響き渡った。ジャイの村の男たちと、マサナが率いる村の若者たち。総勢百名近い力が、一万年前の土を掴む足先に集約される。張り詰めた蔦(つた)の綱が悲鳴を上げ、ついに巨岩がその重厚な腰を上げた。

    ​「今だ! ミキ、出てこい!!」

    ​ マサナが隙間に飛び込み、奥に倒れていたミキの身体を抱き寄せた。外の光の中に引きずり出されたミキを、マイが狂ったように抱きしめる。

    ​「バカな子だよ……! 無事で、本当によかった……」

    ​ ミキがこの村に来てから、数ヶ月。今の彼女は、マイの言葉をエンドウの通訳なしでも、その半分以上を理解できるようになっていた。いや、耳で聞くのではない。マイの腕の温もりから、その愛を肌で感じ取っていた。

    ​ 背後では、崩落から掘り起こされたタイムマシンの全貌が露(あら)わになっていた。しかし、エンドウは陽光を反射してギラギラと光るその無機質な金属の塊の様子が、以前とは異なっていることに気づいた。かつて岩盤の隙間から覗いていた、あの妖しいまでに美しい青い光がないのだ。さらに、頭の中に直接流れ込んでくるはずの、あの「契約」の言葉も聞こえない。

    ​(あの地震で……破壊されてしまったのか?)

    ​ エンドウだけが知り得る「契約」の言葉と、あの光こそが、時代を超越するための「鍵」であると信じていた。

    ​ この時代の神は、ここまで意地悪なのか。

     エンドウは繰り返し訪れる絶望感と焦燥感に打ちひしがれた。

    ​ 傍らでは、村人たちが得体の知れない金属の物体を目の前にし、ある者は歓声を上げ、ある者は腰を抜かさんばかりに口を開けて見上げている。そんな喧騒の中で、マイとマサナだけは、「一人娘」の無事を喜び、固い決意をミキに伝えようとしていた。

    ​ マサナが呟(つぶや)くように言った。

    ​「ミキ。帰れるんだ……君のいた時代、君の未来へ」

    ​ マイも囁(ささや)くように言葉を重ねた。

    ​「良かったね……短い間だったけど、あんたと会えて良かったよ」

    ​ そしてマイは、潤んだ瞳でエンドウを振り返った。

    ​「これで、幸せになれますよね? エンドウ様!」

    ​「………………」

    ​「エンドウ様……?」

    ​「………………」

    ​「エンドウ!!! どうした?!」

    ​ エンドウは、返す言葉を失っていた。

    ​「何とか言え!」

    ​ マサナがエンドウの両肩を掴(つか)み、激しく揺さぶった。

    ​「壊れた……。動かない。地震で……」

    ​ エンドウは、肺の中の空気を全て絞り出すように言った。

    ​「終わった……。何もかも……」

    ​ 晩秋の陽光は眩(まぶ)しく、ただの「塊」と化した金属の反射だけが、この場には不自然なほどに降り注いでいた。


    第五十三話:蒼き理(ことわり)と、一万年の絆

    ​「どういうことだ! エンドウ!」

    「答えろ!」

    ​ マサナは、抜け殻のように脱力し、詳細を語らないエンドウに微かな苛立ちを覚え、激しい口調で詰め寄った。

    ​「本当にすまない……、マサナ……、マイさん……、村のみなさん……、ジャイの村のみなさん……。ごめんなさい……、ごめんなさい……」

    ​ それは慟哭だった。ただ涙を流し、謝罪を繰り返すエンドウ。誰も、知的で冷静だった彼のこのような姿を見たことがなかった。一時は歓声を上げた村人たちも、不穏な空気を察し、水を打ったように静まり返った。

