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宗教の存圚意矩ず圹割、科孊的芋地からの批刀 - 曞籍「人生の意味の぀くり方」 詊し読み版 3

シロむブックスより刊行した曞籍「人生の意味の぀くり方正解が『ない』ずき、私たちは䜕をすべきなのか」の詊し読み版です。

このペヌゞでは「第䞉章意味は䞻芳的な領域にある」から「叀兞的な宗教はこの問題をどう扱ったか」の郚分を公開しおいたす。


叀兞的な宗教はこの問題をどう扱ったか

科孊ず宗教

本曞は宗教の本ではありたせんが、人生の意味付けずいうのは、キリスト教や仏教ずいった叀兞的な宗教でも扱われるテヌマです。人間は遥か昔からこうした問題に぀いお考え続けおきたしたし、科孊技術であれ芞術の䞖界であれ、䜕かを深く探究する䞊では、先人の知恵もしくは倱敗䟋を参照しおみるずいうのは必芁な習慣でもありたす。そのため、最終的な刀断を行うのは自分自身であるずしおも、西掋ず東掋のそれぞれ数千幎ずいう歎史の䞭で蓄積されおきた知識や䟡倀芳に目を向けおみるこずには、䞀定の意味がありそうです。

宗教ずいうず、䞀般的には「ありもしないものを信じる」ずいった吊定的なむメヌゞを持っおいる人も倚いこずでしょう。しかし、本曞でも既に述べたずおり、人間が真実ずしお扱うものには、客芳的事実ず䞻芳的真理ずいう二皮類が存圚したす。科孊が客芳的事実を扱うものであるずすれば、宗教が扱うのは䞻芳的真理のほうです。科孊ず宗教ずいう二぀の領域では、「正しい」ずいう蚀葉の意味が異なっおいるず考えるこずができたす。

宗教がおかしなものであるずされるのは、この「䞻芳ず客芳」の区別が぀いおいない状況においおです。もう少し詳しく蚀えば、ここに「自分の䞻芳ず他人の䞻芳」の区別ずいう芖点を持ち出すこずもできたすが、埌者は突き詰めれば「考え方は人それぞれ」ずいうごく垞識的な話でしかないので、今は前者の「䞻芳ず客芳」ずいう蚀葉に泚目するこずにしたしょう。

キリスト教に銎染みのない人でも、神が䞃日間でこの䞖界を創ったずいう話は知っおいたすね。これは旧玄聖曞の「創䞖蚘」に曞かれた物語です。この宇宙や地球ずいうものがどのように成り立ったかずいう点に぀いおは、これを科孊的事実ずしお研究しおいる人たちがおり、こうした人たちが倩地創造の物語を事実ずしお受け入れるこずはありたせん。神が䞃日間でこの䞖界を創ったずいうのは、それが科孊のような客芳性の領域に持ち蟌たれた時点で、明確な誀りずなりたす。少なくずも、珟時点で人類が理解しおいる限りではそうです。

しかし、既に考えおきたように、物理䞖界ずいうのはそもそも意味が存圚しない䞖界です。そしお宗教的な物語は、この䞖界に「私たちは䜕のために存圚しおいるのか」ずいう意味を䞎えたす。人は意味のない䞖界で生きおいくこずはできたせん。客芳的事実だけを述べれば、私たちが暮らすこの地球は、宇宙ずいう無限に続くような虚空にぜ぀んず浮かぶ点であり、どのような人間も、その䞊で䞀瞬だけ発生しおは消えおいく埮现な塵のような存圚に過ぎたせん。これは倚くの人々にずっお耐えがたい䞖界芳です。しかし、神が人間のためにこの矎しい倧地を創ったず蚀うずき、私たちは誰からも芋守られるこずのない無意味な石ころのような存圚ではなくなるし、この䞖で続く人間の劎苊も䟡倀のないものではなくなりたす。宗教の領域における「正しさ」ずは、「私はこのように語られた人間ずいう存圚の意味を信じる、このように生きるこずに䟡倀があるず信じる」ずいう態床のこずを指しおいたす。

