
けしたい。第4幕
【第4幕 あらすじ】
あるはずのものが、少しずつ見えなくなっていく。
残っているのは、記憶だけ。
言えなかったこと。思ってしまったこと。
美奈子が最後に「けしたい」と思ったものは、何だったのか。
【本文】
私は、玄関から目を離せませんでした。
夫の靴がない。
ただ、それだけです。
昨日、私が直さなかった靴です。
少し斜めになっていた靴です。
帰ってきたら、自分で履けばいいと思った靴です。
その靴が、ありませんでした。
私は、しばらく動きませんでした。
何かを考えていたわけではありません。
考えたら、何かが決まってしまいそうだったからです。
ただ、玄関を見ていました。
何もない場所を見ていました。
ない、ということだけを見ていました。
夫の会社に電話すればいい。
夫のスマホに電話すればいい。
子供に連絡すればいい。
警察に相談すればいい。
普通なら、そうするんだと思います。
でも、私は動きませんでした。
動けなかったんじゃありません。
動かなかったんです。
確かめてしまったら、決まってしまうからです。
夫がただ帰ってこなかっただけなのか。
夫がどこかにいるのか。
それとも。
夫が、もういないのか。
決まってしまう。
それが怖かったんです。
私は玄関から目をそらしました。
食卓に戻りました。
夕飯は、そのままでした。
夫の分の箸も、そのままでした。
リモコンも、テーブルの端に置いたままでした。
夫が手を伸ばさなくてもいいように。
私が手渡さなくてもいいように。
そう思って置いたものです。
でも。
夫はいません。
手を伸ばす人も。
受け取る人も。
少し薄いな、と言う人も。
いません。
私は箸を見ました。
リモコンを見ました。
冷めた夕飯を見ました。
全部、夫のために置いたものでした。
夫がいなければ、いらないものでした。
いらないもの。
その言葉が、頭の中に浮かびました。
私はすぐに打ち消しました。
違う。
そういうことではありません。
これは片づけです。
朝になったから、片づけるだけです。
夕飯をそのままにしておく方がおかしいんです。
私は箸を持ちました。
夫の箸です。
昨日、私が並べた箸です。
それを流しに持っていきました。
茶碗も下げました。
使われていない茶碗です。
何も入っていない茶碗です。
でも、夫の茶碗です。
私は水を出しました。
箸を洗いました。
茶碗を洗いました。
夕飯を鍋から別の容器に移しました。
捨てるわけではありません。
片づけるだけです。
そう思いました。
ただ、片づけているだけです。
そう思おうとしました。
食卓を拭きました。
リモコンを元の場所に戻しました。
夫の座る場所に置いてあった新聞をたたみました。
昨日と同じ部屋なのに。
少しずつ、夫のものがなくなっていきました。
食卓の上が、きれいになりました。
何もなかったみたいになりました。
私は、その食卓を見ていました。
すっきりしていました。
そう思いました。
思ってしまいました。
夫がいないことではなく。
夫のために置いていたものがなくなったことを。
すっきりしていると思ってしまいました。
私は、食卓の前に立ったまま、しばらく動けませんでした。
すっきりしている。
そう思った自分が、怖かったんです。
夫が帰ってこないかもしれないのに。
私は、少しだけ楽になっていました。
それでも、仕事には行かないといけませんでした。
休む理由がありません。
夫が帰ってこない。
それは、理由になるのかもしれません。
普通の人なら、そうするのかもしれません。
でも。
私はまだ、夫が帰ってこないと決まったわけではありません。
夫がいなくなったと決まったわけでもありません。
だから、休めません。
そう思いました。
そう思うことにしました。
私は制服を鞄に入れました。
緑色のエプロンも入れました。
玄関で靴を履きました。
夫の靴は、やっぱりありませんでした。
見ないようにしました。
鍵を閉めました。
いつもと同じ音がしました。
昨日と同じです。
でも。
昨日より、家の中が少しだけ軽くなったような気がしました。