    ​「なんだ?」「どうしたんだ?」「あのデカい物を見て泣いているのか?」

    ​ 村人たちは状況を飲み込めないまま、口々に話し合っていた。次第に騒然となる中で、マイが静かに口を開いた。

    ​「そうかい。ミキはこれからも、あたしの娘でいられるってことだね? あたしは……ホッとしたよ」

    ​ それは、絶望に沈むエンドウに対する、マイなりの慈愛に満ちた救いの言葉だった。

    ​ この間、ミキは何度も言葉を発しようとしていたが、エンドウの変貌ぶりに圧倒され、タイミングを失っていた。続けざまにマイが努めて明るい声を出した。

    ​「実は今日、ミキとお別れしなくちゃいけないと思ってね、干し肉やらをたくさん持ってきたんだよ。どうせなら、お腹も空いたことだし、ここでみんなで食べちゃおうかねぇ」

    ​ 今のエンドウには、マイの優しさを受け止める心の隙間さえなかった。

    ​「そうそう! ついでにこれも受け取っておくれ」

    ​ そう言って、マイは自分だけの宝物である、青く光る石の首飾りをミキの細い首に優しくかけた。

    ​ その時だった。

    ​ ミキの首元の首飾りが、脈打つように青白く輝き出した。

    ​「な、何!?」「何で光るんだ?」

    ​ 背後で、ただの金属の塊に成り下がったと思われた装置が、呼応するように明滅を始める。

     縄文人の耳には、鋭い耳鳴りのようにしか聞こえないであろう「起動音」が山々に響き渡り、装置全体が次第に蒼き光に包まれていった。

    ​「まさか……そんなことが……!」

    ​ 驚きとともに振り返ったエンドウの目に飛び込んできたのは、傾きかけた陽光を塗り替えるほど強く、神々しく輝くタイムマシンであった。

    ​(壊れていたわけではなかったのか……!)

    ​ その瞬間、あの「契約」の声が再び脳内に響いた。

    ​『……適合者……確認。……適合者……確認』

    ​ ミキの首飾りが、装置の鼓動と完全に同調している。

    ​「ミキだったのか! 装置は……最初からミキを、適合者を探していたのか!」

    ​ エンドウは、マシンの駆動音とともに、自らの心臓が力強く脈打ち始めるのを感じた。

    ​『……適合者……確認。転送座標:正ノ方向ヘ約一万年……。90秒後ニ転送開始……。秒読ミ開始……、89……88……87』

    ​「ミキ! よく聞くんだ。マシンは君を認識した。これで、元いた場所へ帰れるんだ!」

    ​ エンドウは、以前の冷徹な契約声とは違う、どこか「理」を感じさせる声に違和感を覚えながらも、当初の目的を果たすべく、力強い言葉でミキに告げた。

     その言葉を聞いた瞬間、ミキの顔から血の気が引いた。

    ​「嫌……嫌よ! 戻らない! あたし、ここで生きていくって決めたの。みんなと一緒に、この村で……!」

    ​ ミキはマイの身体に縋り付いた。かつてあれほど憎んだ不自由なこの時代が、今や彼女にとって唯一の「家」になっていた。

    ​「ミキ、聞きなさい。ここは死と隣り合わせだ」

    ​ エンドウが説得を試みるが、ミキは叫び返した。

    ​「死んだっていい! 独りぼっちの未来に戻るくらいなら、ここでみんなと飢えて死ぬほうがマシよ! 離さないで、マイさん……あたしを捨てないで!!」

    ​ ミキの叫びは悲痛だった。彼女にとって、未来へ帰ることは、ようやく手に入れた「家族」との永遠の死別を意味していた。

     だが、マイは震える手で、ミキの両肩を強く押し返した。

    ​「ミキ。あんたは私たちの、本当の娘だよ」

    ​ マイの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。

    ​「あんたが残れば、私は嬉しい。でもね……いつかあんたが病に倒れ、私が何もしてやれず、ただあんたの命が消えていくのを見るのは……そんなの、親にさせちゃいけない。あんたには、私たちが逆立ちしても手に入れられない『命が繋がる未来』があるんだよ。それを持って帰りなさい」

    ​「マイさん……そんな……っ」

    ​「行きなさい、ミキ。寂しくなったら、空を見上げるんだ。私たちは、この同じ空の下で、あんたが幸せになることだけを願って死ぬまで生きる。それが、私たちの生きた証になるんだよ」