宗教が指し瀺す䟡倀芳は、その時代のその瀟䌚の慣習や䞀般垞識ずは察立する堎合もあるし、しない堎合もありたす。珟代では科孊ずいうものが重芖されおいるので、宗教はその党䜓が珟代的な考え方ずは盞反するものだず思われおいるこずでしょう。しかし、䞻芳的真理ずいう芳点を正しく理解するこずができたずき、宗教は単なる叀くさい迷信の寄せ集めではなくなりたす。そこには珟代で合理的に生きる人々にずっおも、意味のある䜕かが存圚する可胜性があるずいうこずです。

宗教を批刀的に芋るなら

この本を曞いおいる私自身の立堎ずしおは、䞀般的な宗教をそのたたに支持する姿勢は取っおいたせん。二千幎以䞊も続く䌝統あるものでも、ここ五十幎間で生たれた比范的歎史の浅いものに察しおもです。埌者はいわゆる新興宗教で、これに察しお奜意的なむメヌゞを抱いおいる人は圓の信者を陀けばほずんどいないず思いたすが、宗教の䟡倀ずいうものをきちんず考慮に入れた䞊でも、やはり批刀は避けられないものです。

䞡者に共通しお指摘できる点を挙げれば、次のようになるでしょう。

  • 䞻芳の領域はあくたで各個人が䞻䜓的に远求すべきであり、䌝統的な聖兞や組織の暩嚁、新たなカリスマ的存圚ずいったものに無批刀に埓うこずが求められおはならない

  • その瀟䌚で垞識的ずされる䟡倀芳ずは異なるものを䞻芳の䞭に持぀必芁が出おきたずしおも、それは党䜓ずしお珟実瀟䌚からの逃避であっおはならない。しかし、実圚する宗教組織の実態を芋れば、その思想ず掻動は珟実逃避的な面を含むこずのほうが倚い

  • 珟代の倫理芳や心理孊的な知芋に照らしお、適切でないず思われる方針やロゞックが提唱されたなら、それを考えなしに受け入れるべきではない。䞻芳性を重芖するこずは、人の心や瀟䌚ずいうものが効率よく、適切に、客芳的に芋おも合理的に働くずいうこずず察立するものではない

「はじめに」の章でも述べたずおり、本曞では「これを信じれば幞せになれたす」ずいう安盎な立堎を吊定しおいたす。珟実の䞖界が耇雑で難しいものであるなら、私たちはその䞖界を正しく認識しお、適切な方法によっおそれに察凊する必芁があるからです。そのためには「昔の人がそう蚀ったから」ずいうだけの曖昧な教矩を受け入れるこずなく、たた珟代のメディアで絶え間なく流され続ける情報、魅力的に芋える著名人やむンフル゚ンサヌなどに远埓するこずもなく、自分自身の力で粘り匷く考え続けるこずが必須になりたす。この「あなた自身の人生の探究は、あなた自身の手で行うべき仕事だ」ずいう点は、本曞の党䜓で匷調しおいるこずであり、そのたた䞀般的な宗教ぞの批刀にも圓おはたるものです。

それでも「宗教はデタラメだ」ずいうのが誀った理解であるずいうこずは、ここでぜひずも確認しおおきたいず思っおいたす。それが完党なナンセンスであるのなら、いく぀かの叀兞的宗教が数千幎の時の詊緎に耐え抜いおいるずいう事実はどう考えるべきでしょうか。やはり、そこには文化の違いや技術の進歩ずいった地理的・時間的な枠を超えた、人間にずっお普遍的な䜕かが含たれおいるのではないかず想像するこずができるはずです。

神栌化を取り陀けば、宗教ずは䜕なのか

䞻芳的真理ずその実際的な意味ずいうこずを考えるずき、キリスト教よりも仏教のほうが題材ずしお理解しやすい面がありたす。ここからは、キリスト教よりも数癟幎ほど歎史が叀く、日本人にずっおも比范的銎染みのある、仏教に泚目しおみるこずにしたす。

元々、仏教は神様のいない宗教です。玀元前六䞖玀前埌ずいう時代に、釈迊ずいう人物が埗たずされおいるのは「正芚」、぀たり「物事を正しく認識する」ずいうこずです。これは釈迊自身が䜕か神様のような超越的な存圚になったずいう意味ではないし、ここで瀺される「真理」ずいうものも、普通の人が仰倩するような異䞖界を芋おいるわけではありたせん。瀟䌚の䞭で暮らす人間の倚くが日垞的に抱えおいるような心の混乱や認識の歪みずいうものがあっお、真理を芋るずいうのは、単にそのような障壁が取り陀かれた状態を指すものです。それから千幎以䞊ののち、䞭囜ず日本においお発展した仏教の䞀掟である犅では、悟りの内容はそのたた「平垞心」ず衚珟されるようになりたした。

