
うらめしや、それはこちらのセリフなり
ひぐらしの鳴く声が聞こえる夕暮れ時の西陽が薄暗い台所に射していた。
古いパイプ椅子と破れたナイロンのクロスをかけたガタガタとするテーブルの上には麦茶のペットボトルから雫が垂れていた。
肌に袖がまとわりつくのも気にせずに、
修一は骨ばった腕で体を支えて腰を下ろす。
流しのフライパンとグラスは埃を被りながらも、そこに置いたままになっていた。
冷蔵庫は長く空になっており、たまに弁当のゴミが溜まり床が散らかっている。
「俺のご飯は」
と彷徨うような目で妻を探して言ったが、
もう織江はいない。
もうこんな風にしてずっとここにいた。
「もう、食べる意味もないけどな」
とふっと笑いペットボトルに手を伸ばした。
「それでも喉が渇くもんだな」
線香の香りが流れてきた。
「仏壇しばらく見ていなかったのにな」
修一は気になって仏間に様子を見に行った。
「修一、お腹すいただろ?
ご飯にしようか」
そこには痩せた母が立っていた。
「母さん?なんで……」
「ずっと食べてないんだろう?
織江さんは、本当に。
家をほっぽり出して、やっぱりだめだねぇ。
知らない町から来たような人間は」
そしてテーブルの上に、ご飯と味噌汁が並んだのだが、修一は混乱して食べることができない。
「織江さんのせいで、こんなに痩せて。
やっぱり嫁は向かいの山田さんとこの娘をもらっとけばよかったねぇ」
「母さん、もうやめてくれよ」
修一の母は青い顔で台所を出て行った。
眠りにつく前、修一は正月の織江との話を思い出していた。
「修ちゃん、今度のお盆は京都に帰ろうか」
「そうするか、久しぶりに」
「お精霊さんを送りにいこうか」
「織江、前から話してた話、決心した。
やっぱり二人で京都で暮らそう……」
と言った時に、雪を手で払いながら姑が帰って来た。
「そこの山田さんところの和子さん、やっぱり気がきくわぁ。
実家にも帰らないで、今日もおばあちゃんの手を引いて……
羨ましいわぁ、新しい服も買わないで、家のために全部やってくれるお嫁さん」
「あら、いたの織江さん」
さっきまで笑っていた織江が、二階に走って上がって行った。
その日の夜、家から織江が消えたのだった。
夜中に階段を登ってくる、ぎしっぎしっという音が聞こえた。
ぺたんこの布団に横たわる修一の枕元で足音が止まる。
「修ちゃん……」
まぶたを開けると修一は言った。
「織江か?」
織江はじっと見るだけで何も答えない。
「織江、疲れたよ……
どうしてずっといなかった?
一緒にいてくれよ」
憐れむような目で織江が言った。
「京都に帰りたい。
修ちゃんと一緒に。
この家は嫌や……」
「そうしよう、悪かったな、もっと早くに決心できずに。
母さんにもっと早くに言えばよかったなぁ」
と修一が言った時、織江は霧のようにふわっと空気に溶けていなくなった。
修一は涙を流しながら骨が出そうな胸元に織江の指輪を押しあてた。
「織江、すぐ準備するから」
一階の台所で修一の母が織江を見つけた。
「織江さん……
あんたが悪いのよ……
やっぱり、あの子にはお見合いでこの辺の嫁をもらっておけばよかったわ……
あんたのような嫁を貰ったばっかりに……
恨めしい」
「うらめしや……はこっちのセリフやわ……
お義母さん……
ほんまに苦しかったわ……
冷たい床の下に押し込められて。
明日、京都に帰るんや、修一さんと」
たとえ死んだからと言っても、それだけは許さんという姑の体に織江は覆い被さった。
「織江さん……ちゃんと床下にお札も貼って隠したのに」
と、うめき声をあげた。
夜が明けると、織江の指輪を握りしめた修一が、小さな旅行鞄を脇に置き、微笑んだまま玄関で息絶えていた。