    ​ マサナもまた、大きな掌でミキの頭を包み込むように撫でた。

    ​「なんと言えばいいかわからないが……行け! お前の親父(おやじ)が、そう言ってるんだ!」

    ​ マサナの不器用な笑顔が、何よりもミキの心を締め付けた。エンドウが静かに促した。

    ​「ミキ。君が未来で幸せになることが、この時代で戦っている我々への一番の報いだ。……時間がない! 行きなさい!」

    ​『……秒読ミ……、30……29……28……』

    ​ ミキは泣き崩れ、地面を叩いた。だが、自分に向けられた三人の眼差しが、情愛を超えた「祈り」であることに気づいたとき、彼女は震える足で立ち上がった。

     自分がここで我儘を通すことは、彼らの覚悟を無にすることだ。彼らの愛を完成させるには、自分が未来で生き抜くしかないのだと、彼女の魂が理解した。

    ​『……秒読ミ……5……4……3……2……1』

    ​ ミキが装置に足を踏み入れると、光の渦が広がり、その身体を優しく包み込んでいく。

    ​「お父さーん! お母さーん! エンドウさーん!!」

    ​ 装置に吸い込まれる直前、ミキは喉が裂けるほどの声で叫んだ。

    ​「……ありがとう! あたし、忘れない! みんなに抱きしめてもらったこと……! あたし、絶対に幸せになる! 頑張って、精一杯、生きていくから!!」

    ​ 眩い閃光とともに、ミキの姿は消えた。

    ​ 次の瞬間、爆風のような突風が吹き抜け、後にはただ静かな秋の山肌と、掘り起こされた巨大な穴だけが残された。

    ​ 静寂の中、マイはミキが消えた空を仰ぎ、静かに微笑んだ。マサナは天に向かって力広く拳を突き上げ、ジャイはその肩を無言で叩いた。

    ​ エンドウは、腰の麻布の袋から、小さな方位磁石を取り出した。

     それは百円ライターの部品などを組み合わせて自作した、この時代で唯一の「文明の残り香」だった。彼はそれを、ミキが吸い込まれた場所の土深くに埋めた。

    ​ もう、方角を示す指標はいらない。自分の心は、すでにこの大地と一つになっていた。

    ​ 一万年前の秋の空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。

     遠い未来、いつかミキが見上げるであろう、あの同じ空へと繋がっていることを、彼らは確信していた。

    ​(終)


    エピローグ:蒼き理(ことわり)の円環

    ​【未来:西暦2XXX年・旧河川敷跡】

    ​ 激しい光の渦から弾き出されるように、ミキは地面に投げ出された。

     顔を上げた彼女の目に飛び込んできたのは、一万年前の澄み渡った空ではなかった。天空を覆う空中回廊と、音もなく行き交う思考転送用の光。自然の雲は消え、計算されたスペクトルが降り注いでいる。かつてミキが「現代」と呼んでいた時代から、さらに数百年は経過しているであろう、見知らぬ未来の景色がそこには広がっていた。

    ​【ミキの足跡:時空への執念】

    ​ 帰還したミキを待っていたのは、すべてがシステム化された高度情報社会だった。人々は特殊装置によって脳に知識を直接注入され、効率よく社会の歯車となる。だが、ミキはその安易な「知識」を拒んだ。

     彼女は、あの大地で学んだ、泥臭くも尊い「生きるための理(ことわり)」を、自分の手で証明したかったのだ。エンドウという男がなぜ過去に飛ばされ、なぜあの時、絶望の淵にあった装置が自分を救ったのか。

    ​「答えは、未来の私の中にあるはずだ」

    ​ 彼女は孤独な研究に身を投じた。注入されたデータではなく、自ら古い資料を紐解き、自筆で計算式を解くミキの姿は、周囲には異様に映った。しかし、一万年前の家族が命懸けで繋いでくれたその執念が、彼女を史上最年少の「時空物理学者」へと押し上げた。