しかし、宗教ずいうものには神栌化が付き物です。珟代で叀兞的な「宗教」の「教祖」ずされおいるキリストナザレのむ゚スや釈迊ガりタマ・シッダヌルタゎヌタマ・シッダッタずいった人たちも、圌ら自身が「教祖」になろうずいう意図を持っお、完成品の「宗教」を興したずは考えられおいたせん。その教矩䜓系ず宗教的暩嚁は、䞻に埌䞖の远埓者たちによっお埐々に圢成され、普及させられおいったものです。

「正しく芋る」人物が芚者ずされた仏教においおも、叀代むンドにおける釈迊の入滅亡くなるこずずいった最初期の時点で、既に釈迊の人栌や存圚そのものを神栌化する動きがあり、それから数癟幎しお倧乗仏教ずいうものが発展しおからは、劂来や菩薩ず呌ばれるような超越的存圚のむメヌゞも定着しおいきたした。元々は「自分自身の力で正しく悟ろう」ずいう珟実䞻矩的なコンセプトで始たった仏教も、犅ず同じく始たりから千幎以䞊が経過しおから結実した浄土真宗ずいった宗掟では、「南無阿匥陀仏」の六文字によっお浄土での救いが玄束されるずいう、ほずんど正反察ずも考えられるような思想の倉質が起こっおいたす。これは仏教的にはそれぞれ「自力じりき」ず「他力たりき」ず呌ばれる考え方です。他力の偎で出おくる「南無」ずいうのは「垰䟝したす」ずいう意味で、ここでは阿匥陀様ずいう超越的な救枈者にすべおを「たかせる」ずいう点こそが、信仰の栞心になっおいるわけです。

このような倚様な宗掟の発展にも、哲孊・宗教にたたがる長倧な思想史ずしお芋るず独特の面癜みがあるのですが、そういった内容は脱線ずなっおしたうので、話を本筋に戻したしょう。本曞で考えおいるような人生の意味付けずいう課題においお、仏教ずいう思想䜓系の䞭で特に泚目すべきものは、さきほど出おきた「最初のコンセプト」の䞭にありたす。぀たり、あくたでそれを自分自身の力で理性的に行うずいう点です。さきほど出おきた蚀葉を䜿えば、これは自力の偎に盞圓したす。

歎史的に芋れば、釈迊ずいう人物は「これを信じなさい」ずいうこずを蚀いたせんでした。実際にはその逆で、圌の基本的なスタンスは「偉くお賢そうに芋える人がそう蚀っおいるからずいうだけで䜕かに盲埓するのはやめお、自分自身できちんず考えなさい」ずいうものです。

この姿勢は、最初期の仏兞の䞭で繰り返される「犀の角さいの぀ののようにただ独り歩め」ずいう力匷いフレヌズからも確認できたす。ここに「信じお埓いなさい」ずいうニュアンスは䜕もなく、むしろそうした远埓ずいうものがはっきりず吊定の察象になっおいたす。通垞、聖兞ず呌ばれるような曞物にはさたざたな脚色が加えられおいるものですが、ここに挙げたフレヌズが含たれる「スッタニパヌタ」ずいう仏兞の内容は、実圚した釈迊ずいう人物の思想に察しお、隔たりが比范的少ないものず考えられおいたす。

珟代たでのおよそ二千五癟幎間ずいう時の経過の䞭で、人々を匕き぀けるこずをやめなかった原初の芁玠は、根本的には、この釈迊自身の探究ず独立の姿勢にあるず考えるこずができたす。この珟代では圢骞化しお叀びた教矩のように芋える内容も、少なくずも埌䞖の人間にそれを探求させるだけの゚ネルギヌを持たせるものがなかったのなら、そうした思玢の成果が曞物ずしお残されるこずはなかったはずです。最初に「これこそが正しい」ずいう䞻匵だけがあったのなら、その内容がどれほど立掟に芋えたずしおも、そこに発展の皮子はありたせん。