店に着くと、いつもと同じ朝礼がありました。
いつもと同じように品出しをしました。
いつもと同じようにお客さんが来ました。
誰も、私の夫のことなんて知りません。
夫の靴がなかったことも。
食卓がすっきりしていたことも。
私が少しだけ楽になっていたことも。
誰も知りません。
当たり前です。
そんなこと、誰にも関係ありません。
私は食品売り場で、期限の近い商品を下げていました。
賞味期限を見て。
古いものを前に出して。
期限が切れそうなものを、棚から外す。
いつもの仕事です。
何度もやってきたことです。
その時、ふと思いました。
記憶にも、期限があればいいのに。
そう思いました。
思ってしまいました。
立川さんの声にも。
鮮魚売り場の男性の顔にも。
佐藤さんの指先にも。
夫のシャツからした、私の嫌いな柔軟剤のにおいにも。
期限があればいいのに。
そうしたら、棚から下げられるのに。
そうしたら、奥にしまえるのに。
そうしたら、捨ててもいいものになるのに。
私は手に持っていた商品を、カートに入れました。
期限が近いものです。
まだ食べられます。
まだ売れます。
でも、もう棚には置けません。
そういうものです。
まだあるのに。
もう、ここには置けないもの。
私はそれを見ていました。
私の中にも、そういうものがたくさんある気がしました。
まだあるのに。
もう、ここには置けないもの。
立川さんの声。
鮮魚売り場の男性の顔。
佐藤さんの指先。
夫の腕が触れた感覚。
私の嫌いな柔軟剤のにおい。
全部、まだ残っています。
残っているのに。
もう、私の中には置いておきたくありませんでした。
私は期限の近い商品をカートに入れました。
一つ。
また一つ。
棚から外していくたびに、少しだけ売り場が整っていきます。
古いものを下げる。
新しいものを前に出す。
それは、いつもの仕事です。
誰に教わったわけでもなく、体が覚えていることです。
古いものをいつまでも置いておくと、売り場が悪くなります。
期限が切れたものを残しておくと、誰かが困ります。
だから下げるんです。
片づけるんです。
捨てるんです。
悪いことではありません。
むしろ、必要なことです。
私はそう思いました。
思ってしまいました。
では。
私の中に残っているものは。
誰が下げてくれるんでしょう。
誰が片づけてくれるんでしょう。
誰が、もういらないと決めてくれるんでしょう。
私は商品を持ったまま、棚の前で立ち止まりました。
白い袋の砂糖が並んでいました。
佐藤さんのことを思い出しました。
紺色のスーツ。
よく笑う顔。
困ったような声。
カタログを差し出した指先。
もう来ないで。
そう思いました。
消えてしまえ。
そう思いました。
そのことを、私は覚えています。
覚えているのは、私だけです。
立川さんのことも。
鮮魚売り場の男性のことも。
佐藤さんのことも。
夫のことも。
覚えているのは、私だけなのかもしれません。
それなら。
それを覚えている私がいなくなれば。
そこまで考えて、私は商品を棚に戻しました。
違う。
そうじゃない。
私は何を考えているんでしょう。
仕事中です。
品出しをしているだけです。
期限の近い商品を下げているだけです。
気が付くと深呼吸をしていました。
でも。
胸の奥に残ったものは、消えませんでした。
消えてほしいと思った人たちは、消えたのに。
消えてほしいと思っていないはずの記憶だけが、残っています。
どうして。
どうして、そこだけ残るんでしょう。
私は、棚に並んだ商品を見ていました。
きれいに並んでいます。
誰かが整えたからです。
誰かが古いものを下げたからです。
誰かが、いらないものを外したからです。
私も。
私の中を、そうできたらいいのに。
そう思いました。
思ってしまいました。
でも。
私の中にあるものは、商品ではありません。
棚から下げることもできません。
カートに入れることもできません。
ゴミ袋に押し込むこともできません。
見えない場所に持っていくこともできません。
立川さんの声は、まだ聞こえます。
鮮魚売り場の男性の顔は、まだ浮かびます。