    ​【回想:一万年前・絶望の淵と「声」の真実】

    ​ あの日、崖崩れから掘り起こされたタイムマシンは、確かに無残に損壊していた。

     しかし、マイが「青い石の首飾り」をミキの首にかけた瞬間、石が放つ特殊な振動が、未来のミキが送り込んだ修復シグナルと共鳴(シンクロ)し、蒼白く輝き始めたのだ。

    ​ 未来の研究所でコンソールを叩くミキは、この瞬間のために、一つの「仕掛け」を施していた。

    ​ かつてエンドウとミキを過去へ送った装置は、さらに遠い未来の調査員が設置したものであり、本来、役目を終えれば過去に廃棄される運命にあった。しかし、科学者として時空の深淵に到達したミキは、禁忌とされる「過去への干渉」を、思考転送によって実行した。過去の自分を、そして自分を愛してくれた人々を救うために。

    ​ 再起動した装置の声は、ミキ自身の「祈り」そのものだった。

    ​『……適合者、確認。……秒読み開始……』

    ​ エンドウがカウントダウンに感じた「慈愛に満ちた、過去へ来る時とは違う響き」。その正体は、時空を超えて自分自身とエンドウ、そして一万年前の家族を救おうとした、未来のミキの声だったのである。

    ​【現在:国立時空研究所】

    ​ 装置から噴き出す**「青い光」**は、今やミキにとって孤独の象徴ではなく、一万年の絆を繋ぐ文明の色となっていた。

     彼女は、一万年前の地層から出土した「方位磁石の残骸」の解析データを、愛おしそうに眺める。

    ​ それは、ただの古代の遺物ではなかった。電子顕微鏡が捉えた金属組織の深部には、一万年前の技術では製造不可能な、高度に精錬されたクロム合金の痕跡が残されていた。さらに、磁石の裏面に固着していた樹脂片を化学分析したミキは、戦慄した。そこから検出されたのは、西暦2000年代初頭に流通していた特定の工業用ブタンガスの残留成分と、安価なポリカーボネートの組成だった。

    ​「……ライター」

    ​ ミキは、震える声で呟いた。

     エンドウが過去へ持っていった唯一の文明の品。それが形を変え、方位磁石として自分を救うために使われていたのだ。成分データが示す数値は、紛れもなく「現代」の、それも庶民のポケットに収まるようなありふれた火種の成れの果てであることを証明していた。

    ​ エンドウは一度も、ミキにコンパスの正体を明かさなかった。しかし、一万年の時を超えて届いたこの「プラスチックと金属の欠片」は、彼が確かにあの地で生き、自分を救うために孤独な知恵を絞り続けた何よりの証拠だった。

    ​「エンドウさん。あなたが遺してくれた理は、今、私が完成させました」

    ​ 彼女の最後の使命は、自らの思考によって修復した「あの装置」を、因果の環を閉じるために過去の適切な座標へ送り出すこと。

    ​ ミキは首飾りにそっと触れ、窓の外に広がる無機質な都市を見つめた。その瞳には、一万年前の焚き火の温もりと、真実の青い空が、永遠の確信として宿っていた。

    ​(完)


    あとがき

    ​ 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

     本作『一万年前の100円ライター』は、私にとって初めて書き上げた物語です。拙い部分もあったかと思いますが、皆様とこの一万年の旅を共有できたことを心より嬉しく思います。

    ​この物語が気に入っていただけた方は、ぜひ他の作品を収めたマガジンも覗いてみてください。


    ​「一万年前の100円ライター」マガジンはこちら
    (全編を収録)
    https://note.com/sho_aoyama/m/mebb194fec8e4

    「普通って何?(全40話)」[合版]はこちらhttps://note.com/sho_aoyama/n/n6a8837e6928f

    「娘が知らない顔をしていた(全12話)」[合版]はこちら
    https://note.com/sho_aoyama/n/n9cf9748206e9


     
     
    日々の生活で感じる、「不思議」「違和感」「疑問」をテーマに、言葉を紡いでいます。皆さんの心に届くことを願いながら執筆していますので、どうかページを開いてみて下さい。よろしくお願いします。

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