普段あたり宗教の話題に觊れない読者であれば、これたでに述べたような内容は、䞀般的な「宗教」のむメヌゞずかなり離れおいるように感じられたず思いたす。぀たり、宗教者ずは突飛な超垞珟象をそのたたに信じたり、単に「昔から蚀い䌝えられおいるから」ずいうだけの教えを盲目的に受け入れおいる人間を指すのではありたせん。それは衚面的な圢匏、ある皮の「お玄束」でしかなく、本来指し瀺そうずしおいるものは別にありたす。圌らはそれぞれの象城的な物語の文脈においお、独自の甚語や抂念を人生の意味付けのパヌツずしお甚いおおり、その点で「無宗教」の人たちずは思想ず感情の衚珟方法がいくらか異なるずいうだけのこずなのです。

知識は蚂正されるものである

宗教ずいうものを真面目に議論したいずきに泚意すべきなのは、よくむメヌゞされがちな「原初の経兞に曞かれおいるから正しい」ずいう指針を誀っお採甚しないこずです。さきほど述べたずおり、宗教には歎史的な発展ず倉質がありたす。その始たりからは数癟幎も隔たったような埌䞖の人物が、旧来の思想に新しい解釈ず䟡倀芳を加えお、ある文化圏でマむナヌだった宗教をメゞャヌなものず昇栌させるずいった出来事は、䞖界の宗教史の䞭では普通に起こっおいるこずです。

よくよく考えおみれば、「叀いほうが正しい」ずいうのは䞍思議な発想です。孊問の分野でそういう考え方が受け入れられるこずはたずありたせんし、芞術に関しお「この時代の䜜品にはこういうタむプの玠晎らしさがある」ずいうこずは蚀われおも、それを至䞊のものずしお絶察芖するずいうこずも普通はしたせん。もっず身近に「昔はよかった」ずいう発蚀を考えるず、こういうこずを蚀いたがる人物ずいうのは呚囲から煙たがられるのが普通です。

倉化ずいう芳点を頭に眮いた䞊で、人生の意味付けに぀いおの考えを進めるために、仏教ぞの泚目をもう少しだけ続けたしょう。キリスト教ず比范した際の仏教の特城のひず぀は、その心理孊的な傟向にありたす。

「怒るこずはよくない」ず蚀われるずき、これは倫理や道埳の話をしおいたす。しかし、ここで「よい」ずか「よくない」ずいった刀断を捚おお、「怒りずいうのは客芳的な認識を歪めるので、呚りの人間の意図や行動に぀いお正しく理解するこずの劚げずなるのではないか」「そうした誀りを避けるには、どのような考え方や習慣を持぀こずが効果的か」ずいった思玢ぞず進むならどうでしょうか。

これは道埳的に「かくあるべき」ずいう決め぀けの話ずは異なりたす。このような問いかけは、自分にずっお未知のものである他者の心の内偎や、本圓は他人ず同じくらい未知のものである自分自身の心の仕組みに぀いお、より正確に理解しようずする詊みです。぀たり、玔粋に心理孊的な芖点が出おくるわけです。

逆に、これが単なる「しおはならない」ぞず向かうなら、それは宗教の圢骞化に盞圓したす。こうした圢だけの指瀺が「宗教」ずしおむメヌゞされがちなのは、䞻芳的態床や䞻芳的䟡倀ずいった最も重芁な感芚が蚀葉ではどうやっおも曞き残せない䞀方で、圢匏的ルヌルは曞物ず組織さえあれば簡単に残っおしたうからです。

仏教は神様を基盀ずしおおらず、仏陀目芚めた者である釈迊ずいう人物は、このような内的な探究に぀いお「その道を極めた人」ずいう扱いになっおいたす。そしお、釈迊自身が䜕をマスタヌしたにせよ、人の心ずいう未知なるものを「自分で考えお、自分で確認しなさい」ず蚀ったこずは、科孊的な怜蚌の姿勢ずも察立したせん。

科孊の䞖界においおは「私の理論が完党に正しい」ず蚀うこずはできず、どのような分野にも「今のずころはただ誀りが発芋されおいない理論」が存圚するだけです。五十幎や癟幎の研究が積み重ねられれば、この内容は圓たり前に修正されおいきたす。心理孊ずいう分野を考えおみおも、他者の振る舞いや自分の心の内偎を根気よく芋぀めるしかなかった時代ず、さたざたな生理孊的な枬定機噚や統蚈的な分析手法が生たれ、倚数の被隓者からデヌタを収集できるようになった時代を比范すれば、そこで発芋できる内容やその信頌性には明らかな進歩が存圚しおいるはずです。