佐藤さんの指先は、まだ残っています。
夫のにおいも。
夫の腕が触れた感覚も。
いない方が、楽なのに。
そう思った自分も。
全部、私の中にありました。
その日は、いつもより長く感じました。
誰にも触れないようにして。
誰にも何も思わないようにして。
それでも、頭の中だけは片づきませんでした。
家に帰るのが、少し怖かったです。
怖いと思うことも、変だと思いました。
自分の家です。
何十年も暮らしてきた家です。
夫と暮らしてきた家です。
子供たちがいた家です。
怖がるような場所ではありません。
それでも。
玄関の前に立った時、私はしばらく鍵を出せませんでした。
開けたら、何かが決まってしまう気がしました。
夫がいるのか。
いないのか。
昨日のままなのか。
何かが変わっているのか。
それを知るのが怖かったんです。
私は鞄の中から鍵を出しました。
手が少しだけ震えていました。
鍵を差し込みました。
回しました。
いつもと同じ音がしました。
ドアを開けました。
家の中は、静かでした。
朝と同じでした。
靴は、ありませんでした。
夫の靴は、やっぱりありませんでした。
私は玄関に立ったまま、しばらく動けませんでした。
ない。
朝と同じです。
ただ、それだけです。
でも。
朝と同じであることが、怖いと思いました。
私は家に入りました。
リビングに入って、最初に違和感がありました。
何かが違う。
でも、すぐにはわかりませんでした。
テーブルの上に、夫の湯のみがありませんでした。
テレビの横に、夫がよく置いていた眼鏡もありませんでした。
ソファの背もたれに掛けっぱなしだった上着もありませんでした。
脱衣所に行きました。
夫の髭剃りがありませんでした。
歯ブラシもありませんでした。
洗面台の端に置いてあった整髪料もありませんでした。
寝室に行きました。
夫の枕がありませんでした。
夫の布団もありませんでした。
クローゼットを開けました。
夫の服がありませんでした。
スーツも。
ネクタイも。
下着も。
靴下も。
何もありませんでした。
家が広くなりました。
怖いと思いました。
でも。
少しだけ、楽でした。
そう思ってしまいました。
家の中は片づいていました。
私が片づけたわけではありません。
最初からそうだったみたいに。
何もなかったみたいに。
それなのに。
私の中だけは、少しも片づいていませんでした。
立川さんの声が残っていました。
鮮魚売り場の男性の顔が残っていました。
佐藤さんの指先が残っていました。
夫の腕が触れた感覚が残っていました。
私の嫌いな柔軟剤のにおいが残っていました。
いない方が、楽なのに。
そう思った自分も、まだ残っていました。
だったら。
覚えている私を、けせばいい。
そう思いました。
思ってしまいました。
消えてしまえ、ではありません。
けしたい。
そう思いました。
誰を、ではありませんでした。
何を、でもありませんでした。
ただ。
けしたい。
それだけでした。
私は、自分の手を見ました。
しわの増えた手です。
何度も謝ってきた手です。
何度も商品を並べてきた手です。
夫の茶碗を洗った手です。
立川さんと肩が触れた時も。
鮮魚売り場の男性と肩が触れた時も。
佐藤さんの指先に触れた時も。
夫の腕に触れた時も。
私はその手で、自分の頭を撫でました。
ほんの少しだけです。
本当に。
それだけでした。
けしたい。
そう思いました。
声には出していません。
思っただけです。
その女性は、よく窓の外を見ている。
名前は、わからない。
本人にも、わからない。
身元を示すものは、何も持っていなかった。
年齢は五十代半ばくらい。
髪には、白いものが混じっている。
穏やかな顔をしている。
怒ることはない。
誰かを責めることもない。
職員が声をかけても、振り向かないことがある。
ただ、時々。
窓の外を見たまま、小さな声で言う。
「けしたい」
何を、と聞いても、女性は答えない。
答えられないのかもしれない。
それとも、もう答えを忘れてしまったのかもしれない。
ただ、その言葉を口にしたあとだけ。
女性は少しだけ、楽そうな顔をする。