
新古今異聞
音にのみありと聞きこしみ吉野の
滝はけふこそ袖におちけれ
春になると、ときどき袖が濡れていた。
水は床に落ち、小さな音を立てた。
吉野へ行ったことはなかったが、その音は次第に私の耳にあふれた。
アルビノの鱒はいつでも滝の底で泳いでいた。
人知れず思ふ心は足曳の
山した水のわきやかへらん
山の下には水が流れていた。
誰もそれを見たことがなかった。
春になり、足を引きずって歩くと、町のあちこちに泉が湧いた。
人々はそれを雨のせいだと思っていた。
さみだれの空おぼれする郭公(ほととぎす)
ときに鳴く音は人もとがめず
五月の終わりになると空が水に浸かった。
郭公の声は水の中から聞こえた。
人びとは傘をさして歩いていたが、誰もそのことを話さなかった。
夜になると、ずぼんのどこかがまた濡れはじめていた。
駒とめて袖うちはらふかげもなし
佐野のわたりの雪の夕暮
雪の夕方になると町から影が消えた。
人びとはいつもどおり歩いていたが、足元には何もなかった。
私は何度も袖の雪を払った。
駅前には影だけを探している馬がいた。
吉野山こずゑの花を見し日より
心は身にもそはずなりにき
吉野の山の中を歩いていた。
花を見た日のことはよく覚えていない。
そのときから、私の身体は川底の一匹の鱒になった。
春になると、少しだけ下流で見つかった。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
忍ぶることの弱りもぞする
勾玉を糸につないで遊んでいた。
月夜になるとひとつひとつに小さな光が見えた。
母にそれを見せたとき糸が切れた。
それ以来、西側の部屋には切れた糸だけが増えていった。
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
海辺の街を歩いていると、夕焼けの数が増えていく。
動いている信号はひとつもなかった。
店はすべて閉まっていた。
それでも夕方だけが次第に増えていった。
海人(あま)のかるみるめを浪にまがへつゝ名草の浜を尋ねわびぬる
いろいろな眼が浪の中に隠れていた。
一個ずつ捕まえても、海は少しも明るくならなかった。
名前だけが流されていった。
私はいつまでも波打ち際から離れられなかった。
行く末は空もひとつの武蔵野に
草の原より出づる月影
秋になると草むらから月が生えた。
朝になると草の丈が少し短くなっていた。
人びとは月を摘み取って家へ持ち帰った。
空には何もなかった。