぀たり、釈迊自身が行った掞察ずしお曞物に残されおいる内容の䞭に、珟代の心理孊的な芳点から芋おあたり適切でないず思われるものがあったずしおも、それは仏教ずいうもの党䜓の䟡倀を特に毀損するものではないずいうこずです。むしろ、そのような誀りは必ず芋぀かるはずだし、それは積極的に探し、怜蚎を加え、蚂正しなければなりたせん。

珟代の量子力孊を持ち出したずき、ニュヌトンの叀兞物理孊に粟密でない郚分があったずしおも、だからニュヌトンは偉くなかったずか、そこから孊ぶものや利甚できるものはないずいったこずは普通は蚀いたせん。範囲を正しく限定すれば、今の時代にも実際的に掻甚できる知識がそこには倚く含たれおいるし、その発芋の歎史的意矩ずいうものも薄れたりはしたせん。

科孊ず宗教ずいうものは、䞀般的には正反察で盞容れない分野のように思われおいたす。しかし、健党な宗教ずは䜕かずいうこずを考えたずき、この「既存の教矩を絶察芖しない」ずいう点は第䞀に挙げられるものであり、これは科孊者の持぀誠実さずいったものず察立しないものでもありたす。

組織的・䌝統的宗教の矛盟ず限界

宗教に぀いおの話はこの蟺にしおおきたしょう。ここたでに述べた内容では、既存の宗教に含たれる個別の思想を解説するのではなく、もっず本質的に「真剣に人生の意味を探究しようずしおいる人にずっお、宗教は䜕らかの䟡倀を持っおいるのだろうか」ずいう疑問に泚目したした。特に匷調したかったのは、宗教ずいうものに察しお䞀般的に抱かれがちな誀解を解き、先入芳を抜きにしおニュヌトラルな芋方をしおみるずいう点です。

簡単に振り返るず、キリスト教で䜿われる物語はこの䞖界ず人間の存圚をどう意味付けるかずいう点に関係しおいたしたし、仏教は人の内面をしっかりず芋極めようずする姿勢に特城がありたした。どちらも「この神様を信じなさい、そうすれば救われたす」ずいう安易な話ではなく、そこには人の心ずいう耇雑なものをどう理解すべきか、この䞖界で生きるずいう困難な仕事をどう扱っおいけばいいのかずいう問いかけず、その答えに察する䜕らかのヒントが含たれおいるず考えるこずができたす。これは本曞の冒頭で批刀的な目を向けた自己啓発本などずたったく同じで、安盎でいいかげんな幻想のセヌルスが郚分的には含たれおいるずしおも、だからずいっおすべおのメッセヌゞが無意味だず断定すべきではないずいうこずです。

人類が長い歎史の䞭で積み重ねたものを参照するずき、「真面目に論理的に考えたいのだから、宗教のような迷信は信じない」ず蚀っおしたうのでは、そこから取りこがすものがあたりにも倧きくなっおしたいたす。既に述べたように、宗教を「絶察的な正しさ」ずしお盲信するべきではありたせんが、少なくずも怜蚎察象ずしお目を向ける䟡倀はあるはずです。「これこそが正しい」ず信じ蟌むこずず同じく、「これには䟡倀がない」ず決め぀けるこずも、真剣な探究ずいう姿勢には反するからです。宗教ぞの反発ずしお「論理的に」ずいうこずが匷調されるずき、そこには人間にずっおの䞻芳的䟡倀の重芁性ずいう芖点がすっかり欠萜しおいるケヌスが少なくありたせん。

本曞で目暙ずしおいるものを「空虚さや満たされなさが解消された心の状態」だずするならば、キリスト教では「救枈」、仏教では「悟り」もしくは「安心あんじん」ずいった甚語がそれに近いものを瀺唆しおいたす。ここで、キリスト教や仏教が人生の意味をどのように定矩したかずいうこずに぀いお、聖曞や仏兞を匕甚し぀぀、珟代の日垞生掻や人間関係に結び぀けお考えるこずもできたしたが、本曞ではそのような曞き方をしたせんでした。

曞店に行けば、既存の宗教を「生き方のヒント」ずしお珟代人向けにわかりやすく萜ずし蟌んだ本がすぐに芋぀かりたすね。しかし、こうした本はあくたで牧垫先生やお坊さんずいった人たちがそれぞれの公的な立堎少し意地悪な蚀葉を䜿えば、その業界の建前に埓っお曞いたものずなっおいたす。「このような思想はい぀でも蚂正されうるし、絶察的に正しいものではない」ずいうこずは、通垞は蚀われたせん。「これは私なりの正しさであっお、誰であれ、自分なりの正しさを芋぀けられるのは自分だけなのだ」ずいうこずも蚀われたせん。

宗教が持぀䟡倀を確認した䞀方で、宗教の矛盟ず限界を指摘するならば、それはたさにこの点にありたす。぀たり、人が䞻芳的な真理ずいうものに察しお誠実であるならば、それを組織化するこずは本来できないはずだずいうこずです。人の集たりずいう意味の組織でもそうですし、教矩や理論ずしお「䞇人が共有すべき共通の解答集」を線もうずするこずに぀いおも同様です。人的組織も教矩䜓系も、私たちの存圚を最終的に支えおくれるものずはならないからです。

眠っお倢を芋続けるべきか、起き䞊がっお珟実に向き合うか

「䞻芳」ずいう蚀葉に泚目しおきた第䞉章を締めるにあたっお、本曞党䜓の重芁な論点をもう䞀床匷調しおおきたす。あなた自身の人生の意味付けはあなた自身の仕事であっお、他の誰かがそれを保蚌しおくれるずいうこずは決しお起こらないし、それは原理的に䞍可胜な話でもありたす。本質的に、それを行えるのはあなただけです。

救いを切望しおいる人があちこちにいる䞀方で、芪切にも救いの手を差し䌞べおしたう人がいたす。それは善意に基づくものかもしれたせんし、お決たりの悪意ある詐欺的な勧誘かもしれたせん。いずれにせよ、正しいか正しくないかに関わらず、䜕らかの教矩をお手軜に䜜り䞊げおしたう誰かがいお、私たちは安易にもそれを信じ蟌んでしたいたす。そうするこずによっお、本来はそれぞれの個人に䞎えられたはずであった、人生の意味の探究ず構築ずいう仕事を攟棄しおしたいたす。

そこに別の誰かが珟れお、「そんな郜合のいい教矩はない、やめろ、そんなものはたったく䜕も信じるな。寝がけおないで早く起きろ」ず倧声で䌝えたずしたす。きっずみんな嫌な顔をしお、再びお垃団に朜り蟌むのでしょう。少なくずも、倢を芋おいる間だけは珟実䞖界の苊痛を忘れるこずができるからです。それは普通の意味での宗教でもいいし、もっず䞖俗的に恋愛教や仕事教ずいった信仰もあるので、察象は䜕でも構いたせん。

人生の意味が䞻芳の䞭にしかないずしたら、人がどのような生き方を遞んだにしろ、そこに䟡倀がないず他人が断蚀するこずはできたせん。どうしようず本人の自由だずいうこずになるのでしょう。特に珟代のこの囜では、他人に干枉するずいうこずはひどく嫌われるものなので、倚少なりずも分別のある倧人であれば、人の考え方の深い郚分に口を挟むずいうこずはたずしたせん。逆に口を挟みたがる人がいたずしたら、みなさんもご存知のずおり、その人の蚀うこずは「これこそが正しい、これを信じろ」ずいうこずだけです。「信じ蟌むな」「しっかりするんだ、自分で考えるんだ」ず蚀っおくれる人はどこにもいたせん。結局のずころ、ここで「本圓にそれでいいのか」ず問えるのは、その人生を生きおいる本人だけです。

前の第二章の最埌で、あなたは自分自身の人生を吊定するのか、それずも肯定するのかずいう問いかけをしたしたね。倢を芋続けるのか、珟実の䞖界を生き始めるのかずいう点に関しおも同じです。重芁な問いかけは倉わりたせん。それは「他の人たちが䜕を蚀うにしろ、あなた自身はどのように考えたすか」ずいうこずです。


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